あの花

 今日はそれなりに仕事も忙しく、時間が早く過ぎ楽しい時を過ごせました。忙しすぎても暇になりすぎても仕事はつらいと誰かが私へ教えてくれました。つらいことの両方を知れば、適度に忙しいという仕事の時間は楽しいと思える日でした。

ふと周囲に茂る青々とした木々、タケノコから卒業した若竹、若竹の青と、成長した青竹、何年も生えた老竹、その青の色の違いに気が付くようになったのは最近のことです。

毎年育てている蓮も、どんどんと立ち葉が出てきて、今年も一輪でも良いから美しい蓮の花を見せてくれればと願い鉢へ水のシャワーをかけています。

最近になって近くの方へたずねられたことがあります。

「貴方が目標としている人物はどなたですか」

若い頃、誰かではなく勝ちたいと思う人物は私自身だと冗談めいて答えていたことがあります。それから私なりにできた近くの方や師匠など書物を書かれた天才の方々を目標のように意識している頃がありました。

「今は誰かといった方はいません。ただみたいものがあって、誰でもいいからその方に咲く花をみたいといつも願っています。私はその花が咲いていることを理解したいです。その方がそのことに気づいていなければ『貴方の華は今咲いていて美しいです』そんなことを言って上げれる私でありたいです。たんに私はそこ(の誰でもいいですが負けず)に咲く美しい花がみたいです」

その方が誰でもいいのですが、その咲く花がどのようなものであるか、私はただ手を伸ばせば持ってこれる真理のことば(花束)でその方を理解し表現できる人でありたい。そんなことを願っています。


私は本当に自分でできもしないことを他人任せにする身勝手な愚か者です。ただ私にできないことであっても、「咲く花をみて美しい」そうずっと感じるこころ(私)を大切にしたいです。

準備を怠っていなくても、

シチューかき回しの刑

 本日は休日をいただいていましたが、朝から何やら家内と子供達が大騒ぎをしていて、それの片付け・洗濯などをして、役場・銀行に用事を済ませ、それからさらに残っている洗濯と掃除にとりかかりました。

家内が働き出して息詰まるようになってから、休日は私が主夫をせねば家族皆で笑っている時間が減って、それは現実から目を背けゴロゴロばかりしている誰かに尊敬の反対の冷たい視線や気持ちが送られてきます。よってゴロゴロは今日だけ封印なのです。

平日も代わりに先にあまり料理をしないのですが作れる料理数も片手ほどもないのに、比較的手が付けやすい、ハヤシライスを作ったり、カレラーイスを作ってみたり、そういえば同じような感じのもので作れるじゃないと安易な発想で、昨晩からずっとシチューを作り続け、一日かけて完成、なんと最後の味付けには「大企業が手間暇かけて開発したシチューの素」なるものを入れれば、魔法のように味が整い、単にいただいた野菜が多かったので鍋に二杯、都合二回作ったので時間がかかっただけとも言います。

いずれにしても、地元でとれた野菜をふんだんに使った(シチュー本体の8割が野菜)で、シェフ納得のものができました。大企業と地元の方と自然に感謝です。
もう少し作れる品を増やさねばなんて思いますが、思いついた瞬間にそれを忘れることができる私です。簡単で美味しくいただけるということは有り難いことですね。

昨晩と今日と本当に焦がさないようにかき回し、今日も美味しそうな匂いを嗅ぎながら家族が帰ってくるのを待ちながら何度もかき回していました。



早くいろんなことが普通になってくれるといいです。

帰って来た酔っぱらい

 今日は長男坊と学ぶことの私なりの意味について、私の生きてきた年数分の答えと願いを怠惰や逃避に続けた結果やその報いの年数分について、彼が自らが抱える葛藤や矛盾の私なりの答えを情けないことですが、泣きながら伝えました。


