まっしろ

 朝起きれば家内が「お父さん、雪が沢山積もってるよ、気を付けて」バイクですから寒くないように出勤するように支度をして外に出れば、道路にも雪が珍しいほどに積もって、まだ雪が降っていました。
この辺りで道路に雪が積もるなんて年に一回あるかないかでしたが、今年は大寒波の影響か珍しく雪が降っています。今日は中学校から家内の携帯にメールで自主待機でも大丈夫とか、つまりは雪が積もって自転車での転倒による怪我や事故になることを恐れての連絡が来ているほどでした。普段降らない地域に積雪があれば自動車も自転車も混乱が生じるだけのことです。

原付でゆっくり職場へ、途中凍って危ないところもあり、「これはこけたら洒落にならないな」なんて思いながら慎重に運転して無事につきました。それからしばらくまだ雪が降り続いていたので心配しましたが、昼にはお日様が照り、日の当たるところはほとんど溶かしてくれました。仕事が終わって帰りの道路は何の心配もなく、普段通りに帰宅しました。

自らのとんでもない行動によって、普通にできない時に、普通にしている人は大物か何と形容していいかわからない人だとしか言えない日でした。問題のすり替え、現実逃避、過去と現実を正しく判断しない、反省・謝罪・改善などの言葉はどこにも見当たらない、その徹底ぶりを目の当たりにすれば言葉が消え失せてしまう光景なんてそれほどみたくないことです。

雪によって景色が真っ白で美しいことと、善いものが何一つ感じられることがなければ、それはある意味「まっしろ」です。冬が終われば春となるなんて、四季のある日本の良いたとえです。


ただ、世界は広く常夏もあり、常冬もあり、それは人間でも同様なことだってあるのではないかと、あの真っ白な雪景色をみて何かを思う日です。

またいつもの

 仕事のお休み、珍しくずっと寝ているわけでもなくそれなりの時間に起きて、洗濯を全部済ませ干して、家の中を片付け、買い物へ行き、末っ子の友達が遊びに来ていたので二人が仲良く時には口論になりながらも楽しく遊ぶことをみながら晩御飯を用意しました。

何やら家内がおでんを作ってほしいのか、そんな感じの冷蔵庫の中身で、不足で欲しいものだけ買って、おでんを鍋に二杯作り、子供達にたんと召し上がれ、仕事から帰ってきた家内にも同じように、平日の休みは主夫のようになっています。明日は仕事です。今年は冷え込む日が多く雪をよく見かけます。

私もそうですが人は欲があって、その欲はよいものばかりでもなく、欲が邪魔になるほど出すぎたり、欲によって身を焼かれるほどのものが生じたり、ほどほどでいいと思うときは問題ないです。
欲張りすぎていることに気づかないほど、あまりよくない欲を持ちすぎていることに慣れてしまえば恐ろしいことになることもあります。

いずれにしても、大人は最低限の自己管理をしなければいけませんから、何事もほどほどです。それはともかく、冬のおでんは温かくて最高です。

連日

 珍しく会話になって、相変わらずだったのにも関わらず、私は変わっていないことに怒っていたのか、変わらず言われることに怒っていたのか、いずれにしてもしばらく怒っていました。

いつもの如く聞いてくれる方がいて、本当に有難いことです。もし誰も聞いてくれなければ私はその辺りの空気に怒っていたり、やけになったり、ハチャメチャなことをしでかしたり、深酒をしてとんでもないことをしでかしたりしてしまうことも十分考えられます。
何気ない日常にこそ、何気ない会話にこそ、普段の付き合いの大切さの有難さがそれによって知らされ、何に対して感謝すべきか皮肉なこともあるものです。

皮肉なことに感謝して、有難いことに感謝して、いつもに感謝して、その感謝をしなければいけないのではなく、勝手に感謝せざるを得ないことを言動によって私に自然にしてくれる方に随分考えさせられます。悪くないのに良いこととは思いにくいが、大切なことには気づかされる。

明日はお休みをいただいていますから、それなりに用事をして気が付けば何もせず一日が終わりであったということのないように、早めに(理想は)寝ることにします。

二月三日(節分)

教育を次のように定義した。人の知恵は決して的はずれではない。「教育とは学校で学んだことをすべて忘れた後に残っているところのものである」 アインシュタイン (昭文社 世界金言名言辞典より)



普段思い描くことと、現実に起こる時の対処は随分変わります。冒頭の引用にあるように、学校で学んだものが全て役に立たないはず(的はずれで)はなく、忘れられないこと・何よりも大切に思えること・役に立つこともあります。
人が生きていれば、学ぶ場は限定されず、あらゆる場所で学びが存在することも事実です。それは生きた智慧とよばれる生活の知恵もあり、中には役に立たないことが役に立つ智慧というものもあり楽しいところです。

