にっこり

 毎日なにかしらあって、その何かしらが悩ませたり困らせる要素が多ければ、「いろいろある」と詳細を省き短くいうのです。
ただそれが続くと、いろいろあってばかりになれば困った要素が増えすぎて自らのせいで周囲も更には自らも暗くなるので、納得してないことでも納得したいことでも理解できないことでも理解したいことでも、ひとまず肯定してみるのです。

「うまくいっていなくてもいいんやで(ニッコリ)」

泣きながらでも怒りながらでも恨みながらでも憎みながらでも、笑えればしめたもの。

誰かがまたどうしたらいいか、もう自らの中で決まっている答えを悩んでたずねる雰囲気をだしてきます。大人の(を装う)私は笑顔で

「思うようにしたらええんやで」

こちらへ向かって私のその対応に困ったなあと思う人には

「もっと困ったらええんやで」

そう笑顔で言ってあげるのです。

阿呆なことを言って笑えれば、うまくいかないことが消失しないのだけれど、ニッコリわざとしてあげるんです。


こころから笑うために声を出して一人で泣いたり、咽び泣きしたり、ただ声もなく涙を流してみたり、心から笑うにも少し前提がいるのです。


「泣きたいときには思い切り泣いたらいいんやで」


私はこころからの笑顔で本当に悲しい方へそう言えるような雰囲気をだせるようになりたいです。
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私にとって

 青葉がさらに増え、燕が飛び交い、幼虫たちは山からたくさん下りてきて、用事で木の下をちょっと歩いただけでしたが、
のそのそと腕や肩の上を歩いていました。回廊にも人より幼虫が多く歩いて潰したら困るのでそーっと見ただけのけてきましたが、
これからもっと(かれらの)通行が増えそうなので、歩くときは要注意です。

それにしても鶯の声は美しいです。何のためにないているとか、何のために花が咲くのだろうか、こころほんわかとなれればそれだけでね。

年下の彼がいい空気(雰囲気)をこちらへ出していました。

彼は苦労の年数が長い人と話をしてたようです。忍耐・苦労は人を育てることもあります。凄まじい恨み・怒り・我が身を呪い・時には相手や自らの死を願うことも・この世界が滅びたらいいとさえ思ってもいないのに思いすぎることさえ。

そこで自分をみつけてそこへ少しでもいいから近づこうと願う人は、あらがい・泣き・恨み・怒りながらもどちらへ進んでいるかもわからないけれど、進むのです。

気が付けばという言葉は簡単ですが、気が付けばの年数は人により異なり、長い年数かかることもあり、その段階だって様々あります。ただ無上という言葉がここに当てはまることは確かです。この上なきと訳すことが適切です。上がないことなので今が最上だと自らが思い込めば下がって時には最下にもなるもの。

今日彼はこう言っていました。

「苦労の年数があの方を素晴らしく変えた。僕には年数や苦労が足りていない。苦労せないかんわ・・・」

彼の今日の言葉には善い空気がかんじられました。

言葉を超えるものはその方のこころをかんじさせられる空気(雰囲気)だと最近は思います。いつもできてないところは多いけれど私に優しい彼に言ってあげるのです。

「あなた、いつもわかってなくてわかった風に言っていることばかりだけれども、今日のあの言葉はいい空気を身に纏っていたよ(ニッコリ)」


私が好き放題なことを言える相手に出会えることは、相手は望んでいないかもしれないけれど、私にとってのしあわせです。




今は

 見知らぬ土地で見知らぬ職場で見知らぬ人たちと過ごしていたこちら(徳島)へ来たばかりの頃、長男坊が生まれ、自らによって作られたこころや環境に悪いことだけ目が行き、とらわれ偏り、あの子の可愛さやあの子らしさに気づいてやることができませんでした。

長男・次男・三男が生まれたこと、何かを補うことが足りてきたこと、出会う方が少しずつどういう方か少しずつ理解しようと努めてくるか、単に時が流れただけか、視野は相変わらずかたよりやとらわれがあるままなのですが以前とは違う景色を見ようとしています。

「けいくん(三男)」の授業参観へ家内の仕事の関係で行ってまいりました。午前中それで時間は過ぎていき、晩に家内が

「けいくん、どうだった」

「いつもといっしょだったよ」

「やっぱり」

そのやり取り短いものです。


あの子はあの子です。


可愛いところも幼いところもしゃべり方も良いところも悪いところも普通のところも、あの子はやっぱりあの子です。そんなことを思いながら長男や次男の時そんなことを思ったり言ったりしていないことを思い出しました。

ただそれがとても良いように働くか、悪く働くかは私次第で、あの子達を見ていればまた私の教え方示し方言葉態度それを思います。私が出来すぎていればあの子達も出来すぎるなんてシンプルな話ではないです。むしろ私が迷惑そのものであることだってあの子達が格段に成長することも多いです。

私にとって優しいとか・甘いとか・多めにとか・しっかりとかそんなことがどうなるかがわからないことばかりの手探り状態です。以前はこれを不幸とか誰かや何かのせいとかにして現実を過ごしていました。