今日は職場でもいろいろあり、それは深く深く考えさせられることでした。


話さなくても私のことを理解し支えてくれる人がいました。

話を必死にして私のことを理解し支えてくれる人がいました。

話を必死にして、私の行動を長年見続けて、私をようやく理解して支えてくれる人がいました。

話を必死にしても、長年私のことを見続け目に見える実績・成果を幾つだしたとしても、何一つ理解することのない人がいました。

話を必死にしても、長年私のことを見続け目に見える実績・成果を幾つだしたとしても、何一つ理解するどころか、私だけでなく他の人に根性悪いことをつづけ、揚げ足を取り続け、挙句はとんでもないことをするがいました。


この世は、人の数だけ個性があって、善い人も、良い人も、良い人よりの普通の人も、普通の人も、ちょい悪よりの普通の人も、悪い人も、極悪寄りの悪い人も、極めて極悪人と誰もが納得する人がいるのもこの世のことわりです。

さてそう生きることもその人の自由(自らが由し)で、他人が由し(他由)これこそが本当の自由とどこかの仏教者は明言していました。

自らのことは自らが決定し望み願い、成していき、その自らが決定し成し続けてきたことがその人の人生になっていくことは確かです。


私は今をもって自らが安易な道に走り怠惰にふけり、成すべきことをその時またはそれまでに成さなかった私の過去が情けなくてしょうがないというどうしようもない失敗談をもって、長男坊に

「あなた私の話に何をみて、何を思い、今何をなし、これからどうしていくか


その答えは、私じゃなくて、自らに教えてあげたらいいよ」



酔っぱらいの私はめんどくさいです・・・

カレーなる一族

 ふと末っ子の「けいくん」が晩御飯に食べたいと言っていたカレーを私も今日食べたくなって、仕事が終わって彼を迎えに行ってから、できれば家内が仕事から帰ってくるまでに作れればと段取りをはじめました。
本当に家内は三人の出産育児から少しずつ手が離れていることによって仕事をはじめましたが、慣れない仕事専ら対人関係で疲弊しています。
何度も書きますが皮肉な話です。良い人達ばかりなら家内を優しく助けてほっておかず、彼女が成長するより甘やかされることに向かうのでしょうが、その反対の人と過ごす時間が長いので、損得勘定に高く利害関係に計算高く、弱い立場には手段を択ばないことばかりの人に家内はやられてかえってきます。
これは家内にかなり問題がありますが、誰でもそんな人とずっと一緒に時を共にしたいという方も稀なことも事実です。
「仕事なのだから、仕事をおぼえて、お金をいただいている分仕事を真剣にやらないと」他の方がやっていないとしても、自分はお金をいただいているのだから、主婦が長かったから主婦業には強いですが仕事の熟練度はその分低めなのは、慣れて強くしていけば問題がないことです。
帰って御飯を作らなくてもいいし、お風呂は「けいくん」がお手伝いをして洗ってためてくれていました。片付けは長男坊が、上手くいかないことが外であるのなら、その分家の中で上手くいってゆっくり楽しく過ごせれば問題だって少なくなるはずです。時間をゆっくり楽しく過ごせれば、苛立ちも緩和されるなんて安易なこちらの考えです。
誰かを招いて一緒に美味しく食べて、違う空気を入れて、子供達が楽しく笑えれば、親だって楽しくなれます。

私には縁遠いものが多いです。そこは縁遠いものを欲張らず、あたりまえのことやできることをせめて余裕がある時くらい、行動にしていければなんて願う日でした。

お土産

 普段どこにも行くことがないのです。つまりは最近も職場と家の往復ばかりです。
近くにいる人が出張に出かけ、今日戻ってきて、そこであったことを仕事をしている私へいろいろと話してくるのです。その気持ちはわかります。新しく知ったこと、出会い、別れ、気づき、良いこと、悪いこと、普通のこと、けれど私は仕事をしているので、できれば話をわたしにするより、何か手伝ってくれた方が有り難いなんて思っていたのに、どうもその近くにいる人は早く話をしたいというか、頼んでもいないのにしてくるのです。私としては珍しく、かなり遠回しに

