理想と現実

「くだらないことばかり言わないで、『ありがとう』とだけ言ってくれたらそれでいいのに・・・」

感謝や日頃の御礼の代わりとして(自らのことは棚に上げ)とにかく口を開けば誰でもいいから悪口が常に出てくる方に面と向かって言えばこちらも悪い人だと吹聴されるので申し上げにくいことです。

iいつも話がまわりくどい上に長い私も同じで、ただ「ありがとうございます」だけで済むのに済まさず、あろうことか更に話をひろげれば、私こそが理解できない・面倒くさい・悪い人なんて思われます。

やっぱり奇特な方・優しい方・理解してくれる方がいて、話を楽しんで聞いてくれる方がおられると、よく勘違いをします。それは相手ができているのに、こちらができているなんて雰囲気がでれば、遅れてその勘違い以上に痛い思いをします。

仕事が終わり「けいくん」を幼稚園へ迎えに行き、帰りの道中他愛もないことを話しながら帰ります。帰れば遊ぶ前に既に遊びほうけている次男坊に

「遊ぶのは認めているけれど、やることを終えてから遊び呆けなさい」

私の子供の頃なんて、やることなんてそっちのけで遊び呆けることばかりだったのに、、子供には酷なことを言い続けます。私自身が何一つ理解することもなく努力することもなかったのにあの子達に受け取れと言い続けるなんて本当に私は愚か者です。

それでも彼等(三人の男の子)に何かを望み願います。偏りやおしつけがある程度を超えれば彼らは彼らなりの「束縛からの脱出」を試みます。私のように安易で何の役にも立たないことに走り、やるべきことをやらず現実を見つめることがない生き方ではない生き方へ逃げてほしいと願っています。

酔っぱらって物を書く私はあの子達の現実を正しく見つめるのではなく、ただ理想をおしつけるのです。言い訳として「良い夢はみれるだけみたらいいんじゃない、できれば早くそれが見れたら」なんて苦しい言い訳として言い続けるのです。

「正しい自らの認識、自らの望むもの、何を願い、どう生きていくか」

どれだけ他者が願っても、自らが願わなければ自らの世界は何も変わらないどころか、悪くなることが多いというのが一般的だと体感上判断します。


また私は努力を怠って、酔っぱらい何かに思いをはせることにします。
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 定期的な休み有り難いです。いつも思うことですがゴロゴロマッタリできれば何も言うことはないのです。
現実として子供たちが成長してスポーツの送迎、家内が仕事をはじめ、家事や「けいくん」幼稚園の送迎など、いわゆる雑用が私をゴロゴロさせてくれません。
その上最近は物事を一気に推し進めていますので休日のたびに用事を入れ、自宅で打ち合わせをしていたりするので家の中に人を招くということは、家中をすべてきれいにしなければいけないとまではいきませんが、人から見えるところはやはりできるだけ綺麗にしておかないといけません。
よって今日は朝から片付け掃除用事に走り、終わって家事をしながら「けいくん」に何か練習させ、光陰矢の如しです。

結局こまごましたことをしていれば、今の(投稿している)時間になり、何か学ぶというより慌ただしく時が過ぎて一日が終わろうとしています。

「今から学び多くあればいいじゃない」

そんなこころの声はおやすみいただいて、一杯やりながらようやく休日を満喫、といってもまた明日から仕事ですので早く寝ないと身体に毒、私の今までの前例だと趣味に走りすぎは健康を害うので、ほどほどにします。

近くでは田に水が張られ、田植えが早くから終わっているところ、今日植えているところ、これからのところ、いずれにしても美しき風景です。

私がここへ移り住んで、ずいぶんと田畑が減り住宅が数えきれないほどたちました。人や家の代わりに田畑の風景が減っています。田畑が広がる場所には必ずといっていいほど、お宮・神社から分祀され神様が祀られています。
神社や祠などの近くにはご神木と呼ばれるような木が大抵あります。平野にぽつんと鬱蒼と茂る木がある場所には神が祀られている目印と私は認識しています。

ただその木も道路拡張・住宅増加・維持管理・電線などのため、ご神木ですらなくなっていきつつあります。

だから残せとかそんな話ではなく、私はあの鬱蒼と茂る緑とそこに祀られている景色・風景が好きなだけです。人は自然と田畑から離れる生活をすると、神仏から少し離れやすい傾向にあるように思います。

誰かに感謝し頭を下げる。誰かが人間であっても感謝するということを忘れては罰当たりな要素が割と増えます。


人ではなく、何か大きなものにむかって感謝し頭を下げる。

時にはそんな何の役に立つかわからないことも、生きていくには必要不可欠なもの。そんな気がします。

さらり

 仕事では筆をもたねばならぬので、決まったことなどを書かなければ仕事は進まないので、他人からみれば筆が流れるように進んでいるようにみえるのかもしれません。実際は利き腕を重点的に使いすぎてひじが痛いことをごまかしながら、使い物にならないように思われないように、筆を進めたくないけれども進めています。

いろいろなことに行き詰ります。困れば仏教書(初心者への本ばかり)に目を通します。変なことを考えすぎることにとらわれる私を見るより、書に目をやりそこに書かれていることに心奪われている私の方がよっぽど有意義に思うからです。

