なかなか

 この台風で思ってもいない被害が出ています。天候に文句は言えないのだけれど、有り難いときには有り難いといいますから、困ったときやとんでもないときはやはりそんなことを言ってしまいます。言ったところで文句を言えば天に向かって何とやらに近いものですから悪いことばかり言い放ってしまうことがあります。
以前大きな台風で住んでいる家に相当な雨漏りがあって大変な目にあい、仕事場でも思わぬところで雨漏りがあって、当日私は休日でしたから他の皆さまが頑張って片づけてくれていたようで有り難いことです。私も今日はその残りをバタバタと片付けに時間を費やしました。
ウォーキングをしながら、話を聞きつい自分の考えを以前ほどではないですが言いすぎてしまいます。話を極力聞くように心がけていますがそれもまたそう思わなければそうできないというただの自らの皮肉な現状。

子供達をみて自分にとって都合のいいことばかり言っている私を見て疲れる日でした。
あの子達に私が理想通りの行動ばかりしている私をみせれていないのに、あの子達には今よりできるようになってほしいと都合のいいことを言い続けている私自身。

私ができるまで言ってはいけないのだったら、私がよいことを望んではいけないのだろうかと家事をしながら子供と長男坊と話をしていました。

私の目は本当に身勝手な目です。他人だけ厳しくみて私自身を見ることが格段に少ない。そのくせ見る人には善いことをしてほしいと願う。

「(感情は起きても当たり前のことだけれど)感情に流されすぎるな」と言いながら私が誰よりも激しい感情に流される。


解決できそうにないようになったり、私が負の感情にとらわれそうになれば、開き直ることにしようと思います。

「あほやけん、難しいことはわからんけんな」

そう言って阿保になることにしながら思っ(感じ)たことを言って

「阿保の言うことはきにしなくていいじゃない」

なんて話にならないようになることにします。ただ開き直るとこまで私はまたあれこれと迷うのだと思う日です。
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似すぎて困る

 長男と次男と三男のやりとりを日々みているというか一緒にいるので聞こえてくるし声のする方をむけば嫌でも目に入るというか、賑やかなのは、つまり「しあわせ」なことです。

長男が弟達へ厳しく接する時は、私と同様で余裕がないときです。自分のやりたいことを邪魔されたり、うるさすぎたり、同じことを何度もたずねられたり、同じことを何度も教えてくれといわれたり、私より随分優しいですがここのところ言葉もキツクなってきています。
「お兄ちゃん優しくいってあげてよ」
これは、あの子に言っているだけではなく私の言葉を真似して長男が発言していることばかりですから、世間の人がいうように親は子の鏡です。本当嫌なところが目につくとき他人事ではなく私のまんま悪い所ですから、痛いものです。
「上品にしてよ」
それもまた私の口癖の一つで、私がそうじゃないからそう言い続けてるという皮肉、言うより言うまま私が行動して見せれば問題ないとできた方であれば思われるのでしょう。

字が汚くいことも困っていたことを覚えています。なのであの子達に
「字は真面目(綺麗)に書いてよ、読めない字だと字じゃなくて恥しかかいてないから(自分の為に気を付けて)」
これもまた何故かという意味を話してきていますが、相変わらず汚いまま、しょうがないので空いた時間にこれから硬筆の練習を放り込んでいくことにします。

「よく学び、よく遊べ」を子供達へ
「遊びたいのなら、遊ぶために学ぶ計画を立てしっかりやって遊びなさい」


困ったことに(誰かに)似すぎたあの子達は、よく遊ぶことしか頭にないようです。

それもいいんだけど

「そればかりずっともねえ・・・」

あるき

 ここのところ動くことがそんなに好きではないですが、仕事が終わって家内とウォーキングへ太陽が沈み暗くなりかけたらでかけます。動かない私からどんどん体力が無くなっているので、ここはあまり望んでいないけれど体力を維持するために少しずつ歩く距離を伸ばし、時には子供達の前では言えない家内が処理できない大人の嫌な話などを聞き、職種は違うけれど仕事は私のほうが随分前からしていますから対人関係・仕事の進め方・私なりの人としての在り方、そんなことを話しながら歩きます。
今日は台風の影響か随分未明から朝まで雨がひどく、昼過ぎてようやく雨もあがり、先ほどの歩いてきた時には風が強く、いつもなら汗が流れるところが、少しも汗をかかないくらいに風が割と強く吹き抜け、もう少し気温が下がってこんなに風が吹けばかなり服を着こんでいかないとと、今後のウォーキング予定の計画を立てながら強い風の日が終わろうとしています。

