ふう

 仕事が終わり明日は休日、そんな夕方はちょっと気分がいつもより高揚しており、上機嫌です。
家内と「けいくん」が散歩へいこうと言っていましたので、普段なら書き物やゆっくりしたいといってお断りすることですが、今日は一緒に「けいくん」随分しっかりしてきました。言っていることも行動も元気はつらつ、ただ次男坊も一緒に行きたいと言っておりましたがちょっと断ってしまい気分を損ねてしまいましたので、帰って「二人で自転車に乗ってサイクリングついでにアイス買いに行こうか」
近くのスーパーが目的地です。そこまで自転車なら三分もかかりません。それでは面白くないので
「ゴールは近所のスーパーだけど、できるだけ遠回りしてスーパーまでいこう、お父さんを先導して、帰りはアイスがあるからすぐ帰るからどこまでも行っていいよ」
元気の有り余るあの子は、びゅんびゅん飛ばしてくれました。負けずに私も追いかけ、瞬発力はリレーのアンカーをクラスでも務めるくらいですからかなりやりますね、というか私が運動不足でオヤジ度数がかなり増しているだけともいいます。本当に遠回りしての近くへのスーパにたどり着きました。私は疲れましたがスポーツをやっているあの子はちっとも疲れていません。(明日からちょっとは動かないと)

自動車は便利だから近くへ行くのにも、つい自動車やバイク(原付)へ乗ってしまいます。仕事も事務仕事ばかりですから私の運動不足にはかなり磨きがかかって光り輝いてます。その恩恵として若いころよりふくよかなお腹がプレゼントされました。

ふう、メタボなお腹バンザイ。

少しずつ改善していくことにします。
スポンサーサイト

楽しんだ

 お盆前の恒例大掃除、無事に終わって少しくつろぎましたが、室内とはいえ今日も格別に暑く、掃除が終わってたまっていた資源ごみも集めて捨てすっきり、何かが終わればその次の何かへ。

思いつくことを一つずつ進め、任せるべきところは任せ、格好いいことを言っていますが、実のところ適材適所のほうが早く進むので、近くにおられる方の一番適任だと思われる方へお任せするだけです。
誰かに習ったことですが、とにかく自分にする気が無くても良いことなら誰かにお伝えしてお願いすれば、面倒くさいことでも意外と何とかなるものです。
「誰も何とかしてくれないのなら」
簡単な話で、腹を立て感情的になり、誰も引き受けてくれないということを自らに戒め、ただ意地を張ってやり通すだけのことです。
ただ視野を狭くしてそこに没頭する作業になるので、周囲の方が私のその激しさがきついので、普段は引き受けてくれます。
これはいいんだか悪いんだか。

仕事仲間というのは有り難く、同じ何かを共有しその空気やみえない連帯感が心地よいです。心地悪い関係になれば良くなるように自らの言動と職場をみて何が必要なことかを考え行えばいつか関係は良くなるものです。例外として性根が悪い方はどうしても難しいことが増えるので、本心から笑って過ごせるような時間を極力増やします。笑えればしめたものです。

楽しんだもの勝ちです。

明日も思いついたことを一つずつ進めていこうと思います。

なんじゃこりゃー

 植樹を皆というか私を除いた二人でほとんどやっていたのを遠巻きに見ていた木の一つが暑さでどうも駄目になりそうなことに気づき遅れて水をあげたのですが、どうも元気になってくれる気配がないのが気がかりです。残り四本は元気に育っています。蓮とその木を気分転換に見に行っているのです。
「初めてのことだから、懲りずに来年も植えましょう」
先の予定を勝手に立てて、楽しく面白くしていきたいと願っています。単に偉くないのに偉そうに振る舞ってるだけとも言います。皆で笑えれば、いろんなことがあっても何とか前に進めそうだとそこも何故か根拠なく思えます。

今日もそこそこ順調に仕事が進み、課題がみえてきて、準備が必要な事柄が見えてきました。痛い思いをしないために来年はしっかりすることにします。といってもすぐ忘れるので、私的年間スケジュールへ忘れないように書きこんどくことにします。酔っぱらいはそれに書くことも明日になったら忘れるということがあるので始末に負えないのです。
何のための対策かを明記、怠らないことが私のためです。ついでに他のことも見落としていないかチェックすることにします。
ついウイスキーが好きな私は酔いすぎてちっともここが進まず明日を迎えることになりそうです。
オヤスミ

用事

 いつの間にか明けた梅雨、蝉の声・抜け殻・出てきた穴が至るところで目に飛び込んできます。行事で慌ただしくしている方がおり、冷静さを装う私は普段通りにしようと常よりさらに冷ややかに装うのです。