本日は節分、真言宗寺院では星祭り(星供養とも呼ばれます)が執り行われ、一年の無事(息災)を願います。一般的には節分には豆まきです。我が家も子供達に元気よく毎年豆をまいてもらっていますから今年もお願いすることにします。
豆をまいて、その後に豆をみんなで食べて、「意外と美味しいね」とか「食べ出したらとまらないね」とか、歳の数だけ食べれないとかいう年配の方もいるという日です。

日々忘れないようにと何かをここへ記しています。私はそのほとんどを忘れています。同じ人間が書いているのだから忘れれば同じことを書いてしまうことばかりです。


あの子(子供)達に、学校で習ったことを忘れた後に、どんなことを覚えていてそれが彼らの人生の中でどのようになるものか


あの子達とのこれからのこと(時間)をどのようなものにするかなんて考えさせられる文章でした。

いつもの

 よくあるパターンになり、お酒を一人で飲んでいると寝るタイミングを逃し、気が付けばお酒と趣味に没頭して、朝三時過ぎまで・・・。
朝から家内にその痛い現実を指摘され、早めに今日は就寝することにします。明日は節分、行事もありますから万全にしておかなければいけません

長男のお試しの難しい試験も無事合格しており、本番はまだ先ですがささやかにお祝いをして、あっという間に夜が更けました。昨晩の睡眠不足とお酒が残っているのか、ただの自業自得なのですが少し体もだるいです。
色々なことが日々あり、流せることと流せないことと、ふれれることと、ふれれないこと、普通でいられること、普通でいられないこと、うろたえはしませんでしたが、どれもが混在して困りました。明日はもう少しましな日であるように頑張ろうと思います。

読み進めたいと思う本にも進まず、今まで読みかけていたものを少し進めただけで、こちらもまた考えをあらためなければいけません。ここも何も進まないとさっぱりさっぱりです。

あれこれと思うことはありますが、もう寝ることにします。

波風

 朝から雨が降りバイクでの通勤が少しだけ気になりますが、幸いにもパラパラでしたからそれほど濡れずに済みました。二月に入り雪ではなく雨が降るということは割と冷え込みが厳しい寒い日ではありませんでした。そういってもやはり冬ですから外に出れば寒いことに変わりはないです。

私自身のことでいろいろとお手間をかけて、申し訳ないことです。ただ結果としては善いことになって本当に有難いことです。誰かの役に立つということは私には難しいことです。誰かが助けてくれるということはさらに有り難いです。

何年か読み続けている書物のシリーズがようやく今日終わりました。まだ他に読みかけている書物が何冊かありますがそれと並行してまた新たな書物を進めていこうと思います。読む前から楽しみです。何にするかは明日相談するとして、大体の目星はつけてあります。

今日は家内も昨日より落ち着いていて、安心しました。仕事で特に人間関係での悩みは難しいものですから、仏教的なものをおしつけれませんが、仏教の苦しみの超克は「現実を何ら変えることなく、ただ己のこころをおさめることによって、今までが苦しみであったことが苦しみとならない己とする」全てがそれで乗り切れるとは私は言いませんし、思いません。けれど現実が何も変わらなくても笑ったり苦しみが苦しみにならないことが増えれば、以前より随分笑うことができることは確かです。

周囲の波風に左右されやすい私ですが、一緒にかそれ以上に自らのこころが大きな波風がたち立っていられないよりか、周囲が波風だとしても自らの心が静まっていれば、以前とは違った対処や行動や考えが出てくることも確かです。

まあ、家内にそんな仏教おしをしても敬遠されそうなので、ほどほどにしています。




立っていられないのなら、座ったらいいのです。




それでもだめだと思うなら、這いつくばるか寝転ぶしか、先に逃げるかですか・・・

 一番遅くに部活から次男が「お父さん、8時30分過ぎから月蝕があるよ」なんて興奮して帰ってきました。
「晩御飯もう食べれるよ、月蝕の時間までまだ時間はあるから、それまでに全部終わるから済ませときなさい」
そう言いながら晩御飯を用意して、お腹一杯食べていると月蝕のことを忘れ、お風呂を催促しても満腹になってせかさないでと言う始末。お腹一杯に皆が食べれればそれだけで本当しあわせです。今日の晩御飯は、出汁から鳥でとって、お肉もコスパの高い鶏肉をいれた鍋、今日もお休みをいただいていましたから家事・晩ご飯も私が担当です。
お代わりを何度もしてくれるのを見ると、それは作ったかいがあり、美味しかったとその後に教えてくれれば言うことはないです。家族四人だから日々の食事におけるコストは大事で、収入に限りがありますから、どこも一緒ですが支出は考えなければいけません。

