仕事

 仕事の仕方は、狭い範囲(私の周り)を見ていれば、人によって取り組み方・願い・思い・考えなどすべて同じではないので、そこが楽しいところで、人によって仕事の受け方・断り方だって同じです。

何を言っても断る人・何を言っても受けてくれる人、何をやってもあまりうまくいかないとか・何してもそつがないとかそんなことだってありますが、悪いことを思ったり言っていれば、それは割とどころか即座に悪いことが私へ返ってきていて、それに気が付かなければ気が付かないほど、悪いことが増えていくなんて「そんなの私しらなかったですよ」なんて言えばさらに「あらかじめまたは現在知る努力をしないからだ」なんて、実は悪くなるというよりも、現在の自分に足らないことを教えてくれているだけのことだと私はわからず、わかっていたとしても目を背け楽に走り、困ったさんの出現。

仕事は嫌な思いもするし、嫌いな人にも合うし、苦手な人もできるし、恨みを持つような人にも出会うし、普通の人にも出会うし、いいなあと思える人に出会うし、好きだと思える人に出会えるし、憧れを持てる人に出会えるし、お金も稼げるし、生きてると実感できることにも出会えるし、自らを知る喜びを感じることの一端でもあるなんて思います。

いま存在する場所において、自らを知り、分を弁えることが少しずつできるようになっていきます。勘違いをして弁えず痛い思いをすることだって、したくないけれどしなければそんな自分自身に気が付かない愚かな私。

「理想の仕事につきたい」

誰もが働くのならそう考えることでしょう。いくら考えたってその仕事はやってみなければ、どうなのかなんてわからないことばっかり、楽に走りやすく、勘違いばかりで、分を弁えないところが多いですが、現在の仕事は私は勝手に天職だと思い込んでいます。

楽しく天職だなんて私自身が思ってなければ、やってられないです。

(昨日から、また一杯やることにしています。)
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てれやさん

 仕事が終わり家に帰ってしばらくぼーっとしていました。
ずっとそんなことをしていてもダメダメですから、今日いただいた晩白柚(らしきもの)を子供達のために向きながら料理をつくる家内と話をしていました。

全て綺麗に剥き終わった頃、来客。どなたかと思えば息子の友人が訪ねて来ており、たまたまお風呂に入っていた息子は
「あと30分位してから来て」
なんて失礼なことを言っていたので、ここは私の出番です。
「どうぞあがって、あがって」
仕方ないのです。息子の代わりに私が相手をね、お願いするのです。初めてまともに会う友人の父親に少し緊張していましたので、それをリラックスするために、軽快にジョークを飛ばすのですが、相手は強者でした。ちっとも笑ってくれません。
手段を買えるのです。
言葉で駄目なら、品物によって相手の気を引くのです。
「ジュースでもどう」
遠慮して、大丈夫ですなんて気を使っています。さりげない大人の対応として
「若いもんが、遠慮と貧乏なんかしちゃいかんよ」
少しだけというので、少しジュースを次ぐのです。
「ああもっと気の利いたものでないと駄目だよね、アイスあるけど食べる」
やっぱり遠慮しています。さりげない大人の私は、開けて手渡して
「どうぞ、お召し上がり下さい。」
いただいています。
ここで一つ
「お も て な し    おもてなし!」
即座に
「ちょっと古いですね」
ツッコミが入りました。

相手にして欲しい私は、いろいろと尋ねたのですが、どうも即座にはうちとけあえませんでした。よってお風呂に行くことにしました。

うーん、お風呂から上がったら、たずねてみるか。

「ごはんとお風呂どっちにする、それとも私?」

上がったら友人はもういませんでした。しょうがないので息子に

「いやあ、まだいるんだったらそうたずねようとしたんだけどね」

「恥ずかしいからやめてよ」

どうも中学生はてれやのようです。



中身がなく、虚勢を張り、格好良く見られたいなんて私だけが気がつかず思うようなことは、後で恥ずかしく痛い思いをするはめになることがあります。

「私の言葉が問題となって、自らに襲い掛かるかの如くであった。」

客観的にあらわせばそんなことなんですけれど、事実は違います。私が憧れ願い使う言葉と私の行動に差があり
その差だけ、私の愚かな振る舞い(雰囲気)が相手に伝わったにその報いを受け取らなければいけないだけのことです。