明日はこれまた運がよく、子供たちは学校が始まって半日いません。家内は私と平日に久しぶりに休日があうので喜んでいました。あの人は真面目で不器用で割と堅く、本当正反対なところが多いです。ウォーキングもですが、ランチの約束を家内としました。

最近は何やらバタバタとしていて、ここもさっぱりです。やっぱりさっぱりな時はスポーツから迎えてきて、一杯やるのです。

 この夏休み最後に家族がそろう休日、家内は割と前から「皆でこの日どこ行く」何度も聞かれたので、「休日はゆっくりしたいので、特にどこへも行きません」なんて答えを言おうものならよろしくない雰囲気となってしまいます。よってここは無難な答えで「すぐ近くの温泉(日帰り近場入浴)へ行こうか、お互い仕事などで疲れてるし、子供達も温泉好きだしね」晩には外で何かいただき、これで彼等の夏休みも終わりです。

学校が始まればすぐに幼稚園・小学校の秋恒例の運動会もあります。一年一年が早く感じ、挙句は書き物をしていれば
「お父さん頭のてっぺんが薄くなってきてるよ、ショックだわ」
そんなことは知りたくない情報です。髪が無くなれば潔く剃るしかないですね、ハイ。

帰ってきてから少し横になって休んでいれば、はっきりとした夢をみて、家内に次男のスポーツを迎えに行く時間だと教えてくれて起こしてくれても、しばらく夢と現実が区別がつきにくいほどの夢と寝ざめ、先輩や師匠が出て師匠に怒られる夢でした。
私はきっとこれからもずっと師匠には頭が上がらないですし、怒られるイメージのままだろうとそれを歓迎して夢を一人了承して迎えに行きました。

都合の悪い夢への言い訳なんて考え続けても、現実にあった自らの愚かな言動の言い訳なんて考え続けても、どちらにしても空しい私と時間です。

もっと素直に善いことへ頭と力を使っていかねばと思い知らされる夢と現実です。

 どうも自らに感情の激流が生じてしまえば、厄介なことばかり、ただ激流に流されず冷ややかに考えれば、さまざまなことを考えて対応できるのかもしれないと、自らの放ってしまった言動は終わってからであればいくらでも批判でき、こうであればよかったと何百通り以上もの方法を出したとしても書きかえれないものを書き換えようとしてしまうことでいたずらに時だけが過ぎていくという結果になっています。

いつも優しくできた方に尋ねれば
「相手が何かを言いに来たのなら(たとえそれが途方もないくらいに変なことでも)全部言わせて冷静に、もういいですかと返してあげたらよかったじゃない。私だったらそうするけど」
感情の起伏が激しくそれに流されやすい私はあの方にとって簡単なことが簡単に行えない。相手が泥をかけてくれば泥をかけかえそうと必死になり、大切なことを見失い、品性と礼を見失っていく。本当に恥ずかしいことばかりです。

私はこれを一体何度繰り返せば、気が済むのか

生きていればまた違っていても同じようなことに出くわすものだと何故か思います。その時に私はまた今までのような愚行を続けることを願っていません。
近くにいる友人へ、お願いするのです。
「また私が愚かなことをしそうであれば即座に注意してほしい。また大切なことを忘れている私へ」
そんなことを真剣にお願いしたら、私ではなくその方自らをみていました。

都合が良い願いを持っています。

「どうか時が皆にとって悪くないことをもたらす、時の移ろいであればと」

本当に身勝手な願いです。



 私自身が言っていることと行動が一致していないことによって結局その反動を自らが受け取らなければいけない。
きれいごとを願い行動が追い付かない。動きがどれほど大切かということを思い知らされるだけ。

よく私は身勝手なことを以前は思っていました。自らと周囲をくるしめる根性が悪く他人のことを考えることもなく自らの利益のみを追求する人たちのことを恨んだり呪ったりしたことがあります。どれほど恨んでもその方達がいなくなるなんてことはなく、相手が悪くなることを願ったとしてもそうなることはなかったことを痛感しています。その恨む人たちがいなくなればいいのになんて短絡的なことをどれほど思っても、私自身がすさんでいくだけのことでした。

困らせるような方達を誰かがすべてどこかへやってくれたとしても、また同じような方達が目前に来れば同じように誰かにまたその人たちをどけてくれないと生きていけません。そんなに世の中私にとっては都合のよい世の中ではなかったです。