今は大肯定で笑うしかないです。

ふつうに

 苦手な方が多く、その中でも特に苦手な方が近くにいればどうにもこうにもその場から離れたくてしょうがなくなります。
どうもですよ私が苦手だと思う方にも私なりの段階があって、苦手の中でも凄く苦手な方がいてはいけないのにいると私は強く思いこんでいます。
一緒に楽しく笑っていたいなら、普段から皆にそれなり(普通)に振る舞ってくれればいいのに、いつも身近な方の悪口か自慢・自らにとって利益のあることにしか直結していない思考や行動ばかりだと、阿呆な私だからそんな方を苦手と思ってしまいます。
かたよりにとらわれる私、私にやさしい方が好きで、いつも(大したことはできないけれどと)自分にできることを続けてくれる方が好きで、かえって迷惑になるかもしれないけどこれをどうぞなんて方が好きで。
困った私です。対極にあるような方を同様に心から好きになれず、些細なことで悩み苦しみます。
誰かが私へ教えてくれました。
「一緒に笑って、同じ時を過ごしたいのだったら、常から自分勝手なことばかりしてないで、普通にしてたらいいのに」
(「皆と一緒や常を普通にできないから、苦手だと私は思い込んでしまうんですよ」何て言えないしね)

いずれにしても私が苦手と思い込んでいる方も私も同じで都合がよすぎです。ここはお互い常の言動を良くするように自らで努めていくしかないことです。
同じ答えになって、自らが感じ思う「得意な人・好きな人・合う人・優しい人・慈悲ある人」がいるってことは、
人間の数だけ人間は存在して一人も同じ人は存在しない。
ここもまた自らが感じ思う「得意ではない人・好きではない人・合わない人・慈悲があるとは思えない人」には当然出会うことになる。

「あー、自らが善いものと思うしかない世界があったら行ってみたい」

なんて大人になった私はそんなこと言いません。

誰かに理解してほしいとおもって私も私が苦手な方も同じことを思っているだけの事でしょう。

「理解したくても、理解できるとは到底思えない(ような言動ばかりであれば)」

また私は苦手な人を自らでつくりつづけているようです。

 「ない袖は振れぬ」ちっとも格好良くないのに、無いものねだりではなくあるものでなんとかという意味合いで私のことをよく知っている人には使います。

また懲りずに夜更かしして眠い日でした。

子供たちは皆元気ですが、家内が少し仕事や体調がおもわしくないようでした。早く元気になってくれれば。体調がよくないのにいろいろと相談や大切なことを決めていかないといけないことが重なっていたので、明日元気になっていれば冷静にすすめていこうと思います。

よく知っている方には状況の説明が必要なく、「何故・どうして」という質問やその答えに時間をとられたりすることもなく、踏み入って現状を少し言えば理解できてくれる関係というのは本当に助かります。

わからないことはもう少ししっかり聞いて進めていこうと思います。そのためにはまず今日しっかり私は寝ること、お酒はほどほどに、できることをしっかりやること。

相手にとって譲れないことがあるように、私にだって譲れないことがあるのに相手のことだけ悪く思ったりする都合のよすぎる私の出現はできるだけ減らしていかないと。まるで近くにいる相手を悪く言えば自らがよくなるなんてことを続ける人に近づいてしまいます。

ちゃんとしないと(私)

ながす

 誰にでも通用する口実ができたことにより、久しぶりに一人でお出かけしてきました。

もう何年でしょうか19年の付き合いになる先日訪ねてくれた友人と待ち合わせの場所へ車を走らせました。準備万端で出かけたはずなのに、ついてみれば必要なものを忘れて、焦って友人へ頼み無事に解決。持つべきものはやはり心を許せる方、あの人にも私は今より果てしなく愚かな頃から助けられてばかりです。

職場を徳島へ移して間もないころ、自らのことも周囲のことも現実のことも私にとって大切な人のことも何もわからずただ悪いと思い込む方だけを恨み、自ら作り続ける重い思いや学ぶことの皆無さや努力・忍耐をすることすら思いつかず、愚痴をこぼし続ける私に何かあれば駆けつけ、いつもなだめてくれていました。
よく思います。私が困っている時に本当に少ないですが誰かが助けてくれる方がいます。その人たちがいるからこそ私は楽しく笑うことが以前より増えてきています。

今日も知らない場所へ二人でいって、知らない話を二人で聞いて、私は彼より大笑いしながら楽しんでいました。何も与えることのできていない私に、助けてくれたり与えてくれたりすることは不思議なことです。私はあほうだから、楽しく笑うのです。

どんなこともそれが悪いことであれ、近くにいる方へ「さらりと流せ」と合言葉のように言うのです。

今日はそれを友人へもっと望んでいないだろうけれど、さらりと流すことがどういうことかについて話していました。

「こちらへ悪い風が来たらそれをさらりと流せが第一の意味で言っており、これを皆がさらりと流しているのに自分のところで変に止めてしまえば止めた本人が問題となってしまう。
ここから例えば淀んだ空気で困っている場を自らを起点として爽やかな風に変えさらりと流せというのが第二の意味。
第三の意味は意表を突き流すところを止めてみたり、風の色を変えてみたり、勢いを変えたり、何もできないと思うときには自らのこだわりや変なことはすべて捨て相手の思うように自らを無いものとして風を流せ」

それを長くいってもきっと「そんな難しいこといきなりできません」なんて言われたら本人はかなり今より困るので、短く「さらりとながせ」そう最近のはやりとしていっているんだけどね。