それがなんとなく(実際にはかなり痛い思いをすることになるとしても)、私は言葉を発することをやめにくい性質のようです。
めんどくさい(私の中の一つ)の出現です。

言葉を探すのに、違う言葉を探して喜び悩み理解に苦しみ、もともと探していなかった言葉に出会って喜び理解して、わからないことがわからないのに以前よりわからない進み方をすることがあります。

私が何をしてきて何をしているかはともかく、言葉を欲して求め歩んでいることがあるのは確かです。
「これだ」なんて思える言葉、私の眼には輝いて見えます。あろうことかその書いている方までも光って見えるなんてね
人間も言葉も発光現象があるなんてことないのにねえ。けれど、私はそこに、あの人に、言葉に、何かに光をみるのです。

きっと、私の近くに何かひかっているものがあれば、それは私を照らしてくれるのだと信じています。


私は月が好きなんだね

違うかたち

 身近な方が何か上手くいかないとこちらがそのように勝手にみて、余計なアドバイスをすることがあります。
あたりまえのことを言うのですけれど、そのあたりまえのことをあたりまえに平然と大抵こなしていく。そんなことあたりまえじゃないですかと言い返せるような状態ならこちらも言わず、そのあたりまえのことが難しいんじゃないですかと返されるとき、私はあなただけじゃなくて実は貴方に言っているようで、私自身へあらためて深く言っているんです、なんて言うんです。

「感情にまかせすぎて(怒りすぎて)正しいことを言ったとしても、感情が強く激しすぎれば、変わった形で自分に正しいことが返ってくるのではなく、望んでいないことが後で返ってくるのだから」

そんなことを誰かに話しながら、自らへ言い聞かせるのです。

思いつきで発言して、そのための労力をする方を困らせたり、あの子のためになんて言って誰かが犠牲になることを忘れていたり、また違う形で私は受け取らなければいけないことがよくあります。

後出しジャンケンみたいなもので、善ければ後から省みず悪ければ後で省みなければいけないと、終ってからでないとわからないのなら、無難なことしか言わない・しない方は悪くなりにくいものです。だからって変化・斬新・気分転換・新しい世界との出会いはどうすれば訪れるのかなんて言えば、私はさらに悪くなることだってあります。

厄介な私です。


今日は一杯やらないで普通にいるだけにします。


だし

 話をするのが好きで、思ってもいないのに話をしていて、する気もないのに話をしていて、話をして笑って、何も言わずに一人で笑って、なんてね。余力があるときの私は楽しもうとしてます。

日々特に苦しいこと・嫌なこと・恨み恨まれること・つらいこと・耐え忍ぶこと・努力すること・自分を控えることなど、何も無いのに、ただ楽しい、ただ面白い、ただ可笑しい。なんて善いことだけではその楽しみも可笑しさも面白みも深みも広さも感じられないものです。

少し気分を変えたいとき、「山頭火」の日記を読み、私は山頭火の文に魂をみます。

「我れここに 花ありて蝶」 (山頭火)



日記を読めば読むほど、山頭火はだらしない人です。自制心がない日ばかり、愚かである日が多く、けれど文や句は光を放ってみえます。

「私の人生に嘘は多いけれど、私の句に嘘はない。」



日々少しずつ取るに足らない日記ですが、私も言葉(文)を書き続けます。彼のように「文は人なり、人は魂なり、魂を磨かずしてどうして句が光ろう」たいしたことをしていないのに、言葉や文章に光を求め続けます。

