意味

 今日初めてお会いする方であれば、挨拶をします。挨拶をおろそかにしていれば、挨拶をいつもその方がしていなくても、私が挨拶を軽んじていると思われたり吹聴されたりして、そのような方には余計に挨拶をする気が無くなっていくことが以前よくありました。
子供ができ、送り迎えをして、(私が)好みの人・会いたい人、又はそう思わない人へ、これから子供が通う限りお世話になるので、私の好みとか関係なく、どなたにも挨拶をしなければいけません。
イケメンでもない私がふんぞり返って、天を向いて挨拶をしないままずっとなんて、誰も近寄りたくも知り合いになりたくもなくなるものです。罪もないあの子(子供)にも迷惑がかかるものです。

挨拶をめんどくさいわずらわしいなんて思っていました。相手がどのような方であれ、どなたでも挨拶が返ってくるのがあたりまえとか思いもようやくもたない挨拶をしようとこころがけたとき、挨拶もいいもんだなと挨拶というものが腑に落ちていきました。

書きかけて晩8時の公開の予定が、残業が日付が変わるまで続き、また私の上手な苦しい言い訳として、今日はこの辺で一杯やって明日のために寝るのです。
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「冷たいと思われるかもしれませんが、口を開きません」

普段頼まれてもいないのに、よく開く口を閉ざすときなんて

「開いた口がふさがらない」

「気の利いたことが言えない」

「面白いことがちっとも思いつかない」

「体調が良くない」

「相性が悪い」

「好きではない」

「触れてはいけないものに触れそうなとき」

探せば、もっとありそうです。好きなことを言い合える関係になるまでに時間は必要だと考えます。私が「言いたい放題」という中には善いことだけでなく、当然相手にとって痛い言葉もかなり含まれており、自らを見ずに相手にとって痛い言葉を言えば、そりゃあまあ「言いたい放題」の関係は当然無理です。
「貴方のことは言いたい放題だけれども、私のことは別だから言わないでね」
これが通用するとき・人なんて極稀です。
私のことを気に入ったり、好きであったり、信用していたりする人であれば、かなり私は言いたいことを言えるのは確かです。
まあその逆の方であれば、何一つ言えないというあたりまえの結論。

大雑把に言えば、思ったことを即座に言える方は「好き」に近いかな。

「誰にでも言いたい放題で愛される私」というのが(地位・肩書・名誉・財産・恩恵抜きで)目標です。

1+1=

 知らない人だとしても、信じ、できることをされ、またその自らの成したことにとらわれず、優しさをもって常に行動される方をみます。

私が愚かで人間として出来ていないと痛感する点の一つは、あの人が簡単に行われていることが、私にとって難しい問題であり続けていることだからです。

ただ「とらわれず」とはいっても、相手が嘘偽りを言い、自らは何もしないのに揚げ足をとり続け、気がつけば誰かを悪くするようなことしかしない、つまりは善意の行動を悪用しかしないことが続けば、あの優しい方も自分にできることを続けることに変わりはないのですが、ことが終わって、独り言のように悪口ではない、ただのその方の現状を短い言葉とされています。

ありのままの言葉で喜び涙あふれることもあります。ただ口から出続けることがその方の現実悪いことばかりしかでなければ、否定もできず、いろいろな意味でつらいです。

私にだって悪い所が多いから同じだと思うのか、何故なおそうとしないのか、大丈夫と自分で思っているのか、本当これは頼まれても居ない余計な思いと心配です。

知らない場合、少しくらいはかばうことが出来ます。それが続いて何度もあればかばう人も一緒に悪くなることがあります。
1+1=2どころか、その方と自らの悪さや余計過ぎる情けなど、一緒に黒く思われることだってあります。やはり以前から課題の「優しさ」という幅広い意味を持つ言葉に振り回される私です。

いつものように一杯やって忘れることにします。

同じには

 知らない・慣れない方はこれからですから、お互いわからないことばかりの手探り状態であって、「貴方のことがわかりますよ」なんて言い切り過ぎたら、喜んでもらえるどころか、怒られたりしてね。

誰かが話をしています。誰かが言ったにせよその方が言ったにせよ、向けている方のための本心からの言葉か、ただ相手のためは口実であって自らがよく思われたいような言葉、そのどちらなのかは、年数が積み重なっていけば雰囲気でわかるものです。

