昨晩は中学生になる長男と次男の中間テストの結果を持って帰って来た日でした。
二人共日頃の成果が出て、それはもう遊び呆けた成果がその結果に如実にあらわれるというわかりやすい成績表でした。短気で愚かな私は、日々あの子達に

「しっかり遊んでいいけど、その分勉強も真剣にやってね、遊ぶために計画を立てて勉強をして自らの中身を付けることをしなさい。
貴方たち今日はしっかり(ずっと遊んでいるけど)ちゃんと遊ぶための勉強はした?」

「うん、やった。」

日々欠かすことなくその問答を続けてきた結果、どこかに嘘があって、その嘘と信頼を裏切る分だけ、成績は惨憺たるもので、あの子達は自らの言動の結果と嘘と信頼を裏切る結果の帳尻をあわせるということが痛い思いと共にやってくる日となりました。

しばらくあの子達は万雷までいきませんが千の雷を(オヤジの必殺技であるものを)落とされ、その特典として期末テストまで一切の電化製品の禁止と、遊びに行くことを禁止と、日々勉強や読書の為だけに時間を費やせるというすばらしい時間の使い方を父親からのお達しがでたのでした。

「よかったね二人共、これからは言葉じゃなくて、日々の継続である行動をもって貴方の父と母に答えを示せば、遊ぶことも許可されるよ(期末テストが終わってからは確定だけどね)
安心して、約束を破って遊んだり電化製品などを触ってたら、期間が三倍に延長するから安心して遊んだり現実逃避するといいよ」

どうやら上の子二人は安心できたようです。

孤独や忍耐、継続的なあらかじめなされるべき努力、それは必ず自らを成長させるものです。


愚かな私はあの子達の頃何一つ意味が分かっておらず、わかる気もなかったのに、あの子達に必要以上にその意味を説き、自らを助けるためのものを、雷をもっておしつけるのです。

怨むなら愚かな父を恨めば問題なく、ただ自らの選択肢の幅を狭くしたいのであれば最低限の学力は確保しなければ損をすることになるということを力説する昨晩を落ち着いた今日ここへ書き記すのです。
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善と悪

 近くに「揚げ足はいくらでもとりようがある」そんなことを教えてくれる方達がいます。仕事を沢山していれば誰にだってミスは出ます。加点方式であれば、仕事を沢山こなして数少ない悪くなることより数多い良いことがあるのであれば、問題にもならずそれは正当な評価につながります。
ただ成された正しいこと、良いことを一つもカウントすることなく、僅かな過失でさえカウントすれば、答えは決まっていて、仕事を人より少なく行い、また間違いにくいことだけ行えば、良いことや職場を支えたり、皆に貢献することさえなくても、していない人のマイナスの揚げ足は、仕事をたいしたことをしていないという追及さえ交わすことができれば、「揚げ足取りの達人」や「後出しジャンケンの達人」その結果、その方にはもれなく「根性(や意地が)が良くない人」という見えないけれどみえる称号が似合うようになります。

他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は見難いものである。実に人は他人のもろもろの過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らすけれども、自分の過失は覆いかくす。たとえば、ずる賢い博徒が不利なさいの目をかくすように。(法句二五二)
他人の過失を探し出し、常に苦情をいう者に、かれの汚れは増し加わる。かれは汚れの消滅から程遠い(法句二五四)
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



先日悪人の輪郭を描写する法句経を近くの人達と再度読み直しながら、善と悪またその捉え方、その判断基準、また自らが善と悪をどのように考えているか、その報いなどの話をしている時

「善の行為に比べれば、悪の行為の数が圧倒的に少ないのに、悪の影響力が強すぎる・・・」

そういつも私に優しい方が自らのこれまでと今の現状をみて教えてくれました。私なりの答えを出したところでその現状や影響力は何一つ変わらないのですが
「善とは、自らと周囲とこれからを助けるものであるから、大切なもので尊重されるもので喜ばれる。けれども悪は悪をなす人もその周囲をも甚大に被害を及ぼすという、生命や財産などの危機的状況をもたらすことが多いから、比率で悪が少なくても一つの悪事が相当な損傷を周囲に与えるから、同回数であればとんでもない現状になり、善10:悪1だとしてもかなりな被害がでるのだと思います。

