仕事が終わって、どうも家内は急遽残業になり、五人分の料理が完成、ちょうど子供達三人が食べ始めた時間に家内が「ごめんね」と帰ってきました。皆が無事で美味しくご飯が食べられたら問題がないです。

いろいろあって落ち着かないので、真っ暗な田園の道を40分程歩き、ただ時間がその時間だけ過ぎたというだけで相変わらずです。
立てていた予定はあっさりと私自身によって覆ってしまい、私に参りました・・・
困ったときに頼りなる自分自身でありたいのに、問題が大きくなれば誰かわからないけれどとにかく誰かを頼らざるをえない私をみて、笑うしかないです。

難しいことは抜きで、目前のこと一つ一つしっかりとこなすという基本にまた立ち返り、そのしっかりこなす時間があっという間に過ぎるようにしていきたいです。今日はいつにもましてぱっとしません。
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再度

 少し前のことです。いつも仲良い私と家内ですが、大抵大きな問題に発展する時は、普段無口な家内が少ない言葉ですが自らの品性を害うことを発言したときに、いさかいが起こります。これは結婚したばかりの若かりし頃や結婚して何年も経って私自身が私自身のことを気づいていない時は、大問題となることばかりでした。 

疾走する車輪を止めるように、まさに起こった怒りを〔制する〕者を、わたしは名づけて馭者という。その他の人びとは手綱を手にする〔にすぎない〕。(法句二二二)
ひとは怒ることなくして怒りに打ち勝ち、善によって不善に打ち勝ち、与えることによって物惜しみに打ち勝ち、真実をもって虚言に打ち勝つがよい。(法句二二三)
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著


先生の著作を目にしたとき、怒りにたいする解釈は途方もない衝撃を受けたことをはっきりと覚えています。

 怒れる者に対して怒りを返さないという態度は一応、倫理的なことがらに属する。ところが、まさに起った怒りをみずから制するというときには問題の場面は対人関係から自己自身との関係へと移り変わってくる。そこで説かれたのが法句二二三の詩句である。ここでは、もはや限りない自己との闘いが教えられている。みずからの怒りに打ち勝つことのできない者が、どうして他の者の怒りに耐えることができようか。みずから不善に打ち勝つことができずして、どうして他の者の不善を指弾(しだん)することができようか。みずから与えずして、どうして他の者が与えないのを非難することができようか。みずから真実を語らずに、どうして他の者に真実を語れと要求することができようか。このようにたたみかけてくるブッダのことばは、まことに厳しい。
前同 宮坂宥勝著


衝撃を受け感動したとしても、それが私に実行できるかというのは別のことです。怒りの中にあって怒りに染まり、怨みの中にあって怨みに染まり、悲しみの中にあって悲しみ、愚かさの中にあって愚かさそのものというのが私の基本的な過去からの現状で、皮肉ですが、まことに厳しいものです。

   一五 静安の章
 一九七 われわれは怨みをもつ者たちの間にあって怨みを抱かず、よく心やすらかに生きよう。われわれは怨みある者たちのあいだにあって、怨みを抱かずに生活しよう。 
 二〇六 高貴な人を見るのはよいことである。〔高貴な人と〕共に暮らすのは常に楽しい。愚か者を見なければ常に安楽となろう。
 二〇七 愚か者とともに道を行く者は長時に憂いがある。愚か者とともに暮らすことは、敵とともに〔暮らす〕ように、常に苦悩である。賢者は幸福に一緒に暮らす。たとえば、親族の会合のように。
 二〇八 賢く、智慧あり、広く学び、忍耐強く、礼儀正しく、高貴で、聡(さと)き人に従え。たとえば、月が天体の軌道に従うように。
前同 宮坂宥勝著


過去の私の現状からすれば幾分ましになったとはいえ

「誰が賢者で誰が愚者で、いったい私はどのようなものであるか」

この問いすら出る気配もなく、仮に出たとしても愚者を賢者とみたり、賢者を愚者とみて、愚か者の私を賢者と判断することばかりで、つまりは判断・思考が転倒し(逆さまにみ)ていることばかりです。

