慌ただしい一日(と私)

 今日で11月は終わり、行事と引っ越し先の片づけを言い訳に、今まで住んでいたところの最後の片付けが終わっておらず、こまごました用事が終わったのは晩の10時も過ぎ、晩御飯をいただきました。
片付けたといっても右から左にかなりな距離を移動したというだけでこれから、選別と捨てる作業がかなり残っており、明日からもまたやらなければ残ったまま、頑張らないとね、引っ越しをするまでの10年間荷物の大幅な整理なんてしたことが無かったですからそのツケというだけです。事務手続きも幾つか残っているし、一個ずつ一個ずつ片付けないと。

時間が何倍か欲しいと身勝手なことを思う日でもあり、ある意味満喫する休日ということにしておきます。
(何にも思い浮かびません。)

今日時間を割いて訪れてくれた方に答えを出せず先延ばしをするだけという消極的な答えしかだせませんでした。次は答えを出さないと、でも今は何もいい案が思いつきません。

きっと荷物が片付いてすっきりすれば、いろんなこともすっきりするはず。

(楽天的な私は一杯やって寝ることにします)


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変わり続ける相変わらず

十一月下旬には結婚記念日があって、いつもささやかながら家族皆でご馳走を食べお祝いをしています。ご馳走のための口実に子供達もいつも大歓迎で喜んでくれます。

明日までにやらなければいけない段取りも忘れ明日へやらなければいけないことは預けて、行事や引っ越しで遅れましたが家内と二人で子供が寝てから乾杯します。
結婚して15年、知り合ってからだともう少し年数が増えます。これからも一緒にいれば人生の半分になって、お互いが白い髪になるまで一緒にいることができれば、大半となるでしょう。

振り返ってみてもよく些細なことで口論をしました。理由はその時は何よりも許せないと思っていましたが、今になればほんの些細なことで、今ならいくらでも回避やスルーできることで、結局それは後出しジャンケンのようなもので、積み重なるものがあるからこそ流せる幅が出来ただけなのがわかります。

けれど私はまた些細なことで口論をすると思います。だからと言って彼女が嫌いになることではなく、やはり好きだからこそ好きになりたいからと自らをごまかすように自らの思いを角のある痛い言葉を感情に任せて言ってしまうでしょう。

「好きなら、そんな言い方をする必要はないでしょう」

何て言われそうです。

もう少し(本当はずっと)私に付き合ってもらうことにします。


乾杯♪

二人でグラスを鳴らすのです。

どこに

 愚痴を聞いてくれる方がいる、有り難いことですが、いつも聞かされれば有り難くないはずです。

初めて最近になってわからないことを求め、求めたこととは違う何かに出会い感動して、それを身近な方へ話します。それは初めてなら上手に伝えれる訳ではないです。

一度か二度何かの縁で言葉にして、相手がどのような受け取り方であったか、それを肌で感じ取り、一つの何かが出来上がっていきます。

言葉は耳慣れぬ言葉ほど(時や環境などの要因もありますが)、強く深く響いていくものです。どんなに善い言葉でも何遍も聞けば慣れてはいけないのに慣れてしまい、色褪せていないのに色褪せてしまうことがあります。私はその愚かな見本ですぐ慣れて飽きてしまいます。

ただ同じ言葉でも、違う深さ・強さ・悲しみ・優しさを持たせることだって可能なことです。


前提として長く話をすることが多いですが、前提が要らない関係であれば、言葉は簡にして要で事足ります。山頭火の俳句の極意と似たようなものです。

「ぐっとつかんで、ぱっとはなす」



大抵ぐっとも掴めず、はなすことも出来ず、はなしたとしても長々とかかってはなしたり、気が付けば願います。


外にではなく


私の最も内奥へ手を伸ばし、ぐっとつかんで、目前へはなす。


どこでも誰でも何でも、私はこれが出来れば、一緒に笑っていられる時間が増えそうです。

予定外の時間

11月27日 (日)雨

気づく前から降っており、一日の終わっても雨はまだやまない日でした。
案ずるより生むがやすしの言葉通り、あれこれと心配していましたが、予定していたより早くしまえて、問題もなく終って家内と子供達とゆっくり夕食をとれる時間もとれたのは有り難いことでした。