更に周囲のことを考えてくれれば問題にならないのにといくら願っても、悪を行う人は自らの利益や損得を優先するから他を顧みることができない。馬の耳に念仏になることが多い。」

自らの責任だけで終われることばかりなら、誰もが放っておけば問題ありませんが、悪というのは他人の利益や名誉や持ち場や信頼を傷つけることばかりです。


他人のことでも本当に考えさせられ、自らの上に降りかかればとんでもない事態です。

いってらっしゃい

 仕事がお休みでしたが、家内は今日から仕事ですから朝から立哨当番へ夜更かしの代償として眠い目をこすりつつ向かい、小学生や中学生に「いってらっしゃい」と見送ってきました。うっかりした子は「上履きを忘れた」なんて学校と反対へ戻る子もいたり、遠くからうちの「けいくん」も照れながらきて、「いってらっしゃい」そう見送って、夜更かしの多い私と違って皆早くから真面目に学校へ行く子達ばかりで安心しました。どうも私が一番家族に夜更かしで規則正しくない生活だから心配されています。
私はその家族の心配をよそに、旗登板が終わってから皆出かければ、布団に潜り込み、ゴロゴロマッタリを満喫していました。ただ小心者の私は、何やら物音がするたびに「誰か家族がかえってきたんじゃないか」なんて「ビクッ」として起きてそのたびに見に起きていたなんてことは多分ないと言っておきます。
小学一年生の「けいくん」が帰ってきてからは、今までの遅れを取り戻すように、洗濯物を仕掛けて、洗い物をして、晩御飯を作って、家の中を片付けて、ほらこれで何もやましいことがない日だったと精一杯の言い訳をします。
ただ家内は食事を出した時に、綺麗になった周囲を見渡して

「子供達も全員大きくなって手がかからなくなっているし、随分ゆっくりできたんじゃない」

「そんなことないよ・・・
ちゃんとほら家の中も綺麗だし、買い物もいってきたし。散歩もいってきたし、洗濯も終わったし、晩御飯も作ってあるし、そんなことはないよ」

どうやら私の所業は見られていないのにばれているようです。悪いことはしていませんが、ゴロゴロマッタリはばれているようです。


私はここに宣言するのです!

「わかっちゃいるけど、やめられない」



(次の休みはもうちょっとまともにやることにします)

尊敬を受けるに値するとは

 どの職業でも一流であれば、その方はどなたでも尊敬や供養を受けるに値する方として世に生きる方は認識し、時に財や身体的努力や惜しみない信頼を与えてやまない方もおられます。

今日のジャンルは仏教関係ですから、他の職業の方は(失礼を承知で)ひとまず横に置き、仏教における言葉を現実において縦横無尽に法を説くことができる仏教者つまりは僧侶(お坊さんと呼ばれる方)のことになります。

三八七 日は昼間輝き、月は夜照らし、戦士は甲冑を身に着けて輝き、聖職者は瞑想して輝く。目覚めた者は威光によって昼夜いつでも輝く。

三八一 たとえ年若くても、目ざめた者(=ブッダ)の教えに励む托鉢者は、この世の中を照す。あたかも雲から出た月のように。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



一般の方が自らの財施(金銭による施し)を惜しまないことの代償として、仏教者(宗教者)は自らの獲得した真理(智慧)を隠すことなく余すことなく(聖者に握拳なし)、眼前にいる方が「たくましく生きるために」また「よりよく生きるために」さらには「美しくいきるために」そのための真理を財施の対価として出すことが決まっています。

これによって財施=法施が両立することとなり、双方が美しい関係として生きていくというあたりまえのことですが成されていくのです。

世の中において、あたりまえのことをどれだけ深く広く高く、どこまでも貫いていけるか、善い意味での底無しであれば、その底の深さだけ真理の高さが出現することになります。


私は夜空に浮かぶ女性の美しい細い眉のような月を見て、手を伸ばすのです。


あの高みに手を伸ばし続けるのです。

輪郭

「何が善悪の判断基準なのか」
ずっと以前にそんなことを問われたことがあります。それに対して曖昧な返事、いや不正確な返事をして後悔した思い出があります。
有名な過去の仏教者ならば「十善戒にかなえば善となり、そむけば悪となる」のような短い答えを出されています。

不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。
不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。
不邪見(ふじゃけん) 誤った見解を持たない。



