比喩と象徴

 (私にとって)まったりとしているけれど、仕事はそれなりに忙しい日となって一日が無事に過ぎたことが有難いと思える日でした。

目にはみえない何かを言葉(話すこと)によって、みえていないけれど一緒にみるように、私をみるというより言葉によってあらわしていく世界、何かが真理であればそれを言葉であらわすことは私にとって無謀ともいえることです。そこで何かを何かに変えていく作業を比喩といい、何かを目に見える形としてあらわすことを象徴化することいえます。

簡単に言えば地図記号でもあるように、神社を鳥居であらわす。これであれば地図を見ているけれど

「海の上に浮かぶ神秘的な鳥居、そうあの厳島神社のようなものですよ」

これもあの鳥居を知る人ならば普遍化している一つの象徴です。

では仏教を象徴するとなると、これはあまりにも雑多でそれでいて日本人にとって普遍化しすぎるあまり、多種多様なものによってあらわすことができます。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)

お寺で響く鐘やその妙なる心地よい音色


汚泥より生じ、その泥に何一つ染まらず咲く純白の蓮の花


全ての悪しきもの滅し燃やし尽くす炎をまとう憤怒尊の炎

一切の戯論(取るに足らない話や議論)を断ち切る(智慧の)剣

正しきことを知らしむるために落ちる雷(稲妻)

不当な落雷を防ぐことのできる自らを守る絶対障壁

年齢に関係なく(幼子から老人)愛され許される慈悲の一端である「心配ないよ」という微笑み

大きなお寺にある、五重塔やお堂の建築が大いなる屋根と華麗なる荘厳は私達が生きている世界に遠い過去から果てのない未来まで貫いていく偉大な真理をあらわすために、象徴としてあるということ

本当に人より随分と遅く気付く愚かな私です。


意地っ張りでとらわれ迷う私は、意地を張り続けるのです。

私は私の信ずる狭く偏ったものでこの素晴らしい世界を除き続け、その果てしない世界と私の世界は同じものだなんて、根拠のないことを拙い言葉でそのあたりの空気に自由にえがいていくのです。

誰も理解してくれなくても、私は割とそれが楽しいです。



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