ただ継続することの才能が人より劣るせいか、気分転換だけは人より多いなんて思います。ちょっと趣向をかえて仏教書以外で気分転換するのです。

34 威張る話

 人はどうして威張りたがるのだろう。
 むろんこの世はよくできていて、威張らない人のほうが、はるかに多い。だからこそ威張る人に稀少価値があり、観察するにもあたいする。たれかこういう同好会をつくって、ほうぼうに見学に行けばどうだろう。
 むかし国鉄という官業(かんぎょう)があって、そこでは威張る職員が多かった。名古屋の切符売場などは、威張る名所のようにいわれていた。
 もっとも新幹線の開通早々、航空会社との競争もあって、おなじ国鉄ながら在来線は古風に威張り、新幹線は愛想がよかった。
 そんな新幹線の従業員でも、開通の頃は伝統の保持者がいて、私が新大阪駅の改札口を通過したとき、どのフォームにゆけばいいかということを改札掛にきいたところ、かれは氷のような表情で、あごをちょっと右にしゃくっただけだった。
「むこうですか」
辞を低くしてもう一度きいた。
「うむ」
ともいわず、ふたたび あご をわずかにひいた。ほれぼれするような威張り方だった。

「風塵抄」 司馬遼太郎 中央公論社より



よく文才のある方の描写には感服することがあります。これには思わず吹いてしまいました。
「あっぱれ」
です。

私もまた威張る必要のないところでほれぼれできない威張り方をして、冷たい視線をいただいていることにも気づかないことばかりです。

あまり頼まれてもいないのに威張りすぎると、後ろにそっくりかえらないような支えとか棒とかだっているし、けれどあまりうつむきすぎてもいけないので、簡単な体操をしながらい謙虚であること、威張ること胸を張ること、自信を持つこと、普通にすること、かといってどれかを選ばなければいけないということでもないのに、必要ないものをつい無意味なときに間違えて持ってきてしまいます。

ここは、あたりまえのことはあたりまえに、困ったらニッコリしてさらりと流すことにします。


「さらりとどころか流れてないよ」

そんな突込みもニッコリと流すんです。ニッコリ

あれこれ

 いつも過ごす部屋から出れば、そこは安心から遠くなることばかりということがあります。たかが壁一枚に隔てられた空間なのに不思議なことです。

いつもよりまだであったことのない方と話すことが多い日でした。よく話す私は真剣に聞いてもらう方に助けられてばかり・教えられてばかり、力をもらってばかりです。
ただ前日の夜更かしがたたって、最後は力を使い果たしてグッタリ、心地よい疲れでもあったので(勝手に)良しとします。

次男坊が奈良へ修学旅行の次に長男坊は沖縄へ修学旅行です。家内が忘れものなどがないか気にしていました。私の小学生の頃長崎県の北部の田舎に住んでいました。その頃の修学旅行は同県内の長崎市でした。確かにですよあの当時自動車で三時間以上かかって行くところでしたから、ど田舎の住んでいる場所と違って長崎市は比べれば都会でした。夜景も路面電車も平和記念像など、泊まったことのない多層ビルのホテル、嬉しすぎて眠れず騒いで廊下に立たされたような気がします。ただ中学生になって長崎市の学校へ行くことになり寮に入りましたから、修学旅行先が毎日生活する場所になったことはちょっと悲しいなんて思っていました。今ではただの笑い話です。

あの子は沖縄に行って何をみて、何を思い、何をお土産にするのか楽しみです。きっとサトウキビとかを買ってきて

「お父さん、お土産(かじってみて)」

とか言いそうです。お土産は気にしなくていいから楽しんできてねと伝えたら

「僕は口下手だし、伝え方も上手ではないから無理だよ」

と饒舌でことわってきました。お酒を飲みながら帰ってきたら彼にはいろいろと聞いてみようと思います。(酔っぱらいはうっとおしいものです)

彼に必要なものを買い出しに仕事終わりに出かけ、帰って家内の夕食の手伝いをして、すごく安物のワインで乾杯。


生きていればいろいろあります。子供達も家内も大好きです。あれこれ考えずできるだけ楽しむことにします。

あの子

 この頃大きくなった末っ子の「けいくん」は昆虫が大好きです。何日か前は大事そうに手に何かをもっていました。

「何もってるの」

「かわいいもの」

「可愛いのはわかるけど、もう寝にいかないといけないから、何もってるの」

「みせてあげるね」

小さい幼虫が手に乗っていました。

「それどこにいたの」

「お外で見つけたのでだいじにもってる」

ここはですよ、私はそんなに幼虫好きではないので、大人の私は遠回しに

「可愛い子を寝てる間に、潰したらいけないから、幼虫のお家(元いた場所)へ帰したほうがいいよ」

タタタっと庭へかけて、笑顔で帰ってきました。

「あのようちゅうおおきくなったら、なにになるんだろう」

そう楽しみに言っていました。昨日は雨、帰り際幼稚園の壁に小さなナメクジが一匹高い所にいたのを見つけました。

「けいくん、ナメクジがあそこ歩いているよ」

「ほんまや、なめくじくんかわいいね」

私がナメクジと言えば可愛く聞こえないのですが、彼の笑顔と幼さとそのこころからなめくじまで可愛く見えます。

「本当だね」

あまりナメクジが好きじゃない私も少し可愛くみえました。

今日はいつもの庭の山椒の木に、アゲハチョウの幼虫を観察しました。二日ほど前は生まれたての黒い幼虫でした。今日は一回目の脱皮をして一回り大きくなったまだ小さめの糞に擬態しているようにみえる幼虫になっていました。その二つ隣の枝にはもう一回り大きなまだ糞にみえる柄の幼虫がいました。

