夜空のお月様

 ふと怠惰にふけり現実逃避の娯楽のみを凝視する過去の私のような私の子供達が眼前にあって、私は私の過去をみているようで自己嫌悪に陥り、子供達に八つ当たりした。

「貴方たちには私も遊ぶことが大好きだから、遊ぶことを容認し奨励している。ただ遊びたいがために『自らがなすべきことを成せ』そう耳にタコができるほど言い続けてきた。遊びたいのなら同時に自らの(中身を付ける)為に、目前の成すべきことを成せ、順番を問うているのではない、真剣な姿勢を父母に見せろ」

家内は家族全員でご飯を食べるように用意していましたが、怠惰にふける子供達に怒り心頭の私は、同じ食卓につける気分ではないので、明日は家内は仕事がお休みでゆっくりしたいでしょうから、皆の朝が楽になるようにという口実をもって

「明日の朝の食パンを買ってくる」

そう言い、同じ食卓から私は逃げました。

外に出て宵(初夜)であることに気づかされ、暗い中ふと曲がり角にさしかかり、田には水が張られ、そこに稲が植えられ、張られた水は鏡の如く星空と三日月をそこに映し私にそれを教えてくれていました。

水田に映る三日月、とある仏教者は水面に映る月、それも一つの真理でそれも月である、夜空に浮かぶ月だけが真理ではなく、水面に映る月もまた一つの真理である。

愚かな私は水田に映る三日月をみて、本物だと思う夜空に浮かぶ美しい三日月をやはり美しいものでこれこそ本物だとやはりおもってしまいます。

いつか、誰かの心の中にある月、水面に映る月、「他どれもそのどれもが真理である」絶大なる根拠をもって言い切れるわたしでありたいと、あの夜空の三日月を見て思う夜でした。


相変わらず私はただの愚か者です。
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あえて

 四月は新しい門出を迎えた次男と三男の学校行事の目白押しで、家内も随分と職場に負担をかけたようで、仕事もたまり職場の方にも随分と迷惑をかけたことに気疲れしていましたが、子供達の成長や普段見えない姿を見れて帰ってそのことを子供達と話す家内は楽しそうでした。あの人はやはりあの子達の母で、冷たくきどって見せる私と随分違いあの人が行って良かったです。

のんびり屋な私なので、周囲が慌ただしければそれなりに動きますが、ゆっくりとした時間をゆっくりと周囲よりもさらにゆったりと時を過ごすことが好きです。
意地悪な言葉で言えば誰かが慌ただしくしていても、私は私の空気や私の時の流れの中で時を流していくことがあります。慌てる私も時にはいいですけれど、大抵何かを忘れ見失い正確な判断より遠くなってミスが大切な時間を削ってしまう傾向にあるから、出来るだけ私の時の流れをあえて作るのです。

単なるマイペースというか自分勝手というか、冷たいというか他人事というか、その辺に自分を置いておくことにします。

今日は特に何もなく私にとっては、ゆるやかな時の流れと青葉の生い茂るさまと、咲く花、活動的な虫達、若葉にみとれながら、何も考えずそれらを眺め、爆発的な成長をみせる筍とそれを見る方を見ていました。

明日は今日と違い忙しくなりそうです。

自分の時間を大切にしすぎないで、周囲と時間を合わせていくことにします。

花飾り

 よくよく考えなくても、好みがあり、苦手なものがあり、どちらかと言えば好ましい方を好みます。(何をあたりまえのことを書いているなんて思うでしょう)。

人でも物でも景色でも、あまり他所へ行かない私にとって、たまたま手に取った書物が気に入らなければ真剣に考えることもなくとりあえず一通り読んでみたというくらいになります。何冊も何冊も書物に目を通すと私の好む傾向が出現していて、これもまた好めない傾向も同時に同じ幅や高さだけ出現しています。
好む世界の広さ・幅・高さ・永遠のように思えれば、その反対のものも極端に嫌がるほどとなっています。だから知り合いから、その本はどうだったんですかと聞かれれば、好ましい本は感動やきらめきと共に饒舌に語ります。

最近読み始めた華厳の本の「はしがき」にその疑問が氷解することが書かれていました。

このシリーズの企画に参加するまでは、アビダルマ・中観・唯識・華厳のいずれにも強い関心をいだきながら、まともに取り組む機会にはめぐまれなかったのだが、このシリーズに執筆された専門家の方がたの論文と、その論文をふまえた執筆者との対談によって大まかな検討をつけておいて文献の検討にとりかかるという段取りで、はじめに華厳からてをつけることにした。
 そこでまず華厳に関する最近の研究書を入手しうるかぎり集めて読んでみたのだが、中国古代に確立された伝統教学に乗っかった煩瑣(はんさ)な議論が多くて、華厳思想の底深い迫力に接したいと願う私の期待は必ずしもかなえられなかった。
 しかし、考えてみれば、これはあたりまえのことなのかもしれない。研究書というものは、宗教にかんする研究書であっても、それ自体が宗教書ではないのだから、それに迫力などを期待する方が見当ちがいなのであろう。空海(くうかい)や道元(どうげん)の書いたものに一種の迫力が感じられるのは、それが抜群の研究書であると同時に宗教書でもあるからであろう。
仏教の思想6 『無限の世界観〈華厳〉』 鎌田茂雄 上山春平著


