A型

 朝起きて末っ子の熱を測れば、高い熱で家内も職場で家内一人だけなので午前中はどうしても抜けれないということで、無理行って職場の方に病院へ連れていく許可をもらって、病院へ行って待ち時間の間に熱を測れば38度5分あり、風邪というより流行のものだということが頭から拭い去ることができず、医師もインフルエンザの検査を即座にされて15分位で結果がでて、インフルエンザのA型と判明しました。幼稚園のクラスでも何人もがかかっていると聞いていたのでしょうがないです。小さい子にうつらないようにふるまいなさいなんて、理想をおしつけても無理です。
それから39度を超えて熱がでて食事をして水分をよくとってお薬を飲んで今は眠っています。大事にいたらないといいです。彼は一応インフルエンザの予防接種も受けていましたが、お構いなしにA型は彼を蝕んでいるほど強い感染力です。我が家でも他方達にもうつさないように気を付けることにします。昨年末私がインフルエンザのA型はどこにも外出しなかったので近くの方達に一人も映らなかったのが幸いでした。

近くの人も今日はいろいろあって大変だったようです。私もいろいろありました。しばらくこの波は続きそうです。自分が成してきた悪いことを認めず、それを誰かのせいや私になんて冗談ではない話です。自分がしてきた責任は自分で償うしかないと世間で決まっています。感謝や礼は失いませんが人の悪いことまでは背負う気はないと思う夜空のきれいな日です。
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 雨と強い風、夜空には眉月、残念なことは末っ子の幼稚園でインフルエンザが流行り、ちょっと様子がいつもと違うのに夜気が付き熱を測れば、高熱ではないものの熱を出していました。もう病院は受付が終わっており、明日の朝一番に診察してもらわなければいけません。
ただ明日仕事ですので、職場の方に病院の診察へ何時ごろ行っていいかどうかお尋ねしてからの予定です。ここはもうなるようにしかならないです。インフルエンザの予防接種は彼は受けていました。私は年末にインフルエンザA型にかかりましたから、さて明日の病院の診察結果次第です。

昨日「けいくん(末っ子の三男坊)」は鼻水が少し出ていましたが、兄と二人で仲良く遊んでいました。仕事が終わって

「けいくん、きょうはお勉強したの」

「したよ」

「どれどれ、ちょっと見てみるよどんなのやったのか」

2桁と3桁の足し算や簡単な引き算の問題と、お母さんからの文を書くという質問がありました。

「思っていることを書きましょう」

それに対する「けいくん」の答え


「おもってることない」


母の期待する答えではありませんでしたが、昨晩は「けいくん」と兄と家内と一緒にその答えを見て皆で楽しい時を過ごしました。
彼に早く元気に治って欲しいです。

 仕事も忙しく人手が足りなくなり、くだらないとらわれや感情を捨てれば、頭を下げてお願いし、終わって感謝を述べることしかないことです。
一つ一つあるがままに、あるがままにあることを私が損なわないように、それをそのまま受け取り流していく私でありたいです。

できれば善いことを受け取りたいです。できれば悪いことは受け取りたくないです。私だけでなく誰もが同じ願いでしょう。自らが悪いことを続けてきてこれからもそれを変える気がないのに「自らは他人より善いこと(恩恵など)を沢山受け取りたい」きっと本人以外は理解しがたいことになるでしょう。

自らの地位・肩書・名誉に対する自らはどのようなものであるか

簡単な問いです。私は(他に無数ある)簡単な問いを、勘違いして忘れ目を背け大切なことを失います。


どうもその問いが向けられても必死にいのち尽きるまで目を背け続けると堅く決めている人を見かけます。

自らの過去と現実から目を背け、何をみて何を言い続けるのか、それはいつでも自らが決めることです。


私はできるだけ「あるがままに」くだらない私から出る偏りやとらわれを少しでもなくしていきたいと願います。

 いろいろなことがみえる日でした。

同級生のこれまでや現状、友人の努力や決意、私を何故か気に入ってくれて声をかけてくれる方、行事が終わって話しかけてくれる方、話をわざわざたずねてくれる方、電話をくれる方、何やら強がりや訳の分からない根拠を声を大にして言われる方々。