「けいくん、この子はあと一回脱皮したら緑色の幼虫になるんじゃない」

「みどりいろのようちゅうかわいいよね、さわったらつのだすかな」

笑顔でいっていました。

「幼虫に比べたらけいくんは大きいんだから触らずに近くで見るだけにしといてよ、幼虫が蝶になるのをお父さんみたいんだ」

「うん」

前そう何度か言っていたとき、私に内緒でみどりいろの大きなようちゅうを触りに行っていました。

「つのださなかったよ」

「威嚇させちゃだめだよ、いっぱい食べて大きくなってもらわないと」

「うん」

あの子はクモも大好きです。

「おとうさん、ちゅうくらいのクモがいたよ。

あれはちゅうくらいだから、おにいさんグモだね」

笑顔で教えてくれました。あの子も幼稚園の上ぐみさんになって小さい子と触れ合うようになって発言も変わってきました。

「けいくん先輩」

私は時折あの子をそそのかします。

「やめてよー」

照れて笑うあの子、まんざらでもないようです。


あの子はまだ素直な心がいつでも顔を出してくれます。


私も素直な心とそこから即座に出せる行動を願っています。

五月雨

 雨が降る日、割とゆっくりできずバタバタと仕事が流れ、仕事が終わってもう一仕事家内と別に出かけ、一緒の場所で人と会い、帰りが割と遅くなりました。

てきぱきと食事を用意してくれる主婦スキルに時間に追われてるときには本当に助かります。何事も経験と年数に勝るものなし。昨晩割と(またまた)一人で遅くまで飲んでいて、ここを書いている今もまだ二日酔いで少し気分が悪いです。長男坊が

「どうしてそんなにのんだの」

なんて聞くもんですから、大人の私は歌うのです。

「飲みすぎたのは、私のせいよ♪」

「自分のせいなら、どうしようもないじゃん」

本当にその通りで返す言葉はありません。よって今日は気分が悪いのでお酒は無し。長雨や五月雨、しとしと降り続く雨のようにあまりよくないことなどは続いて欲しくないです。相変わらず怒って感情がむきだしになることの連続も続けたくなく、好ましくない上に終わってみれば望んでないことがほとんどです。
悪気があってしているわけではないと本人が思っていても、いつも悪気にしかなっていないのであれば笑えないです。

まだもう少し忙しいことが続きくので、たまには飲まずに早く寝ることにします。

 実際いつもお世話になって評価してきたのに、自らを中心に周囲だけ回す天動説の如く、大切なことは見ないように、自らにとって都合のよい所だけをみる。今回に当てはまる言葉があるとすれば「自らにとって都合のよい、数字だけをみて物事を進めていく」ことをされているようです。

その数字に権力ある方自身の数字が全く(計算・考慮微塵も)入っておらず、弱い方にかかる数字だけを見て決定しているようにしか見えません。「これも強者の特権だから」とニッコリされても、私はニッコリできません。

近くにおられる方がいつも言われていたことを思い出します。「人の上に立つ人は、相手のことを理解できないと話にならない。」
何度も言っておられました。

以前それはわかったつもりでいました。現場のことを一緒に考えて一緒に動いて一緒に悩んで一緒に喜んで、例え同じ時を過ごさなくても、話を聞いて理解してくれる。本当にそのような上司であれば嬉しいです。理解する気もなく、まして話もせず、ただ自らに都合のよい数字だけを見て判断することが賢い方のすることだと思いにくいです。

自らを理解されたい、評価してほしい、できるだけ安易な道を選ばないほうが、本当に相手が理解してくれる時が来ると信じている甘い私がいます。

精一杯の強がりを言います。

「礼を失わず、品性を害わず、その時できるだけのことをしていれば、よっぽどのあほでなかったら理解してくれる」

その言葉を都合のよいようにおきかえて、大したことをその方程していないのに理解できないことをする方を「よっぽどの人だった」なんていう阿呆な私が一杯やっているのです。

また懲りずに酔うことにします。

 昨晩急なことで、晩御飯の支度を早めにしていたのですがそれでも間に合わず、ほとんど終わらせ仕事へ。
きれいごとでなく、無理ではないなら職場や仕事が上手くまわるために私は勤めそこに存在していますから、声をかけてくれることは本当に有り難いことです。何せやらかしてクビが飛んだことのある私にとって仕事は死活問題です(恩恵がなく仕事によって生活が安定している人ならばそれは誰もが同じことでしょう)

あたりまえのことが空気のように日々流れていけば、あたりまえのことが有り難い・素晴らしい・大事なんてあたりまえだから思わなくなります。

全く望んでいないのに私を取り囲む環境でいろいろあって、平常心を失います。はたして誰かが不遇な目にあって平常心でいられることがよいことなのかどうか考えさせられることです。