上山春平氏は「迫力」と書かれておられますが、私はそれを「(智慧の)光」や「まぶしさ・きらめき・雷(魂がゆさぶられるような衝撃)・(段階に応じた)目覚め」などその時に応じ譬え方や呼び方話し方が変わり、いずれにせよ衝撃が全身を駆け巡ることは確かです。以前に引用した文章ですが

初期の大乗仏教徒はいまだ整った教団の組織を確定していなかったし、細密な哲学的論究を好まなかった。むしろ自分らの確固たる信念とたぎりあふれる信仰とを華麗巨大な表現をもって息もつかずに次から次へと表明し、その結果成立したものが大乗経典である。大乗経典は、それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠し、あるいは仏伝から取材し、戯曲的構想をとりながら、その奥に深い哲学的意義を寓せしめ、しかも一般民衆の好みに合うように作製された宗教的文芸作品である。
 『龍樹』 中村元 著 (講談社学術文庫より抜粋)


今になって『大乗経典』を中村先生も「宗教的文芸作品」と同様の言葉で表現されています。

気が付けば、書物に迫力のある書でないと満足できなくなっていたり、そこに(智慧の)光を求め、私が現実世界で狭い行動範囲や束縛の多い場所にいるということから、瞬時にその迫力のある世界や光の世界へ自由に行くのです。こうであれば、現実に私がどこで何をしていようと、求めればそれは手が届くというよりその中にいます。

あの広く高く果てのない青い空をみて、そこに何か貫いていくものをみるのです。

とってつけず、無理をせず

 仕事が休みに家内が仕事ですから、子供達が出かければ家から音が無くなり、今までもなっていたけれど気にならない外の音が何の音なのかと気になるくらいで、自らが立てる音に神経質になって、さらに静かに過ごさなければいけないなんて一人であればそんなことを実行していることがあります。

いかに家内に怠けているように思われず、最低限かつ最大に家事などを行っているかをアピールできて、それでいてマッタリゴロゴロするか、まあつまりは割とゴロゴロして、昼過ぎに帰ってきた「けいくん」の宿題や読書や明日の学校の用意を見た後、次は次男坊の学校準備や読書をみて、(結果的に明日の分になるであろう)晩御飯を作っているところへ友人が近くまで来たから寄っていいか、そんなのは答えるまでもなくいつでもどうぞ、お茶を用意しながら夕方なのに朝と昼兼用のご飯を食べながら待っていました。
近くで勉強会があって凄くわかりやすくてよかったと教えてくれ、「よかったね」とお茶を飲み、今日はあまり引き留めずに早く帰っていきました。

私とは違うの人なのだから、結婚していても夫婦の形は書面上は同じでも中身はいろいろなことが異なるのだと何気ない言葉のやり取りで感じさせられます。若い頃ならそれで相手を否定して言い合いになったり、理解できず喧嘩してみたりなんて、それはいろいろあるのだろうから、理解せず、さらりと流すのです。
ここのところ話す時間が長すぎて、もっと沢山話をしたいのに中身がなくなってしまう私をみてしまい、息を吸い吐いているかのようではなくとってつけたような私をみて、少し嫌悪してしまい、阿呆なのにごまかそうとしているだけの自分は長続きしません。次からは思いつくままな阿呆でおかしく愚かな普段の私のままであろうと思います。

何かにすがるのを強がってなんて情けない私はあまり好ましくなく、普通に笑って楽しくおかしい私でいつづけようと思います。

「しっかり阿呆になれ、私」

 迂闊なことで迷惑をお掛けしました。午前中には何やら避けたいことを避けれず、また首を出してしまい激しく後味が悪い一日となっていました。
新しいことに取り組もうなんてことをしばらく前に考えていたこともぼんやりどころかその姿も形も見えなくなって、何を考えたらよいのかすら、右往左往していることが増えていたように思います。

もうしばらくは考えられないようなこと、不測の事態というか、善いことであれば言うことはないのですが、その反対のことばかり続く気配、あとは近くにいるできた方に一任し決断を仰ぐことにします。目前のことを一つ一つ、先のことはできるだけ準備を怠らず、忘れないように忘れないように