「自らと他者を害することが悪」だと、そう最近であれば考えます。ただ細かいことや小さい問題であれば判断は善悪のどちらかに属さなければいけないなんて極端にとらわれる必要もないことです。

一  もろもろの物事(法)は意(こころ)が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人はもし汚れた意で語り、あるいは汚れた意で行うならば、それより、かれに苦悩のしたがい来ること、あたかも車輪が索獣の足にしたがうようなものである。

二  もろもろの物事(法)は意(こころ)が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人はもしも清らかな意で語り、あるいは行うならば、それより、かれに楽しさのしたがい来ること、あたかも影が形に絶えずつきしたがうようなものである。

一一 真実ならざることを真実と認め、真実を真実ならざることと認める者たちは、真実を知らず、虚妄の思惟に住する。

一二 真実を真実と認め、真実ならざることを真実ならざることと認める者たちは、真実を知って、正しい思惟に住する。

六二 愚か者は、「わたくしに子供たちがある。わたくしに財産がある」と悩まされる。自分すら自分のものでない。どうして子供が自分のものであり、どうして財産が自分のものであるか?

六三 誰でも自分が愚かであると考える愚か者は、その限りではまた賢いものである。しかるに自分が賢い者であると考える愚か者はまさしく愚か者だといわれる。

六四 愚か者は、たとえ一生の間賢い者に仕えても、かれは真理をしらない。あたかもスプーンがスープの味をしらないように。

六六 無知な愚か者たちは自分を敵として振舞い、悪しき行為をなしながら、渋みのある結果をもたらす。

六七 なしてしまってから自責の念にかられ、その者が顔に涙し、泣きながら報いをうけるような、そのような行為は立派になされたものではない。

六九 悪が成熟しない間は、愚か者は悪を善のようなものであると考えている。しかるに悪が成熟している場合、その時、愚かな者は不幸な目にめぐりあう。

七一 なされた悪は、あたかも牛乳が突如として固まることがないように、灰に覆われた火のように燻りながら愚か者にしたがう。

七二 愚か者の思慮が他人の不利益のために生ずる限り、愚か者はその輝かしい自己の運命を損ない、かれの頭(こうべ)をうち砕く。

一一九 悪が熟さないかぎり、たとえ悪者といえども楽しみを経験する。しかるに、悪が熟するや、そのとき悪しき者は、もろもろの悪を経験する。

一二一 「わたしについにそれ(悪の結末)はやって来ないだろう」と、悪を軽く見てはならない。水滴が落ちて水がめを満たすように愚か者は少しずつ悪を積みながら、悪でいっぱいになる。

一二五 人は、正しい者、清らかにして汚れなき者を損なえば、悪の報いはほかならぬ愚者に返る。あたかも向い風に投げた細かい塵のように。

一二七 空でも、海のまんなかでも山々の洞穴に入っても、この世界の場所で人が悪の行いから逃れるところは何処にも存していない。

一六一 己によってなされた悪は己より生じ、己より生じたものである。それはあたかも金剛石が宝石を砕くように愚か者を粉砕する。

一六三 もろもろの好ましからず、また自身のためにならぬことどもは行い易いものである。自身の利益になり、しかも好ましいことは行い難い。

二四〇 鉄よりのみ生じた錆が、鉄より生じて鉄を損なうように、罪をなす者たちは自身の成した行為のために地獄に導かれる。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



幾つか引用するつもりが、引用しすぎましたが、私自身痛い言葉ばかりです。特に愚か者の章は私にとって激しく痛い言葉です。
輪郭を作るお経の言葉を幾つか引用するつもりが違う方向の輪郭をえがいてしまいましたが、それはそれで今日はよしとします。

不染

 うまくいかないことや、予測できないこと、自らがどのようであるかわからないこと、迷い・恨み・泣き・わめき・愚か者の代表である私は、身の程を弁えていないが故に、自由な発言をする日でした。
もっとも自由すぎて、身の程を弁えないが故に遅れていろいろなことが更に押し寄せ、その押し寄せる波にもみくちゃにされる日々です。

久しぶりに外で自由な発言をする日で、その場を与えてくれた方々に感謝しています。自由な発言ができることを受け止める場や人でないと、人は自由に楽しく発言することなどできず、まして時に笑いあうことができる場であったことはしあわせなことです。