なんて仏教の話ばかりの間に世間話をいれときました。

「そんなことを言うあなた(私なんだけど)できてるんですか?」



その質問はさらりと誰かに流して私は楽しんで笑うのです。

今日はウイスキーがお好きな私です。

 本日は仕事、ただ普段の机の前での作業ばかりではなく、車で送り迎えが何度か入り、散った春の花の後に萌えるような若葉が鮮やかで、日の光を受けさらに眩しく見えました。

職場は三方を山に囲まれその前に通る道路も山沿いに走っていますから、生い茂る緑をみながら「ホーホケキョ」と美しい声が聞こえ、ただその緑を食としている幼虫が山から糸を垂れ出てきており、車窓・屋根・道端・壁に沢山みえました。

ちょうど送って帰ろうと信号でとまれば、斜め前に一羽のスズメが下りてきて止まりました。鳥は愛らしい容姿と雰囲気だと私は思います(例外はあります)。

ちょんちょん地面を跳ねて誰かはそこに何かをみて(私は両親が健在で有難いです)

「われときて あそべやおやの ないすずめ」

元の解釈はともかく、一羽のスズメがチョンチョン跳ねていたら、そんな句を思い出します。

スズメが何かを咥えていました。沢山いる幼虫を食べていました。続いてもう一度幼虫をついばみ飛び去って行きました。あれだけいる幼虫が全て成虫になったらそれはそれで困ったことだなんてあの幼虫が何の成虫になるのかはとんと調べる気もおきず、鳥の声と若葉にこころをもっていかれていました。

言葉に善悪があるのではなく、使う人のこころの善悪が言葉についていけば、善や悪として出現していくだけのことで、ただ「字面のみ」を見てあげあしをとるために見るのであれば、そのような方は正しい言葉を出してくれる機械の言葉を見るしかないのかもしれない。なんて意地が悪いことを考える私です。

だから同じ言葉だとしても、「あの方が言えば素晴らしくなるし、違う方が言えば何故かそう思えない」なんてことがよくあるのだなと思います。


蓮もいくつも葉が出てきています。今年も楽しみにしています。

十年先を

 ここ(今いる職場)へきて当初もしばらくも美しいものを美しいと観るというこころがあるのに最近まで無い同然の日常であることばかりでした。

桜・桃・木蓮・秋桜・チューリップ・芍薬・牡丹・菜の花・水仙・名前はあるのに私の頭の中に名がない花など、理由はわかりません。ただ何年か前から職場の正面に左右に咲く桜(ソメイヨシノかな)を美しいと思うようになり、それから何本かの竹の間に咲く桜色の(西洋)石楠花にも美しいと思えるこころに気づかせてもらい、花をみて人をみて景色をみて、広大無辺な空を見て、果てしない海岸の砂場をみて、流れゆく雲に同じ形が一つもないことをみて、何かをみてそれが美しいと思えることが増えていくように今は感じます。

だからといって美しいものだけが増えているというわけではないです。見たくないこと触れたくないこと考えられないような悪いこと、そんなことにだって生きていれば誰だって出くわすことはあり、嫌で望んでいなくて悪すぎるものが理解できるからこそ、その分の幅だけ美しいものが一つずつ自分に寄り添っていくのではないかと考えています。

他人のことをあれこれという私なんて、誰かから見れば「貴方がそれを言う資格が(貴方の普段だってその方と大差ないのではないか)あるだろうか」なんてことばかりでしょう。

それでも、美しいことにはこころが喜び、悪いことであればこころが嘆きます。いつもの如く困った私です。

今日は年々成長してその枝葉に美しい桜色の花をつけ見る人のこころやその日を喜ばせてくれる(西洋)石楠花と同じものを彼は5つ植えていました。

彼は願っています。

「一年先を思いては花を植え、十年先を思いては木を植え、百年先を思いては人を育てよう」

私は蓮の花を植え可愛がっています。一年先を思いてまだ見ぬ今年咲くであろうあの花を見ています。

彼は石楠花を見てこころが満たされています。十年先を思いてまだ見ぬあの数えきれない位の石楠花の花をみているのでしょう。


私自身ができていないのに、他人にはいつも大きな夢や理想や成長などをおしつけるかのごとく願います。


私はただの絵に描いた餅をみているだけです。


百年先(私は生きていないでしょう)けれど、何であれ笑っている人やしあわせや美しく思えるもののために何かしたいと願うのです。

ながれ

 ゆっくり仕事を進めていきたいはずの日が、飛び入りのことが増えそれなりに時間と人に追われていました。
落ち着いてきたらまた用事が入り、挙句思わぬ来客の連続、私が人気者だからというわけでは全くないのでただの仕事ですから、やっぱりそこはゆっくりまったり仕事が進めていければなんて贅沢なことを思っていました。
そこへ大学を出て知り合った友人、ひょこっと尋ねてきてくれていたようです。少し離れた場所で来客中で取り込んでいたために終わって帰ってくれば

「もう早く帰ってこない(あなたの話は長くなりがちだ)から、お友達の方がみえてましたよ」

そういつもお世話になる方が教えてくれました。

「近くへ用事できていたから、終われば寄ってもらうようお願いしときましたよ。」

仕事をしながら待っていれば、にこにこしながら遠くから現れました。出会った時から文学青年でした。私は大学の頃や出てすぐの頃、本なんて読むことをどこかへやっていました。その情けない言い訳としての理由ならばいくらでも出てきます。

