昨日中学になった次男は何かに触発されたように

「お父さん本を買いに行ってきていい」

「いいよ、(お世話になった監督がくれた図書カードで買うのなら)賢くなりそうだと思う本を買うんだよ」

「わかってる」

監督は「これでもっと本を読んで日本語というか言葉を自分の中に増やして、もっと上手に説明できるように」そう言って図書カードをくれました。近くの大きい本屋さんへ自転車へ行って帰ってきたようです。

「お父さん、買ってきた」

「何、見せてどんなの買ったの」

「ほら堅い表紙がついてるし賢くなりそうな本だったから」

さてそのタイトルは

「これだよ」

そういって『騎士団長殺し』 :第1部(顕れるイデア編)村上 春樹の本を見せてくれました。

「凄いじゃない、何でこの本にしたの」

「テレビで宣伝してたのもあるけど、好きそうなタイトルだったから」

とっかかりは何でもいいです。

「最後まで読むんだよ」

「わかった。」

ちょっと私も読んでみたい本であったことは確かなので、読んでない時はお借りして読んでみることにします。(ネタバレなどはしないようにしないと)



いろいろなことがいろいろとあって、その流れにのれなくて、自らにとって厄介流れであればさらりとかわせれば言うことはないです。家内はどうも厄介な流れを上手く対処できずこころが荒んでいる日でした。私がさらりと流してもかわしても、近くに流せない人がいればそのあおりをくらって大変な目にあうこともあります。私も随分今もですけれど仕事に慣れていない時は特にこころが荒んで近くの人に当たって迷惑をかけました。家内も同じように仕事を始めてなにかしらに衝突してこころが痛いようです。

逃げる事が得意な私は役に立たない困ったものです。一杯やることにします。


とある日の「けいくん」

 今週は休みがたまっていた恩恵で休日がいつもより多く、ゴロゴロマッタリしたかったのですが、家内や子供達の目もあるので家事をそれなりにこなし早めに夕食と明日の食事の用意の合間に児童館にいる「けいくん」を迎えに行くと、同じように預けられている子供達が沢山いて、皆晴れていたから外で元気よく遊んでいました。うちの「けいくん」は外より中でマッタリ派のようです。

「お父さん、僕は外より中で遊ぶ方が好きだから、外で遊ぶ用の帽子は用意する必要ないよ」

そう言われてもやっぱり子供は元気よく外で遊ぶことだって必要なことですから、帽子を用意しておくことにします。彼が帰り支度をしている間、沢山の(他の)子達が何をして遊んでいるのか、眺めていました。

ある子達は仲間同士でジャングルジムに上って遊び、ブランコを楽しむグループ、走り回って遊ぶグループ、どうも桜の下に割と大人数の子達が帽子を振っていましたから何をしているのか見ていると、散る桜の花びらを帽子で集める遊びをするグループのようでした。走り回りながら飛び跳ね手を大きく振って、風に舞う花びらを取ろうとずっと楽しそうに続けていました。

自転車で迎えに行っていましたから、早く帰って「けいくん」を桜が舞い散る下で、自転車の練習に連れて行ってあげました。
まだ小さいのでウォーキングで通り過ぎるあの子を見て、「かわいいねえ」そう何人もがあの子へ伝えていました。笑顔の似合う子です。小さい自転車、拙いところ、怪我しないようにつけている手袋と白いヘルメット、上手くいって笑って、危なそうになって笑って、調子に乗りすぎて笑って、無邪気さと素直さが桜の花が舞う姿とよく似あいます。

皆が可愛い可愛いという時間はあの子にとって長続きはしません。身体が大きくなれば可愛いからの脱却となり、新しい何かになるでしょう。

お腹一杯ご飯を食べて、明日の準備をして、早めにあの子達を寝かすことにします。

散る桜

 満開であった桜を二日ぶりに見ると幸いに散っておらず、美しいままでした。

異なる点は風が吹くたび、桜が舞って通りがかった外国人の方が写真に収め、日本人の方も幾人もスマホなどで撮っていました。私は風に流れるさまを、咲いている桜が揺れ花びらが空へ飛んでいくのを何度もみていました。
桃の花も随分散っており、桜と桃から若葉が出てきて、以前みた梨の花は満開になっており、育てている蓮からは芽が出てきていました。