「何をしてどうやれば」



とりあえずあの子を迎えにいって、お酒を飲みながらそれを考えることにします。

ありがとう

 私と同じ男子の子供達三人。故郷より離れ、私が幼少期を過ごした三十年以上容赦なく時は流れ、あの子達を取り巻く環境も随分と変わったように思います。幼稚園・小学校・公園から遊具が随分と減りました。景気が悪いからと言えばそれまでなんでしょうけれど、回して遊ぶ遊具も格段に減ったというか皆無に等しいです。シーソーも撤去され続け、今よくみかけるのはブランコと滑り台ばかり、ジャングルジムですら使用禁止になっていたり、撤去の方向です。

「うちの子があの遊具で怪我したので危ないからなんとかして下さい。」

そんな声が多く大きくなりすぎれば、元を断つ方向へしかいかないものです。今日幼稚園で遊んでいたうちの子、一番低い鉄棒で頭をしたたかうって、先生に介抱してもらったようです。そのことを先生が丁寧に状況を報告してくれました。きっと私が

「そんな危ない鉄棒はうちの子だけでなく、他の幼児にも危険過ぎるので、死んだらどうするんだ。責任はとってくれるのか」

なんて騒ぎまくれば、あの頭をうった鉄棒は遊戯禁止の張り紙が貼られるか、柵ができるか、撤去の方向で進むか、いずれにしてもジャングルジムには遊戯禁止の張り紙がしばらく前から貼られていました。

私は公園や学校にある遊具が大好きでした。そりゃあ怪我もしました。時には仲間たちとで危ないことだってありました。自らの限界にチャレンジしながら痛い思いをしましたけれど、楽しい思い出だって沢山あります。

本当にあの子達にとって考えさせられる話です。もしそれであの子が死んだとしても、私はこれから生まれてくる子供のために遊具が無くなる方向で騒ぎたくはないと、大事に至っていないから思います。極論をすぐ考えるのは私の悪い癖です。

「遊具のないグラウンドや公園」

危険がない代わりに、何が生まれてくるのかなんて考えさせられました。昨日は少しバタバタしていましたので、休肝日にしました。
いつもの定型句で終わることにします。

(難しいことは考えず)一杯やることにします。

(先生いつもありがとう。)

だいだい

 最近の天気予報は本当によく当たります。昨晩からかなり冷え込み雪もちらつき、普段凍らない場所も凍りつきはじめ、今日の朝には踏み固められた雪と水分が硬く凍りつき、自動車も自転車も人も、雪になれないこの地方の方達の足をかなり遅らせる方達を小学校の横で珍しく旗当番をしながら、元気な子供達から笑顔をいただき、家内がこれから雪道での不慣れな運転での通勤大丈夫かな、なんて言っている間に、朝が過ぎました。

それから「けいくん」を幼稚園へ一緒に歩いて、凍った場所をわざと滑ってみたり、鳥の足跡や犬の足跡、まだまばらな人の足跡を見て登園、帰りも凍った場所をわざと滑って子供心を出し、こけたりして骨折ったら私老人みたいだな、なんて思いながら帰ったのです。

今日は仕事も休みをもらっていましたので、午前中は昨晩遅くまで明日が仕事休みだからなんて気分だったもので、かなりお酒を飲んで夜更かしをしていましたので、お昼まで布団に潜り込み、昼過ぎの定刻へあの子をお迎えに歩いて行き帰ってから、あの子は字の練習、私は溜まっている家事にいそしみ、テキパキやまったりやだらだらやテキパキ、そしてだらけすぎているあの子達を見て注意をしていれば、いつの間に晩11時前となって、慌てて何も思いつかない私は、ここへあったまま記すのです。

本当何をしていたのか、とりたてて何もないけれど、夜空のおつきさまが橙色で大きく円い夜でした。

 普段滅多に積もることのない雪が朝起きれば一面白い絨毯がひかれており、職場から今日は危ないので、しばらく自宅待機でと連絡があり、家内と子供達と久しぶりに日曜の半日を過ごすことが出来ました。何がさいわいとなるか、何をさいわいとできるか、何をさいわいに楽しく自然体で受け取れるかが私には必要なことです。
誰かにとって必要なことであることは、その他にそうでなければいけないことがあるということを意味しているなんて思います。私にとっての現実、これから(未来)は善いことも悪いことも普通のことも正しくみていくしかない(受け取るしか無い)です。