いろいろあり続けてそれはまだ終わっていないのだけれど、優しく助けて、私は無名中の無名で地位・肩書・名誉・恩恵もほとんどないけれど、一人の人間として私をみてくれる方に感謝しています。

明日からもまた、礼を失わず感謝を忘れず、余計なことは口にせず、感情に流されない発言の私でありたいです。

成すべきこと

 最初から最後までよくわからない日でした。

自らが何を言っているのか、相手が何を言っているのか、自らが何をしてきたのか、その三つが理解していないのに雄弁であれば、それを聞かされる私は苦痛です。

私の自らの非礼は詫びなければいけないことです。対等に話をすすめるというのであれば最低条件すら理解できないと、言葉が瓦礫のように思えて、こころが苦しくなりました。

最後まで自らを貫いてくれなんて、誰かに心の中で思っていました。貫かなければ自らがたった意味もなくなるでしょう。


まあいずれにしても、私に何かあれば成すべきことを成すしかないだけのことです。

 予定では全て考えていたことが終わらせるという日でした。いつものパターンで可もなく不可もなく用事が終わりました。
全く理解できないこと出来事があり、自らの何かを優先して他を省みず善いこととは程遠い結論でもかまわないということだからと力説されても理解できず頭を抱えてしまいます。
以前そのようなことを誰かが誰かへ一言で尋ねていました。

「世の中でそのようなことがとおる(と思っている)のか」

「(世の中で)とおらんわ!(けどやめないんじゃ)」

本当に世の中はだから面白いのかもしれません。(いや巻き込まれている私はそれちっとも他人事でないので面白くありませんけどね)

どなたにも、ここまで来たら引くに引けないなんてことはあるのかもしれません。それによって誰か悪くなる人を用意したりしなければいけないとか、嘘をつかなければいけないとか、自らの成し続けてきた行動が(世間的にも客観的にも)悪ければどうにもならないものです。ただ自らが受け取る気もなく世の中と誰かが悪いなんて言い続ければ大切な何かは失われていくだけでしょう。

いつにもまして他人のことより私は私のことをしっかりしなければいけません。それに完璧に程遠い愚かな私ですから、偉そうに自
らのできていないことを棚に上げて人のことを言える身分ではないのです。

自らの言動・思考・願いをもっとしっかりみつめていくことにします。

とりあえず

 いろいろと続いていたので、やらなければいけない予定をすべて先延ばしにし午前中はゆっくりしました。
あっという間に午後がきて、末っ子を迎えに行く時間になっており、そこからは子供たちの面倒(宿題など)と家事に時間を割き、長男に何日か前「髪を切ってほしい」と頼まれていたので、長男と三男と私と三人髪を切ってお風呂へ入り夕食をそれからいただきました。

いつも周りではいろいろあっているのでしょうが、最近私の身の上に出現するとんでもない事態は、明確でいて、優しいの反対にしかとれないようなこと、それはそれでよいのです。自らが発した言動は私や誰かが受け取らなければその方が受け取らなければいけないものです。

明日はゆっくり過ごすという現実逃避はやめ、用事を一つずつ進めて終わらせていくことにします。

とんでもないことを言ったりしようとしてきた人に、これからは優しく優しく接していくことにします。わからないことはその方に優しくお尋ねしてみようと思います。


とりあえずやらなければいけないことへいってきます。

 地面と屋根や道路以外には雪がうっすらと積もっている朝、地面も凍っている場所もあり、こんな日は渋滞する上に事故も多くなります。
気を付けて出勤していれば、家内が車で事故をしたと電話が職場にあって驚きましたが幸いなことに相手の人も車も大したことなく、こちらも大事にならずに済んだのは何よりです。本人も車もですがへこんでいます。