昨年は花をみて何かを思うことや美しさに心奪われるという心の余裕がありました。今年は特に昨年末からいろいろとあって今もまだいろいろとあるので、花を見た瞬間に花を楽しむ余裕が本当になくて、随分時間が経ってようやく気が付かされる春です。
良い方向性のいみでなく
「(あたりまえのことがあたりまえでなくなれば)あたりまえであったときの有り難さが随分身に染みる」
そう近くにいつもいる方とぼそっと話をしていました。

早くいろんなことが善くなるとかそんな理想は欲張りなので、あたりまえのことがあたりまえであって欲しい。そんなことを言葉を交わさずともお互い願っている日であったように思います。


今日は飲み過ぎず早めに就寝することにします。

雨の中桜咲く

 次男坊と三男坊にとって、新しい学びの場が始まる日で家内は昨晩からその支度などで忙しくしていました。当然朝は食事や彼らと自らの用意で慌ただしいのはいつも以上のことです。

午前は小学校入学式、午後からは中学校、式に参加することも家内は疲れていましたが、私はその間不届き物で、家事や居残りの子供達の面倒や勉強を見ながら、新しく学校へ入るとなると書かなければいけない提出書類や教材や明日の用意などを子供達と一緒にして、光の当たる場所には最近仕事を始めた家内は子供達との接点が主婦時代より激減していますから、大切な時ほどあの人が出て一緒に過ごしてくれればいいです。そんな大義名分を持ち出して私は楽な方へ逃げるのです。(人前に出るのは疲れるので嫌です。)
普段のことなら問題はないです。華やかな所は落ち着かないですから避けれるものは避け続けなければいけません。
お昼と晩御飯と用事をして、晩には今年高校受験を控える長男坊と進路のことについて雑談をして、長男坊には次男が朝起きてから空いた時間に遊ばさないようになんて、「貴方と違って彼は朝くらいしか勉強しないきっと部活を始めたら彼は晩に勉強しないよ」と遠回しに彼と次男へ軽いくぎを刺し、今日が終わっていきます。

明日は二日ぶりに仕事、仕事場も複雑な問題が山積みですから一つずつ片付けていかねば、このままでは大問題では済まなくなります。今のこともこれからのことを考えれば早めにしっかりとした対処を皆で協力していかねばいけません。

明日が小学校二日目になる「けいくん」は、楽しそうに微笑みながら

「明日の朝は一人で小学校までいくから」

本当何でも一人でやりたいという欲求がでてきています。私や家内の干渉(束縛)から脱出して大空へ羽ばたこうとしています。


あの子達の為もありますがむしろ私の為に、いろいろとやらなければいけないことがありますから、一つずつ一つずつ思いついたときに終わらせていかないといけません。

何もなく

 平日の連休、昨晩はいつもの如く翌日仕事がないという気のゆるみから3時半まで一人で飲んでいる始末、おかげで朝眠いこと眠いこと、というか午前中は良く寝ていました。今日まで次男と三男は春休み、明日から学校が始まります。雨のせいで桜を見るついでに自転車の練習にいけず、残念でした。

伸びすぎている次男の髪をお風呂前に散髪して、ついでに自分もそれからお風呂に入り、家内が仕事から帰ってくるのを少しだけ家事をして現実逃避つまりはまたまったりごろごろして待っていましたが、なかなか帰ってこず、仕事の大変さを考えさせられました。
明日もまた続いて何故か休みをいただいてます。

家内と休日同じ日であれば、どこかへ行くのですが、それぞれ一人で楽しく出かけることをあまりしませんから、そのうち休日が一緒であればと少し欲張りな願いを持っています。

今日は何もしていないから、掃除を少し洗い物を少しとほかはまったり、昨晩はお酒をずっと飲んでいたので今日は慎み、しかも遅く寝ていましたから早く就寝することにします。