朝起きて一面の雪をめずらしく見た子供達は、中学生になった長男坊はともかく、小学生の次男と幼稚園の三男ははしゃいで外を駆けまわり、次男は定番のスノーマンを雪を集め、時間をかけ、少し出来ては喜んで報告し、もう少し出来たら喜んで報告し、雪だらけになって身体が冷たくなることなんて忘れて、少し(だけバランスが悪かったけど)玄関の横へ飾ってくれていました。

職場から連絡があり、出勤して急ぎの仕事を終え、原付きで帰ろうとすれば、雪が降りしきり、職場の方がわざわざ自宅まで送ってくれ、なんと通勤手段がないので、出勤も迎えに来てくれるという。(素晴らしい方)

雪のおかげで一従業員(ヒラ)なのに、重役待遇が喜べるという幸せも私ならではかな。

他愛もないことばかりここへ書き連ねる日々が続き、できれば素晴らしいことを書きたいと願うのです。その願いに反比例して実際の私は怠け・仕事・家事・子供・趣味・読書・(家内と仲良くしすぎて)などしていたり、つまりは努力と継続の不足によってここはそれなりになってしまっています。

ほんの少しでも何かしら望む方向へ進むことを
すぐとける雪なのだけれども、見た目にはわからなくても、あの時降っていた雪
こころのあたたかさや放つ光だって、みえないのに観える。

 いろいろあって、相手のことを勝手に(悪いなんて)思い込み(誰かに頼まれもないのに)嫌いになるのだけれども、落ち着けばその方のことが好きで相手のことより自らの悪いことを忘れてしまう。(相手からしてみれば、はた迷惑な話ですね)

明日もまた雪だとか、こちらの雪は積もらず、手にのれば消えてしまうような雪、それでも子供達は雪が降れば喜び、こころ浮かれ、先日の雪が降る日には何度も窓から外の景色を見ていました。

学ぶことが嫌いであったがために、学ぶことの大切さをしばしば痛感します。今更なんて思うこともありますが何かしらを少しずつ学んでいきたいです。

とがった言葉を発し、跳ね返ったそれによって発した私が何度もこころが痛むのに、何でもないことで笑って安心して、痛みを忘れまた違うことで痛みが、同じようで違うことの繰り返しでしょうか。

誰かがわたしを休ませてくれることもあれば、誰かがわたしをやすませないことも、わたしの中の何かがやすませないと思わせる。

変わりやすい気持ちがよいところでもあって、相手からすれば変わりすぎなんてね。

時には楽しく、面白く、真剣に、ふざける時もあって、怒るときもあって、悲しい。けれど望めば染まっているのに染まりすぎていないのに、誰よりも染まっているなんてね。

おろしているのに背負っていて、背負っているのにおろしている感じでいたい。



連続

 自らの言動によって動揺が無くならない今日、あれこれと自らを正当化しようとしてみたり、よく見られたいと思っていたり、相手が悪いと思い込んでみたり、とどのつまりしょうもないことばかりを雰囲気を出して迷惑をかけ続けています。

何故私は相手に対して激しく怒ってしまうことばかりなのか、どうしてよいことをしたいのに言いたいのに、変なものまで返すのか、ただよいことだけであればいいのに、落ち着いていないのに昨日より落ち着いた今日はそんなことを思います。
感情を無くすとか抑えるとかではなく、同じだけの感情を誰かや何かではなく自らへ瞬時に向けたと同時に、動いていきたいことは理想の一つ、冷静に言われそうです。自らがそうでないから反対のものに憧れているだけじゃないかとね。

腹を立てても好かれることなんてほとんどないのにねえ

(私)なんとかしようよ

たった一日慣れないことをして疲れ、継続ということの偉大さやいつも何気なくあたりまえのことを継続される方を改めてみて、感謝し頭が下がるのです。

悪いことの瞬間の連続が出ている私は、「本当に変わっていない人」冷たく思われることでしょう。

連続

 少し気を抜き、趣味に時間を使いすぎて、風邪に少しかかったようですが、それでも趣味と呼べないつまりはゲームに時間を使いすぎて、全てが疎かになっていました。いい年をしてねえ・・・

