夜の散歩

 また怠け癖が出ていた家内とのウォーキングを再開しました。沢山着込んで、明日の燃えないゴミをもって、ゴミ捨てと会話と運動を兼ねた星空が綺麗な夜の下、マスクをした二人が歩くのです。家内が

「マスクした二人が歩いてたら不審がられないかしら」

「いや、最近ご年配の夫婦とかマスクして歩いてるし、普通じゃないかな」

「そう」

夜風はまだかなり冷たいけれど、家内は会話が弾んで楽しそうでした。もっとも職場にいつもいる方がいつも根性悪い言葉や態度ばかりしてくることに日々頭を痛めているようです。

「何故あんなことばかりしてくるのかしら」

「根性悪は根性悪いことを続けるから、根性悪っていうんだよ、やめたら根性悪って言われないじゃない、あの人達はそれを言われ続けるために命をかけてるとこがあるから、仕方ないよ」

「やっぱり意味わからないし」

「それの意味が分かるし共感できるって言われる方が私は困るので、それはずっと意味が分からないという答えが貴方からでてきてくれないと、私が困るしねえ」

「意味は分かるけれどやっぱり(あの人は私にとって)意味が分からない」

答えは決まってることを自らが心の底から理解できたとき、相手も自らもそれでいいと思うものだけれど、その答えに自らがたどり着くまでに、いろいろなことが必要となるものだと私は思います。

例えばそれが怨み・苦しみ・忍耐・辛い時間の長さ・良い人との出会いや別れ・普通の時間・本当にいろんなことが必要です。


まあ私は夜空に浮かぶ綺麗な星を見て、美しいと思えたので今は問題ないなんて考えていました。


「とらわれている人は大切なことをみることができない」




本当それはいろんなことに当てはまり、私の過去なんてそれによって大切なことが目前や自らの上にあったのに私だけが気づいていないそのもの、そんな時が長すぎたように思う夜です。

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おでんで一杯

 冬と言えばですね、やっぱりおでんですよ。
まあ、もう二月も終わりに近づいていますから、春ですよってツッコミきそうですけれど、まだ気温は低く、風邪もインフルエンザも少しは沈静化しているとはいえ流行っているのでご自愛ください。

ということで今日はいろんな用事を棚上げして、世間の荒波にもまれてそれにこころがズタボロになっている家内のために買い物へでかけ、家内の好きなお酒は日本酒ですから普段はあまり買わない少しだけ贅沢なものを購入し、仕事が終わってゆっくりするために昨日から用意しているおでんで一杯です。私は(激安の)ワイン、家内は日本酒でゆっくりしました。

風邪が治りきっていない「けいくん」もおでんは大好きですから、ゆっくり楽しんでいました。お風呂でも家内と「けいくん」が楽しそうに話しながら入っているのを聞きながら、すさんだ心には幼子の素直さや笑顔や存在と忙しい用事をのけて、つまりはゆったりと過ごす。
一つ一つの小さな荷物を皆で持って、余計なことは考えず笑うことでしょうか。

私は器用ですから、怒りながらでも気分転換するほどの身勝手なので、家内ほどズタボロにやられません。ちょっとずつ仕事や対人関係に慣れていってもらいたいです。

外に出ればいろんな人がいるもんです。

 二月二十六日(日)

 日曜は大抵仕事です。ただ家族は皆休日で、特に平日が仕事である家内は、休日には家の中の用事がたまって、残業が終わって帰れば、今日一日いろいろと家の中のことをして時間が経つのが早かったことを教えてくれます。

久しぶりに遅い時間まで残業をしていましたが、相性が悪いと私が勝手に思う方やこれまた勝手に根性が悪すぎるなんて思う方と一緒に仕事であれば、その時間は苦痛で、一分が一時間に思えるほどです。
逆もまたしかり、残業であるとしても気心が知れていれば、その時間が長い時間になっていたとしても一時間が10分位に思えてしまうほどです。

本当に私のこころは、身勝手だと思い知らされます。時間の流れは皆に平等で、同じだけ歳をとり、変わらないものです。いくら一日が一時間程の体感であったとしても、私は皆と変わらぬ時間の経過だけ若さを失っています。

