段取り

 昨日までの休暇も終わり、本日が今年の仕事納めとなります。ただいつもこの辺りから休暇が終り仕事が始まるので、仕事始めが明日ではなく今日のような感覚があります。
机上には不在の間の仕事が置かれていました。有りすぎれば不平を言い、無ければ必要ないのかと不安になり、調度良いくらいだとしても何かを思います。
つまりは無い物ねだり・欲張り・不平(文句)を言いたいだけの私をやっぱりみてしまいます。

仕事が終わって帰れば家内が、珍しくミュージックを聞きながら家事をしていました。どうも子供達が実家へ遊びに行って家の中が静かすぎるので、普段のあの人らしくないことをしていたようです。
家内も大晦日の食事ご馳走やお蕎麦を用意して、正月用の玄関のお花をいけていました。女性は特に家におれば用事が尽きないようです。

お風呂に入り、ほんの少し大晦日だと実感、これから夕食を食べ、しばらく後でお蕎麦をいただいて、除夜の鐘を撞きに毎年向かいます。

除夜 (「除日の夜」の意)おおみそかの夜。除夕。
除夜の鐘 除夜の夜半、正子(ね)の刻に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して一〇八回撞く鐘。
広辞苑第六版より引用



「頼んでいないけれど外から偶然的に訪れ、我がこころに付着して、こころが汚れたように思う煩悩を取り除くこと。」

「頼んでいないけれど、我がこころの内より無数に生じる毒矢の如き煩悩がこころに付着して、こころが汚れたように思う煩悩を取り除くこと。」

外だけを気をつければ、百八煩悩が除去できるのであれば少しは簡単なのかもしれない。内から生じる無数の煩悩を気をつけるだけであればそれも少しは簡単なのかもしれない。
内外にいつもあるのだけれどそれに染まらず生きていくことが難しい。

よってここは大人の対応をすることにしている。

「生きていたらいろいろあるもんですよ。だから(まずは私から)気をつけたいですね」

そう言い聞かせることにしている。私の欲望・煩悩・短所・愚かさ・怠慢など悪いところとりあえず否定より肯定・肯定・大肯定からはじめなければ、私は生きていくことが難しくなる。

変なことはさておき、今年も一年ここ(変わった私の文章)をみてくれた方・みていない方・ふれあう方・ふれあわない方に感謝申し上げます。皆さんよい年をお迎え下さい。
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無いものより

 子供達は(家内の)実家へ泊まりこみで三人とも行っており、家内と久しぶりの二人きり。
ただ年内に片付けておかねばならない用事が仕事している間にできていないことや先延ばしていたりすること、片付け掃除、正月の準備、年末のご挨拶、年末と年始の買い出しに朝からばたばたしておりました。

何もしなくてよいのなら家内と二人でラブラブしておれるなんて思うのですが、忙しく時間が足りないことや誰かがいて仲良くさせてくれない時間がまた二人の関係を更によくさせてくれます。

「怠惰(怠け)は勤勉によって無くなる」
「物惜しみ(ケチ)は与えることによって無くなる」
「掃除はこころの汚れを払い清める」

その言葉を口にしながら、子供達が久しぶりにいない静かな中で掃除を終え、正月の飾り付けをして、お風呂もまた綺麗に洗い、最後は私自身をお風呂で綺麗に洗い。
後は(日課である)ここを書いて、家内の料理で一杯やって二人きりで過ごすのです。

あの子達がいないと静かです。たまにはそれもいいかなとも思いますが、何か足りないです。

子供のあらそう声(兄弟げんか・意見の食い違い・何かの取り合い・指摘・体力があまってばたばたする)がないと本当に静かです。手間がかかりますが「けいくん(三男坊五歳)」あの子は近くにいてくれればいつも笑ってくれます。
「おとうさん」
「はーい」
「わかった」
よく笑ってくれます。
何か足りないと思うのも、普段近くにあるものがないから。

無いものをねだるより、あるものを十二分に活用することが大事だとよく家内に私は言います。

よって!

