幾日かぶりにあの子を幼稚園へ送り、あの子の足を見てはっと気づき

「上靴わすれたね、今日一日辛抱できる」

「おとうさん、くつもってきて」

まだ幼いあの子の頼みにいつも身勝手な私でも「嫌」とは言えず、往復してきました。

その関係上何故か普段使わない道を通勤することになり、ちがった景色に見とれ、道を間違えて引き返しました。目に飛び込んでくる鮮やかなピンク、もう桃の花が満開で、道中でも桜や花、黄色い菜の花がいたるところ咲き、景色を彩っていました。

先日「けいくん」へ本を読んでいるとき、蝶についてのっていました。

蝶の羽が何故きれいなのか?

答え、昼間に活動することの多い彼らは羽の模様を眼を使い見て仲間と認識しているので、それぞれ種類によって鮮やかな模様が羽に特徴としてでているからだとのっていました。

蛾は何故きれいじゃないの?

答え、夜に活動することの多い彼らはにおいで仲間を認識するために、羽の模様にはそれほどこだわっていないため蝶ほど美しくないことが多い。

それと、蝶は花ならば何にでもいくわけではなく、種類によって花の色を認識できる色が決まっているので、生息地と時期が同じであれば、
その蝶が認識できる(はたで見ていれば好きなとでもいうか)決まった花にあつまる。

しかもどこに蜜があるか私たちの眼では判別できにくいけれど、蝶には紫外線がみえるので蜜の場所がはっきりとわかるとのっていました。

(花から蝶へ、話がとんでいきすぎました。)

花が咲き 蝶が舞う 青い空

あの子は昨日お外で遊んでいる時にそれを私へ教えてくれていました。

朝晩はまだ冷えていますが、春です。


いつまでも冬ではなく、私もおおらかにうららかに謳歌できるように努めていきたいです。


そうそう

「桃の花は何色なのか?」






桃の花は、鮮やかすぎるほどの桃色です。
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ゴロゴロ

 休日の前日の晩は随分と肩の荷が軽いというか、浮かれている感じです。けれど休日の前日がいつもそうかといえばそうでもなく、昨日は休日前を満喫しすぎて、晩2時過ぎまでお酒を一人で飲んで浮かれている始末。

休日にやらなければいけないことを聞いていてもすぐに忘れて趣味に没頭してみたり、ゴロゴロしすぎてみたり、とにかくゴロゴロしていみたり、とにかく寝ていたりするので、家内へやらなければいけないことを紙に書置きしてと頼んでいました。

朝起きてというか、夜更かしのため起きることもなく惰眠ぼむさぼっていた私に三男坊が起こしに来てくれました。まだ幼く小さく可愛いあの子に頼まれれば嫌と言えることは少ないので、一緒に階下へ。
あの子も今日も休日、割と私の横で一緒に長く寝ていたので家内が気を使って私とあの子を起こさなかったようです。朝ご飯をあの子に用意して、メモに書かれた本日やらなければいけないことを次男坊と私とで行うのです。
「けいくん(三男坊)」はまだしっかりした手伝いより遊ぶことのほうが大事です。というかですよ手伝うと物事が全く前に進まないので、その時は次男坊と外で遊んでもらい。一人で用事を進ませる。子供を誰か見てくれるということは本当に有り難いです。

先日知り合いの方と子育てのお互いの環境についてどう違うのか話していました。その方は私の母より少し若いくらい、子育ての時は大阪にいて長屋だったから皆が面倒をみてくれて本当に助かったと言っておられました。誰かがわが子をしっかりと困ったときに何度も何度も面倒見てくれたことを感謝されておられました。

私は見知らぬ土地へきて、誰かがそのようにみてくれる人はいませんでした。これも時代の流れなのか、私たちのやり方が悪いのか、そういう環境なのか、ただ誰も見てくれなければ二人で頑張っていくしかないだけのことです。むしろ子供たちがうるさいとか子供たちを育てる人たちを煙たがる人のほうが目について嫌な思い出ばかり増えていったなんて、その方へ愚痴をこぼしていました。

あの子達が生まれ、ようやく見知らぬ土地が知った土地へと変わり、誰一人知らぬから知った人が親しい人助けてくれる人が増えていきました。やっぱり私の問題のようです。

悪いことばかり思ったり、誰かが助けてくれるなんて思っていたり、何もしていないのに理解されたいなんて思っていたり、そんな時いいことは少ないように思います。けれど誰かが理解してくれるというか、後になって「大切なあの人」と思える人にであるのはそんな時のように思います。