仕事が終わって雪がちらつく中、バイク(原付)で迎えに行って帰りは子供を座席に乗せて歩いて帰ってくることがよくあります。

「おとうさん、雪はサンタさんがふらせてるんだよ」

「そう、じゃあ雨は」

「カミナリさまだよ」

「そっか」

「明日朝起きたら雪がいっぱいつもってるといいよね」

(うーんそれだと事故がいっぱい起きるし、交通は大渋滞だし、お母さんかなりこまるけど)

「お父さんも子供の頃、いっぱい積もったらカマクラとか雪だるまとか雪合戦したいと楽しみにまってたなあ(実際はちっとも積もったことないけど)」

雪があまり積もらない場所の子供の考えることは同じのようです。

帰ってくる家内は落ち込んでいるだろうから、子供たちと家事を分担して、晩御飯を作って帰りを待っていました。おなか一杯食べて、飲んでよく休むといいです。

大人になると(今日だけでなく本当に)いろいろあるのですから

 予期せぬ出来事の連続が日常という言葉だと私に教えてくれます。もっともっと湧き上がる余計な邪魔になる感情を抑えなければどうにもなりません。

「品性」と「礼」と「感謝」と「笑顔」と「行動」

これでしか私も相手もどうにもならなくなります。

いらないことを喋りすぎるこの口は災いの元で、「(私という無名の)人間を人間としてみていただける方で、奇特にもそのような時間を過ごしたい」そんなことを思ってくれる人にしか、この口は開いてはどうにもならないです。

ここは相変わらず自由です。

真っ白なキャンパスがあって、そこに「無限のものを紡ぎだしていい」日々私へ問いかけてきます。私は相変わらず何年たってもそこに「何か」とはの答えを縦横無尽に出していきたいのに、わたくしごとでいっぱいいっぱいという現状が書き連ねられ、時にそれを懐かしく見たとき、その瞬間を思い出し泣いて、笑って、大泣きして、悔やんで、大切なものをそこにみて、泣いて、笑って、私をみます。

もっと礼と感謝を即座に出せる私を明日見たいです。

 あたりまえですが、日々移ろい変わりゆきます。私は子供に対しては歳を多くとっています。私の両親からすれば私は子供で年齢も若く見られます。同じ世代で学校も一緒であれば、同級生で若くても同級生、年をとってもお互い同級生です。

相対の多い中で、普遍的なものを超え、さらに貫いていくようなものをどうやってみたらいいかもわからないのにみようなんて思います。

相対と絶対、絶対を超えるのではないかのもの、そこからまた相対へ、相対から私へ

逃避か現実を見たくないだけか、理想か絵に描いた餅であるか

わからないことを必死に考え、何一つわからず、現実の私へもどり、それが全くの無駄であったか、何も進んでないけれど、何か違っていたり、暗闇の中をもがく私を見てしまいます。あがけばあがくほど愚かで稚拙な行動となり、自らのくびをしめていきます。

良くないことで深い深いものを感じて、その暗黒の果てしない暗さに負けてしまえば、大人であるのに泣いています。本当はあの美しく青くどこまでも広い空を際限なく照らす光をみたいです。まぶしくてまぶしくてまともに見れないけれど光をそこにみたいです。



プランD

 根性が悪い私という日でした。まったくもってきつい言葉がいくら相手が先にこちらへ幾度も向けてきていても。同じように現状で間違っていないことで返しても、そこに私のマイナスの感情がのっかっていれば、相手も否応なく私の言動の問題に向けられ本質から遠ざかることになんてよくある話です。

明日から他の誰でもなく私自身の為に、とがったものはなくしていかねば私自身がどうにもならないです。当然私のことを親切にしてくれる方にだって迷惑が掛かってしまえば、本当にいったい私は何をしているやら、何度も何度もここへ引用したことを私がどこかへおきざりにしています