「あなたのために言っている(といった優しい言葉)」

これが理由もなくただそう思える言葉か、うわべどころか汚いものが見え隠れする(中には黒いものみることができない)言葉か、ただ自らの良いところを出す良い機会としていっているのか、自らに酔っているのかなんて、その言葉の持つその時の雰囲気がいろいろあるものだと感じます。

傾向として、やはり善い方向性を出しやすい方、自らの何かにとらわれて何かを出しやすい方、悪いことをごまかすための方便として出しやすい方、あまりよくない傾向の人であれば「またか・・・」となり善い方向の方には感謝の念が増えていく私です。

善い傾向の方をみれば、どなたもそれを真似したくなります。ただ私が真似をしたとしても、同じ雰囲気はでないことばかり。悪いことばかりされている方が善い人をきどって「私は優しいから」なんて言われることに私はいつまでたっても慣れることがないです。私自身悪い傾向が多分にあるから同族嫌悪もあるかもしれません。

「知らない人に言ってくれ」

とは、確かに善い人が言えばそのとおりなのだけれど、その方の過去と普段の行いをみれば、嘘にしかなっていないときに私は、その方へ言うこともできず思っています。
それよりも少しましではありますが、今までの行動や経験がなく、自らが善いことを言うことだけにとらわれ、何かに酔って発言しているときは、やはりここでは言わないでくれ(知らない人の前で言ってくれ)となり、嫌がられ話を余計に聞いてくれることがなくなります。これは私の悪い時の専売特許ですので痛い思いをしているのに、気が付けば出ていてこころが痛いです。

真摯・謙虚・継続・努力・大切なことを忘れない、このことを大切にしたいと思うことすら、ダメな時の私はそれがどこか遠くへ

「それ仏法は遥かに非ず、心中にして即ち近し」(弘法大師)



近いはずのものが、遥か遠くどころか無いように感じられるときをできれば少なくしたいです。

・・・であること

 何気ない会話の中で、その言葉を放つ人や、ある言葉を受け、ふっと深いところをみるようになる瞬間、そこからが始まりだとかんじます。
こちらがその瞬間を気づくことが出来なかったり、出すことが出来ないなど、望むことを望めない私であると、いつも少し考えさせられます。

私はよく、身近でお世話になる方へ、言うのです。

「その人(というかこころか魂か)をゆさぶるような話がしたい。」

願うことと、現実は隔たりがよくありその差に打ちひしがれることがありますが、願うところはよくそんなところです。先日偶然手に入れた本の中に


「詩人は生まれるもので、雄弁家はできるものである」 

詩はどんなに努力してもできるものではない。詩才、条件、そのときの瞬間的感動こそが必要である。雄弁は経験と訓練によって到達することが可能であるから「できるもの」と言ったのである。

なお、雄弁家キケロは雄弁の3大要因として、第1に人々に教示すること、第2に楽しませること、第3に揺り動かすことをあげている。
キケロ (ローマ 政治家・雄弁家・著作家)



雄弁と他者が讃えてくれる方というのは少数になり、自称や本人だけが思っている方は多いように感じます。かくいう私も調子に乗っているときは、自称雄弁家という空気を前面に押し出していたりしますから、晩のお酒がよくすすみます。

忍耐・努力・継続や学びが少ないのに、多くの言葉を語り続ければ、自らの愚かさのみを自己紹介してまわるだけのことです。
本当に私はその辺において学習能力が欠如していることばかりです。

ただ割と長い時間は無理にしても、どなたにも瞬間的な感動は訪れ続けており、その瞬間を見逃さなければ、ときには詩人で、ときには雄弁家となりうるものです。

この瞬間をぐっとつかんで、ぱっとはなしたいものです。

器用じゃない

 意外とですけれど、何でもというわけではありませんが、大抵のことは器用にこなしていきます。器用にこなせないことは気づかれないようにそっと受け流してごまかすのです。仕事の雑用や対人関係などさらりと流していくのです。よってここで

「こうみえて、意外と器用なんですよ」

「ほんとだね」

大抵のことは流せるのに

「肝心なことには不器用なんですよ」

大抵を流せるからこの言葉も受け取ってもらえます。今日もまた見知らぬ方と人との付き合い方の見解のお互いの違いを挨拶程度に交換していました。私は勘違いをして言うものです。