困った他人ごと

 仕事で休めない間、三人の子供達は家内の実家へ帰省していました。
もう中学生になった長男坊はおじいちゃん・おばあちゃんがお小遣いをくれたり会えることよりも、友達との約束や自分のやりたいことのために、一足先に仕事のある家内と一緒に戻ってきました。
置き去りにした小学生の次男坊と幼稚園の三男坊はできれば長いこと祖父祖母との思い出のために長い日数お世話になろうとしていましたが、収拾のつかない元気な子供たちといとこ合わせて四人であったために、予定より早々と帰宅しました。
いずれにしても家内の両親にはあの子たちの面倒をみてくれたことと思いでを作ってくれたことに感謝です。
 (自宅近くまで送ってくれた家内のお母さん有難うございました。)

少しだけ離れていた子供たち全員、皆がそろえば元気な男の子三人ですからうるさくて元気で収拾がつかないこともありますがほっとします。
今はあの子たちのそんな元気に元気をもらう日々です。長男坊は将来のために少しずつ自らにとって何が必要なのかを考え始めていることが見受けられます。
ちょっと粗雑な行動が多いですが、無口で優しい次男坊は小学生の今を楽しんでいます。
「けいくん(三男坊)」は皆と一緒なら笑顔です。

家内はまだ慣れぬ職場と仕事の中で、家族をみて私を見て心のよりどころを再認識しているようです。

本当に自分にとって大切なことは、忍耐・苦労・努力・善人悪人との出会い・葛藤、によって自らが何なのかが自らを知ることへと本当に望んでもいないことがきてはじめて自分が自分とピッタリ寄り添うことです。

私はまだ私が目を背けすぎたり逃げたりすることによって、私のすべての近くまでも来ていないことが私の現状です。

私より家族が自らを知ることに早めに徹底すればしあわせというものを自らが認識できることだなんて関係あるのに客観的に酒飲みはつらつらとのべて寝るのです。

 「(相手に)問題ばかりだ」という方がいて、初めは「そうなんですか(その相手の人に)困りましたね」とそのまま受け取っていました。
何回・何十回・百を越え(さらにもっと)、よく聞いていなくてもというかほとんど自分に問題もかなりあるのに「相手が悪い」ということしか言わないことがわかってきました。

相手の善い所をみつける才能がある方をみて感心させられます。そのような方と違い「(どれだけできた人でも)揚げ足の取りようはいくらでもある(だから、問題ない)」と教えてくれる方ともお会いしました。
ただ問題点を明らかにして、これから先にその方や周囲の方が困らないようにただ現状を言われているだけかと何度も見ていれば、なんということもなく誰かを悪く言い続け自らは何もしない、誰かが何か仕事でも良いことでもしてくれればそのどこからでも後出しジャンケンのように揚げ足をとるだけのようです。この場合何もしないほうが揚げ足もとられず悪くも言われないのです。けれども仕事としてその場に存在するのであれば何もしないでずっと過ごせるわけもありません。「見ざる聞かざる言わざる」といったことでやり過ごす方が増えその場というか環境でよいことをする方が減ることは考えるまでもないです。

「悪貨は良貨を駆逐する」なんて言葉を思い出していました。

ここはもっと前向きにならなければいけません。何かを行い尚且つ揚げ足をとられる要素を格段に減らし、行動とこちらを悪くしようおものなら「私がすることが嫌なら自分が汗水たらして頭を下げてやるしかないですよ」なんて雰囲気を前面に押し出すだけのことです。

もっともそんなことがいつも即座にできるのなら、私は苦労しないです。

言葉も行動もこころも考えも、良い方向へ進めたいです。逆説的でつらい私の現状、つい自らで悪い方向へもっていこうとするから、自らで自らを少しでも怒るしかないのです。

やっぱり一杯やるしかないです。

誰かにだけ

 意外とではなく、いつも私は他人にだけ厳しいです。
家族は随分とそれで迷惑しているかと思います。職場でも近くの方へよく注意や望みすぎたり、自分にそんなこと言われたら怒るだろうにねえ、相変わらずそれは困ったさんです。

世間の常識として、言うということは言われるということです。意地っ張りなもので言われれば意地をはってその根拠を後から持ってこようと必死になります。結果めんどくさいと思われたりする方は私にめんどくさいことを言ってこないものです。例外として上司とか地位肩書名誉などを持っている方やわざと空気を読まない方などは、私のその雰囲気を無視して言ってくるものです。

特に私の近くにいる人は、私がよく理想を求めるので本当にめんどくさいことでしょう。挙句

「理想を押し付けてそれに近づくあなたなら、あなた自身が何よりも嬉しいんじゃないんです。」

なんて雰囲気を出しながらいろいろと意見をいうものです。口は禍の元ですよ(私)