物事や誰か、つまりはあたりまえのものをあたりまえにみることができるかということは、私にとって最大の難問であり課題となっています。


次はよく聴くに徹するか、理解できていないことは理解できていないと真摯に告げるか、理解したふりをして賢者のふりをすることはやめなければいけないというだけのことです。

本当にあたりまえのことが私には重くのしかかるのです。

遠い月よりもはるか遠い・・・

 眉のような月が夕暮れの濃い青の空に浮かび上がるのを散歩している最中に見て、「あんなに美しい眉だといい」なんて言いながら家内と「けいくん」としばらく歩きました。

長男次男は中学生ですから今期末テストの真っ最中、明日もテストですから勉強しています。長男は心配する必要もないのですが、次男は私に似て勉強から逃げることに必死です。進路が狭くなるので普通と呼べるくらいになってほしいなんて親ですから思ってしまいます。
私自身進路のことについて、真剣に考えたことがない楽天家で、大人になれば次男坊でしたから遊んで家から遠く離れて暮らしていこうなんて漠然としたことしか考えたことがなく、そんなことくらいしか思いつかない頭でしたから、浮かぶ月であれば美しく思えるけれど、月よりも遠く、うっすらとも見えないくらい勉強と努力なんて遥か遠くのものでした。そんな私が次男坊へ何を偉そうに言うかなんて私の学生時代を知っていればツッコミが随分来そうです。

最近になってよく調べ物をしたり学ぶことをしていますが、本当にもったいないことをしたと思う気持ちの分だけ、次男坊に望む気持ちが強くなるので困った私です。もっとも一番困っているのは次男坊でしょうけれど。

明日の試験も頑張って欲しいです、試験というよりその前になされるべき努力を頑張ってもらいたいというのが私のおしつけてきな願いです。(本当困りましたね私にも)

まだ小学一年生の「けいくん」は楽しく子供らしく愛らしく日々を過ごしており、兄達から見ればそんな時代が羨ましいような目で見ています。それもまた私にもあの子達にも同じように確かにあった時間ですから、うらやむ必要もないことです。

あの子達が自らの現状やこれからについて、何を思い何を願い、そのために自らが何をすべきか

「人間は考える葦である」



孤独・矛盾・葛藤に揺れ、何を考え、何を願い、何にどれだけ手を伸ばすか

笑って

 六月二十七日 (火) 曇りのち雨

 気が付けば今日は姉の誕生日だと日にちを書いてみて気が付きました。もう郷里(親兄弟)を離れて、随分経ちますから、わかっていたとしてもよっぽどのことでなければ私は故郷の両親や兄弟と連絡はとっていません。それとは関係なく今日の仕事はよく進み、打ち合わせも順調で、よく笑いあえました。

ここのところいろいろあって辿り着いたことは、悪いことがあっても、それが一生懸命やっても変わらなくても、ふつうの時でも、良い時でも、いずれにしても考えるだけ考え、やれるだけのことはやって笑わなければいけないということです。

「後はどうなっても何があっても笑うしかないな」

そう何度も言いながら「私をしっかり何があっても守ってよ」なんてお願いしてみて、さらに笑って、本当に今日は笑いました。
変わらない(日々のやらなければいけないことを一つずつしっかりとこなしていくという)ことへ立ち返り、やはり泣いても笑って、怒りながらでも笑って、恨みながらでも笑って、しかたないと笑って、受け取られなくても笑って、何一つ変わらなくても笑って、本当に笑うしかないです。

いろいろあるから、今日のように何も取り巻く現状は変わっていなくても笑える日もあります。

明日も休みをいただいています。ただ子供達は期末試験に入るようで午前中で終わり、お昼を用意して待っていることにします。

言い訳

 昨晩早めに寝ようとしたのですが、その時気にしてもしょうがなく寝たほうがベストなのに、寝ようとすればするほど気になることが気になりすぎて、なかなか寝付けない日でした。
おかげで、今日の休みはあっという間に正午近く、気持ちだけ慌てて洗濯ものを仕掛け、家内に頼まれていたことを最低限こなし、ある程度が終わり、何かから逃げるように外に出て、トマトの枝の剪定をしてみたり、その辺りに生えている雑草を抜き、帰宅した子供達に指示をして、自転車を次男から借りて走らせ近くの地産地消の野菜を買わずに見ただけで、スーパーへ行き必要なものだけ買って帰りました。
家内が子供を大したことないことなのですが定期的に病院を予約していましたので、いつもより早く帰ってきました。昨晩明日は一緒に病院へ行こうとか私に言っていたような気がしますので、一緒に乗って家内へ言いました。