簡単に言えば、大切なことから目を背け誰よりも(誰にもまた頼まれていないのに)必死に逃げていただけでのことです。

それもまた取り返しのつかない後悔の一つで、現在の私が成り立つことでもあり、皮肉な話です。

彼は最近「太宰治」をまた久しぶりに読んでいると教えてくれました「人間 失格」身振り手振りで楽しそうにその文学の素晴らしさを称えてました。

「そういえば、あなた文学青年だったもんね」

彼は過去に読んでもちっとも面白くなかった作品が、最近読み返してみるととても素晴らしいものだと目を輝かせ話しています。私も当然対抗します。

「そうそう、以前ならばちっとも面白くなかった仏教書や文学作品、今手に取ればピタリと寄り添って言葉一つ一つが輝きを放って見えるし、なんで若い頃これが素通りだったのかなんて思うよ」

そんなことでしばらく話が弾みました。その間にも来客と電話があったり、ばたばたして別れました。また違う友人にも会いたくなりました。

この世の中に数えきれない程の人がいて、その中で指を折る必要もない数の友人。それぞれ友人の色は違って見えます。私があの人がとっても好きだと思っていても、相手はそうでなかったり私よりもっと合う方も当然いるでしょう。

私の悪いところですが、相手の思いなんてどうでもよく、私が大好きならそれで私は楽しいのです。


(本当これは家内や親しい人からしたら、悩みの種だし楽しいとこの一つだと勝手に思っています。)


いま何故だか、早く動い(流れ)ています。

ふむふむ

 口を開けば嫌味なことばかり・(自分は何者なのか・できているのかは置いといて)全ての代表であるといった不平不満の成り変わり発言、根性悪いことしか言うことがない。

「(いないと思っていたんですけれど)おられますよそんな方も」

「そんな方いるんですか」

私は全く望んでいないことなのですが、よくお会いするんです。

するとそれを隣で聞いていた方が

「私はそんな方がそのような悪い振る舞いばかりされていれば、上からのような発言で申し訳ないですが

『生まれつきだから』そう思うようにしています。

生まれつきでもないんですけどね。」

「『生まれつき』なら仕方ないと少し思えますね(実際は違うでしょうけれど)」

恥ずかしい私の専売特許の一つ、自の背中どころか言動をみることなく、ただ相手の短所・失敗を言ってしまう。さらにはすぐに腹を立てて口調がきつくなるとか、人の話をあまり聞かないとかあります。(家内に聞けばこれはもっともっと出てくるでしょう)。

家内からしても私がおかしい言動をしている瞬間には「この人は『生まれつき』だから、今もこれからも治らないだろう。」そう思って距離をおかれそうです。

悪いところがどうか『生まれつき』とならないよう、過去の愚かな言動を無くしてしまう消しゴムはなく、今とこれからの言動によって判断して下さいと都合のよいお願いをするのです。

書のどこかに確か生まれつきの話を思い出します。

「和尚、私は生まれついての短気でして、随分とそれによって困っております。」

「それなら今その短気を出してみなさい。」


私の短気は不用意な発言をせず、少し落ち着いて行動すればよいだけで短気は幾分無くなっていくのです。



(けどやっぱり怒ったり、不用意な発言するんだけどね)

慎みましょう

 特にわけもなく夜更かしをした上に、お酒を飲みすぎてしまい、昼を過ぎても仕事をしながらお酒が抜けた感じがしない。これはきっと独り飲み・夜更かし、もれなく二日酔い。

皆に言うと必ず言われるのです。(次にその例を幾つかあげてみます)

「夜は早く寝てよ」

「どうしてそんなに一人で飲んだの、慎まないと」

「・・・・・・・・」

「身体を大切に」

「誰のせいでもない自分のせいだから、何とも言えない」

こちらも何とも言えないのです。昨日に至っては特に何もなかったのに3時まで飲んでいたと、これは家内に聞かれたら「身体が資本なのだから」と目を大きくして言われるでしょう。なので今日は誰にも二日酔いであることは内緒。
(ここを読めばわかることですが、無名の誰かが日々書いていることをチェックしている方なんて皆無に等しいのです。)

先週末からそんなに日がたっていないのに、今までとはうってかわって物事が進んでいます。このままの調子で問題なく進めばと願います。周囲の理解や助け、あたりまえのことをあたりまえに理解してくれるどころかそれ以上に理解して助けてくれるのは本当に有り難いことです。

有難うと思うときに、「有難う」しか何も言えないことばかり、無駄に言葉をつづけるよりも時にはだまって頭を下げ短い言葉で謝意をあらわすこと。無駄口の多い私にはそんな簡単なことができないことが多いのです。

「有難う」


以前に次男坊へ短く問うてみたことをよく思い出します。

「人はさ理解するために生きているのだろうか、理解されるために生きているのだろうか」

彼は短く即答してくれました。


欲張りな私は誰かに大切なことや深く理解されれば涙が出るほど嬉しくもあり、誰かのことを悪いことも善いこともいつものことも含め愛せると私自身が理解できれば嬉しいのです。


欲張り・夜更かし・お酒など、ほどほどにしないとね。私を見て誰かに言われるでしょう。

「みよ、(煩悩の)火が燃えさかっている」

私にとって物凄く都合のよい火は誰かが燃やしてと頼まれていないのに、燃料がないというのに燃えるのです。

まったくできていない(私)

 大体というかどこでも私は話好き(というか自分が楽しんでしゃべってばかり)です。

これは私が独り言だけでない限り、話を聞いてくれている相手がいてくれるのを前提としています。ただ、私の拙い話を

「あなた面白いな」

そういってくれる人がいるので、話はまたもっともっとしようと相手のことはともかくこちらは勝手にそう思い込んでいます。誰かが私の話で飲みかけたこーひを「ブー」とふいてその辺を汚してしまうくらいに面白かったら、私は嬉しいです(本当にそんなことがあるなんてコーヒーを礼を失わない女性がして、嬉しかったことです)。