自らに痛い言葉を受け取る素晴らしい方を出会うと嬉しいものです。ただ私は意地っ張りだし素直じゃなくて、変なものを伴ってしか帳尻を合わせることをしない性格のようです。

一杯飲んで、自らを深く見つめることにします。


(自分が大好きな私は欠点より自分の判断で自分のよいところや望む理想などをみて、さらに楽しくなってしまうことが多い自分には要注意です)

 誰に向けても都合のいい顔なんてものがないかな、相手に失礼のないように・自らの品性や属している所を害わずといったことではなく、ただどっちかと言えば世渡り上手の罰当たり近い振る舞いの顔を探しているそりゃあもうとっても都合のいい私の出現です。

自らの顔や声(ことば)が気になりすぎれば、それはそれで神経質に近づき、ただ何故気にするようになっていったのかは有難いことです。表の顔と裏の顔が違いすぎる方と接するからです。

両方の顔をどのような意味で受け取っているかといえば

表の顔=人目に付いている時の顔、端的に言えば誰かに自分の善い点を理解してほしいと願い行動しているとき。

裏の顔=特別なときではなく、人前でもなく、普段の生活で見せている飾っていない顔。



人は初めて会う方が嘘をつく・騙してくると心底思う方も少なく、どちらかと言えば全部ではないけれど半分くらいは信じることが多いように思う。

自らが自らをどんなに善いように言葉で取り繕っても、普段から相当な年数を過ごしていれば、どれが嘘でどれが嘘でどれも嘘ばかりなんてことがわかりたくないのにわかることもある。

「頼むからいいかっこうしたいならその表の顔に裏の顔を近づけてくれないか」

なんて言葉なき言葉がでてくる。

よく「自らの放った善い言葉ができれば、遥か遠く又はそういう次元ではないくらい距離があるような自分はみたくない」そう言いながら省みれば、私こそがピッタリと寄り添わないことも多くて、人のことを言えたもんじゃないのに、また言ってたりして。

信じてくれる方が多い人であれば、その信じることを悪用しないでほしいとその方の為でなく私自身のためにいつも願う。その方を私が好きであれ嫌いであれ、悪いことばかりで驚くようなことの連続や光景でこころが穏やかにならないからです。

(気をつけよっと私)

無数ある愛情の中の一つ

いつも仕事をしていて隣というか後ろの席に座られている方は、なんといってよいのか有難い方です。

有難いといっても何がどう有難いのか、直に話す機会があれば

「あの方は本当に有難い方です」

そう言えば、ただ文字だけの有難いより、言葉をこえて、言葉にならない言葉を伝えることができます。

そういってもそれはまだ漠然としているので、時にはそれを明確にあらわすのではなく、そのものを表す言葉が無い時には輪郭を描き出す言葉を紡いていくしかないこともあります。

何に対してもその方は、即答されます。誰よりもその答えを出すのが早く、またそれが正しいものだと何故か納得してしまいます。ずる賢く安易な道に走りやすい私は、自分の答えとどう違うか、その差がどのようなものか、腹が立つときでも変なものをぶつけながらでもたずねるのです。

出会ってもう10年以上たつでしょうか、あの方は私に優しいだけでなく皆に優しい方です。ただ私だけでなくあまり会うことのない私の家内や子供達へもいつも配慮してくれる方です。

私はあの方と話をすることが大好きです。他の誰でもない私にとって痛い言葉を向けられても、意地を張りながらそれを痛くないようにと、時を過ごし、涙を流しながら話すことだって双方あります。

あの方は皆を一瞬にして「はっ」っとさせる言葉や態度を出すことができます。


あの方に慣れていなかった私は初め失礼にきついことを言う方だと思ったことが何度かありました。単に失礼なのは私の方です。相手が何を言葉にしているのか・どのような空気を身にまとわれているか・何を望まれているのか・あの優しさが、愚かな私にそれが見えず聞いていても聞いていないとなっていただけのことです。

相手に「はっとさせる」その言葉や態度は一朝一夕で身につくものではないことをどなたも知っています。深い愛情からくるやさしさ・配慮・何気ない苦しみをとりのぞくことの連続・一緒に笑ってすごすこと、みえることのないこころを一緒にみて、喜んで笑って努力するだけのことです。