ただ一つ願いがあって、どんどん老けていく私ですが、老人になったとしても中身というかこころは高貴な子供のままでありたいです。

もっと欲張りな事も願います。

無邪気に笑って、素直に意見を言って、嘘を言わず、柔軟に現実に対応でき、優しく笑っていたいです。


本当それは理想です。

 尋常ならざる事態があれば、一瞬で無くなり一気に静寂をもたらす。それは理想です。けれど感情や記憶することを前提とする人間同士それを瞬間的に行えというのは、難しいだろうと思い知らされます。

本当のことを言えば悪口になるとか、それ以上の事態になるのならば、本当にあったことを言えないようなことは大人になって生きていれば出くわすことは遭遇する確率がどなたにも存在しています。
自らの行動や発した言葉の数々の悪いことは誰もが責任をとってくれなければ、その言動を発した本人へ返るだけのことです。

きっと私がこんなことを思いつく限り、平穏は遠く、くだらないことばかり考えてしまいここはそれで満たされてしまう始末。

昨晩遅くに、ブログリンクしている方の薬剤師倫理講演の動画をじっくりと聞いていました。いろいろと新しい発見もあり、普段話さない方の話を聞くということはかなり勉強になりました。
くだらないことに目を向けそこへ力を使うのではなく、もっとプラスになるようなものに目を向け力を使わなければいけないです。

昨日講演にいった話の中で、法華経についても話し、その比喩の中で「嘘も方便」、仏教では相手が人間的完成(さとり)へ向かうのならばそのてだてとして嘘を用いることがある。「人間的完成へいたればその嘘が嘘とよべなくなる」とただ「さとり」へ向かう嘘を誰が使いこなせるか、悪用するだけのものは「嘘も方便」とは言えずそのような使い方も出来ない。

私だって時折小さな嘘をつくから他人のことだけ悪く言えない身です。他の誰でもない私への戒めです。


人間的完成に近づくための嘘であればつきたいです。

第六回講演について

 一回目(の講演)は誰よりも謙虚であったのに、回数が増えて慣れてしまった私は新鮮さを失うというより、今回の講演に向けてどれだけの世界をそこに出せるだろうかという日々の問いに、ここ昨日までの数日少しも明確な答えがでてこず、昨晩末っ子が熱を出し家内が病院へ連れていっている間に、家族の夕餉や日々の問題の解決のために時間を取りすぎ、やらなければいけないことを先延ばした私はつい家内へ八つ当たりをしてしまい、不穏な空気が昨晩は流れ、日々の記すこともさらに愚かさだけとなり、ただ体調を悪化させないというだけで遅い時間となりましたが早く良く寝ることを心掛け布団へ、そんな沢山のことを抱えて眠ってもいつも起きることもないのにトイレへ行くのに起きるなんて夜で、気が付けば朝でした。

家内はそんな愚かな私に優しく

「昨晩原稿は書けたの」

「いや」

「ええ」

「まあ眠れたからいいかな」

子供達の朝ご飯や自らの仕事の支度をして

「(あなた)講演に遅刻しないようにね」

「うん」

末っ子は昨晩の発熱がありましたので大事をとって、朝ご飯や薬を飲ませ、それからどんな順番でどんな内容で、いったい私は何を話すのか、いつもなら割と箇条書きに話す内容を書いていけるのですが、今回は何故かそれが出てこず、ぎりぎりの時間に場所へ到着しました。いつもなら誰もが来る前に言っていることが多いのに、今回はほとんどの方が来ておられ

「遅くなって申し訳ありませんでした」

間に合っていない時間ではなかったのですが、いつもの私より遅めの到着であったことは確かです。主催の方とそれからいつも講演の内容について希望があるのですが、それぞれお互いの10ほど年齢は違うけれど子供は同じ学年であるから、親としての悩みの打ち明けばかりで、講演の時間もうそこに迫ってきていました。

始まって講師紹介のところで、何やら無茶ぶりが来るかと待ち構えていました。けれど何事も待ち構えている時に来ることなんて稀です。

いつものように普段はなすように、私は私らしく、大きくみせず、分をわきまえ、わからないことはわからない、涙が出るほどに感動したということはそのように、あたりまえのことはあたりまえに、時は流れ、気が付けば思ってもいない時間が過ぎ、話をまとめました。正確にはカウントしていませんが軽く一時間以上話していました。