「今日は昨日病院へ一緒に行こうって私に言ってたから、一緒に行かないといけないいつ帰ってくるだろうかなんて心配してたら、何も手につかなかったよ」

普段無口な家内が
「言ったかなあ、というか、それって何もしていないことの言い訳で、だから何もしてないことが許されるとか」

なんて言いながら、しまったつい突っ込みを入れてしまったと少し微笑んでいました。

「実際はそれなりに何かしたよ、『けいくん』が食べたがってたスープも作りかけてあるよ」

帰ってお風呂に入って、皆で一緒にご飯を食べ、そんな和気あいあいとした何気ない瞬間、いまだに私は照れ臭いです。


この私の減らず口が無くなり、言葉少なく聞き上手な人になれば、いろんな事が変わるでしょう。自由に相手によって場によって、自然にそんなことができる私をみたいです。

身近にいる人の身近な行動

 仕事が終わって明日お休みをいただいています。
土日なかなか子供達と過ごせないことが多いですから、家に帰ってすぐ次男と三男とでサイクリングへ出かけました。いつもなら私が先導して二人が危なくないか特に三男「けいくん」はまだ小学一年生ですから、自転車が上手に乗れるからと言っても、状況判断や危険回避は夢中になればおろそかになる年齢ですので、まだ完全に自転車に乗っている時は目離しができません。今日は気分を変え

「お兄ちゃんが、お父さんとけいくんを連れていくサイクリングルートを先導して、ちゃんと後からついてくる人のことを考え危なくないルートを選んでね」

趣向を変えれば、同じメンバーのサイクリングだとしても、随分違うものになります。三人でしばらく風を感じ、私は歳と体力不足で息を切らして帰り、「けいくん」がお手伝いでお風呂を洗って用意してくれていましたから、一緒にお風呂に入り、平日仕事に追われる家内は土日には比較的長い時間をかけ料理をしてくれていました。私が作る料理は簡単なものばかりで男料理になるので、シンプルと外れない味付けと料で勝負、家内はそんな私とは主婦歴が長いだけあって違います。

明日お休みですから、晩御飯の用意ができるまでに既に一人の酔っぱらいが出来上がっていました。

本当困った誰かです。

昨日のどこかの続き

 六月二十四日 (土)  (今日も生憎の)晴れ(日暮れ)後(、恵みの)雨

 以前にも書いたことがあるような気がします(酔っぱらいは難しいことが考えれなくなることへの自信は絶大です)。

男性陣と女性陣の違いを、私といつも近くにいる人と知り合いの旦那さん三人男性がいたので

「私たちは男性だから素晴らしい存在で(実のところは性別・年齢に関係なく言動・品性・中身・学徳によるものですが)

だから声を大にして言うのです。

例えば私はいつも旧吉野川の上にかかる橋を渡って出勤し、そこを渡って帰宅します。

私達男性はいつもあの川を見れば同じことを思いますよね

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・・』

私達は日々同じ名前の川と同じに見える川をみて、そこがその川であることを認識しています。けれどその川を流れる水は日々違う水が流れ、同じ(ような)川だとみて安心します。
時折台風や洪水、降雨の減少によって、水位や勢いの変化はあれど

あの川をみて、同じ男性で仲間ですから同じことを思いますよね」

近くにいた正直な旦那さん「思いませんね」

私「ええー」

いつも近くにいる人(悪のりして本当に思ったことがない感じですが)

「思いませんねニッコリ」

男性同士絆が深まり女性へ男性の威厳を示す場が、何故か正直者たちの楽しい場となったことがあります。


おそらくあれから何年かの時が流れ、その時とは違う何かをそれぞれが持っていると私は思います。


(今日の酔っぱらいでオヤジは、恒例として過去の輝かしい思い出となるものが鮮明に忘れられないです)