これから残ったものをいただきゆっくり夕ご飯にして、やはりまったりすることにします。


この春休み子供たちのうち上の二人はカードゲームにはまってしまい、隙あらばそのカードゲーム(デュエマとかなんとか)の話かカードを見て戦略を立てるか、どうとうかこうとか、ああでもないこうでもないとか、あの二人最近うるさいです。

理解

 今日もまた有り難いことに適度に忙しく、さらに私が好き放題に言ってもそれを受け止めてくれる方達でそのことがどれだけのことかと考えさせられました。

いたって簡単で、私のことを嫌いな方・苦手な方・面倒くさいと思っている方・恨んでいる方・相性の悪い方・避けようとしている方・都合の悪い方、そんな方は私が好き放題発言すればどんどん関係と空気は澱むどころか悪化する一方で、つまり私のことを理解しようと少しでも思う方でないとそのような関係や今日のような一日になりません。

私は生きるために理解されたいのではなく、理解されるために生きているようです。

その理解されたいという思いが低俗で愚かで拙く間違っていることばかりですから、こちらを苦手や面倒くさいとか邪魔だとか歯牙にもかけない方が沢山おられることも事実です。

家内曰く

「あなたはいつでもプラス思考のかたまりで自分が大好きだから」

それは家内にとって私に対する最上の嫌味でもあり、私を好きだという言葉になっている一つです。

いつも思うのです。私が私を嫌いになればその果ては、自らで命を絶つしか道が無くなるでしょう。悪いことを思い願うより、その反対に位置するものを楽しく誰に頼まれてもいないけれど理想や楽しさを一人思い描きまた一人で笑っています。私を理解しようとする方は

「(また何をみてきたの)どうしたの」

そう優しく尋ねてくれます。

まだ来ていないことで阿呆なことや思いついたままの世界を誰もが笑っていなくても笑って話すのです。


誰もが楽しんでいなくても私は楽しく笑うのです。


「楽しいですね」


私はプラス思考ですから、一人楽しく笑うことが多いです。つまりは阿呆です。

花と雨

 四月八日 (土曜) 晴れのち曇りのち雨

桜と桃の花が綺麗で、ブッダの誕生日です。花まつり・降誕会・龍華会・灌仏会などとも呼ばれています。日本においてお寺のない地域はほとんどないに等しいでしょうから。きっとクリスマスより盛大に皆が祝っているでしょう、なんてことはなく一部の仏教を信奉する方において営まれ祝われています。

お経の描写にルンビニーでブッダ(お釈迦様)が生まれられた時は甘露の雨が降り注いだり、生まれてすぐに七歩あるいて天と地を指さし
「天上天下唯我独尊」
師はこれをこの世に生まれた全てのいのちは何よりも尊いものであるの様に訳されていました。自らのいのちも尊く他者のいのちも尊く生きとし生けるもの全てが尊い。

ただ生まれてすぐの子供がこんなことを言うはずはありません。これはやがてこの世で初めて偉大なる覚り(智慧)によって仏教をこの世に広めることになった方を称えるために、通常の人間ではありえないことが付加されています。
およそお経には比喩が頻繁に使われ事実でないようなことが書かれています。それは私達が心からお世話になって大好きな方が輝いてみえたり、幼子の笑顔に光を感じる、この上なき正しい覚りを制約のある言葉であらわそうとしたとき、現実的な制約を超えた比喩をもって何人もの方が書かれたことが後世に残って伝えられています。
お経から伝説と事実の切り離して、純粋に仏教を伝えることは難しいというのが最近の仏教学の間でも通例になっています。
簡単な例えだと、大人になり偉大になられた方が、子供の頃は神童と呼ばれていた。その上位表現方法です。

ブッダは生まれて間もなく母を亡くし、養母に育てられることになります。思索にふけることの多い少年であったと伝えられています。何不自由のない王家の家を出て沙門(シュラーマナ)となり、あばらや血管が透けて見えるほどの苦行を乗り越え、ブッダガヤ菩提樹下の金剛座の上で無上正等覚(正しい目覚め「覚り」)を開き、その金剛座の上から仏教は始まりました。