いろいろと周囲を見ていれば考えることがあります。他人事といて考えるのではなく自分本位ですから私ならばどうするだろうか、これからの方はどうだろうかなんて現実目前のことより先のことを考えています。そう思ったまま告げると「先のことより目前のことでしょう」なんて注意されることがよくありました。
目前にきたものはもう考える時間も準備できることも少ないです。冷たいですがなるようにならせるしかないし、ならせれないのであればなるようになるしかないから、冷たくなり遠いことを考え興奮するのです。

「四国は仏島」と坂村真民さんは呼び、「宝石をちりばめたような島」と四国四県それぞれの方を題材に小説にされた司馬遼太郎さんは呼ばれています。
ちっとも自らのことも他者のことも四国のことに詳しくない私は、縁あって長崎から四国の地で暮らしています。やはり自らが住んでいるところが「住めば都」です。誰かが褒めていてくれればちっともそこに詳しくないけれど嬉しいです。
司馬遼太郎さんのそれぞれの四国に関する著作を今度熟読しようと思います。少し書かれた文を読み宇和島へもいってみたくなったし、淡路などのことについて書かれたことも興味が湧いてきました。素晴らしい文は想像や行動を駆り立ててくれます。
もっとも忘れっぽい私がその思いをいつまでも覚えてしっかりと行動へつなげれるかにかかっています。ただ、感動したことはふれれば思い出します。詳細は忘れていても素晴らしく美しいものだと。

用事があって帰宅が9時近くになり、今日もまた何もせず明日の仕事へむけておやすみするのです。(何もせずというのは嘘で、ゆっくり一杯やってから寝るのです。)

すだち

 土地の名産はいくつもあって、とりわけ有名なものが鳴門市近辺ですから、鳴門金時・すだち・鳴門のわかめ・鯛、他にもレンコン・桃・ハッサクなどがあることを職場の優しい方が教えてくれました。

私が徳島に来たころCMでおばあちゃんが「徳島はな、何でもスダチじゃ」そう言って、何にでもスダチをかけてたべます。酸味がとさわやかさと香りが売りのスダチです。かぼすより小ぶりですから、カボスより酸味もシャープに思います。
名産ですからその辺りに木を植えて買わずに自作のスダチを分けてくれる方もおられます。スダチは本当になんにでも合います。

今日家内が仕事が終わり、一緒にスーパーヘ買い物へ行くと、スダチ1kgが980円でおいてあり、一つは知り合いへ送り、一つは自宅用に購入しました。少し前からスダチが売られていましたがハウス物は時期でないとかなり値段が高く手が出ません。8月中旬もくれば、露地物がでだすためにかなり価格が落ちてきます。そこまで待てないので安い広告の品へ飛びついたわけです。
早速疲れた家内へ、絞ってサイダーに入れ、添えて
「徳島はな、何でもスダチじゃ」
そう言って差し出すのです。それを横で見ていた「けいくん(三男坊)」が羨ましそうにしていたのでスダチ少なめで
「スダチスカッシュだよ」
そう言って差し出し、そのやり取りをずっと聞いていた長男坊へは、もう大きいですから酸味にもかなり耐性があり、スダチにも慣れているので、スダチの果肉も入れ、果汁も多めに、スダチスカッシュを渡しました。

刺身にもばっちり会いますし、味噌汁へ入れる方もおられますし、あればとにかく何でもかけて食べます。スダチについてこんなことを書いていると、私が徳島のスダチ販売促進実行委員会みたいなことを書いていますが、ただのスダチが好きな長崎出身のオヤジです。

今度夜時間が開いて、お刺身が手に入れば、スダチと刺身で一杯。

今日は無いし、スポーツに行っている次男坊を迎えいって何かあるものあてに一杯やることにします。
(お疲れさま)

 夏は暑くて、特に最近の夏は暑くて、ついつい冷たいものを欲しがってしまいます。その時は最高なんて思うのです。ただ若い頃はそんなに冷たいものがこたえることはなかったのです。最近は冷えるとお腹が痛くなったり、冷たいものばかり取りすぎると疲れが倍増します。快適な温度より冷えすぎると逆に身体をむしばまれているかのように感じます。
この時期生鮮食品を扱うスーパーなど冷たく保たれており、雨の日薄着で行くと凍死するような感じに思えることがあります。食品の温かくすれば腐敗しやすくなりますから安全を保つためには冷気は必要不可欠です。
室内の空調も冷えすぎると同様に感じます。暑くもなく寒くもなく湿度も適度であれば何も言うことはありません。贅沢なことを言う私です。