昨日長い時間話した友人がまた近くへ来ると言っていましたが、明日は約束をしていないから偶然休みですが、無理言って時間をとる必要もないでしょうし彼にも都合があるでしょうから偶然に期待せず家事・用事を進めていき、調べ物も本腰を入れなければさっぱりですなんてばかリも言ってられません。

しかし、複数の人の前ではっきりありのまま(よくないことですが)を明言してしまったので、本当複雑です。言わなければ誰もが理解せず、言えばはっきりとした現実が皆の前に現れそれは厳しいもの。

大人になりたいです。

 明日はこの春三度目の学校行事である家庭訪問です。今日は来客があることはわかっていたことですし、明日三男がお世話になる学校の先生が自宅へ訪問してくれるのですから、普段より(来客からは)見えるところだけでも綺麗にしておかねばあの子にも私や家内の普段はさておき、しっかりしているところを見せねば、ボロは隠すためにあり、そんな時に見栄をはるのです!

もう20年位になりますか、そんな月日を変わらず友人である方がまた訪ねてくれ、先程まで私一人賑やかにしていました。きっと子供達もうるさく賑やかな普段とは違う私をみて、良い印象ではない父を思ったでしょう。そんな姿の父もあの子達にとって父なので受け取ってもらうことにします。

いずれにせよ家の中を片付け料理をして、仕事でかなり遅くなるといっていた家内は本当に遅い時間に帰ってきました。ただ家内が前日スープや一品メインとなる料理をこしらえていってありましたので、もう一つメインの料理を作るだけでよかったのでずいぶん助けられました。ただ家の中が荒れないように(そりゃ荒れれば家内の心中は当然穏やかでなくなるので)気を付け無事に友人たちはそれぞれ自宅へ帰るのを見届け、何かをそれぞれが考えさせられるでしょう。

現実は現実として、考えていること思うこと理想に自らがどのようにあるべきか、それについて相手の理解はさておき思うことを言いたい放題の時間が終わり、ここからは私にとって過酷な現実と向き合わなければいけなくなり、次つまりは未来において自らがどのようなものか、それは考えてどうなるものではないものですから、今から何に思い描くことへむけてつまりはその理想へどれだけ摺り寄せるために、一体何が役に立つかわからないものをわからないなりに学ばなければ、その時にまた情けない私をありありと私自身がみせつけられ、激しい後悔などで笑えなくなります。

本当は黙って笑って自らのことを話さない方が楽だと思います。欲張りだから知らないものを見るためにその引き金として私はいろいろ話をします。

もっと深くをみつめていきたいと漠然と思う夜でした。

明日

 明日は休日で、いつもならばゴロゴロマッタリしたいというところですが、有り難いことに予定が詰まっていて、忙しくなりそうですが本当に楽しみです。

友人の明日のやらなければいけないことが上手くいくことを願います。心配するようなことはない方ですから終わってどんなことが聞けるか再度ですが楽しみでなりません。

不安なことは最近特に長男と次男が遊び呆けていることです。おやじ必須スキル、カミナリ落しを発動して、オヤジの威厳というよりオヤジが生きてまだ怒れる力があるということを家の中で発しておきました。これで万事解決となるなんて思うはずもなく、後は私のあの子達を認め信頼し愛するというあたりまえの時間をどれだけ増やし続けてけるかどうかだけです。

趣味やゴロゴロマッタリや現実逃避や遊ぶことに夢中になってあの子達の存在を忘れていることばかりで

「お父さんは真剣に何かやっていることがあるのだろうか」

なんて思われていることでしょう。それに対する酔っぱらっている私はあの子達へ

「真剣に遊び呆けていますよ」

こりゃだめだ、なんて思われているでしょう。ニッコリ笑って

「こんな風になりたくなかったら真剣に自らの為にできることは早めに取り組むのですよ」

ちっとも説得力がないのであの子達へなかなか伝わらないようです。


できれば私みたいにやらなければいけないことを長いこと目を背け逃げつづけ、進みたい道が何かもわからず選べる幅もなくなってしまうようなことは避けてもらいたいなんて情けない私の失敗をもってあの子達へ何かを伝えたいです。

本当は私が笑うことが少ない方が深刻に伝わるのでしょうけれど、皆のこころの前に私のこころが荒みすぎるので避けたいところです。やっぱり明日が休みとなれば一杯やるのです。

怠惰

 先日まで長い間読みかけていた『仏教の思想5 絶対の真理<天台>』をながいことかかりようやく読み終え、その次巻である華厳へ進み始めました。

まだ周囲でいろいろあることを言い訳にして集中できず、長い時間をかけてしまったので次はもっと集中して読みたいのですが、冒頭に気になる本の紹介をしてあり、それを検索してみましたが絶版で一部の間で人気があるようで手が届かない値段になっていて、他に売っていないかと探していたら、時が過ぎるばかりでつまりは何も思いつかない現実逃避であったように思います。

