後半予定多い日

 梅雨でも今年は格別雨が多いです。水不足で困らないからよいのかもしれません。ただ例年に比べ降りすぎればどこかに弊害が生じるし、天にむかって文句を言ってもしかたないので、いつも流れに身を任せるしかないです。

前半中盤と山椒の木にいたアゲハチョウの幼虫を見かけることが少なかったのですが、ここにきて何匹も丸々と太った幼虫をみかけることができます。家内が伸びすぎた山椒をみて

「枝ある程度落さないとだめよね」

「いやいや、蝶が飛び交う町をみたいならこれくらいのほうが」

正直伸び放題ですので、家内の意見が正しいです。

初対面であるとしても、関係なく変なことを力説する方は少ないです。時々います。私も人からしたらそんなときがあると思います。
ただ真っ当なことで、思うことを強く言ってくれる方の良い雰囲気があるのであれば、心地よいです。誰かが損をしないように考えて発言してくれる回数が多いことは有り難いことです。
それがその方にとっても得が多いとしても、相手の為になっていることが多いならやはりそれはそれで有り難いですし、うわべだけの慰め、うわべだけの謝罪、うわべだけの感謝などの対極に近いことだと思います。自らは何も害うことはないのにこちらにだけ、「可愛そう」と言われても、何も返す言葉が私にはないです。

人によって美しいという概念が異なるように、望むこと、損得勘定、付き合い方、言葉の使い方、雰囲気など、勝手にわたしはそんなものを頼まれてもないのにみようとして、あっているかどうかもわからないことであれこれと考えることがあります。

いずれにせよ、他人をみて自分によいところなど反映させていきたいです。

何故って、いろいろあったとしても楽しく笑って泣いて怒って、誰か(この誰かは多いほうが好ましく)を好きでいたいです。


そうでないと私は自分のことが大好きになれないと相変わらず思います。
昼過ぎから夜遅くまでに用事が入っていたため、いつにもまして更新が遅れました。
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こんなとき

 以前に読んだ本を友人が調べものに使っていたので、拝借してまた初心に帰ろうと目を通していました。先生の「慈悲喜捨」の解釈は著作によって微妙にわざと言葉を変えて使われておられます。今回は

仏教の立場
仏教はジナ教やアージーヴィカ教と同じ精神的環境において発足した。輪廻は既定の事実として予想され、カルマの支配は疑う余地がなかった。現世と来世との苦痛から解放されることが願わしかった。当時、世間には一方で官能的な喜びに熱中するものもあり、他方では肉体を苦しめることによって未来の幸福を期待するものもあった。バラモン神官による祭式も、ウパニシャッド哲学のブラフマン=アートマン一如の思想も一般大衆の救いとはならなかった。民間信仰としてさまざまな神や霊に祈り、供養や社会奉仕による善行の果報が期待された。家や財産を捨てて修行に専心する宗教家を尊敬することも知っていた。
 そのような時世に仏教が中道を説いたのは、快楽主義と苦行主義との両極端に対する批判であった。その中道をさらに八正道―正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想―として、具体的に生活の基準を規定した。そして人間的存在の構造を、苦悩と、苦悩の起源と、苦悩の超克と、苦悩の超克にいたりつく道という〝四つの聖なる真理〟[四聖諦]によって説明した。
 さらにまた仏陀たるものは自分自身の解脱だけで満足すべきではなく、その恩恵をあらゆる生きもの[一切衆生]に及ぼさなければならない。自分だけ悟ってすますものはプラティエーカ=ブッダ[独覚、縁覚]とよばれ、〝完全なる仏陀〟[正等正覚者]とは区別される。この仏陀の理想に準じて、他者の幸福を増進し[慈]、不幸を除去し[悲]、他者をたすけることを喜び[喜]、しかもそれに執着しない[捨]といういわゆる〝四無量心〟を鼓吹する。
渡辺照宏著 『仏教』第二版 岩波新書より引用


ここのところいろいろあって、この言葉を何度も何度も読んだり言ったりしてきたのに、忘れていないのに忘れている自分をみました。結局不測の事態になれば余裕がなくなり、大切なことを忘れています。
深く感銘を受けたもう一つの先生の言葉を再度みてみました。

ロングフェローの「建築師」という詩の中にこんな言葉があります。

世の中に、無用のものや、卑しいものは、一つもない。
すべてのものは、適所におかれたならば、最上のものとなり、
ほとんど無用のごとく見えるものでも、
他のものに力を与えるとともに、その支えともなる。
私たちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいになっている。
私たちのもつ今日や明日は、
私たちの建築の有力な材料である。

 と たしかに味わうべき言葉だと思います。
 平凡な一日と貴重な一日 今日や明日という日は、それこそなんでもない平凡な一日です。しかし、その平凡な一日が集まって、私どもの人生を作っているのです。したがって、つまらぬどころか、後にも先にもない貴い一日です。昨日を背負い、明日を孕める、尊い永遠の一日です。結局、一日をつまらぬ一日にするか、貴い一日にするか、それはつまり私どもお互いの心持です。心のもち方です。ものそのものが、つまらぬのではなくて、それを見る、それを受けとる智慧袋が小さいわけです。
『般若心経講義』 高神覚昇著より引用


自らだけでなく身近にいる方が少しでもとおもって足りないものを補おうとしていたのに、つまらぬことにとらわれてばかり。

ここはですね

難しいことは抜きで、目前のやらなければいけないことを一つずつしっかりこなすことから!