勘違いと思い込み浅い理解はそれを出現させる本人の器の小ささや寛容性を損なわせ、見苦しくなっていくものです。それを取り繕うとすればするほど、安易な手法や誰にでもわかる嘘となってさらに醜悪になっていくことがあります。
そんな私の醜さは見たくないと思っているのにくだらないものを捨てきれないばかりに、自らで思いを作りすぎたり、何かにとらわれすぎたり、そんな私に気が付いていない私は本当の愚かで醜いもの。

いつだって終わってそれに気が付かされ、ごくたまに自分で気が付き、いずれにしてもそれを善いなんて思えるはずもないです。
他人は簡単に批判して、自らを省みることなく正当化だけを続けて生きていく。それもまた他人から告げられて腹を立てながらようやく気が付くと、腹が立って気が付いているなんて相手に言ったとしても気が付いていないと思われるのが落ちです。
探さなくてもいろいろあることには困らない、かなり困った誰かです。いつも考えれば困った誰かはすぐ一杯へ走るので、今日はお茶と水にして早めに休むことにします。

連続

 余計なお節介として、いろいろなことを伝えようとします。ここでよく自己満足だけで終わるようなことばかりであると、親切にしてあげたなどの思いがあれば、さらにその自己満足と思いあがり以上に自らが痛い目にあいます。

 「言葉を理解することに即時的なものと経験や時間が必要なことがある。」

その二つの見極め出来ず、言葉にして伝えているから問題ないというさらなる思い上がりが遅れて、利息が膨れ上がった何かのように発信していたその人へのしかかってくる。うまくいかない時の私なんてそんなことばっかりです。

伝えるのです。大抵のことは自分が背負えないから近くの言いやすい誰かや、よっぽどであれば目前の方ならば誰でもへ、解決できないだけの何かと重荷や苦しみなどを形を変え背負えない分押し付ける傾向にある。無論他の誰かのことだけではなくて、私のことを一番先にそれは含んでいること。

誰に伝えるかと言えば、物分かりのいい長男へ私と家内の悪い点としてそれを伝えるのです。事実は逃げ口上にもとられるかもしれないし、だからいつもあの子達に「母さんを助けてやってくれよ」そう口癖のように私は言います。
まだ子供だから母親に助けられてばかりのことが多いことは事実です。大人だって一人ではどうにもなんてとき、あの子達が素晴らしい活躍をします。
ただ笑顔で「母さん」というだけでもいいし、「母さん大丈夫」と気にかける言葉でもいいし、「母さんおかえり」こころがあの人へ向いていれば何の言葉でもいいです。些細な配慮であってもいいのです。

私は相変わらず愚かだから処理できないことを機嫌が悪くなって困らせることが多いです。どこかのことわざのように「こころがあるまま言葉があって、言葉があるまま行いがある。」それに近づいていきたいです。

本当に些細なことでもいいから、不機嫌ではなく、笑顔・優しさのある行動を発すること

私気をつけようね、一つが積み重なって愚かな私の連続ばかりでは周囲も本人もどうにもね。


何かと映画

 先日休暇をいただいた折に、空いた時間で皆で久しぶりに映画鑑賞でもとレンタルビデオ店へ行って一週間借りてきていましたが、あっという間に返済日が近づいているのに私だけほとんどみていないという。
ということで、晩御飯が終われば家族皆でその中でも一番面白そうな作品を見る予定にしています。

今日一日無事に仕事が終わりました。一人より二人、二人より三人、いろいろなことがあっても心が通じ合えば一人の時より随分楽しく笑えます。何事も前提があり「心が通じ合えば」これにはその方や私自身のそれなりの行いの連続がある程度経過しなければ、わからないことばかりで、余計に笑えないことは多いです。
その方や私の悪いところも普通のところも善いところも含め、「まあ、いっか」なんてお互い思えなければ、悪いことでも笑えないなんて思います。

同じ時を過ごすことが大切なことで、善いことだけでなく悪いこと、善いことと悪いことの間にある数多いことに出くわし、一緒に考え悩み、苦しみ、努力して、時には耐え忍び、時には良いことを享受して笑って、普段は一緒に普通に過ごし、時にこの世のすべてを呪うような時も一緒に過ごし、烈火の如く激怒したり、理不尽さを理解できなくても一緒に過ごす。

短く言えば「同時」同じ時を共に過ごすだけのことです。嘘をできるだけつかず、お互いが前に進むようもがいていくだけのことです。

財や地位や名誉や権力はその同じ時を過ごすという時間を無くす要素があります。本人が自らと周囲を正しくみつめていれば恩恵となり、自らと周囲を誤った見方で長く時を過ごしていれば悲惨な現状がその方の周囲へもたらされるだけのことです。