「意外とどなたでも愛せるものですよ、いいところを見つけて楽しめたら行けそうな気がするんです」

これに対して相手は

「私はそこが難しいんですよね」

そう帰ってきたので定型句が来るのです。

「大抵のことは器用にいけるんですよ」

すると、隣にいつも居てくれる方がひょっと

「それは器用なのだけれど

不器用なのかもね」

相手によって自分が受け止めれないことを察知してそこを器用に現実へ反映させれば、不器用だといって関わらないほうが器用なのかもしれないといった意味合いでこちらへその言葉を向けてこられました。

「器用じゃなくて、不器用だったのか」

「そうかも」


器用過ぎる人ばかりで私は相手にされないことばかりなんて器用はいらないなあ、何て思っていました。


だって、私が器用に相手の善い所とかを見つけれず、悪いところばかりを言い続け、目前の人を相手にしないなんて時は、冷たい私です。

今度は

 洗濯物が溜まっていました、家族五人ですが一日気を抜いただけで結構な量となります。今日は仕事は休みなので家内が気を使って
「お父さん、今日はゆっくりしといて」
なんて、睡眠不足がちなほど夜更かしして趣味にふける私を休ませようとしたようです。それは本当に有難いことです。ただ十何年ぶりに仕事へ出だした家内は、仕事と家事と育児がまだ安定していません。
気持ちは有難いけれど、やることをやらなければどこかへ負担がかかります。我が家で私と家内を除けばいるのは子供達ですから、子供達に負担が行き過ぎるのは困ります。よって素直に受け取らず、気がついてできるだけのことをするのです。かといって、気がついて私がやることだけなので、総ての問題が完璧に終っているなんてこともないのです。

まったりとしながら、けいくんを幼稚園へ迎えに行き、帰りにスーパーであの子達三人のおやつを買い、帰って私はお昼、あの子はおやつタイム、それから字の練習が終わればいっしょにゲームをしている間に、上の子二人が帰ってきました。中学生の長男は、今学年末試験があるようです。
私に似て努力をしない長男坊を少しやる気を促し(それで余計にやる気が減る場合が)、家内が帰って夕食を作っている間に、文房具屋へ学用品を買いに、それなりに動いているという私を家族へ見せて、けいくんを寝かせつけたらようやく私の時間です。

「けいくん」を幼稚園へ送り迎えしたり、あの子と楽しく時を過ごしていると、忘れていることを思い出しました。私はあの子を特にかわいがっています。末っ子で小さく可愛らしいからだと思います。

私も小さい頃、三人兄弟の末っ子、私と兄と姉と父と母と祖父の六人で住んでいました。末っ子の私はおじいさんっ子で、お祖父さんの側でいつもいて、可愛がってもらっていたと皆が言います。今思い返せばそれは本当だと思います。父も母も兄も姉も私にはやはり一番小さい子であったから、優しく面倒を見てくれました。

あの子を私を可愛がる理由も同じなのだと思います。あの子も大人になって、忘れていても、愛されていたと思えることに出会ってほしいと思いながら、手を繋いで幼稚園から帰宅しました。



夜空のお月様は丸く美しいものです。

つっこめないこと

 幼子に笑みを向けるようなことが増え、少しずつ、少しずつ、大人になっていこうとしているのではないかと思うことがあります。
話すことが好きで、話が長くなりがち、もっともそれ自体が悪いことばかりではないのですが、独りよがりが過ぎれば、よっぽど付き合いの言い方か、色恋ではなく好意を持たれている方か、しょうがなく付き合わなければいけない方位しか付き合ってくれません。
末の息子「けいくん」は長男のことを好きだと夕方言っていました。それが損得や打算なのかもしれませんが、割りとそういう風に思えない雰囲気と言葉です。
「お父さんとお風呂に入ろうっと、ぼくはお父さんが好きなんだもんね」
身体を洗って一緒に湯船に使っていれば、好きな男の友達のことを話してくれました。