招いてくれたお二方に、思い立った瞬間をわすれないものを作り上げていただければと願う日でもありました。成功しても失敗しても、私の愚かな考えであれば、皆で「あれは楽しかったな」となればよいのではないかと子供のような考えしか浮かびません。

先に一つの答えを書かねばいけません。
きっと苦しみに迷い悩みもがくとき、泥にまみれる汚れる。ただそれが泥だと認識し、その泥から美しい蓮を咲かせていく。ど根性をもってまみれて咲く花は、きっと白い華というより、何らかの色がつく、それが染められてもないのに、この世に美しく咲く色とりどりのつまりは百花繚乱の華々となり、そのどれも(何色でもよく)があるからこの世は美しい。なんて増谷先生(の著作)を思い出させられました。

さすれば、結果は文中の眼目となり「法を見るものが、私を見る」その法と私は誰でもなにでもいいですね。

そんなことを最後に言いたい日でもありました。

 ここのところ気が付かなくても余裕がなく、注意する語気も強くなって、その分を取り返すかのように用事を思いついたことから済ませていくのですが、余裕もなく激しい口調で言われる人はたまったものではないです。
さらにそれをだれにごまかすでもなく、何か用事を手早くとりかかり、用事が片付き時が経てば、「用事が幾つか片付いたからよしとするか」と自らに言い訳するのです。

現実から目を背けるかのごとく、遠くをみて先のことを考えます。今おきていること、これからすぐおきようとしていること、それがどのようなものかわかるはずもなく、わかってそれにどれだけうろたえずにいれるか、平静を保っているようにみせかけることで背一杯で、何かから逃げている私をみます。

一つ一つ、明日から形にしていこうと思います。考えが頭に、その考えを明確に行動へつなげ、一つずつ小さくてもいいので確かにそこへ何かを、今はそう思います。

明日はそうであるような日にしたいです。

中途半端は私のせい

 昨晩いつもより夜更かしをしすぎ、就寝したのが朝で起きたのも朝、わずかな睡眠時間でした。
そこからいつものように仕事、今日は行事があってそれが終わるまでバタバタしていたので、眠いとか、疲れたとかそんなことを考える間もなく、一日が終わっていき無事に明日へ引き継ぎをしました。今日のことは今日で明日のことは明日、明後日のことは明後日にすることにします。

一つのことに向かって、自らの得だけを考えることだけに最短最速な方、とりあえず自分のことよりその場と一緒にいる方達のことを考えて行う方、どちらも同じ結果へたどりつくのなら動機や目的はそこで問題となりにくいのですが、ただ自分を除く全てはどうなってもいい、自らがのみ良ければ、と周囲へしわよせを続けていくということは、どんな果実を実らせていくか。一般的に美味しそうな果実は皆欲しがり、とんでもない果実は実らせたくない上に誰がそれを欲するのか、とりあえず私はよい果実の反対にある果実は実らせたくありません。

雨の中末っ子をバイクで迎えに行って一緒に歩いて帰ってきて、長男と次男は学校の行事で楽しい所へ行けたようで、特に長男は大はしゃぎで興奮冷めやらぬ様子で、次男は無口ですが楽しかったことを伝えてくれました。相変わらず家内は職場における自らの分を弁えるということと、自らがどのようなものであり何を願い、問題のない立ち振る舞いをする自分自身が見つからず葛藤しています。

おぼろげながらいろいろなことがあると、誰かを通してその誰かは誰でもいいのですが、誰かと私の違いを少しずつ感じ、その回数・深さ・高さ・年数に比例して、違いが鮮明にもなり同じこともみつかり、理解できない・理解できる、望むこと望まないこと、自らにとって善い人悪い人普通の人やいろいろなできごとが揃うと、周囲もですが周りの方もですが、一番はいろんな時にどう願い何を思いどうする自分であるかを知っていくのです。



いろいろなものが中途半端なうえに支離滅裂ですが、睡眠時間がちっとも足らないのでもう寝ることにします


ヒミツ

 日中かなり暑いと感じるようになってきて、梅雨もまだですし、まして真夏でもないのでこのままの勢いで夏になるのではなんて少しだけ心配していました。

ただ夕方は風もあってやはり夏ではないから随分過ごしやすく、用もないのに外に出たいと思う前に外に出ています。家内や子供達が育てている花や野菜をみたり、目前にある人参畑は朝は人参があったのに、帰ってきたら全て人参は収穫され、いつもながら花と鳥と風と月を私は探して見つけることができれば安心しています。