私は遠回しにも直接もよく釘を刺されたものです。その言葉はいくつもありますがその代表的な一つに

「私が普段からできることを行い続けることは、あなたがそんなことをするためにしているのではないよ」

はっとするどころか、それはただ私の愚かすぎる現状を指し示す言葉と雰囲気です。

最近の関係は良好です。釘をさされても、何度もあれば慣れて、笑ってそして面白いことばで、それをさらりと流すのです。ただ気を付けなければいけないことだと忘れないように認識はします。たださらに愚かなことに私はよく忘れて注意されることがあります。困ったさんの私で、本当は誰かに嫌われたいとか迷惑をかけたいとか思ってないのに大切なことを調子に乗りすぎて忘れてしまいます。

そんな私をよくあの方は

「あなたには何の問題もないよ、心配せんくていい。」

そう伝えてくれます。


愚かでお調子者で忘れっぽく、いたずらが好きで楽しくわらっていたいなんて絵に描いた餅を追いかけるこんな私をそう言ってくれる方はあの方だけのように思います。


いつものことで、気が付けば私は私の事しか話せなくなり、言葉も自分よりというか自分の言葉を書き連ねるだけになっています。


仏教でいうところの「慈悲(じひ)」の解釈の一つに

慈というのは人々に積極的に幸福をあたえてやろうとする愛の働きであり、

悲というのは人々の苦悩や不幸せをとりのぞいてやろうとする愛の働きである。
( 「お大師様のことば」 宮坂宥勝著 )



短く言えばあの方を私は「慈悲の人」だと認識しているだけです。

 悪いことを(一応表面上、隠し)行い続けている方がいて、ちっとも悪いことはしていないのに、
何故かやっぱり(問題が出てくれば出てくるほど)よくないことを行い続けるかたと一緒ではないかと周囲が納得してしまうこと。

いくつかの条件というかそれは簡単な理由によるように思う。

一つに、口ぐせとして何か悪いことがあれば(本人すらきづいておらず)周囲のせいにする。

悪いことをしていることを言葉にすれば、ただその方の現状を言っているだけなのだけれども現状を言う方の普段から人以上の忍耐・努力をしていないと
何故かよくないことをしている人の分までけがれを受ける。



完全無欠の善人・悪人などいないだろう。だから人は些細なことであれば信じ、ゆるす。ゆるすからこそ生きていける。


私はこの「信じる」「ゆるす」に甘えがちであって、ともすればそこだけにすがり、自らの現状を正しく認識することから目を背けてしまう。


何だろう

悪い方と同じことをしていないのに、「それでは一緒ではないか」「(あの方たちとあなたは)変わらない」と受けるのは
ただ自らの行動せねばならぬこと、正しく自らをみつめねばならぬことから逃げていることをこれまた必死に周囲に顕現させているだけのこと。


ただ皮肉にしかならない。

そんな私だとしても「美しい」「まこと」「よろこび」にふれ、涙してよろこぶ。


この自らの内とすぐ外にある、自らが正しくみつめれるか


もっとも、調べたりみつめようとして、私はまた徒に時を費やしている。

○○でいっぱい

 晩御飯を食べ次男坊が通うスポーツへ車で送り

「ほら、着いたよ。降りて降りて、お父さん買い物があるから行きたいし」

「いや、まだ誰もメンバー来ていないから、誰か来たら降りる」

「もう時間だから降りて待ってても大丈夫だよ」

どうやら彼はシートベルトを外しません。仕方ありませんね

「次男坊発進!!」

カチッとシートを外しました。すると動きのいい次男坊は

「お父さん発進!!」

そういって自分のシートベルトをセットして返す手でこちらのシートベルトを

「お父さんが車をここにおいて発進したら、誰が車を動かすんだ、ここに置いてたら邪魔でしょう」

彼は笑って何度かそんなやりとりをくりかえしていました。

「お父さん、今日は満月じゃない、まんまるだったよ。ああここまでくると(建物の陰に)隠れて見えないな」

後でじっと見ておくよ。そう言って別れ、運転しながら高く正面に浮かぶ月は、雲に隠れぼんやりとしか見えず、ただそこで鏡のように滲んだ光を夜空へ映しており、後でもう一度姿を拝見に行くことにしました。

彼のスポーツの送り迎え日は、車で行かないといけないので家に迎えてくるまでお酒が飲めません。せっかく月見でいっぱいなんて思います。近くにはもう桜もちらほらと見かけます。

もう一杯やるしかないです。

けれど、あの子を迎えに行くまでお預けです。


いってきます。

事情

 仕事もお休みをいただき、「けいくん(三男坊)」を幼稚園へお迎えに行き、あの子が買い物に行きたい、つまりはお菓子を買ってほしいと言っていました。そこはたまの休日は機嫌がいいので