仏教教団が誕生することになったのは、苦行を共にした五人の比丘(修行者)に説法し、五人が羅漢になってから教団となりゆるやかにインドに広まっていくことになったのです。

インドから南に伝わるルート(セイロンやスリランカなど)、インドから北から西域を通り中国へ伝わるルートなど、長い時間をかけ仏教はその土地に根を生やし、寛容融和に土着の思想や宗教儀礼を取り込み、一神教のように他の宗教を滅亡させることもなく、中国から韓国そして日本へ、現在は情報化社会ですからそれよりもさまざまな伝わり方で多種多様な形態の宗派を持ち、ただどもれが仏教という名前を持っているのは確かなことです。

私の実家は禅宗の檀家ですが、私は真言宗を信奉し現在に至ります。そのルーツを行きつくところまで辿ればやはりブッダ(釈尊・お釈迦様)へたどり着きます。

ですので今日は、家族一同でお祝いしケーキを買って食べることにしています。

私「皆今日は花まつりだよ、仏教の開祖であるお釈迦様の誕生日だから、世間では仏教を開かれた人と言えばブッダで知られているから、ブッダに属したつまりはだよ、バウッダ、まあその智慧や真理、つまりはバウッダダルシャナ バウッダダンマ、仏法と訳されるかな今日という日も属されていることを世に生きる人は知っているだろうから皆でケーキを食べて祝おう」

長男「いやバウッダとか今まで聞いたことないし、バウッダダルシャナとか言われてもきっとこれからもあんまり聞かないと思うよ」

私「本屋とかで目にすることもあると思うけどな」

長男「本屋かあ」

他の家族は無口で美味しくケーキを食べていました。

酔っぱらいのような私のたわごとはともかく四月八日の今日、桃も桜も咲き、田畑にレンゲソウが一面咲いており花まつりにふさわしい日でした。



 四月七日 (金) 晴れのち曇り
 職場の前にこの時期はいつも桜が見事に咲き、他のことに気をとられ桜が満開であることに気づかずにいると見知らぬ訪れる方が

「綺麗に咲いている桜が目前にいつも見れるなんて最高ですね」

そんな言葉で私は満開の桜に気がつかされます。ちょっと用事で他のところへ物を移動するときに、桜の側を通り眺め、こころの中がさくら色になったような気がします。

仕事帰りに紅い紅い桃の花が咲き、その向こうに淡い淡いさくら色の桜が咲き、目線を変えれば柳は萌えるような緑で、道の脇に美しい濃いピンクの桃が一斉に咲き、色んなところに植えられたチューリップも可憐に咲き、春爛漫です。

モクレンの種類も少し前から咲き散ったものも多いですが、紫のものが咲いて目を奪われました。ちょうど農道を通って帰ります。梨も咲いていたように思います。

花が咲き乱れ、一つの花も一本の木に咲く花々を単体で見ていると、何故か私は女性を思い浮かべます。私の中で美しく咲く花と女性が近いイメージなのだと思います。

人であれば見た目の花を想像しているのではありません。私にとって女性の優しさ・思いやり・包容力・品性・立ち居振る舞い、人によってバランスは変わりますが、優しい方は美しい花に例えられ光ってみえます。

本当に花粉症でさえなければこの時期外でお弁当を持っていき、「花見でイッパイ(色々な意味です)」に何度も行くところです。


花が咲き誇る頃に夢中になっていれば、蝶が舞っているのを見かけました。


「花開きし時蝶きたり、蝶来たりしとき花開く」


ニワトリと卵でどちらが先かなんて問答は私には必要のないことです。


花も蝶も美しいものそのもので、どちらが先にこの世に生じてきたのかなんてものは美しいものを美しいと感じるのに答えなんて無粋なものです。

とある休日

 仕事が無ければ休日の醍醐味としては、オヤジの得意技といえば「ゴロゴロする」です。オヤジは雷を落とすし、ゴロゴロしてゴロゴロっぷりを皆に披露できる素晴らしい人なのです。