女性は特にですが、男性でも心が美しいと私は思えばその方は一つの花として認識することがあります。女性は見た目がそれに比例しやすいですから言うことはないですけれど、男性が見た目ではなく言動やこころによって私に花開くようにみえるとき、私は負けず嫌いな私をそこにみます。

「私(に)も一つの美しい花を咲かせたい」

はじめの目標と変わっていますが、今日の気分でジャンル分けして目指すとすれば仏教詩人のような感じです。最初の目標は今日は内緒にしておきます。

大人には秘密がつきもので、普段全てをさらけ出しすぎていますから、今日のところは秘密にしておくのです。


 月曜からの仕事で家内は随分と職場のことで悩んでいます。「あまりに合わないなら、無理せずやめていいんだよ」そう言いますが、真面目な性格ですから何とか頑張っているようです。
職場における対人関係は仕事が忙しいよりも、大問題になることもあるから家内が胸や頭やこころをいためることもわかるような気がします。

家内は仕事後終わって帰って子供達に晩御飯を作ってから、一緒に散歩にでかけました。自転車を走らせる人、ウォーキングへ行く人、いずれにしても気候がよいからふらりと外を歩く方も多いです。緑を見て、花を見て、風を感じて、ゆるやかに時が流れ、ただ私にしても家内にしても、それぞれ持ち場における問題などの悩みで迷い、とらわれて、自らをがんじがらめに見えない鎖でしばっているようです。

現状が何一つ変わらなくても、もっと自由で、楽しく、笑って仕事が出来る時間が今よりは、心も体も楽になるのに、無理せずにある程度で現状が自らの成長によって打破できればと願います。

大人になっていくことに楽しいことだけでは大人になれない、ある程度の何かは良くも悪くも必要となって、その泥から蓮が芽を出し、やがて花を咲かせることができるか。理想です。

どこでも泥はあって、綺麗なものもあって、欲張りに私のことは棚に上げて、家内には職場(それが今の職場でなくてもどこ)でも美しい花のようであってもらいたいと願っています。

枝葉に

 枝葉が繁茂しすぎてそこに目を奪われ、それを茂らせている枝や幹の存在が軽んじられ、幹だけでなく根の存在ですら感じることができなくなるようであれば、話にならないこともあります。

町内一斉清掃があって、私は今日仕事で参加できないから家内が参加してくれていましたが、地区内の公園の大きな木の枝や葉が事前に派手にそれでいて綺麗さっぱり切られていました。大きな枝と幹と、土中には根だけという状態です。
ちょっと切られて寂しくもありましたが、よくよく考えなくても年々生い茂り、縦にも横にも伸びて、木陰を作ってくれることは有り難いですが、茂りすぎて周囲を圧迫もしてということで切られたようです。それを末っ子と一緒にみて「派手に切られてるね」なんてお互い口にしながら散歩をしました。

大切なことが何か、私はよく生い茂る枝葉にみとれすぎたり、違うものに気を奪われ時間を無為に過ごしてしまうことがあります。
今日もまた笑わせることに夢中になっている私がいて、本質から遠ざかり願うことと違うところへいってしまったことを悔やんでいました。

一方だけに都合がよいことばかり、つまりは相手にだけ負担を強いる。そんなことばかりはもうあまり見たくないです。何やらよくわからないことがまたあって、考えてもそれはよくわからないので、気にしないで寝ることにします。

あれこれ

 よく有り難い指摘をいただき、それは今をもって私の中で輝き、知らずにその言葉が出て、私の身と心にしっかりと根差しているのであれば、同様に私から誰かへ、よくわからない何かとして伝わっていることがあります。それは伝わっていなくてもしょうがないことです。

特に気にしてもしょうがないことで急いだところでしょうがないのに、待って望みすぎる日でした。仕事が終わって落ち着かないので洗い物をしてみたり、掃除機をかけてみたり、お風呂へ入ってから表の道路の草むしりをしてみたり、それから晩御飯の支度を終えた家内と散歩がてら子供達の自転車を借りてサイクリング、この時期の各家の庭に植えられ咲く美しい花と緑と夕暮れの中、ゆっくりと移動して、田園風景の中を走り、近くのお寺の前を通り、家に戻りもう一度お風呂へ入って、ご飯をいただきました。

