なにやら

 平日だけれど割と忙しい日となり、気が付けば夜となり、困ったことと言えばここに何を今日は書くのか。

合間に自己満足として本に目をやり、ただ周囲のことが気になるような読み方では文字として成り立っておらず、文字以上のものとして周囲のことが何も気にならなくなるくらいその本へ没頭しているその時、何か学んでいるように思えます。
それは自己満足と書いたように、学んでいるのではなく自らの理解の低さと知らないことわからないことをただ痛感している幅の分だけ、本に輝くものを観ているように感じます。

夜に仕事をしていて、近くで話す声が聞こえました。

「私は生きている間に謝ってきたいのです」

短く省略しましたが、私も過去にそう思っている時期がありました。今はそこから離れてしまって素直ではない私に戻り、謝らなければいけないのに素直ではない言葉や態度で感謝を伝えたいと思います。
「彼は素直なんだな」そんなことを遠くから聞こえる声を嘘のない言葉だと認識しました。

私は素直ではないです。

おかしなことをよく想像して一人で笑っています。

ひねくれています。

意外と根に持つタイプです。

思ったことを親しければつい言ってしまいます。

感情が即座に激しいうねりとなって相手にぶつけてしまいます。

一人で(相手がいなくて)も話ができるほどの器用さを持っています。

ただ肝心な時は誰よりも不器用です。

困った人です。

愚か者です。

ただ自らに悪いところがやまほどあるのに、私は私が大好きです。そこが一番困ったところです。


明日休日をいただきましたが、割と用事が入っていますのでゴロゴロマッタリは来月まではお預けのような気がします。


もし用事を忘れ寝てしまい時が過ぎていれば、更なる困った人と認識されてしまいます。明日は気を付けることにします。
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 私の中にある「ものさし」

昨日からそれが一つの問題で、今日もまたそのことについて見解を述べる機会がありました。その時の内的な流行で特に周囲でそれが流行ることもないのです。

感情が激しすぎることが欠点、ただ高度差は稼げるということが利点でしょうか、同じことで感情を出せば出すほど回数によって激しさが薄れ、通常に戻り、もっと繰り替えせば淡々とした作業に近くなり、その先にはそのことについて発する言葉が無くなっていきます。

いつものことで特に誰かと連絡を頻繁に取り合うとか、仕事場では座って仕事をして、家では座ってパソコンの前で書き物や趣味などを楽しんで、動くというか動き回るということの対極にあり、狭い範囲で生活のほとんどを過ごしています。

柿(季節の果物)を二ついただき、ハロウィン柄などが周辺に溢れて、我が家の来た柿はもれなくカボチャと同じ色であったことからカボチャに書かれていたりする顔が柿に書かれていました。

「二つともマジックで書かなくていいよ。一個だけにしといて」

「えー、柿に書きたいよ」

意外と上手に洒落で落書きしていた次男坊が返してくれました。本当に柿らしい色に熟していました。あれがきっと「カーキ色」というのです。

皆で美味しくいただき10月も終わりに近づき、予定が押し迫ってきています。一つずつ一つずつ進めていこうと思います。

相変わらず頭の中が「はーさっぱりさっぱり」なので酔っぱらいになって寝ることにします。

 何かを話で伝えることは難しいことだと痛感します。

私は私を捨てきれず、私の理解することを相手にも簡単に理解してもらえるだろうと話しながら自分だけの理解を私だけが大切に持ってしまっていることばかりだからです。

会話・対話が終わって初めてその愚かな私に気づき反省します。さらに最も愚かなことが続きます。次にまた会話・対話の時に私は私を髪の毛一つほども捨てきれていないことに終わって相手の反応を見て気が付かされます。

いつも私は夢を見ています。

私は私を理解して欲しいということを何故か思っていて、そのついでに相手のことを理解しようとすることばかりです。


何故終わって気が付くのに邪魔になることなら捨てたらいいということを簡単に捨てれないのかと今日対話をしながら実感させられました。

ただいつも思うことは、私の近くにいる方が不利益やふしあわせになって欲しいとは思いません。できれば人生いろいろあったとしてもお互い泣いて笑って、「あんなこともあったな」そんな瞬間を連続させたいと欲張りなことを気が付けば願います。


