ふつうを確かめる中の一つ

 彼女と結婚して、家内と二人に変わり、あの子が生まれて、家内と長男と三人へ、以下順次増え家族五人いつのまにか
なっていました。
赤ちゃんと複雑な会話をすることはできません。けれども赤ちゃんに6年以上の時が経てばどの子も特に上の子(個性に寄ります)ほど、難しいことの会話(議論)や素朴な疑問にも簡単に答えてくれます。

さて私が普通と思って行っていることは、当然私にとって普通なので私には何の問題もなりません。けれど一番近くにいる家内にとってそれが悪影響を及ぼすものであれば、やがてはその私にとって普通ですが家内にとっては普通ではないということで、さりげなくその時はちっとも私にとってはさりげなくないのですが、会話に上がってきます。
私「それってお父さんにとっては普通だと思うよ」
家内「(怪訝そうな表情)(大変困っている表情)(つまりは普通じゃないという表情)」
子供達「えー、それはおかしいよ」
私「普通だと思うけどなー(この時点で家族三人から困ったコメントが来れば嫌でも気が付いています)」

よって自らが普通と思う行為でも、周囲の損得ない判断が下されれば否が応でも気を付けなければいけないとなります。時折そのような機会を作らず、自らの地位・肩書・名誉で言わせない、または教えてくれたとしても聞かない納得しない、むしろ教えてくれた人を悪く言うといって有難いものを有難くないものとし、そのことが積み重なればやがては水滴がいずれは大甕を満たすように、とんでもないものであふれかえる大甕は誰もが手を付けれず、当人がそれを処理しなければいけなくなったとき、当人はどういうかの答えも大体決まっています。
そこまで溜めれる才能を持っている人はそこまでいっても誰かと何かのせいにして、自らのことを受け取らず逃げ続け誰かを生贄に捧げようとする傾向があります。
よっぽどの物好きか利権がからまないとそれを引き受けてくれる人はいません。世間においては普通では考えられないことがあるから、その生贄が決まることがあります。

それを普通とは呼ばないのです。

ダメダメ

 昨晩楽しかったので、つい調子に乗りすぎて夜遅くまで一人でお酒を飲んで盛り上がっていました。一人で盛り上がるなんて器用ねえと言われそうですが、そんなとこだけ器用なので仕方ないです。おかげで二日酔いでしんどさが今も抜けません。かなり困ったものです。いつものことになりますが、寝不足と気持ち悪いこともありますから、早めに寝ることにします。

基本に立ち返り、手が空いたら基本を再度見直して、自らの基本が何であるかを自らに問うていました。答えはゆっくりじっくり、ゆるぎないものを出し続けていきたいです。

子供達はそれぞれ一学期の中間テストの結果が帰ってきています。卒業までに彼等自身が願う結果となるよう日々の自らの継続や努力を願うばかりです。今日は気分も悪かったか失言も多くて迷惑をかけました。明日謝っておこうと思います。

忘れる

 大切なことに気がつき、それを失わないでいたいと願っても、時は無常で普通の時間が続けばどなたもが大切なことを忘れ、大切であることが空気のようになる時間が長くなれば、慣れてしまい大切なことを忘れてしまいます。

普通から異常事態が起これば、息を吸わなければいけないことに気が付くと空気がどれほど有難いもので呼吸をすることがどれほどのものかと気が付かされます。


あたりまえというのはあたりまえすぎて感謝を忘れやすいということに誰もが気が付いているのだけれどそれは忘れ去られやすいもので、困難や苦労や忍耐や根性悪い人たちに囲まれれば瞬間に気が付かされます。
皮肉な話です恩恵や感謝はその反対に位置することが自らや近くの人たちに訪れて激しく気が付かされ、その時どうするかというそのひとの判断がその人がどういう人であるかを周囲と自らに教えてくれます。

どれだけ自分が善いことをいったとしても、困り果てた人にその時どうするかが周囲は簡単にそれをみて判断するというだけのことです。

私はこんなことを書きながらたいしたこともできず、財産もすくないためにできることが少ないという情けないことを知らされます。

不如意

 思うようにいかないことがあるのはどなたにも共通しています。
変わらずの極論でいうと、若い状態のままでいたい(老いを止める)・風邪一つ(病気全て)にかかりたくない。
長生き(できれば死にたくない)したいなど、卑近な最近お聞きしたことであれば