変わらず焦っても仕方がない上に待っていることが来たところで何もないのに、やはり待っている私がいて、しょうがないのでお酒を一杯ゆっくりやることにします。

いろいろなことを考えます。

考えてもわからないことを考えすぎたり、あれこれとこうではないかと考えてみたり、これだなんて思いつくことがあって笑ってみたり、誰かへその思いついたこと言えて善い共感しあえる時は喜びです。

できれば私の下手な考えが、誰かのしあわせになり、笑いになり、望みになり、達成する一助となり、理解している言葉となり、優しい言葉であり、何よりも代えがたいものでありたい。


そんな誰よりも欲張りなことを一杯やりながら願います。

今日

 一日無事に過ぎました。

特にどうするかをその時まで考えず、その時の雰囲気に任せるしかないと、何かを呼び水にしてみる何かだけを決めてみるとか、結局その何かもよくわからないままで、終わって上手くいっていれば、調子に乗って口が軽くなり、余計なことを言ってしまいます。

何を学びそれが何の役に立つのかと今していることを考えすぎれば、結局学ぶことをやめている私がいて、何もしない時間が長く続けば、何か他の役に立つことで些細なことでもいいから一つずつでもするか、元の目前の学ぶことを真剣に迷わず突き進めていればまだそちらの方がましだ。など後になり思うのに気分転換が進んでしょうがないなんて私がそこにいて困ってしまいます。
目前であっていることの前とそれと並行して行われている裏の顔を私は後から誰かに言われてはじめて気が付くことばかりで、気が付いた時には手遅れで、激しく痛い思いをしているとき、そんなことはよくあります。

もうちょっと(時にそれは誰かの為にもなるのかもしれないし)少なくとも私自身の為に小さなことから気を付けていきたいです。

明日は明日でしっかりと仕事をしていこうと思います。

随分と迷惑を

 昨晩久しぶりの友人たちとの集いは、酩酊するほどに飲んでしまい、途中から記憶がない上に、まあ家内が迎えに来てくれましたが、今日は偶然休日でしたが一日中、二日酔いでつらくてゴロゴロマッタリではなく、寝てばかりでした。

何かしないといけないと思いましたが、だるさと気持ち悪さの勢いが優勢勝ちとなって、つまりは最低限のことだけ、末っ子が帰ってくる時間となり、宿題や明日の準備を終わらせ、気分転換に自転車の練習にでました。
初めの頃とは大違いで、器用にまだ少し危なっかしいところもありますが、余裕をもって乗れています。ただ調子に乗りすぎている時は危ないことが多いです。
公園について、やっぱりしんどいので日陰になっているコンクリートのベンチに寝転び、見上げた空は青く青く突き抜けて、まだ酔っているのかその青が手に掴めそうな感覚で、ベンチはお日様に温められていてちょうど気持ちよく、周囲に咲くシロツメクサにミツバチがひたすら花粉や蜜を集める羽音を楽しみながらしばらくそこで寝ていました。

それにしても記憶が最後のほうないので友人たちに迷惑をかけてしまい、ごめんなさいとここへ謝っておきます。それといろいろなことがここのところ続いて、そのことにとらわれている私が出過ぎていました。

客観的に冷静に、仕事をこなしていきたいです。

今日は思いのたけを全て友人たちに遠慮なく言えた素晴らしいい日でした.

ただその代償は発言した私は報いを受け取らなければいけないといく日でもありました。

友人たちのこれからのますますの発展お祈り申上げます。

そんな日した。

前もって

 休日明けの仕事も特に問題もなく、少し残業があって末っ子を児童館へ迎えに行くのがいつもより遅くなりましたが、良い子で待ってくれていました。末っ子の二人の兄は中学の部活で遅くまで頑張って帰ってきました。家内も職場が私より遠いので残業とあいまって遅いことが多いです。

小学生になった「けいくん」にも兄二人は日々家事を手伝ってくれていますから、少しずつお手伝いをおぼえてもらっています。今日はお風呂掃除とお風呂をためることを一人で手伝ってくれました。一個ずつできることを増やし、周りに誰もいなくても最低限のことができるようになれば、家に誰もいないとしても泣き叫ばなくて済みます。(遊ぶこととお風呂はこれで問題がなくなりました。)

