専業主婦であった家内が仕事に行きだし、私は平日が多めの休日ばかり、家内は暦通り土日祝日が休日ですから、たまに日が合うとしても予定がなかなか入ることばかりでした。
温泉好きな私としては、日帰り温泉入浴だけなら何百円かでいけるのにちっとも行けていません。私一人で行って「いいお湯だったよ」なんて、一人だけだと心から楽しめません。それにちょっと後で困ったことになるかもしれません。楽しく温泉の話をしていたら大抵次の言葉がでてきて

お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ



例えば私の悪い癖なども、温泉に入って治るかなとたずねてもですよ、「惚れた病」と同じ扱いをうけます。これは近くにもし根性や意地が悪い人がいれば、「連れて行ってくれ」と頼まれその次に「名湯なら治るんじゃないか」なんて発展もあります。

学びが疎かになっているので学生時代にみた本をじっくりと理解を再度進めていたところ

いま真言の法(のり)を行ずる人は、まさに次のことを知るべきである。すなわち、「一切の有情(よのひと)はいずれも如来蔵性(ほとけのさが)を含み有するがゆえに、みな無上菩提(こよなきさとり)に安住する任に堪えうるものである。さればこそ、二乗の法をもって得度(みちびき)してはならぬのである。
 そこで、『華厳経』にいわく、「一衆生として真如(まこと)の理(みち)と、それを証(さと)る智慧との本性、つまり如来蔵性を本より具有せざるはないのである。ただし妄想(まよい)と顛倒(さかさま)と執着とをもってのゆえに、それを証果(みにつ)けることができない。もしこの妄想(まよい)等を離るれば、始覚(はじめてのさとり)の一切智と本覚(もとよりのさとり)の自然智と始本不二の無礙智(とけあいのち)とを現前にすることができるのである。
現代語の十巻章と解説 栂尾祥雲訳著より抜粋



名湯に入れば、温泉に入る前には身体も綺麗に洗ってつかります。いい湯なら心の垢も落ちそうなほどだと思えることがあります。

さて私の心の垢であれば、私の心ですから自らが洗い流して落しせばいいです。誰かのとなると誰かの心をちょいとお借りして綺麗に洗って流して元に戻せば問題もないのでしょうけれど、人を解剖して「心がこれ」ですなんて話も聞いたことが無いです。私の心だって洗い流すことはかなり根気や努力や継続や善いことを続けなければ、綺麗に一瞬でというのは私だから余計に難しいのでしょうけれど、違う誰かとなれば問題はその比ではありません。
さらにその誰かが治す気もなく、もっと悪いことを大きく育てようとか更に他にも悪いことを拡大させようと願っていれば難しいなんて比べる話ではないこともあります。

さて何故あの引用であったか、どの書物の先生の名前は今忘れていますが(後で書物と名前を調べなおしておくことにします)

誰もが生まれ持った仏性そのものは成長と共に次第に失われていく、けれど元々持っている仏性を光り輝かせ(顕現させ)るために私達は子供よりよく動く身体と磨くことができる頭脳知恵が発達していく


言葉が正確ではありませんが、初めてその文をみて感動しました。幼子にみる眩しいほどの光は大きくな(成長す)るにつれ輝きが減っていきます。

始覚(はじめてのさとり)の一切智と本覚(もとよりのさとり)の自然智と始本不二の無礙智(とけあいのち)とを現前にすることができるのである。



もとよりのさとりは幼子では自らのとらわれやかたよりや知恵が邪魔をしないため、まばゆくひかってみえます。知恵ではなく(仏の)智慧に近づけば、浅知恵とならず悪知恵とならず、自らと他者を助ける智慧になる過程となり、当然初めは光っていても昼行燈のようで、あるのにないと認識すらされます。だから無理だと私の様に自らをみつめることをやめたり、安易な方へ逃げたり、誰かと何かのせいに長年にわたってする必要はないことです。


一つのものが二つになり、二つのものが一つに近づこうとする。

これが「生」と「生きること」と最終は万人が避けることのできない「死」です。




引用など堅い文章なんて使わない文にすれば



「いいお湯ですね、(身も心も)すっきりですよ」

まあこれくらいだという話です。




(本当温泉に入ってさっぱりしたいのです)
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