これもまたどこも同じですが、同じお金を使ってもできるだけ皆が満足のいく使い方を心掛けていきたいです。もちろんそればかりでは子供達も家内も当然私も息詰まりますので、ときに贅沢はと思いますが、そのためにお盆や正月やお祭り、記念日などがあって、本当昔の人たちはよく考えたものだと感心させられます。

月蝕が始まる前に家内から散歩に誘われたので、今日は一緒に歩いてきました。他愛もないことを話して、報告や相談をして、何がどうなるかという話ではありませんが、そんな時間が二人の距離を近づけるように感じます。
散歩が終わる頃、夜空に浮かぶまるいお月様をみると、部分的にかげりはじめ、帰って子供達に報告して一緒にみながら、それから定期的に月蝕をみました。
今であれば何ともないでしょうが、昔の人たちはその原理がわからないときはいろいろなことを想像したように思います。不幸の前触れとかいう話もよくききますが、パスカルが残している言葉に

「不幸もしあわせも、いつもその辺りにあふれているけれど、自然の減少に不幸をあてはめればあるたびに不幸が訪れるようにおもうから、しあわせも同じようにいつもあるのだから同じかそれ以上にあてはめれば、悲嘆などにくれることもないのに」

なんていうことがのっていました。正確な文章はまたあとで本から乗せなおしておくことにします。いつも迷いも悲しみもさとりもしあわせも自らのこころにあって、何よりも近いからこころに流されず、こころから最適なよいものをいつだってとれるようにと願う夜です。

ここのとこ

 真面目な方とよくお会いして、こちらも最低でも同じかそれ以上に真面目にならなければとなり、自然と真剣な話となり場となり、終わってもいろいろと考えさせられます。

同一のものをみて、善とみるか悪とみるか

同一のものをみて、薬とみるか毒とみるか

同じ方と話して、自らが善いことをするか悪いことをするか



同じことへ接しても人が違えば極端に表現すれば、それほどの差が出現して周囲が楽となるか苦となるかも付随して来ることがあります。

しあわせ・善・よいことを願いすぎても現実との差が、自らが都合よく思い願う分以上に潰されそうになり、かといって反対をみれば周囲も世の中も自らですら暗黒に塗りこめてしまいそうになり、それは両極端の私が出現していることで、あるがままにあれば問題が無くなることを迷いゆがめ、逆さまにみて(転倒)いて、その分必要以上に悩み苦しみ迷う私がそこにいます。

そこにいて、その場で必死にタネをまこうと、もがいて何かをしようとして実際それが何になるのかと迷いながらもがくのです。悪いタネはどなたも蒔きたくないです。

けれど、迷い酒も飲んでいないのに酔っており、知恵を正しく使うことなく、物事を逆さまに見て、事実とは違うことを言えば自らが刈り取(受けと)らなければいけないものが出現して消えることがなく、さらにそれを否定してその事実とは違う嘘を言えば、雪を転がしていくかのように肥大化して、人間関係が冷たいどころではないものへ変わっていきます。

よいものは受け取りやすく、わるいものはどなたもが受け取りがたく、自分でもそうなのに関係ない方ならなおのことです。



私にとって、簡単なことが一番難しいと思う日です。

かなり苦しい言い訳

 予定通りお休みをいただき、これもまた家内の期待を裏切らずよく睡眠をとり、気が付けば夕方となり、家の中のことも全く手つかずでしたから、あせって洗濯物をしかけ、買い物へ出かけ、無くなりかけたお米を精米して、通勤に使う原付へガソリンを入れ、子供達に家事を分担して手伝ってもらう間に、無事に晩御飯を作ることができ、かぼちゃシチューをお腹いっぱい食べると、なぜか眠たくなりました。

作るメニューが同じものが多いというツッコミはともかく、冬は温かいものを美味しく皆で食べれればそれは御馳走だと私は思います。
まだ周囲ではインフルエンザが猛威をふるい、家族がかからないか日々心配します。今のところ皆大丈夫なのでこのまま春になってくれればいいのです。
気がつけばお正月も終わり、二月も近づいています。いろんなことが移り変わるなか、変わらないように努めていくことは善いことも悪いことも普通のことも行われており、悪いことを悪いまま変わらず行い努めていくことをみれば、いろいろなことを考えさせられます。