近くでの昨年から続くことが早く無事に終わればと願う日でした。

私は私のことを慢心せず、賢いと称するようなことは愚か者の私でありますから、つい人に良く思われたいなんていうことにとらわれおかしなことをしないように気を付けたいです。何故愚かな言動が気を抜かなくても出るのかと、相手の対応によって気がつかされます。本当に困った私です。明日は久しぶりに一年間同じところで過ごした仲間何人かで集います。阿呆なことは言っても問題ないですが、自慢・慢心・驕り昂るようなことは慎みたいです。もっともお酒が進めばそれもどうなるかなんて今からかなり心配です。

先に見ることはないですがここへ謝っておくことにします。

(酔っぱらっても酔っぱらっていなくても)失礼や嘘があれば大変申し訳のないことです。

よし、これできっと友人たちはできている人ですから、私のことを笑って許してくれるに違いありません。
(そうでないと私は困ります)

月は仕事

 (自らが気づいていないために起こる自らの不出来なこと、つまりは)痛い言葉をしっかりと逃げることなく聞き、自らに自らの速度でよくなっていくように反映させていく人をみると、それは年齢や段階を問わず素晴らしく、それを私ができるかどうかという自らへ問いを向ければ逃げてしまいそうです。

最近家内と話せば、上手くいかないどころかあまり考えられないようなことを行う人の相談をしてきます。別にそれだけならいいです。家内は主婦として長く家の内で過ごしたがゆえに、比較の対象が私ということになって、相談というより私の痛い所の指摘をするきがないけれど、相手の悪い所を私も同じようなという例え方に必ずなって、論点がずれる上にその人と私は関係ないし、何やらとばっちりや矛先がこちらに向きそうになれば、「ああ、大切な用事を思い出した。やってこないと」なんて言ってそこから退避するのです。当然かなり家内は不満足です。

日々ここへ何かしら書き連ねることも退避する理由の一つになっていますから、何が功を奏するのかわかりません。さらに家内は満足いかないでしょう。

私自身いろいろあって子供を始めて授かったときに、仕事をクビになって、そこから新しい仕事をしながら何年かもがいていました。
現在も始めや中頃程ではありませんが、もがいています。
家内には仕事なんて
「楽しいことばかりではないよ(楽しいこともいっぱいあるけど)、根性が善い人もいるけど必ず悪い人がいるよ、皆それぞれあるよ」
家内には末っ子の「けいくん」(小学一年生)が随分こころを豊かにしてくれているでしょう。

「おかあさん、きょうはいっしょにねよう」

「おかあさん、だいすき」

「ぼくはさ、おかあさんといっしょがいいんだよね」

先程も一緒にお風呂に入って笑っていました。あの子は随分助けてくれています(本人はちっともそんなこと考えていませんが)。

いろいろある前に、早めに寝ようと思います。

・・の日

 一年の中で「・・の日」という行事が幾つかあります。

家庭によっては幾つどころか毎日が記念日ということもあるでしょう。その場合はどこかのパクリで「毎日がスペシャル」となってその方達はしあわせで何よりです。ただ現実問題としてスペシャルにしようとしたら割とお金がかかるのでコスパ高くいこうとしても、やっぱり現実的に金銭を圧迫します。この場合は後先を考えない人達かよっぽど余裕のある方達であれば何の問題もないです。

ここのところというか、私の家内は仕事を始めてからずっと「理解されるために生きている」そう違うことで訴えてくる家内は、慣れない仕事や職場と対人関係で、理解されていないと自らが思い込みすぎるきらいがあって、日々葛藤や矛盾と戦い疲弊しています。

よってここは声高らかに、家内の旦那である私は宣言するのです。

「今日は名実ともに、(私の母ではないが)あの子達つまりは三人の母である貴方は今日は割と普段しない贅沢なおかずを買っても許されるという特別な日です。

『さあ、この大型ショッピングモールにある食べたい普段憧れている好きな食材を食べきれないほどに選ぶがよい!』

ご遠慮なくどうぞ♪」

ここはですね家内つまりはあの子達にとっても、家内が笑っていればあの子達も心から笑えます。多少の出費は考えないことにしましょう(ただ普段花を贈っていますが、そこは予算的にご馳走に回す分割愛させていただくことの了解はえています)」