愚かな私の言動が相手に理解してもらうことができるとしたら、その方は賢者です。




相変わらずの私を見続けた日でした。

口は・・・

 「口は災いの門」

これによって身を滅ぼしたことがあり、一体いつ懲りるのだろうかと終わって思います。

今日ここを書く気力がなく横で家内がテレビを眺めていたのを現実逃避してみていると

 「国連で核兵器禁止条約の交渉開始を求める決議案に日本政府が反対」



私は長崎の出身で平和公園の近くの学校へ通い原爆落下中心地の横を通りながら帰宅していました。当然原爆資料館も通学路のすぐ横で、いつも平和公園や原爆資料館に来る沢山の方やバス、原爆資料館を初めて眺めた撃烈な思い出は今をもって脳裏から離れません。

だからといって政府が出した答えに対して物申したいなんてことを書いているわけではないです。アメリカに日本は敗戦してから植民地や日本人が奴隷として扱われ続けているわけではないのでしょうが、敗戦から立ち直り現在の日本があるには大国の恩恵があったのでしょうから、現実問題を思うがままに進めて何の問題もないなんて簡単な話ではないのだろうなとちっともよくわかっていないのにそんなことを考えてしまいます。だからといって原爆をどこの国もが持っていつ打ってもおかしくない状態でなんてことは微塵も思いません。

きっと私と違って日本政府の人は大人なんでしょう。自分や皆が困らないように率先して正しいことを発言することで痛い目に合うことを避けているんでしょう。それが正しい大人の判断だと政府や日本国の見解だと未来の子供達へ伝えているだけのことでしょう。

相変わらず大人になれていないので、いらないことを言う口を止めれず皆に回りまわってや間接的に迷惑をかけます。明日はそのことを忘れないで過ごしたいです。

時間が

 大体予定してある通りに用事を済ませました。ただまだ溜まっている用事が幾つもあり、それを声にだせば、聞こえている人にも自分にも

「気が付いているならすぐやったらいいじゃない」

そんな声が即座にあがることなので、気が付いているけれど気が付かない振りをしておきます。

普段私はあまりというか外でお金を使うことを日用品や食料品(お酒もここに含めといて下さい)くらいしか使わないです。今年はお金をそれ以外に使うことになって、世の中というのはわかりやすくお金を出してくれる方は神様のように扱われ、偉くもないのに奉られてしまいます。私はその上げてこられる雰囲気に時折乗せられたり、そのような雰囲気にのぼせ上がる自らの心を抑えるのに必死です。必死になっているといっても周りから見れば持ち上げられているようにしか見えないなんてことばかりです。

ケチを隠さなければいけないという思いと、見栄を張りたいという思いは似ているようで全く違うものです。

ただどちらも財を外向きへという点で同じです。

後悔しないことと、見栄を張ることも違うものです。

惜しまないことと、浪費することが違うものだということと同じようなものです。

調子に乗ると口が軽すぎる私は大好きではないですが、それもまた時と場合であって気を付けていきたいです。

今日家内と時間を長く久しぶりに過ごし、子供達とも一緒にお出かけして帰ってきました。最後は二人でウォーキングへ出かけ色々と二人で話し合いながら同じことを考え、これからのことを楽しく思う時間を過ごせました。

自らの良い点や人より少し優れていると思うところを話し合うというのは難しいことです。言い方が少しでも害えばただの自慢にしかとられず、嫌われる要素が出てしまいます。


皮肉です。話す相手に好かれたいから自らの良い点を話しても自慢に取られる要素として伝われば、反対に嫌われる要素へなんて、かといって欠点・自らの悪いものばかり話して好きになる方も少ないように思います。


一つの理想です。

あるがままに話して、少しも悪い要素を感じさせない自然体な自らを夢見ています。


ただの皮肉な現状です。良いことを理解するのに私の悪いところも普通のところも同じ過ごす時間だって必要だから、相手にも私にも。


私はいつだってあたりまえのことを理解できることが何年も何年も時間を要してばかりです。



とりあえず

 仕事がお休み、朝から小学校の当番である旗登板に立ち、小学生や中学生と幼稚園児を旗を振りながら

「おはようございます。いってらっしゃい」

他所の子供達だとしても子供は可愛らしいです。元気に走りながら登校する子、ふざけながら登校していたり、お友達と仲良く登校していたり、ポツンと自分の世界に入りながら登校していたり、知らない私に話しかけて質問する子供もいたり、礼儀正しい子供もいて、礼儀正しくないけれど憎めない子供もいて、幼稚園児はお母さんと楽しく歩いていたり、小学校高学年の女子になればうちの男の子より大きいし成長が早いなとか、近所の人の生活スタイルが垣間見れたりして、それはそれで楽しいです。