肩に力を入れず、気楽に、いつものように、流れるように、わからないことが何か、何かを知るためにわからないということを学び、結局わからないのですが、おられる方とわかりあえれば、今回の話はその一点をわかりあえるかどうかという話だったように思います。

終わっていつにもなく、講演の検討に入り、今までで一番長い検討でそれがまた楽しく時間が経つのをお互い忘れていました。

ふふふ

楽しめて、それなりに謝礼がいただけて、その場を与えてくれた方とそこへ行けるように配慮をしていただいた方達に心から御礼申し上げます。

講演というか法話というか、話(原稿)を作るのでもなく、嘘も方便の(ような大きな嘘を作る)話でもなく、堅い信心や有り難さの話でもなく

「今日私は新しい法話のかたちをみた。」

そう長い検討の合間に私へ教えてくれました。


私はわからないことよくわからないまま、けれど最初のわからないが違う形で笑って大きなものをみれるわからないという話がしたい。最近はそんなことをよく願います。

相変わらずの

 出会った時から真面目な方がいて、その時はあまりその本人が主張する自分は真面目だということが私は理解できていませんでした。

長い間一緒に過ごして、お互い阿呆なことを言って、まじめに言い合いをして、自らの理想がなんであるか、自らの進む道はどのようなものか、困ったときにお互いどうしてきたか、どれだけ笑いあったか、幾度も負の感情をぶつけ合ったか、ようやくお互い違う人間だとかなり多い回数の衝突で気づくことができた時、本人が言う

「ずっと(過去も現在も、これからも)真面目ですよ」

それがようやくピタリと当てはまりました。

ここのところ近くで起きる異常な事態の対処で家族にも随分余計な心配をかけて、先ほど家内とそれでちょっと話が悪い方向へいきそうになり、自らの言動に気を付けなければと思い知らされました。

明日の準備を早くから取り掛かろうとしていたのに、いろいろなことを話し込んで夜も更け、予定したことはほとんど手付かずで、いつもの通りと言えばいつの如く、慌ててここへ何かを記すのです。

いつも先延ばしにして大切なことを後に延ばす癖は早めになおさなければ、また痛い思いもするし、反省ですまないことが残ってしまいます。まだ風邪気味の風邪が抜け切れていないので無理はやめてできるだけ寝ることにします。

ビュービュー ゴーゴー

 朝起きてから、末っ子の風邪をもらったのか喉がやたらと痛く、身体も少し気怠く、困りました。幸い仕事がそんなにハードではないのが助かりました。
あの子を迎えに行って家内がほとんど用意していてくれた晩御飯を食べる用意をして、スポーツの送り迎えまで

「ごめん、父さん少し休んでるから時間が来たら呼んで」

「わかった」

調べ物や原稿をしなければということすら考える気もなく、これは単に元気であっても「明日すればいいか」と自らに言い聞かせてそうです。

外は風が強く、月も見えず、足早に私を風が当たらない所へ促してくれます。どうも家内も仕事でいろいろとある上に忙しいようでいっぱいいっぱいです。そのサポートは学年末テスト期間中であるのに長男が手伝ってくれています。あの子に落ち着けばご褒美を用意しなければいけないです。いずれにせよ今日は体調が思わしくないので早めにといっても次男のスポーツを迎えに行ってから休むことにします。


早めにと思っていたのに、話(愚痴)がたまりすぎた家内の声をしばらく聞きました。終わりかけてまだ私自身を取り巻く現状の問題が解決していないので一本の電話がかかってきてしばらく問題の整理や現状を聞いていました。

内も外もどこも、ゴーゴーと風が強く吹いています。

なんだろうなあ

 たまたま長男は学力テストの成績が思ったより良かったようです。あまりそこまで信じてなかった私は

「ねえ、あんな順位取れると思ってなかったよお父さんは、あなたも思ってなかったんじゃない」

「うん」

うんがいい話ですね。

明日からはそれはそれとして、学期末テストが始まると言っていました。

「次も頑張って、良い順番をとったらまたいいことあるよ」

「そうだね」

長男より次男のほうが勉学に関しては心配です。まだこれから小学校になる三男はどうか入ってからのお楽しみ。

ここのところ家内が私とあまり話をしていないと話をしたがっているようです。その場合話をしたらいいだけなのですが、私は一人の時間に没頭して一人の世界を楽しむことにとらわれがちです。結果家内は私に対して不満が積もっていくようです。