こころが荒んでいけば、周囲の悪い方より荒んでいく自分が悪いようなことをしてしまいがちです。どっちもどっちというかむしろ相手より自分が悪いようにすらなって、相手よりこちらに誰も手が付けられなくなっていくだけで、自らの行動を自らに恥じない生き方をするには相手がというより自らの言動の積み重ねがどのようなものかが問題というだけのことです。

近くで教えてくれる人がいました。「相手が悪いから何もしない」自らがそこに存在してやらなければいけないことを相手のせいにして自らがしなければいけないことを一つもしないようになって周囲が迷惑しても、「相手が悪いから、こちらはしない。私が悪いのではなく相手が悪い。」それはきっと私だけでなく誰にでも考えさせられる言葉だと私は考えます。

本当に何か近くであれば、それをみて私自身(の言動)を深く考えなければどうにもならない。そう思う日でした。

約束の花火

 「けいくん」と次男坊と約束していたことがあったので、兄はスポーツの時に使う短パン、末っ子は病気が治ったら花火を一緒に買い物へ行きました。
今日一日それなりにお手伝いも勉強も頑張っていたので、今までもことも含めささやかにご褒美を買いに行ったのです。皆で夕食を済ませれば外で花火で今日の一日が終わっていきます。

相変わらず感情的になって迷惑をかけることがあり、冷静になったときには(終わってしばらくして)後悔するのです。誰にも嫌われたくないと思うし、変なことは言いたくないですし、できればかかわる方に笑っていてもらいたいです。

これもいつもと変わらないきれいごとだと会話が理解できなければとられるしかないことです。

「優しくありたい」
実際はそうとられるように出ていないから願ってしまいます。

花火を子供達三人はしゃいで楽しんでいました。あの子達も私も他の人の時が進んでいることをまた実感しました。

儚く綺麗な花火でした。

 ある(の中に)になく ないの(中に)にあり
 あるのでもなく ないのでもない
 ないところのなかにそれはある

余計なお節介としてしておたずねする。

「(肝心なことが無いように感じられるけれど)大丈夫ですか」

「(肝心なものがありますから)大丈夫です」

余計なお節介で終わり、その方が大丈夫なら問題ない。


誰かが素晴らしい言葉を放っている。その言葉を切り取ってみる。
その言葉に確かに力があるのだけれど、
本当に大切なことは放つ本人がその根拠を有しているかどうかの一点が問題となる。

「その言葉を凌駕するだけのこころが伴っているか」
これもまた難しいその判断は自らに委ねられるところが多い。自己申告されれば人は信じる方が多い。いや相手の言うことを信じなさすぎる方は問題が多いということもある。

いつものこと、他の誰かが問題ではなく何より誰より私にとって難しい。

私にとってわからない・むずかしいことを知り、

「わからないことが多いうえに難しすぎて、困っているんです(何とかしたいですけどね)」と微笑んで最低限言えるようになりたい。

登校日

 ここのところ(いつものことなのかもしれませんが)家にこもりきりですので、家族以外と長い時間過ごすことがないため身近なことばかり(ああこれはいつものことか)。

二日程、ゲームや遊ぶことを無しでほとんどを宿題と勉強で過ごしている長男が
「こんな真面目な生活しているから、何か良いものがもらえてもおかしくない。」
認めて褒めてほしいといったことを私に聞こえるように言っていました。ひねくれている私は

「確かに夏休みが始まってずっと、宿題や課題とお手伝いが終わってるならゲームとかして遊んでいいよ、って何度も本人に尋ねたらその本人は『大丈夫ちゃんとやってるから』って一昨日くらいまで聞かされた挙句の結果だっから
それ現状の前の前文というか前提省略してるでしょ」

「それは言わないで」

「いや本当のこと言ってるとは思ったけど、大切なところが抜けてたから捕捉しといただけ、まあ決まっていることはだよ
たまっている宿題終わったら、いつもの通り遊んでいいよ」

「わかったよ」

「わからなくても、やらなかったら遊べないってだけだから私からしたらどうでもいいことなんだけどね」

次男坊は内容はともかく、やっつけ仕事のような感じですべて終わって昼から遊んでいました。もっとも遊ぶにあたって我が家のハウスルールでは「お手伝いと(少しだけ)勉強をしていないと、ゲームはできない」ただこのルールは自己申告を信用していますので、甘い私と家内はこれであの子達にやられます。それでも信じるところから始めないといけません。

決して厳しく日々チェックするのが手間がかかるからというわけではきっとないのです。

登校日だったあの子達それぞれ友達にあえて楽しそうでした。出会いと別れはその本人を少し成長させるものになるでしょう。

(一杯やることにします)

