冷たい

 以前(学生の頃)、忙しくしている人が近くにいるのに、コタツで寝転びこっそりと現実逃避していました。暖をとりに来られた方が私に気づき、「向こうで誰それがばたばたして慌てていたよ」私を責めるでもなく教えてくれました。
身体は温まっているけれどこころが冷たい私は、「見ていないけれど、どうも彼のやり方だと初めにこういう感じでちょっと良くない方向へ行って、それが問題へと発展して、対応できなくてばたばたしてるんじゃない」そんなことをぼそっと呟いていました。教えてくれた方は「それだけ見ていなくてもわかっているなら、いってあげたら」頭でわかっていたとしても現実から逃避している私には、あたりまえは遠く、まして善いことや他人のことをなんて思いつかない冷たいことばかりでした。これは今でも家内からは、私が「冷たい」と言われたり言われなくても思われていることがあります。

今日は珍しく雨が降り続き、かなり冷え込む日で職場から見える咲きかけた桜の開花も止まっているかのようでした。

愚かで怠惰な現状をみつめることなくして、ただ目に映る方や近くの方の現状を切るような言葉は冷たく鋭く、気心が知れた方ならば「ウワーざっくり切りましたね」と教えてくれます。

冗談にとってくれれば、冷たくなく一緒に笑えますが、いかに冷静を装い無関係を装い目線をそらし、その状況を嘘を言わずに短い言葉でありのままから揚げ足を最後に一つとれるか

これが今日の「冷たい」という冗談の日でした。
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無事に仕事が終わって家に帰ってみると上の子二人はいつものように仲良く遊んでいました。共通の趣味を持てばびっくりするほど仲良くしているので、家内と二人でそれをみて驚くこともあります。

六年離れて生まれた「けいくん」はその輪になかなか入らせてくれず一人でいますから、難しいことです。ただあの子ももうすぐ一年生ですから新しい出会いがあって、きっと今よりいろいろと楽しいことも増えてくるでしょう。

仕事中に友人から電話があって、古い友人が訪ねてくるようなことを言っており、近くにいる皆で会うのなら一緒に行くよと返事をして、割とその古い友人は以前から私は苦手で、今も苦手です。
何故苦手なのかわかりませんが、気が付けば言い訳して避けようとする自分がが出てくる確率が高いのでその方を苦手なのだといつも私は思います。特にその友人は私に危害を加えたことはないのですが、つい避けてしまいます。ちょっと私の中にあるくだらないものは捨て作ることもなく、何も考えずに会うつもりです。

明日の仕事も忙しい予定です、一つ一つ落ち着いてこなしていくことにします。

(さあ、一杯やっているけれど、さらに一杯やることにします)

卒業(スポーツ)

 次男の通っていたスポーツも小学校卒業に伴い、卒業となります今日はお世話になっている監督があの子にお祝いを用意してくれていました。

「これで好きな本でも買って、もっと日本語の言葉をもっと覚えてしっかりと説明のできるようになって欲しい。」

そう言って図書券をいただきました。次男は体はよく動きますが本はあまり読まないし、話すより動くタイプですから、会話が大好きな監督はきっとあの子ともっと話したいから図書券を贈ったのだと私は勝手にそう考えていました。

本当、次男坊は長男坊と違って「この本面白いから読んでみるといいよ」そう言えば言うほど、外に遊びに行くことでした。まあそれがあの子の個性なんでしょう。
私はあの子の親ですし欲張りの代表で無いものねだりの代表でもありますから、早速あの子と一緒近くの大きな本屋にいってあの子の好きなためになりそうな本を選びに行こうと思います。



私からの卒業祝いとして、あの子の好きそうな本を一冊プレゼントすることにします。

攻めず

 少し困るくらいなら悩むことも少なく、それもまた簡単に忘れて次のことへ

「困窮する」例えてこの言葉となるのなら、それは悩むどころか怨みや怒りなども付随して、いくら困窮や怨み怒り悲しみを捨てたと思っても離れない、そんな言葉です。

普通に私はお給料をいただき仕事をしており、その中で一般に使われている意味ならばサラリーマンと呼ばれるものですから、上司の指示に従わなければいけません。ただ仕事で悪いことを行うことは、私もあの子達の親ですから避けなければいけません。もっともそれは誰もが同様です。