わかっているなら・・・と思いますが、わかっちゃいるけどやめられないのです。

原稿を仕上げなければいけませんが、何故か手を付けたくない私がいて、つまりは手つかずです。

今日は怠ける私をみて、明日は明後日仕上げて見せる私をみて、明後日に必死に仕上げる私をみることにします。

盟友

 交友関係の少ない私に、珍しく二人の友人が訪ねてきてくれました。

有り難いことです。

私の息子(次男坊)に問いを向けたことがあります。

「なあ、人は理解されるために生きているだろうか、それとも生きるために理解されたいのか、どっちだろうか」

「お父さん、理解されるために生きてるに決まってるよ」

私の問いに彼は即答してくれました。幼子や純粋な方は即答してくれます。ただ自らが何を言っているのかどれだけ素晴らしいことを言っていたとしてもそのことを本人が心の底から理解して言っていなかったのなら、それを簡単に忘れてしまいます。
私も世の中に生きる人全て、話ができるようになってからどれだけ素晴らしい真理をいっていたとしても、自らがそれに気づいていなかったのなら、その自らが口にしていた真理を忘れてしまうのです。

これは逆説的な話で、もし自らが自らの立ち位置や自らと他人を冷静に判断できれば、自らが発言したことを生涯忘れないことを意味しています。

私や友人の近況を話し合いました。

何故か私の友人は私が困ったときに何も知らない時にあらわれ

「元気にしとる」

そう言ってひょこっと呼んでもいない時にあらわれ、私のことを頼んでもいないのに理解してくれます。


私はその友人を「盟友」と呼んでいます。



風船

 仕事が終わり帰宅すれば休日の家内と子供達はまったりとしていました。次男坊はどこかで風船をもらって、その風船をはしゃぎながらポンポン上に向かってふわりと浮かびゆっくり落ちるさまが楽しすぎて、どんどんそれはエスカレートして大きな掛け声でずっと私の後ろで風船遊びをしています。どれくらい風船が寄り添ったかというと

「お風呂入るよ」

「はーい、風船も一緒に入れていい」

「まあ、いいよ」

身体を洗って、一緒にお風呂に入って、

「おとうさん、ふうせんしずまないよ、どうして」

「そりゃ、空気が水より軽いから中身が鉄だけだったらほっといても沈むよ、沈まないものを沈めようとするのにはかなりの力がいるな」

しばらくお風呂にて風船で遊び、出てきてから30分経った今も後ろで掛け声をだして風船で遊んでいます。どうやら声がしないと思えば、彼は案外よく覚えているし、気に入ったものは近くにおいています。他のことに気を取られても風船をさわりながら他のことをしています。

雲を雲とだけ言いうのではなく、表現として「どこまでも広く高く青い空に流れる雲の建築」など

彼にとって「風に乗って浮かぶ船」とみえているのかもしれません。私からすれば彼は風船と共にはずんでいます。


こころか、からだか、風船か、彼と風船は二つのものですが無邪気で楽しそうに笑い弾む風船と彼は一つにみえます。

 早朝より徳島を出発、無事に大阪の大会から先ほど帰ってきました。
監督もウォームアップから指導や引率をしていただいたのに結果は惜しくも一回戦で敗退、その後監督と一緒に末っ子や長男と家内と皆で、せっかくだからお土産話に「アベノハルカス」や道頓堀のグリコの看板やかに道楽のカニを見て楽しんで帰ってきました。

中学になって「今のスポーツを続けるのか」そう監督に尋ねられ、上手く話す子ではないですが「続けます」そのように監督へ伝えていました。

「今度あの全国大会に繰り上げとかではなく、実力で出場して、勝ちたいね」

今日の試合は相手ではなく彼自らのミスばかりで負けた試合でした。明日から彼は自らの弱点を補い強くなるために取り組むことでしょう。ただ先日の学力テスト結果が悪すぎでしたから、真剣に勉強はもっと力を入れないとだめです。