「一緒に行こうか」

あの子も帰る足取りはいつもより羽がはえているようです。お菓子を二つ買って、帰って手洗いとうがいを済ませて早速開けていました。仮面ライダーふわちょこもなかを二つ購入、中に運が良ければあたりのしらせがあり、送れば良いものがもらえます。選ぶ時も

「どれがあたりかなー」

あの子は5歳になって随分と成長しました。すねたり道理がわかってきたり、あたりはずれや色んなことを日々学び身に着けているようです。晩御飯を皆で食べていれば、機嫌がよくなってきたのか面白ことを教えてくれました。

「おとうさん、ちょっと前にね幼稚園の年長さん二人が結婚してたんだよ」

「それってどういうこと、けいくん。結婚って何をするの」

かなり恥ずかしがりながら

「みんなの前で、ふたりでちゅーしてた。」

「それすごいな」

それからしばらくうちの子三人と家内とでその話題で盛り上がりました。

「けいくん、結婚したい子がいたら教えてね」

「いないよー」

どうやら上の二人も同じことを恥ずかしがりながら言っていました。

「酔っぱらいの私は、母さんとお父さんだって結婚してるんだからちゃんと恥ずかしがらずに教えてね

ああ、それと本当に結婚するなら仕事に就いてからにしてね」


幼稚園の中も色々と楽しそうです。

ちょっと

 誰かに何かを伝えるときに、言葉が見つからないというか、ぴたりとあてはまらず、もどかしいことがあります。間違いではないけれども正解でもなく、誤解されてしまえば言わなければよかったということも、本当にもどかしいというのか、出てこない自分が情けないことでもあります。

「あの人に簡単なことが私には難しいこと」

これはどなたにでもあるのだろうと考えます。ただ自らも相手も正しくわからず知識・経験・理解も足りてなければ

「簡単でしょう」

と返して来られる方もいます。同じように正しいことがわかっていない私はその言葉を信じることがあります。
経験・学び多くありたいと願い・何かにぶつかっていき、それでも前に、いや素直に美しく生きていきたいと願えば、言葉もまた変化していくことを誰かをみて学びました。

簡単ということを簡単と即答できないようになるのですが、あきらめている簡単ではないと聞こえてきます。

「簡単ではない(けれどあきらめない)」

その後が雰囲気によって普段のその方の言動によって補われてきていることが見えることがあります。


「何が」

「何を」

「どうしたら」

考えがでなかったとしても


いずれにしても誰かが変わって嫌なことをずっと引き受けてくれ、守ってくれて、自分はあきらめていたらいい。


なんて思わないのです。あきらめが悪く、すぐ忘れることがおおい楽しいことが好きな、ちょっと変わりものなのです。

 過ごす場所(環境)、出会う人、友人、家族(両親兄弟祖父母)、出会い、善い見本、善くない見本、精進(あらかじめなされるべき努力)、自らが何を真摯に求めているかを何かによって知る、いずれにせよ人によって違いがあり、個性・進路・生きていくことへの同じことと何かが少し異なることに、気がつかされ、気がつくことがあります。

ここのところ、割と前から理解しようと努めていた書物から逃避して、代わりに大好きな先生の本を読み進めています。

私は本当に逃げることが得意で、困難・努力・辛抱が伴うことから他の人は容易に気が付くのに、私はつい目を背けようとしています。あろうことか大切なことであればあるほど、何かを言い訳として、さらに逃避したりと。

ただ逃げ続けることもやはり、そのうち否が応でも私は私のことだから知らないと言い続けれず、私が私に嘘をいいつづけても、私に何がみえるのかなんてことです。

ぬすむなかれ

他の人の才能をかくさず、ひとの徳をおおわない。 (「人となる道」)

慈雲尊者法語



 あたえられないものをとる、というのが原始仏教に説く「ぬすみ」の定義である。蓮池に咲きほこるハスの花をかいだという、ナイーヴなほほえましい「かおりの盗人」の話が原始仏典に伝えられるが、慈雲もまた不偸盗(ふちゅうとう)をひろく解釈している。ここにあげるのはそのひとつである。
 共同社会においては、個性の発揮がその社会の発展にとって、いかに大切であるかは、いうまでもない。そのためには才能あり徳あるものを、ひとりでも多く世に出し、働きの場をあたえてやらなければいけない。慈雲はまた「功を人に帰す」ともいう。このような配慮のないところに、その団体や社会の発展はのぞめない。
「真言のおしえ」 宮坂宥勝著 より抜粋