家内へもだから自らの背中は見なければいけないのに、背中の全体像を私は見れないから、思いあがった自己判断で余計なことや望まない答えや、相手の話を聞かなかったりして、一番家内へ迷惑や負担をかけてしまっています。

私を信頼してくれて、いつもできるだけのことをしてくれている女性の方が本音をいつも言ってくれています。

「話をね、解決できなくてもいいから聞いてくれるだけでいいのよ(女性は特にかもしれないけれど)、聞いてくれたらそれでいいってことはあるのよ」

男性からしたら解決せねばいけないと思うことと、女性は本当に女性なのだなと考えさせられることでした。

ここからは言い訳であって、本音なんですが誰かが困ったことがあって悩んでいたら、最短・最速でその原因を取り除く答えを用意してあげなければ、愚痴や解決できないままほっとくことができないことが続くのは悩みの種に思ってしまう男性の代表格の私としては、「聞くに徹するのではなくて、問題解決の答えはこれですよ」と言いたいくてしょうがない、相手の思いをくみ取ってないことばかりでなんら相手の問題を解決できていないことを言い続けてしまう、ただの愚かな酔っぱらいは言ってしまうのですよ。

明日は長男坊の家庭訪問の日です。家内が仕事の都合で出れないから、職場にお願いをして先生と長男坊の今後の指針をお願い申し上げる予定です。

長男坊は私と違って、生まれながらに天からもらった才能があると私は親ばかだから思います。

彼は私に言いました。

「お父さん、なんで次男坊とオレに対して望むところが違うの(それは本当に納得がいかないよ)」

「簡単だよ、あなたは生まれながらにして、私よりよっぽどよく回る頭を天からもらったのだからそれを鉄はほっといたら錆びついてしまうのだから、人間だって努力やあらかじめなされるべき努力をしなければ、折角もらったものだってその錆によって本体をくさらすしてしまうものだよ。

私を恨むんじゃなくて、それを授けてくれた天を恨め」

次男坊はあなたと違って誰よりもよく動き人より良く動く体をあなたと違う身体を天からもらっているから(クラスでリレーでアンカーを務めたり陸上競技に推薦してもらえるくらい動ける体を授かっているのだから)、、水の中でしか魚がすめないように、陸には陸上生物しか生息できないように、空には空しか飛べない鳥しかせいそくできないように、その人にしかできない分相応があるのだから、人としてその人に与えられた分をわきまえて、それを知ることが自らの成功への道だと、私は今そうおもっているのです。

さて、三男坊は長男に傾向が似ていて、あの子を伸ばすには長男坊の傾向を伸ばすように付き合っていきたいと考えています。

両親が育てたように子は育つと九州の名物和尚が法話の中で言っていました。それはその通りだと痛感します。あの子らができていないところは私と家内ができていないように育てたと思います。できたところは私と家内のお陰ではなく、あの子達自身の努力と継続です。

そうでなければあの子達はしあわせになれないと私は現在考えています。私の考えは時とともに、移り変わりゆくものでその時そのとき私の愚かさや学びによって猫の目のように私が学ぶかぎり変わるのだと思います。

私が学ぶことへの努力をやめたとき、私は老人であるのだと思います。

アビラウンケンヌーン

 「嬉しいことは距離を出来るだけ早く近くへ、できればその距離が感じられないほどに」

嫌なことはその反対のことを人一倍願うときがあって、冷静であればそれは都合がよすぎることだと表面上は納得しようとする私がいます。ただ本心から納得がいくかなんて私にほとんど出会わないということが余計に悲しいのかと考えることがあります。

「人は生まれながらにして仏である」

そのようなことを仏教書を見ていれば似たような言葉がのっています。赤子や幼児に見受けられる純真無垢さや素直さ、悪いことを何一つ思わさない言葉や仕草を見ればそれもそうだと納得するときがあります。
ただ現在40も過ぎた私は赤子でも幼児でもなく、当時の面影なんて過去に撮った写真や周囲の思い出の中に存在を感じたり、子供をみてそのような時が誰にでもあったということを再認識すること。

宮坂宥勝先生の簡単に書かれてある「密教の真理」という小冊子を最近は何度も何度も自分なりに理解しながらゆっくりと読み進めています。仏教書を真剣に読もうと思ったきっかけをくれた方は「あなたは資格をとったほうがいい」そう言われ、言われた専門より先生の本「(生命の海 空海」)を何故か手に取って「この本を理解して読まなければ私はこれから先へ一歩も進めないだろう。だから絶対に私なりに理解して見せる」そうあの時何故手に取った本が先生の本だったのか、それは今をもって謎なのですが、お陰をもって誰かに私の拙い話などを聞いて喜び、自ら学ぼうとする人が「どなたの本を読んだらいいですか」自信をもって「宮坂先生ですね」そう答えていました。あれから何年もたって割と読了した書が増え、敬愛する先生方も増え、好みや願うところが明らかになってきました。
私は宮坂先生が好きです。