文句をよく言える方には言ってしまう私です。けれど誰彼構わず言うことは控えています。地位・名誉・財産・恩恵がある方で誰彼構わず言う方は自らを守るものがあるから周囲はそれを注意せず、不利益などを受けたくないために一陣の風が通り抜けたとさえも蚊ほどにも思わず、あるものを無いかの如く、自らにとって都合の割ることは見ざる聞かざる言わざる無かったかの如く振る舞うことの連続であれば、その方の生き方として周囲とその人自身にそれは反映していくだけのことです。

レンタルしていた映画「アントマン」を家族全員で夕食後鑑賞しました。子供達も家内も私も大満足。


「いやあ、映画って本当にいいもんですね」

「さよなら、さよなら、さよなら」

一杯やって寝ることにします。

捕まえた

 次男坊からザリガニの捕まえ方(特別な方法というわけではなく、網ですくうこと)を教えてもらった「けいくん(三男坊)」特に用もないのに暇があれば
「おとうさん、みて」
とにかく見てほしいようです。
「死んでしまったら悲しいから早めにお家へ帰してね」
「うん」
朝出勤しようとして玄関前に会ったバケツの中でザリガニがまだいたのでお家に帰してあげるよういいました。
ザリガニだけでなく、岩に染み入るほど鳴く蝉も捕まえようと頑張っています。木の下でアブラゼミが力尽きていました。幼いあの子に蝉の生態などより、捕まえることしか頭にないです。私も子供の頃何でも捕まえて持って帰ってきていました。私に比べればあの子達は可愛らしいものですから、本当は偉そうな(説教臭い)ことは言えないのですが、見逃せない時には言わずにはおられないです。
「けいちゃんもおうちが好きでしょ、虫たちもおうちがやっぱり好きだと思うんだ。だからお家に帰してあげて」
きっと沢山捕まえすぎて死なせてしまった幼少の頃からの思いでの一つの現れ方なのか、単に死んでしまうことを恐れているだけなのか、子供には難しいことより、夏と言えば虫取りとなります。
先日はオタマジャクシを友達にもらったと持って帰ってきました。家内は大のカエルが苦手です。
「オタマジャクシが成長したら何になる」
「カエルだよ」
「お母さんそりゃあもうカエル嫌いだから、見つかる前に逃がした方がいいよ」
「(次男と三男は)えー、大きくするよ」
「だから大きくなったら、母さんが困るって」
しぶしぶ逃がしていました。

アゲハチョウの幼虫が蛹になるため、遠い距離を這って前の道路に差し掛かりアスファルトの上で虫の息でした。次男がそれをみて玄関前に置いていました。誰か知らずに踏まれても困るので、元いた山椒の木へもうどうにもなりそうにないのですが帰しました。自然が少なくなって幼虫から蛹になることも大変なことだと痛感しました。

蝶が舞い、蝉が鳴き、トンボが飛び交い、メダカが群れで泳ぐことを近場でまだ見ることができます。私が育った長崎の田舎では子供の頃ドジョウ・タガメ・ゲンゴロウ・メダカ・ヌマエビなどをよく見ることができました。今はどうなんでしょう。あれから30年位時が過ぎています。

ただあの子達ザリガニ・蝉・オタマジャクシ・バッタ・コオロギ・幼虫・ダンゴムシなどを捕まえたことはきっと大人になってもおぼえていると思います。あの子達が自らの子を無事授かったとき、子供になんというのか、それも楽しみではあります。

 些末なことに目がゆき、進まねばいけないことがおろそかに、気が付けば自ら集中したくないようにしていることに幾度か気づいてはまた初めに戻ってしまう。時間だけがゆるやかに流れていく、近づく人に意識したらそれが無くなり、人気が無くなれば元に戻り、しばらく座っているのその部屋の中で漂流していました。
座りながら目前のことをこなし、違うことに意識を向けある程度の輪郭が浮かび上がれば喜び、元の居場所へ戻る。現実よりその中で何かを探しているのです。
今すぐに変えようのないことから視点を自らが創造できることへと世界線を移動させ、現実とその世界線を慣れた人には違和感を少し感じさせながら目前のことをゆるやかとすすめ、時に現実の行動が止まることもあり、そうなれない時に冒頭のようなよくわからない時間が必要ではないのに必要であることがあります。

そんなことはたからすれば、しっかりしなさいなんて言われるだけのことです。ですので時折そこでの何かを現実にあわせ、「実はね」と気心の知れた方に話すことがあります。そこでのことを話終われば、頼まれてもいないのにまた違うことに移行します。
過去において自らが話していたことを誰かが再度教えてくれても、興味は次へ移行しているので、はじまってもおらず終わってもいないのに、「もう次だから」なんて意味不明なことを言うことがあります。誰かではなく、そんなことを遠慮なく言われる人は本当困ると思います。