夜になれば仕事をしていなくても何かすぐに口実を作り「一杯やらなければいけない」へ誰にも頼まれてもいないのにすぐにそこへ持っていけます。

正直なところ、怠惰だけだとオヤジとは周囲が認定してくれないことも事実です。よってオヤジがオヤジであるためには家事や育児と用事をこなさねば、オヤジの威厳は(特に家内には)保てないのです。

時には数少ないですが、知性あふれる言葉を出さねばいけませんし、寛容融和であることも態度をもって示さねばいけません。オヤジは一応一家の大黒柱でありますから(お給料がその呼ばれ方に比例すれば私の扱いはもっとよくなるはずです)、表面上偉そうにできます。

春休み中の子供達に簡単な昼食とそれなりに用事をさせ、私も用事に出かけそれから「けいくん」の自転車の練習にでかけました。あの子はもう補助輪無しでスイスイのれるようになり、まだ危なっかしいことも多いですがうまく乗れている時の顔は本当に楽しそうです。少し雨が降ってきましたがそれでも何も言うこともなく夢中になって、何度も何度もこけてましたが痛いなんて一言も言わずに、誰もいない公園を独り占めにできていたので気兼ねなく満喫していました。
後何回か練習すれば一緒にサイクリングも行けそうです。最近は車社会で交通量も多く、自転車がかなり自由自在に動かせないと道路は危険です。

オヤジは鷹のように俯瞰的にあの子を見下ろし、的確な指示を飛ばすのです。

桜桃の候

 今日も忙しい日で、気が付けばもう昼もかなり過ぎ、落ち着くことができたので気分転換に初めて蓮の植え替えを試みました。
越冬しているはずの蓮の鉢を掘り起こしいつもお世話になっているおじさんにいただいた大きめの鉢へ移し替えて、さてこれからどうなることやらあれで大丈夫かどうか、もう少し土を足して後は様子を見ることにします。

今回植え替えた蓮は一昨年種から育て初め一年目は咲かず、二年目に美しい薄紅の花を咲かせ私は一人喜んでいました。(ここのブログのプロフィール画像の蓮です)

ただ一昨年咲いた蓮は昨年咲かず、寂しく思っていましたが違う蓮が咲いたので安堵しました。今年の為に少し手入れをしてみようと思います以前に咲いた蓮の鉢を大きなものに植え替える計画をしています。

今は桜が咲き、職場への道路脇では桃が咲き乱れ美しく、花粉症でなければ外でお弁当を食べながら一杯なんて、今度蓮が沢山咲くようになったら、それを祝して一杯やらねばという夢を見ています。
何が報われ何が無駄になるか、そんなことを考えて何もしないより、蓮に力を入れてみたり学びに力を入れてみたり、その他にも何になるかわかりませんができることを増やし、無駄になった時には笑っていたいです。

明日は休日をいただけたので、春休みの子供達と一日過ごすことになりますから、あの子達の勉強や家事・手伝い・遊びなどに随分時間を割かねば父親としての私の務めですから、ただ全て忘れて一緒に遊び呆けて家内に怒られるという手もあります。

どれにしても楽しそうです。

蓮が無事に根付き、美しい花を咲かせてくれることを夢見ています。

素直

 最近仕事に出ている家内も対人関係の問題で悩む日が続いています。
私は男で一応一家の大黒柱ですから、仕事をしていないと家族や自らを養うことができないですから、仕事に関しては家内より先輩となります。どのような職種であれ先に行く人つまりは経験者が語ることは無駄にならないと私は思います。

ただわからないことに対して、言われたことの意味が理解できていない時は言われたとおりにせず自らの思いや決断を優先すれば痛い思いをする確率はかなり高くなります。
失敗を避けたり、責任をおいたくないのであれば先に行く方の意見を意味は理解できなくても言われたとおりにすれば、少なくとも自らの責任はなくなり、その意見を言われた方が責任をおわなければいけません。つまりは