好きで

 昨晩に引き続き、今日の長男次男は睡眠・食事・トイレ以外の時間のほとんどを勉強(溜め込みすぎた宿題)に費やしていました。
あの子達はやればできるのです。言葉を変えます。「やらなければできていない(だけだった)のです。」報告してくれました。
「お父さん昨晩からで一冊終わらせたよ」
自慢げですが、つれない私は
「あと確か3・4冊あったんじゃない。進めて進めて」
「はーい」
一切のお手伝いと電化製品へ触ることを禁止すると、食事か睡眠か宿題かの三択になります。
次男は何も言わず減らし続けていましたが、長男に至ってはどうやら電化製品依存中毒にかかっていますから
「ダメだ、早く終わらせないとこんな生活耐えられない」
「いや、ずっとお父さん信頼して宿題やってから遊んでって毎日言ってたのに本当のこと言わずに遊び呆けるから、しかたないよ、おらわせないとね」
起来ている間ずっと宿題ですから、皆らしくなく早めに寝ようと私に言ってきます。
「よく休んで明日も頑張るんだよ」
「はーい」
まあ終わるまで静かで、真面目な子供達をみることができるのが皮肉な話です。

唯識のずっと以前から読みかけていた本が読み終わろうとしています。アビダルマや中観や唯識あたりは私にとって難しいものです。他はもっと難しいとも言います。じゃあ何がと言えば学ぶことに関して簡単なものはないです。
ただやらされているとかではなく、嫌いでもなく、今は学ぶことが好きになって自らやらなければいけないと思えるようになったことが嬉しいことです。

あの子達もいずれ私より早く、嫌いでやらされるのではなく、好きで自ら学びたいといったものが見つかれば楽しいことが増えると思います。

今宵は家内と散歩に行って、それから一杯やるのです。

夏の終わり

 休日が終われば仕事があり、日々変わらないようで劇的に変わるようなこともあって、まあそれを普通だよという方もいて、いろいろあるよという方も、その他の言葉をもってあらわす方もおられます。

私はいろいろと言いすぎることがあり、少なからずと自分が思っているだけで相手ならかなり思っているかもしれません。よく理想というか現状より良いシステムとか良いと思える理論を求めがちなところがかなりあります。
以前長男に「自らのためにこうしなければいけない」絵に描いた餅のようなことを言い続けたことがあり
「お父さん、(子供の)僕に理想を望まんといてよ」
そう教えてくれたことがあります。
それから懲りない私は、理想なのだけれどあの子の近くにいる友人が行っている素晴らしい日々の努力のことを私に、「僕の友人にこんな素晴らしい子がいるんだよ」そう目をキラキラ輝かせながら教えてくれた子がしていることを一つの理想として前提に置き
「あのいつも教えてくれる子みたいに天才だなんて皆に思われるまでしなさい、なんて言わないよ
その子より少し落としてついていこうとするようなくらい(つまりは今より自分の為にあらかじめなされるべき努力をしたらいいと思う)したらいいんじゃない。
お父さんは理想を望んでないよ(だって貴方が誇らしく思う友人より何段かおとしてることいってるしね」
なんて言ってあげれば、あの子は笑っています。

そろそろこのあたりの小中学生は夏休みの終わりが近づいています。仕事が終わって家内が

「お父さん、あの子達ちゃんと夏休みの宿題進めてるって毎日聞いてたら、ちゃんと進めてるから安心してって言ってたけど、今日見せてみなさいとみてみたら、恐ろしい量が残ってる。どうしよう。」

流石、私の子供です。
教えてもいない私の小中学生時代行い続けた「(やらなければいけない宿題を)貯め続けることのできる才能」をしっかり受け継いでいました。
真面目な家内からすれば、信じれないといった顔をしています。私はほっとしたような、いずれにせよまだ夏休みが終わっていないのだから、提出日までに綺麗に仕上げてしまえばいいだけのことです。