「よくわからないことはよくわからないままでいい」

他人には冷たくそう言うのに、私はわからないことをあれこれと考えてしまいます。それが正しい答えだということを誰もが認めてくれるものなんてないことが多いことなのに、その瞬間これだということを追い求めます。結果間違いは山のようになっていきます。誰かは本当に困った人です。

その誰かは困ることを解決するために、ウイスキーでも飲むことにします。


いつもだね

 以前は複数の方が関連している場所において、何事もなく順調に事が進めていれば、他人ではなく内心自分を褒めるだけということがよくありました。
最近は自らのことに専念できることは、誰かがそうできるように配慮をしてくれていることに少しながらかなり人より遅れ感謝できるようになることが以前より増えました。
そうはいっても、それを忘れ己惚れたり、調子に乗りすぎたり、勘違いしていたりといったことだってよくあるので他人から見ればあんまり変わらないと思われるような気もします。だから、感謝しているときに思うだけではなく声に出して感謝をのべるようにしています。そこはどう思われようと思いのたけというか深さというか勘違いされたとしても言ったほうが相手ではなく、結局私自身の為に言うことにしています。

そんなことを上記のように変に長く言わず、「お互いさま」とか「あたりまえのことだから」とか「そのために一緒にいるから」とか「たいしたことはしていない」とかただ「ありがとう」とか「すみません」とか、言葉をあえて無くし頭を下げるとか、眼であらわしたりなんて人によって違うように感じます。遅れて安易に私は言葉をもってあらわそうとします。何が正解で何が駄目かなんて無粋になることがあるからです。

休暇明けの仕事は少し緊張します。何日か不在であればその場所の空気がどのようなものかわからない私はそこで意識せず呼吸をできるようになるのに時間がかかることがあります。相手が私を助けてくれる方であればそれは時間がかかりません。
いつも通り過ごせたことに、やはり周囲の方へ感謝です。

あまり月並みなことばかりではいけないのですが、言わないだけで生きてればいろいろあります。一つ一つに我を失ってばかりおらず、できることをやらなければいけないことを進めていきたいです。

今やらなければいけないこと

(昨日は一杯やらなかったので)

一杯やることにします。

移り変わり

 昨日のように気が付けば何もしていないようにするわけもいきませんので、今日はそれなりに動くことにしました。
今日も子供達は元気よく学校へ行きました。今日が皆一学期の終業式、上の子は少し風邪を引いていたような気もしますが無事に部活も終え返ってきました。
「けいくん(三男坊)」は朝8時前に幼稚園へ送って行ったかと思えば、お迎えは11時過ぎでしたから、あっという間に返ってきました。仕事が始まれば夕方までずっと預かりになります。お昼に迎えに行って一緒に帰れる時を楽しみにしています。帰って彼は字の練習、その間に家事を進め
「字の練習が終われば御飯にしようね」
「うん」
最近の彼は成長して真剣にしていた最初の頃と比べ、逃げたり楽しようとしたりすることを覚えました。
「けいちゃん、今日練習しなかったら遊べませんよ」
という問いに
「きょうは、ぼく遊ばないから練習しません」
そう言ってその辺りでごろんと寝そべって何もしない日もありそれはそれで楽しいです。
今日はまあまったり練習を終え、彼と私の好物のラーメンを食べました。何でも一緒に過ごしたり、共有したりすることを何よりも楽しみにしています。だから話をきかなかったり、見てと言われて見なかったり、べたべたしていなかったら、楽しくないようです。
この時期暑いから離れてと思うときもあります。そんなことを言うと悲しいようです。
書き物をしている時だって膝の上に座って、挙句は膝枕しながらそのあたりのもので遊んで独り言を楽しみ、甘えています。
もう少し経てば彼もまた兄達のように成長してそんなこともなくなります。
今日は一緒にあの子と私は自宅で散髪しました。あの子達三人と私の髪はずっと私が切り続け、いつまでそれをあの子達が受け入れてくれるかというのも楽しみです。

暑い中外出を避けていたので、歩いて子供達と近所に買い物へ出かけ、「昨日は一つだったのに今日はお星さまいっぱいだね」そう「けいくん」が言っていました。「昨日は夕方だったから、今日はもう8時回ってるからだよ」、道中の畑の横にある自動販売機のライトが光る場所へカエルが3匹張り付き晩御飯を狙っているようです。そういえば家の窓にも晩になればヤモリがいつも窓の明かりに寄って来る虫を狙っています。
最近街灯がすべてLEDに代わってから、虫がライトに寄り付かなくなりました。長寿命・高輝度の上に紫外線も以前のライトに比べて少なくなって虫もあまり寄り付かなくなっています。子供が大きくなるだけでなく色々変わっています。