「(自らのくだらないものは全て捨て去)相手の言う通りにすれば問題はほとんど無くなります」

ただ私みたいに素直でないのであれば、痛い思いを素直ではない回数分するだけのことです。


そろそろ私の様に痛い思いを続けてばかりなんてことを他の誰かには思わないです。ただ言い訳として痛い思いは人を育てることもあります。同様な痛い思いをした人の気持ちを理解できることもあります。同様の人と一緒に泣いたり笑ったり怒ったり恨んだりできます。


この世はいつも移ろい変わりゆくもので、流れに逆らえば木端微塵になることもあります、善い流れをみつけその流れに乗り流されていけば問題はないという理想をいつも夢見ています。

理想と現実と素直


前者二つはともかく、若くても中頃の歳でも老いても、(善いこと・道理・目前の方に礼を失わないことに)素直であることが時に自らを守る最上のことだと思わされます。

足跡

 昨日までの仕事が割と慌ただしくしていたので、仕事も今日は落ち着いているかと思っていましたが、それは初めだけで昼が近づくにつれ慌ただしくなり、夕方にはさらに残業が終わるまで忙しい日で、いつも近くにいる方が風邪を引いたみたいですが最後まで頑張っていました。仕事を始めた時とは違って責任感を持つようになり、以前よりは芯がみえるような気がします。

私はそんな偉そうなことを言える身分ではありません。ただ私を棚に上げ。自らを比較の対象としなければ好き放題いえます。もっともそんなことを楽しめる方にだけ言うことにしています。冗談を冗談に取ってくれない人に冗談は私が冗談では済まされないから言えないのです。

いつも近くにいる方も私に冗談をよく言います。付き合いが長くなったから泣き言だっていうこともありますし、人前で言えないことも言うこともあります。もっともそれは私にとっても同じことなので、気心が知れた仲であることが有り難いです。

思ってもいない方や身近な方によくお世話になり優しくしてくれることが有り難いです。ただ何年経っても私という人間をみているのに観ずに接し続ける方もいて、その両者の違いには優しい方の優しさの高さ深さ広さ大きさの分だけどちらも応えます。

誰もが自分に優しくしてほしいだろうと思います。

誰もが自分を害って欲しくないと思います。

誰もが自分を理解して欲しいと思います。

誰もが自分のことを信じて欲しいと思います。

だからふれあう方に優しいという人だっています。自らにはそうしてほしいのに他人のことはお構いなしという人だっています。


どちらもその方の言動の継続によって、個性というか性根がどのようなものか、そのようなことを苦しいことも楽しいこともとんでもないときも年月を一緒に過ごせば、いくら普段に口で何を言っていようが、苦しいときやつらいとき悲しいときとんでもないときにその方の個性や性根を何度も何度もみれば、自らのことを自らで口で言うより周囲にはしっかりとしたその方の足跡が残っています。

善い行いの連続には善い足跡

あたりまえの行いの連続にはあたりまえの足跡

悪い行いの連続には悪い足跡

極めて悪い行いの連続には極悪な足跡


過去を消すケシゴムや悪い足跡を消せるものは売っているのは見たことがありません。当然善い足跡だって消せないものです。他人のことより問題は、いつだって私の今と過去の足跡です。

振り返ってみる私の足跡は、誰かと一緒に見て笑ってたどれるものでありたいです。

気を付けて

 少し離れたところまで友人を早朝より車で送っているとき、高い山々の頂に白く雪が降っていることを教えてくれて、徳島(平野部)で今の時期に積雪が見れるとは思っていませんでした。二日前の冷え込みの時に降ったのだろうと話し別れました。

行くもの、止まるもの、何かもとめるのに大きく広く移り変わる世界で動きつづけ見出すもの、騒動散乱する心を見つめ学びと知恵により静へと、送った帰りの車でそんなことを考えていました。

遥か高い山の頂きのさらにその上にある月をちょうどお互いが反対から頂を目指し登っているようなものかと、お互いの裾野にある登山道にたどり着きそこから登りだせば、互いの姿は確認することができず、声を出しても届かず、ただ頂の上に輝くあの美しい月はみえ、順調に互いが頂上付近へ近づくことができれば姿も声も何をみていたか目指していたかも言葉を交わすことなくとも理解できるのだろうと、今までもこれからもきっと互いが求める何かが同じものであれば年齢も生き方も性別も国もどれも違っていたとしても、瞬間的に同じ何かを理解しあえることが存在するのだろうと