どうも私はいつもお酒を飲みますが、それも水がほとんど占めており、ゆく川(私ののどを潤し何かを満たす酒)のながれは絶えずして、元の水(酒)にあらず

同じ銘柄の酒だとしても、その時の気分・体調・雰囲気・友人・環境によって、同じお酒だと思えません。


ただ大企業は大企業の証として、誤差の少ない同品質のお酒を提供しています。

酔っぱらっている(酔っぱらっていなくても)私が誤差を生じ、それは時に楽しく、笑えて、悲しく、怒り、怨み酒ともなれるものを生み出しています。

ほんの断片、けれども塵も積もれば

 六月二十三日 (金) (また生憎の梅雨なのに)晴れ

 人は誰でも、その方を絵としてあらわせば写真にとれば外見は撮影時をありのままに映し、写真は内面を移さず表情や場所や環境と時代の背景を映すもので、内面は知っている人にしか判断のしようがなく推測することしかできないことです。

他の誰かを例に出すより、卑近な例をだせば私が私の最も近い存在で愚かなことは手を伸ばさなくても自らに真摯に問えば答えるどころか堰を切ったようにでてきます。
私はその作業が誰よりも不得手で、自らの保身に走り、見栄をはり、怠惰の連続する時間で自らを汚し、成すべきことを成さず、学ぶべき絶好の機会に何一つ学ぶことなく、皮肉な私の愚かな現状の断片の集積でその点を線でつなげば、私の愚かな言動の連続による私の輪郭が浮かび上がり、さらに皮肉なことはその愚かさが愛されることもあり、憎まなければいけないものであるはずなのに憎まれない要素ともなり、私の愚かさにこそ私の人格がぴったりと寄り添い、不可思議ではないのに不可思議な言葉が出現します。

笑って私の愚かさと人格を容認しながら「あなたあほやね」(人間らしくていいんじゃない)

そんな言葉が私だけでなく、こと覚りを開いたブッダ以外の人間全てに当てはまるように思います。

私は私の愚かさを寛容と融和をもって接してくれる方が大好きです。そのことも皮肉です。
私が許される認められるということは、私も私が接する誰かを寛容と融和をもって接しなければいけないことが大前提となっており、ことさら皮肉な現象ですが、私はそれが自らには率先してしていただきたいことが他人には怒ったり認めれなかったり、許せなかったり、積年の怨みにとらわれたり、一瞬が永遠であるかの思いを抱いていることばかりです。



「私の愚かさのほんの断片

塵も積もればそれは何かになるというだけの話です」



(世間ではこれを「愚中の愚」と言うのでしょう)

ニッコリやで(私)

 六月二十二日 (木) 晴れ(少し曇り)

 雨が降るかと思えば降らず、気温も風も少し冷たい日となり、午前中の仕事は充実して時間が過ぎ、午後は行事などの打ち合わせなどで随分時間がかかりました。明日もまた溜まっている仕事を全部無くす勢いで取り組み、気が付けば仕事が終わる時間としたいです。
また、今日もつくづく自らが無意識としても意識的にしても成してきたこと現在していることについて、深く深く考えさせられ、これからと現在の私の言動をもっとみつめ、改めるべきことは改め、謝罪すべきことは謝罪し、感謝すべきことは感謝し、普通であることは普通に、良いことは良いと、最善なことは最善なものと、あたりまえに認識しその善悪と中間全ての果報は自らに自らが必要でないと思うものほど特に跳ね返ってくるものであるし、言って欲しいことは言われず、言って欲しくないことほど千里を走るものであると納得する日でもありました。

ずっと進め続けたい何かは、望んでいない何かにとらわれてしまえば、私は自らが頼んでいないのに行い続ける望んでいない何かによって、大切な何かは少しもすすまず、かといってそれは無駄ですべて捨て去らなければいけないものでもなく、そこでまた皮肉にも善いこととして受け取らなければいけない何かに代わっていくことも確かです。