(身近な方にも先生方の本にも感謝です)

条件

 一個人としてお互いに話をしていることばかりです。ただ職場つまりは仕事として話をすれば、一個人つまりは私が相手のことを十分に理解でき納得しても、会社の意向が違えば「話は十分理解できたのですが上の意向がありまして・・・」といったことが私にも相手にも上司や会社の意向があれば出てきます。

つまり、会社や上司ということを除いて、話し合い理解できればお互いがしあわせになれる。そんなことを願います。事実は願うという言葉が出ている以上そうではないことが多いのだから願うのです。
相手だけではなく私も損得勘定や好みなどを発生させ、興味がないことには冷たくなることも多いです。それなのに「理解してほしい」と思うことが多いです。いや、それがほとんどなのかも知れません。相手も自らを理解してほしいと思っているのに冷たい私は何より冷たいです。
稀に理解してくれる方があらわれます。年数が問題でもなくそれは初対面からでも理解してくれる方がおられます。それは理由はわからないことですが有り難いことです。

釈尊が語られた

「法をみるものが私をみる」



法(真理)をみる方の近くにいると言われたことより離れていることですが、生きていれば自らのことをみてほしいと思うことはどなたも当たり前のことだと思います。ただ釈尊の生涯や言動はその方をみようとすれば法(真理)をみようとすれば近くに感じるほどの生き方であり思想・哲学を超えた宗教者であっただけのことです。
比べようもない方と比べてもしかたないのですが、私の言動や生き方には愚かさ間違いが多く、結局寛容で優しい方だけが私をみてくれやすいということでしょうか、よっぽど波長が合う方であればみてくれるのでしょう。

年数をどれだけ過ごしても、いくら自分ができることをしたとしても、10年以上たっても私という人格をみない方もあたりまえですがおられます。それはその方のせいではなくただその方にとって目前の人の人格というものをみる必要がずっとないからだと考えます。

理解する気がない方やみる気がない方に幾千いや何万、何百万もの言葉を連ねても、徒労に終わるだけです。というか悪くなるか嫌がらせがくるかなんてことになるでしょう。

自らの品性や美しさを害わず、自らのできることをできるだけ減らさず、礼儀正しく振る舞うというあたりまえのことを頭から離さないようにしていきたいです。

 夕方から雨の音が強く聞こえ、足りないものを買いにでかけて車から店に入る少しの間でもかなり濡れて、無精をして傘と上着を持ってくるのを忘れたことを少しだけ後悔しました。

思い返してもこれからのことでも、自らのことで自らがというのは私にとって何よりも好ましくないことで、よほどのことでなければ選びにくいこと。誰かに尋ねてみても同じようなことが返ってきました。
大なり小なり中なりいろいろあって、その中で何が正しくて何が悪くて何が普通かということで、悩んでも仕方ないのに悩んでしまいます。細かいこと、大まかなこと、どうでもいいことはこの強い雨で流したいです。

初心に帰って基本に目を向けていました。

今になって私の中にあるいろんなものが助けてくれることもありますが、それが邪魔になって純粋・新鮮といったものが以前より薄くなっています。

自分自身が楽しめなければ、ふれあう人達も楽しめるわけはないと隣の方が教えてくれました。本当にその通りです。ただ今は楽しんだり笑ったりの前提の時間と言い聞かせ、少し伏しておきます。

 嵐の前の静けさのような落ち着いた日でした。疑い深い気持ちがぬぐえず、笑うことは多いですが心底とまでたどり着けないかんじでした。

完全に私のことだけを心配してというわけではないでしょうけれど、気にかけてできることを行おうとしてくれる方にはいつもただただ感謝しかないです。

善人のすべてをあらわす言葉はないとしても、その一つの特徴をいくつかあげればその方がどのような善人かが点と線によって輪郭がでてきます。けれどその輪郭はやはり輪郭であってすべてをあらわせないことです。(悪人であれば前文の善人を悪人と入れ替えればいいだけのことです。)

本当に皮肉な話です。根性悪いということを出会うたびに触れるたびに維持される方は、その悪いことを触れるたびに嫌われることを覚悟して続けているからそうなっているだけのことです。

善人もそうです。善を続けることは難しいことであるのに、自らの忍耐と努力と勇気と自らの品性や美しさを害わず美しく生きていくために家族のためにかもしれません、ただ自らがそう行きたいからかもしれませんが、ただそのようにしか生きることができないだけとしか言われないかもしれませんが、継続されています。