こちらに結婚して引っ越してから、それなりの月日が経ち、以前はよく自らの心中にある怨みや後悔、それは他人が私に擦り付けたわけでもなくいつだって自らで作り続ける負の思いなのですが、それによってよく潰れそうになりました。

今は以前よりましになったというか、すぐに一人で夜に泣くか、人前ならば笑って流せるようなことが増えました。結局私は苦しみというものが、その時によってとらえ方や感じ方処理の仕方が違っているのだと思います。それはきっとこれからも違って行くような気がします。

一日一日さらりと問題になる前にいろいろなことは流し、仕事をすすめ、何かをみつめていきたいです。

どうやら私の弱点である、困難から逃げ続けた何年間の技術が最近役に立っています。逃げながら仕事をこなしていけばさしあたって大きな問題が片付くまで、そんなスタンスで臨まなければ正面衝突すれば私が砕けそうな気配です。

お給料をいただいているのだから、全て放棄なんてできません。いただいている分はしっかりこなし、一日一日送っていくことにします。

準備

 引っ越しをして以前より小学校への通学路も少し遠くなり、四月から入学する三男のことで家内が

「学校まで(通学路)一緒に練習をしてもらえると」

「幼稚園の送り迎えの時から、けいくんとは、ここでとまってとか、ここで信号みてとか、右左みて車が来てないことを注意してと伝えてあるから大丈夫だよ」

「お兄ちゃん(長男)と言ってたのよね、絶対お父さんは練習一緒にしてと言ったら何か言うよって」

「何か言うも、(必ず何か言うんだけどね)今まで練習してるから心配ないよ」

昨晩はパソコンの前で趣味に没頭しながらお酒を飲み気が付けば、朝の4時を回っていましたから午前中は死んだようになっていました。その時電話が鳴って友人からの電話で起き随分話し込みました。来月こちらへ来る用事があるからその後お昼御飯でも食べようと約束をして、春休みで子供達は全員家にいましたから一緒にご飯を食べて兄二人は友達の家に遊びに行きました。
残された私と「けいくん」は小学校まで

「一緒に練習行こうか」

車が来そうな場所と信号に気を付けながら小学校へ到着、もと来た道を気を付けて戻り、それから彼の今流行りである自転車で買い物へ、回数を重ねるたびに上達していますが、油断も増え時折ヒヤッとすることがあります。けれど自分のお財布をもって、その中から美味しそうなジュースを155円で購入し、夜ご飯の買い出しをして帰ってきました。

子供達三人にそれぞれもっと時間を勉強などのかけねばと思いますが、遊ぶことに夢中なあの子達をみていると複雑です。勉強が楽しそうなあの子達であれば私の悩みなんてなくなるのかもしれませんが、私にしてそんなことはありえないでしょう。

私もあの子達も趣味や遊びに偏りすぎないようにだけ注意したいです。

 物事が上手くいけば喜んでくれる方が多いのですが、上手くいくことや周囲や相手より自分を優先させる方がいて、そんな方が権力があれば、そのような方と身近で関わりを避けることができない人ならば、不遇な目にあいたくないのであれば悪くしかなっていない事実や現状をありのままに伝える方も少ないです。当然私だって自らも家族も不遇な目にあう恐れがあるのであれば悪口でもなんでもないのですが、そのありのままを口にすることはためらいます。

私のことは私が気を付けていれば問題はなく、ただ知らない方であれば巻き込まれて慌てふためき奔走する人を何人も見れば、誰もが損害の少ない解決方法をやはり考えてしまいます。
どこまでいっても皆が気を付けたとしても当人が気を付けなければ、誰かがとんでもない目にあうことは避けれないことです。

今日もまたそれを考えさせられる日でした。




明日はお休みですので、変なことはすべて忘れ一杯早めからやって楽しく酔っぱらう私なのです。

悪気と知恵を使う

 現実に対して理想を思い描き、それに向けて努力し少しずつでも前に、不平不満だけこぼしてばかりで何もしないより、馬鹿にされても今後のことを考えるのなら誰かが少しでも前にと行動していることは無駄にはならないと私は思います。