少しずつ一緒に頑張っていくことにしたいです。ちょっと早くから車の往復に疲れたので早めに休むことにします。

本当面倒くさい誰か

 意地が悪い私はよく問いを誰かへ向けます。

それはいたってシンプルで私が返答に困ることを誰かに流れに乗って自然に向けてみるのです。自然な流れならば違和感も少なく、それでいて答えを出さなければいけない状況にして、楽しみに答えを待ちます。

私が想像もつかないほどの速さ、つまりは即答があらわれたり、長くない間があってから深い考えさせられる答えであったり、ぱっと皆が楽しく笑える想像もつかないものであったり、その方の楽しい個性が花開くものであったり、答えがあるのだけれどもあえて何も言わない答えであったり、本当に何も思いつかなくてワカリマセンという答えであったり、話を変えられたり、それは時により人により問いにより数えられないほど出てくるのでしょう。

まあちょっと面倒くさい私が言うのもなんですけれど、問いにナチュラルに同じ問いを返される方もいます。そのナチュラルさが混じりけがなければ真摯にお答えします。逃げていたり私を試そうとしていたり意地悪であったりするおよそ善いものではないものが混じれば、「私が分からないからおたずねしております」そう精一杯の謙虚さを装い、もう一度おたずねしてみます。

どんな答えであってもその人なりであれば私は嬉しいです。

周りの方が「あれ(あの答えは)ちょっとオカシイ」なんて言われても、その人なりであれば私は問題ないです。

その方と私の答えの違いに驚き戸惑い理解できず、素晴らしさをみるのです。


やっぱり意地が悪く、本当に面倒くさい誰か(私)です。

(その出された答えを割とよく覚えていて、出された方ではなく私にとって都合の良いときに引っ張り出して目前にだして、ニッコリしようとしたりするから困ったものです。)

 意味不明なことが続いて、しばらく関わりのある方達と話をしていると、わからないことばかりであったことが、点が一つ一つ出てきて、その点が線にみえるかの様に、誰かの何かの輪郭を出現させてきました。

理解できないことを無理に理解する必要はないと思うことがあります。

誰かを理解したいと願って、理解できないということもあります。

さまざまなことがわからず、彷徨い、あてもなく、もがき、さらにわからなくなって、ただ以前より少しでも前に進もうとのぞんでいるのであれば、以前のわからないと現在のわからないは時間が過ごした分の違いではなく、進んだわからないになることがあります。

本当に私にとってくだらないことを理解すれば、何故か私が進みたいと願う道が以前より点が増え輪郭が少しみえるような気がすることがあります。

それは気のせいでもいいです。ただ笑って泣いて悔やんで恨んで、私は私のことを大いに笑うしかないです。



梅花

 今週末、次男の大会のため少し用意が必要で、大きめの大会ですからちょっとどんなものか楽しみです。
大阪まで行かなければいけませんから、当人と私以外は物見遊山気分がどんどん高まって盛り上がっているようです。私はあの子を無事車で送迎と試合に小学校最後の大会でもありますから、結果はどうあれ全部やりきって欲しいと願っています。

次男は家族の中では一番無口で、運動神経も私や家内に似ずに、何故かよく動く身体に恵まれる反面、知的なことへの関心は薄いです。(もっともそれは私の育て方が悪かっただけとも・・)
いずれにせよ、中学では何の部活に入るのか、スポーツや体を動かすことを嫌う長男には運動部への部活を強制して割と恨み節を聞かされました。

放っておいてもスポーツは何かするような子ですから、次男には強制はしない予定です。

最近あった彼の試験結果は運動神経と反比例するような結果でかなり頭をいためました。私はそんなに成績はトップとか優秀とかではありませんが、まあ普通くらいには勉強はできて欲しいと彼には願います。欲張りと言えば欲張りですが文武両道という言葉もありますしね。

ここはいろんな事を日々書き連ね、時に近くの方へ向けて、時に私に向けて、時には家内へ、時に優しい方達へ、時に子供達へ、いつかここを見て何かを思ってほしいと願います。

次男坊の春からの中学生という新しい門出に何か役立つことをしてあげたいです。偏りが多い私だから余計なものを押し付けすぎて嫌がられるだろうけれど、私のところに生まれたことを恨むしかないです。