それから普段の不摂生がたたり(特に寝不足)、誰も家族がいないのでゴロゴロとして惰眠を貪ろうとしましたが、最近家内が疲れていることが頭によぎり、それなりに溜まっていた家事を午前中こなしていました。あっという間に末っ子を幼稚園に迎えにいかなければいけない時間が来て昼からは「けいくん」止まったりした時間を過ごしていました。

今年はプライベートで予定が詰まった年です。明日もまた休日をいただいているのですが朝から幾つも予定に走り回らなければいけません。本当はまったりゴロゴロプライベートはしたいです。今年を乗り切ればきっと来年はまったりできるんじゃないかと楽天的な思いを家内と一緒に言い聞かせながら持っています。

明日は家内も授業参観など予定がつまっているので無理言って仕事を休んできています。私もゴロゴロばかりしていないでできることをしないとますます肩身が狭くなる一方なので頑張ることにします。

「ファイトー!」

「イッパーツ!」

自分で書いていてよくわからないですけど、頑張ることにします。

心配ない

 「秋の日は釣瓶落とし」

もう五時も過ぎれば暗く、街灯がない場所は段差が見えず危ないです。ただ晴れていれば夜空が早い時間から楽しめ、秋の夜長をどう楽しむか、お酒を飲むようになったのが35歳位だったか、秋の夜長でなくても夏も春も冬も、お酒を楽しんでいます。

今日は仕事で割と昨日冷えて風邪気味なこともあり、近くの方へ背負えないものをパス(いわゆる押しつけ)て、普段私の苦手なことを背負ってくれる方がここのところ身内の不幸でお休みされているので、その方の代わりにパスしてしまっただけなのです。

私と同じです。似ているからか同じ男性だからか得意分野など、背負えない時の反応もよく似ています。

「パスした方に不機嫌になるか怒る。」

ふふふ、ただ同じ人間というわけではないから微妙に不機嫌になったり怒る要因が違います。今まで何で不機嫌だったのかもなんとなくわかりました。私と同じようで違うのです。私が気にならないところが気になり、私が気になるところが気にならない。その幅・深さ・高さなど違うのです。

だからね

「今度からは私が背負ってあげるから心配ないよ」

そう笑って、本当は苦手で背負えないような気がするけれど、とりあえず努力することにします。それに対する彼の答えは

「本当(にいける)かな」

かなり怪しまれていました。それもまた私の今までの言動の積み重ねによるもので、それもまた納得していかねばいけません。ここは、笑顔で次も駄目そうでも言うことにします。

「心配ないよ」


ただですよ、「いや、見ていてちっとも安心できませんよ、滅茶苦茶心配にしか思えませんが」なんて言われたとしても、私は男のことですから、忘れてなければ(ここ重要)やっぱり言うことにします。

「心配ないよ」


まあ忘れてたら問題ないということも表明しているので、心配ないように思います。

 ここのところ干支一回り前の年齢より、よく笑えるようになったと感じます。その頃私は世の中全てに怨みを抱くようなことばかりで、目前の仕事をそれなりにこなすだけで、目標・努力・学びや礼を失わないことなんて何一つ考えていなかったように思います。

ただ嫌な思い出ではありますが、物心ついた時からつく前からも鬼の如く厳しい母が私に対して言っていたことは

「貴方はこれから外で生きていくのだから、恥ずかしい振る舞いなどをしてはいけない。」

そう言って食事作法や細かいことなどに厳しい母でした。そのお陰で私は今も母は尊敬していますが好きになれません。ただその母の叱咤・厳しさ・おしつけによって、私が怨みや怒りにとらわれ我を見失っていたとしても、それなりの保てるラインが出て気が付かない私を助けてくれることが大人になって身に沁みました。

余裕がなく愚かな時、私は子供達を母程ではないにしても厳しく怒っていました。余りにきついため家内にも家内の両親にも直接は注意されませんが、遠回しに注意を受けました。

今私は家内や子供達周囲の助けもあって、随分穏やかです。

あの子達をみて、ふと将来が心配になる要素が出れば、鬼の如く怒り狂うことが必要であると思うことがあります。ただ怒りすぎれば母を好きになれない私の様にあの子達は私を嫌うでしょう。

天秤にかけても、見逃せないと思う瞬間を私が見逃せば、あの子達が大人になって後悔することでもあり助けにならないことでもあると怒って注意することを見送ってから思うのです。