「話よりも、出来れば何か手伝っていただけた方が有り難いとか、今の私は思います」

するとですよ(わかっていないな、この人はといった感じで)

「ほらどこかへ行ったらお土産という言葉があるように、話だって土産話というものがあるでしょ」

(だから黙って聞いてくれたらいいのです)という雰囲気で、さらに話してくるのです。
私は人間として愚かであり、他の誰かより私自身を大好きですし、私の興味があるものを尊敬していますので、さらに遠回しに、今はあまり聞く気がないという感じ(雰囲気のようなもの)をだせば、つまり言葉にするとですよ

「もう、面倒くさいなあ」

どうもそれは取って返されて私にその言葉を返されてしまいました。土産話が沢山あり、勉強になったのならば、よかったです。暇な時にまたじっくり聞かされることにします。

誰かの世界と私の世界は同じものや人を見ていたとしても、角度や何かいろいろなものが人が違う分だけ違います。彼には彼の世界があるよう私には私の世界があって、一緒であるとしても同じものを見て違うものを見て同じものを見るのです。

お土産をいただいたので家内と子供達へ渡したら喜んでいました。早速空けて食べていました。

「今度会ったらちゃんとお礼を言うのですよ」

「はーい」



さて明日になってあの子達はそれをおぼえているかどうか、私の子ですから心配です。

お大事に

 昨日は一昨日によく睡眠をとったことにより快調でしたが、昨晩に末っ子がハシゴを変な使い方して、足の親指を強打の上挟んで、ゆっくり楽しく過ごすどころか、家内は末っ子の足や翌日仕事や病院などの予定のことで頭がいっぱいになり、やっと「けいくん」も痛いのを辛抱しながら寝付いたかと思えば、家内の布団に後で潜り込んでいました。

仕事が終わってまだ病院に連れて行っていないのであれば連れて行こうと思っていましたが、いつもより会社を早退して病院に連れて行ってくれていたので助かりました。骨折はしていないようですが親指の爪は黒くなり周囲も昨日より黒ずんで内出血して少し腫れており、まあ骨折やヒビが入っていないようなので一安心です。家内が

「まだ小さいからいろいろあるわね」

本当、小学一年生になってよく自転車に乗れるようにもなりましたが、走ってこけたり自転車でこけたり、擦り傷や生傷や打ち身がその分多くなって、彼の活発さが増えたことが嬉しいですが怪我は勘弁です。

昨晩また夜更かししてしまい、明日は仕事も忙しくなりそうですから「今日は早く休むぞ」なんて宣言したら

「おとうさん、きょうはじゃなくて毎日早く休んだ方がいいよ」

足を痛めた「けいくん」は頭は冷静でした。早く治るといいね。

あおい青い青い空

 本当は最大の私の武器は「能ある鷹は爪を隠す」を体現するならば、私は仏教関係を出さない私である方が、「能ある鷹」であるのです。

私は「物惜しみ(ケチ)は何によって、滅びるのか」

その答えはお経にあるように

「それはただ、与えることによって滅びる」

私は物惜しみ(ケチ)を隠すために、能ある鷹(賢者)であることを放棄して、愚者である道を選ぶしかないのです。
(昨日の記事の補記も含めここにそれを記すのです)

六 賢者の章

七六  〔自己の〕避くべきことを指摘し叱責する賢者を見れば、このような賢者に会うことは、宝 〔の在りか〕を示す人のようにちがいない。そうした人にしたがう者は利益があって損失がない。

七七  戒めよ、教えよ。そしてなしてはならぬことを避けるがよい。 〔そうすれば〕かれは善き人の愛好するところとなり、不善の人の愛好しないところのものとなる。

真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



八 千の章

一〇九  常に長老を尊敬し、敬意の徳ある者には、年齢・容色・安楽・力の四つの法(もの)が増し加わる。

一一〇  また、たとえ百年生きても、悪戒で放縦であれば、一日生きて戒を有し、静慮(じょうりょ)のあるほうがよい。

一一一  また、たとえ百年生きても、智慧悪しく努力をすてたならば、一日生きて、智慧を有し、静慮(じょうりょ)のあるほうがよい。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