ただ変わらないような無駄な日常であるとしても、求め手を伸ばす行為の分だけ、変わらない日常が何故か随分変わっているようにも感じます。



笑って笑って、すべてを笑って吹き飛ばしてしまう時間を増やしていこうと思います。

・・・始めました

 平日に休日をいただくことが多く、今日もそんな日でした。
子供達は学校、家内は仕事、先日何をしていたかわからない日でしたから、今日は昨日からメモに書いていたことは全部済ませないと、私の存在意義が無いものですから、昨晩も用事を済ませ、今日も洗濯を3回ほど済ませ、掃除機を全部かけて、雑巾がけをして、外の草を抜いて、ゴミを整理して、三男坊の「けいくん」の宿題や明日の用意やいろいろ面倒見て、お手伝いをさせて、洗い物をして、一緒にお風呂に入って、晩御飯の支度を済ませ、時間が空いたので、風が爽やかに吹き抜ける晴れた夕方に散歩できました。

近くの田畑を通りかかると、スズメたちの学校があって、ピーチくパーチク賑やかで、ちょっと外れにもこもこと可愛らしい一羽のスズメが水を飲んでおり、風が吹き付ける中、私を追い抜き低空飛行へ水田に入るツバメに少し驚き、今日は何をしたかなんて言う日にならなかったのはよかったです。
家内と結婚してからいろいろあります。時に口論もするし、価値観の違いによる対立や、両親の意向による対立、お互いの思いの差による対立、ささいなことで喧嘩になることもよくありました。
ただそれでも大好きです。

全部用事が終わっていれば子供達と楽しい時間があの人にも過ごせるし、何もやらなければいけないことがなければ心の荷物も整理できるでしょう。

なんてそれは私の余計なお節介というか、身勝手な考えで、あの人がそれをどう受け取るかはあの人次第で、理解されなくても私は私ができることや思うことで良いことを一つずつ増やしていくしかないです。

風がさわやかな日でした。


晩御飯はたっぷりオニオンとニンジンのコンソメスープと、今年初めてですか

「冷やし中華はじめました」

 六月二十日 (火) 晴れのち曇り後に晩頃時々雨

 梅雨らしく久しぶりに雨がちらつき、この辺りでは風も強く明日は大雨の予報です。
外に出てみれば本当に風がつよく、近くにある電信柱のてっぺんにあるカラス巣が飛ばされていないかを見て、最近子供や家内と私が大切にしている畑をあのカラス達が荒らしに来るので、飛ばされればなんて凄い身勝手で意地悪なことを思っていました。

今日も一日順調に仕事は矢のように過ぎ、随分はかどりました。その他のことも内に溜め込んでいたこともついでに(相手が望んでいたかどうかはともかく)それも引き継ぎというか伝達終了しました。
今もびゅうびゅう・ごうごう・ぼこぼこという音と共に私へ風が吹き付けていることを教えてくれ、明日は休日をいただいていますから雨が降っても抱えている用事はこなさなければ、家内の私を見る眼が今日の風以上にきついような気配です。
察しがいい私は今日仕事が終わってから、明日の分の用事をいくつか済ませ、ゴロゴロ寝過ごして時間を無為に過ごした時の最低限の保険をはっています。そんな保険を張るような頭と動く身体があるならば…なんていう突込みは今日の風で飛んでいきました。

これから家事をいくつか済ませできるだけ早く就寝の予定です。




予定はあくまで予定だから夜更かしして「その予定はどうなったのですか」なんていう問いは酔っぱらいには通じないことが多いのは世の常なのだということを私やきっと私にふれあう人は知ることになります!(キリッ)

 何度か長男・次男と家内が車で一時間弱の場所にある蛍の名所を見に行ったことがある場所へ

「ホタルを見に行きたい」

「行こうか」

ということでホタル祭りは終って(一番飛翔している時期を少し過ぎて)いましたが、何匹かが蛍光色とはよく言ったもので、ホタルの光の色が見れました。末っ子の「けいくん」が喜んでくれると思っていましたが、次男と少しいざこざがあって、すねてしまい、帰りの来るまでは疲れて寝ており、トイレにいって歯を磨いて寝かせようと起こそうとしたらさらに難しくなって、しょうがないのでトイレだけ行かせてお休みいただきました。

数が少ないためキョロキョロ探していれば、「いた」と思えば川面に映る光る星と間違えたり、何人か私達家族以外にも見に来られていました。何匹かが飛ぶ姿をみれたので良かったです。次はもっと多数飛び交う時期に行こうと思います。