家内とラブラブしておくのです。

あたりまえのことが

 あたりまえのことと言われればそうとしか言いようが無いものですが、人間生きていれば歳をとります。
最近旧くから知る方と久しぶりに出会うことが多く、(まあどれだけ私が外に出て人に会わないのかなんてことはおいといて)相手が年齢相応に時を重ねているのをみて、私も同じ時だけ過ぎたことを実感します。
毎日自分の子供達三人と過ごし、あの子達の成長を日々みているのに、どれだけ大きくなったのかなんてことは柱の傷であったり写真であったり、着ていた服が小さくなっていたり(服が縮んだわけでないのにねえ)、私に黒い毛だけではなくちらほらと白い毛が出てきたりとか、他人に子供さん達本当に大きくなりましたねえとかしみじみ言われたり、そんなことで自らと取り巻く現実を思い知らされると。

実際の年齢より若く見られることが多いけれど(実際の年齢にみられない若い頃から童顔名だけで、酔っぱらいの自慢ではないでです。パチンコ屋さんに行けば身分証を提示しろと注意されたりとか、面倒くさい話です。私はちゃんとした年齢ですよ!なんて怒ってたことがよくあります。)

話を元に戻してと、ただのあたりまえのことです。

見渡せば家族も家内の家族も職場の上司同僚知人や友人後輩も同じだけの年月を過ごしています。

私にとって無事に老人になることができれば、これもあたりまえのことのようであたりまえのことではないことで、病気や事故などで老人になるどころか同級生や後輩でも既に生命を生きることができなくなった方も増えてきています。あたりまえのことがあたりまえとしてとれなくなるときに私には転倒が訪れており、物事を逆さまにみて、錯覚や思い違い勘違い浅墓さを世間に露呈させ、私はまた自らの言動によって、おわって後悔するのです。

どうして私はあたりまえのことをあたりまえにしっかりと見つめ続けることができないのかと、落ち着いている時には思います。
私は考える時には大丈夫で、考えなくてもいけるなんていう時にいけてないなんてことばかりと痛切に感じます。

できれば痛い思いを激しく体感する前に、賢く生きていきたいです。

まだ生活スタイルの変化についていけず、慌ただしく時が過ぎていくばかり、用事を思いついては他の用事をしながら思いついたことを忘れ、一日の終わりになってしていないことを思い出し、「まあいっか」なんてしょうがなく思う日が続きます。

年忘れにカラオケに子供達をカラオケに誘ってくれる粋な方が我が家にあらわれ、子供達は大満足でした。三人子供がいれば選曲も理想も違い、楽しみながらもそれぞれ矛盾との葛藤があるようです。(ただの兄弟げんかとも言います)
それはそれとして、いつも子供達を(私もついでに)誘ってくれて有難いです。

いつも正月が仕事なのでその少し前に冬期休暇をいただき、ここ何日間かずっと子供達と一緒、家内は新しい場所で頑張っているので少し離れ離れが寂しいところ、もう少し休みがありますが挨拶のため帰省せねばいけません。それが終わればお正月の準備をして仕事に取り組むことになります。

若い頃下手なのによく歌っていました。ギターを持込み友達の所へ泊まりこみで一晩中や何日か歌い続けて迷惑をかけまくったものです。結婚してしばらくこれまた上手にならないギターを弾き歌い続けていた頃が有ります。今そのギター二本は友人宅にあり、一本は押し入れにしまいこんだまま。

ギターの弦と一緒に下手なギターの腕前もさらに錆びているでしょう。ギターは私にとって歌う口実のようなもの。私にとって口実は多く、逃げるため、生きるため、一杯やるため、愛するためとか、ただ口実は現実には必要不可欠だと最近思います。悪くなるのならそんな口実いりませんけれど、善くなるための口実ならどんどん来て欲しいものです。

今宵も何かを口実に一杯やるのです。
(静かな住宅街で夜大声で歌うと多大なる迷惑をかけるので歌えないのが残念です)