怨みあうものと時を長く同じにしなければいけない。

手段を選ばない方が評価されまっとうに努力している方が不遇な目に遇う職場である。

自らの職場において実際にあることであれば、全て避けることは難しいことになります。

他人事とする方が多く、上司が知らぬ存ぜぬや責任管理能力を放棄している上司であれば職場の体質というものになり、辞めていく方が増え(又は辞めさせられ・辞めるようにしむけ)たりなどのことが空気のようになっている場すらあります。

ずっと以前から私に肩書きはないので責任の重さに潰されることはありませんが、地位・名誉・肩書(恩恵や権力になるもの)は飾りではないということを悪い現場や善い現場をいると実感させられるというだけのことです。
善良な方が選ばれるという前提で世の中は進んでいるのですが、地位ある方が全て善良であるとは断言しにくい現実でしょうし
、そもそも私自身が「常に善良であるか」と問われれば、他人ばかりを気軽に責めることができないと帰結します。

いずれにせよ、できた方・善い方は
「信頼すること・理解すること・任せること・与えること・他人事としない・嘘をあまりつかない・自らの言動の悪い点を指摘されれば自らが受け止める」
全てではありませんが、どこかに特化されていたり、複数の善い点を持たれているのは確かです。

悪い方は
「何をするにも疑う・理解しない・身勝手で任せない・物惜しみが激しい・苦しみを他人事とする・嘘が多い・自らの悪い言動を指摘されればその方をひどい目に遇わせる・感情的な言動が多い」
これもまたどこか一つが特化されていたり、複数のことを持続してやめようとするそぶりもなく、挙句は手段を選ばないことが増えることも確かです。

書きながら、おもうようにいかないと感じます。

怨むことのしあわせ

 有難く三人の子供を授かり育てていれば、優しい一面をみれるしあわせや楽しさだけでなく、口論になることや小競り合いが喧嘩や怨みの種になることもみかけます。

ある時大人になってからの兄弟(姉妹)がある席で兄弟げんかになり、それを見ていた親戚の方は一人っ子で育ち温和な方でしたから「ケンカできる相手がいる。兄弟(姉妹)はいいねえ」と微笑んで言われたことがあります。

それから子供達や子供がいる方に口にしています。
「怨むのも相手がいるし、ケンカするのも相手がいる。相手がいるということは有難いことです。」
それは少子化時代に突入し、一人っ子や一人もおられない家庭が進んでいる現状では、一人っ子は友達を呼ぶか遊びに行くかしないとその相手がいない状態で、大人ではなく子供ですから、当然ケンカや恨んだりということも成長するには必要なことです。けれど他所様のお子様とトラブルになればお友達と遊べなくなることや大人も含めたトラブルになることも現在はみかけます。
おかしいことを再度言うのです。
「兄弟(姉妹)同士でケンカや恨むのは家の中のことですから、子供ですし他所にそれほど迷惑をかけないことです。他所に行かなくても家で一緒に遊ぶ相手がいることも有難く、ケンカしても両親が注意や監視も出来て有難いし、怨む感情がどのようなものかを同世代で学ぶ相手がいることも有難い。
何より優しくする相手がいるといこと・助ける相手がいるということ、気づきや学ぶ相手が近くにいることが私は有難いことだと思っています。」

誰かがぼそっといっておられました。

「怨むことをしあわせってとれるかなあ・・・」



勝手なたわごと(私的見解)
「だってしょうがないじゃない。怨みをしらなければ他所で怨みと知らずにやってしまえばもっと迷惑かけるのに、そんなものは小さい頃から知ってたほうが生きやすいと思うのだから」

喜怒哀楽にも怒るや悲しみという字も見えるし、感謝するの反対(怒る・理解しない・憎む・恨む・無関心)を知った方が人間としては深みがあるように考えるからです。

それは

 相変わらずその時最も大切なことは瞬間瞬間によって変わることであるのに、激し自らの感情や怨み怒り学びの少なさによって、私は大切なことを見失い、自らの感情と愚かさに振り回されてしまうことばかりです。
自らの怒りを瞬時というか発生することとと同時に客観的に判断していれば、問題は少なくなるように思います。それには知識よりも動くことや経験が大切であることの重要さを思い知らされます。

怒りが善悪の善を超えていくものとなるか、個人的なものとなるかというだけのことです。自らのことは終わってみないと私はいつもわからない愚かさで、他人のことであれば他人事のようにそれが何かを口にしている更なる愚か者となっていることは確かです。

これから自分のことが他人事にしてみて笑って楽しめるものであれば、私としては十分であると何故か思っています。簡単なことです。

笑えなくてみじめ又はあくどいであれば私が後で笑えないからです。

笑うことについての医師であり僧侶である方論文を書かれていたのをみて、意外性で笑うこと笑うことそのものが広がるものであるというこを書かれていることに妙に納得できました。