「◯◯くんはあかちゃんが好きなんだよ」

「へー、兄弟ができたんだね」

「ぼくもねお兄ちゃんたちのことは好きだし、赤ちゃんが次生まれても、きっと好きだよ」

あの純粋さには、私も言葉を失います。その辺りの方に言われれば

「四人は経済的に無理ですよ、だって私の稼ぎが少ないですから」

なんて即座に答えるのです。あの子には

「そうか」

と微笑んでこたえるくらいです。

まだあの子は時折、こころと言葉の間に何もなく距離もないほどの言葉発し、ぷっくりほっぺと笑顔の幼児体型は愛らしいそのものです。

大人になってしまった私も、あのような言葉の使い方を時にはしたいです。

それを司馬遼太郎さんは「高貴なコドモ」という表現をされていたことを書きながら思い出していました。

 違う人だけれども同じことを言われる方と出会う。

違う人の違うという違いが私にわからなければ、同じことを言われているのかと思うことがある。
明らかに両者が違うものだと私が認識すれば、同じ言葉だとしてもかなりの隔たりとなる。

「私は善いことを言っている」そのように違う方が同じように言われたとしても、同様のものだと受け取れない(私)。

そうかといえば、違うことを言われているのに、同じ言葉と受け取れる方と出会うこともある。


まわりくどく書いてばかりなので、簡単にと

普段からの行いが、その人の言葉に深みや重み、善や悪、広さ狭さ、美しさ醜さ、などのみえないのに、その方の放つ言葉に感じてしまう。

「同じことを言っているのに」

と書けば、誰かが言えば通じて、こちらが言えば何故かうまく伝わらない。


しょうがないので、何かや誰かをみるとき、照らし合わせて自分をみようとするのです。
けれど私の眼は、どうも自分に都合のよい見方となりがちなので、近くにいるできた方へ、不安な時は「いろいろと変なことを私はさきほど言っていませんでしたか」とおたずねするのです。

相手だって少なからず遠慮されている言葉となってかえってくるもの。

できれば善いことを出来た方と同じようなことを同じようなことであらわしたいです。

もっと理想を言えば、違うことを行い・違う言葉であるのに、伝わることは同じである善いことでありたいなんて考えることがあります。

それもまた、ただ私の普段からの行いによるものです。


(困りましたね、私)

素敵な

 難しいではなく、わかりやすく、簡にして要を得る言葉でありたいと願います。
いつものパターンとして、失敗多く・間違いだと気がついておらず・勘違い甚だしく・さらにはむきになってみたり、気がついたとしても痛いことから目を背けがちな私であるから、言葉くらいは美しくありたい、その時はそのようなことを思っています。

子供達三人と日々を過ごし、幼稚園の三男坊を見ていれば、まだ無邪気で純粋な所を多く見ることが出来ます。最近の「けいくん」は一人で何でもしたいという行為が目立ってきました。あまりにも上手く言っていないので私が余計なお節介で手をかしたりしようとすると、機嫌を損ね、所謂すねてしまうこともあります。
初めての子供であった長男坊の時にはそれがよくわからず、腹をたてることが多い私で、もっとも今も腹をたてることは多いのですが、以前より少し減ったくらいでしょうか。(家内やあの子達からしたら、減ってないというかも)

幼稚園である三男をみていて、長男が幼稚園の頃を思い出しました。あの子と家内と海へ行った時、同じ幼稚園の女の子と偶然出会い、ずいぶん長い時間砂浜や海で遊んでいる二人を遠巻きに見ていました。少し近寄って様子を見ていれば

「結婚しようね」

「うん」

そんなことをまぶしく素直な笑顔で言い合っていました。

あれはほほえましい光景の一つでもありますし、あの瞬間の二人の思いに一点の曇りもないと今でも私は思っています。
あれから、引っ越しをしばらくしてしたので、その子がどんな女の子になったのか、なんという名前だったのか私はもう忘れてしまいました。おそらく長男へたずねても憶えていないと思います。

その例えをもって、私が誰かに善いことをしようと約束をするけれど、後になってすっかりわすれ無かったかのようにしている。



そのとっても上手な言い訳になるだろうとここへしるし、一杯やることにします。

光をはなつという同じ

教えてくれる方がいます。

「どうです(今私は光を発しているでしょう)」

「そうですね(少し遠いところをみるのです」

昼間に光を放つものがあります。
星・月・灯火・太陽、眩しくて直視できないものから、よくみても光を放っているのかどうかの判別が難しいものもあります。
あの人は昼行燈・・・なんてね。

主観と客観の差こそあれ、光を発していることには違いもなく、ただ周囲や目前の光がまぶしければなんてこともあります。

私は主客どころか全ての理解を転倒させ、周囲の方が光っているのに私の光(の発し方)が強いとか
美しいとか・光っているものすら光っていないと思い込む、周囲の呆れと開いた口が塞がらないといった、
願っていることの反対ばかり訪れてくれます。
困ったものです。(ものではなく誰かが一番困ったであって、ただ一杯やるしかないときがあります)