私このめまぐるしい変化についていけるかな

最後の休暇はまったり過ぎていきました。家事もそこそこ、休憩もそこそこ、有り難いことでした。明日から頑張るとします。

普段

 (夏季休暇第四弾)
 本当は今日も子供達とどこかへと考えていました。
家内と長男は私のいないところで話し合っていたようです。

「お父さんいつも休日になったらゴロゴロ寝てばかりいることばかりなのに、今回どうしたんだろうね」
「本当だよ」
ふふふ、父は進化したのです。家内がその答えを出していました。
「お父さん、あれかな、私が働き出して家のことが抜けることばかりだから、それで代わりに頑張ってるんでしょ」
本当その通りです。主婦のありがたみが働き出して身に沁みます。あの子達にとって母親はあの人一人で、あの子達のことをこの広い世界で心配してくれる一番の人はあの人です。私は特にですが、あの人だって人間だから、自分が慣れないことや新しいことで限界を超えなければいけなければ、何かがおろそかになり、その手から得たものの代わりにこぼれおちていくものです。

先に社会に出ている余裕のある私が零れる前にしないといけないだけの話です。

ただ普段事務仕事ばかりでお日様がいっぱい照るところで動くことのない私がよく動けば、てきめんききます。つまりは限界が人より早くくるというだけのことです。

長い言い訳はこれで大丈夫でしょう。まだ夏休みに入っていない子供たちは学校へ三人とも行き、家内も仕事へ、私は私の本領発揮です。何も見えず何も考えず、ゴロゴロまったり、惰眠を貪り時間を浪費するのです。

帰ってきて家内の大きな目が更に大きくなり

「お父さん、出かける前と何一つ家の中が変わっていないけど、体調悪かったの」

ふふふ、体調が悪いのではなく普段の怠惰な私に戻っただけなのです。嘘もいえないので

「体調は悪くないよ」

普段がでただけなんです。家内はそれも認めて許してくれていました。あの人と子供達と私を理解してくれる方に感謝です。

思い出

 第三弾 子供達と海釣り
夏の思い出に久しぶりに釣りに行く約束をしていました。ただ家内と一緒の休日の内に外にある倉庫の整理もと言っていました。
優先といえばやっぱり釣りですよね、と思っていましたが家内が朝から積極的に倉庫を整理しようという空気を出していたので、そこへのっかり、今まで使う予定がないのに放り込んでいた品を車に積み、使っていないものをゴミにまとめ、クリーンステーションへ持ち込み処分してもらいました。
そこから釣りに行く気がうせてしまった私は、疲れて寝ていたのです。
「おとうさん、おきてー、釣りに行くよ」
次男坊アンド三男坊のやる気の多さに負け、そこから男共で海へでかけました。どうも次男と三男は魚をすくう網を買ってくれと言います。幼い「けいくん(三男坊)」に一つだけ買ってあげて、釣り場へ到着。
ハプニングの続出でしたが、離れて次男と三男坊は楽しく魚を網ですくおうとあそんでいました。結局ですね全員足をとられ濡れる気がないのに全員濡れて変える始末、最大のハプニングは長男坊が水辺にはいらないものをリュックにいれており、携帯とi padを何故海に持っていたのか、それを背負ったままこけて、i padは水没によって壊れてしまい。釣りどころではなくなって一匹も釣る前に帰ってくる羽目に

修理代かなりかかるそうです。

子供達との思い出プライスレス

「○○カード」


困った思い出が出来ました。長男はようやく水場に電化製品は厳禁だということを身に染みたようです。
こちらは財布に優しくお金がかからないようにと思っていたのに、困ったものです。一杯やることにします。

 (夏季休暇の思いで第二弾)

夏と言えば「海」です。
よって家族全員に「海へ行くぞ!」かなり子供たちの気分は高揚し、火に油を注ぐように次のミッションを発動するのです。
「買ってきてあるスイカを冷やしてあるから、浜辺でスイカ割りをするず!」
子供達はかなり盛り上がってきました。
「さあ、浮き輪とゴーグル・シュノーケルセットや水鉄砲も用意して!」
「おーーーー」
ということで朝起きてご飯を食べて、近場の海へ出発。
快晴ではなく曇り空でしたので、暑くなりすぎず寒くなりすぎず、ただ日差しと海温が低めなのは致し方ありませんが、砂浜へ打ち寄せる波、波の音、温かい砂、砂浜を裸足で歩く感触、あさりの子供達がたくさん打ち寄せられてはもぐりこんでいく様子に子供達も私も家内もはしゃぎました。