以前中村元先生の『慈悲』を読んでいたく感動していたのですが、本のレビューに「悪魔の書」だとか書かれてあったことを思い出し、個人の趣味や好み相性が書物にもあるので中村先生に対するやっかみか、それとも大好きだという言葉の極にあることで表現したかったのか、私はあまり参考になるレビューに書かない人ですから、悪いことなら猶更書きたくないのでそれもまた個性の違いかといつもそのレビューの言葉を思い出せば考えさせられます。

角川ソフィア版の仏教の思想9とであって、いろいろな書を読んでようやく1から読み始めやっと6の華厳へ、その間気分転換に何冊か手を出しながら読みかけの書がその辺りに何冊かあるのでそれも何とか私なりに理解して読破せねばと考えていました。

ここのところ家では怠惰の極みで、趣味にふけってばかりであまり進んでおらず、近くにある「坊ちゃん」を再度読み始めてみたり、さらに近くにあった「若きウェルテルの悩み」に手を出してみては、「龍樹」(中村先生)を読みかけて、本当どれもが気分転換の中途半端で進んでは戻りの繰り返しからの脱却を図ることにします。

ただ昨夜は趣味にふけって夜遅くまで寝ていましたから、今日は(いつもですが)すべてを忘れて寝ることにします。


問題は明日もすべてを忘れているので昨日何を思い願いやろうとしていたかを忘れている(現実逃避と怠惰の極みの天才である)私に出会うこと間違いないです。

とある日の家庭訪問

昨晩仕事が終わってから、来客が使うであろう部屋を片付け掃除機をかけて、子供には檄を飛ばし

「部屋を今すぐ綺麗にしなさい」

次男と長男は私に雷を落とされたくない一心で、片付けていました。次男と三男の部屋はおかげでビフォーアフターに出れるくらいに思い出を残しつつ綺麗になりました。

「お父さんお母さん見て、見て!」

「綺麗になったね」

それも今日が長男と次男の家庭訪問の日だから、あの子達の部屋を見られる訳ではないですが、口実は大切ですし、来客の予定があれば綺麗にしておかないといけません。
私は朝から少し用事がありましたから出かけ、目につくと困るものを置く部屋は掃除はしたのですが物を沢山おいて見れる部屋にはなりませんでしたが、そこはそこへの扉を開けなければ問題がないはずです。

まず次男坊の先生が来られて、私は今日初めてお会いしました。初対面の印象としてはあの方は私の正反対に位置する武道家です。よく話す私と違って寡黙な方です。私より一つ上だとか、誠実そうな方です。(初見の私的感想です。)

あの子(次男)のこれまでの傾向や実績や嗜好性をお伝えし、あの子の最大の苦手分野である勉学をどうか宜しくお願いいたしますとお伝えしました。もっとも家で責任は私にありますから、面倒をしっかりみないといけないのはあたりまえのことです。(あたりまえのことが私にとって難しいとすぐ言い訳したくなる私が最大の課題です。)

終わって長男の先生がお見えになり、二年の時と同じ先生でこれまでも三者面談などでずっとお話ししましたから、これといって自己紹介もお互い必要もなく、最初から先を見据え話をしていましたから、取り立てて言う話もないので、高校への進路の具体的なことについて話し合いました。

ただ昨晩と用事が終わって先生が来るまでに家事やお花を買って玄関に飾ったりお茶菓子を買いに行ったり、何やら今まで家内が主婦であった時のことを同じようにやっているといった日でした。ただ違う点としては、私にはいらぬことを言いすぎる口・饒舌な口が後に反省材料となることを残してしまったということです。


次回はもっとしっかりあの子達の為もありますが後悔(懺悔)になることを避けるためだけにも、上手にやり遂げたいです。


今日の

 誰かと話すことは、その誰かが誰でもいいとはならないのですが、お互いを害することのないようにと気を付けているのならば、話は楽しくなることばかりです。

優しいからか、自らが苦しんだり・悩んだり・怨んだり・怒りなどに長く染まりすぎたるすることからよく笑うことができるようになった方であれば、言葉にしなくともある程度の前提を省略して深く先を話し合うことができます。

私は私と話をする方がどのような言葉の返し方であるかが、その方の個性が出れば出るほど楽しいです。私と違えば違うほどそれは楽しいです。それは一緒だと私のように愚かで現実から目を背けひねくれたところがあるのかとつい勘ぐってしまう程の愚か者だから、答えは違う方がいいのです。
違う答えに私がどのように対応していくかという私を見るのが好きという、ただの私の知らない私が好きだということになるのかもしれません。あまり考えたことのない問いに