もっとも一杯やったとしても、深く反省したつもりであっても、その困ったは無くならず、実行・継続・学びと正直さ、
つまりは普段の行いが大切なことです。

外からのお誘いは断りやすく、ただ私の内から無数生じる怠惰・怒り・愚かさの矢を正しくみようともしないため
止まりにくい傾向、つまり愚か者の私が皆の前にやっぱり出てくるのです。

声が聞こえるような気がします

「だから私は内から生じる三毒を捨てろというのである。我が内からいずる三つの矢を捨てよ。」

そんなブッダが言われていた言葉が聞こえてくるのですが、私の忘れっぽいこと・逃避スキルの高さ・怠け癖が堂々と中心へ居座っているとね。


ちょっとお酒でそれを流し清めてきます。つまりは一杯やるのです。

どちらかと言えば

 知らずに望んでいることが何なのかさえわからずに、取り組んでいることばかりです。

一体何をしようとしているのか


証明(しょうめい)
①ある事柄が事実または真理であることを、理由や根拠に基づいて証拠立てること。
②(論)(proof)ある物事または命題の審議を定める根拠を示すこと。前提となる一群の命題から論理的手続によって結論となる命題を導き出すこと。論証。



照明(しょうめい)
①光で照らして、明るくすること「夜間―」。


(広辞苑より抜粋)
さて広辞苑によくすがる私です。広辞苑の最後には作るにあたって各分野における一流の方の名前が書かれています。私が学ぼうとしている中でも、敬愛する先生の一人渡辺照宏先生の名前をそこに見た時、ひとに

「そんなものにすがっても無駄だよ、それが正しいなんて根拠がどこにあるんだ、間違ったものにすがり、誤った方向へすすんでいるかもしれないじゃない」

なんて言われてもですよ、先生の名前があれば私はそれを信じるのです。

私が「しょうめい」したいと思うことが漠然としていて何なのかなんて理解も把握も納得もできないことばかりです。
以前から読み続けている本に、闇の中にある灯火についての描写がありました。私はそれだと思いました。

私が何かを書き続けることの一つでもあることです。何かを証明しようとしているのではなく、照明しようとしているのです。


光で照らして明るくすることをしたいと願っているのです。最近なら青色発光ダイオードの発見により低電力高輝度の夜間では直視することのできないほどの明るさを人類は手にし、その恩恵は比較的安価で手に入れることができるようになっています。
当然私はその明るさを求めているわけではないです。

自らの内に存在している知恵という光が存在していることすらわからず暗い中に生きるのではなく、自らが全てを理解することができる知恵のなかにその知恵を認識する知恵を見出す、つまりは周囲を照らす事のできる知恵、とりもなおさずそれは周囲だけでなく本人を照らすことのできる光、それが何という中の一つなのだと、理解しました。

どうも人は理解することで光を発し、何かや誰かを認めることでも光を発し、信じることでも光を発し、素晴らしい物を真摯に求めることでも光をはなつようにみえるものです。


よって


一日の終りにしか更新できませんでしたが、私なりの何かをここへできれば照明したいと願いしるすのです。

いま

 いつも職場と家か子供達のスポーツや学校関係の方くらいしかお会いしない日々です。
珍しく不特定多数の人が集う場所へ出かけなければいけないことがありました。広い教室の中、講義を30分から40分程受けて返ってきました。
今日はお休みをいただいていましたので、何も用事がないのであれば日頃の夜更かしの帳尻を合せるために、ゴロゴロしたいのです。時間をそのために午前中作り真っ暗な部屋でしばらく仮眠を過ごし、家内がいつもの習慣で休みなのに作ってしまったお弁当をお皿に移し、レンジでチン、美味しくいただき出かけてきたのです。
大層なことは全くなく、ただの免許の更新を忘れていたので行って来ただけの日です。

ただ普段顔見知りの方とばかり時間を過ごすので、知らない人のいる場所とは緊張します。なにか言わなければいけないとか、しなければいけないとか何も無いのに、何を考えてるのだか私は。