何でも悪くとろうと思えばとれます。けれど良くとろうと思えばそれもまた簡単なことです。

私は悪くとってしまえば自らの思いに潰されてしまいそうになるし、態度だってきつくなって怒りや怨みにとらわれ短絡的な行動になりちですから、落ち着いて良くとらないまでも普通か、今の時間を有効にしていきたいです。明日は私の短絡的な言動な周囲に聞こえるような独り言で迷惑をかけた方達へ謝らなければと考えています。

まだ前の場所の片付けも残っています。日中でないと片付けれないことですから行事明けの休みに一気に終わらせることにします。(物理的な問題も残っていますからそれをどう解決するかの問題もまだ残っていたなそういえば・・)

近くの方へ行き違いの何かで迷惑をかけるのは最も望んでいないことで、さらりとご迷惑をおかけしましたと流していただくように謝りお願いせねばいけません。

明日は行事の片づけを最後までできることをしなければいけませんが、望まれていることと、分を弁えること、礼を失わないことを感情を昂らせすぎて忘れないように、何か言う前や行う前に落ち着いて思い出したいです。

今日も(一杯やって)明日に備え早めに就寝することにします。

今宵と明日

段取りが夕方に終わり、夕闇と共に雨も訪れ行事が始まりました。
明日が中日で本番だけれど、現在の予定では雨です。お世話になる方のひとりの口癖ですが
「曇り良し 晴れてなを良し 時雨よし」
さまざまな方と何かしらの縁でお会いし、お別れするのですが、出会ったことも別れたこともよく忘れる私です。
どこでもいつでも自らをみて、そこに変わるけれど変わらない変わる何かをみつめていたいです。
今日も身に染みて何を言っても誤解してとることのない方に感謝しています。

自らにとって良かったと感じた現実にあったことを口にすると自慢だととられる方もいます。

自らにとって良かったと感じた現実にあったことを口にすると共感して喜んでくれる方もいます。

私のように人の話をあまり聞かない人もいます。私の今後の課題です。

明日もまた早くから遅くまで行事は続き、気長に、気負わず、必要以上に背負わず、とらわれず、ふれあう方には礼を害わず、優しく、
普段できていないことだけれど、そうでありたいです。今日もまた明日のために早く就寝することにします。

愚か者は弁えることがない

 風に当たらない場所で日当たりが良ければ、強い日差しで温かい日でした。ただ吹く風はやはり冷たくずっと立っていれば身体が冷えてきました。
用事で四国三番札所へ行かなければいけなくなり、しばらく境内で立って待っていました。
とても大きく美しく重厚さのある大師堂です。大師堂が本堂ではありませんので、本堂が仁王門から正面にさらに一回り大きな堂宇で境内は掃き清められた上に風によって色づいた銀杏の葉が散り、それはそれで趣がありました。
近くの誰かに言えば桜や銀杏は掃き清めるのが大変だとか散った後がとか風流より清掃のことを言われるような気がしました。お参りする境内でそんなことを心配するより、そこの境内の空気を感じてしばらく立ち暫くの時が流れ、青い空とまぶしい日の光と本堂裏手の山の緑を見上げていました。

三番札所金泉寺(こんせんじ)のご本尊様は釈迦如来です。ただ待つことにとらわれるより、本堂と大師堂をお遍路さんの邪魔にならないように遠くから拝し、ご本尊の真言「ノウマク サンマンダ ボダナン バク」を念珠を持っていましたから繰っていました。
一千六百返程で用事を済ませ帰ってきたのを迎え、戻りました。

さまざまなことを考えさせられます。私は気が付けば他人のことを安易に批判します。

それなのに私が批判されれば怒ります。機嫌が悪いのであれば何か言われても怒っていることすらあります。

なしたことに不必要な思いは持たず、ないものにケチをつけられる訳がないのにケチを感じる必要はないです。必要以上に私を私が過剰評価を気が付けばどうしてしてしまうのか、それを持とうとしていれ私こそが早く捨てなければいけない。