厳冬の中に咲く梅の花のような温かさや美しさ、そんな自然な愛情を彼になんて欲張りなことを願う夜です。

 いつものように平日の休日、子供たちや家内と休日が合わないのは仕事の関係上仕方ないことです。家内も子供達もそれで私を責めたことが記憶に一度もないのは、家内と子供達の理解のおかげだと思います。

ただ今週末には次男のスポーツで県外へ行かねばいけないので無理を言ってお休みをいただきました。久しぶりの遠出ですから面倒でもありますが、それ以上に行ったことのない場所で全国大会でもありますから少し楽しみです。あの子の腕前だと「参加することに意義がある」といったところです。ですから皆で遠くにお出かけということを家族は楽しみにしているようです。何事も口実がなければ動けないことは多いです。嬉しい口実なら何度でもあればと誰もが思うことです。

珍しく朝から用事をこなし、ごろ寝することもなく家事と末っ子の送り迎えと用事と簡単に掃除をして、晩御飯を支度して家内の職場まで迎えに行ってきました。

休日が合わなければ、子供たちにとって全員一緒にいれる時間ではなく、今日は「お母さんといっしょ」「今日はお父さんと一緒」そんな時間が休みが違うだけ占めていきますから、それをよしとしましょう。

明日からもまたいろいろありそうです。いつも同じことしか書かないのですが目前のことを一つ一つしっかりとこなしていくことにします。

いつもの如く酔っぱらって、思うのです。
家内と子供たちに今よりもっと時間の有効な使い方をしなければなんて思う前にやればいいのに思う日です。

贈り物

 関係ある人達の情報伝達速度に驚いた日でした。

「まだ伝えて日もそんなに経っておらず、その上あの方には話していないのにもう伝わっているんですね」

共有速度にある種の尊敬を抱き、こちらも善いことは早めに共有しようと近くの方と話しました。


明日が2月14日ということもあって、チョコレートをもらったり贈る方をよく見かけたり、私は家内にいただき「けいくん」と家内と私ですでにもう昨日食べました。過ぎてからでは渡しにくい方に日曜に渡しに行くのを子供達はみて自分のを早くもらいたかったようです。まあ家内も最近忙しいので忘れる前に渡したかったのでしょう。

「(年齢を問わず一人の人間として)目前の方(すべての方)を軽んずることなかれ」

私に対しての戒めです。調子に乗りすぎたり軽んじれば、同じかそれ以上のものが私へのしかかってくることになります。かきたくない恥ですらかいてしまい、揚げ足をとられるでしょう。人間自体が軽いものであると扱われることにもなります。

私は意外とどうでもいいことを覚えるのが得意です。浅墓なところがあります。ギャフンとやられたらいつか同じだけは正当な形でその方へ忘れた頃に受け取ってもらうことも忘れていいのによくおぼえています。本当にそれは意地が悪く愚かなことです。贈り物を誰もが受け取らなかったら、持ってきた人が持って帰ってくれたらいいです。

(私は善いものは喜んで受け取ります。)

 久しぶりに皆が揃って何気ないことで笑いました。阿呆になって笑えることはしあわせでもあり楽しくもあり、私にとっては大切なことの一つです。
仕事が終わって帰宅すれば、「けいくん」が走って寄ってきて、今日の出来事でその瞬間の最大の関心ごとを教えてくれます。こころに突き動かされ、言葉がおいつかないほど、とにかく伝えたいようです。