意外性でもなんでも笑いが広がれば私はそれでしあわせになれるから笑えればなんでもいいからです。

誰も変わりは

 変わらずお休みでしたので掃除・洗濯・食事の用意、皆で晩御飯を食べていたら、家族五人それぞれに悩み・不安があるようです。楽天的だしはっきりしているから、思われていないようですけれど私にだってあります。
おかれている環境によって悩みが違い、他人からしたら「それくらい」と思えることでも本人からすれば、随分深い悩みということが伝わってきます。極論を言いやすい私は疎まれて終わりです。

 同じ悩みが続き、それを聞いた方はできれば安心してもらいたい。そう思って手伝い答えを模索しても、結局本人がそれを変えようとするか、今まで苦であったことがこころの成長により苦とならないであるとか、何か他のことへ力を注いで集中するとか、いっそ気にしないようなことを続けるとかというアドバイスもただの雑音か余計なストレスにしかならないこともあります。

否定がダメなら肯定、否定も肯定もだめならまんなかあたりでぼんやり、それでだめならしばらく一休み、そんなことも本人が採用しないし、ただ同じことを言い続けるだけなら聞く人も真剣に言う人も減って、逆に困った人にさわらないようになっていくこともでてきます。

そうはいっても他人事として他人のことをこんな風に書いても、私自身はもっときつく・面倒くさく・激しく・愚かなことを言っています。私こそ避けられる対象です。まあそれはそれで関りが少なければ調べ物もいろんなことも集中できるのでそれはそれでありです。
こんな感じでマイペースなら少しは楽になれるし笑えるのですが、私がそのひとではないから難しいことなのです。


とらわれ迷い

 「個人的な狭い怒り」

 「誰かの現在や今後のために、心を鬼にしての怒り」

しっかりと周囲がその違いを分かるように区別しなければ、個人的で身勝手で我の利やただの感情に流されるだけの怒りは怨みなどを生じ、自らに必ず帰ることになります。

教育・子育て・道徳観念・躾など、本当にはっきりとした形として見えないものですから、それぞれに任されるが故に、自らの愚かさや過ちとして残っていきます。

誰もが人間完璧ではなく、不完全で愚かさと賢さと愛と憎しみなどがあってあたりまえなことです。

あってあたりまえのことですが、自らの行為がどれほどかを気づけば考えさせられることもあたりまえのことです。



迷わず、貫いていくことにします。


これを「一貫して・・」というのでしょう。

簡単に

 「神(かみ)・仏(ほとけ)」に普段願わない方であっても、不安・苦悩・悲嘆にくれるとき(又は善い結果がを願うとき・身近な方の成功や無事を願い)

「神様」又は「仏様」と心から願う瞬間を目にする。

寺院へ参れば、そこに仏様がまつられ

神社へ参れば、そこに神様がまつられ

現実を生きているのならば、神仏と出会うよりも人間同士が出会い共に過ごすことが9割以上を占める方ばかりではないだろうかとさえ思う。

 出会った頃(過去)から根性・意地が悪く、さらには現在においても根性・意地が悪く、その方に接して近くあり続け悪影響が出すぎる環境となり、心底困り果てれば
「神や仏は、存在しないのではないか・・」誰かや何かに向かって問う瞬間ですら目にすることもある。

 出会った頃(過去)から優しく、物惜しみすることなく、親切と愛情と理解がある方は、誰かが困り果てた時にも変わらず、理解と優しさと愛情とできることを頼まれずに行われるのをみた時
「神 仏のような方と・・・・」と何かに向かってこころから発する瞬間をみることもある。



このように書きながら(遅れて)、自らの愚かさを痛感させられる。

「自分は都合のよく助けてと願いを求めるのに、他人には理解もせず身勝手に厳しいだけ」

そんな私は「神・仏」について現実にある二つの例のどちらに近いのかと



シンプルにいきたい

難しくなく

かたよりなく

前向きに

相手を否定しすぎず

どなたでも善いところは認め見習おうおして(悪いところはその方の自己責任であるし)

できれば外見でなく、内面が輝くようにありたい

お手伝い

 次男が修学旅行が終わって昨日帰ってきました。たった二日しか時間はなかったですが、きっと外にあまり出していない家庭の方は寂しかったり心配していたのではないかと思います。
 私は可愛すぎたのかよく旅にだされていたので、子供達にもどこかへ放り出すことも一向にためらいがないです。むしろ子供達男の子三人ですから、大人になっても家に三人いられたら迷惑ですので、私のように親元を離れて自立してもらう子が最低二人は必要です。