朝家内を車で送り、仕事場へ迎えに行きました。何度も通る道ですからなれたもので、いつもの場所で私は車を停め、車内で待つのです。

「お父さん、おまたせ」

「いや、今きたとこだよ」

家内はそう言えばよく笑ってくれます。みるからに車中で待っているのではなく、ころんと横になって寝ている旦那さんが起きていうんだから、そこは恒例の挨拶です。

待ってても、待っていなくても、カップルの挨拶であり、そうたずねられたら

「いや、いま来たとこだよ」

なのです。ただ日々の更新が20時頃なはずなのに、ちっとも何も思いつかない私は

「今書いているところなのです。」



一杯やって寝るのです。

「わかった」

 仕事をしていて「わかった」そう言って私は仕事をする。

わかったことより先に違うことを進めて、その後にわかったことをしようと計画している。今していることにとらわれすぎて、その後なさなければいけない「わかった」を忘れている。誰かに聞けばということも忘れていることもある。何かにメモしておけばということも忘れていれば、私の中で「わかった」ことは「なかった」ことへ変わり、全てが終わったと安堵していることが「こまった」ことにある。
なので余裕があれば、近くの方をみていて優しい方ほど、「わかった」ことを「なかった」ことにして困らないために優しさやお節介として何かで示してくれている。

さらに困った私、抜けていることがあるから伝えてくれているのに、たまたまその「わかった」ことが「できていた・おぼえていた・やろうとしていた・またはとりかかっていた」と認識していれば言わなくていいような雰囲気を出してしまう、あろうことか冷たくとげのある言葉もね。

答えなんてなくていいのに、答えがないと余計にどうしていいかわからなくなるし

答えがわかったとしてもどうしようもないことなんていくらでもあるのに

わかっていないほうがましなこともあるのに

わかろうとしてまったくわからないことにだってよくなるのに




「そうだ」






この後には私の定型句が来るのです。


「わかった」




何がわかったかというのは、私もよくわかってないのだから、わかったでしょ(私)

何も

 あたりまえのことを受け取らなければいけない人が受け取らず、それでも

 「元はと言えば」

何て議論や口論がある時は答えをだしてはいけないことはよくあることの一つかもしれません。
その解決方法は誰かのせいにして、本質を覆い隠すだけでなく、ただの濁って淀んだものがさらに現状のままかそれいじょう濁りながらを先延ばしにしかならないことをどうしたらいいか。
直視も出来ずかといって目を背け、それに対してどうしたらいいのかわからないことばかりです。
気がつけば(気がついていなくても)抱え込めないことに関して、弱く耐えれないことを近くの方へつい背負ってもらうように仕向けようとしてみたり、抱え上手で私は何一つ問題ないと、言い切れなくて、うろうろする。
気の利いた事ができなくても、気の利いたことが出せないとしても、目前の仕事を真剣に取り組んだらいいと身をもって教えてくれる方もいます。
よく考えなくても考えても有難いことの一つになることがあります。

結局普段からの言動は自ら受け取るしかないことばかりなのに


受け取らなければいけない方にお尋ねしても

「それは私が言ったりしたことだけど、しらんわ」

とか

「他人のことは悪く言う(けれど私は自らの悪いことを一つも慎まない)」

意外とその対応に私は慣れることがないのです。

よくないという話を耳にする。

「ではそのよくないこととは」

素直なあたりまえにの言葉、ただの現状をあらわす言葉、自らの現状をあらわす言葉を否定したり、人間として成長してくれるようありのままの現実の言葉を否定して、相手を貶め続け、何一つ良くなるようなことを受けとらないのであれば、ありのままの現状を教えてくれる方もいなくなっていく。どうもそれがいいらしい。
ただ時は忘却をもたらし、やはりそのような言葉を向ける方があらわれる。また同じことを繰り返す。そういう方を(私達にとって)よくない人だと言う。

極論や善悪にとらわれすぎることはよくない。そんなことがあれば誰もが言う。

「普通でいいんだ」と

けれど普通の概念は人によって異なる。善いことをしている方が自らをふつうともいうし、世間一般の方と同じことが多ければそれが普通だともいうし、悪い言動が常である方ならばそれが普通だという。