理不尽なことをあたりまえに押し通してくると私は腹を立てます。計算さえできなくなり、自分だけでなく周りの迷惑を考えず激しい怒りをぶつけようとして、今まで痛い目にあい続けました。けれど変わらないこと、やはり理不尽すぎることを近くの誰かがあえばどうしても腹を立ててしまいます。怒って思いや痛い言葉やありのままの現実をその当人へぶつけても理解せず受け取る気もなければ皆の迷惑になるだけのことですし、私が平穏に過ごせなくなります。家族がいるから不用意なことは避けるべきです。それでもやはり意味が分からないことに腹が立ちます。

感情をコントロールして、嘘もいわず間違った方向へも行かず、相手を怒らせることなく良い方向へ進めていきたいと願います。

自分がされたら嫌なことをどうして相手には平気でしてくるのか、一片の思慮のかけらもない言動の連続を見るのはつらいです。そんなことで悩んでいたら

「それが理解したいと相手が思っているのならそんなことはしないでしょ」

いずれ自分の身に降りかかったときにその方が何と言うのか、できれば聞いてみたいものです。


本当酔っぱらって忘れることにします。

結局

 私がお世話になる方も沢山おられ、私に優しい方もおられ、私に意地悪な方もおられ、私にとって悪いことばかりの方もおられ、ただ私にはそのようであってもその方が他の方にも同じかといえば、そうであることとそうではない方がおられます。

例え良くいきましょう。

私にとって優しく自らの品性や人間として礼を失わず与えることを惜しまない方と出会うことがあります。会うたびその方がいつもそうであれば、その方はおよそ善人であると判断します。時折その方と触れ合う方にその方が私にする対応と同じなのかという話になることもあります。やはり誰にも変わらぬ善い対応をされていれば、最近は言葉をなくします。衝撃を受けたかのように深くどこか奥のほうへ広がるものを感じ何故か頷きます。

しかし人は幾つもの顔をもっているとこれもまた深く思わされることもあります。いつもおちゃらけ真面目におよそ縁がなさそうなのに、あることが目前に来ると誰よりも真摯に向き合う姿はいつだってどんな方にもその時間が刹那から長い時間と変わるものですが確かに、顔が違います。

私は阿呆な顔か愚か者として、身近な方に思われることが多いと思います。思いついたら頼まれてもいないのに発言して、誰もおもしろくなさそうなのに一人で楽しんでいたり、大抵自己完結していることばかりであまり話を聞かない顔だったり、自分の話は聞いてほしいのに人の話は本当に興味なさそうな顔であったり、良いことをしたいというのに忘れてしないことばかりの顔であったり、ただ私にとって真剣なことは人より少ないけれど真剣な顔の時も確かにあるように思います。

いつも思います。私は近くにいて時間を長く過ごす方と楽しく笑っていたいです。ただ情けないことに私の言動によってその反対が多く出現してしまうという困った人の代表格でもあります。
近くにいて時を長く過ごす方は、その同じ時を過ごした分その方の複数の顔をみています。あるときはその顔に出会って悲しんで・恨んで・怒って・共感して・敬って・好きになれて・呆れ果てて・怒りを通り越すほどの怒りをもってみたり・永遠の別れを願うようなこともあって・ずっと一緒に時を過ごしたいと願うこともあります。

この多ければ多い顔を知り、自らをみつめ嫌なことを含めてその方のよいところを感じられるか、いつも落ち着いてみようとしています。

不思議な話です。相手のことをみているのに、結局はその観て感じて考えた私の何かを私が了承できるかというだけです。


「こんなに私が阿呆で愚かなことをみせるのに、相手には完璧や理想通りだけではないと了承できない。」

そんな答え望んでいないのに、私にそんな顔があることは確かです。



(今日もまたお酒が進みそうです)

 言葉を誰かへむけて発する

心の底から、いやこころぜんたいで、いやこころやまわりを圧倒するほどの、言葉であればその方の本心からなのだろうと感じ取る。

誰かへ向けてとても言いにくいこと、自分がその言葉通りにしようと思っていないのに、つまりは「言わされる」となれば、またその言葉は、いずれにしても双方や周囲にとって発した以上、根本的な原因を含めさらに困ったことにしかならない。

よく耳にする

「あなた本当にわかってるの」

「わかっとるよ」

投げやり・感情の爆発で「わかっている」と言っても相手にそれは伝わるどころか理解していると受け取ってくれない。

落ち着きのある言葉を大切な時ほど使いたい。できれば言葉を発さなくても思いが伝わるようでありたい。大切な時の前に、あらかじめなされるべき努力を少しでも積み重ねていかなければ、悩み悔いて自らが自らのこころを汚していく時間が増えていく。

あまりそんな瞬間が多い私は望んでいない。けれど目先の楽に溺れまた酔っている。


まるい夜空に浮かぶ月を見てさらに酔うことにします。

学び修める旅に行く

 次男坊が先日学校の行事で奈良・京都へ行ってきました。長男と同じ小学校ですからほとんど同じところを見て回ったようです。

「東大寺」「金閣寺」「銀閣寺」「平等院」「東映太秦映画村」などなど、その定番と言われているところをクラスメイトと楽しく回って、お小遣いだって皆もっていきますから、お土産を買ってきていました。