なので家にあの子達がいるときには、家長・父・人生の同性の先輩としていろんなことで制約をかけます。それを我が家ではハウスルールと呼び、それぞれが自立して家計を主体で背負い親になれば自らの思うハウスルールを持てばいいと何度も伝えています。逆説的でずっと家にいれば私からの制約がずっとかなりかかるだけです。
ハウスルールの基本は「お手伝い」からはじまり、家庭内での私が判断する基準という制約があり、常軌を逸しないようにいろいろと周りの方に「これはどうされていますか」や「どのように考えていますか」また、無理なことなら早めに我が家では諦めるようにというのが根幹にあって、その時の気分やその子の頑張り(個性)によって変わっていきます。

今日はお休みだったので、いつものように掃除・洗濯・ご飯の用意を済ませ、晩はすこしゆっくりします。(昼もそれなりにゆっくりしていましたが)

明日の仕事もしっかりやろうと思います。

口ぐせ

 「笑えわないとだめだよ」

そんなことを最近質問されれば答えています。

相手にそれしか答えが無いからと押し付けてるわけではないです。他にいろんな答えがあるだろうけれど、楽しければ笑ったらいいし、普通だったら普通のことで笑ったらいいし、考えが違いすぎて恨んだり怒るより、その違いと意外性で驚きすぎてわらったらいいし、無い袖がふれないのならその金額をみて笑ったらいいし、まあ結論最後が笑えたらそれでいいんです。

現実の帳尻合わせがそれぞれ後に押し寄せてくることですから、笑った後現実に即して行動していくしかないです。時間が経てば、それはそれでおかしくて笑えます。

なかなかそういう私が笑えないことが多いから、とりあえず困れば驚けば「笑うしかないな」と笑って落ち着いて取り組むことにします。

そうか笑えるようになる現実を思い描いて笑います。後はやれるだけやってみてどうなるか、思い描くようになって笑って、ならなくて大失敗でも笑って、また考えやってみるしかないです。なんてまた押し付けてしまいます。なので私が笑うだけにしておきます。
けれど、「なぜ笑っているのですか」とたずねられるので、話して笑って、実際やってみておかしくてわらっていることがあります。
そうでなければやってられないだけです。

短い(言い訳)

 よく見失うのです。
伝えたいことが話している先から、目まぐるしく変わり、長い時間となって、終わって苦しい言い訳を自分に向けなければいけなくなるのに、言い訳して逃げるだけのこともあります。

言葉を沢山伝えたから大丈夫と安心することでもなく、程よくを超せば注意され、まだ注意されるならば問題もなく、結局厄介なのは私です。

自らの内面すら気づか無いことが多いのに、目前の方を理解できているなどおこがましいにもほどがあることに、その時誰よりも気がついていないけれど、理解が交わる瞬間は確かに存在しています。

ただそれ以外の(長い)時間、言葉(や伝えること)にとらわれています。

ここのところ、とらわれるだけのものすらでていないのも足跡が示し、はなれて今日はおわることにします。

自覚

知りながらも偽りをいい、偽りを言うからさらなる悪いことをしなければいけなくなる。


卑しくも恥ずかしいけれど私もまたそのような愚か者の一人です。

源信は、「もし煩悩に迷ってその心を乱し、堅い戒めを破ったときは、その日のうちに懺悔を行うとよい」
(第五章第五)と教えているが、仏の戒めはもちろんのこと、世俗一般の倫理道徳観念にもとる行為もまた、懺悔されねばならないはずである。しかし罪は多く隠蔽される。罪を包み隠さないで、それに対決するには勇気が必要なのである。さらに罪を罪と知らない場合も多い。いずれも愚かさのゆえに、罪に背を向ける。だから罪の自覚はまた愚の自覚とも通ずるのである。
悲しき者の救い 往生要集<源信> 著 石田瑞麿 



自らのしてきた言動が全てではなくとも、愚かな振る舞いがあれば、どこかでどなたかが注意・指摘・激励・慈悲をもって接してこられる。
悪いことを悪いと知りながら行えばさらなる愚かさが増していく、さらには認めたくなければ嘘もつき続けなければいけない。自らの痛い言動が自らに跳ね返る時、勇気をもって誰もが受け取れないのだからこそ自らが受け止めなければいけない。私はこれを懺悔という。

懺悔なければ、罪の自覚がなく、愚の自覚もない人となる。無知におおわれ、知識や判断が転倒することとなり、理解・智慧・美・善・極楽とよべるものの対極に位置するかの如きものである。