「即座に何を思い、どのように考え、どうしていくのか」

そんな答えを思い付きで出会ったことのない考えに出会う瞬間が好きなようです。この場合その私に出会うと今度は今まで同じ話しかしなかった相手にも知らなかった私の出した答えを今まで知っていた方に、知らないことに対してどのように振る舞うのであろうかという問いをぶつけています。その相手が自らの知らないものに対する相手の答えや反応にまた楽しむ私がいて、それはどんどん重なりつながっていくのです。

どうでもよいことが世界を変える瞬間と大袈裟に言えば言うのかもしれません。

私はそこでまた自らの世界に閉じこもり何かを理解できず、何かわからないのに書に没頭することにしています。本当何かよくわからないのに、気が付けばよくわからない何かは時折みえないけれど複数の人が目にみえるような感じれるようなものになっていることに気づかされることがあるので、本当によくわからない話です。

まったくもって何かよくわからない阿呆な私の今日の独り言です。

体験

 いつもいる場所で近くに長い時間人が入ればその人に良くも悪くも普通にも影響されることはあり、家内は随分いつも職場にいる方にやられて帰ってきます。

家内以外の人には優しいけれど、家内には根性が悪い振る舞いばかりしてくる。「こちらは誰にでもできることをしようとしているしその人にもずっと優しくしているのに、何故そのようなことをずっとしてくるのか意味がわからない。」それは仕事を始めてから一年半程経っても相手は変わらず根性悪いような振る舞いばかりで、本当にその方の行動や思考が理解できず悩まされています。

「無理だと思ったらいつでも辞めていいよ、他にも仕事(職場は)あるのだから」

そういつも私はオウムのように言うのですが、どこにいっても根性が悪い振る舞いばかりをしてくる方はいると思います。私は割と我が強いのでやられた分はすぐにやり返すというより、いつか別の形で真っ当(正当)な方法でその方にお返しすることに熱意を燃やし仕事に力をいつも以上にそんなことがあれば注ぐことにしています。

私だけではないと思いますが、仕事において人間関係で特に自らが苦手・嫌・相性が悪い方でも仕事であれば接点を避けれないことは往々にしてあります。
割り切るか、腹が立つようなことや怨みになりそうなことや怒りそうなことはさらりと流すか、違う大切な仕事に集中して他のことを構えないほどの世界を作るか、かわすか、場所を変えて大事な仕事にとりくむか、人によって対処は変わるでしょうけれど、仕事は仕事お金をもらって仕事をしていれば普通の水準を維持せねば、対価であるお金はいただけないどころか自らを必要とされなくなることもあるので、対処は難しいです。

家内だけでなく家内より随分前から働いている私でも、やはり根性が悪いことを続ける方と時間を過ごせば怨むし怒るし腹が立つし、理解できないし、けれど仕事は仕事ですからそんな人の前であればいつも以上に気を付けなければいけないことは体験上身に染みて理解しました。

今日の休日はゆっくりできました。明日からの仕事も気を付けてやっていこうと思います。仲間を大切にどんな方でも最低限は報告・連絡・相談と挨拶を疎かにすれば私がどうにもならなくなることも最近嫌になるほど体感したことを忘れないようにしたいです。

自転車と学校

 仕事が終わって昨夜の春の嵐のような天気も嘘みたいに、今日は暖かく晴れて仕事が終わってから子供の自転車の練習にでかけました。中学へ上がった次男が久しぶりに補助輪取れている弟の自転車に乗る姿を見て

次男坊「補助輪なしでいつの間にか上手に乗れてる」

私「そりゃ私の息子ですから」

三男「ふふふ」

そのまま「けいくん」と二人で公園に自転車の練習へ、もうすっかり桜は散って青葉をたたえる桜の木へ変わっています。普通に乗ることに慣れてきましたが、まだスピードを出す練習や、立ちこぎの練習、片足で乗ってバランスとか様々なことを欲張って少しずつ練習させています。難しいことにチャレンジして諦めても普通に乗れることがどれだけ簡単かというあたりまえのことがわかってくれればなんて思いますが、普通に乗っていてもまだ危なっかしいのでしばらく柔らかい土と草の上で練習、もう少しブレーキも自由に使えれば一緒にサイクリングに行けると思います。
(こんど一緒の休みがあればサイクリングコースとかに一緒に行ってもいいかも)

少しずつ新入学の次男は中学に三男は小学校に慣れなければいけないと頑張っているようです。

明日はお休みをいただいています。学校が終わってからあの子達との時間をいつもより長く過ごす予定です。

ちょっと職場のことで昨日も今日も時間をとられたので、明日は子供達の用事にでかけてくることにします。

あまり・・・

 四月十七日 (月)曇りのち雨

いつもなら月曜辺りが休日となりますが、忙しいので休日が二・三日先となって、問題もあまりないことは有り難いことでした。
日に日に寒い日も減り、朝晩日が長くなって、一雨ごとに気づかぬうちに草が沢山生え、交代で咲く花の様子をみることができます。