過酷な話です。善を成し続けたとしても最後に楽に走って悪いことをすれば本当は悪人であったと言う方は世の中に無数存在します。私だって揚げ足取りで他人を簡単に判断しやすい人間だからそう思ってしまいます。

偉そうなことを言う私がどれだけのことをしているかなんて、大したことをしていない私が偉そうなことをいって一体何の役に立っているかなんて皮肉なことです。

けれどそんな私を助けてたり感謝してくれる方にいつも私は感謝しています。

 ちっとも洒落にならないようなことを昨日告げられたのに、現実を見ずよく笑う日でした。
悔み続けても変わらないことであれば、泣き続けても変わらないことであれば、恨んでも変わらないことであれば、ただその現実から目を背け仕事を進め、やらなければいけないことを楽しみながら一緒に進める日です。
「今日は落ち着いて、楽しい日だった。何も現実にあった悪いことは何一つ改善されていないけどね。」
よく聞くことですが泣いても一日、怒りつづけても一日、笑っても同じ一日です。昨日に引き続き相変わらずどころかさらに輪をかけたおばかさんの私でした。

片眼を失い、さらに残された眼も光を失いかけている友人と久しぶりに話し込みました。とってつけた言葉なぞ彼にかけてもピタリどころか浮いた言葉にしかなりません。悲しいことを悲しみその中で笑える時は思い切り笑い、声をかけます。

「私はさ、今更殊勝な言葉をかけるなんて柄じゃないよ、私はこれからも(貴方の前で)自分勝手にいくことにするよ」

「ハハハハハ、おまえはそれでいいよ」

彼は私にも他の友人にも理解あって優しく破天荒なこともありますが、私と違い渦中へ即座に飛び込んで笑って帰ってくるようなタイプです。
それに比べ私は部屋の片隅に座って、何かを求め、退屈になれば近くにいる方と一緒にアホなことを言って笑うくらいなもんです。

何故かそれでも彼と私は同じものを理解して、同じようなものを求めているようにいつも感じます。

「それはどこにあるのか」

「それはどうやれば」

その答えは人が違えばその人の数だけ。



残された眼が恢復することを願います。

 二十歳より年数が20年以上も経ちましたから、少しは私も大人になり、変わったかと思っていました。
以前と何も変わらないことをみる日でした。

あれほど痛い思いをしたのに、やっぱり目前であれば私は同じ行動をとるようです。またそれによって痛い思いをするのかもしれません。落ち着いて考えれば何の得にもならないことに首を突っ込んで損ばかりする私はただの馬鹿です。

馬鹿や愚かさや無知を少しでも改善するために、人から見たら努力にならないのかもしれないけれど努力をしてきたつもりですが、変わらない一面が出てしまった日です。

「難しいことだ」と言葉にすれば簡単な一言に、言う人それぞれに意味合いが違って、ある人は「難しいことだ」といって難しくないようにしたいのではなく、ただ私は関係なく何もしない(大切なことから目を背けつづける)といった雰囲気をを出し続ける、「難しいことだ」と言って深く考える上に何とかできることを続けることをする方もいて、当然それ以外のいろんなこともあって、ただその両者は極までいけば誰にでも容易にわかることになります。

今日はあれこれと問題ばかりのなかで、珍しく友人から連絡がありました。仲の良かった友人が片目を失明して先日いきなりたずねてきました。動揺してどのように接していいかわからずその時、身近にいる友人たちに連絡をとり宿泊先へ訪ねていきました。どうもさらに容体が思わしくないといった連絡でした。

ある人たちからすればそれくらいなんてことないと思われることでも、私は動揺します。どうしたらよいか答えをすぐだせないことばかりです。

私はやっぱり変わらないことばかりです。



 少し落ち着くために、とりあえず書物にふれる。たんに本を読んでいる人が知的に見えると思われるから読んでいるのではないかとも思う。何も役に立つことを思いつかず、何も思いつかなければ本に手を伸ばしているだけともいう。
ただそこにいつも何かを求めている。
何年かそれが何なのか、文章にすればそこに出てくるのではないかと日々他愛もないことを書き連ねている。今この時に思うことを私は忘れ、文章をみて似たようなことやその時の自らと自らが思う周囲を思い出す。

何故だろうか

書物に「これだ」と思える文章をみつけて喜び、喜びやそのまばゆい光だけを思い出す。一体何の答えであって何故それがまばゆく光っておもえるのか、ただある一定の私の中の水準を超えて輝くものは、やはり何度ふれても思い出してもそれは輝き続けている。