仕事はなく休日をいただいていました。特に何かをしたとい記憶もなく、いつもと違って御飯だけは沢山食べたなんてことしか覚えてない日でした。次の休日はしっかり用事を事前に書き、全部こなすことにします。
今日はよく寝たけど、よく寝ることにします。

〇〇の日

  六月十八日 (第三週)日曜日 梅雨なのに快晴

 「○〇の日」があって、天皇誕生日、緑の日、土用丑の日、行きつけのスーパーの特売日、お気に入りなものの(発売)日、私的記念の日、絶賛小さな親切余計なお節介をふりまこうの日、キリストの(誕生)日、ブッダの(誕生)日、仏陀入滅の日、覚りを開かれた記念の日、仏教が日本に伝わり真言密教の根本道場である高野山そしてそれを伝えた弘法大師(空海)の誕生の日、いろいろな記念の日が世の中にあります(きっとさりげなくそして気づかれることなく言いたいところへ持って行けたはずです)。

それはともかく今日は日本全国の現代に生き仕事を頑張って家族の生計を立てている旦那様(虐げられることの多い)を祝う日です。

「父」という言葉は、「子」がなくして、「父」となれない言葉です。
つまりは父に比べて後から生まれてくる「子」の存在が重要なのです。「あの子がいたから私は父となれた」どちらが先に生まれたから偉いという話ではなく、後から生まれてくれた人がいるから父となれ、先に生きて家族のために時間を子供達より長く時間を費やしているから、尊敬の対象として今日という日があるのだと思います。
だから父が偉いということではないです。父だからといってあたりまえのことを成さず、父らしい言葉や行動がなければ、世の中にいるひとは父を父として認識してくれることはないです。

分相応です。

父は父らしく、母は母らしく、子は子らしく、それぞれ立場は時に応じて移り変わり、変わりゆく現状で分を弁え

「(父)ぶるのではなく、(父)らしゅうせよ」



どなたの言葉であったか酔っぱらいは忘れていますが、(父)カッコ内の言葉は自らの立場に応じて変えて問題ない言葉です。


私は私の父からすれば、私は子です。私の父には父がいて、それはどこまで遡れるのか、遡って計算する必要もないことです。


「父と子」





偉大なる父、そのみなにおいて

身勝手な認識

  六月十七日 土 (晴)
 本日も晴天なり。ただやはり(梅雨には)雨が降らないと困ったことになりそうです。
今日の仕事も一つずつ無事に進み、つまりは順調に一日を終え、阿呆なことを言って大笑いして、帰って酔っぱらって、家内と次男に散歩へ連れていかれ、それに少し反論をすると

「お父さん一緒に行こうって言ってくれるうちが華だし、子供が小さい頃から『お父さん一緒に』そう言っておかないと、歳をとっておいていかれるよ」

「それも一理あるけど」

ということでしばらく夜の散歩を涼しい風が吹く中を楽しみ、明日の食材を購入して帰ってきました。

また今日は(お寺や神社や仏や神さまへ)お願いとお参りについて、遠くから他者を客観的に納得する日でした。

しばらく前にお地蔵さまをお参りされる小さな子供を連れた母子をみて、お母さんが(特に水子様を守ってくれる)お地蔵様へお参りされ、幼い子がそれをつたない足取りで真似をしているのだけれど、完全に真似できず、ただ去り際に「のんのんさん」(またのうのうさん、まんまいさん)そう言うような感じで手を合わせ駆け足で先に行く母をかけてついていく姿をみて、何かを感じていました。

「お参りする」こと、「お願いする」こと、誰かが誰かのしあわせを願うことは共通していることですが、その誰かが亡くなっていれば、時にそれは祈願と呼ばれたり供養と呼ばれたり、祈願と供養では同じようにお参りしても随分と感じが違って私にはみえます。

誰かが先にいってしまい、その方の供養としてのお参りであればそこがお墓でなくても、その先にいかれた方にあえたような感じに近いお参りもあります。

誰かが生きていてまたはこれから生まれて欲しいその方のための願いであれば、離れていてもその方と共に幸せに生き続けたいという感じに近いお参りもあります。

もの言わぬ仏像(石仏・木造・その他)へ、他人へあまり言わない心からの願いをもの言わぬ仏像が「わかりました」そう言ってくれたと世の中に生きる人が認めなくても、お参りする方がそう少しでも認識できれば、少し肩の荷も軽くなり、少し笑えて、お参りする前よりも楽に生きていくことができるなんて思っていないのに思っているなんて私は感じていました。