「怨みは怨みによってやまず、ただ慈愛によってのみやむ」



とんでもない目に私や友人や優しい方や家族に巻き込んでいる人に、それを愛することができるかなんて難しいこととしても、あの子達や家内をみていれば、媚びるわけでもなく、へつらうわけでもなく、礼を失うこともなく、自らしてもいないことで落す必要もなく、おかしいふるまいでもなく、可もなく不可もなく、そんな答えを出せる私がみつからないので、この問題からできれば避けたいなんて逃げ癖を出してしまいそうです。

ここはいっそ逃げて、やらなければいけない仕事に必死に目を向け時間をあっという間に終わらせる作戦で行くことにします。

冬の

 朝は凍りそうな雨、仕事帰宅時は凍っている雨でした。
風も強い中、次男をスポーツへ送っていき、帰ってお風呂に入れば「けいくん」(三男)が

「おとうさーん、ぼくもいっしょにはいる」

「どうぞどうぞ」

最近の彼は、気になったことを何でも質問してきます。今まで彼の兄たち(長男と次男)が私に質問を向けてもその重要さを理解していないため、「あとで」とか「今忙しいから」心ない答えを返してくれた償いの如く、彼には一生懸命答えることにしています。

一つ一つ六歳の彼が納得できるように、説明します。考え深い顔をして聞いています。彼の兄達には本当に申し訳ないことをしたなとそれをみて反省させられます。ただ自らへ必要以上今大変だ・忙しい・疲れたと言い聞かせ、逃げていたことを再認識させられることです。
それはともかく、彼の質問はとどまるところもなさそうなので、のぼせる前にタイミングを見計らってお風呂を出ました。

質問の内容の一つ

「すいどうのまえは、どうやってみずがでていたの」

答えていたら、その次はさらにそこに出てきた言葉の一つ

「土はどうやってできるの」

真剣に間もなく幼稚園卒業の子に話すのは頭を使います。もっともそれは私が普段していないことだからといえます。


今日もまたいろいろありました。まだ外の風の取り巻く風も内なる風も冬の風のように冷たく吹き荒れています。
感謝と礼と品性と笑顔を忘れないでいなければ私はさらにどうしようもなくなるでしょう。忘れないように忘れないように(私)

まだ少しも

 用事を一つ片付けようとして片付かず、洗濯や夕ご飯の支度と「けいくん」と少しお外で気分を変えなければと二人で遊んでみました。
たこを上げて、こまを回して、思うようにまだ一人で回すことができないけれど、楽しそうに笑っていました。そんなことを職場へ迎えに行って帰る車の中で話しせば

「なわとびもそんなに上達していないみたいよ」

「そっかコマとナワトビと両方楽しく遊んでみるかな」

まだ何も変わらず、隙があればこころは落ち着かず、得体のしれない何かわからない、それこそ本当にいくら考えてもわかるはずもないものがこころを何やら包んでいるような感じです。

やることは一つです噓もなく、目前のことを一つずつしっかりと行っていくしかないのです。

ただやらなければいけないと思っていることが何かに包まれよくわからないまま何かをやろうとして、できるだけ寝ることにします。

できれば、という願い

 ここ二日程それはいつもと言われればそれはそうなのですが、違う意味の分からないことすら判別も出来ず、今までにもいろいろあったのですが、そのどれもと違うもので、頭の中が真っ白にもならず真っ黒でもなく何を考えたらいいのか何かを考えようとしているのに何を考えているのかと考えている濃い霧につつまれていました。
昨晩のことで今日は幾分ましでした。睡眠をとれたことも大きいです。ただ仕事は有り難いことに忙しく慌ただしく時が過ぎてくれました。まだいつものようにとはいきませんけれど、にっこりやでともできませんが、礼を失わず感謝を忘れずに日々時が過ぎていくようにしなければどうにもならなくなります。未だわからないことばかりですが、もう後はできることをしながらなるようにしかならないです。