問題を一人で抱えすぎることも問題ですが、時には問題が多い方がその人は大きく成長することがあります。潰れるか成長するか逃げるか、他にも選択肢はあるでしょうけれどどれかよりの答えをよくみます。

冷たく近くにいる人には「もっと背負え」と願います。

簡単に言うと何もせず揚げ足を取り続ける人になるより、問題を我がことにおきかえ少しずつでも改善しようと努力する人間であってほしいという私の偏りでありおしつけてきな思いのおしつけ、そうでなければ困っている方や頑張っている方などを何一つ理解できないのでは困るなんてまた偏りをおしつけがちです。

では私が背負えばいいのではと言われます。私が背負えば私が逃げるか成長するか勉強になるかのことです。私は違うものを考え違うことを行って、没頭し笑っているなんてかなり変わった態度をとります。

これは本当に面倒くさい私が出現しています。

今日は悪気がないことと、知恵を働かせることと、その人によって異なる使い方を空いた時間に例えて話して皆で笑いました。明日はもっと忙しくなるので、慎重に一日を無事に過ぎるように努めたいです。

 一日、一日、気を抜かずに取り組んでいかねばいけないと思わされることがあり、ただ仕事も順調で楽しいこともあり一日が終わっていきます。
以前は洒落にならないことが最近少し笑えるようになりました。というか笑わなければやってられないので笑うしかないです。

友人に用事があって今朝電話したのですが、用事がまだ終わっていないため挨拶をしただけで電話を切らなければいけなくなり、話が出来なく残念でした。順調に物事が進めば言うことはありません。

あれこれといらぬことを考える時間より、今やらなければいけないことを進め、先に困らぬように何か準備をしておかねばと思う日でもありました。

近くにいる人の洒落にならない問題も早く終わればくつろぐでしょうけれど、大事な問題であればあるほど急ぐよりも丁寧に進めてもらいたいです。時は有限で誰にも同じですが、急いては事を仕損じるといいますから、そうかといって時間を徒にかけることなく、問題の他でなんとか力になれればと願います。
そうかといって阿呆で愚かな私ですから、一緒に笑うことか、阿呆は阿呆になってただ笑って泣くかくらいでしょうか。けれどやっぱり泣くのは悲しく惨めになることもありますから、おかしいことをおかしいと一緒に笑う時間を増やしていきたいです。

まだ私も近くの人も成長できるのですから、他人が驚くほどにできるだけ善い方向へ自らの為に伸びていかねば。

(まあそれが駄目そうなら、誰よりも阿呆になって笑うしかないですね)

 専業主婦であった家内が仕事に行きだし、私は平日が多めの休日ばかり、家内は暦通り土日祝日が休日ですから、たまに日が合うとしても予定がなかなか入ることばかりでした。
温泉好きな私としては、日帰り温泉入浴だけなら何百円かでいけるのにちっとも行けていません。私一人で行って「いいお湯だったよ」なんて、一人だけだと心から楽しめません。それにちょっと後で困ったことになるかもしれません。楽しく温泉の話をしていたら大抵次の言葉がでてきて

お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ



例えば私の悪い癖なども、温泉に入って治るかなとたずねてもですよ、「惚れた病」と同じ扱いをうけます。これは近くにもし根性や意地が悪い人がいれば、「連れて行ってくれ」と頼まれその次に「名湯なら治るんじゃないか」なんて発展もあります。

学びが疎かになっているので学生時代にみた本をじっくりと理解を再度進めていたところ

いま真言の法(のり)を行ずる人は、まさに次のことを知るべきである。すなわち、「一切の有情(よのひと)はいずれも如来蔵性(ほとけのさが)を含み有するがゆえに、みな無上菩提(こよなきさとり)に安住する任に堪えうるものである。さればこそ、二乗の法をもって得度(みちびき)してはならぬのである。
 そこで、『華厳経』にいわく、「一衆生として真如(まこと)の理(みち)と、それを証(さと)る智慧との本性、つまり如来蔵性を本より具有せざるはないのである。ただし妄想(まよい)と顛倒(さかさま)と執着とをもってのゆえに、それを証果(みにつ)けることができない。もしこの妄想(まよい)等を離るれば、始覚(はじめてのさとり)の一切智と本覚(もとよりのさとり)の自然智と始本不二の無礙智(とけあいのち)とを現前にすることができるのである。
現代語の十巻章と解説 栂尾祥雲訳著より抜粋