しばらく海を満喫して、目玉のスイカ割り大会、一回目から割られたら醍醐味も何もあったものではないので、ここは年少者から
「けいくん、すいかわりするよ、がんばって」
照れ屋で目立つことが嫌いなあの子は、すすめても結局スイカ割りをしませんでした。その様子とは対照的なやる気ありすぎな次男坊
「オレがやるやる」
順番ですから、目隠しをして皆で指示をだし、思い切りスイング、おしくもはずれ、相当悔しいようで
「お父さんもう一回」
順番なので次はお兄ちゃん(長男坊)だよ、かなり長男もやる気満々で、しかしかすっただけでこれもまた本気で悔しがっていました。二人に一回ずつして、見事に割れたスイカをその場で手で割り、丸ごと一個を家族全員でぺろりと完食。
スイカを食べながら、子供達へまだ結婚していなかったころ家内と二人で海へ行きスイカを二人で食べた思い出を話しました。
家内が言うには次の通りです。
「私がスイカを食べたいと言ったの、カットした二人で食べれる分だけのスイカと思っていったら、お父さんは『スイカと言えばカットではなく丸ごと一個じゃないとスイカじゃないでしょ』といってね、海に二人で水着を買っていって、包丁と立派な良く冷えたスイカを砂浜でたらふくたべたのよ、本当にスイカだけでおなか一杯になってね(二人の感覚や考えの違いが楽しかったと)」
微笑みながら子供達へ話していました。
「安心してください。きょうも丸ごと一個完食、やっぱスイカはこうじゃないと」
そんな昔のようなことだってあの子と私たちの思い出の一ページになるんじゃないなんて家に向かって車を走らせながら話しました。

あの子たちが大人になって丸ごと一個のスイカを自分が選んだ大好きな人とぜひ丸かじりしてほしいです。

(夏季休暇二日目も無事に過ぎました。)

たまに

 久しぶりに家内とお互いの服を買いに出かけました。子供たちが三人生まれてから一日一日大きくなる子供達の服は必要不可欠であって、私と家内は太らない限り(痩せすぎない限り)大人だから今まで買った服があるから急いで必要なことなんてこともなく、必要以上のつまりは身の丈以上のおしゃれや見栄を張らなければ、服を次々買うことはないです。
ただ仕事で使う服はやはり仕事をしていればどんどんくたびれ色も褪せ、家内が仕事を初めたことも主婦であれば質素にしていれば問題ないことですが、私服が仕事着となればやはりあの子達の母親でまだ若い女性ですから必要以上はいりませんが普通に着ていけるだけの服を買いにでかけました。

女性はショッピングが好きだと実感しました。

私はその待ち時間の間近くの配慮されたソファーにかけて読書しながら付き合うのです。一人で行って来たらと言えば機嫌を害い、ソファーに座って近くで待っていれば何かあれば見て声もかけてあげれるし、似合うかどうかもすぐ言ってあげれます。
「同じ時を同じ場所で過ごす」
あたりまえのことを効率重視で私はせっかちで別れて済ませたりします。時間の節約と効率は上がるのかもしれませんが、目に見えないものを大切にすることを忘れてしまえば、私そのものが忘れ去られてしまうものだなんて思います。

あの人の笑顔が夏のひまわりのように輝いている瞬間を見たような日でした。

(ごく)たまにはお互いの私的買い物も悪くないです。



ただ贅沢は(私の稼ぎの関係上)敵です。

 どう振る舞っていいかわからなくて困ってしまいました。どう考えても相手が問題ではなく、私がその時に合う答えを見つけきれず迷っているのが問題です。今回よくわからないまま出したことで通して、次回はさらりとその時も後も何も残らないように普段からできることを次の機会へむけてやるしかないので、あれこれくよくよ考えず切り替え、自ら考えて答えが出ないのなら、質問してくる方に真摯にたずねていこうと思います。

今年の梅雨は本当に雨が多く、梅雨明けもまだのようです。先日いつもより早めに咲いた薄紅の蓮は日当たりが良い所であったため早く咲き早く散って、小さな緑の「はちす」になっていました。見たところ順調に生育して熟せば小さい蓮であったために五粒の種が収穫できそうです。

いつになく予定が入りすぎることに慣れなくて、いつにもましてさっぱりです。家内と子供達のためなんてきれいごとより、私のためにあの子達や家内にできることをしたいです。

何もしなくて善いことだけを願うもっとも愚かな私はあまり見たくないです。

加減

 みがたきは自己、みやすきは他者

この言葉は少し文字が違うだけで同じことをよく見て聞いて、きかされ、思い知って、思い知らされ、自らを棚上げして目前の方を安易にわかった風なことを言って、その後わかった風な程度や時にそれ以上に痛い思いをします。

わかったなんておもいすぎてよくぺらが回る私(の口)は、その後痛い思いをします。かなりな負け惜しみをさらに言うこともあります。痛い思いをしないと本当のことは理解できないとか、なおさら手が付けられないです。だからでしょうか、「アンポンタン」と近くにいる方が言ってくれます。
アンポンタンだと思われることも言っていることも、意外でもなく楽しんでいるので、これは真正の「アンポンタン」なのでしょう。