食べれないだけ買えば、残りは育ち盛りの子供達はご馳走にはめがないですし、食べきれないということはありませんが、ここはあの子達ように不足の無いようにそれなりなものを保険として購入しておきました。

食事が終わって、子供達と家内がお腹一杯になって、満たされていれば何よりです。
(当然計算高い私は彼らの満足できることを隠れ蓑にあの人達以上に満喫できるよう自らへの配慮を怠っていません!キリッ)


いろんなことがそれぞれの人の上にあります。


悪いことも悲しいこともうまくいかないことも怨みが骨髄までなんてことも、悲しみが世の中すべてを満たすほどのことも、ただそれでも私は阿保になって泣きながら笑っていたいです。

今日はあの人がわらっていればそれでいいです。

 日々いろいろないのですが、いろいろあります。
私にとって目まぐるしく景色や人や場所が変わるというような勤務ではありません。それでもここ一年の内に周りは猫の目のように移り変わり、早く人工衛星が安定軌道に入ってくればみたいなことを願っています。

言葉にすればそれはいたって簡単なことです。自らの過去や現在の言動の責任をとるというシンプルなことで安定軌道に入ります。皆とはいいません。他人を巻き込んで自らの欲に走りすぎた方だけでいいです。他人まで責任を持てというようなことも言わないです。自らの続けてきたことを正しく認識して現在に生きているのであれば現在の善悪・道徳・法律に照らし合わせてその範囲内であれば問題が無くなるというだけのことです。私の家内はずっと私が愚か者ですから

「人を変えるというのは並大抵の努力ではできない」

なんて私に私のことを私に向けてよく言っていました。家内がではなく、私は果てしなく困った人です。

自らを他人事のよう(客観的)に見つめることができれば、幾分ましになるでしょう。およそ悪いことになることの棚上げや特別扱いや自らの言動に目を背け続ける時間が長ければ長いほど、その方もそうですがその近くにいる方は甚大な影響を受けます。当人が受け取らない分余計に影響があります。

知らない人は誰が本当のことを言っているのか、誰が信用に足る人物なのか、見知らぬ人にも初めから嘘をつき続ける人などいないと大抵の人は思っています。

改善しようとか通常に戻そうとか、誰かへ本当のことを理解してもらい良い方向へ行ってもらいたいと思う人は、相手がひどければひどいほど並大抵のことではうまくいかないと思います。

月並みにですがそれしかないので、(事実をあきらかにみて)

ただ「継続は力なり」そうとしか言いようがありません。

はじめてのピクニック(遠足)

 無事に「けいくん」は小学校初めての(動物園への)遠足が終わり、児童館へ迎えに行けば、300円のおやつが多くて食べれなかったことやいろんな動物を見れた楽しかったこと、大好きな母さんが作ってくれたお弁当が美味しかったことを笑顔で報告してくれました。
「けいちゃん、仕事から帰ってきたお母さんにそのことを言ってあげてね」
皮肉です。あの子は男のですから父よりお母さんが大好きです。私がその最初に迎えに行ったことによって初めての報告を聞いてしまい、人は何度も同じことを言うのを嫌う傾向にあります。
私が人一倍その傾向が強いですから私の血を色濃く受け継いでいれば猶更でしょう。
ですからあの子に家内がたずねていましたがあの子の邪魔にならないよう家内へあの子が行っていたことを二人が微笑むことができるようお伝えするのが私の責務です。
二人はそろって微笑んでいました。
家族が微笑んでいられることが増えることが私にとっての幸せです。

しあわせというの本当に矛盾しています。

幸せは相対的な言葉ですから、その反対は不幸せ、不幸と呼ばれるものが出現してくるということを暗示しています。
誰もが欲しくないものであるけれどしあわせを求めればそこが訪れる。

私達はこの世に生を受ければ死ぬことを免れない。そのことと同様のことです。
どこにいても避けようのないただの現実であり真理です。

私は欲張りだから家族や私にとってしあわせを必要以上に求めてしまいます。その高さ幅広さ深さの分だけ失えばそれが私へ必ず押し寄せてくるものであるのに私はそれを求めてやまないのです。

今日もまた私は私の身の程と愚かさを痛感してやまないのです。


「けいくん、遠足楽しめてよかったね」

本当に私は愚か者です・・・・