そう深く考えさせられる日でした。

私は「私の分を弁える」それに見失いそうなときほど弁えなければ、それはきっと私ではないです。


初めて出会った頃から優しいおじさんが私に不可思議な出会いを話してくれたことを三番の境内の緑と青空を見ながら、その風と日差しと揺れる木々に言葉ではない言葉をみました。

もう少し時間がかかるような気がします。

続)日々の日課と整理

 ここのところやらなければ片付かないのに、時間だけが矢のように過ぎていき、気が付けば寝る時間となって明日の為にと言い聞かせ就寝、あっという間に朝です。

明日はいつもより早く出勤なので、更に一日が早く感じるでしょう。

荷物整理をしていて、恒例なのは過去の写真をみて思い出にふけってみたり、いつもなら読まない本についつい目を通したくなるとか、手紙を見てその当時の相手や自分に若さを見たり、要らないものなのになぜか捨てれないのでとっておこうとしてみたり、ずっと使わないものならばこれからも使わないのにどうしてあっさり全て捨てれないのかと考えたり、私は本当に不思議です。

過去の写真は子供も赤ちゃんであったり、随分私も若さがあって、それもまたいろいろ考えさせられます。

清水の舞台から飛び降りるつもりで、もっと古くて長い間使っていないものは捨てないと片付かないということが引っ越しをして時間と共に身に沁みます。分別したゴミも溜まる一方、これはやっぱり次の休みまで何ともならないので、現実逃避が一番。

早めに寝て明日に備える。(誰が片付けるんだ・・・)

長男坊は割と家事やお手伝いなどよく手伝ってくれて助かります。

「しっかりしないと私(お父さん)」

明日は頑張りましょう(おやすみなさい)

贈り物の行方

 子供の頃、良いことが思いついた瞬間にそれが叶うというある意味しあわせなになっていました。
最近中学生になった長男坊はそこからもう一段進んでいます、ある意味しあわせにもなれていますが、自らが悲しみや苦しみにあると思い込んだ瞬間、誰よりも悲しい存在に思い込んでいます。よくある悲劇の主人公に浸るすぎる彼に私の過去や悪い面をみます。
あろうことかそれで未来まで決めつけて努力をしても意味がないなんて、明言して努力をしないという言葉をだして自らを納得させついでこちらにもそれを容認して欲しいという言葉です。余計なお節介を言う口をもつ私としてはですね

「あのさ、別にみたとこそんなに悪い環境でもないし、あなたの未来だってもう既に悪くなるとか決まったわけじゃないのに、それ決めつけないでくれない」

どうも私の言葉もこころに深くは届いていないようで、また悲嘆にくれています。
成長過程にある「箸が転げてもおかしい」や「何をしても悲嘆にくれてしまう」さらにその先にはきっと「何をしても怒っている」さらには「何かあれば誰かや何かと自らをの怨み呪う」などが訪れ、「自らがどこの場所であれどのように生きていくか」といった答えのない答えを探していくのかと考えさせられました。

今度は否定ではなく、彼の言葉や態度を全肯定することにします。

不相当の非難より、不相当の賞賛のほうが(自らの善心により)多くの激痛を起こさしむる。
ニーチェ



(善と悪と自らの幅の差異だけ、自らの痛い言動であれば自らが受け取るほかない。)

私は彼の痛い言動をあまり受け取る気がない。他の方も同様であれば彼自身に持って帰っていただくしかない。


(およそ時には冷たく振る舞う愛情も世の中にはあるという、言い訳をここへ記しておきます。)

多分

 無事に引っ越しは終わったけれど、家の中の箱詰めされた荷物と元の住居の片づけや清掃に追われています。

帰って箱とこ格闘、捨てればゴミとなります。ただ収集日までは倉庫がないから家の中の隅に行っただけで荷物の総量が減ってないので右から左に行っただけ感にやられながら、箱を減らしていくのです。

ただ相変わらずの現実逃避でここと向き合いながら時折趣味へ走り、言われないけれど家族に「さぼっているな父さんは」そんな見えない視線を感じないふりをしています。

連休明けの仕事は皆と行事の準備に追われ、気が付けばもう日が沈んで残りを明日へ、そうして何をしていたのかわからなけれど一日が終わりました。帰って箱は言い訳程度に幾つか片付け、これもまた明日へ託すことにします。