善悪の概念、これは当人にとって普通の概念がどうなのかということと何ら変わらないものです。

誰かにとって善としてか思われないことが普通であるか、悪としか思えないことが普通であるか、その方の自由ですが周囲にいる方はどちらも影響があるのは確かです。

いずれにしても私は私なりの一日が過ぎています。悪いことをするくらいなら寝ていたほうがましということもあるので今日はよく寝ましたという言い訳をしておきます。

 相対する方から出てくる素晴らしいものが何かと落ち着いて考えさせられる。
みて・聞いて清らかなものが何であるか、それは鏡のようなものである。
その方をあらわすものが言葉・行動などとして出現する。
さて、どちらがどちらを映しているかは、無限遡及に陥ることもあるので、鏡のようなものだとだけいう。

正しいものをうつせば、正しいとなる。
美しいものをうつせば、美しいとなる。
悪いものをうつせば、悪いものがうつることになる。

よいことは例えやすく、言葉や態度に出しても差支えがあまりない。

悪いことは例えにくく、言葉や態度に出せばとんでもないことになる。
どうだろうか悪いこと(もの)がうつり、悪くないと言えばうそになり、悪いものが無いと言ってもうそになる。
この時本当のことを言えば優しいのかもしれないが、めにうつる悪いことを口に出さなければいけないことになる。

他者から自らの欠点(短所)や悪いところ(なおすべきところ)を言われて、感謝と見る方はできた方である。
私は感謝とみれず、怨みや激しい感情をぶつけてしまい、
さらに問題を悪化させ激しい痛い言葉や現状が容赦なく私だけでなく関係者の上に覆いかぶさってくる。

私が混乱させ煩雑にしながらでいて残るもの

 今日も有難いことに一日が無事に過ぎ、帰って家内や子供達と何でもない時間を過ごし、にぎやかになれば私は相変わらず贅沢なことを言います。「静かにしなさい」一人でいても彼らが元気がなく病気になっても、そんな言葉はでてくることなんてほとんどなく、反対に「賑やかにしなさい」と他人に言うことも出番がそれほどもなく、当然改まって自分にそうお願いすることもまれです。

最近は表面上落ち着いているかの如く振舞うことが多いです。現状はそれほど変わらず問題は問題で解決の道はいまだでてきておりません。ただ随分いろんなことを考えさせられ、同じものをみて違う風景をみています。字・文・言葉も同じようでいて違うものを見ることも増えてきたように感じます。

理解と願い、思ってもいないことと現実

知らないから行うことと勝手に私が思い込み、知ればそんないけないこと悪いことは行うはずがないという私の勝手な思い込み、その身勝手な思い込みだけ私が私の無知の大きさの反動を受け取らざるを得ません。

知らされながらもとんでもないことを知らないふりをして行うということだってあるということが思いつかない私のあさはかなことは時に大問題となります。私が思う問題はその時々私の内的なことによって随分変化して、以前は簡単なことが今は難しく、その逆も往々にしてあり、私ではない方が簡単なことが難しくその逆もまた然りです。

最近のお気に入りは、世間の定番でしょうけれど夏目漱石先生の書をみて深く感心させられ、考えさせられ、笑って、いろいろなことをその文の上にみます。しばらくそれは続くように思います。平行してというかおろそかにならないよう仏教書もすすめています。

早めに

 寒波によって一昨日から冷え込み、暖房のきいた部屋から出ると凍りそうなほどです。床も空気も風も普段より随分触れれば体温を急速に奪われ、活動も冷え込んでしまいます。仕事が終わり、温めるためにという口実でお酒を飲んで心も体も温まり、子供達と賑やかにしていました。

明日は家内が保険と試験になれるめにと長男の高校入試が受けます。ちっとも私に似なかったあの子は賢く勉強も続けていますから、不慮の何かがない限り問題は少ないです。本番は三月に行われる予定でそれもあの子はよっぽどのことがない限り問題はないでしょう。問題は後二年後の次男とその次は三男とまあ私が問題でしょう。

家内の父が入院していましたが、無事手術も終わりました。ひとまず安心です。生きていればどこでもいろいろとあり、寒いことも温かいことも、悲しいこと、つらいこと、怨み、怒りなど問題は山のよう・・・
難しいことは考えず趣味に没頭していればそれはそれで、ただ明日の仕事に集中するとします。身体が不調の方・病の方はどうかお身体はご自愛くださり、回復するよう願っています。