自らのせいであるのに私は私の現状に理不尽さで怒れば、私より理解していないと思う方へ理不尽な怒りをぶつけてしまうことが往々にしてあります。

その方はとんだ災難です。

ただその災難をどういう形でか受け入れ、努力をもって昇華して笑ってあの時はと笑える人は素晴らしい方だと自らの言動を棚に上げて本当にそう思います。


最近、怒りや怨みにとらわれることが多くて周囲にその雰囲気をぶつけてしまい迷惑をかけているような気がします。


いつかは怒るのでもなく恨むのでもなく、泣くのでもなく大笑いでもなく、静かに受け止め静かに流れるように生きていきたいです。

三味線

 唐突ですが三味線が何故か幼少のころから好きです。かといって近くで弾いてくれる人もいなくて、でも三味線が何故か好きで、私の母も弾かないのに好きで三味線を弾かないのに購入して飾っていました。父のコメント

「母さんは三味線買ったから弾くのかと思ったけど、買って満足して弾かない、何で買ったんだろうか」

そう私に聞いてきました。

私の答え

「何で買ったんだろうか」

最近実家に帰省したら、今度は三線が飾ってありました。父のコメント

「うちの母さんは沖縄によく行ってると思ったら、今度は三線を買ってきた。弾くのかと思ったら、その辺りに放置してある。何で買ったんだろうか」

私のコメント

「何で買ったんだろうか」

ただ、私も母さんから血をもらっているので、津軽三味線とかをYOUTUBEで見て聞き惚れ感動しています。いずれは老後ギターじゃなくて三味線を弾き楽しめる老人だったらと夢見ています。

「60いや70の手習い」

それを三味線や三線でもいいかな


長男と津軽三味線の動画を見てこころ震わせながら感動する日だった今日の他愛もない何かです。

一日経った酔っぱらい

 昨晩皆が寝静まってから、一人の時間を満喫していましたら気が付けば午前4時近くで、今日も仕事もあり、行事もあるので、忙しいことを知っているのに、実際知っているというか覚えているのならそんなことしないので、実は知らない私なのでしょう。
一日仕事・行事も何事もなく乗り切り、仕事が終わって打ち合わせの際にはちっとも頭が回らず、問題を先延ばしにして帰ってきて、次男のスポーツの送り迎えがようやく終わり、昨晩のお酒がまだ抜けていないような感じですから、今日のお酒は無しにします。

こんなことを何回も繰り返す私の横に一緒にいる誰か(家内)が

「何回もそんな目にあっているんだから、懲りるんじゃないの」

「懲りてるんだったら、何回もしないのですよ」

うーん、こんなことを言っているから阿呆という称号がついてしまうのです。だから話を変えるのです。

「ほら、あなたも働き出してかなり困った人にずっと出くわすから口癖みたいになってる言葉があるじゃない

『いろいろあるわ・・・』

って、あれ割と負の雰囲気を纏っているからさ、私がプラスの雰囲気を持つ言葉に英訳してあげる」

「どんな感じなのかしら」といった顔で見ています。

「Wow nice color variation!

これなら色んな意味でプラスに取られるでしょう。合っているかはともかく雰囲気はきっとプラスに♪」

どうも納得していません。

「じゃあだよ、もっと拡大して『いろいろある』を訳すなら

『 Life is beautiful 』

(決まった)」

「どこの外国の映画のタイトルよ」

珍しく突っ込みが入りました。

「まあいろいろあるけれど(美しきこの世界)、を超訳したのだよ。何せ翻訳者にその権利はゆだねられてるからね、仕方ないことだ。」

そんな感じで晩御飯が終わり、早めに寝ることにします。


人生は毎日夢のようで朝起きればそれが現実なのかどうかの区別に迷うときもあり、高い見地に立てばどれが夢でどこが現実か、果てはどこが理想か、とりあえず寝てみます。



不測

 予測できないことを予測してと子供に言われました。

「お父さん、次大きな地震いつ来るの」

「それ父さんがいつ来るかわかってたら、『私は預言者だ』と名乗って仕事辞めて暮らしてるよ」

次男坊はそれを聞いて

「ヒミコー!」

そう言いながらお風呂に入っていきました。そのやり取りを聞いていた家内は

「なかなか上手い冗談の返し方だったね」

「そうだね」

彼が家内のその言葉を聞けば自信を持つことでしょう。こんな時に変な冗談を他人事のように言っているのは被害者じゃないからで、四国に住む私と子供達は南海トラフ大地震が近いうちに訪れるとずっと言われていることですから、日本海側で大きな地震が起きるのはかなり意外だと横にいた家内はつぶやいていました。冗談でもなく近年各地で大きな地震が起こっているので、長男坊は「困った時に生まれてきた」なんて言っても仕方ない上に生まれる時なんて選べないことを言っています。