弘法大師の説く密教では六大(ろくだい)の解釈が素晴らしいものです。六大とは仏教で説く五大(ごだい)と識(意識)、先生はこれを平易に説明されています。五大とは地・水・火・風・空のことでつまりはわれわれを構成する要素、われわれを取り巻くこの世界も同じように五大に一つ識を加えた六大で構成され、われわれも六大(ろくだい)で構成されている。この世界はほとけでありいきいきと過去も現在も未来も法をときつづけさとっている。このわれわれを内包した世界とわれわれは構成される要素がおなじであることから、世界がほとけでありさとっているのであるから、同じ構成要素をもつわれわれもほとけでありさとっている。われわれだけでなく一輪の花・山川草木すべてがほとけでありさとっている。しかし我々は凡夫(普通の人間)であるから自らの作り続けるとらわれによってその真理が秘密となっている。ここに秘密仏教略して密教と言われる所以もそこにある。

われわれの正しい知恵がないばかりに正しいものを正しくみることも理解することができず、ありのままにみればそれはほとけでありさとりであり真理であるものを覆い隠してしまうと。

残業で遅くなり、酔っぱらって何を書こうか迷った私は、宮坂先生にすがるのです。ただ私なりの理解ですから少しというか随分先生より私よりの解釈となってしまっています。間違いや真理を貶めている要素は私がその報いを受け取らなければいけないので、酔っぱらいという一言で良識ある方には勘弁してもらうことにしていただきたいものです。

高野山奥の院へ向かう参道にはおびただしい数の墓石が弘法大師を慕いまつられています。その墓石の形は圧倒的に五輪墓です。そこに密教の密教たる所以があって上から空(キャ)・風(カ)・火(ラ)・水(バ)・地(ア)、漢字で書かれていたり梵字でそうかかれていたりします。お墓にまつってある塔婆も同じその形をしています。

先生はそれを表には地・水・火・風・空(アバラカキャ)はわれわれ(理)をあらわし、裏面にはバンと書かれこの世界の真実なるほとけ(智)、つまりは構成要素が同じものであるふたつが一つのものであることをあらわしている。

真言宗ではお墓や塔婆がその形をしているのは

「そういうことな(ほとけ又はほとけになれる)のだと」

ただそこに自らの思い込みで私は仏だというのではなく、自らの言葉とこころとおこないがその思いについていっていなければただの独りよがりなもので誰もそれを信じることができない。

ここで私はいろいろなことを思うのです。

何か行動されてそこに言葉はないのに無限の言葉を聞くような行動。

ただ短い言葉であるのに何よりも深く高く広く貫いていくものを感じれる言葉。

わたしや皆へ、どこまでもどこまでも響きしみわたる誰かのこころ。



私は先生が書くことをみて、今日もまた何かを思うのです。


 同じものを求めているのにそれをあらわす方法は人によって随分変わるものだと痛感します。

「悟りとはどういうものですか」

「それはとてつもなく大きな響き渡る太鼓の音をあらわして」

ドドーンじゃ」

では瞑想の極致とは(実はこれは悟りの一面をあらわす言葉なら何でもよいのですが)

ドドーンじゃ」

大いなるまばゆき真理とは

ドドーンじゃ」

如来とは

ドドーンじゃ」


質問も答えもずっと同じものが続くように思います。

元の禅問答と少し私なりに変えていますが、答えはこれ一辺倒です。

私はこれ初めて目にしたとき、皆目見当がつきませんでした。

(私は真言畑で生息していますが)禅で攻めるとして、ある方は面壁九年、壁にむきあって手足が朽ちようともその場を動かず座すことで大悟するかたもいれば、悟りをもとめつづけ長い年月修行に明け暮れ、ふと掃除をしているときに箒によって跳ねた石が竹にあたった「カチーン」という音で大悟した方もいれば、長い年月身体を厭わず座り続けもう悟れぬと立ってよろめき倒れ壁によりかかり吐血して大悟した方もおられます。
その方たちは自らが自らの精進によって得られた悟りを言語道断としてその方たちの心によって一種の空気というか雰囲気を出しておられます。

「隻手の音」

それの答えもまったくもって答えも意味も何のことやらでした。今はそこに無限の響きやいのちを私のこころは出してくれます。

「大いなるものを言葉としてあらわせるか」

そこであらわすことができないので、言語は道を断つものです。私は真言だからあえて罪・咎・報いを受けることを承知で言葉をもって正しい言葉に憧れています。

これが愚かで本質を理解していない、夢を見ている私をいつも出現させているということです。

「卵が先かニワトリが先か」その答えはどっちでも私にはよいことです。言葉が後か先か、いずれにしても何かを発さないとそれに対しての答えはでてこないものです。

それが言葉なのか、その方のもつオーラのような風格なのか、行動なのか


私は安易に言葉にすがって、それによって先に言えば身を滅ぼすような結果ばかりです。


何も言わず、ただ黙って親身に受け入れる私であればそれはなくなるのだと思います。



本当に私は愚かです。

わたしの

 ちょっとした原因で口論になりました。

もっとも感情的になりやすく、痛い言葉やくだらないと勝手に決めつけて思う他の誰でもない私の愚かさが撒き続けた種によることです。

誰もが収穫したがらず迷惑になって、責任の所在や誰が後始末をするのかという現状が持ち上がれば、それは当の本人が刈り取ってしまうしかないだけのことです。

①自分のことは親身になって聞いてほしいのに、人の言うことは誰よりも聞かない。

②痛いことから目を背け、安易な解決方法を言って、痛い思いを処理すること引き受けなければいけないことを当の本人が周りには押し付けるのにそこから逃げ続けている。

③周囲には忍耐や辛抱をしろ、話をするなというのに、自分は特別だから容認するしかないという。

④当の本人はおかしいことを言うのに、相手がおかしいことをいえばそれをおかしいといったり認めない。

⑤そうかといえば自らの悪いことを真似されれば誰よりも感情的になって極論しか言わない。

⑥聞くことの意味をその人(私)は知らない。

ひどい現状のことを書きましたがそれは今までも今も続けている私のことです。


悪いことをいくら形だけ謝罪したとて、現実や未来において反映されなければ、懺悔や謝罪なんてただの嘘です。それはこれから私がの言動をみて他者が判断することで、私の独断・偏見や感情的な思い込みや相手に言わせない程の言葉の羅列でしょうめいすることではないです。