悪の章

一一六  人は、善に急ぐがよい。悪より心を防ぐがよい。善〔をなすこと〕を怠れば、意(こころ)は悪をよろこぶ。

一一七  たとえ悪しきことをなそうとも、再三〔悪を〕なしてはならぬ。それを欲するな。苦悩は悪の集積である。



さて、私の言葉より私の目を覚まし、この世で最大の敬意を払う宮坂先生の言葉をもってあらわすことにします。
(引用の書の冒頭をもって)

法句経のあらまし

 漢訳で『法句経』と訳されている経典に相当するものは、パーリ語の『ダンマパダ』である。「ダンマ」は真理、理法、さらには教えという意味がある。「パダ」は「ことば」。別の解釈によると「ダンマ」はさとりの意味の涅槃(ねはん)、「パダ」は足跡とか道を指す。そこでさとりへの道(涅槃ねはん)と解される。しかし一般には「真理のことば」という意味を採るので本書もまたそれにしたがうことにした。
 全文、韻文より成り、五百、七百、九百の韻文を持つ三種のテキストがあったと伝えられるが、現存するパーリ文は二十六章四二三の韻文からできている。もっとも重複するものがあるので実数は四二二である。



さらにその前文に

仏教の比較的古い伝承によると、この『ダンマ・パダ』は、ブッダ(釈尊・釈迦牟尼・ゴーダマ・ブッダ・バウッダダンマ)がじかに説いた真理のことばをダルマトゥラータ(法救ほっぐ)が撰集した珠玉の詞歌集である。それは仏教の根本教説にもとづいて、日常生活の智慧を教え、人生の究極の在り方を端的に示したものである。十九世紀のなかばに、この経典をラテン語訳して最初にヨーロッパに紹介したデンマークの碩学ファウストベールは、これを「東方の聖書」とよんだ。まことに一々の詩句は簡明な古代的表現のうちに無限の滋味と、はかりしれない智慧をたたえ、一語一句はブッダその人の偉大な宗教的人格を伝える独特の響きを持っている。わたしたちがこの明澄な韻律にとむ『ダンマ・パダ』をひもとくとき、古代インドの深く澄んだ青空のもとで淡々と語るブッダにじかに接する思いがするであろう。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



インドにも突き抜けるような青い空があるように、中国においても同様の青い空があるように、わたしたちの住む日本にも青く青く果てしなく広く高くどこまでも続くような青い空があり、そこに住む人すべてがその青い空をながめ、そこに何かをみるのです。


私はあのどこまでも貫いていく青い空を貫いていく真理に手をただひたすらに手を伸ばし、その真理に手を伸ばし続ける、高貴な子供でありたいです。

黒髪常に黒からず

「若いころから歳をとるまで、素晴らしいことをやっていた(のだから、多少の悪いことはしてもいい)」
そんなことを最近耳にして、こころがいたくなりました。確かに過去に成したことが素晴らしいことは誇れることであり、功績でもあり、名誉なことです。
だからといって「無条件で悪いことをしてもいい」という結論は世の中ではとおることはないです。謙虚さと感謝と自らの分をわきまえることは、どの場においても必要不可欠なことです。
反対に素晴らしいことを沢山なされてきて、今もなお人の役に立つことをされる方がいて、その方は「たいしたことはしてないから、気にしなくていい。好きでしていることだから」そう言ってお世話をされ続ける白髪の方がいます。
善と悪のどちらかにならなければいけないという話ではないです。どちらにできれば近づきたいか、またはその中間でもいいと思います。

白髪をいただくから長老であるのではない。かれの齢(よわい)はふけただけのことで、いたずらに年老いた者といわれる。
(法句二六〇)