仕事で一番お世話になっている方の身内に不幸の連絡があって、それも不測の事態でした。誰かがいつか必ず亡くなることは必然で当たり前のことですが、私はそれを知らぬ間に忘れています。

あたりまえで思い出しました。

わかりやすく現状を伝えても、それを一つも受け取らない方と話をせねばいけなくなり、理解してくれないことや受け取る気がない方と話をすることは私はそれを苦痛と感じてしまいます。
だって話をしたって何一つ理解してくれないのに、話をしなければいけないなんて、私にとってそれは拷問の一種なのかなんて考えてしまうほどです。
結局報告連絡が終わってどうだったか、やはり理解する気もなく受け取る気もなく解決する気もなく誰かを助ける気もなく、終わって心底疲れました。またこんなことが何度もしなければいけないなんて考えると、気が重くなりました。

よって考えないことに、一つの仕事いや作業とかんがえることにして一杯やって寝ることにします。

これもまた予測できるのだけれど私にとって不測の事態です。

カボチャ

 気のせいではなく、年々ハロウィンはお祭りか企業の商戦としてか、賑わいを見せているように思います。相変わらず節操のない私は子供達と家内が喜べば、そこへ何かしらの形で乗っかります。

本来の趣旨はともかく、家内に甘いものを子供達に買ってきてもらい、楽しそうな子供達をみて、美味しいものをいただける口実ができるなら何でもいいかなんて、ハロウィンについての知識もないのに「トリックオアトリート」なんて言いながら家内へ言うのです。
事実二人は甘い関係なのでこれ以上は甘くならないでしょう。いい歳をして子供たちの前でアツアツぶりを見せつけるのです。

「君たち、夫婦とはこうあるものだよ」

かなり呆れている時もあります。ただ減らず口ですからさらに

「喧嘩しているより、仲良すぎて困るってのは問題は少ないと思うよ」

「そりゃまあそうだけど」

無事に長男にも容認されたみたいです。

今宵はカボチャの料理が出て美味しく頂き、昨日午前3時まで一人でウイスキー(安物)を飲んで、今日はお酒は無しというかただの二日酔いと睡眠不足で欲しくないなんてことはないのですよ。

最近仕事も忙しいのに、不摂生がたたって仕事が終わればかなり疲れ、ここも頭も回らずこんな調子で、中身も・・・

きっと明日から中身の詰まったものになると信じて早めに寝ることにします。


ただ

 他人のことを悪く言えば自らが良くなるということを通常でも特別でも使われる方がいて、特典に自らは何もしないのに誰よりも疲れたとか私は他の人より頑張っていないのに頑張っていて疲れたとか、私って他の誰よりも仕事するとか可哀そうな人だと自己申告してくる方今日もいました。

私はその意味が髪の毛が入る隙間もない程の理解もできないので、そんな時はつぶやいています。

「ちっともあの人の言っている意味が分からない。普段からのその人の言動を知っている人ならばそんなことは嘘だとしか思われないのに何故白々しくそんなことを言い続けれるのだろう」

割とそんなことに対する答えを教えてくれる方がいます。

「知らない人であれば、それを信じて同情してくれたり、味方になってくれたり、その人に敵対する優しい方や出来た方であったとしても一緒に味方して攻撃してくれるから、誰彼構わず誰も言わないことを誰も行ってくれないから自分から吹聴して回ってるだけじゃない。

よく知っている人には通じないのに、よく知っている人にも言いまわっているから

知らない人に言えばいいのにね」

最近では、誰も言わないけれど言ったもの勝ちとか、クレームつけてなんぼとか、ごねたもの勝ちとかそんな方がいることを添乗員さんが私に教えてくれます。

「お客様は神様」

それを悪用している方がいて私たちは心底困っていますと何度も聞きます。私も同じです。

愚痴や不平不満にしか聞こえないかもしれませんが、私は職場では平社員です。だから人間として扱われない言動を受ければ同じことを言います。

ただ私のことを地位・肩書・恩恵・金銭を関係なく評価して優しく手伝ってくれたり、かばってくれたり、認めてくれたりする方がいます。私に優しくしても何もないから何もできないのに何故にそこまで理解して優しく知れくれるのだろうかと泣くことがあります。


