理解する

 ここのところ真剣にする話を思い返してみると、気が付けば
「他者を完全に理解するということは難しいというより、自らのことですら理解できないことばかりであるのに他者であればなおさら理解することはできない」
なんて言った後に
「どうせ理解できないのならば、自らと何がどこまでどのように深さも幅も何もかもが違うのか、それを楽しめたら理解できないと悩むこともどこかへ行ってしまっていて『どうして理解してくれないのか』とか『理解しようとしないことが意味がわからない』とかで、理解しあえないことを対立やそれ以上の負の感情へ発展させるより、自らの理解と視点・深さ・幅・広さ・高さなどの違いに感心し、そう思えなければ、自らとの違いにどれだけ笑って楽しめるかのほうが随分楽になれます。」
なんてことを最近気が付けば話しているということを近くに伝えると、ふっとあることに気が付かされたのです。
(頼まれなくても一人で喋っていますからいつものように調子に乗って)
「私は理解したいと願い、けれど自らですら理解できないことが多いことに気が付き、他者であればなおさら難しいことが多いことに気が付き、けれど私はその誰かと一緒に楽しく痛いから、『理解できても楽しくいたい』『理解できなくても楽しくいたい』けれど、どれだけ願っても相手との理解の差が笑える人と、どうやっても笑えない人だって存在するから、私は嘆いているんだね・・・
私は理解よりも、「楽しく相手と過ごしていたい」そう言っていたんだね。

真剣に誰かに何かを伝えようとすると、その思いに呼応する方も存在し、回数が増えていけばそこに私の傾向や願い、現状の理解の程度、伝えたいこと、何を追い求めているかを自らが気が付いていないのに必死に伝えようとする私を今日はみるのです。

ただそれは愚かな私にぴったり寄り添い、勘違い・思い違い・現状の理解・学びの程度に従い、本当に恥ずかしくなることが多々あって、それを消せる消しゴムがあれば消したいし、できることならそれは忘れてほしいなんて思います。

時折そんなことを理解する方が現れ、揚げ足取るのでもなく、失敗を笑うのでもなく、ただ理解しているのでもないけれど、理解したいと努める方もおられ、理解よりもただ優しく接し続けられる方もおられ、恥ずかしいことよりも涙がでそうになるほど理解ということが身に染みてきます。

身勝手な私の夜は老けていくのです。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