名湯に入れば、温泉に入る前には身体も綺麗に洗ってつかります。いい湯なら心の垢も落ちそうなほどだと思えることがあります。

さて私の心の垢であれば、私の心ですから自らが洗い流して落しせばいいです。誰かのとなると誰かの心をちょいとお借りして綺麗に洗って流して元に戻せば問題もないのでしょうけれど、人を解剖して「心がこれ」ですなんて話も聞いたことが無いです。私の心だって洗い流すことはかなり根気や努力や継続や善いことを続けなければ、綺麗に一瞬でというのは私だから余計に難しいのでしょうけれど、違う誰かとなれば問題はその比ではありません。
さらにその誰かが治す気もなく、もっと悪いことを大きく育てようとか更に他にも悪いことを拡大させようと願っていれば難しいなんて比べる話ではないこともあります。

さて何故あの引用であったか、どの書物の先生の名前は今忘れていますが(後で書物と名前を調べなおしておくことにします)

誰もが生まれ持った仏性そのものは成長と共に次第に失われていく、けれど元々持っている仏性を光り輝かせ(顕現させ)るために私達は子供よりよく動く身体と磨くことができる頭脳知恵が発達していく


言葉が正確ではありませんが、初めてその文をみて感動しました。幼子にみる眩しいほどの光は大きくな(成長す)るにつれ輝きが減っていきます。

始覚(はじめてのさとり)の一切智と本覚(もとよりのさとり)の自然智と始本不二の無礙智(とけあいのち)とを現前にすることができるのである。



もとよりのさとりは幼子では自らのとらわれやかたよりや知恵が邪魔をしないため、まばゆくひかってみえます。知恵ではなく(仏の)智慧に近づけば、浅知恵とならず悪知恵とならず、自らと他者を助ける智慧になる過程となり、当然初めは光っていても昼行燈のようで、あるのにないと認識すらされます。だから無理だと私の様に自らをみつめることをやめたり、安易な方へ逃げたり、誰かと何かのせいに長年にわたってする必要はないことです。


一つのものが二つになり、二つのものが一つに近づこうとする。

これが「生」と「生きること」と最終は万人が避けることのできない「死」です。




引用など堅い文章なんて使わない文にすれば



「いいお湯ですね、(身も心も)すっきりですよ」

まあこれくらいだという話です。




(本当温泉に入ってさっぱりしたいのです)

衝突

 昨晩久しぶりに家内と少し口論があって、最近いろいろあるからとか酔っていたからとかせいにしてはいけません。なので今日いただいていた休みは、家のことや春休みの子供達の時間に全部つぎ込み、家中の部屋掃除・洗濯・整頓・料理、いわゆる家事オヤジ三昧の日でした。帰ってとりたててすることもないから、家内もたまにはゆっくりできることでしょう。

 今から次男のスポーツを迎えに行って、ようやく一杯やることにします。

子供達の勉強や読書など、手伝いもですが、外に出て遊んだり、まだ下の二人は子供らしいので、子供は元気よく外で楽しそうに遊んでいれば、忙しくても何かいろいろあっても、ほっとします。

今日は知り合いがたずねてきているからと連絡があったのですが、交通や時間の関係上なくなって、残念ですが忙しい日でしたから夜これからを満喫することにします。それにしても誰に似たのか一日ずっと「けいくん」といましたが、よく喋る子です。

次男も三男もこれからずっと春休みで学校がありませんから、遊び呆けないように、晩に明日の予定を書いておき、当日実行していなければ、しばらく「ゲームや遊びは禁止」なのです。今のところ二人とも一生懸命にお手伝などを問題なくこなしています。明日の準備をしてあの子たちにも私も備えることにします。

ニッコリ

 逃避癖のある私は現実、つまりは今より先のことを考えることが好きな傾向があります。過去にとらわれ泣き伏すこともありますが、どちらかといえば先のことを考え一人で笑っています。