逃げても誰もが受け取れず、受け取れない。懺悔無くして自らに善いものがあるとも証明出来るはずもない。

「願い」

 (パンセに多大なる影響を受け、頭の中から離れない。けれどその言葉をみてよりそう思って仕方がない。)

 どなたもが気付かぬうちに「しあわせ」を願い求めている。
「しあわせ」は平穏・安泰・安寧・安心・充足ともいいあらわせるし、それに近づきたい又はその距離がない程でありたい、けれど悩み迷いとらわれるとき、しあわせからも厭い離れたいほど、ひとのこころは時に脆く儚く弱い。
心静かに落ち着けば泣くのでもなくわめくのでもなく、自らがおかれた場所を冷静に見つめる瞬間があってもよく、あらためて落ち着き冷静に考えれば、その時答えは如実に現れる。

 ここにおいて、「しあわせ」から「願い」がどれほど重要なことかを思い知らされる。
その「願い」が「我の利」というこの広く果てのないほどの世界で、自分のみ、いや自分の利だけに最優先にする願いは、限定的となり何よりも小さいものと認識され、本来の願いである美しさや素晴らしさ(真・善・美)からその願いへの思いや手段を択ばなければ選ばない実行の速さ強さの分だけ加速して、やがては自制がなければそそり立つ岩壁や断崖絶壁にブレーキをかけることなく向かっていくようなものとなる。
周囲がどれほど注意や制止をうながしても、その方の心の内から生じるその衝動(内から生ずる毒矢)は、自らが止めなければ他の誰もが止めようがない。(人は時に客観的な視野を持ち冷静でありたい)

 その反対に位置する「願い」どうだろうか。
我の利ではなく、自らを起点として近くの方(又は見ず知らずのふれあうかた)がいつも安心できるよう、喜んでくれるように、一人でも多くの方の理解と安心を願うものは、道徳さらには善を超え、無数ある真理を願う方向性を持つため、それぞれの方向性にある願いの大きさ・美しさに比例していく。

愚かであるがゆえに、オウムのようにきれいごとを繰り返す。お腹がすいたものに絵にかいた餅は何の足しにもならない。それでもさらに繰り返せば愚か者は更なる加速を増す。

どうだろうか、腹の足しにならないからといって、道徳・倫理・善・真理が全く必要ないとなれば、この世は誰もが無慈悲で無法地帯ばかりで、そこには人間ではなく獣より遥かに劣る、過去において「ヒト」と呼ばれた生き物が存在しているだけになるだろう。

キリスト教ではそれを

「人はパンのみにて生きるにあらず」

「人間の尊厳のために」


これは戒めであり、願いでもある。

 かたより、とらわれる私は、かたよりを捨てれず、美しいものを願う。


それを時にひとは「おもいたち」(発心)と呼ぶこともある。

 寝ているときも、朝も起きてからも昼も夕方も夜も雨が降り続いています。
お休みでしたが、特に出かけることもなく、ごみを捨てたり少し用事で外に出ては雨に濡れ、ゆったりとまったりと時は流れ、試験で早く帰ってくる長男と私の昼食を作って帰るのを待ち、ご飯を沢山食べたら、夕方には何もとくにしていないのに疲れて熟睡していました。
気が付き急いで飛び起き、晩御飯の段取りを進めていると、来客があり段取りも中断して少し話をしましたが、今度は家内が仕事から帰ってどうやらまた職場での人間関係の悪化で頭も心もその他も痛めているようです。
「辞めてもいいんだよ」
それはそれで気に入らないようで、彼女なりの考えと思いなどがあるようです。仕事は全てとは言いませんが家庭や家計を支えることの重要なことですから、真剣にしないといけないことだと私は考えます。
楽して稼げればいうことはありませんが、そんなことはまれで、信用は大切だし、仕事に対しての誠実さや自らの品性や道徳観念は最低限持っていないと相手にされないこともあるし、軽んじられる要因の一つです。

そんなことは家内には言いませんが、変なことばかりしてくる人もたまにいて、そんな方の言動や思考などは理解ができないということが身に染みるまで、時間や経験や出会いが必要なことがあります。

善人ばかりの国もなく、優しい人だけしかいない国もなく、いろんな方がいるのがあたりまえです。きっと理想が高すぎて、世間一般の道徳観念や相手のことを思いやるなどを考えない自分勝手な人に出会うということが信じられないのでしょう。信じられなくても実際そんな人に出会うのだから、流したり笑ったり仕事に集中するしかないです。

「時間が解決してくれる」

何もせず、誰かと何かだけを当てにして過ぎる時間は、その言葉の中にある「時間」を意味していません。