ある人をみて、考える生き物である人間であれば、そこに何かを考える。

ある人が嘘を言えば、それが本当のことなのか嘘であるか、そう考える。

真実ではなく嘘(虚言)であれば、考える人はなぜその人は嘘を言わなければいけないのか考える。

この世に生きる人たちが、人間的完成(覚り)へ向かうために自らがどうなってもいいから嘘を言っているのであれば、嘘も方便であって、その方の嘘は嘘とならない。

ただ、皆が善くなるではなく、自らだけが不正に利益を得ようとつまりは嘘をつくといった手段を択ばず、嘘をついているのであれば、何故そんな誰もが採用しないことを採用するのか考えさせられる。そこには明確な原因が精査すれば出てくるだろう。

善い行いばかりしていれば、嘘を言う必要もない。今までしてきた本当のことを言えばいい。皆が信じてくれるだろう。

皆を嘘を言って信じさせ、利益だけを自らが手放したくない。手段は択ばない。周囲は考えさせられる。


嘘には人間的完成(さとり)へその方を向かわせるためについていいことと、誰もが聞いて可愛らしく許せる嘘がある。

一人の社会に生きる人間として、大人として、ついてはいけない嘘は明確に存在している。


自分自身・自らをとりまく現実・自らが行い続けてきた誰にも消すことができない過去から目を背け、さらに嘘を言い続ける方がいる。

何もわかっていない理解できない愚か者ばかりではない、世に生きる人は理解している。


自らの結末は自らどのようにするのかを誰もがみている。
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