どうもこれは誰かを見てその誰かが輝いていると思えて仕方がないことと同じではないのだけれども酷似している。

私は粗探し・揚げ足の取り方・悪く言う口実を探す天才ではないかと思うくらい、心中や時に口にしている。

ただあの人は私にとっての善人だ。

あの人は私にとって慈悲ある人だ。

あの人は私にとってものくるる友だ。

あの人は私にとって智慧の光をもたらす方だ。

およそ誰かを悪く思い込み怒り恨むときではないことの反対の善い思いとして受け取るとき、私は私に何かを願う。その時によって言葉など違うけれど、ある時に言葉が何故か何度も何度も浮かびあがってきて力をくれていた。

「あなたが行ったことは間違いではない。必ず私がそれを何かで証してみせる。」

そう心の底から願っている時の私はよく泣きながらそう何度も心中で言い続けていた。


書きながら、私は随分変わってしまったのではないかと感じてしまう。ただ愚かな言動が出るときに何か痛い思いを何度もしながら、何一つ変わっていないではないかと思い知る。

子供達の笑顔や素直さがまぶしい。

あの子達にならって、素直に笑顔で生きていきたい。

さなぎ

 私の前から姿をくらましていた山椒の木で丸々太っていく幼虫たち、日々いなくても観察していたら、家族が呼びます。
「お父さん、さなぎになってるよ」
「本当」
「早く早く」
次男坊と家内が教えてくれました。
「ほらさなぎでしょ」
「本当だ」
「まだ緑のところがあるから、まだ蛹になりたてなんじゃないかな」
そんなやりとりがあった次の日家内が
「ほら見て(家の壁の側面下方)ここに幼虫がとまってるから、さなぎになるんじゃない。」
まだ緑色の丸々した幼虫のままですが、動きがとまり、見た目は幼虫のままですが蛹の形でピクリともしません。次の日(今日)も雨が降る中「けいくん」と一緒に見に行きました。昨日よりちょっと蛹の形へ近づき、壁への張り付き方も蛹と同じようになっています。倉庫横の緑生い茂る山椒の木には大小の幼虫が何匹もいました。
「沢山羽化してこのあたりを蝶が飛び回るといいよね」
「うん」
末っ子の「けいくん」も楽しみにしています。ただ見たところ一匹は場所が悪く狭い場所で蛹になってしまっているので羽化できない
気がします。
休日をいただき、まったりとしていたいのでまったりしていました。ただ何もせずゴロゴロというのは後のことが怖いので、必要最低限のことは済ませ、子供達へ指示出しして、次男坊のスポーツの迎えに行くことにします。子供が三人と家内と私、狭い世界です。ただ何かしら用事・出来事、仕事も家内も私もそうですがはじめたころも慣れてきたころも、思いもよらぬことがある、つまりはいろいろあります。

「いろいろあるってー、素敵なことね」

歌いながら嫌なことでも、ちょっと笑うことにしています。

お久しぶり

 職場で仕事をしているときに、懐かしい音が聞こえてきました。

「コココココココ・・・・」

目前に若い女性がいらしていたので

「ほら、あそこにキツツキが来ていますよ」

「本当だ」

仕事が幾つか重なってお互い慌ただしくしていましたが

「今日は(珍しいことを)みれたので乗り切れそうです。」

そう笑顔になって居られました。

私もあの子(キツツキ)に笑顔をもつ心の余裕に気づかされ有難いことでした。
(いつもの如くあの子はコゲラです。)

仕事が終わって家に帰れば末の子「けいくん」は滅多に寝込む子ではないのですが、夏風邪をもらってしまい。普段元気な子が元気がなくなると私や家内はその影響を受け元気がなくなります。ただの軽い夏風邪一つ油断しないように次はもう少し早めから対策をしないと。


愛や健康は損なわれるとそのものに気が付きやすい私です。


身近にいる方達へ感謝を愛情と親切を忘れないように私。



いつも同じ場所を突きにくるあの子は同じ子なんだろうか。

同じ

 確か初めて良寛さんのその言葉をみかけたときに

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候


衝撃を受けました。

この言葉を浮かせることもなく、言いたいだけでもなく、ぴたりと空気のように使える人は少ないだろうとそれから考えます。私も又憧れだけで、この言葉を思い出して使うようでは全くだめです。

また現実逃避として、読みかけの書が私にとって難しいのであれこれと関係あるけれど関係ない本を読んでいると、般若心経にある「無苦集滅道」という言葉、「苦も集まりも滅も道もなく」の解釈には次のように一例としてあります。

苦も集も―苦・集・滅・道の四つの真理(四諦)は、ブッダの教義の根本である。「苦諦」とは、人生は生老病死の四苦、さらにこれに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦に満ちているという真理である。「集諦」とは、この苦は、迷いによる業が集まって原因となっているという真理である。「滅諦」とは、迷いを断ち尽した永遠な平安の境地が理想であるという真理である。「道諦」とはその理想に達するために道に因ることが必要であるとして「八正道」等を実践すべきであるという真理である。仏教の根本である四諦を否定するような文句を述べているのは四諦への執着を破って、四諦の真意を生かすためである。湛道(たんどう)の『心経決談抄』には「苦中ニ苦ヲハナレ楽中ニ楽ヲハナル、カクノ如ク障礙ナケレバ苦集滅道モナキニアラズヤ。苦ハ苦デヨシ、楽ハ楽デヨシ、苦楽空相ナレバ苦アルトキ苦ニ遇フテヨシ、楽ニ遇フテヨシ、何ノ妨グルコトヤコレアラン。」という。
岩波文庫 『般若心経 金剛般若経』 中村元・紀野一義 訳注より抜粋