私は今日、お寺ガールと自称する方と出会いました。ふと誰かとの出会いによって、女性ならばそれよりぴたっとくる言葉を以前教えてもらいましたから、その方へ伝えました。

「貴方、仏女ですね」

「ええ、私そんなこと言っていないのに何故」

と仏教が大好きな方は喜んで

「お寺ガールから、進化しちゃった。」

そう言っておられました。その後は関係のない近くにいた方二人を巻き込んで四人で仏教の話で盛り上がるのです。といってもですよ。私が一人でずっと仏教について語り続けているだけのことです。

その女性は仏教が始まった場所、つまりはインド(印度または天竺とも)へ行かれ、お釈迦さま(バウッダ・ブッダ・シャーキャムニとも)がこの上なき正しい覚りを開かれた菩提樹下の金剛座も見に行かれたと言っておられました。まだ私よりずいぶん若い女性でしたが、本物の仏女で普段はどうもお寺めぐりなどをされておられるようです。

「何でも質問してください」

身の程を知らない私は、(若い女性には特に)見栄をはってそんなことを言うものです。

ただ相手のことより遅れて、心躍りすぎる私をみて後から気を付けねばいけないなんて思う夜です。


私はいつも月をみて何かに思いをはせるような心もちで、常に話したいと願います。

(思いがけない出会いで、引用した文と全く関係のないことを書いてしまいました。困った私です。)




横へずらす

 簡単に移動できなくなると、無用の衝突が増え、理解も遅くなり、好かれることより遠くなるようなこと。

自らの中で先に決めつけていること・思い込んでいること・正しいと思いすぎること、これが流動的に動いていく現実と衝突しすぎることとも言うことができます。

柔軟性・臨機応変などは現実と上手に付き合うための言葉としてよく耳にします。

私はくだらないものをすぐこころに持って、柔軟性どころか凝り固まり、相手と激しくぶつかることがあります。

「素直にあやまればいいのに」

「素直に自らの非を認めればいいのに」

「成したことを成した以上に自己評価しなければいいのに」

「勘違いを勘違いと認めればいいのに」

「自らの激しい感情に押し流されすぎないように」

「どうして(相手ではなく)自らのこころを調えれないのか」

せめて、いつも聞く言葉ように「くだらないものは捨てろ」なんてとこまでいかなくていいから、せめて衝突しないように自らで

「ちょっと横にずらさないと、通れないし当たったら痛いからね」

なんて思いつつ、少し意地悪してくる人には、わざと通常より当てたりとか、そんなことするから私はよく痛い目にあいます。

若さを失っていけば、自らの決めつけ偏り思い込みが何かにつけ邪魔になっているのに、相手に怒ってばかりにならないように、私は柔和でありたいです。

口実では

 何かあればすぐによくないことばかり言う方がいて、それはもう練達の域に達して、知らない方が耳にすれば本当のことかと信じてしまうほどです。まあただそのままあったことを一緒に見ていれば、それが本当かどうかどなたでもわかることです。

よくもまあ自分に都合よく、とりようもない揚げ足をどこからでもとって、誰かのよくないことばかり言いふらすことを何度もみせてくれれば、あのようなことを長く続けることはたぐいまれなる才能というか、凡人ではないと感心させられます。

「揚げ足とりもあそこまでいったら芸術だな

いや、揚げ足というより、よくないことを言う口実を作る才能あふれる方かな

『いよ口実づくり名人』

だろうな」

そんな独り言のようなことをぼそぼそ言っていたら

「あれは口実なんてそんないいものとは違う。ただの

『こじつけ』

だ。」

よくないことを言う口実の名人かと納得していたけれど、妙にその方の『こじつけ』という言葉がぴたっと深く寄り添いました。

「なんだ、口実じゃなくて、こじつけ名人かあ。じゃあしょうがないね」

それ以外、あてはまるものがないといった空気がそのときそこにありました。


いろんな名人が世の中にはいるものです。

華(はな)

 とかくこの世で疲れることの一つに人間関係というものがあります。

それさえ上手くいけば楽しく笑えて順調に、それがうまくいかなければ夜も眠れず体調もすぐれず、仕事や学校なども行く気がおきぬ、なんて言うもんです。

そんなことで困った人がおりまして、年の頃は40少し手前、20年ひと昔まえであれば、もうおばさんに属するくらいですが、今のご時世
40前ならまだ綺麗な女性で通りますから、時は待ってはくれないし、さまざまなことが移ろい変わりゆくもんです。