どこかの天才が言っています。

「理想や夢や善を求め続けるというのは、そうではない現状だから求め続けるものだ。」

本当に痛いものです。

誰かが私に何度も忠告してくれた優しい言葉を思い出します。

「反省なら猿でもできるけんな」

猿よりも劣る現状の私は少しずつ少しずつ良い方向へ行くよう努めていきたいです。

持って捨てすぎ

 一昨年、種から気分的に育て始めた蓮。昨年は七鉢あるなかからといってもその中の二鉢はレンコンとして食べられる蓮の種と残りは花蓮の種を発芽させ、二年目(昨年)の夏、鮮やかな薄紅の蓮が一輪咲きました。(プロフィール画像はその画像を加工して小さくしたもの)

花は永遠に咲かないものです。やがて枯れてしまい、その代わり種を育てる花托が大きくなり、後に「はちす」と呼ばれる部分が出来上がってきます。無事に種が取れた後、私がいつも仕事をしている机の右上にしっかり乾燥させて干からびた状態のその蓮はずっと飾っています。あれから咲いた夏の後、秋がきて、冬が来て、今春です。

どうやら無事に越冬できた蓮の根、鉢の幾つから、芽が何本も出てきていました。

これまた無精の私の出番で忙しいことを言い訳に植え替えをすることを忘れており、植え替えの時肥料をと思っていたことも忘れて、急いでまにあわせにほんの少し手入れして肥料を少しあげて春までの間に木々から落ちていた枝や水草を取り除いていると、一鉢の中にヤゴがかなり成長していました。そういえば蓮の花や葉の上によくトンボが止まって、蓮が好きなんだなと思っていましたが、蓮が育つ環境が好きな(自らにも適している)のですね。

予算が出れば見栄えの良い蓮の容器と新たに土を購入したいところです。

持っていなければ何でもお金で解決できやすい世の中で便利、あまりそれのない場合は解決できにくいことも多いとか、もう少し調べて手段を探してみることにします。

先日とんでもないクレームを目前で私の知っている方へ激しく発しておられました。それを一つも受け取らずさらりと流しておられましたが、クレームを言う方の発言内容は支離滅裂ではありましたが、「私に感謝しなければいけない」と滅茶苦茶なことを言う中で印象に残りました。

よく感謝を忘れる言動の私です。誰であれ何か教えていただいたり助けてもらっているのですから、感謝を忘れないようにと今日の反省とします。

やまい

 休日以外はあたりまえですが仕事、本日は仕事の日、朝から周りが落ち着かずばたばたしており、冷たい私は客観的に振る舞いあわてず落ち着いたふりをして騒がないのです。

慌てた人と一緒に慌てるというのも確かに一つの方法だと落ち着けば考えます。ただ他によい解決方法が見つかっても見つからなくても、慌てる人と慌てずしっかり考える人は対であることが理想的だなんて、冷たく思うのです。
慌てた人の慌てる原因をみて、それを早く解決する手段をみつけ、そのために動くことが静かで落ち着くつまりは騒々しくない仕事ができる環境だなんて、本当に冷たい私はその人の身にならずそんなことを思います。

私自身が慌てふためいて、聞いてほしいとか、あえて騒ぎたいとか、うろたえたいとか、手に負えないとき、そんな時に一緒にと思うことがあるのに、誰よりも烈火の如く怒り狂ってみたり・ただ冷たくみて静かに早く処理するかなんてことをするから、時折私のことを

「あなたは計算高い人だ」

なんて思われたり言われたりすることがあるから、そんなことを言う人で思うことを言える人には言ってあげます。

「計算高いという言葉を広辞苑で引いてみるといいよ」

ここを読んでいる人の手間を省いてと

「計算高い」 損得に関して敏感である。打算的である。感情高い。
広辞苑第六版より引用




私は学や知識が乏しいので広辞苑を引くとその中の言葉をもう一度(実際には二度三度)私のために引かなければいけません。

「打算的」 物事をするのに、損得を考えて取りかかるさま。勘定高いさま。
広辞苑第六版より引用



もう一つと

「勘定高い」 金銭の勘定が細かく、けちである。また利害に敏感で打算的である。
広辞苑第六版より引用



さてと、私はいつもここへ地位・名誉・肩書・財産(金銭)にかなり縁遠いただの従業員その1でつまりは40も過ぎているのにヒラです。持っている人が私によくそんなことを言われる方が多いです。財産と地位・肩書・名誉を私より格段に持っている方が私に「計算高い」とか言ったり思ったりする理由が落ち着いて考えても思い当たることがないことばかりです。

今日は大切なことが順調に進んでかなり祝杯の赤ワイン(破格に安いびっくりするほどの)を飲みすぎてしまい、嫌味なことを書くよっぱらいは本来ならば正しきことに使うはずが私自身のくだらないことで病にかかってしまう愚痴のようなことをここへ書いてしまうのです。