同じことを言われています。ただ智慧によってそれをあらわす言葉となっており、今回は「空」によってそれをあらわされるものです。

いつも怨み・怒り・とらわれ・好み・醜悪などによって、私は覆われ転倒し、その思いによって苦しみ悩み時には大切なことが手を伸ばすところにあるのに、みているのに何もみえず、声はしているのに聞こえず、考える頭があるのに理解できず、悪くしなくてよい場所ですら悪くしてしまいます。

ときには、難しいものをすべてなげすて、笑えばいいです。生きているのならできるだけ笑って泣いて生きていけばいいです。


悪いことを悪いこと以上に染めすぎず、冷静にそこから正しいこと楽しいことおもしろいことをみつめることができるよう、よく笑っていたいです。


教訓、自らの思いで自らを潰しすぎないように、くだらないことは膝から上にあげないように。

(たまにはわざととらわれてみるのも手です)

悲しい

 はじめた動機や目的はどうであれ、友人は何年間も継続して続けていることがある。私はよく彼が書く文章をみてケチをつける。

「もっと真に迫った方がいいんじゃないここは」

とか

「ここはまわりくどくじゃなくて、短い言葉ですべてをあらわしたほうが」

とか

「今回は(残念なことだが)ケチをつけるところがなかった・・・」

とか

「もうちょっと(素晴らしく)何とかならないか」

とか

「とにかくだよ、やってることを見なければ何(文句の一つ)も言えないじゃない」

とかね。

思うだけで何もしていなければ、それは過去の今よりもさらに愚かな私をみているようでつらいなんて思ってしまうので、思ったことを受け取ってくれる人には伝え方がおかしいところばかりなのだけれども、余計なお世話としてお伝えします。

少し前に尋ねられた方がいます。

「もう15年(結婚してから)も前から私は自らのお小遣いというものは存在していないです。家内もそれは同じことです。
(それは私がすべてを失って甲斐性が失われ二人が全く望んでいないことが現実に訪れすべてを失ったからです。そこから私と家内は現実に摺り寄せてきただけのことです。)」

「それって何が楽しみなの」

なんて私と家内を全否定するような言葉が帰ってきました。きっと私の楽しみやしあわせというものが微塵も理解できないということなのでしょう。相手に喧嘩を売ってもこちらへさらに不幸が寄せて来るだけなので

「私には私のしあわせがあるのです(家内と子供達と仲良く笑っていられるから、負け惜しみだけれども金銭にまっしぐらとか罰当たりスキル最速で損得勘定に高いとか、私はそんなものほしくないんですよ)」

心の中でそうこたえるのです。

私が悲しい人なのか、私のことを微塵も理解できない人が悲しい人なのか


「それはこの文章を見てその人が決めることなのだから、それはその人の自由です。(自らの幸せはその自らが思う幸せだからです。)」




父の日(前祝)

 明日は6月の第三日曜ですから父の日となります。
偶然土曜にお休みをいただけたので、家族全員が揃っているし夜に予定もなかったので、明日は仕事がありますから、前倒しで今日が父の日のお祝いのご馳走となりました。
何か口実などがあれば、余ってないけれど普段より少し贅沢ができる食卓になることを皆が待っています。ずっと「けいくん」はお寿司に行きたがっていたようなので、世間でいうところの

「その時日本人は寿司を回し始めた!」

そのことにより爆発的にそういう店が増え、近所にも二件ほどあるのでそこの一つへ行ってまいりました。

それ以前に日本人は何を思ったのか中華料理をテーブルの上で回すことが大流行しました。おそらく次は仏教関係のものを日本人が何故か回し始めると大流行するのではないかと考えます。
(ただの酔っぱらいの妄想です)

「愚か者はただその果報だけを待つ」とか「愚か者は耐え忍ぶことを知らない」と言った言葉をよく目にします。あてはまることばかりなのでその言葉が私にはよく認定されています。

ただ家内や子供達は私の言うことをよく聞いてくれます。愚か者を信じてできることをしてくれるということは考えるまでもなく有り難いことだし、いろいろと考えさせられます。

今日は家内とこれから一杯やるのです。

明日は父の日だけれども、前日で使いすぎてしまった予算の関係上、普段通りの食卓と普通の日になります。
(毎日が盆正月祭りのようにはいかないのです。だから私はすぐ何かを口実にしたがるのか・・・)