自らの言動をみつめることから目を背け続ければ、何をみて生きていこうか

本当のことを受け止めなければいけない人が受け止めれなければ、誰がうけとめるのか


まわりをみていて、なかなか簡単な世の中ではないのだなと思う日。


書きかけと予定

 まだ冬を抜け切れていないのに、生暖かい風が吹く雨の日







冒頭にこれだけ書き、後に何が続くかそれはその時のまだ見ぬわたしへ、書き残し更新時間と決めている時間に予約していました。
ここから、他人によく見られたい私は言い訳を書くことにするのです。
仕事が終わって、知り合いのおじさんから沢山のキャベツをいただいていました。安易なわたしの頭でキャベツを多めに消費する料理といえば、「お好み焼き」です。ですので前日仕事が終わり週末休日の家内と子供達のために、「明日はお父さんが仕事終って帰って皆にお好み焼きを焼いてあげるからね」本当に愚かな人です。
他にも家内に良く思われたくて、おしゃれな酒屋さんに一緒にこの日に買物へ行こうね、なんて言っていたようです。愚か者は一つの約束しか見れず、帰宅して三人の遊び呆けている子供達に指示を出し、自分はお弁当箱や洗い物の残りを出し、キャベツを選別して、刻み約束のお好み焼きへ向けて段取りをしていました。ちょうど切れていた卵を買いに行っていた家内が、忙しくする私を見て、「今日はお酒を一緒に買いに行こうと言ってたけど、無理みたいね」私ではなく自らに言い聞かせ私とお出かけして何か買物をすることを諦めようとしていました。
先日、家内と子供達に怒らないから父さん(私)の困るところを教えてくれということの一つに、何か約束をするのだけれど忙しくて(もしくは忘れたり諸般の事情で)守らないことが多い。長崎のおばあちゃんとよく似ている。そう教えてくれました。
言い訳がましい私は過去においても今も屁理屈を言うのです。
「誰かにいいことをしたいときは、してあげると言うのだよ、だってその時本当にそう思っているから、ただ私はそれを忘れるのだよ(情けないことにね)」
ということで、子供達三人がお腹いっぱい食べれる分だけ先に焼いてあげて、家内と一緒に出かけて買い物をして、帰って「けいくん」をお風呂に入れて、今度は明日のお弁当の分や朝ごはんか昼ごはんになる分だけ、お好み焼きを焼き続けるのです。私の願いです。お好み焼きをお腹いっぱい食べたい。何度も思っていたことです。お好み焼きだけで満腹、望めば次の日もその残りがあって、レンジでチンすればそれがまた食べれると、家族五人が二回位お腹いっぱいになる分を焼くのに、終ったのは買い物へ行っていたから9時過ぎでした。
すると書きかけの文章に拍手が付いているのを見て、ちょっと笑って、その続きを今書いているのです。
明日も仕事、私はお酒を飲みながら、一日の終りの余韻に浸り、夜更かしをして風邪を悪化させ、家内に心配をかけたり怒られたりするのです。

今宵もまたお酒がすすむのです。

(ありがとう)

友人

 友人について、以前長男坊が教えてくれた言葉を思い出す。その友人は小学校に入って早い段階で自分から両親へ自ら進言したという。あの素晴らしい学校へ行きたいので塾の専門のコースへ行かせてくださいと、授業態度も真面目で一生懸命、漢字検定にも興味あり、そこそこにスポーツもこなし、いわゆる無口でおとなしい優等生の秀才だという。
詳しく聞けば通信簿も最高評価ばかり、どんな問題でもあの子に聞けばわからないことがないと、何の縁かはしらないけれど、長男はその子といつの間にか友達になっていた。

友人は賢い中学校へ進学、長男は近くの皆が通う中学となった。彼はその友人と出会ったことをあつく語ってくれた。
「僕はねお父さん。あの子と友達になれて本当によかった。あの子が友達であることを誇りに思うんだ。」
そうきらきらした眼で教えてくれた。友人と違って私の息子は怠けたり、逃げたり、努力することを嫌がる傾向にあるから、進む道が変わっていったのだと思います。
それはそれ、これはこれ、あの子の友人に変わりはないことです。

友人と出会うこと、喜ばしいことです。悪い道に引きずり込むような友人以外なら大歓迎かな。

いつもお世話になる方と話をよくしています。何度か真剣に言われることは
「友達というのは、本当に大事なものよ」
やさしく・慎み深く、言い諭すのではなく、こころからその思いが出てきているだけのようです。

他の人を見てもわからない時には、自らをみつめることにしています。(家内からすれば、本当に自分のことが好きな人だという認識のようです。それはちょっと違うのになあと思うけれど、それも多分に雰囲気としてでているからなのでしょう)