 いろいろ話をして、課題がみえる日となり、少しずつ中身はつけていかねば帳尻があわず、急ぎにも間に合わず、根拠が失われていくことになります。

ただの一語に莫大なエネルギーが注がれ高く広く深く果てしない意味を持つものにたいして、私はずっと上っ面の意味さえ理解することができず、時には「理解しています」などと虚栄心ならまだよいものですが、嘘になっていたことばかりです。
感情と怠惰と愚かさと慢心と錯覚(転倒)は私の専売特許でいくら消そうとしても常に持ち続け、実際嘘がないようにと帳尻をあわ背が大変どころではないことです。

自分自身の思いや理解に目を奪われるのではなく、本質を常に見失うことなく、今まで通り過ぎていたことが通り過ぎず、あたりまえのそこが抜けるかのように、時にはそこに深く深く何よりも深いものをみていきたいです。

勘違いも愚かさも慢心も虚勢も、後になって帳尻をあわせることが成長と呼べるのなら大肯定でもよしだと言い訳をします。それはまた見苦しいものですが、笑えて、泣けて、深くをみて、高く高く何よりも高いものをみて、青空よりも透き通るものをみて、結局私は私をみています。

時には誰よりも何よりも浅いものでもいいですが、誰よりも何よりも深くがなければ、ある意味底なしです。

「誹謗・中傷・称賛の中にあって、われを見失わず」


誰よりも動いているようにみえても、私自身が誰よりも動いていない根拠があればよいだけのことなんて思う夜です。

その時ではなく

 いつだって「信じる」という重要不可欠なことは存在しており、ただ丸投げや責任をすべて、自分はお任せして責めるだけと、「信じる」とは当然違います。

手前勝手にやりとおす信念を持つこと、信じるということ、外からつまりは借り物の強さより、内から出る強さのほうが圧倒的で、物事をやりとおすつもりならば、誰かではなく内から圧倒的な強さを抱き続けやりとおす、言葉に説得力や深みはそこからしか生まれにくいと私は思います。

問題になる前からのやりとりなどで物事の優劣は既に終わっていて、いざでは時すでに遅いことが多く、予測も計算も当てもはずれ、間に合わないことばかりで、うろたえ慌てふためき、誰かをたよらざるをえなくなり、さらに悪循環となることも多く、その時ではなくその割と前から逃さないように心がけるようにしています。

何か言えば損をする発言になることが多いです。本当なら見捨てて何も言わなければ私は損をしないでしょう。極論へすぐいかないように、しっかり把握して問題を問題として正しく向き合うこと、自分だけでわかったようにならず普段から話し合って自分の言っていることが一人での理解になっていないか他愛もない身近な話の中で一つずつ確かめていき、急ぎに間に合うようにと思います。

「(誰か達)あてにしていて、何もなければ自分はその問題をどう一人で終わらせるのか」



私は誰よりもムキになることにしています。火より熱いものを胸の内からだしてみせるしかないことです。

忘れないときだけ

 昨日の反省を生かし、ただ家内は忘れやすい私に皆が困るので、机の上に今日やらなければいけないことを箇条書きにしてメモを残してくれていました。

朝起きてゴミ出しに始まり、それから洗濯物を何回か洗って、布団などを干し、図書館から借りてきた本を返し、インフルエンザなどの予防に使うマスクがきれていたので購入し、晩御飯もちゃんと用意、洗濯物をたたみ、散髪もしてそれなりに用事を片付けました。

言われただけなら誰もができることです。そういってもやる気があまりない私は言われただけをこなして終わりという休日となりました。家内から私へ向けられる目はまあ可もなく不可もなくといったところでしょう。彼女の私に対する期待は雲より高い気がします。
その中、趣味の時間やゴロゴロしている時間がやっぱり入っていますから、休日はそれはそれで有難いものです。明日からいつものように仕事が始まるので、しっかりとやっていきたいです。

長男は今年がというかこの春高校の入試で受験生です。あの子は随分と日頃からそれなりに努力していたようですから、私が高校受験するときとは別物です。彼の今までの頑張りを認め、さらなる飛躍を親ですから期待しています。
次男坊はまだ中学へ入って一年ですが、学力はこれから二年かけて頑張らないと少し厳しいかもしれません。その分部活ではそれなりに活躍できていますが、それなりならスポーツで推薦もきませんから、学力のことも今から準備しないと困ることになるでsしょう。もっともまったりゆったりしている「けいくん(三男坊)」も両親が気を抜くと、すぐに一緒になってまったりゆったりしていますから、少し心配です。そんなことを言いながらまったりとした日常が過ぎています。

いろいろとまだあります。

それはそれ来月どうなるか、来月になってみないとそれはわからないことですから、必要以上にあれこれと神経質になるのはやめにして、明日のためにゴミステーションへ燃えないゴミを捨てにいってきます。

ゴミ捨てに始まりゴミ捨てに終わる一日です。