観る

 知人から絵画展のお誘いの葉書がきており、いつも家族でそれを口実に見に行くのです。
そこは絵画が飾られ、陶芸も飾られ、食品や植物も販売しており、夜にいけば食事をしながら生演奏を楽しむことができるリーズナブルで素敵な場所です。
ただここのところ慌ただしくしていて、その期日中に行けず、知人の先生の絵画展に出かけてきました。
あまり出かけない我が家ですから、子供達三人生演奏を聴きながらの食事に長男は少し照れているようでした。次男と三男は雰囲気より自分の興味優先なのでその場を楽しむというより、しばらくはよい子で座っていましたが色んな興味惹かれるものを何度も見に行っていました。私は音楽が大きい中で会話をするには家内と距離を凄く近づけないと無理ですので、話すことが新鮮でした。

何度か先生の絵を見て、私の好みが少しずつわかってきたようなきがします。やはり歌もそうですし絵画もフィーリングです。難しいことはちっともわからないけれど、何か惹かれるもの、一枚欲しいなと思いましたが結構なお値段します。よってですね一番小さい絵なら2万弱程ですので、機会があって気に入ったものがあれば買おうと計画しています(サイズもお値段も小さいものですよ)。

珍しく家内と同じ日がお休みになり、ただ大半予定が入っているので、まあ用事ですができるだけ楽しんでこようと思います。
今日は邪魔が入らない日でしたので波風もたたず、よく笑えました。

いろいろあります。嫌なこと・怒ること・恨むこと・理不尽なこと・理解できないこと、ただそれでもどこかで少し笑おうと思います。

嫌になって笑って

怒って笑って

信じられなくて笑って

恨んで笑って

理解できなくて笑って

とらわれている自分を見て笑って


本当相変わらずの馬鹿な私です。

梅雨に

しとしと降り続く雨で日中でも夕方かのような曇り空、道端にあるレンコン畑ではもう蓮が花を咲かせ幾つもつぼみを見かけました。

毎年育てている蓮、手間暇を省いてしまってため今年はどうなるか、今細いけれど立ち葉が何本かでて小さいが故に愛らしいです。
芽出(めいず)る(お芽出とう)、植物の新芽がでてくれば何やら胸の中がほっこりします。
少し違うのだけれど小さい卵からかえった幼虫が、少しずつ成長していくのを見てもやはりどこかほっこりするのです。

正直なことを言うと家族や私に害を及ぼさないものであればそう思えて、家族に害があるようであればほっこりせずそれは苦しみや葛藤の対象へ
「うーん」と声を出さずに声を出しながら考え込むのです。考えている間にそれが逃げてどこかへ行ってしまい怒られることはよくあるのです。
声も考えも目に見えないのだから、私は他から見てただの役に立たない困った人です。(ほんの少しだけ自覚有ります。)

雨の中、元気に美しく紫陽花が咲いて居り、雨がしとしと降るコンクリートの上を小さいかたつむりが歩き、石壁には中ほどのかたつむりが歩いて
蓮の葉の上に、生まれて間もない大きさのカマキリが陣取っており。小さいけれど立派なカマを持つ姿にカマキリはやはりカマキリなんだなんて
人が聞いていたら「あたりまえのことか」と思うことを思うのです。

いつもお世話になる見知らぬ土地で出会ったころから親切で野菜をいただくおじさんと話をしていました。

「最近は本当に暑くなった

昔じゃ考えられん」

「やっぱり(体感上でもそう思ってたけど、科学的にも温暖化という数値出てるのは間違いじゃないんだね)」

「だからな、昔より苗とか植えてもな、芽が出るんが何でも早い。」

「そう」

「ほんであれやな、今年は例年になく雨が多いな」

「おっちゃんあれやな、今年は水に困らんくてすむな」

「そうじゃ、だから早明浦ダムも水がないとかいっこもいよらん」

「ほんまやな」

おっちゃんは出会ったときから、15年経った今も私にとって善人です。自分が持っているもので惜しみなく私だけでなく複数の方に与えることを惜しみません。

「おっちゃん、ありがとう」

そういうと必ずおっちゃんは言います。

「ありがとうは言わんでええ、こっちが好きでしよることやけん、お礼はいらん。」

「おっちゃんありがとう」

私はオウムだから、いらないと言われても馬鹿の一つ覚えに言ってしまいます。

「おっちゃんありがとう」

「礼はいらん」

本当世の中あんな方にも出会えるけれど、おっちゃんと同じくらいの高さの反対の幅を持つ方にも出会ってしまうから私は時折自らの偏った思いでやりきれないことがあります。

ただおじさんも大分歳を取りました。当然私も出会ったころ私は20代後半、今はもう40過ぎです。おじさんも出会ったころより15年同じように歳をとりました。けれどおじさんの中身は変わらないです。

おっちゃんと私は人間が違うから、同じようになれないだろうけれど、生あるならば私は私の思う善い年寄になりたいです。
やっぱり、「おっちゃんありがとう」それしか未だ言葉がみつかりません。