「あれこれと考えることはやめよう。」

そう書きながら何かよくわからないことを考えているような考えていないような、明日もまたできることをしたいです。こんなときにやはりあまり言葉を交わしたことがないけれど理解ある方に心から感謝を申し上げます。

近くの方達が普通のことをして普通の生活をして普通に笑っていられるようにと願います。

 昨晩遅くまで眠れず、休日だけれど休日にならなくなり、子供の幼稚園行事と迎えと、お話しを伺いにいくということで帰宅が遅れました。正直何を考えているのか何を考えたらいいのか、時間が過ぎているのか過ぎていないのか
ただ昨日ほとんど寝れなかったので、今日は有り難いことによく寝れそうです。しばらくいろんなことがだめです

自らの責任

 更新がおくれました。
本日は予想を超えたことがあって、自らが言ってなしたことの責任を取らず、私や誰に対しても優しい人に罪をなすりつけるという日でした。
私の言葉は信用できないというのであれば、関わりのあった業者や担当者の方にすべてを聞いて私の口ではなくその人たちにたずねて帳簿をだしてもらったらだれにでもわかることです。

言葉を発した人と自分がしたことはその人が責任をとるしかないというのは古今東西をとわず常識です。

自分がしたことその人自身が責任をとってもらったらいい話です。

稀に書きたくなること

 あれほど感情的になってはいけないというのに、感情的になってしまい近くの方達へ謝罪しました。いつも愚かな私のことを理解しようとしてくれる方は、怒ることはありません。むしろそれは仕方ないことだと言われます。いっそのこと責めてくれれば言い訳もできます。さらに「その現実であったならばそうなってしまう」と私のことを責めません。

先日、以前敬愛する先生が書かれていた言葉の一つ、「妙好人」について調べていました。

浄土系とくに浄土真宗の僧侶ではなく在俗の傑出した一人の人間(信者)のことで、地位・肩書・名誉がないけれど困難悲嘆過酷な現実の中で、自らの中に確固たる宗教観や「仏とは何か」、「真摯に生きるためとは何か」が言葉ではなく、その方の生き方にあらわれた人を他人が見て称える言葉です。あたりまえですが自称では話にならない言葉です。

「妙」とはと天台の思想や教学を調べていれば必ず遭遇します。根本経典である「妙法蓮華」の「妙」とは何であるかということであるからです。

妙法蓮華経という今日の名前はインドの言葉を鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が訳した言葉で、それ以前には竺法護は同じ経の名前であるのに「正法華」と訳しています。

何故に名訳で名高い鳩摩羅什は「正法華」というなまえをわざわざ長い名前に訳したのか、田村先生がそれについて書かれていたことを思い出していました。

正しいという「正」は、善悪における善を指す言葉にとられる要素が存在している。正しいの反対に位置する誤りや不正という反対を意味する相対の言葉を超越していく絶対をひょうげんするために、時代やこの広い世界を縦横無尽に貫いていく真理を「妙なるもの」を意味するために、正しいを避け「妙」をわざわざつけて訳されたといったことが書かれていたことを。

妙好人の「妙」もそのようなことから来ているのだろうかなんて考えていました。だから「妙なる好かれる人」か「妙なる好い人」なんじゃないかなんて勝手な自己解釈をしていました。本当のところは浄土系のあふれでる慈悲と豊かな智慧と強靭な実践力をもった僧侶におたずねすれば簡単にわかるのだろうなんて更に考えていました。

蓮華の如き妙なる真理が書かれたお経、ここでは真言宗である私の蓮華と違う色の蓮華が似合います。何物にも染まらぬ白の蓮華でしょう。

真言宗では燃えるような生命を象徴する赤、真っ赤というわけではなく、美しき(上品な桃色の)赤が似合います。



私は白の蓮も赤の蓮も青も紫も緑もどれもが大好きです。よくわからないけれど、どれもが美しいからそれでいいです。

寒波

 一段と寒くなり、一日風も強い日で、夜空の月の前を駆け足で通り過ぎる雲から少し雪もちらつく晩となり、次男のスポーツの送り迎えや家内と買い物に行ってきました。
珍しく徳島でも凍結注意が出て、明日の朝は気をつけなければいけません。この辺りでスノータイヤなんて履き替えてる車なんてほとんどいません。