「貴方そんなに何に困ってるの」

なんて聞かなくても困った人というのは、困った顔をして何か言いたい雰囲気をだしてるもんです。だからここは

「どうしたの」

と聞くのが人情です。

「それがね、困っておりまして」

「見たままそれはわかってるよ」なんて冷たいことを言おうもんなら、本題に入らず藪から棒か蛇でもでてきてもこまるので、そこはぐっとこらえ

「何にお困りなんだい」

「実は人間関係で困っていて」

「それが一番厄介だね、金や世の中ならあきらめもつきやすいけれど、避けれない人との関係が良好に保てないってのが一番困る。」

「そうなんです」

「じゃあ、(あっしに)最善の方法があるから、それをやったら大丈夫」

「それはどんな(ものですか)」

「とにかくだよ、だまされたと思って、礼を失わないこと・できることを行うこと・優しくふるまうこと・笑顔でいること・目前のやらなければいけないことを一つずつ行うことだよ」

「そんな簡単なことなら誰でもできるじゃない」なんていう人なら問題ないのですが、困った人なら

「それが誰にでもできないから困ってるんです。」

「それは困ったねえ、他に方法がないから、それしか手がないんだけど」

あの手この手で説明をして、結局結論はやはり先ほどいったとおりなんだと、何遍言っても困ったことがおさまらない始末。ただ夜も更け、こんなことでは睡眠不足の上に疲れてさらに困ったことが増えると。

そんなことが何日も続いて、やれ今日もかなと思っていれば、何やら困っていないと、これはあれだね

「いやあ(お互い特に話す私)の苦労が報われたね」

「華を買ってきたの」

「なぜ華を」

「華を見てたらね、心が休まるし、元気をもらえる。笑顔になれる。」

「するってえと何かな、私のハナシはハナにもかからず、ハナシにならないってこと・・・

あれだね

困った人には、やっぱり華をもたせろってことだな。


長い話なんて、華の美しさの前では色褪せて見えるもんだし




言わぬがハナってもんだ。」



(で、その華はどんな華だったんで、裏はふかふか表はあったか花柄もめんでさあ)

おあとがよろしいようで

いいあんばい

 少し前に流行りの病気をもらい末っ子が調子が悪くなっており心配しました。
今日幼稚園に迎えに行けば、預かり保育の子を迎えに行く方と当然すれ違い、中には姉妹(兄弟)が迎えてきて、楽しく帰っている姿を見かけます。
幼稚園児は難しいところもまだあります。今日すれ違った姉妹はお姉ちゃんが荷物を持って妹をおぶって帰っていました。どこかへ行って疲れたら「けいくん」も

「もう、あるけない」

次男坊が

「けいくん、背中に乗って」

「うん」

私や家内が背負うこともいいのですが、お兄ちゃん(お姉ちゃん)がおぶったり手伝ったりする姿は微笑ましく、計算なんて感じられません。

「けいくん」は迎えに行った車に素直に乗らず

「おとうさん、ぼくすべりだい、100回すべってかえる」

「100回も」

「うん」

「でも100回は多すぎるんじゃない」

「じゃあ12回すべってかえる」

二人で一緒に数えながら本当に12回急いで登って滑り降りていました。少し体調が悪かったのもどうやら全快したようです。帰ってからも元気にしていました。
元気すぎれば、その元気にあてられすぎてまいりますが、子供はうるさいくらいがちょうどいいし、笑って見守れます。

ただいつもの私はその元気さとうるさいことに慣れれば

「うるさい」

なんてそのうち思って

「たまには私に静寂を下さい。」

それには子供が体調が悪いことがついてくるので、うるさいくらいがね・・・

必要以上には

 仕事が終わればあの子を幼稚園へ迎えに行きます。平日に仕事が休みになることばかりの私は、今日は預かり保育ではなく昼過ぎにあの子を迎えに行きました。
あの子が私に教えてくれました。
「おとうさん、おひるねして遅くまでいるチームはあずかりぐみ、給食を食べてからお昼寝前に迎えに来てくれるチームはかえるぐみだよ

ぼくはきょうはかえるぐみだね」

一緒に早くかえることを楽しみにしています。双方の実家が遠方で三人を出産し、育児が少し安定してきたことにより、預かり保育を下の子で初めて頼むことになりました。
何かあっても面倒を見てくれる方もいない場所でしたから、家内がずっと家とあの子たちと私を守ってくれました。その言葉どおり「家の内にいて安心と愛情を与えてくれる方」それを家内と呼ぶのだなんて思います。