とりあえず飲んで早めに寝て、明日の仕事と家の片づけの為に体力回復なのです。


(タブン、夜更かしせずに早く寝ていると思います)

まだまだ山積み

 朝から移転に伴い、これまた送迎と手続きや申請に時間をとられ、元の場所の清掃とゴミの分別とチェックをしていましたが、時間切れで夕方になり子供達の幼稚園とスポーツの送り迎え、家の中のことはちっとも進まず相変わらず箱詰めされたダンボールだらけ、現実逃避としてここへ何かを記すのです。

ずっと勘違いを私は続けていました。

「因縁をつけてきた」とか「因縁だから」とか、これが悪いイメージがつく使い方であれば、恐らく私だけでなく皆好むのではなく反対の思いを持つのではと考えます。
良い意味で使うとしても、「因縁」という言葉自体は仏教で頻繁に現れる言葉ですからやはり少し違和感のある言葉ととられる方もいます。

現実が目前にあって、その移り行く現実を生きる私、それを取り巻く環境や時代も瞬時に変化し、それは未来永劫同じまま続かないということで、移り変わりゆくその一つ瞬間のみが永遠に続かないことはどなたもが知っていることです。
ただその瞬間に私は善いことでも悪いことでも美しいことでも醜いことでも怨みでも怒りでも喜びでも笑いでも、とらわれて善いものと思ってしまえばそれが永遠であればと願い、しあわせな関係であればそれもまた未来永劫続いて欲しいと願って、時間だけ私もとりまく物体も年月を経て老朽化しているのもまた事実です。

現実のその瞬間にも美や感動や覚りがあって、次にもあるのだけれどそれは表面上なにかしら移り変わってあり、私はよく混乱し過去の思いにとらわれ、悩んで足がとまったり迷っています。

それは数えきれないほど(無数)のさまざまな原因の縁によって生じ起こり(因縁生起)、移り変わりゆく現実を正しくみてひたすら善を求めつづけていきていけるか。

書いていて、自分に無理そうなことですから、私はまた逃避してふれあう方と何があっても(結果的に)心から笑いあえる時間を増やして行きたいと願っています。

これもまた難しいことで、ここを書くことより現実の問題(荷物の整理)を片付けたほうが皆(家族と私)笑ってくれるでしょう。



明日もまた予定があるので、早めに休むことにします。

移転

 昨日は仕事が終わってから移転のため、朝の4時まで長男坊と荷造りをして、泥の様に眠って朝8時から開始でした。
荷物整理は目算ミスというかただの逃避によって、結局間に合わず朝起きてから昼までかかり、引っ越し完了したのはもう夕方でした。

ただ家の中には山積みの段ボール、末っ子の「けいくん」と次男は少し手伝いながら元気よく遊んでくれていたようです。まだ掃除やごみの片づけ、大きな荷物の廃棄、やっと移転した場所の整理整頓と要らないものをじっくり廃棄していく作業へ移ります。

こころの中に要らないものは捨てなければということが難しいことだといつも考えていましたが、山積みの整理と要らないものを捨てていくことも難しいというか体力と時間の勝負かな。

余り寝ていないのは、たかを括って、怠けていたことですからこれもまた自業自得で、それによっていろいろと問題も出てきますから、文句は言える立場ではないです。明日も有り難いことにお休みをいただいていますから、各種手続きや掃除や整理などがこれもまたまだ山積みです。
とはいっても自分のことで忙しいのだから、他人のことや職場のことで忙しくする方に比べればこれもまた黙って頑張るしかないです。

明日こそ、今日よりニッコリしたいです。早めに休むことにします。

比率

 ある方へ特にやさしく接することをみて、それが何度も何度もあれば、ある方は大切な人なのだろうと思う。
それ以外の方にも優しいけれど、特別という言葉が存在するように特別にみえる。本心は