真実と理法と、不殺生と、自制と、節度をそなえた者は、汚れを離れた賢い長老であるといわれる。
(法句二六一)
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋


続いてその解説に宮坂先生は

常識的にいって、年長のものを尊敬しなければならないことはいうまでもないであろう。しかし、ブッダは無条件に年長者を敬えといっているのではない。白髪をいただく者は、そのゆえに長老と称せられるのではない。人間としての真実の智慧を欠いてただ年老いた者は、まるで牡牛が年とともにいたずらに肉を増すようなものだ、とブッダは説いている。世に長老として尊敬されるためには、清らかな賢者であらねばならない。それには真実と理法と不殺生と自制とを具えていることを不可欠の条件とする。



心の底から年長者として尊敬できる方達が近くにおられます。ただ年長者故に一人ずつ亡くなられていかれます。私はできれば身の程をわきまえ、余計なことを言うのでもなく、感謝やすみませんとさらりと言える年寄になりたいと考えます。
ただこれは若い頃、現在もこれからの私の言動が左右していくものになります。これからもし有り難く長生きできるのであれば私自身の日々のこころのありかた、思考、願い、優しさを見つめ、できればいつでもそこに手を伸ばせばとれるような私でありたいです。

私は

 私は、今日あらためて近くのいつも優しい方とじっくり話をして、一つの答えを出しました。

それが間違っていたとしても、後悔(また公開)になったとしても、間違った私のことは私が受け取ればいいだけのことです。

ただやましいこと、人目につかないでいてほしいこと、後ろめたいこと、法に触れること、悪事など、それはそれを続けてきた人が受け取ればいいだけのことです。


きっと自らの言動は自らが覚悟をもってしているのだろうから、私も(私はやましいことはありませんが)私以外の人も自らの責任をとれば問題ないでしょう。


出来るだけ早めに昨年から続く問題に決着をつけれるよう皆で話し合って、皆が喜べる結果を見ようと思います。

理解が

 皆の出勤の都合上、昨日と今日は休みをいただき、ゆっくりさせていただきました。明日から出勤が続くのでよく食べよく寝ることにします。

今日は少し用事があったので朝から家内を仕事に送って、帰りも家内を迎えに行けば、以前よりはましですが、また近くの優しくない同僚にやられて怒って帰ってきました。
私が人のことを言えないのですが、人は怒りや怨みにとらわれると随分視野も狭くなり、発言もきつくなります。ただ私が以前よくとらわれていた怒りや怨みに染まっていました。もう私自身や家内共付き合いが長くなってきましたから、家内の激しいものをさらりと受け流します。それが変な所へ行かないように、さらさらと流れていけばそのうち穏やかになります。

家内の近くにいる方が、常に自らの利益だけ考え、表面上のことだけを取り繕い、強いものにはなびき、弱いものにはいやらしいことばかりするのか、その意味がわからないとずっと悩んでいます。

私は家内と違いますから、対抗していきますが、家内はまだ自分の仕事でのスタイルを確立していないから、悩み怒りその方の理不尽さや根性が悪いことばかりなことを怨んでいます。

悪人に悪は成しやすく、善人に悪は成し難い。

善人に善は成しやすく、悪人に善は成し難い。



「なんで」と問いを発する家内に、その後にはこの説明がわかりやすいのですが、根性悪いことを続ける意味が分からないと悩まされる家内を見て、その方と同じ方向へ行っていないことを知り安心しました。

ただ何もできないので、家内と同じ時を過ごすことにします。

 昨晩は中学生になる長男と次男の中間テストの結果を持って帰って来た日でした。
二人共日頃の成果が出て、それはもう遊び呆けた成果がその結果に如実にあらわれるというわかりやすい成績表でした。短気で愚かな私は、日々あの子達に

「しっかり遊んでいいけど、その分勉強も真剣にやってね、遊ぶために計画を立てて勉強をして自らの中身を付けることをしなさい。
貴方たち今日はしっかり(ずっと遊んでいるけど)ちゃんと遊ぶための勉強はした?」