職場で風によって枝葉が随分散らかっていたので中での仕事がある程度片付いたので、外に出て集めているともう一人やってきて二人で掃き清め、いろいろと考えていました。今の私には目立っている塵しかひろい清めることができず、誰かしかできない大切なことではその誰かが塵をひろい清めていくことしかできないと、私は目前の塵を一つずつ何とかしなければと言い聞かせていました。

場所が変わらなくても、変わらなくてもいいことは変えず、変えなければいけないことは変えていきたいと願います。

明日気候次第で予定では忙しいのですが、ひょっとすると雪での影響や冷え込みすぎれば予定はやはり予定となるでしょうから、寒くないように早く休んで、明日は余裕をもって職場へ行こうと思います。

今日はいつものように(コスパの高めの)ウイスキーがお好きな夜にすることにします。

眩く光る

 今日は週末にかかるはじめの金曜日で、子供達も家内も明日から休日なので明日からの事を考えて楽しそうです。家内がふたりとも体調や引っ越しなどでさぼっていた夜のウォーキングを再開しましょうと昨日行ってきました。
「そうだね(一緒に)行こうか」
大寒波の影響で外はいつもより気温が下がっていますから、いつもより沢山着込んで二人で玄関を出れば、明るくまるいお月様が出迎えてくれていました。
「明るいねお月様」
「ここのとこ三日間かな明るいよね」
どっちがどの言葉でもいいです。そうして二人で歩き始めました。家内はどうせなら近くの有名な住吉神社に足を延ばしましょうといっていましたから、遠回りして向かいました。一休禅師がそういえば有名な住吉神社へいかれたおりにそこ(大阪の住吉神社かな)で宿をとられて「いとすみよし」の言葉が入った俳句を詠まれていたことを思い出し、お参りをしてきました。
いつものように家内が何をお願いしたのかは、何となく想像できます。子供達三人の学業成就や家内安全などをお願いしたことと思います。
私は礼だけしてお願いするということをしませんでした。もう少しというかもっと私は普段からの努力や積み重ねなどが必要だと感じたからです。

ここのところ私だけではなく友人にも優しい人にもいろいろあって、感情的になった私は言動がすさんできます。感情に流されず、目前のやらなければいけないことをおろそかにせず、もっと家族や身近な方のことを考えて言動をしていかなければ、お願いはその後だと頭を下げて帰宅しました。

帰りも明るいお月様が私と家内の前に浮かんでいました。

「昔は街灯もなかったから、現在よりもっとあの眩いお月様が美しく神秘的だったろうね」

「そうね」

明日はもっと冷え込みそうなので風邪をひかないように、お大事にです。

まるいお月様

 昨日も今日も友人は生きていてこんなに面倒な問題が続くのか、といった言動をこちらへ伝えてきています。意地悪な私は決まって同じことを言うのです。

「もう終わっている話だから、お互い楽しんで笑いましょうよ」

自らの言動の責任は好き放題いうその人自身に責任とってもらわなければ仕方のないことです。それはそれとして周囲に理解してくれる方や優しい方が少なければ、不遇な目に会うことが増えるのはどなたも変わらないことです。

明日これからのために協力して進めていかなければいけません。まあ話が進まなくても特に困ることもないからどっちに転んでもニッコリ笑うしかないです。

今日はまた昨日に引き続き、お月さまがまるくとても明るい夜です。

「どこかで明かりをつけてるんじゃないの」

そんなくらいお月さまが光っています。日頃の努力と笑顔と優しい心と余計なお節介としてほっとかないことで皆光って行けるようであれば心からニッコリできると信じています。