随分前によくみるような、「おこし」とか三角形の「テナント」とか、ご当地の名前が入った綺麗な置物の石とか、こけしとか、ニッキ水は買ってきていませんでした。

私や長男と違って次男は無口で身体がよく動く子です。動いていれば安心するような子です。計算のできる長男と違ってあの子は弟の「けいくん」にも兄にも、家内にも、私にも、一つずつ選んで買ってきてくれていました。特に「けいくん」はもらったものをほおずりしながら喜んでいました。物より気持ちが嬉しく感じました。

私は「奈良」と土台に書かれその上に金の仏塔がたった置物を選んでくれました。彼は私は仏教が好きなことを見抜いたのか、またはゴージャスに見える黄金の多重塔に惹かれたのか、理由はともかく職場の机にでも飾ろうかなと考えていたら、「けいくん」がやってきて

「おとうさん、ぼくがかざっといたよ」

そう言って玄関の目立つ場所へ安置してくれていました。しばらくそこへおまつりしておくことにします。

大人である私や先生方は子供達へ「学び多くあるように」との思いを持っています。自らが何が大切で何を私は真剣に学びたいという自然体の姿勢は望みすぎて出ないように考えることがあります。

ここは大人ならば、一緒に楽しんで、笑って、一緒に悲しんで、聞いて、難しい話はたまにでいいかなと、今言ったことをほとんどできていない私は思ったりしています。

私に必要なことは何事も言いすぎないことと思いすぎないことと、頼まれてもいないことなのに自らくだらないものを作りすぎ悪くならないことです。

あの子たちをみていても、自ら作りすぎた思いでこころがはりさけそうになることも時折みます。何とかしたいとかこちらがそれをすべて排除したいなんてしすぎれば、結局かえって成長を望めない。

ただ黙って優しく見守りつづけることの難しさを感じた日でした。

本当に

 ここのところ慎重に私にとっては大きなことを進めています。

いつも予定などはたてず、(ひらめきという名の)思いつきで行動することばかりです。物事が進まなければ困るので考えざるを得ないことであります。

自分のこと優先になっていることでもあります。だからといって他の方のことをおろそかにするつもりはないです。最近十何年ぶりに働き始めた家内の口癖は

「お父さん、いろいろあるね」

「いろいろあるよ」

と普段は優しく返すようにしていますが、また恒例の夜更かしによる睡眠不足と本日は私も(実は私より近くにいる方が)いろいろありました。いつもお世話になっている方ですから、何かできることを続けていきたいです。

いろいろある原因は簡単なものです。

私達がいつもお世話になる方は、人をみてとか地位肩書をみてとか・計算高くとかそんなことを優先される方ではないです。つまりはその人のこころなどをみて喜ぶ方です。きれいごとにとらわれる私も美しいこころからでる雰囲気をいつもみていたいと願っています。皮肉なことです。常の行動が素晴らしく優しくできた方は美しいものです。ただ私が望むようにみたいように見る気がない方達だっています。

損得勘定・打算・数値化されたことのみ・常の行動でどれだけのことをしているか、そんなことを同様に優しくされつづけているのに何一つ考慮されない考え・言葉・振る舞いといった雰囲気をだされれば、無駄に普段饒舌な私の口だって言葉という概念すら消失します。

気の利いたことが思いつかないとか、発言すれば発言するほど迷惑がかかることになりかねないこともありますが、できることを一つでもしていきたいです。

一緒の場所にいるのだから、同じ時を同じように過ごしていきたいです。



それだけでなく、全般に

それだけでなく、全般に及ぶこと

 当たって砕けるつもりで話す気などさらさら考えてもいないのに、話すなら「当たって砕けなしゃあないわな」それ位ならまだしも
「木っ端(微塵)じゃな」相手に口実だけでなく、話したがために本人だけでなく周囲も悪くしかならないことを意味する言葉を教えてくれる方もいます。

自らにとって悪い事態が来てくれることを願う方もきっと少ないけれど、訪れた悪いことには「こんにちは」次いで「にっこり笑って」通り過ぎるのが理想です。

求めるもの、大切なもの、常識、願い、理解、人としての付き合い方、全く同じものを求める人なんて人間であればいないだろうし、そんな人ばかりであればそれはそれで面白くないように考えます。

自らが存在する場所で、自分だけでなく皆がよくなるように考えて発言する方に私は敬意を払います。それが私は皆同じ見解になるなんて思い込みにとらわれていれば、無用な衝突が増え、言わなくていいことを言ってしまったり、自らを大切に思ってくれる方を困らせることだって少なからずあります。