私は現在の私のままで家族が困らないなら別に問題ないです。


全ての人の理解は望んでいないです。少数でいいから人として生きる意味を理解してくれる方を感謝しています。

 不規則な睡眠と食事を繰り返していると、何やら身体が少し重く感じ、周囲もそれをやはり感じて迷惑をかけました。
明日からは通常通り仕事が始まるので、今日もこれから夜更かしをせず早めに就寝せねば更なる厄介者の雰囲気をばらまいてしまうことになります。

ここのところ大きな蜘蛛の巣にとまる黄色と黒のクモをいたるところで見かけます、あれがジョロウグモかどうか近づいてじっくり見ていませんが、私の中でジョロウグモだと決めつけています。今度しっかりと観察してハッキリとさせてみます。

大きなメスのカマキリがそのクモの巣に逆さに引っかかっていました。大きなカマキリが空中で不自然に動いていれば目立ちます。府とあのカマキリをどうするか、逃せばあの大きな蜘蛛の破れた巣を張り替えたり餌がどうなるか、しばらく眺めていればもがけばもがくほどカマキリは最初より絡まっていました。蜘蛛の巣の見事さと可哀そうなカマキリを最後まで見るのをやめ後にしました。

よく通る道の蜘蛛がどんどん成長しているということは何かの虫が引っ掛かってということなので、蜘蛛にも虫にもどちらのこともあまり考えないことに、ただ邪魔になる蜘蛛の巣は致し方ないだろうなんて考えながら、帰宅しました。

家内が今日は精神的に参って元気がありませんでした。これまた私も夕方朝からほとんど何も食べていないので余裕がなく家内のことをちっとも配慮が足りず、元気がないまま家内は明日の為に就寝しました。
明日からはもうちょっとまともにします。
おやすみなさい

 少し慌ただしい日が続き、今日は休日でゆっくりごろごろと午前中を過ごし、昼からは末っ子を迎えにいってからは歩いて買い物へ行って帰りました。

大好きなアイスとお菓子を一つずつ選んで上機嫌、ただいつもお兄ちゃん達のも選んでくれます。優しいのかお兄ちゃんに取られたりいやらしく言われない為か、ただ純粋なのか、一緒に喜びたいからか、その辺りは詳しく尋ねないのでわかりませんが、楽しそうに兄達や家内の分も選んでいます。
自分で何でもしたい時期も来て、男の子ですから少し危ないことも公園などの遊具で限界を広げるように遊ぶようになり、注意します。

「危ないから気を付けて」

「いけるよ、お父さん」

「怪我したり死なないでね」

実際は冷たいですけど、子供の頃に少しくらい怪我して痛い思いをしたり、自らの限界や怖いことなどは知ってほしいと思います。
明日もまたあの子と過ごす時間は長くとれます。
普段は幼稚園で預かってもらっていますので、昼に迎えに行くと大喜び、明日もまた来てくれるのを楽しみにしています。

まだ小さくとても可愛らしい頃、そう私だけが思っているかと思うときもありますが、今のあの子を知らない人が見ても微笑んで見つめている姿をよく見かけることができます。子供は美しいものです。

私はもう大人というか中年というかオヤジというか、見ても微笑んでくれる人は奇特な方です。ですから、雰囲気や見た目で微笑んでもらうことはかなり無理があるので、やっぱり歳を重ねていくことを飾りにしないでそれなりの何かをと冷静になれば思います。

今宵散歩をしていれば金木犀の香りが私と家内に届き、心地よいウォーキングでした。香は風に逆らわないものですが人の内面から出る素晴らしいものは風や他にも左右されず逆らっても届くものです。

いつも弱いものや出ているかどうかすらわからない、嫌出ていなくて迷惑ばかりなこともあります。いる場所を起点として時折一定の範囲をその香りのようなもので満たしたいと願います。変なことばかり思う私です。

明日もまた家内と歩く前にあの子「けいくん」と一緒にちょっと散歩を楽しみたいです。

秋の今も

 仕事が終わり、懲りずにまた昨晩と一昨日の晩飲みすぎと夜更かしの疲れが出て、返ってしばらく仮眠をとり、末っ子の「けいくん」が「おとうさん、ごはんだよ」そう呼びに来てくれました。
寝ぼけながら美味しそうなハンバーグをほおばり、寝ぼけながら満腹になって、次男のスポーツの迎えまでまた仮眠しました。