ただ子供達と分担で家事を日々分担しています。隙あらば怠ける我が家の私と三人の男の子、よって自らの感情を放ち、つまりは怒りながら皆に分担させ、終わればゆっくりすると。

今日は家内が少し仕事の帰りが遅かったのです。何か突然の用事でも入って長引いたのかと思えば、少し体調が悪く、いつもの様に余裕がありませんでした。ただ肝心なところを察せず衝突し、角のある言葉を言う私。

「言ってくれればするのに」

なんてね、体調が悪い方に配慮できるはずもないのにそんなことを言い、相手も自分もそれを聞いている子供達にも悪影響を与えてしまいました。それから罪滅ぼしのように、先ほどまで明日の段取りをしていました。
言ったことや、激しい感情をぶつけたことをそれによって相手が忘れてくれるはず無いのにね。

仕事も家庭も最高な時ばかりではないという、あたりまえことを痛感する日でした。悪い連続は自らで止めていくしかないことです。

困ったさんのわたし

 あらためて久しぶりにというか、実際は気がついていないだけで、それやその片鱗は目前にあります。

いつも一生懸命にされている方が自らとふれあう方と今いる場所を良くしようと体を動かしいつも汗を流し、どなたにも優しい方です。違いすぎてわからない私はよく口をついて出る質問があります。

「どうしてそんなに何事も上手くできるのですか」

「簡単なことよ

相手の思ったようにしてあげればいいのよ」

本当に誰かにとって簡単なことでも、恥ずかしいことに私にとって難しいことは山程あります。情けないことでも愚かなことでも私の現状は正しく見つめどう生きていくか、私は私自身(身心)をどれだけ正しく見つめれるかだけです。もっともそれが最上の難問であることは世に生きる人は知っていないのに知っていることです。

いつも、言いたいことの本質を即座に言いたいのに、いつでもその周辺にあることに目を奪われ、その説明をすることに時間を何故か自分で割いてしまい本質から遠ざかることの多い私です。言い訳として天才である仏教者が、知は外向きへ働き求める本質から遠ざかってしまうなんて(意訳して私のことばで)書きますが、三枝先生の仏教という赤本にその大元が書いてあります。煩瑣な仏教知識や思想・哲学を超越していく宗教としての仏教に興味ある方はあの赤本は方便(手がかりや足がかり)となることを私は間違いないと信じています。

酔っ払って、家内に仏教の話をこんこんと続けて、書きたかったことが何なのかそれさえ見失って、訳の分からないことをここへしるして、今日の一日の終りとします。

(支離滅裂な私で本当困ったことです)

ばたばた

 家内が子供と自宅を離れ、新しい環境(職場)へ進み、長男が中学生になるまで主婦であった彼女が不在の時間が多ければ、何かしらの変化を生みます。私が大黒柱として稼ぎが多ければそんなことにもならないのですが、これもまた周囲を見渡せば両親共働きという家庭が専業主婦家庭より増えているのではないかと思わされるほどです。まだ「けいくん(5さい)」へたっぷりと身近にいて愛情と優しさと母親の存在をあの子に少しでも多く増やしてあげたいなんて理想を思っていました。

(悪い方向のことで)無いものを恨んだり欲しがりすぎたり言葉にすれば、わたしもそれにふれた人もこころがすさみやすいです。善いこと・楽しいこと・あるもので満足・自らの良いところは伸ばすように・悪いところは迷惑かけすぎないようになんて、余裕があればそこを詳細に正しくみつめることが私にとって大切なことです。本当はそんな悪いところが出ないのならば、理想です。私は私のすべてを把握もしておらず、理解もしておらず、私が一体何なのかの問いにこたえられません。
まして、寝ている・酔っぱらいすぎている・感情にとらわれている・全身麻酔であるとか、そんな時迷惑をかけても覚えていないことですが、やはり私にその責任は全てかえってくるものということすら、普段忘れてのんきにしている始末です。
非凡ではない(そこらあたりにいるお調子者)と言えます。