ようやく

 梅雨のさなか、曇りながらも雨のない風が少し強めの日でした。誰かが私に

「今日は風が吹き抜けていく」

とらわれる私は

「ああそうですか」

風がそよぎ、吹き抜けているのに、とまったまま。

夕方近く、少し落ち着き、気がつけば笹の音が耳に聞こえる。

「ああ、風が吹いている」

ようやく私に風があたりはじめる。


集中して時間が矢のように過ぎていくことも楽しい。ただとらわれ続け何もみえない聞こえないという時間が楽しいかどうかはさておき、その時間も必要な時がある。

無精な私は約束を忙しすぎれば先延ばしして、誰かを悲しませる。できるだけ私は悲しみたくないと自らの事であれば思っているのに相手には酷なことを言っている。

心と身体のために今日はお酒を飲まず早く寝よう。


(この思いが晩遅く、全てが終わって解放してどこまでおぼえれているだろうか)

 帰宅して庭のコンクリートの上にトンボが止まっていました。山椒の木にアゲハチョウの幼虫を見に行くためにはそこを通らないといけないので、少し離れて通りましたが近づけばやはり飛んで逃げます。けれどなぜか元のあたりのコンクリートの場所へまた止まっていました。
「けいくん」が横で何かの種をみつけ、トンボが横にいるのに気が付かず夢中でその種を割って中に何があるのか確かめていました。ふと気が付いて
「おとうさん、トンガとまってるね」
気が付いて近づけばやはり逃げていきます。けれどしばらくしてやはり同じ場所へ戻ってきます。幼稚園へ送り迎えの道中、小川というか水が流れている場所にはやはりトンボが同じ場所で止まったり飛んだりしています。そういえば私が育てている蓮の近くにもトンボがその辺りでいつもいるのを思い出しながら、アゲハチョウの幼虫の生育がどうなっているか山椒の木を見ていました。

ここのところいろいろあります。

それは私だけでなく皆そうなんでしょうけれど、周りでは本当にいろいろあります。善いことがいろいろなら大歓迎、その反対が沢山なら大歓迎のやはり反対です。

しばらく何かはやみそうにない気配、いつもわからないことばかりだけれどまた今回は全くよくわからないことばかり、わかったところでくだらないことならわかったほうがいいのかわからないほうがいいのか問うまでもなく、一杯やることにします。

夜空に浮かぶお月さまが美しいです。



ほんの少し周囲の方のことを考えればわかることを、自らのことだけしかみなければその周囲は美しいとは反対の景色がよく見えます。私は大したことができていない私は本当に相変わらずの困ったさんです。

モダン

 晩御飯をたまには作ります。いただいたキャベツが沢山ありましたので、ワンパターンな私はまたお好み焼きを皆がおなか一杯になるほど焼き続けるのです。

最近の主流は広島風お好み焼きで豚玉ばかりでしたので、海鮮が好きな「けいくん」のために

「今日はエビ・イカでシーフードで焼くよ」

まあもう少しひねりを入れ、焼きそばの麺を買ってきて、広島風エビ・イカ玉モダン焼きで仕上げてみました。最近のネット環境は素晴らしくYOUTUBEで広島風お好み焼きモダンの焼き方という動画を参考に、中学生の長男や私が一枚食べておなか一杯になる大きさのものを焼いてみました。

おおむね好評でしたが、次男坊は海鮮をそんなに得意としていないので

「いつものほうが美味しいけど、これもおいしいけどいつものがいいかな」

他の家族は好評と、とにかく二時間位焼き続けるので昼から慣れない家事をずっとしていたので晩御飯を食べたら疲れて仮眠していました。(これはきっと家事で疲れたのではなくただの寝不足と飲みすぎだと思います。)

とにかく私は口実を作っては晩一杯やって、尚且つ子供たちが寝てからは「自分の時間だ」なんて夜更かしばかりしているからこんなことになるのです。かといって誰もいない時間を独占という楽しみに睡眠時間が削られるのは仕方ないなんて言い聞かせる始末と。

明日は仕事なので今日こそ早めに寝るのです(タブン)。


お酒が進むのでどうなることやら、今年の梅雨はよく雨が降ります。

かんのんさま

 怠け癖が抜けない私の前に彼が悩んでいました。ここは気分転換にちょっと付き合ってみることにしました。

「何を悩んで(考えて)いるの」

簡単な質問に対する答えをいくつかわかりやすく文章として出していくことで悩んでいるようでした。何も出なくて悩むというよりはいろいろありすぎるからその中のどれが今回はよいのだろうか、いわゆる今の時代聞きなれたフレーズです。