「こんなふうであれば皆も楽しめるし、皆はともかく私は最高にわらっていられる。」

そんなことを私はよく考え、現実逃避しています。今のことは考えるのではなく、それは考えれば今の動作は止まっているので、行うことが正しいですが、私はひねくれものですから止まって、先のことを考え笑っています。

「ふふふ」

近くにいる優しい方達は、そんな一人で笑っていれば

「どうしたんですか」

つまりは何を考えているのですかと優しいがために、ほっておいてくれません。私は楽しいことを考えるのが好きです。それはきっと「それは大抵の人ならあたりまえですよ」なんて言われる人もいます。

今日はまた近くにいる人と今後の何かについて、独りよがりな思いを伝えました。その本人が行っていた通りです。

「継続は力なり」

私の力になるのではなく、成し続けた当人の力がつき、当人だけでなく当人の近くにいる方の助けや一筋の光明となれることです。

酔っぱらいは無責任に言い放つのです。

「私の分までがんばってや(それだと貴方に徳も備わるし、近くに私がいれば私も助かるんやで)」


どうやら二人でニッコリできる気がします。

 以前出会ったことや人だとしても、その時の私が気づかないことばかりで、それは何も今も何ら変わることがなく、現在の私が出会って幾分か私の努力や経験や出会・別れ・喜び・悲しみ・苦しみ・怨み・年月・笑い・辛さなどに比例して理解できることが少しだけ増えたということを申し訳ないことでありますが、後れて出現することばかりです。

今日は楽しい夫妻とお話が出来ました。

その旦那さんは私の家内の愛情の出現方法が同じではないですがよく似ています。その方のお嫁さんは私の偏った愛情や優しさと違う出現方法ですが、私より長く連れ添っておられますから、先輩でありますしお二方の努力や愛情に尊敬してやまないものでした。

私もそうですが理解できないことを理解できない時に、いたらぬ私はそれを駄目なものや失敗とか悪いことに結び付けがちな人もいます。現在の私は少しだけそれより違った思いを持っています。

「夫婦が100組あれば、100通りの夫婦の在り方や愛情がある」

そう私に随分前から教えてくれる優しい方います。初めてそれを聞いた時の私の答えは

「そんなことないでしょう。正しい一つしかないでしょう」

本当何の悪いことすら感じもせず、恥ずかしいことも何一つ思わず、ただ自らが誰に頼まれてもない独りよがりで勝手な理想を声を大にしているような若い頃でした。

言い訳として現在はそうは思っていません。随分前にも違う形で引用した敬愛してやまない先生の言葉が私の言葉よりわかりやすいですから

わたしの好きな道元の言葉でいうなれば仏教とは「森羅万象」あるいは、禅家の好んでいうところの「柳緑花紅」である。森羅万象をしいて一つの型におさめようとするは存在の実相をゆがめる所以、柳は緑、花はくれないなるが万物のまことの姿である。人もまたおなじである。時に即し、機に応じて、それぞれの花を開かしめその実を結ばしめるのが、仏教という宗教のすぐれた功徳であらねばならぬのである。なるほど、根本仏教と大乗仏教とは、いろいろの点においてその趣を異にする。時には鋭い対立をすら示している。だが、より高い観点に立ち、より深い思索をこらしてみるならば、そのことがそのまま、仏教という宗教の広大なる所以を物語っているのであり、そこにこそ、仏教の永遠なるいのちの泉が存するのであり、それこそが仏教が万人の宗教たる理由でなければならない。
 わが家の花が赤いからとて、花はことごとく赤くなければならぬといったならば、それは愚かしいことでなくてはなるまい。赤きがあり、白きがあり、黄なるがあり、紫なるがあって、わが花園はいよいよ繚乱としてあでやかとなる。しかるを、あるいは根本仏教のみが真の仏教であると主張し、あるいは大乗仏教こそはまされる仏教であると言い張るならば、それもまた同じように愚かなこと。仏教の花園もまた、それがあり、これがあって、はじめて百花繚乱たることをうる。わたしがいま根本仏教と大乗仏教とを並べとりあげて、その会通(えつう)を語らんとする所以もまた、まったくその他はないのである。
(増谷文雄著「根本仏教と大乗仏教」より抜粋)