「うん、やった。」

日々欠かすことなくその問答を続けてきた結果、どこかに嘘があって、その嘘と信頼を裏切る分だけ、成績は惨憺たるもので、あの子達は自らの言動の結果と嘘と信頼を裏切る結果の帳尻をあわせるということが痛い思いと共にやってくる日となりました。

しばらくあの子達は万雷までいきませんが千の雷を(オヤジの必殺技であるものを)落とされ、その特典として期末テストまで一切の電化製品の禁止と、遊びに行くことを禁止と、日々勉強や読書の為だけに時間を費やせるというすばらしい時間の使い方を父親からのお達しがでたのでした。

「よかったね二人共、これからは言葉じゃなくて、日々の継続である行動をもって貴方の父と母に答えを示せば、遊ぶことも許可されるよ(期末テストが終わってからは確定だけどね)
安心して、約束を破って遊んだり電化製品などを触ってたら、期間が三倍に延長するから安心して遊んだり現実逃避するといいよ」

どうやら上の子二人は安心できたようです。

孤独や忍耐、継続的なあらかじめなされるべき努力、それは必ず自らを成長させるものです。


愚かな私はあの子達の頃何一つ意味が分かっておらず、わかる気もなかったのに、あの子達に必要以上にその意味を説き、自らを助けるためのものを、雷をもっておしつけるのです。

怨むなら愚かな父を恨めば問題なく、ただ自らの選択肢の幅を狭くしたいのであれば最低限の学力は確保しなければ損をすることになるということを力説する昨晩を落ち着いた今日ここへ書き記すのです。

善と悪

 近くに「揚げ足はいくらでもとりようがある」そんなことを教えてくれる方達がいます。仕事を沢山していれば誰にだってミスは出ます。加点方式であれば、仕事を沢山こなして数少ない悪くなることより数多い良いことがあるのであれば、問題にもならずそれは正当な評価につながります。
ただ成された正しいこと、良いことを一つもカウントすることなく、僅かな過失でさえカウントすれば、答えは決まっていて、仕事を人より少なく行い、また間違いにくいことだけ行えば、良いことや職場を支えたり、皆に貢献することさえなくても、していない人のマイナスの揚げ足は、仕事をたいしたことをしていないという追及さえ交わすことができれば、「揚げ足取りの達人」や「後出しジャンケンの達人」その結果、その方にはもれなく「根性(や意地が)が良くない人」という見えないけれどみえる称号が似合うようになります。

他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は見難いものである。実に人は他人のもろもろの過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らすけれども、自分の過失は覆いかくす。たとえば、ずる賢い博徒が不利なさいの目をかくすように。(法句二五二)
他人の過失を探し出し、常に苦情をいう者に、かれの汚れは増し加わる。かれは汚れの消滅から程遠い(法句二五四)
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



先日悪人の輪郭を描写する法句経を近くの人達と再度読み直しながら、善と悪またその捉え方、その判断基準、また自らが善と悪をどのように考えているか、その報いなどの話をしている時

「善の行為に比べれば、悪の行為の数が圧倒的に少ないのに、悪の影響力が強すぎる・・・」

そういつも私に優しい方が自らのこれまでと今の現状をみて教えてくれました。私なりの答えを出したところでその現状や影響力は何一つ変わらないのですが
「善とは、自らと周囲とこれからを助けるものであるから、大切なもので尊重されるもので喜ばれる。けれども悪は悪をなす人もその周囲をも甚大に被害を及ぼすという、生命や財産などの危機的状況をもたらすことが多いから、比率で悪が少なくても一つの悪事が相当な損傷を周囲に与えるから、同回数であればとんでもない現状になり、善10:悪1だとしてもかなりな被害がでるのだと思います。

更に周囲のことを考えてくれれば問題にならないのにといくら願っても、悪を行う人は自らの利益や損得を優先するから他を顧みることができない。馬の耳に念仏になることが多い。」