「あー、今の時代選べ過ぎてこまる。」

ここは一つ余計なお節介を受け取らなくてもするのです。

「『かんのんさま』って何?」

みたいな子供に成り変わって質問とその答えはとか聞いてみました。すると難しい話がきたので

「ぼく、難しい言葉ではまだわかりません。簡単な言葉で誰にでもわかるように書くことが本当の学術的だということを聞いたことがあります。」

そうニッコリしながら言いました。彼は私を少しみてから、わかりやすい答えを調べ書いていました。

私のたまたま近くにあった本には

 観自在-言語はアヴァロキテーシュバラ(梵語省略)を玄奘は「観自在」と訳した。「観」(アヴァロキタ)+「自在」(イーシュバラ)と分解しうるのでそのように訳した。チベット訳語(チベット語も省略)も同様の解釈に立っている。しかしクマーラジーヴァ(鳩摩羅什略して羅什という)は『法華経』を漢訳したときにこの語を観世音または観音と訳した。
 何故そのように訳したか?第一の見解によると、クマーラジーヴァが『観音経』の趣意をとってそのように美しく訳したというのである。『観音経』すなわち『法華経』の普門品には『若有無量百千万億衆生、受諸苦悩、聞是観世音菩薩、一心称名、観世音菩薩、即時観其音声、皆得解脱』
とある(榊博士『梵語学』二四一頁以下)第二の見解によると、観音の原名は古い時代にはアヴァロキテーシュバラではなくてアヴァローキタスヴァラであったと推定され、またそのことは『法華経』西域本によっても確かめられる。(例えば本田義英博士『法華経論』弘文堂、昭和十九年一九五頁以下、同氏「観音の古名について」『龍谷大学論叢』第二九六号、昭和六年二月)その場合には衆生に声をぜしめるという仏菩薩の慈悲行を、ついに人格化してここに観音を表現したのであると解せられている。一般的には観音というときには大悲を強調し、観世音というときには智慧を強調してこのように訳出したといわれる。智慧輪の訳出した般若心経(紀元八四七-八五九年訳出)には両方をとって「観世音自在菩薩」という。観自在とは、世間の多くの人々(衆生)から観られつつ、多くの人々を観、そして救う働きが自由自在であることを指しており、それは根源的な叡智を体得した者の働きであると通常解せられている。白隠禅師の『毒語心経』に、「是非憎愛すべてなげうてば、汝に許す生身の観自在たることを」(是非憎愛総拈抛 許汝生身観自在)とある。観自在は特別な人格などではなく、すべての人々が具えている働きであり、我執をすてて多くの人々の中に生きようと願い、足を踏み出すとき輝きあらわれて来るのである。
岩波文庫 『般若心経 金剛般若経』 中村元・紀野一義 訳注より抜粋



「ほら、こんな感じで答え書いたらいいじゃない」

「僕が書いたものより難しいじゃないですか」なんて言うんだろうなあ。

なので小学生に理解してもらえるような文章になおすと(酔っぱらいは身の丈に合わない意訳をこころみるのです。


自分で自分は凄いし優しいし思いやりがあるなんて思っているときは、自分が勝手に思い込む「かんのんさま」です。
目前にいる方がほっておけなくて、自分ができることをしなければいけないと思う前に身体が勝手にうごいて相手に慈しみあふれる行為が出現したことを他者が理解してくれたときに、「あなたは(私にとって)かんのんさまです」といったものが出ているその瞬間の方はどなたでも「かんのんさま」です。
だから優しくされたことがあるしそれが嬉しいと感じる人ならどなたでもこころに「かんのんさま」がいるんです。




(酔っぱらいは難しいことでごまかしてその恩恵にあずかってうっとりするのです。)

 背負うことができないと判断したり、つまりは余裕が無くなったりすれば発言が気づかずにきつく冷たくなっていることに改めて気がつく日でした。

冷静に考えれば、こちらで勝手に決めすぎず、しっかりと相手に丁寧におたずねをしていれば、自らの作りすぎた思いと衝突するだけでなく相手にも変なものをぶつけずにすむことなのに、愚かなことをしてしまい、かといって思うことを言わずにためすぎても「あーあの時ばしっと言っとけばよかった」とかね思うので、もう少しではなく大分すりよせをしていかないといけないと反省中です。

日中は真夏ほどの暑さとかなり湿度も高く、夜になって雨が降ってきました。日が沈みかける前にまた山椒の木を眺め幼虫を探していました。黒い幼虫は緑色の幼虫へ脱皮していました。「けいくん」を呼んで一緒に眺め、それから近くの公園へ連れていかれました。

稲が植えられて日が浅いのにオタマジャクシが沢山いました。エビのようなものとヒルのようなものも泳いで、二人でそれをしばらく眺め、一緒にブランコに乗って空を眺め、家内が車で帰ってくるのをみて、晩御飯を食べに帰りました。

現実いろいろあるけれど、「何のために生きているのか」なんて考えないのですが、家内やあの子達をみていると、何か私が生きていくには私の役があることを感じます。

ここは「役に立たない人」より「役に立つ人」のほうが喜ばれるし私も喜べそうです。

(私自身の)理想と現実はいつも困ったことが多いです。