あの子達は運がいいのです。私は明日からまた休みがあるので、朝から寝るまでみっちり監督をさせてもらうだけのことです。

けれど家内は随分心配しています。私は貯める才能を発揮し続けていたので、まあなんとかなるでしょう(本人にやってもらうだけのことです)。

休日

 切ろう切ろうと何度も思っていて、なかなか実行できていなかった髪をようやく切りました。私と長男と次男と三人、特に次男坊は最近「髪切ってあげるよ」なんて言っても、「まだいけるよ」といってなかなか切らせてくれないので、随分と長くなってかといって長髪にはなっていませんけどね。
汗をかいてもお風呂上りでも、乾きやすく邪魔になりにくい長さでないと髪に時間をとられすぎるのが私は嫌いだから、あの子達の髪を切ると少し本人の思うところより短くきっています。言い訳として
「すぐ伸びるから、乾きやすいように切ったんだよ」
「えー(短いよ)」
「すずしい
今日は次男坊は何も言わず長男とそんなやりとりがあり、盛り上がりました。
確かに男の子三人が家の中にいれば、賑やかというかうるさいです。けれど兄と末の「けいくん」が無邪気に笑う声が聞こえてくれば、うるさいよりはしあわせだと感じます。子供が無邪気に笑うということがどれだけのものかを教えてくれます。
(まあ盛り上がりすぎてうるさければ注意しますけど)
子供達と他愛もないことで時間を過ごして、他愛もないことを言いあって、他愛もないことで注意して、時間が過ぎていきます。
今日はそんな日でした。

他愛もないような一日ですが、そんな日もいいものです。

ありがとう

 「けいくん」も熱が無事ひいて、元気も出てきました。完治していないのに隙あらば兄達とはしゃぎまわろうと大きな声をだしてあそんでいます。
「まだ完全に治っていないんだから、熱出るよ」
「はーい・・」
子供は遊び・笑顔・素直さ・元気・ちょっと悪いことをしてみたりがよく似合います。完全に治ったら約束通り花火を一緒に買ってするのです。
家族皆一緒の休日でした。少し外出して一緒に買い物をして、家で病気の子がいるから一緒にゴロゴロ過ごして、ほんのちょっとだけ手伝いをして、今日は家内が久しぶりに時間があって働く前の主婦らしい家内をみました。
やっぱりあの人には家事が似合います。
それはフェミニストに怒られそうな意味ではなく、家内は子供や私に優しいから、優しくできることをするというあの人らしさが家事に自然となっているというだけのことです。家事をせず働いて仕事だけで優しくないなんてことの反対です。
だからといって私も子供達も家事を今まで通りにやってもらって仕事も頑張れなんて望んでおらず、私より子供達は以前より家事をかなり手伝ってくれています。私が抜けているところ家内が抜けているところ、それを補って余りあるくらいです。
家内が余裕ある時
「子供達は完璧ではないけれど、随分家のことを手伝ってあなたのことをサポートしてくれてるよ」
「わかってる。今度夏の終わりにでもご褒美あげないとね」
「うん(理解してくれてて有り難いです)」
さて私もよく約束を忘れます。ことに家内も仕事をはじめてから私に準じて対人関係や慣れない仕事でいっぱいいっぱいになり忘れたりすることが増えました。本人がそれをどれくらい理解しているか家族は長い目でできることをしたいと余裕があれば思っています。
いずれにせよ家族皆で休日を過ごせるという機会をいただいて有り難いです。忙しい中頑張ってくれた方に感謝です。

生きていればいろいろあるもんですね(お互い頑張りましょう)。

予定

 12日連続して続いた仕事からようやく先日休日が訪れましたが、子供の体調が崩れ予定がすべて未定となりました。
有り難いことに出勤が連続したとしても休日の総計は皆の理解があってしっかりとその時に休めなくても後で休むことができます。これは当たり前のことですが、そうではない会社だってあるので、理解があたりまえにあるということは有り難いことです。

よってその時に溜まった休日は強制的にでも消化することがその職場にとっても義務となり、また出勤して先延ばしすればさらに悪循環になり周囲に負担をかけることになるので、早めに決まっている日は消化しないと後々溜まれば問題が大きくなるので消費しかないです。

このことで私は明日から少し休日が今月続きます。職場の人は理解しておられるけれど、いざ誰かが休日が多くその日が忙しければ恨みつらみがでてくれるのでしょうが、やはり再度書きますが会社として休日をしっかりとるというのも法律を遵守することですから、いずれはそれがその会社を守ってくれることになるという、前書きの長い私の休日をとる言い訳を書いておきます。

少し時間があって今日は以前読んでいた、三四郎を読了しました。文豪が名ばかりではないことをまた改めて痛感しました。司馬遼太郎さんも、正岡子規や夏目漱石という地方から生まれた田舎の天才と大都会の中で生まれた天才という二人を賛美されている文章がありました。

田舎者は自然と共にあり何でも自分でやらないといけないことが多いから自然と器用になり、やることの数だけその職業を分化させ器用にならなくても生きていける都会人とを比較させる文章を書いておられました。