自らの責任だけで終われることばかりなら、誰もが放っておけば問題ありませんが、悪というのは他人の利益や名誉や持ち場や信頼を傷つけることばかりです。


他人のことでも本当に考えさせられ、自らの上に降りかかればとんでもない事態です。

いってらっしゃい

 仕事がお休みでしたが、家内は今日から仕事ですから朝から立哨当番へ夜更かしの代償として眠い目をこすりつつ向かい、小学生や中学生に「いってらっしゃい」と見送ってきました。うっかりした子は「上履きを忘れた」なんて学校と反対へ戻る子もいたり、遠くからうちの「けいくん」も照れながらきて、「いってらっしゃい」そう見送って、夜更かしの多い私と違って皆早くから真面目に学校へ行く子達ばかりで安心しました。どうも私が一番家族に夜更かしで規則正しくない生活だから心配されています。
私はその家族の心配をよそに、旗登板が終わってから皆出かければ、布団に潜り込み、ゴロゴロマッタリを満喫していました。ただ小心者の私は、何やら物音がするたびに「誰か家族がかえってきたんじゃないか」なんて「ビクッ」として起きてそのたびに見に起きていたなんてことは多分ないと言っておきます。
小学一年生の「けいくん」が帰ってきてからは、今までの遅れを取り戻すように、洗濯物を仕掛けて、洗い物をして、晩御飯を作って、家の中を片付けて、ほらこれで何もやましいことがない日だったと精一杯の言い訳をします。
ただ家内は食事を出した時に、綺麗になった周囲を見渡して

「子供達も全員大きくなって手がかからなくなっているし、随分ゆっくりできたんじゃない」

「そんなことないよ・・・
ちゃんとほら家の中も綺麗だし、買い物もいってきたし。散歩もいってきたし、洗濯も終わったし、晩御飯も作ってあるし、そんなことはないよ」

どうやら私の所業は見られていないのにばれているようです。悪いことはしていませんが、ゴロゴロマッタリはばれているようです。


私はここに宣言するのです!

「わかっちゃいるけど、やめられない」



(次の休みはもうちょっとまともにやることにします)

尊敬を受けるに値するとは

 どの職業でも一流であれば、その方はどなたでも尊敬や供養を受けるに値する方として世に生きる方は認識し、時に財や身体的努力や惜しみない信頼を与えてやまない方もおられます。

今日のジャンルは仏教関係ですから、他の職業の方は(失礼を承知で)ひとまず横に置き、仏教における言葉を現実において縦横無尽に法を説くことができる仏教者つまりは僧侶(お坊さんと呼ばれる方)のことになります。

三八七 日は昼間輝き、月は夜照らし、戦士は甲冑を身に着けて輝き、聖職者は瞑想して輝く。目覚めた者は威光によって昼夜いつでも輝く。

三八一 たとえ年若くても、目ざめた者(=ブッダ)の教えに励む托鉢者は、この世の中を照す。あたかも雲から出た月のように。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



一般の方が自らの財施(金銭による施し)を惜しまないことの代償として、仏教者(宗教者)は自らの獲得した真理(智慧)を隠すことなく余すことなく(聖者に握拳なし)、眼前にいる方が「たくましく生きるために」また「よりよく生きるために」さらには「美しくいきるために」そのための真理を財施の対価として出すことが決まっています。

これによって財施=法施が両立することとなり、双方が美しい関係として生きていくというあたりまえのことですが成されていくのです。

世の中において、あたりまえのことをどれだけ深く広く高く、どこまでも貫いていけるか、善い意味での底無しであれば、その底の深さだけ真理の高さが出現することになります。


私は夜空に浮かぶ女性の美しい細い眉のような月を見て、手を伸ばすのです。


あの高みに手を伸ばし続けるのです。

輪郭

「何が善悪の判断基準なのか」
ずっと以前にそんなことを問われたことがあります。それに対して曖昧な返事、いや不正確な返事をして後悔した思い出があります。
有名な過去の仏教者ならば「十善戒にかなえば善となり、そむけば悪となる」のような短い答えを出されています。