「私にだけとても優しくしてね」

と言いたいけれど、隠すようにお願いする。

「あの方へ優しくするように、皆にも優しく接して下さい。」

こちらを見ているようだけれどお願いして目線をそらしておく。

少しでも考えることができれば、自らにとってとても大切な方と同じようにどなたにも接するということは私が一番できていない。
ただ

(「大切な方」と「どなたでも」が入れば、「どなたでも」の中に私もあなたも入るから安心できるじゃない。それなら私はにっこりできそうなんです。)

そんな雰囲気を出してみました。


明日は無理いって、移動のために休日をいただき、日頃の怠けのつけを今日の晩必死にとりもどすのです。

ここのところ子供たちの散髪もしてあげていないから、あの子達も私の髪も普段より伸び伸びですから、
4人一気に散髪をしなければいけません。

やらなければいけないことは沢山あって、それから目をそらす私も沢山いて、それでも目を向けてやりなさいという私もいるので

やっぱりパランスですから、皆が喜ぶわたしの比率を楽しながら出すように考えることにします。

揺れ方

 誰もが一本の葦というか、風にゆられる弱い一本だと

弱い一本であるとしても、それは考える弱い一本で、弱いからこそ風に揺られる

同じ風であるとしても人によってその揺れ方は異なる

自らの揺れがどのようなものかより、近くの弱い一本が何かによって揺れ動くことは容易にみてとれる

弱く考える葦

芯が違うのか、強い風によってもしなやかに流す葦もあれば、強固で揺るぎない強さの葦もある。

ふつうでいい

ただ揺られながら、騒動散乱する中にあって、自らの心を見失わず揺られ続けていたい

誰かにみられて言われるかもしれない

「あなたは揺られすぎだから、しっかりしなさい」

「そうですね、気を付けます」

考える葦は揺られる幅の高さや深さ受け流し方を違う葦をみて考える

揺れすぎているようでも揺られていない深い葦もいる


私はどんな考える葦だろうか

普通ですよね

 隣の方がいつも来られている方と話をして、帰られた後に

「いやあ、世の中は広いんですね」

と言いながら、何かに納得したようで感心していました。


来られた方はいろいろと話されて、私とは違うのだけれど「同じですね」と言われ、それは「愛されている」と教えてくれました。何故にそういう結論になるかをまたいろいろ話をしていたら、どうやら来られた方も同じように

「(自らの行為が相手を愛しているから)普通ですよね」

私は少し大人になりましたから、そこは私と違った答えだとしても

「そうです、普通ですよね」

近くにいた他の二人の表情がとても豊かで楽しい時間でした。こころがゆたかである瞬間だからその時楽しく笑って過ごせる。

生きていれば誰もがいろいろあるから、それをとりあえず忘れて笑える時間をどんどん広げて、やっぱりいろいろあってそこにとらわれ、また強制的に忘れるように楽しくわらって、一日と仕事が終わって行けばよいと願います。

「まったく訳が分からないんだけど(理解できない)」

そんなことは生きていれば山のようにきっとでてくるんだから、やっぱりここは

「困りましたね(まったくわからないですね)、ハッハッハ」


わからないことをわからないと素直に私こそが認め、即座に「ちっともわからんです。ハイ」が最近の流行です。


私のことをよくわからないと言う方もいて、ここも決まっているのです。

「私自身わからないんだから、きっと難しいと思います。」

そうやってまたお互い笑っていきたいです。

とっくに降ろしたぞ

 馬鹿なことで初対面の方と盛り上がりました。いつも近くにいる方と11歳が離れています。今日もまた一緒に仕事をしていると来られた方が若い方で元気で優しい方でしたから何気なく