休日でしたので、洗濯・掃除・「けいくん」を幼稚園送り迎えにして、あの子にひらがなカタカナを練習することを私にしてさぼり癖を持つあの子です。見張りながら洗濯物をたたみ、お風呂を洗い、まだ字の練習が終わらないので見張りながら掃除機をかけ、まだ終わらないので、少しあたりを片付け、まだ終わらないのでパソコンを起動してあの子を見張るのです。
ふふふ、私に似てさぼり癖と集中力のなさと継続を嫌う傾向にあります。ただ可愛らしいのは私と同じように思います(ふふふ、ここかなり読んでいる人がいればツッコミがきそうです)。

彼の練習が終われば一緒にスーパーヘ買い物に行ったとき買った、アイスを一緒に食べるのです。家内は今日仕事が遅くなるといっていました。私は別に家内が怖いから家事・育児にいそしんでいるわけではないです。

「彼女と子供たちを愛しているからです」

(ふふふ、本当は夜ゆっくりなかよく時間を過ごしたいから、ばたばたと気が付いたときにできることをしているだけです。
家内とまったり♪ 本当にそれには用事を残しておくと皆ばたばたしてまったりした時間なんてないのです。主婦と一日主夫万歳)

背ける

 寒い日の少ない冬、寒い日が続かない季節を冬と呼べるのかと皆が考えています。今晩風が強くどうも滅多に雪が降らないここにも明朝雪が降ると天気予報が出ているようです。

本当に風が強いです。

今日嫌なことを安易に誰かにおしつけ逃げることの多い日で、全部そればかりだったとは言いませんが、誰もが嫌がることを誰かが全部引き受けてくれるわけもなく、通常の時だけでなく、余裕がある時だけでなく、余裕がない時でも、ほんの少し気をつけるとかではなく、ただそのことを少し考えるようにしていこうと思います。

これを書いている間も、ごうごう・びゅーびゅー風が吹き、風の音・風によって動かされる物の音が聞こえて、大好きな山頭火の句を思い出します。

「風がわたしを竹をやすませない」

確かこのような感じの句でした。本当に大好きです。ただ今わたしはやすませないではなく、やすみたいので気合いが入らず日々の更新さえやる気が起きず、何かを理由に何かへ逃げ、とりとめもないことを書くという日になっており、子供のスポーツの送り迎えも終わったことにより、ようやく一杯いただくのです。

お酒を飲むことに集中でします。

同じかな

 似たもの同士の方と意気投合することもあれば、同じことがあるばかりにいがみ合い衝突し、普通にいるだけができなくなることがあります。

「誰がどうやって何の原因でそうなっているの」

そうやって誰かに聞いたところで、答えが

「こうやったらいいのよ」とか

「気にしなかったらいい」とか

「あたりまえにしていたらいい」とか

「簡単なことだ」とかね

その人にとって簡単なことが(私に)難しいなんてことがあります。だからその時どう対処されたのか・そのときのこころはどうであったか・他にもいろいろありますが時間(余裕)があれば、お聞きしていると善いてだてとなることもあります。
よく(私は)誰かのことを「(そのとき)こうなんではないか」とか「いや、ああなんではないか」とか「(あの方は)きっとこうだろう」とか、あれこれ考える前に、(相手より)自らを(もっともっと深く)みつめたほうが落ち着きを取り戻せ、現実にも少し平穏が訪れることがあります。

困って誰かが私にたずねてきたら、前はあれこれとその人の身になって考えて、言葉を多く連ね一緒に迷うと。
あまり知らない方で突然にそんなことがあれば、不器用な私は依然と変わらず一緒に困り、何とかしようと言葉が多くなってしまうのは変わらないように思います。