「うまくやればいいのに」

そんなことを言われたり思われたりして「何を上手くやれっていうんだ」と後から不遇な目にあってこぼし、やらなければいけないことから逃げたり

「計算高く・損得勘定高くに最速最先端にできないから私は心底矛盾・葛藤・怨み・怒りにとらわれているんだ」

それにとらわれる私に優しくできた方が言葉をかけ続けてくれています。

「それが羨ましいと思うなら、今すぐこれからも死ぬまでずっとそうしたらいい。そう思うなら今すぐやれ。

貴方はそれが羨ましいとも、そう願ったり、そうしようとも思わないんだろ

そんなことにとらわれたり、気にする必要なんて一つもないから気にしなくていいでしょ」

一回で気づくことができず、そんなことを何遍も何遍も繰り返し、最近になってそのことが理解でき始めるようになった愚か者の私です。


自らの進むべき道を見つけることというのは一朝一夕にしてならず、自らを理解するためには望んでいない悪いことや根性悪や罰当たりなことに出くわし続け、その対極に位置する優しい方・できた方・徳のある方と双方とその中間に位置する方は必要不可欠なことだと信じています。

過酷なことです。自らが思い描くものの劣悪な反対が出現してこそ、道や理想や自らが眼前に確かに現れる。


望んでいないことに出くわさなければいけない。


仏教においてそれを「苦」と呼び、いつもの如く「苦」は不如意です。


そのまま書き下し「意の如くならざる」ものです。


自らにとって「意の如くならざるもの」との遭遇、次いで仏教はひとつの象徴をいつだってあらわしています。

それは「蓮」です。汚泥にあって、汚泥に染まらず、その汚泥があるからこそ美しく咲き、やがて散って種子を残していく、その象徴を意味が分かる人にも未だわかっていない人にも出し続けています。


私は私と触れ合う方にも身近な方にも家族にも、あの美しく咲き心を奪うほどの美しさと(心から生ずる)芳香、散るときには種子を残し次世代に希望を残していくものでありたいしあってほしいと、また何も誰にもしていない愚かな私は絵に描いた餅を日々夢見ています。

私もまた、ただの独りよがりで愚か者で罰当たりの一人ということです。

ミドリ

 目に若葉や青葉が繁茂するこの時期、いつもテントウムシとアゲハチョウの幼虫を楽しみに末の「けいくん」と心待ちにしています。庭にあるいつもアブラムシが沢山ついてくれる枝がよく伸びる木の剪定の時期を変えていたので、昨年より随分とアブラムシを見かけることが少なく、それを餌にするテントウムシとその幼虫も見かける数が少なくなってしまいました。
 
物干し台と倉庫脇にある山椒の木があり、長男坊が幼稚園の頃越してきたときまだあの山椒は小さい植木鉢に入るくらいの大きさでした。今それから9年たって背丈が私を超え倉庫の屋根を超す勢いになったことでアゲハチョウがよく卵をそこへ産み付けてくれます。今年もまだかなとみていたのですが昨日ようやくまるまるしたみどりの幼虫を「けいくん」と二人で見つけました。
彼はそれから暇があればもう次はさなぎになりそうな幼虫をおとうさん幼虫と呼び、それより少し小さめのを幼虫とよび、それよりもう少し小さいものをこっちの幼虫とよんでいます。

今日幼稚園から帰って二人で山椒の葉を観察していました。卵はみつけれなかったものの、孵化して間もない小さな黒い幼虫が何匹も見つけることができ、他にも蜘蛛やアリ、テントウムシの幼虫これはおそらくナミテントウだと思います。(アゲハチョウは「ナミアゲハ」です。)

あの子(けいくん)も私も家内も次男坊も(長男坊は昆虫などより新しい機械に興味があります)、その成長を楽しみにしています。あの山椒が背が高くなって枝葉が生い茂ったことにより、以前より多くの幼虫を生育できる環境になって見ごたえがあります。
ただ山椒棘があって痛いので、切りたいのですが切ればチョウと幼虫が見れなくなるので少し剪定も最低限だけとしています。このままあの大きくなった三匹の幼虫が無事さなぎになって、羽化してくれるのが楽しみです。

今までも変わったところで蛹になって羽化が上手いこといかなくなった蛹を「けいくん」もよく覚えています。羽化も偶然見ることが出来たりもしました。

庭にコンクリが張っていないところにはダンゴムシが機嫌よくじっと止まっているのを見かけます。大きなものから普通のサイズ、赤ちゃんダンゴムシ、土と木があると手間が増えるのですが、クモにしてもダンゴムシにしてもチョウにしても一緒に生息できるのは確かです。(雑草が生い茂ってそれをむしるのがかなり手間でしょうがないですが)

そこは悩みの種です。

芽や若葉、アブラムシやヨウチュウなど、アマガエルも緑ばかりで楽しいときです。

どうも

 「うっかり」と言う・言われる・思われるときなんてのは、割と大切なことを忘れていたことを何かによって思い出したときばかりです。
今朝の私は、誰かに尋ねられて「きょとん」としていました。

「うっかりやってしまいました」

そんな顔をしていたようです。ある意味大人になってしまった私は可笑しいので笑うしかなかったです。


関係ないことですが、人によって好み学問でも異性でも趣味でも求めることが少し異なるのだということを改めて教えてもらったように思います。

私は馬鹿だから、自分が好きなこと・良かったこと・美しいと感じること・その文章に光をみたもの、それを相手のことを考えずに素晴らしかったと言いすぎることばかりです。

自分のことを理解してほしいと願っているのに、他人の理解はそっちのけなんて雰囲気を出しすぎてしまうこと自体が愚かだという話です。さらにそれを加速させることはそれでもそんな自分が好きだと思ってやめないことでしょう。愚かさが止まらないということになります。