私の友達は何故私の友達となったのだろうか、とりたてて私が何かしてあげたとか、したとか、そういうことの記憶はほとんどありません。けれど気がつけば困った私を頼んでもいないのに助けてくれる方が多いことも事実です。

自分のことだけれども、それが何故、友人と思えるようになったのかはわからないことであり、わからなくていいとも思います。
私があの人は友人なのだと思える人ならばそれはそれ以上何もいらないのです。

ただ息子は時折他にも、友人について語ってくれることがあります。彼もまた愛を知らずに語ろうとしているのだと昨日気がつきました。

久々の何か

「何かを愛しているときには、人は詩人である。」       プラトン ギリシア 哲学者



先日本を整理(破棄)するので、「欲しい本があればどうぞ」と言われた山の中にある一冊の中に、その言葉と解説がのっていました。(私の変な理解と解説より元の)解説と

詩とは「愛」の別名である。愛はあらゆる対境の中にひそんでいる。月に,星に,子に親に,友人に,恋人にその心情を託すとき,愛は泉のように湧きあがる。愛のある処,必ず詩がある。詩は特別なものではなく,親が子を愛するとき,一片の詩なのだ。詩人はその愛の姿に己の心情を託すまでなのだ。人間は誰でも詩の中に生きている。だから「人間とは詩をつくる動物なり」という言葉もあるぐらいである。



山頭火は句を作るときの心持を、「ぐっとつかんで、ぱっとはなす」と表現しており、私は句をつくらないのですが、何かを言葉によってあらわそうとするときに、その言葉を思い浮かべるのです。

「何かとは何だ」

その問いに対し、近くにある書物の中にある深くまた高く無数に林立する膨大にも思え、また目前の幼子のしぐさや、母親の上にあらわれる慈しみ(愛情)、我が愚かさの上にも、愚かであるかたへ優しい方の上に、内に外に。

私もまた詩人でありたいと賢・哲・先人にならい、思い、うたうのです。

「酒のないところに愛はない」 エウリピデス ギリシア 詩人




一杯やるのです。

(引用元は昭文社 世界金言名言辞典、安易に光をみたい私なので、ちょっと覗いてみたのです。)

なかなかですよ

 昨晩遅く三時半過ぎまで一人で飲んでしまい、今日の仕事は飲みすぎと寝不足で、いつものように元気をだせない始末。
今日は早めに就寝予定、お酒も控えて、できれば飲まないように、明日のために備えないと、このパターンは風邪を引いて、周囲へ迷惑をかけてしまう前兆であります。

よって健全な生活へ戻さないと、できればゴロゴロしたいのですが、用事が私をほっといてくれないと、用事をほっておけば、私がいつの間にかほっておかれたりするもんです。
ほっておかれたくない私は、役に立つことを少しくらいはしないと私を維持できないことが少し理解できました。

今日も本を捨てるからと、いるものがあればどうぞなんて言われたので、古い本の中から興味ある本を何冊も選んで、部屋に持ち帰り、改めてその選んだ本をこの先興味を持ちそうで、かつ読みそうな本をさらに選別しました。

「高いお金を出して本を買ったのに、捨てるのは一瞬」

本をくれた方の伴侶が、無造作に積まれてこれから捨てられる本を少しみて、あと何か聞き取れませんでしたが言われていました。それはともかく私は無料なのが有難いです。大好きな先生の本も何冊かあったので、小冊子であったからすぐに読めそうですし、綺麗な写真つまりは図鑑は私のではない書庫へ置くことにしました。

まだ読みかけの本が3冊もあるので、新しく始めると、何故か新しい本が先に読み終わるなんて現象ばかりとなって、逃避してそこで逃避しないように、戻ってまた逃避しています。

どうやらですよ、もう40も過ぎていますし、頭皮というより髪の毛も薄くなる場所も少しあります。

困ったらオヤジギャグで現実逃避が一番です。お酒も私にとっては現実逃避や陽気になって現実を忘れるために飲んでいるように思います。

みつめようとするから逃避したいと思うのか、逃避するためにしっかりみつめようとするのか

知恵をもって知恵の中身を認識することができれば、明るくなりみえなかったものがみえ、ついでに自らを正しく照らしみつめることができる。(これは初歩的なことだとか・・・・)