よく知った人であれば

「誰のことを聞いているのですか

相手のことですか、それともあなたのことですか

大抵相手のことだけれども、(いきつくところは)私のことです」

そう答えてくれます。

私は(実はちっとも知らないのに)物知り顔で

「あなたのことであれば、わたしではなく、あなた自身にたずねたらこたえてくれるんじゃない」


割と真剣にたずねる方が多いです。

ただ意地悪だと笑いながら、一緒に困るのは同じようなものかもしれません。

先輩へ

 「感情的になり思うがまま発言することを控えなければいけない」
帰宅して子供たちがやることをやらずに(この日は長男坊)遊びほうけていました。いつも部活やなれない中学生活・矛盾・葛藤・人間関係、それはどの年代でもあるものですから、少しだけ人生のあの子の先輩である私は、大人の振る舞いとして優しくあるように気が付いたできることをしてるのです。

慣れということは、時に人を勘違いもさせ、堕落させるものです。

彼は周囲が優しくふるまうことに慣れ、自ら成さなければいけないことを誰よりもおろそかになり、自ら優しくふれまわれることがあたりまえのことだと思い込んでしまうことは、激しく痛い思いを遅れてきたことにより自らが思い知ることの一つです。
まあ、私の専売特許であって、皆と私がびっくりぽんなところです。

もれなく、彼には雷鳴や自責とあたりまえのことをあたりまえとみなければいけないことを痛感させられるのです。

ただ相手に何かを痛みを伴い出現させることは、こちらにもいつか予期できぬときにもれなく同等やそれ以上が返ってくることがわかっていたとしても、私はあの子の親、跳ね返ってくることが多すぎたとしても、できていなくても、何かによって示さねば、親ということの一端が出現しないのです。

一例

「私は何一つできていないから、あの子が悪くても何も言えないから、悪かったとしても何も言わないことにしてるのよ。
だってできていない人が言えること無いしね(それに嫌われたくないし、誰か嫌われてもいいから駄目だと、厳しく言ってくれる人が都合よくあらわれてくれれば、私は言わなくてすむから、どなたか私の代わりにお願いします。)」


まあ、本当に有難いことにそんなことを近くで続ける方を十何年も私に示し続けてくれたので、私は私ができていないことでも、おかしいだろうと言われても、気がつかないことが多い私だから、気がついている時くらいはあの子達に、激しい感情を伴ってでしか伝えようとしない、(もうちょっとそれがわかるなら上手くやりようがあるだろうという愚かな私の)一例をお酒に酔いここへ記すのです。


本当に学生時代にそれを私へ教えてくれた山本先輩に感謝しています。その言葉は

「おれが出来ていないことはわかっているが、言わないといけないんだ」

激しい対立と自らの愚かさや努力が継続しない自分を悔やみながらそんな言葉を私の前で叫んでいました。

山本先輩

「優しいし、感謝しています」

変わる

「人は変わらないよ」

付き合いが長くなれば、そんなことを思われたり、言われることが往々にしてあります。私に対してそう言われる要素は善い意味として使われることは少ないです。

「同じ人間がいきなり中身が変わるのか」

「(少しくらい変わったって)変わったように思わない」

(望んでもないのに私にあらわれ続けた分かりやすい)例が含まれています。


認めたくないのか、意地が悪いのか、勘違いしている私は、反論するのです。


「人は変わるよ(善いようにも悪いようにも)以前が悪いからといって、いつまでもいつまでも同じなままではないよ(少なくとも私は少しは変わったと思う)」

これって、相手が決めることなのだから、以前からよく知っている方が言うのなら、(以前からある悪い現象をひきおこすようなものを見て無くなっていないと思うから)変わらないと思われる顔をされることがあります。