それを見て私は長崎のど田舎で育ったがために、知性・品性はないけれど、何もないがために何でも幼いころから自分でしてきたために祖父母や父ほどではないにしても意外と器用な子だとよく言われます。つまりはお金にならない器用貧乏で生きています。
「大都会で何も知らず不器用だけれど夏目漱石のような文豪(天才)も人の中からは出てくるともとれる」といったことを書かれていたことを人間が自然と離れたとしても天才が生まれる可能性を書かれていました。

今日は明日から休日で浮かれすぎて書くことを忘れ変なことを酔っぱらないがらここに残し、明日は家内と子供達と一緒に過ごせる日です。

家族と過ごせる時間を大切にしたいと殊勝な心を持った時の私は願っています。
(普段は罰当たりで何も善いことをせず努力もしていなのに、きれいごとや果報だけを望んだりする罰当たりものです)

風邪

 八月初旬から中旬にかけ、慌ただしい日が続きようやく休日がまわって、ゆっくりできると昨晩ゆっくりお酒を飲んで趣味で夜更かし朝家内は仕事に子供達の朝ご飯に忙しいので物音で目を覚ましました。

どうもいつもと何か違う雰囲気、「けいくん(三男)」が8度5分も熱が出ており、久しぶりの休日をゴロゴロマッタリ過ごすという私の予定は当然消失、まず家内を職場へ送っていき、長男と次男へ貯蓄上手な長男と次男の夏季宿題・課題・自由研究を少しでも減らしなさいと檄を飛ばし、あの子と病院へ行き先生に診ていただき、薬を処方してもらいました。風邪というか扁桃炎か、どなたかからいただいてしまったようです。まだ熱の出はじめで食欲はあるのが幸い
「お昼は何が食べたい」
「ラーメン」
「こい味だけどいい」
「ラーメンがいい」
「それならラーメンにするよ」
長男はうどんがいいとか、次男は「僕つけめん(いけめん)」がいいとか二人は元気なのでおなか一杯たべていました。「けいくん」もほとんど食べてくれたので安心しました。家事を少しこなし、あっという間に夕方が、お世話になる方の用事を忘れてしまっていることに気が付きました。正直に明日謝ることにします。
家内を職場へ迎えに行き、今あの子は割とご飯を沢山食べデザートにいただいた緑のブドウを器用にいただいています。子供が元気に食べていることがこんなにも有り難いなんて、早く良くなって欲しいです。
「けいくん、治ったら花火を買いに行って、花火をしようね」
「うん」
明日もし元気になっていると、調子に乗って遊んでぶり返さないかが心配です。

 熱中症・または過労で倒れた方がいて心配です。
ちょっとお電話で話をしました、明日も休養をとらなければいけないと言っておられ周囲のことを心配されていました。
「困ったときはお互いさまですから、無理のないようにお大事に」
予定通りだけでなく予想していないことがあれば、慌ててしまい、今まで品性を害い、責任を相手に押し付けるような言動であったり、言い争わないでいいことなのに言い争うような口調であったり、反省し改めねばならないことばかりです。

何か言われれば、何か言わないと気が済まない正確が災いを増やしていることは確かで、さらりといきたいのにその反対の対応というか、相手が望むように道理を踏まえてすすめていきたいです。

私にとって言葉より、「礼」と「言葉を発しないという言葉」と「思ったことを思わないこと」が人より必要な気がします。

「言う」ということで理解できることもたくさんあるから、「言う」ことを多用して一人で安心している私は「言わざる」がましな時が多いというだけのことです。

もう少し(実際はほとんど)その辺りを正しくみつめていこうと思います。


暑中の折、皆様御自愛下さい。合掌

風にゆれる

 雨もなく、暑く、また蒸し暑い日が続き、昨夜は皆が寝苦しい夜でした。
家内は起きて末っ子のお弁当を作りながら普段とは違う身体の不調をこぼし、汗をかきすぎて気持ち悪いといったことを子供達が教えてくれました。
私は代謝が低いせいで、人より寒がりなことが多いからそれほどでもないので皆に悪いですが助かりました。
いつもお世話になる方も仕事と家事と暑さと疲労で熱を出しお会いできませんでした、電話がかかってきて事情をお聞きできたので少し安心しました。
「明日も無理せず、起きて体調がすぐれないようでしたら無理なさらぬように」
そうお伝えしました。そういってもあの方は家庭のことはできるだけのことを今までのようにされるでしょう。本当に無理は禁物です。この暑さと少しずつ加齢により元気に戻るのに若い頃と同じようにいかないです。私も20代の頃のように無茶なんて40越えたら自殺行為かと思ってしまいます。