正しき仏教者は(私に)書の中で語りかけてくれます。

知恵は正しいもの、その知恵が病にかかってしまえば、知にやまいだれがついてしまい、それは愚「痴」へと変わる。



そのようなことを私の敬愛する先生は書かれていました。


身体もこころも知恵も、やまいにかかってしまうと困ったことが自らにより随分増えると痛い思いをする私はここへしるします。

メモメモ

 仕事中でも家庭でもしなければいけないことをうっかりと忘れていることがあります。
仕事の中でうっかりが続くとそのうちやすぐ悪いことが訪れてくれます。ですので最近はメモを取ることにしています。

メモの使い方もただメモを取るだけでなくて、相手によってへそ曲がりな私は使い方を変えます。いつもメモをとっていれば相手に釘をさすような雰囲気をだすことだってできたりします。

誰かに言われたことをメモするより、自分が思いついたことを忘れないようにメモして落ち着いてからそれを考え直していくことが最近増えました。それがどうでもいいことでも割と考えて形にするように、それがまた全く使えないということでおかしくて笑えます。ここも日々そんなようなものとなっています。

ただ仕事で忘れることは随分減ったように思います。メモがどうしても取れない時には周囲の人へ

「今全部頼まれたことは終わったけれども、他に何か頼まれてることや未決の分はない。」

そう言って周囲の方へ何かを分散させ、私が忘れていることがあればその時注意してくれますし、後からでも教えてくれることが増えました。もう少しこれについては煮詰めていこうと考えています。


大切なことを早めに前に進まなければいけないです。

今日は昨日遅くまで夜更かししてお酒を飲みすぎてしまい二日酔いと睡眠不足でこまったさんでした。今日はお酒はだから無しです。早めにメモも取らず寝ることにします。

酔っぱらいのたわごと

 この日々書き続けるブログにタイトルがあってサブでカテゴリがあるのですが、書いていれば雑で気分やの私にとって「わたくしごと」というカテゴリが増え続けています。

さてこの「わたくしごと」というカテゴリは私にとって本当に都合のいいものです。趣味を書いても家族のことを書いても愚痴を書いても、極々稀にでてくる高尚なことを書いても、よく出てくる仏教的なことを書いても、私が思い感じることなら「わたくしごと」ですべて片付けれてしまいます。

しかし、「わたくしごと」というカテゴリが存在するためにはやはり他のカテゴリが必要となるので、面倒くさいことですがあえて他カテゴリを設定せざるをえないので設定しています。

結果ですよ、私の不精な性格とよくわからない日々の思いは「わたくしごと」にほぼ分類されてしまいます。例えば、家の長男は私が父の目線から見てかなりイケメンです。母の目線で見てもイケメンに分類されているようです。客観的に父の目線を捨て、他者の目線で長男坊を見てみます。

「中二になってますますかなりイケメンです」

あの子(と家内)に聞こえるように言いました。

「見る目と顔がいけてる父母(それをつなげてきた先祖)に感謝しなさい。」

二人とも笑っていました。


辛抱・苦労・不如意(意の如くならざること・思うようにいかないこと)・努力を続けなければ軽んじられること、そのようなことが多いことが人としていきることだから、たまにはおかしいことがないとやっていけないのです。

どんなに仕事でうまくいかなくても、思うようにいかない人生だとしても、その中であほになって思い切り笑いあえることが増えれば、それはそれで上手くいくと最近はおもいます。

「あなたばかだね」

それは時として最高の言葉です。

私にいつも優しい方が時折大笑いしたあとに言ってくれます。

「賢い方でないとあほになれない。ただの阿呆は阿呆しかできんからな」


くだらない身内自慢と、自らの長所を自慢して笑ってもらえればそれはそれでいいと酔っぱらいは思うのです。

身勝手

 通園途中にある梨の花が一面に咲いて美しいものです。夜次男坊を七時前にスポーツへ送っていく途中、空の明るさについての話になりました。

「まだ暗いね空、最近なら七時前でも方角によれば明るいところもあるから、随分日が長くなってきているのか」

「そうだよ、冬とか五時過ぎたら夜かと思ったもん」

暗くなりかけの夜空に三日月が浮かんでいました。

小学校の側を昼前に通りかかれば、入学式のため大きなランドセルを背負った新小学生一年生やその父母が入学式に参加していたのが見えました。「けいくん」を幼稚園へ迎えに行って帰りに

「来年は、けいくんもあの小学校へ一年生として通うんだね」

「おにいちゃんだね」

他所のお家の子供は大きくなるのが早いですが、気が付けばあの子達も大きくなっています。九州の名物和尚さんの法話に

「子供は親が育てたように大きくなる。子供がそうなっているのは親がそう育てただけのこと。誰のせいでもない。」

そう愛情をもって厳しく言われています。胸が痛い言葉です。

ひねくれている私ですからすべてそうだとは思いませんが、確かに素晴らしさや善いことや良い習慣など豊かさ人間性はいつも時間を長く過ごす方に左右されるものだと痛感します。

「いろいろと手遅れだった」

「失敗ばかりだった」

そんなことを誰でも考えるでしょう。私は人一倍そんなことを考えるたちです。けれど、できることから後に延ばさず自分ができていなくてもむきになってあの子達と向き合うようにしています。


悪いことばかりの私をみて都合のよい願いを持ちます。どうか反面教師としてみて、あの子達が学んでくれますように。