私自身の問題は片付けなければいけないのですが、今すぐでなくても近くにいる方の問題に比べれば少し時間の猶予があるほうです。

「誰かと誰かが仲が良すぎるから」

あなたたちの仲が良すぎるから、こちらは「悪いことや無茶をしていい」そんな話は私はよく分からないです。減らず口の私は「そちらも負けずに仲よくしたらいいですよ」なんてことを思うくらいで、いずれにせよその他いろいろ(悪くない理由ばかり)があったとしても、だから滅茶苦茶したなんて同じような話は私は理解に苦しみます。私もそうですが、悪いことをすれば悪いことを行う方自身が責任をとらなければいけません。

言いたい放題・やりたい放題・とりたい放題、身勝手な三つの砲台を現代人が持ちすぎたり使いすぎれば、先のことをあまり考えなくても答えはすぐにそれをみている人に聞けば教えてくれるでしょう。現実の話、否定しようのない本当のことであればあるほど、私は何も言えません。



ちょっと何かをいろいろと最後に受け過ぎた日でした。今日は一杯やらずに早めに寝ることにします。

比喩と象徴

 (私にとって)まったりとしているけれど、仕事はそれなりに忙しい日となって一日が無事に過ぎたことが有難いと思える日でした。

目にはみえない何かを言葉(話すこと)によって、みえていないけれど一緒にみるように、私をみるというより言葉によってあらわしていく世界、何かが真理であればそれを言葉であらわすことは私にとって無謀ともいえることです。そこで何かを何かに変えていく作業を比喩といい、何かを目に見える形としてあらわすことを象徴化することいえます。

簡単に言えば地図記号でもあるように、神社を鳥居であらわす。これであれば地図を見ているけれど

「海の上に浮かぶ神秘的な鳥居、そうあの厳島神社のようなものですよ」

これもあの鳥居を知る人ならば普遍化している一つの象徴です。

では仏教を象徴するとなると、これはあまりにも雑多でそれでいて日本人にとって普遍化しすぎるあまり、多種多様なものによってあらわすことができます。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)

お寺で響く鐘やその妙なる心地よい音色


汚泥より生じ、その泥に何一つ染まらず咲く純白の蓮の花


全ての悪しきもの滅し燃やし尽くす炎をまとう憤怒尊の炎

一切の戯論(取るに足らない話や議論)を断ち切る(智慧の)剣

正しきことを知らしむるために落ちる雷(稲妻)

不当な落雷を防ぐことのできる自らを守る絶対障壁

年齢に関係なく(幼子から老人)愛され許される慈悲の一端である「心配ないよ」という微笑み

大きなお寺にある、五重塔やお堂の建築が大いなる屋根と華麗なる荘厳は私達が生きている世界に遠い過去から果てのない未来まで貫いていく偉大な真理をあらわすために、象徴としてあるということ

本当に人より随分と遅く気付く愚かな私です。


意地っ張りでとらわれ迷う私は、意地を張り続けるのです。

私は私の信ずる狭く偏ったものでこの素晴らしい世界を除き続け、その果てしない世界と私の世界は同じものだなんて、根拠のないことを拙い言葉でそのあたりの空気に自由にえがいていくのです。

誰も理解してくれなくても、私は割とそれが楽しいです。



あちらこちら

 忙しすぎず暇でもなく、特に問題もなく仕事を終え、明日もまた仕事で忙しい予定ですが家内と近くへお風呂に行こうと約束していましたから、仕事が終わって家内を見るとまだ子供達の晩御飯の用意の途中で、せかしたり待つというのもお互い疲れます。
家内が買ってきて植えてなかった苗を植えたりその辺りの草を抜いてみたり、結局草も全部抜く前に家内の用事も終わったので、雨が少し降る中久しぶりに二人で出かけました。
その間、子供達には晩御飯を食べてもらい、「もし遅くなったら、歯を磨いて先に寝てて」そう途中で二回ほど電話しました。子供達も大きくなってきたから留守番のほうが都合がいいなんてことが増えて、複雑な家内の気持ちです。

出かける場所へ車のナビで普段通らない道を通る設定にして、雨も少し降っており七時近くでたから道中にライトアップされた沢山の枝垂桜の場所に立ち寄ったとき雨も強くなって、真っ暗でしたが、ドーム状に枝垂桜が咲き、その下をくぐったりそこを眺めて暗く雨が冷たかったですが、家内は随分喜んでいました。最近お互いの休日が合わないからこれからは夜に今回のようなことが増えていくかもしれません。