不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。
不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。
不邪見(ふじゃけん) 誤った見解を持たない。



「自らと他者を害することが悪」だと、そう最近であれば考えます。ただ細かいことや小さい問題であれば判断は善悪のどちらかに属さなければいけないなんて極端にとらわれる必要もないことです。

一  もろもろの物事(法)は意(こころ)が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人はもし汚れた意で語り、あるいは汚れた意で行うならば、それより、かれに苦悩のしたがい来ること、あたかも車輪が索獣の足にしたがうようなものである。

二  もろもろの物事(法)は意(こころ)が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人はもしも清らかな意で語り、あるいは行うならば、それより、かれに楽しさのしたがい来ること、あたかも影が形に絶えずつきしたがうようなものである。

一一 真実ならざることを真実と認め、真実を真実ならざることと認める者たちは、真実を知らず、虚妄の思惟に住する。

一二 真実を真実と認め、真実ならざることを真実ならざることと認める者たちは、真実を知って、正しい思惟に住する。

六二 愚か者は、「わたくしに子供たちがある。わたくしに財産がある」と悩まされる。自分すら自分のものでない。どうして子供が自分のものであり、どうして財産が自分のものであるか?

六三 誰でも自分が愚かであると考える愚か者は、その限りではまた賢いものである。しかるに自分が賢い者であると考える愚か者はまさしく愚か者だといわれる。

六四 愚か者は、たとえ一生の間賢い者に仕えても、かれは真理をしらない。あたかもスプーンがスープの味をしらないように。

六六 無知な愚か者たちは自分を敵として振舞い、悪しき行為をなしながら、渋みのある結果をもたらす。

六七 なしてしまってから自責の念にかられ、その者が顔に涙し、泣きながら報いをうけるような、そのような行為は立派になされたものではない。

六九 悪が成熟しない間は、愚か者は悪を善のようなものであると考えている。しかるに悪が成熟している場合、その時、愚かな者は不幸な目にめぐりあう。

七一 なされた悪は、あたかも牛乳が突如として固まることがないように、灰に覆われた火のように燻りながら愚か者にしたがう。

七二 愚か者の思慮が他人の不利益のために生ずる限り、愚か者はその輝かしい自己の運命を損ない、かれの頭(こうべ)をうち砕く。

一一九 悪が熟さないかぎり、たとえ悪者といえども楽しみを経験する。しかるに、悪が熟するや、そのとき悪しき者は、もろもろの悪を経験する。

一二一 「わたしについにそれ(悪の結末)はやって来ないだろう」と、悪を軽く見てはならない。水滴が落ちて水がめを満たすように愚か者は少しずつ悪を積みながら、悪でいっぱいになる。

一二五 人は、正しい者、清らかにして汚れなき者を損なえば、悪の報いはほかならぬ愚者に返る。あたかも向い風に投げた細かい塵のように。

一二七 空でも、海のまんなかでも山々の洞穴に入っても、この世界の場所で人が悪の行いから逃れるところは何処にも存していない。

一六一 己によってなされた悪は己より生じ、己より生じたものである。それはあたかも金剛石が宝石を砕くように愚か者を粉砕する。

一六三 もろもろの好ましからず、また自身のためにならぬことどもは行い易いものである。自身の利益になり、しかも好ましいことは行い難い。

二四〇 鉄よりのみ生じた錆が、鉄より生じて鉄を損なうように、罪をなす者たちは自身の成した行為のために地獄に導かれる。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



幾つか引用するつもりが、引用しすぎましたが、私自身痛い言葉ばかりです。特に愚か者の章は私にとって激しく痛い言葉です。
輪郭を作るお経の言葉を幾つか引用するつもりが違う方向の輪郭をえがいてしまいましたが、それはそれで今日はよしとします。