笑うことが自らに救いにもなりますが、体調が悪すぎればその笑う余裕が少しもないことだってあります。幾分恢復すれば笑えることもできるでしょう。

そろそろこちらもお盆が終わろうとしています。お盆が来れば幼少時代のお盆をいつも思い出します。
祖父が藁で大きな松明を作り、あらかじめ掃除をして花を変えたお墓へ仏迎えに行きます。
何故か仏迎えの日はこの地区の墓所全員お墓で盛大に買ってきた花火をすることが習わしでした。先祖様を迎えることより花火を沢山出来るこの日が大好きでした。終わって家長が声をかけます。
「じいちゃんばあちゃん帰るよ」
そう言って川端に生える草で編み、家の精霊棚をこしらえおまつりものをした仏壇の場所へ迎えます。その時親戚からいただいた提灯を縁側の軒先へ初盆でなくても沢山つるします。親戚が多く身近で亡くなった方が多ければ多いほど提灯が縦長のものから普通の提灯の形のものであったり、いくつも軒先につられます。
近くの初盆の家に挨拶に夕方か夜にお参りに行けば、幾つもの提灯に灯明がともされ風に揺られ、幻想的な雰囲気でした。
お盆に先祖様へ御供えした御供物は近くの川に日々流していました。(今はもう流せないことでしょう)
お盆が終わる日、縁側の前で藁の長い松明へ火をつけ、
「じいちゃん、ばあちゃん帰るよ」
そういってお墓近くまで松明を燃やしながら歩いていきます。道をみれば先に仏送りをして燃えた藁がおちていれば、どこそこの家も仏送りを済ませたことがわかります。

そうやって仏壇とお参りに来ている親戚に美味しそうなお供え物がたくさんされてそれをいただくことのできるお盆が子供の頃には楽しかった行事のひとつです。

故郷から遠く離れれば離れるほど、その思い出はこの時期になると一層近くなります。


「風にゆれる灯籠」

「暗くなり、灯明の光であたたかくぼんやりと照らす揺れる盆灯籠」

初盆などで近しい方を身近に亡くして、灯籠をいま見ている方と私は違う景色を見ていました。


お盆という風習(あの風にゆれる灯籠)が無くなる景色は寂しいものだろうと思います。

時間の

仕事で何もしない人が何もしていないからミスも当然なく、様々なことを行う方であれば当然ミスだって何もしない人より遥かに起こりやすい。
それなのに何もしないひとが沢山のことを行う方を息をするより簡単な如く非難・誹謗中傷を周囲にふりまく。

よく考えなくても、何もしないでその場が円滑に進むのなら何もしたくない。労働の対価として金銭をいただいているのなら何かはしなければいけない。
ある方は自分のことに時間を費やすことばかり
ある方は自分のことをすませ他人のことを手助けするのに時間を費やすことばかり
ある方は自分のことや他人のことでない仕事を片づけるのに時間を費やすことばかり
ある方は何もしなくて文句を言うのに時間を費やすことばかり
時間の使い方はそれぞれの自由であるとしても、仕事を自らより多く行われている方の揚げ足だけとれば問題がない、とは言い難い。

発言や行動は自らの自由だと言われれば、何も言えない。

「でも仕事であれば仕事はしようね」

とニッコリ笑って伝えれる相手ならとうに解決している。伝えても受け取ってくれない・聞いていないふりをもれなくしてくれる方もいる。

人間話し合いができなければ、お付き合いが難しいとつくづく思い知らされる。言語を絶って「以心伝心」できるのならば問題ないが、相手の言動からでる雰囲気(こころのようなもの)が理解したくない上に触りたくもないということもある。

そうかといって、人間として素晴らしい方(の雰囲気)にも出会い喜び、もっと理解したいとも願う。


困った私だ。


とにかくだ仕事の時は悪いことに時間を割かずできることを一つでも多くしていこう。

一休み

 一年前には元気であった方がもう今年には亡くなられて驚きました。信じれないと何度も思いましたが実際に家族を失われ涙する姿をみればかける言葉を失い、気の利いたことなんて思いつかないことばかりです。
また違う夫婦にお会いして、かなり体調を悪くしておられ心配しました。馬鹿の一つ覚えに「大丈夫ですか」と何度も言うくらいしか言葉がでてきませんでした。