それにしても夜で車を運転しながらでも至る所の桜が咲いて、通り過ぎてみるだけの桜でも美しいもので、昼間なら本当に言うことがないのでしょうけれど、欲張りな私ですから昼間は昼間でもっと欲張りなことを願ったり言っているのだと思います。
咲いた桜はそれ以上咲かず、この雨で散っていくでしょう。また来年会えることを楽しみにしています。

徳島へきて確か15年になると思いますが、早いものです。私もその年数歳をとり、住んでいる場所や周囲徳島の名所などを新しく知った分以上に、いろんなことを忘れています。

咲いて散って、また咲いて散って

桜を見る見知らぬ人の話が聞こえてきて「桜が咲いて綺麗、私らもいずれは散っていくねえ。ああそうか散る前に私たちも花を咲かさないとね」そう言ってその方達は笑いあっておられました。

この時期「こんなところにも桜の木があったのですね」いたるところで桜が咲き美しいです。日本人は本当に桜が好きなのだと家内と二人で話して帰りました。

朝から晩まで、桜が舞い散る光景ばかりの日でした。

 昨日中学になった次男は何かに触発されたように

「お父さん本を買いに行ってきていい」

「いいよ、(お世話になった監督がくれた図書カードで買うのなら)賢くなりそうだと思う本を買うんだよ」

「わかってる」

監督は「これでもっと本を読んで日本語というか言葉を自分の中に増やして、もっと上手に説明できるように」そう言って図書カードをくれました。近くの大きい本屋さんへ自転車へ行って帰ってきたようです。

「お父さん、買ってきた」

「何、見せてどんなの買ったの」

「ほら堅い表紙がついてるし賢くなりそうな本だったから」

さてそのタイトルは

「これだよ」

そういって『騎士団長殺し』 :第1部(顕れるイデア編)村上 春樹の本を見せてくれました。

「凄いじゃない、何でこの本にしたの」

「テレビで宣伝してたのもあるけど、好きそうなタイトルだったから」

とっかかりは何でもいいです。

「最後まで読むんだよ」

「わかった。」

ちょっと私も読んでみたい本であったことは確かなので、読んでない時はお借りして読んでみることにします。(ネタバレなどはしないようにしないと)



いろいろなことがいろいろとあって、その流れにのれなくて、自らにとって厄介流れであればさらりとかわせれば言うことはないです。家内はどうも厄介な流れを上手く対処できずこころが荒んでいる日でした。私がさらりと流してもかわしても、近くに流せない人がいればそのあおりをくらって大変な目にあうこともあります。私も随分今もですけれど仕事に慣れていない時は特にこころが荒んで近くの人に当たって迷惑をかけました。家内も同じように仕事を始めてなにかしらに衝突してこころが痛いようです。

逃げる事が得意な私は役に立たない困ったものです。一杯やることにします。


とある日の「けいくん」

 今週は休みがたまっていた恩恵で休日がいつもより多く、ゴロゴロマッタリしたかったのですが、家内や子供達の目もあるので家事をそれなりにこなし早めに夕食と明日の食事の用意の合間に児童館にいる「けいくん」を迎えに行くと、同じように預けられている子供達が沢山いて、皆晴れていたから外で元気よく遊んでいました。うちの「けいくん」は外より中でマッタリ派のようです。

「お父さん、僕は外より中で遊ぶ方が好きだから、外で遊ぶ用の帽子は用意する必要ないよ」

そう言われてもやっぱり子供は元気よく外で遊ぶことだって必要なことですから、帽子を用意しておくことにします。彼が帰り支度をしている間、沢山の(他の)子達が何をして遊んでいるのか、眺めていました。

ある子達は仲間同士でジャングルジムに上って遊び、ブランコを楽しむグループ、走り回って遊ぶグループ、どうも桜の下に割と大人数の子達が帽子を振っていましたから何をしているのか見ていると、散る桜の花びらを帽子で集める遊びをするグループのようでした。走り回りながら飛び跳ね手を大きく振って、風に舞う花びらを取ろうとずっと楽しそうに続けていました。

自転車で迎えに行っていましたから、早く帰って「けいくん」を桜が舞い散る下で、自転車の練習に連れて行ってあげました。
まだ小さいのでウォーキングで通り過ぎるあの子を見て、「かわいいねえ」そう何人もがあの子へ伝えていました。笑顔の似合う子です。小さい自転車、拙いところ、怪我しないようにつけている手袋と白いヘルメット、上手くいって笑って、危なそうになって笑って、調子に乗りすぎて笑って、無邪気さと素直さが桜の花が舞う姿とよく似あいます。