あんぽんたん 【安本丹】(アホタラの撥音化か)①愚か者をののしっていう語。あほう。ばか。
広辞苑第六版より抜粋


調べてみても相違なくあてはまる言葉です。これからもあんぽんたんで時には行くことにします。

ただあんぽんたんや頓珍漢なことを言いすぎると、ついていけないと思われることもしばしばあり、それについてこれる人なら一緒にあんぽんたん・とんちんかんに同化して笑うのです。

意味が分からなくても、わかったとしても、大笑いできることを楽しみ、またさらに輪をかけたあんぽんたん・頓珍漢になるのです。
ただそれについていけない人からすると私は阿呆ではなく、どうしようもない人とも映るようです。

さまざまなことが移り変わるのに、変わらぬ阿呆やあんぽんたんや頓珍漢もたまにだけれども役に立てる場があるから、私は変わらず阿呆のままです。

ただ阿呆なのに阿呆になりきれていない場合、私は私に虚飾を重ね塗り、まだ阿呆なほうが美しくきれいで生きていると実感されることもよくあります。

偉くもないのに偉くふるまい

知らないのに知っているかのようにふるまい

賢くないのに賢くふるまい


どれもが一流の振る舞いであればいいのに、私はもっと私の阿呆さ加減を知らなければいけない。



そう思う日でした。

 いつも仕事の関係で世間の人とは時期をずらして夏季休暇をとり家族を連れて実家へ帰省します。
昨年末から家内が働き出したことにより、お互いの休日と子供たちの休日がなかなかあわなくなりました。何とか会う日を作って両親や里に顔を出さないと、また予定を組みなおすことにします。

小学校卒業と同時に里を離れ、実家以外での生活は気が付けばもう30年になります。それでも故郷であって両親や兄弟や祖先がそこで生きてきた場所で、私の幼少の頃の楽しい思いでがあふれる場所です。私はあそこで生まれ育ちました。
帰省しても故郷に錦を飾るほどのことは何一つなく、ただ家族全員元気でやっていますと報告するために帰るのか、両親に会うためか、成長したあの子達をみてもらいたらなのか、ただ私はおじいさんと過ごしたあの場所が大好きです。もう随分私が育った頃と変わってしまいました。自然から山から田畑から神から人が離れ、つまりは近代化の波がおしよせ、自然との共存より文明へ極端に目まぐるしいスピードで移り変って、私はそこについていけているようでついていけていなく、まあ何とかその波に乗っているというか流されて生きています。

あらがうべきか、流れに身を任せるか、変化を楽しむか、他いろいろありますがいずれにせよ、(私が今していることで今後は)「なるようになる」んでしょう。まったく何もおもいつかないので、仕方ありません。一杯やることにします。

明日の仕事をがんばることにします。

何かを

 ここのところらしくなく、休日に個人的な用事が続き、本当にらしくない感じです。
休日にはごろごろまったりーが私には基本です。幸せな頭の中の私です。

情報の開示と、スキルの開示、「聖者に握拳なし」が理想で持っているものすべて惜しみなくありたいと願いますが、ケチで欲深い私にそれは遠い理想のままです。

担当のことを誰かにすべて開示するということは、新しきことへ自らが飛び出さなければいけないということで、無謀に飛び出し努力を惜しみ痛い思いをして後悔し、相変わらず困った私をみてさらに困る連続、幾つになればしっかりするのかなんて思います。

偉そうなことを言ったり、偉くもないのに偉そうな振る舞いをして、自らの愚かさを自ら露呈することばかり、他人を見て他人だけを安易に批判して、自らを見ることなく偉そうなことを言うことが多いなんて、私はそれを積み重ねています。ほんの少しずつでも私自身を知ることが私にとっての課題でもあり道でもありゴールでもあることです。

自らにとって都合のよすぎる勘違いの連続も楽しい時ではあります。それだけの私なんてまあ滑稽の世界代表ならいいかもしれないです。

ただ滑稽な世界代表も私や周囲が笑ったり、こころがふと楽になれたりするから、まんざらでもないなんて思うから私は困ったさんです。

偉くもないのにどうして偉そうなことを言うのか、どうしてできたふりをするのか、どうして自信を持ちすぎるのか、それが全てにおいて悪いことではないけれど、本心からというか自らだけが気づかず自らの思いだけで思い込んでいる私なんて、アホの極みオヤジかな。


「でも、どの道でも何でも、極めれるものがあるというのも捨てたもんじゃないよ」

そんなことを言う私の一面は意外と嫌いではないです。

(困ったオヤジです)