私はまだ偏りとおしつけと愚かさから脱却はできておらず、ようやく他所の家に咲く花が違う色であることに気が付き、その花が美しく咲こうとしていることや、咲いていること、これからも咲き続けて欲しいと願うように時には思います。

私は私の花をみたいです。

「私の花の色が何色なのか」

この言葉は、ここの主題とも似ています。



「何かとは何なのだろうか」


私よりきっと大人になった私の子供達にたずねれば、その花が何色でどのようなものであったか


それが客観的で楽しめそうな気が現在は何気なくそう思います。


今日お会いした私より先輩のお二人に

「もっと美しい花を私はみたいです」




本当愚かで偉そうな私で困ります。

願って一人

 過去をひきずるどころか、相手の尋常ならざることに激しく怒りか怨みか報復のような熱を持つ日で、ただ近くにいる人にそんな激しいことを漏らす、たき火であれば距離によっては温まるでしょうけれど、煙に巻かれるほどの煙なんていただけませんし、火の粉が激しく飛び散れば、賑わいにはなるかもしれませんが、ずっとそんな調子であれば周囲もさぞや疲れたことと他人事のように思います。

今日は一人静かに晩御飯をいただき、取り立てて何もする気もなく、ただ家内に頼まれていたことくらいはしなければと思います。
明日もまた仕事ですから朝食も昼食もさきほど購入しておき、あとはゆっくりして寝るだけです。

他人のことには厳しすぎる私で、私のことには私はしっかりと私をみるどころか、見ても目を背けたり私に甘い答えをだしてばかりな私をみます。

誰かに対して厳しくあるのならば、私に対しても厳しくて当然、そのあたりまえが私はできていない。みるだけでなく、聞くだけでもなく、たずねて答えを出すだけでもなく、何も考えずにあたりまえのことを実行していく私であれば問題は少ないでしょう。
明日はそんな私であるように、あれこれと考えたり喋りすぎたりするでもなく、一つ一つ仕事をこなして、柔らかい言葉と柔らかい対応と、できれば誰にでも素直な笑顔を出せればと今日もまた欲張りなことを願います。

もう少し一杯やればきっとそれが簡単にできるのかもしれないので、お風呂に入ってもう一杯、先へ進むことにするのです。

おめでとう

 今日は昨日に引き続き、卒業続き、「けいくん」の卒園式の日、仕事だった私の代わりに一人家内が参加してくれていました。
どうやら家内がその様子を残業が終わって帰れば教えてくれました。

「お父さん、最近のよそ様の参加状況は両親ともに参加が当たり前で、今日も沢山のご両親が来てたよ」

「えー、そんなに幼稚園の会場も広くないのに、一家族から一人でいいと思うんだけどなあ」

どうやらですよ、私は最近の学校などの参加状況の理解が生きた化石のようになっています。多い所は兄弟やおじいさんおばあさんも参加していると教えてくれました。

「それ会場に入りきれてないでしょ」

「椅子とかも足りてないし入れてなかった」

「だよねえ」

どうやら少子化の影響か一人の子供に大人が手をかけたりする確率が増えているなんて考えさせられました。詳しい理由はともかく

「けいくん、卒園おめでとう」

仕事が終わってから何度も彼にそう伝えました。いつものように笑っていました。彼は本当に笑顔が多く素直で私によく近づいてきます。どうも他の方にも笑顔で話しかけ近づいていくので皆可愛がってくれているようです。

素直で子供らしく笑顔が多い。あの子の良い所です。

おめでとう、私からの願いだけれど良い所が小学生の間はそのままつづいてくれればと欲張りなことを願います。

おめでtou

 昨日に引き続き、今日は「けいくん」の卒園式でまた家内が参加してくれました。家内が言うには

「お父さん、最近の参加者は両親二人が当たり前で、私一人だったからポツーンとしてたわよ」

「そんなに広いところでやるわけじゃないから、代表一人でいいと思うけどなあ、それに仕事皆休めるの凄いな」

確かに発表会なども両親で参加していたりすることも小学校でもよく見かけます。少子化で子供が少なくなったから一人に手をかける時間が増えたのかなんて考えさせられました。家内へ