ただ一つ良くないことだけれど善いことは、人間は不完全であるからいろいろあります。不完全でいろいろあるからこそ予測できないことばかりです。予測できないからこそ不意に訪れる善いことに感動できます。他人のことはよくわかりませんが、私の愚かさにこそ私という個性が如実にあらわれ、そこにこそ愛され許され、そこを含め愛してくれる方がおられ、私はそんな方を大好きです。

「もう、あなたは本当に馬鹿なんだから」

その言葉に愛情を感じれる要素が入っているのなら、そんな私が好きだし、これからもいてもいいのではないかと思うことがあります。


私のことを理解してほしいと切に願う私を見てしまったのなら、近くにいる方のことを好きになりたいです(それは相手のことをわからないことや他様々なことを理解できないことを理解しようと努めたときに、きっと相手のことが好きなんだとなんだか思う夜です)。

 幼稚園に通う三男坊が季節外れだけれど風邪をもらってきたようです。幼い子同士がマスクをして距離をとって気をつけてなんて無理なことですし、お互い様です。行かせなければもらうことはないのがあたりまえ、ただ行ってもらわないと私が困ります。

花粉症もおさまってきてマスクを外していたので一緒の布団で寝たりする私も風邪を貰いたくないのに貰ってしまいました。少し喉がと気をつけていかないと、それに家内と仲が良すぎるので家内へうつさないようにしないと、仲がよすぎるのも本当に悩みの種になるものです。

悪いことを悪気なく言ってしまうことの多い私の口は、時折ですが善いこともあの人へ言います。あの人からすれば比率の問題というより潔癖症ですから悪くなることがでればしっかりと(死ぬまで)覚えている雰囲気です。

仕事が休みで「けいくん」を送り迎えして、午前中には用事を済ませ、晩ご飯はたまには私が皆に用意しました。美味しいければ言うことはないのですが、お腹いっぱいになってくれれば満足です。夜次男のスポーツの送り迎えが遅くまでありますからそれまで晩ご飯を私だけ遅らせ、全部終わって一杯やりながら美味しくいただきました。

雨が割りと強く、また庭の草が願ってもないのに沢山生えてくれそうです。今度あの庭の草には可哀想ですが「一網打尽」に抜きまくってやることにします。

現実いろいろあります。これからもまた変わりそうです。


変化に柔軟に対応していきたいです。

 思い込みによる失敗によって、後からズキンと胸が痛みます。言わなくても思っていれば、私は雰囲気に出てしまいます。相手が近ければ近いほど、思いは雰囲気にでて相手に何かしら違和感やいい感じの反対を与えてしまいます。

挙句は開き直って、思いを言葉にしなければ後から問題になってもこまるだなんて割と極端に思い込む始末です。別に仲を悪く・痛い思いをさせたい・こちらに対して不快な思いを持ってほしいなんてそんなことは望んでいないことです。

先延ばしにしたほうがよいこと、早めに解決しなくても今話し合っておかねばいけないこと、触れないでいいこと、現実として問題にならないのなら何も言わないほうがよいのか悪いのか、おバカな私はわからず痛い思いをしてしまいます。

感情的にきつく言うことは、相手と自分に何かを残して、いろいろ考えさせられ、その時に出さなければいけないことを出せず、ださなくていいものを出して困る近くの方や私がいます。

もう少しではなく、相手のことを本当に尊重するなら、相手の身になって思うことを忘れずにいこうね私。

明日は休みなので、しっかり自分がやらなければいけないことを進めることにします。

今日

 今日は旧暦で四月八日、そう書けば誰もがきっとピンと来るはずです(大きくですぎました)。

クリスマスがキリスト様の誕生日であれば、四月八日はお釈迦さまの誕生日です。なんて家内に言うと

「やったケーキ食べれるね」

どうやらケーキをいただける日でもあると認識しているようです。ここはひとつ大人の私ですから

「新暦の四月八日にケーキかったよ、今日は・・・」

ちょっと家内の顔が暗くなりました。

「いや、ケーキ買ってきて皆で食べよう」

途端に明るくなりました。お寺にいけば花見堂がまつってあり、お釈迦さまの幼いころの仏がまつられ、頭頂から甘茶をかけ、最後に甘茶をいただきました。すっきりさっぱりの後味です。

「甘茶をお供えして、しあわせをいただいて下さい」と書かれていました。

日本に相当数のお寺があり、数えたことはないけれど教会の数よりお寺の数が多い思っています。けれどクリスマスがやはり優勢です。

ここはケーキを景気よく食べれる日とでもして、是非お釈迦さま(ブッダ・ゴーダマ)の誕生日を祝いましょう。

クリスマスみたいに何かちょっとカッコいい呼び方とかつけたら意外といけるかな


「ナムシャカムニブツ」


(昨晩盛り上がりすぎて、書き物も遅くなったうえにまた懲りず夜更かしして一人で飲んでいました。困った困った困ったさんです。)

現実として出会ったことがないけれど私にとってかけがえのない先生

 思いもよらぬという日は思いもよらぬときにやってくるものです。

毎日ではないのですが、活動範囲が極端に狭い私は、書物に救いや学びや光を求めそこに観ています。

人からすれば理想やこの上なき真理や悟りというもの、人間は不完全だから人間であるのだから、矛盾することです。
足らないからこそ求めてやまないものです。充足していれば求めないということです。