相変わらずよくわからないのです。思うがままに言葉をつらね、その自らの言葉に知らないけれど確かに私である言葉がでてきて驚きます。

「確かに私はあの時、こういった」

再度確認するとすればそんな言葉です。普段ではない時にこそ知らないけれど確かに私の言葉や行動が強いもので、どうすればと考えようとしましたが、やはり「ただ学ぶべし」先人の言葉を頭から離さないように、もっと今まで遥か遠くに感じれた言葉が以前より身近なものと感じれるようになったものの、遠く感じる言葉の数は膨大です。ただ何かはわからないけれど身近なものから少しずつ進めていくことだけはおろそかにしてはならないと感じさせる日でした。

お久しぶり

 忙しい日となることが事前にわかっていた日ですから、あらかじめ準備していました。私一人ではどうにもならないことが多いですが、三人寄れば文殊の知恵ですから三人で補い合って笑って一日が過ぎていき、珍しい来客がありこれもまたいつもの流れですが、泊るところが決まっていないのならと家に誘って話を聞くというより、まあ聞くことを嫌う私の性格のせいかとめどなく話し続けている始末、明日はいつもより早く起きて彼を車に乗せた場所へ降ろし、彼の二日目の歩き遍路となるでしょう。

実を言うと彼のことは知り合ったときから苦手で、現在もなお苦手です。ただ以前より私もあの人も歳を取ったせいか、まあ私のところへご厄介になっているせいかもしれませんが、謙虚なところが目立ちました。彼に若い頃見えた無茶は今日見た感じでは感じるところはありませんでした。ただやはり苦手であり、過ごした時間の短さのせいと見苦しい言い訳をしておきます。

私が大好きな友人の友人ですから、そういえば学生時代の一つ上の先輩の友人でもありました。

どうして人の話をずっと聞くだけということができにくい性格なのかを話し終わって考えさせられました。困ったものです。ただ今日はお酒を飲むことはやめました。沢山一緒に食べて、私だけ一人で話して、ここを書き終えてお風呂に入ってから寝ることにします。

最近学びを進めようとしていることが、なにかしらの形になるというにはまだ学ぶ時間の継続と何かが必要となってくるでしょう。
誰かと何かのせいにして言い訳ばかりで逃げてしまう天才の私ですが、逃げながらもほんの少しずつでも学びを



何かは終わってみないと決まらないことばかりで、よくわからないことばかりです。

冷たい

 以前(学生の頃)、忙しくしている人が近くにいるのに、コタツで寝転びこっそりと現実逃避していました。暖をとりに来られた方が私に気づき、「向こうで誰それがばたばたして慌てていたよ」私を責めるでもなく教えてくれました。
身体は温まっているけれどこころが冷たい私は、「見ていないけれど、どうも彼のやり方だと初めにこういう感じでちょっと良くない方向へ行って、それが問題へと発展して、対応できなくてばたばたしてるんじゃない」そんなことをぼそっと呟いていました。教えてくれた方は「それだけ見ていなくてもわかっているなら、いってあげたら」頭でわかっていたとしても現実から逃避している私には、あたりまえは遠く、まして善いことや他人のことをなんて思いつかない冷たいことばかりでした。これは今でも家内からは、私が「冷たい」と言われたり言われなくても思われていることがあります。

今日は珍しく雨が降り続き、かなり冷え込む日で職場から見える咲きかけた桜の開花も止まっているかのようでした。

愚かで怠惰な現状をみつめることなくして、ただ目に映る方や近くの方の現状を切るような言葉は冷たく鋭く、気心が知れた方ならば「ウワーざっくり切りましたね」と教えてくれます。

冗談にとってくれれば、冷たくなく一緒に笑えますが、いかに冷静を装い無関係を装い目線をそらし、その状況を嘘を言わずに短い言葉でありのままから揚げ足を最後に一つとれるか

これが今日の「冷たい」という冗談の日でした。