「そのうち両親だけじゃなくて親族一同で参加する人もいるんじゃない」

「何言ってるのお父さん、もうすでに両親だけでなくてお爺さんやお婆さんも一緒に来てるとこもあるわよ」

「・・・・・・・・・・」

どうやら私は現代についていけず、家内一人に任せてたら問題ないと思う少数派の生きた化石のようになっているようです。そんなことはまあともかく、「けいくん」に残業から帰って何度も

「卒園おめでとう」

そう伝えました。どうやら明日は皆でその報告に家内の実家へ帰省するようです。私はその間仕事ですが家族が留守の間ちょっと静かな日になるでしょう。

気をつけていってらっしゃい。一人で飲みすぎに注意することにします。

別れ

 次男の小学校卒業式、一番大事な学校行事はずっと家内が主婦であったから参加してくれていて、仕事を始めてもそれはずっと変わらずに参加して欲しいと勝手に私は思っています。
いつも話し上手で器用な長男と違って、無口で不器用なところがありますが運動神経はよく足も速いから、彼は言葉より動きや行動で私達へ示してくれます。無口なのでわかりにくいですが優しいです。子供らしい子供で家内が随分とそれで安心しています。

三人男の子が我が家にいて、あたりまえですが三者三様で性格や好み話し方も違います。卒業式が終わって家に帰ってきてから玄関の前で写真を撮り、中学で使う新しい自転車の前で撮り、それからお昼を食べて彼は友達のところへ遊びに行きました。
春から中学生、彼はあまり勉強は得意ではない方ではないので、家内が心配しています。

「春休みの間、中学に向けて少しは準備(勉強)しとこうね」

家内の愛情から出る言葉でしょうけれど、本人にとっては重荷でしょうが優しい子ですから家内の優しさは受け取っているようです。

あたりまえのことが書いてあって「別れがあるから出会いがある」まあそれjはそうなんだけど、なんて思いながらそこはあまり深く考えないようにその時はしました。

私にとって大切だと思う人であれば、別れということは望まないからです。生きていて離れるだけならまだということもありますが、私にとっても大切な人達も生きていればいつかは死んでしまうということもあたりまえのことですから、深く考えないようにしたということが正しいです。

そこからまたあたりまえに、「一時も無駄にせずやれるだけのことを」なんて思いすぎたり実行したりすることが私は怠けてばかりですから、考えないのです。きっと私はまたとんでもない痛い思いをした時にそんなあたりまえのことを思うのです。


そんなあたりまえのことは忘れて、彼の卒業を一杯やって祝うのです。

 善いことがありすぎれば勘違いして、ふつうであればあたりまえに浸りすぎてあたりまえや感謝を忘れ刺激を求めたり、悪いことがありすぎれば善いことを必要以上に求めたり怨みに染まりすぎたりあたりまえのことがどれだけ有り難いかを再認識してみたり、およそ欲張りで物事を転倒(逆さまに)してみることが多い私です。

誰かがおかしいことを指摘することは簡単なことですが、同様に自らがおかしいことを指摘されれば腹を立てる私自身がそこにいれば、私は一体なんなのだろうかと考えさせられ、簡単に言葉を出すことができなくなり息苦しくなることもあります。

ただ好き放題言ったとしても、周りにもお互いも何の問題にもならない相性の人は存在しています。これだって矛盾しておりそんな人がいれば何を言っても問題にしか受け取ってくれない人がいることを痛い思いと共に教えてくれます。

私は私の愚かさを隠すのでもなく・無くすのでもなく・拡大させるわけでもなく、ただありのままに私の愚かさと共に生きていくしか道はないのに、その流れに逆らうようなことを私自身が行えば激しく痛い思いが訪れてくれます。

さらりと流れ、愚かさを自然に笑えれば、愚かさが以前の愚かさと同じことなのに違うものに代わって、さわやかな風が吹きます。


いつも笑って私の中にある邪魔になるものは吹き飛ばしたいです。

とある

 たずねてみると、自転車で買い物に行きたいと本人「けいくん」は答えてくれました。
まだこけて前に進めないので、補助輪を以前より高く設置して難易度を前より上げ、私は歩いたり走ったりして彼を誘導し近くのスーパーへたどり着きました。