私にとって足らないからこそ、いつも求め聞く耳をもたなければいけないし学びがひつようです。私は有学の人でその初心者だということです。

悟れる人は無学の人と呼ばれます。それは学が無いではなく、学ぶことがもう既に無い人という意味で仏教では言われます。一体人間が学ぶことが無いという人がいるとしたらそれは仏(ほとけ)そのもの、その名のとおりその方がいるとすれば悟れる人です。

今日私が日々敬愛してやまない先生の血縁の方に出会いました。

敬愛してやまない先生とその方とは当然違う人間です。でも、何故か初対面であるのに私はその方が身近に感じられました。


だって私は先生を敬愛してやまないのです。私は先生の書かれた本によって道がみえ開けてきました。一筋の光明です。先生とは出会ったことはないのだけれど、先生の書物をみれば先生を身近に感じることができます。私がどんなに書き連ねても先生の本に書かれていることに及ばないことばかりです。

ただその方は言っておられました。

「お坊さんというのは、あの方のような方をお坊さんというと思います。色んなお坊さんにあったのだけれど、私にとって他の方は何か違うのです。あの方こそ私にとってお坊さんだった。」

それは私にとってよくわかる言葉です。私は努力すべきことから逃げ、大切なことから目を背け続け、やらなければいけないことから逃げ、自らを理解することからも逃げ、目前や身近な方を理解することからもわからず、こういうことを書くと後悔と葛藤と懺悔しかでてこない情けない私しか出てきません。

でも、そんな私にとって先生の書にであって私は私の道が何なのかというものが漠然とながら理解することができました。

その先生は「宮坂宥勝」先生です。


私は愚かだからいつだって理解されたいと願っています。誰かを理解したいと願うとき私は私を理解してほしいと思っているだけのことです。

先生に限りない感謝の言葉を彼に伝えた日でした。


(彼にとって迷惑な日であったように思います)

 性格的なもので日常が当たり前に流れていれば、そこで勝ったとか負けたとかとりたててそんなことにとらわれなくてもいいことです。

何かを成して「おーこれは我ながら上手くやれた(のでは)」ということが時折出てきます。ただ嫌味ではなく自然とその上手くを圧倒するものを身近で出されたりすれば、負けたとか、負けないぞなんてやはり頼まれてもいないのに思ってしまうことがあります。

皆が助かること、仕事がうまくいくこと、人間関係が円滑に楽しくなること、面白いくなっていくこと、学びがより深く進んでいくこと、生きていく喜びとなることなどであれば、いくらでも負けていいから誰でもいいから身近で出してくれれば有り難く・楽しめ・学び多く・大歓迎です。

世の中は矛盾と葛藤や不如意に出くわしたくなくても出くわし、時折その真っ只中に知らずにおいてくれるものです。

とんでもないものに不意にでくわし何故か口にするのです。

「あれはどうやっても勝てんわ・・・・」

「そりゃ無理に決まっとる。

場所もわきまえることがない

手段も択ばない

知性や品性や人としてなんて、そんなこと少しも考えてないのだから

そんな人に勝てるかいな」


そういえばスポーツなど厳格に詳細で平等なルールを設け、その範囲の中で勝敗を決めます。人間関係の中で道徳・倫理・品性・人道的・愛・やさしさ・思いやりなどを無視して、ただ自らの利益を守るため・マイナス要素はすべて受け取らずとにかく誰でもいい身代わりにおしつけ・誰かを悪くすれば問題ないなどのことを平気で行う方と普通のことを普通に行うということは難しいことです。だからといってこちらは相手に礼を失わず・自らの品性を損なうことなく接するよう心掛けなければいけないことです。

私は身近でどのような方にも礼を失わず、できることを惜しまない方をみて尊敬しています。私にはとてもできないことを平然と行われているのをみて

「どうしてどなたにも変わることなくそのようにできるのですか」

そんな簡単なことが分からず何度も何度もたずねたことがあります。

「簡単なことよ、もしも相手がどうしようもないことをし続けている人やどうしようもないことばかり言う人でも、それと一緒に自分もあわせたらその人と自分も一緒になるから、私は一緒になりたくないからあたりまえのことをしているだけのこと」

そう笑顔でいつも答えてくれます。さらに愚かな私は理解できないから問うのです。

「何故自然にどなたにも優しくできるのですか」

「簡単なことよ

よっぽどの阿呆でなかったら、できることをしてあげてたらそのうち理解してくれる。

ずっと続けても理解することなく罰当たりなことをそれでも続けるとしたら

その人はよっぽどの人やな」

私はそのよっぽどの人とその方のようにふるまうことが未だにできていません。


いつだって腹を立て、何故そんな誰かを困らせるようなことをするのか、少しは考えたらいいとか、そんな雰囲気を周囲にふりまいてしまってばかりです。また優しい方はそんな私へ教えてくれます。

「理解できるのだったらとうに理解してる。考えれるのだったら考えとるよ。理解する気も考える気もない人に酷なことを貴方は望んだらいかんわ」


私はできた方にもその反対の方にも負けてばかりです。