この何気ない休息をとることを安らかに過ごせる時間を持たせてくれること、有り難いことです。

道端に風に揺られる姿のススキが何とも言えず、夜空の月と風に揺られるススキと肌寒い風、リンリンと鳴く虫の声、幼少の頃それをどう私は見て思っていたのか何一つ思い出せないのだけれど、懐かしく何とも言えず、秋になればまた出会いたいです。

野山を駆けずり回り、手足をカヤで切り、ススキを取ろうと手を切ったり、何故かススキのことを考えるとガマの穂を思い出し、取りに行って学校の友達に見せて回ったこと、何かを見つければそれをお友達や兄弟へ見せに行っていたことは覚えています。

私は今もあの頃も変わらず、見た何かや思う何かを近くの人と理解しあいたいのですね。


優しい人達の前で優しい言動をみて、最近言うのです。

「近くにいる方が皆優しいから私は助かります。

世の中優しさだけということはありえないので

私が根性悪いことと意地が悪いことと、揚げ足をとるようなことを担当にしますね。」

誰かを見て良い点や感心する点と一緒に、ちょっと困る点・直してほしいところ・過去の痛い言動・程よいバランスで教えてあげる担当になるということです。

「えっ」

「私がそんなことばかり言われたらどうなるのか」

「私は目の前の仕事に何よりも誰よりも取り組んでいるので、周囲の言葉がそんな時聞こえなくなるのです。」


「ねっ」




意地が悪い担当でしょ。



 私にとってかけがえのない人は大勢いないです。

ただ少数ではありますが、かけがえのない友達、言葉をほとんど交わしたことはないけれど誰よりも理解し敬ってくれる方、時を長く過ごすことによって初めはそうでなかったけれど深く理解できるようになれた方、よくわからない縁で切っても切れない方、まあ歓迎してはいませんし求めてもいませんし欲しくないですけれど(腐れ)縁の方、ここはやはり月並みに言えば、いろいろあります。

本当に珍しいことですが、残業で遅くかえることが続き、家族に対して家での過ごす時間がすくなればなるほど仕事を長い時間していたとしても、弁明しなければいけなくなりますし、普段より理解を求めなければいけないことは増えていきます。

短く言えば

「何があったとしても現状がどうであれ、あなたが誰よりも何よりも(お金や地位・名誉・権力・恩恵が人より少ない事実としても)大切なのです。」

私はいつも絵に描いた餅や理想を夢み、すべて(恩恵)がなかったとしても私を理解して地の果てまでもういてきてくれるだろうか

そんな夢見がちなことで生きています、

ただ家内はそんな世の中で希少人種な私に誰の理解が得られなくてもついてきてくれる人でした。


過去の愚かな言動や恩恵がなくても、家内は私に文句を言わずできることを惜しまず、子供達に精一杯のことを続けてくれました。

夢見がちで理想を追いかけるけれど、努力や何かを得るために努力をしていない私なんて棒にも橋にもかからない私をあの人は私の何かを信じて家族を捨て、ついてきて子供達に惜しみない努力を誰よりも不器用に映ったかもしれませんが、私はあの人の努力と私に対する愛情を誰もが認めてくれなくても信じています。

「今日中学の長男へ、酔っぱらいながら私の愛する人の欠点だけみてそんな人とは一緒になりたくないというなことは真実ではないと思うよ。」

その根拠と実際の複数例を挙げながら説明しました。

私によく似ている長男に一つの理想形をおしつけます。

「あなた私に似て、スポーツは人より劣るけれど頭はそれなりに回り、それなりに器用だけれど、結婚するなら自分を補完し道を見失わない人を選んだ方がよりよ人生であると思う。
あなたが自らの母に対して理解が遅いとか不器用だとか、そんなのは嫌だとか言う要素をだしているけれどそれは間違いだよ。
人は自らに無いもので補完しあえ、不器用だけれど真面目に一生懸命で美しければ言うことはないよ。貴方の母さんはそんなひとなのだから」

果たして私が言うことがあの子にとって、そうだと受け入れることであるかそうではないか、それはあの子が決めることです。


あの子のこれからと、あの子達が母に対してどうなるか、私は楽しみです。

つきなみ

 「根性がある」という言葉を使う時、良い方向に感じられるとき・そうではない方向のとき、いずれにせよ「根性がある」のです。

負けず嫌いとか、どれだけ自分が好きなんだとか、相手に勝たないと気が済まないとか、自分は特別や都合のいいことは棚上げで他人のことは許せないとか、どれも一番近くにいる人が私のことを例えて悪い意味の時に向けられるものであって、他人のことを揶揄するわけではないです。