楽しくいきたいのに涙流したりすることばかりというのが現実にはあり、こたえます。

今日もまた暑く雨のない日で、水不足が深刻になっており、農家の方が幾人も水が無いので育たないと困っておられました。

少し前なら暑い中仕事をして、帰っても忙しければ、短気になり口論しなくてもよいのに激しい口論をして、その口論が何年も尾を引き嫌な関係を自らで助長させていました。
今も気を付けていないことに関して、失礼なことを言う気はないのに失礼にとられることを言っているときがあります。

言葉というのは言わなければわからないものだし、失礼な言い方や相手のことを考えていない下品なことばであれば言わなければましだと思われるどころか、烈火の如き怒り怨みを長年もたれることだってあります。

疲れたり気がたっていれば、言いたいことは極力避けるようにと私自身へ言うのです。


(少し疲れたので休憩なのです)

たまには濃い専門分野の話

 三枝充悳先生の『仏教入門』の中に「仏教者の上(著作・論文・しぐさ・言葉・雰囲気) に仏教があらわれる」といったことが書かれています。
これに仏教だけでなく世間一般にあふれている言葉に要約すると

「母親(又は父親)の愛情というものを手に取ってつかみ取ることはできないが、その母親(又は父親)の仕草・雰囲気・言葉・行動の上に、愛情が目には見えないけれど確かにそこに愛情が存在している。」

よってその職業によってプロフェッショナルや天才であればあるほど、その方の仕草・雰囲気・成している(また成してきたまた話そうとしている未来)に明確なものが存在しそれを周囲は感じることができます。

仏教者(僧侶)であれば、その方の上(身の上や雰囲気成してきたことやその瞬間)に目にはみえないものだけれど確かに存在する仏教が周囲に存在すると認識されることになります。これは医者であれば医学や「あなたこそ医師だ」といったものと同様のことです。無論他の職業だって同様のことです。「あなたこそ本当のその職業の方です」といった言葉になっているだけのことです。

四国に住み、関西より西は大抵今の時期がお盆(盂蘭盆会)です。

お盆は仏教行事の一つですから、(恒例の)仏教押しでいきます。徳島には阿波踊りという盆踊りの一種が全国的に有名です。
諸説ある中、ブッダの直弟子の中の十大弟子である目連尊者(・マウドゥガリヤーヤナ・モッガラーナなどの名称はすべて同一です)は修行の末、神通力とよばれる力を獲得し、その力で亡くなった両親が死後どうなっているか見渡すと、地獄で苦しむ両親がみえ(ここに何故十大弟子となれる目連尊者を育てられた方が地獄へ落ちたかという話の一つに我が子だけを可愛がり、他の子に対して愛情や施しを惜しみすぎたから地獄へ行くことになった。小さな偏りのありすぎる愛情であったということがどこかにのっています。)、両親が苦しむことを助けてあげたいと思った尊者は、師であるブッダ(釈迦牟尼・バウッダ・ゴーダマシッダルッダ・お釈迦さま)へ両親を助けて上げる方法をたずね、ブッダは「惜しむことなく、沢山の方に布施(施し)をすれば両親は救われるであろう」と言われ、その施しが終わり、神通力によってなくなった両親をみれば、極楽で幸せにおられる姿がみえ、手をあげ踊り歓喜して喜んだことが盆踊りとなったという、お盆の起源(諸説あり、他有名なものに逆さにつるされる苦しみから救われる方法の話もあります。)といわれる話があります。

よってお盆は先祖をまつる墓所や仏壇に布施(施しつまりはお供え)をして、そこをお参りされる親族や知人などにご馳走を布施(ふるまい)して、先祖の安心を願う行事として伝わっています。

いずれにしても、お寺はこの時期お盆で盆灯籠が釣ってある場所もあり、初盆の家であればそこにも新盆であれば近しい故人のために盆灯籠やお供えが惜しむことなくされている家庭が多いです。

意味がわからないことが多い仏教行事ですが、言えることはただ一つです。

「自らが欲しいものは、自らが与えることによってのみ、遅れて形を変えて自らに訪れる」(内田樹先生)

レヴィナスを敬愛される内田先生の著作に仏教と全く関係ないですが、同じようなことを書かれておられました。


「自らが幸せになりたい・愛されたい・大切にされたい・素晴らしいものが欲しい」
もしそう自らが願うのであれば、まずこれを理解できた方から与えることによって自らにそれが少し形を変えて遅れてやってくるのだと仏教でも同じような見解だと私は思います。



(各家 盂蘭盆会諸精霊皆成仏道  合掌)