「お参り」を「おたのみ申します」そのように雰囲気として感じられることもあれば、「自らの現状のご報告の場」として、「私は今ここにいます(生きていますよ)」として、「誰かのしあわせを願う」こととして、「自らが願い思う何かへどれだけ手を伸ばせるか」、「情けない自らの心情を吐露する場」として、それが何であれふれあう方が「たくましく生き」、「よりよく生きようと願い」、「美しく生きてきたい」とつながっていければ何でもいいです。


(酔っぱらった)私は皮肉なことを書いています。

生きている誰もがいつかは避けられぬことが一瞬ある。美しく生きるとはその反対すら意味しています。

中身

 今日も晴れ、梅雨入りしたというのに雨が少ないのが気になります。
予想通り仕事も忙しく一日があっという間に過ぎ、幾つか溜まってきたものもありますから、明日は急ぎのものから片付け、あとは流れに身を任せていきたいです。

予定は予定ですから、計画通りに事が運ぶことばかりではなく、悪くなることも良くなることも変わらぬままということもあり、選べるときもありますが、選べないこともあり、準備努力していれば何か幾分変わることもあり、何をなすべき考えるより、目前にあることから片っ端に処理していくしかないこともあります。
子供達の中総体、結果は団体は県へ、シングルは残念な結果でした。次男はこれからですから是非全体的に実力をつけ、次回は奮闘と欲張りな願いを彼に伝えました。

家内と子供達が植えていたミニトマトが二本、日に日に赤い実をつけはじめ、少ないですが収穫の喜びです。近くにあるピーマンが大きくなっているのを「けいくん」がみつけて

「おとうさん、もうこれ食べられる」

「もう少し大きくなってからとろう」

豆も家内達植えていました。引っ越して初めての小さな小さな菜園、けれどそこに緑の野菜が茂っていると大きく見えます。こころも嬉しくなるのが不思議です。元気な「けいくん」は退屈になると水撒きにいって、水を撒くという口実で水遊びをしています。

家の中でじっとしている子でしたが、小学校に入って随分活発的になってきて本当に安心しました。次男と「けいくん」と一緒にサイクリングをして、早く自転車を走らせちゃんとついてくるあの子を見て成長を更に感じました。

あとは私の中身とあの子達の中身をどんどん詰めていく日々にしたいです。

 毎日の時間、誰もが平等で限られたもので、私はその使い方がよくわからなくなることが多く、無益な使い方をして「今日は一体何をやったのだろうか」家族にとって役に立っていることを行っていて「有難う」と言われたとしても、そのことが虚ろなものに思え、昨晩は眠れないので、歩くのも走るより、自転車を全力で走らせ夜と夜風を感じてから寝床へ。

今日お休みをいただいていたのに、これといって何をしたのか、洗濯と晩御飯を作って今にいたり、明日仕事が忙しいことがわかっています。一つ一つしっかりとこなして一日一日が無事に過ぎていけばと願います。

子供達(長男と次男)は中総体が明日始まるので、少しいつもより雰囲気が違いました。トーナメント表を見せてもらい

「一回でも多く勝つといいね」

私としては悔しくて次へつながる負けでも、勝手嬉しくても、次につながるのならなんて考えながら

「がんばってね」

明日のことは明日にしかわからないことです。


何事にも限度や引き際があることがあります。分を弁えること、欲深くなり過ぎないこと、悔い改めること、慎みをもつこと、品性をたもつこと、嘘を必要以上につきすぎないこと、悪事を重ねすぎないこと

いろいろとみせられ本当に考えさせられます。

先に立たず

 一人だけが言っているのであれば、相手にされないこともあります。二人三人と同じことを言っていれば、気にかけてもらえることもあります。公的な方が公式の発言としてであれば、それは信頼されやすいことです。

一人のたわごとか、公的な発言かの違い、まあ私はそのあたりにあまりいない阿呆で愚か者の代表ですから、発言は公的にはならず、たわごとばかりと認識されていることばかり、つまりはお気楽です。