私が見知らぬ土地で仕事に取り組み始めた頃と同様、あの人も人間関係や新たな取り組み、覚えなければ・やらなければ・慣れなければ・耐えなければ・楽しまなければという、「○○○しなければいけないこと」に頭を悩ませています。
不慣れなことに戸惑い、体力も使い、精神的にも普段より少し疲れていれば、思ってもいないのにそれは家庭の内まで波風がたつことはどこでも同じです。

誰かがやさしく、できることをして、それでいて成したことに思いを持たない。

そうできれば、些細な衝突などないものです。私は気を付けていても、もっとも気を付けていない時に波風をたたせてしまうということは、「わかっていないし、気を付けていない」ととられるものです。

もう少し、さりげなく、自らの内に必要以上に持たないようにしたいです。


何かにこだわるのも全てが悪いわけではないのに、悪くなることばかりであればそのこだわりは私にとって本当に困ったことです。

困ったさん

 知らないことを少し冷たく言われ、また冷たい感じで言われたなんて思えば、怒りっぽい私はかなり怒っている雰囲気を出してしまい、ただ若いころであれば激情に流され、痛い言動ばかりであったことばかりです。

最近はそんなことでは怒りません。

なんてことはなく、やはり怒ります。けれど以前より冷ややかに対応しながら自らの言動を少しだけ抑え、けれども怒っている自分がいて、何か他のことに集中すれば少しずつ収まっていくことは確かです。

ただの困ったさんです。

ですので近くにいる誰かに私を正当化して、怒ることが正しいといった偏りを聞いてもらい、話すだけ話せば落ち着くのかと思えば、話せば話すほど冷静になっていき、私の問題や矛盾点が浮き彫りになっていき、本当に落ち着けば、愚かさを認めそれを今後はなくしていくしかないとなります。

続いて本当に困ったさんです。

今日随分その愚かさや間違いを聞いてもらった年下の彼に感謝しています。話を聞いてくれる方はありがたい方です。私の話の中でおかしいところがあっても、間違いがあっても、しっかりと聞いてくれていました。

「あなたも何時も人に聞いてもらうばかりじゃなくて、有り難い人になったら」

そう昨日晩遅く家内に嫌味を言われました。

これ否定しようがない、私は真正の困ったさんです。


「わかっているなら気を付ければいいのです。」

それができないから

「困ったさんなんですよ!」


ふう、一杯やるしかないです。

誰かの答えは

 慌ただしい日でしたが、無事に仕事も終わりました。
予定というのも、未定なので、予定通りに行けば嬉しいですし、そうでなければ反対のことにとらわれがちな私です。

何かがあっても、いつも問題の本質は変わらないことだと最近は思います。かたより・とらわれ・決めつけ、私のこころからでるそれが、予定通りにいかないと私からでたもので私が苦しむだけのことです。

誰かや自分にとって迷惑になるのなら

「そんなものは、ぽいっ」

とするのです。


なんてね
それができればいつも思い悩み患うこともないのです。
捨てても捨てても、その瞬間にまた私はそれを作り背負ってとらわれるこの連続、こういう私は

「あんた、切り替えが遅い。(くだらないことにとらわれる暇があったら、目前の成すべきことをやりなさい)」

そう誰かが指摘されることをみて、私こそがそれを大切に受け止めていくしかないだけの事です。


誰かにとって必要な答えは、私にとって本当に必要な答えとなることばかりです。


家内と買い物へ行って、何かを口実に一杯やることにします。

あの人はこころから何かをよく放っている

だから、気がつけばあの人をみる。何が違うのだろうかと

(あの人ほど)即決できない。

(あの人ほど)忍耐できていない。

(あの人ほど)優しくできていない。

ふと出てくる言葉がある。「慈悲」ある人だと

慈悲(の特徴の一つ)は限りないやさしさ、この「やさしさ」という言葉もまた難しい。

哀れみからくるやさしさではない、上から(持つ者・偉いから)してあげるやさしさでもない、年長者だから行わなければといういうわけでもない。

困れば近くをみる。私には子供が三人、男の子ばかり、家内に似たのか、いや人は元からそうであるから笑顔や言葉を向けてくれる。普段と違う様子であれば

「おとうさん、だいじょうぶ」

幼ければ幼いほど、まじりけのない言葉がでている。持つ者であるから優しくなれるではなく、地位・肩書き・名誉・財産があるから優しいのでもなく・私より経験が多いからでもなくこころそのものに近い。

あの人のように、同じではない。私のこころにそったもの、即座にでるように、できれば普段からと


無いものをねだり続けている。



(本当は生まれながらに誰もが持っているものだけれども、自らにピッタリと寄り添うように自らが実感できるには、その人なりの何かが必要不可欠となる。)










人は誰もが生まれながらにしてさとっている。