以前次男坊へたずねた言葉を思い出します。

「人は理解されるために生きているのか、生きるために理解されたいのかどちらだろうか」

次男は即答で

「お父さんそんなの決まってるじゃない、理解されるために生きているんだよ」

「けいくん(末っ子三男)」は一生懸命たどたどしいですが、自らの思いを私に楽しそうに教えてくれます。それを見ると次男が即答したことは間違いではないなと思います。

私も自らが問われて即答できなくて悩みますが、自らの考えや思い体験など話したくてしょうがないと思っている代表の一人ですから、同じことです。

理解しあえること

理解しあえないこと

どちらにしても共存はできるのに、他者を害うようなことをすれば共存は難しいと思い、理解という言葉は無いのではないかとすら思います。

その辺り理解はさておき、一緒に笑いたいです。けれどこちらが笑えばあちらは不機嫌になり、あちらが笑えばこちらが不機嫌になるということは往々にしてあるものです。

できれば一緒に笑いたいです。

 朝から予期せぬことがあって、ただ私だけではなく、他に何人かおられたのでその原因を他の何人かの方が一部始終見ておられたことで安心しました。

時を長く過ごすことでお互いを知り理解しあえるということが当然のことのように思えば、そこが現実としての頂点でもあり深い谷です。

時を長く過ごすことでお互いを知り理解しあえないということが、どのようなものかそれが現実としての何なのか。


「あの夜空に浮かぶ月、あれが真理です」

そう言ってその月が誰から見ても真理を指さす方であるとしか思えないような人に憧れ願い、最近はそれが比喩であって月を指さす必要もなく「感動する自らのこころ、自らや他者をみてこころが震えるほどに美しく願ってやまないもの、あなたのそう信じてやまないあなたのこころ、それがあなたにとっての真理ですよ」そうその方のこころを眼前に差し出せればそれでいいです。

そのために私は私の愚を守り、私の愚かさの連続をもって、私の現実を仮に現実へ引っ張り出し、その対になる極や相対を超えていく絶対と絶対から相対、現実を直視せねばいけないのです。

月や高く広く果てしない突き抜けるような青い青い空に、遠山に、海に、誰かに何かをみるのです。


 朝から予報どおり雪がちらつき、地面には積もっていませんが、子供は喜び雪がちらつく中を寒いのを忘れ楽しんで幼稚園へ一緒にいきました。

忘れやすい私は何かにとらわれれば、決まっていることを忘れ「しまった」に続いて言い訳をします。今日はいつもより日中も冷え込み吐く息も白くみていれば、また違う何かにとらわれそうで、白い息をみずに集中しました。

いつも同じ話をつい言うことがあります。人が変われば同じ話だとしても特に問題とならずどなたにも初めてであれば、同じところに以前とは違う深さ・広さ・高さ・貫き方をそこにだせればと欲を出します。
その欲が無駄なものを省き邪魔にならず良い方向へ働けば、望んでいるものがかたちはないけれどそこにお互いがみることができて目を開き深きを感じてくれれば、こちらもその先へすすんでいきます。

「おかしいことをいっているでしょう」

そんな逃げ口上のような言葉で、言葉ではなくその方達の出す雰囲気を感じ取るやいなやお構いなしに先へ

吐く息は更に白く、冷え込むのに寒さや白さを忘れ、そこに一緒に何かをみるのです。


「本当おかしいことを私はいっています。」


私は笑います。泣くように笑うこともあります。つらくて笑います。笑うしかないです。

まだ

 突然体調が悪くなることなんて予測できないけれど誰にでもあることです。最近インフルエンザだけでなく時期的に風邪も流行していますから、何か重なって寝込むこともあります。

不測の事態は柔軟に対応、誰かが困っているときに死体に鞭を打つようなことをする人も確かにいますけれど、そんな方は少ないです。どちらかといえば優しくする方のほうが(私にとっては)目立ちます。

言葉が建前だけと聞こえるか、ただの口実としかとれないか、ただの揚げ足取りにしか思えないか、いずれにしてもその方のこれまでの長い年数積み重ねてきた過去の言葉・行動、現在の言動によって、その方の人格というか人柄が回数を重ねれば重ねるほど輪郭から実際はみえないのに見えるかのような形でみえてきます。

いくら上辺だけの言葉を取り繕っても、これまでにしてきたことがよっぽど悪過ぎることの連続であれば、ありのままを伝えれば言葉が必要なくなっていきます。


誰かに善いことを沢山言ってくれと頼まれたとしても、その方がとってつけたようなことだけで善いことをしていなければ私は言える口をもっていません。

善悪にとらわれすぎることは慎みたいです。けれどできれば悪いことを言い続けるのではなく、その成す方が意識していないけれど皆が見て善いことになっていることを見聞きする瞬間を共有したいと願います。

善と悪にとらわれすぎず、その二つをあきらかにみて区別するでもなく自然に、今の私にはまだ遠く感じる所です。