「お兄さんは若くて元気で優しいですね」

その後少し一緒に来られた三人の方と話をして、お兄さんに歳を尋ねると思ったより私よりは若いですが見た目はずっと若くみえました。皆で

「絶対年齢より若くみえますよね」

何て盛り上がって、あまり出しても嬉しくないことですが私を出してみるのです。

「隣の(いつも近くにいる)方よりですよ、11も私は歳が上なんです。」

これは意外と驚かれるので、ここはそこにのっかるのです。相手で素直な方は上手じゃなくて

「随分若く見えますよ」

「(ここは否定せず相手の思いを大切にする性格の私は)そうでしょう」

すると

「いや上手じゃなくて本当に若いですよ」

すると普段割と優しいのに近くにいる方がやっぱり恒例の発言をしてきます。

「よく見てください目の周りとかシワがあるでしょう。歳ですよ。」

「そんなことないですよ」

笑わなければわからないのに、可笑しくて皆で笑っていました。よってシワは隠せないのです。ここはいただいたお菓子をその方達に御接待して、皆でホクホクして別れるのです。

何かいただいて悲しくなる方も少ないし、褒められて嬉しい人は多いし、ただ必要以上に抱え続けなければよくて、笑えばいいし、素直でいいし、思い当たる言葉が無ければ黙っていればいいし、何か言いたいのなら当てはまらなくても心で言えばいいんです。


「ちっとも言いたいことはわからないし、意味は分からないけれど、何やらわかった気がする」

なんてことでいいと思う日です。


確かに同じことを同じように理解できれば何よりも嬉しいことはあります。同じように理解できないことを違う理解できない理解だけれど理解できないという同じ思いで何やら安心することもあります。


「まだ抱いていたのか」

なんて言われないように


(できればこちらが先に言えたら一緒に笑えそうな気がします)

 「言葉が・人間が・行動が」

この後に広がりを持つ意味の言葉ではなく、軽いなどの言葉がいつも当てはまるようであれば考えさせられる人もいるだろう。

実際として私は私のことをみずに、他人にそんなことをいっていることばかりで、自らが広がりを持つだけのことを続けているか、
自らの胸に手を当てたずねてみても「大丈夫だよ」という手放しで喜べそうな答えは帰ってこない。

こういうときは、周囲をみる。

悪いことも誰かを見てそこに私をみる。私を見て誰かをみる。きっとこれが良いことだけをみて「私も一緒だ」と楽しそうに言っているのなら
これまた周囲は何か考えさせられるだろう。誰かの悪いことを比べて大きさが相手より小さいものであるとしても、同じものであると認識しなければ
どうにも前に進めない。

一口で言うことは簡単なのだけれど、その現実やこれから先に流動的な善悪に左右されない中間に位置する正しいものに自らをそこへおけないのに
おくことができるか。人によって方法や言葉が変わるけれど同じもの、二つにして一つでもなく一つにして二つでもない、
けれど同じもので落ち着くものとでも呼べるだろうか。

ここのところ難しいこと(私)に出会いすぎてどうもぱっとしない。さらりと流せず自らの中に淀みを作り、自らが淀みそのものになる。
さらりと流して、ぱっと笑って、ぱっと割り切って、だれとでもあっさりいきたい。

変なことにとらわれることはやめて、今やらなければいけないことを少しでも一つずつ取り掛かっていこう。
どうせあれこれ思うのだから役に立つことを、目前のことに飛び込もう。

まあ最悪は晩に一杯やりながらでも飛び込むとしよう。

リンゴ

 この時期四国ではあまり実らない果実ですが誰にでも馴染みのある果物がどうやら私は大好きなようです。何年か前から家内に言われるのですが

「あなた林檎大好きね」

「何で」

「だってスーパーに行くと林檎をいつも眺めて、気に入った(手ごろなお値段の)ものを大体買って帰ってるもの」

その言葉を何度も聞いて、ようやく私は最近になって林檎が大好きなのだと気が付きました。特にですよお手頃で今の時期や少し前の時期だと一押しは「シナノスイート」です。もうそろそろ他の品種に代わってしまいますが、シナノスイートが売られている時期にスーパーに行くと心がホクホクします。

ちょっと最近家計が厳しいのですが、あまりにも美味しそうな大玉のシナノスイートが売られていたので、離れていろいろ見ていた家内をわざわざリンゴの前に呼んで

「どう、美味しそうじゃない」

「買っていいよ」

「いろいろあるけどどれにする。貴方選んでよ」

二人であれかこれか、いやこっちがとか言いながら、5玉入りの袋を買って帰りました。そういえば前に後輩が歩き遍路で四国へ来たときにも、一つのシナノスイートを途中で食べてと家内が渡していました。その時の家内が