認めたくないのですが、何度か自らの言動の過去や現在の一例(正確には一ではなく多)を出されれば、認めざるを得ないのです。

家内もまた同様、世に出て仕事をしながら日々もがいて悩んで、家事をしながらつぶやいています。

「いろいろあるわ」

酔っぱらいの私は聞こえるように言います。

「いろいろあるよー♪」

それで笑っている時は問題ないです。笑えず楽しめず自らが作り続ける負の感情にとらわれすぎる空気がそこに出ていれば、私はもっとあほになるしかないです。

生きること

願うこと

美しいもの

大切にしたいこと

自らの(置かれた場所における)分を弁えること

楽しむこと

(泣きながらでも)笑うこと

怒りながらでも笑うこと

終わって辛かったことを笑って話せること


私にとっても、まとめてはいけないのだけれど

「いろいろある」

笑いながらとんでもないことでも言うしかないです。

場所 記憶

 何気ない会話から、お寺の話になって、お寺の話から、祈るという話になっていました。その方が言うには

「私は祈ることが好きなんです。だから祈る場所が好きなんです。だからお寺だけでなく神社や教会も好きです。」

混じるものの入っていない素直な受け取れる言葉でした。私はその言葉でちょっとスイッチが入ってその後「祈る」ということの(私的見解を)しばらく話していました。

「私は祈るという場所がどこでも誰でも、例えていうなら私にとって大切な方と同じように初めて会う方でも同じように祈ることができることを理想として、お寺や神社で祈ることをどこの場所でも同じように祈ることができれば、瞬時にそこへ自らを持っていけるようであれば、私にとって祈るとはそのようなことを思います。」

なんていきなり飛びすぎた話をするのですが、本当は大分言葉を短くして載せましたがそれなりに長く真面目に話していたように思います。あまり真面目すぎることばかりだとあれなので、普段は楽しく面白くあほうはあほうなりで素を出しています。

何日か前に次男坊が宿題をしており、見たところちっとも宿題をしているような体勢ではなく、椅子二脚にうつ伏せに寝そべっているようにしか見えませんでした。
「何やってんの」
「宿題」
「それどう見ても寝転がっているだけにしか見えないけど」
「今宿題の人権についての標語を考えてたから」

邪魔しないでよ、と言わんばかりの雰囲気です。お節介の手を差し伸べるのです。

「どれそのプリント見せて」

なるほど、親子で考えると書いてあります。いろいろと次男へ人権についての概要を述べてみましたが、彼は口下手ですし私の言うことがあまりぴたっとこないようです。このままずっと寝ころんだままの彼を見てるのも何なので

「貸して、お父さんが考えるよ。ただ考える前に、幾つか質問があるけどいいかな」

「いいよ」

「あなたが自らの中でこれから生きていく上で大切にしたい何か、あなたにとって自らの内にある汚されたくないもの、生きる上でこれこそが美しいものだと思えるものを教えてくれないか」

それまで寝ていた彼はいつになく真剣に

「いのちかな」

「それだけ?」

「友情」

他には

「こころ」

「有難う、それだけ聞ければこちらでまとめとくよ」

来年中学生になるけれど、あの子は心配ないなと納得しました。

「こんな感じでまとめたけど、どう?」

「いいと思う」

そうやってあの子の何かを感じることができて嬉しいものでした。おそらく彼はこのことを意識していっていないので後になって自らがそんなことを言ったかどうかを忘れていると思います。自然に出たのだから強烈な記憶として残らないでしょう。私にとっては忘れられない美しい瞬間として残っています。

「祈る」と彼との問答は私にとって違うのに同じ何かです。

困った誰か

 人には厳しく「軽はずみな発言は自重しなさい」そう言っています。こと私はそんなことを理不尽な言動をみればつい怒りを買うほどに激しく言っている時があり、その時も後でも痛いのです。だから近くの人には「軽はずみに言うのではなく賢者であれば時を待ち人を待て」と情けないことを見せながら言います。一体これに何の説得や私に恩恵があるのか、まったくもってお酒が進んでしょうがないことの一つです。

明日からの自らの対応や振る舞いについて考え実行しなければいけないことは山積みです。仕事を真剣にしながら気を付けなければいけないことがあります。どうして私は損なことばかりしてしまうのか、損得勘定に少しは普通でもいいのにと後悔してから思うことです。けれど私はそれを今までも自問自答を繰り返し、やはり生き方や考え方が変えられないことに気づかされます。