本当いろいろなことがあるから、それを上手に処理できず、濁流と荒波にもまれどこにいるのかもわからないような感覚があれば、現実をみてとりあえず目前のことを一つ一つ言い聞かせるながら、時間が過ぎていけば少しだけほっとします。

仕事が終わって家の前に生えていた草を抜きながら現実を忘れ、家の中の用事を済ませ少し横になっていると地震があり、すぐ起きました。大したことのない地震でよかったです。

未来(これから先のこと)はわからないです。ただ今できること準備出来ること、せめて思いついたことは一つでも多く手を付け、後悔するにしても、何もしていないで後悔は避けたいです。

あれこれと考えることをやめ、一杯やることにします。

あははは

 やけに不気味なくらいに大笑いする日でした。それは家内からすれば

「どうしたの」

そうたずねられることです。

過去は変えることが出来ず、現実という「今この時」起きている瞬間、これから何が、過去やこれからのことで決まっていることが理解できて、大笑いするしかない日でした。

「あはははは」

決まってしまえば、笑うしかなく、ただ決まってしまえば迷うこともなく、その決まったことに沿ってどのような私であるか、どのようなことを発言する私がわかれば、笑っていました。

夜にそれを吹き飛ばすかのように、「けいくん(三男坊)」の自転車にLEDライトを取り付け、家内と「けいくん」と私で散歩代わりに少しサイクリングへいき、飛ばしてきました。

笑えないことがわかれば、笑えるところは笑うしかないです。笑えないことの闇が深ければ深いほど、あたりまえのことがおかしくてしかたないです。

いろいろあります。

それはきっと生きているという証なんだとしか言いようがないです。

問題は

 家内と子供達といて、それは皆生きているので、なにかしらの変化があることは当然のことです。
欲張りな私としては、あの子達三人がどの道でもいいから前もって努力しそれなりな職について、大好きな伴侶を見つけてくれればと願います。
よく言われたことです。「大人だって完璧ではなく難しいことは沢山ある。子供なら尚更だ」と、問題は私の欲や願いとなります。
その時が来るまで「ほっとく」それもまた手段の一つ、何も言わないことも一つ、一緒にあほなことをするのも一つ、他にも方法はいくらでもあるのに、ワンパターンな私は同じことを気が付けば言っています。
「ダメなことは駄目だと怒る」
「よいことはよいと認め(褒め)る」
「あたりまえのことがどれだけのことかその意味を考える」
「難しいことは考えずに一緒に過ごす」
どれかを選択するのではなく時に全ての選択肢を捨てることも、全部使うなんてことも・・・


あの子達ではなく、やはり私の愚かさと偏りとおしつけと日々の私の過ごし方が問題に


いろいろと皆(本人達にも周囲)に意見を聞いて反映させていきたいです。

あの花(続き)

 昨日よくわからないまま書き、花について思っていたことを忘れて読みかけの書に目をやり、ふと違う四国の雑誌が近くにあったので見てみれば、詩がかかれた書の写真がのっていました。

  念ずれば花ひらく

  苦しいとき

  母がいつも

  口にしていた

  このことばを

  わたしも

  いつのころからか

  となえるようになった

  そうして

  そのたび

  わたしの花が

  ふしぎと

  ひとつひとつ

  ひらいていった
                (仏教詩人 坂村)真民


「花がひらく」ということ

誰かが「花ひらく」であれば、違う詩になります。「わたしの花が ふしぎと ひとつひとつ ひらいていった」一つだけでなく複数花ひらく。

きっと死ぬまで、花が次から次へひらき続けることがあれば言うことはないでしょう。
素晴らしい言葉です。まだ私は自らではなく他人に「花がひらく」そこしかはっきりと認識できず、周囲に「花ひらく」方がいて、私はそこできっと私であることを確固たるものだと信じることができそうです。
私にとって自らができることを続け周囲を信じて、よくなるように努力し、身近な方達にひとつひとつ「花がひらいて」いけば、私ではなく誰かの花が咲くことを念ずれば花ひらく、タイトルである「念ずれば花ひらく」は誰かのために上から言うのではなく相手を信じて言葉を超えたものとして使うことが相応しいと、思っていました。

私の変な思いはともかく、引用した詩は素晴らしいものです。