「お土産に渡したけどよかった」

「喜ぶと思うよ、美味しいもん、有難う」

次に出会ったときに彼が

「あのリンゴ美味しかったです。」

はっきり私にそう教えてくれました。林檎だけでなく些細なことで心がほくほくできるのならそれは何でも大歓迎です。荷物の整理をしていたら、大学の学生証が出てその写真はまだ眼鏡をかけていない頃でとても若く、横にいた家内に

「ほら、みて」

「若い、というか少年の顔だよ」

まあ19位だしねその写真しかも私童顔だったし、子供達みたらびっくりするだろうな(見せないけど)。

そんなことをしていたら荷物整理は進まず、ここも書いていないので慌てて相変わらずの他愛もない日々をここへ記すのです。


一杯やるのは忘れないでおきます。

予定

 この週末に移動することになっており、しばらく前から家内も子供達も私も普段の予定をこなしながらですから予定は詰まり、まあ簡単に言えば大忙しです。

今日はいつもより忙しく少し疲れて帰れば、家族全員が荷造りや要らないものを皆(末っ子をのぞく)まとめていました。私もそれを見ればゆっくりなんかしていれませんので、その他やらなければいけないことを一つずつ終わらせ、未決の案を家内と一つずつ話し合って実際をみて挨拶をして、夜も更けていきました。本当なら明日休日をいただいていますから、ゴロゴロ寝過ごしていたいです。今の調子でそれはかなり無理です。家族に恨まれるどころか、冷たい目以上のものがしばらく続くことは避けなければいけません。とりあえずやることを一つずつ済ませ、明日の最低限以上まで行えれば、少しはきっと休んでも怒らないはずです(タブン)。

優しい方が今日少しピリピリしていました。忙しいから仕方ないことです。落ち着いた後でそれとなくその理由をさまざまなことで教えてくれます。

「空気のような存在だから」

「阿吽の呼吸が大事だから」

答えはその方の口癖の代表的な二つに近いもので、現場がそうでないから、そんな時起こるのではなく、ヒリヒリするような空気をだされこちらに痛いほどに伝わります。よっぽどの方でない限り、ペラペラしゃべっていたりうかつな行動はしないでしょう。

認識の甘さ、理解の幅や広さ深さ高さの甘さ、自らを過信する甘さ、感謝できない甘さ、自らのなしたことを過大評価する甘さ、自らの思いにとらわれる甘さ、自らが愚かであるのに賢いと思い込む甘さ、その他にもありますが、そんなことがあれば空気が一変しています。

「こちらがいつも優しくできることを続け礼を失わなければ、よっぽどの人でない限り理解してくれる」

それをいつも行動によって納得させてくれています。ただ時折「よっぽど」の方にお会いし、私の愚かさが本領発揮すれば「私こそがよっぽど」になっています。


「ありがとうございます」「貴方に感謝しています」「本当にすみません」簡単な三つの言葉ですが、ここに自らの心をぴたりと寄り添って発言されている方に光をみます。

誰かにその美しくまばゆい光をみる方は何故かその方も光っています。

私は何故かそんなことを今日話していました。

「もっと、もっと普段からそのひかりをみてほしい」

そんな短い言葉だけ先ほど書いた例えとは違う例えを出し、短く言うのです。



ただ私は誰かの光を望めば見たいし、その光を見ることによって自らを光に包まれたいとも願い、それを言葉にするのです。

勝手な主観

 私が思っていること(主観)と、近くの誰かが思っていること(客観)が一致するか、それとも相手が一致していると思っていてそれを言葉にして伝えてこられて、私の理解や思いと違いがあればつい「ああ、違うよ、それはあなただけがそう思っているから、私は入ってないから入れないでね」なんてやりとりがあって、「そんなことないでしょ」と言われても、ここはやはり相手(いや私の)のために「あなただけですよ、私はお断りしたから入っていませんし入らないですよ」なんて意地悪に言うのです。