皆が可愛い可愛いという時間はあの子にとって長続きはしません。身体が大きくなれば可愛いからの脱却となり、新しい何かになるでしょう。

お腹一杯ご飯を食べて、明日の準備をして、早めにあの子達を寝かすことにします。

散る桜

 満開であった桜を二日ぶりに見ると幸いに散っておらず、美しいままでした。

異なる点は風が吹くたび、桜が舞って通りがかった外国人の方が写真に収め、日本人の方も幾人もスマホなどで撮っていました。私は風に流れるさまを、咲いている桜が揺れ花びらが空へ飛んでいくのを何度もみていました。
桃の花も随分散っており、桜と桃から若葉が出てきて、以前みた梨の花は満開になっており、育てている蓮からは芽が出てきていました。

昨年は花をみて何かを思うことや美しさに心奪われるという心の余裕がありました。今年は特に昨年末からいろいろとあって今もまだいろいろとあるので、花を見た瞬間に花を楽しむ余裕が本当になくて、随分時間が経ってようやく気が付かされる春です。
良い方向性のいみでなく
「(あたりまえのことがあたりまえでなくなれば)あたりまえであったときの有り難さが随分身に染みる」
そう近くにいつもいる方とぼそっと話をしていました。

早くいろんなことが善くなるとかそんな理想は欲張りなので、あたりまえのことがあたりまえであって欲しい。そんなことを言葉を交わさずともお互い願っている日であったように思います。


今日は飲み過ぎず早めに就寝することにします。

雨の中桜咲く

 次男坊と三男坊にとって、新しい学びの場が始まる日で家内は昨晩からその支度などで忙しくしていました。当然朝は食事や彼らと自らの用意で慌ただしいのはいつも以上のことです。

午前は小学校入学式、午後からは中学校、式に参加することも家内は疲れていましたが、私はその間不届き物で、家事や居残りの子供達の面倒や勉強を見ながら、新しく学校へ入るとなると書かなければいけない提出書類や教材や明日の用意などを子供達と一緒にして、光の当たる場所には最近仕事を始めた家内は子供達との接点が主婦時代より激減していますから、大切な時ほどあの人が出て一緒に過ごしてくれればいいです。そんな大義名分を持ち出して私は楽な方へ逃げるのです。(人前に出るのは疲れるので嫌です。)
普段のことなら問題はないです。華やかな所は落ち着かないですから避けれるものは避け続けなければいけません。
お昼と晩御飯と用事をして、晩には今年高校受験を控える長男坊と進路のことについて雑談をして、長男坊には次男が朝起きてから空いた時間に遊ばさないようになんて、「貴方と違って彼は朝くらいしか勉強しないきっと部活を始めたら彼は晩に勉強しないよ」と遠回しに彼と次男へ軽いくぎを刺し、今日が終わっていきます。

明日は二日ぶりに仕事、仕事場も複雑な問題が山積みですから一つずつ片付けていかねば、このままでは大問題では済まなくなります。今のこともこれからのことを考えれば早めにしっかりとした対処を皆で協力していかねばいけません。

明日が小学校二日目になる「けいくん」は、楽しそうに微笑みながら

「明日の朝は一人で小学校までいくから」

本当何でも一人でやりたいという欲求がでてきています。私や家内の干渉(束縛)から脱出して大空へ羽ばたこうとしています。


あの子達の為もありますがむしろ私の為に、いろいろとやらなければいけないことがありますから、一つずつ一つずつ思いついたときに終わらせていかないといけません。

何もなく

 平日の連休、昨晩はいつもの如く翌日仕事がないという気のゆるみから3時半まで一人で飲んでいる始末、おかげで朝眠いこと眠いこと、というか午前中は良く寝ていました。今日まで次男と三男は春休み、明日から学校が始まります。雨のせいで桜を見るついでに自転車の練習にいけず、残念でした。

伸びすぎている次男の髪をお風呂前に散髪して、ついでに自分もそれからお風呂に入り、家内が仕事から帰ってくるのを少しだけ家事をして現実逃避つまりはまたまったりごろごろして待っていましたが、なかなか帰ってこず、仕事の大変さを考えさせられました。
明日もまた続いて何故か休みをいただいてます。

家内と休日同じ日であれば、どこかへ行くのですが、それぞれ一人で楽しく出かけることをあまりしませんから、そのうち休日が一緒であればと少し欲張りな願いを持っています。

今日は何もしていないから、掃除を少し洗い物を少しとほかはまったり、昨晩はお酒をずっと飲んでいたので今日は慎み、しかも遅く寝ていましたから早く就寝することにします。

これから残ったものをいただきゆっくり夕ご飯にして、やはりまったりすることにします。


この春休み子供たちのうち上の二人はカードゲームにはまってしまい、隙あらばそのカードゲーム(デュエマとかなんとか)の話かカードを見て戦略を立てるか、どうとうかこうとか、ああでもないこうでもないとか、あの二人最近うるさいです。