「(以前から)変わらないね」

微笑んで、理解し、受け入れてくれるこの言葉の反対でしょうか。


嬰児が幼児となり、幼児が青年となり、青年が壮年となり、やがて(生き続けておれたら)老齢となる。


もう私はみどりごではなく、幼子のような私でもなく、青年から壮年への過渡期、やはりこれから生きていれば老人になる。

私は今のぞんで赤子にも、老人にもなれない。


中身も少なからず幼少期や青年時代と同じでもなく、今をいきている。


困ったことに、悪い雰囲気や悪い私を出せば、「かわってない」と即答される。


大分変ったと思う私、こりゃ一杯がまたすすみそうな夜です。




怖がり

 新年から善いことの連続というより、いつにもまして驚きの連続、善い驚きではないから毎日気が抜けません。
今年の目標を追加と

「今年は不用意に何でも言うこの口を慎むべし」

思ったまま即座にということを減らさねば、漠然とそう思わされることがあり、それが現実つまりはありのままで、正しいことと皆が思うことであればあるほど、相手がそれを受け取らないだけならいい。それを恨みにとって真逆のことを返してきたり、私だけにするのであればそれもまたいいのだけれど、誰かれ構わずなんて恐ろしい話です。

事実そんなことがあったとかではないのです。過去の私がそんな時があったから何かにとらわれ、自分のことを見ようともしない時の自分は、自分が悪くてもそれを誰かと何かのせいにして、悲しみ戸惑う。それだけならいいけれど、手段を選ばない方も時には居ます。

そんな状況を誰よりも怖がり、消極的な自分を出すことが目標だなんて、弱く愚かな私を見ただけのことです。


さてこれから私は何を求め、何を思い、何を学び、どうしていくのか


(とりあえず定型句である)

「一杯やることにします」

なかなか

 お会いするたび変わらない方もいます。厳密にはいろいろ変わっているのですけれど、変わらなくて安心するというか、変わらないからその人と思えるからでしょうか。

いつも何かを心配されている方でもあります。自分のことより他のことを真剣に心配することがその方多いように思います。良い意味ではなく悪い意味であって私にあるそれはただの現実逃避に近いものととられるだけのところ、他の心配をして、現実それでいて心配を無くすために何もしていないのに、ただ心配しているだけの私を後から私が真剣にみれば、ちょっとではなく頭が痛いです。

ありのまま(現実にあったこと・成したこと)を伝えるだけということをして、相手がその現実を見聞きする(正しく受け取る)気がない。それを打破したいけれど、相手がなにも望まないやる気もない見る気もないことに最も消極的な解決方法があります。

何も言わないことが一番賢いときがあります。

自らで自らのくびをしめてばかりが続けば、これなら何もしないほうがましだという結論を導く方に習うのですが、他がそれによってよくならず悪いことに向かうだけとかが続けば、黙っていられなくなり、誰かありのままを伝えてくれなんて思っても誰かを待てるだけに忍耐もなく、また自分で自分のくびをしめていくとか。

こんなことを「貧乏くじは誰かがひけばいい」と思っていることなんでしょう。

そうだね

 誰も言いたくないこと、言わなくてもいいこと、それによって自分がよくなるどころか反対に思われたりなんて、問題を無くそうと思っているのに他ならぬ私が問題をわざわざ作って大きくするだけでなく、それによって私自身が平静を保てず落ち着かないとか。

「困ったねえ」

「誰が」

「誰でもないよ、私だよ」

「そうなの」

「そう言われればそうか、私は問題があるけれど、同じ問題でも何も問題とならない人もいるからそうかもねえ」

なんて家内とのやりとりがありました。

家内も新しい場所で他人との衝突というより、色々な方と出会(ふれあ)い、そこで自分がどう振る舞えばよいのか、適切な言葉が出てこず、問題を少なくしたいけれどなかなかそれが思うようにいかない。それを一言で

「おとうさん、いろいろあるねー」

「そうだね」

隣で三人仲良く遊んでいる子供達は小競り合いやじゃれあったり、ゲームに没頭したり、笑い合ったり、宿題を嫌がってみたり、勉強を嫌々思ってみたり、中身をつけることをおろそかにしてみたり、子供達もいろいろあります。ただ見ていれば楽しそうですし、楽しいです。

「あの子達が楽しそうだからいいんじゃない」

「そうだね」

いろいろあっていいのだと少し思うこともあります。