以前に先ほどの話と少しも関係ないのですが、悩み迷っていた時に優しい方へおたずねしたことがあります。

「今直面している問題をしっかりと取り組めていないから、その直面している問題に向いていないから他のことならいけるのかな」

「右のものを真剣にやろうとしない人を、左に変えたからといって真剣にやれるなんてはずがない。」

何故かその時私はそれもそうだと思いました。例外は当然あります。真剣に取り組む姿勢の問題なので結果が問題ではなく過程というか取り組み方というかやはりその方の雰囲気にあらわれるもの。

雰囲気や姿勢は当人より周囲の方が先に気づくもので、一流の方以外は遅れてそれが自らに気づくもの。

自らの問題を自らが逃げれば、遅れてその逃避している時間・稚拙な逃避の言動など、一度逃避すれば癖になりやすく、楽に走ればその幅だけ自らがそれを認めたとき、楽の反対に位置するものが押し寄せてくることで、それを死ぬまで逃げ続ける方もみます。本当に困ったことはその方と同じようなことが私にも実際沢山あるのです。

現在の状態から逃げ次によいことを求め、果たして次の一件に心おきなく進めるか

そんなことを考えながら、私は私なりの意地を張り続けるしかないという答えを出すのです。


逃げるということも人によって方法も異なるものであるし、逃げながら攻めるということもあるし、人にはいろいろあるからやはりこれは私なりの結論です。


ただ

誰かと何かのせいにして、誰かと何かととりまく現状や過去を恨むだけの日々はもうこうりごりですし、誰かのせいにしていれば私はよくなるという話はもうお腹いっぱいです

次男を迎えに行って、一杯やりながらお腹いっぱいご飯を食べることにします。

世間話

 寒くなってくると鍋料理ですね。温かいことがご馳走が身に染みてきます。昨晩今日が休みだということで遅くまで晩酌をしてしまい、かなり睡眠不足がたたり、ぼーとして用事はまた先延ばし、最低限だけはこなし、決めなければいけないことも最低限決めて、後は明日に先延ばし、そろそろ整理をしないと間に合わなくなってきました。

悩めば暗くなり前に進むということが消失してしまいがち、私はその典型的で模範例に人一倍自信があります。

なので笑うことにします。あと二つ程、決めれば今年の予定は達成できそうです。

師から逃げるように離れ、それから私は私の思うように生きてきました。もっとも思うことと反対になって怨み悔んで泣いてやつあたりして自暴自棄になって、優しくなくて、暴言をよく吐いて、時に仕事ではすべてにやる気のない時期が10年以上前にあり、今それは笑って話せることに時や人が癒してくれました。

一番身近にいた家内は本当に迷惑をかけっぱなしです。私と違って無口で真面目で綺麗な人です。大好きで愛していますが、最近も激しい口論になってそれでも大好きです。
もっとも彼女には彼女の思いや考えがあるから、私が思っていることとは違う思いでしょう。それでも大好きです。

次男のスポーツを迎えに行くと、他の子供さんの母親の方が何気なく私に世間話をしてくれました。

私「最近お父さんが手伝いにきてくれてばかりで、忙しかったのですか」

「忙しいのと、同級生の友人が癌になって、後何か月かしか生きれないから友達といろいろと話に言ったりしていたんです。」

私「発見が遅れたから」

「病院にかかった瞬間に余命一年だと宣告されたと、私達(友達)に教えてくれた。本当に笑って言うんよ。もうやることはやったからねって」

私は相変わらず愚か者だから、そこでこの饒舌な口は何も言えなくなりました。通り一辺倒のあたりさわりのない質問くらいしかできませんでした。


私が後一年と言われたらどうするだろうか


もし、家内が後一年と言われたら私はどうするだろうか


なってもいないことを考えていました。

肝心な時に無口になって大切なことを言えない時に、ここは役立ってくれると始めたときに思いました。特に私は健康で家内も健康だけれど、やっぱりあの人が大好きで感謝していることはここへ記しておきます。

ただ私の愚かさ(過去からの言動)があの人にぴたっと言葉通りに伝わらないようなことは私の罪です。


怠惰で感情的で、考えずに発言する私の側にずっといてくれて感謝しています。