「おとうさん、ぼくは、はじめてじてんしゃでかいものにきたよ」

笑顔で私にそう教えてくれました。

「好きなものを選んでおいで」

彼は一つだけそんなに高くないものを選んで喜んで戻ってきました。私の昼食も一緒に購入して

「おとうさん、これ(買ったもの)はぼくのじてんしゃのカゴにいれてかえろうね」

「そうだね」

途中一回派手にこけてしまったので、荷物は私が持ち、それから近くの公園によって

「公園内は車がこないし人もいないから、下が土と草だからこけてもいたくないから、公園内クルクルと自転車で走り回っていいよ」

「はーい」

しばらくして飽きてきたら、今度は遠回りしながら次の公園へ誘導、また先ほどの言葉を繰り返し、これを三回繰り返してから、彼の自転車に乗って初めての買い物は終わりました。

お風呂に入りながら、今日のことを二人で話して、歯を磨いて寝に行く前にも今日のことと今度の休みも自転車でと話をして、彼は笑って布団をかぶって寝ました。

一つ問題があるとすれば、彼の自転車のカゴに私の昼食用にうどんのスープを帰ってすぐ食べれるように一つ買っていたのですが、彼のカゴの加護はなく、破れて漏れていたことに帰って作ろうとしたときに気づきました。

自転車にまだ不慣れでどうやったら転倒してしまうか、どうやれば上手にのれるのか、のれるようになってそんなことを考える人はあまりいないです。人馬一体のように、彼も気づかないうちに自転車と一体になる感覚がそのうちでてくるでしょう。
二つのものが一つになる感覚と、一つであったものが二つになる感覚と、一つが恩恵と感じれるか邪魔と感じれるか、混然一体となるか、彼を見ながら「名人芸とはすべからくそこ(転倒や困難をあきらめず前に進むこと)から身につくものである」そう田村先生は書かれていたことを思い出していました。

一杯やってまた明日一つ一つをしっかりとこなしていくことにします。

今日

 明日末っ子の体調が良ければ、本人の気持ちを聞いて自転車の練習をしようと思います。

そろそろ卒業式・卒園式の準備でいつも使用している体育館が使われており、次男のスポーツは少しお休み、あればあったで送迎が大変だと思いますが、無ければ寂しいと連絡のメールをよく見ていないために暗い中に椅子が沢山並んだ体育館をみて間違いに気づき帰ってきました。

本当に私の口は災いの元で、よかれと思っていったことを思わぬことに利用されるのなら、何も怖くていえないです。もっと口は慎まなければいけないと思わされる日でした。

家内もまだ仕事の人間関係に慣れず日々浮かぬ顔をしています。個性というか生きかたというか、望みというか願いというか、本当に人により違うもので、仕事の考え方行い方もいろいろあることに慣れないみたいです。

「安心して下さい。私だって社会に出て働いていますが、まだ慣れないことばかりですし、人間関係のことはきっと一生つきまとうと思い知らされていますよ」

そんなことを聞いて何を安心できるかと言われるかもしれませんが、本当にその通りだと思うから仕方ないのです。

明日はやらなければいけない用事を終えたら「けいくん」を迎えに行ってあの子の素直さやまぶしさに助けてもらうことにします。

 過去をひきずり、怨みを忘れることが出来ず、接触を避けてしまいがちになり、現実の対応に問題がでて考えを改めねばならなくなる日。

これからはこれからのことがあります。今日ですべてが終わりだと決まっているのなら嫌なことは逃げ続ければ済みます。終わりが不明瞭なことは逃げ続けることが困難なことです。私自身の応答が問題となればその問題の帳尻は自らがとなることも確かで、明日から不用意な発言を相手より先々にせず、うかつなことを言わず、まっすぐな対応を心がけようと思います。

自らが対処できないことを逃げようとする弱い私は身近な誰かに弱音を吐いています。聞いてくれるだけでも有難いのに更なる要求をするなんて愚かな私をみます。欲張りで逃げ癖と言い訳の多い私がそこにいます。

そんな私をみつめ、認め、何かと誰かのせいにするでもなく、少しずつでもよくなる私をみたいです。

人格というかこころの豊かさや深さ、対応をすこしでもなんとかしたいと願います。