うっかり

 日中時間があれば遊び呆けようとする子供達に用事を申し付け

1手伝い

2掃除

3宿題

4ゲーム

「わかりましたか」

「はい」

きちんと手伝いなどをこなしていましたが、時間を無駄にしないほどゲームに熱中していました。よってまた手伝いを頼み、午後から家内と買い物・用事へでかけ、その(私と家内がいない)間も彼等は電子機器をつかった遊戯がとてもはかどっていたようです。

ようやく夕方になって灯油を買い出しにでかけたり、電気屋さんへ足らないものを買いに行き、いつものように晩には一杯やって、家内といつものように仲良く過ごす予定が、ずっと遊んで過ごそうとする子供達を見て、大きな雷を落とし、その後何故かぐたっとなって、しばらく横になっていました。あまり気分がすぐれず、「けいくん」を寝かせに行かないといけない時間には一緒に就寝。気分的に慌ただしかったからか、年末だから予定を進めようと疲れていたのか、いずれにしてもお酒を飲もうなんて気もなく休んでいました。

一杯やりながら、ここを書いて年賀状を印刷していたものを書き上げ、心地よく寝ようと思っていた予定が何処かへ飛んでいったと。何やら他にも予定をたずねられていたけれど忘れてしまいました。

(更新が遅れました)

高野山

 今年中に高野山へ家族全員でお参りすると予定を立てていたのに、いつの間にかもう残すところ何日もなくなってしまいました。けれど皆の休みも予定も会いました。
いつもより皆早起きして徳島から高野山へ出発、四時間半程自動車でかかりました。四国を遍路(自動車)で一緒にお参りして随分と長い時間の移動にも慣れてくれたことが私と家内を随分助けてくれるようになりました。

久しぶりに高速道路を運転して昨日寝たはずなのに眠気が襲い、目をぱちぱちさせながら抑えこみ運転していれば、家内がそれを察し運転を変わってしばらく(割りと)寝ている間に随分距離を稼いでくれました有難いことです。
高速を降りて下道に変わたっところでトイレ休憩の間に運良く未だ訪れたことのない大阪のとあるスーパーマッケットに到着、そこでお世話になった師の所に持っていくはずのお土産を取り急ぎ購入し、和歌山県伊都郡にある世界遺産である高野山へ。道中大阪から和歌山へ、高野山へ登るルートは幾つもあり、その中高野山のお膝元である橋本市を目指しそこから高野山へ上がる道もありますがかつらぎ町辺りの道から花坂を通り登っていけば高野山の正面玄関である高野山の大門が出迎えてくれます。道中曲がりくねった道を通らねばいけません。歩くことを考えれば何でもないことです。

まず、大門を一番後でじっくり見ることにして、壇上伽藍を参拝することに、世界遺産へ認定されたことにより、案内の表記や看板や名称に私が高野山で過ごした時より格段に増え、案内も増えたように思います。また参拝の方も外国人の方をいたるところで見かけました。世界遺産となったことで日本人より外国人の方が随分増えているように感じました。

壇上伽藍には高野山内の本堂ともいえる、金堂(本尊薬師如来)をはじめ根本大塔(大きな仏塔)、御社(丹生都比売・高野明神など)・西塔(大塔より少し小さけれどやはり大きな仏塔)・御影堂・不動堂・准胝堂・孔雀堂・山王院など、本当に沢山のお堂があり仏がまつられています。特に高野山真言宗の奥之院と双璧を成す場所でも有りますから、その仏像の大きさにも眼を見張るものが有ります。また伽藍の前には霊宝館があり高野山内のほとんどの国宝を所蔵し、順次展覧しています。その国宝の数は

現在、高野山霊宝館では、国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美術品2件、合計182件、約2万8千点弱を収蔵し、未指定品ともなると5万点以上を数える収蔵量を誇っています。
高野山霊宝館HPより引用


伽藍を簡単に家族に案内し、時間の都合上霊宝館や大師教会を通り過ぎ、高野山お大師様(弘法大師空海様)が禅定に入っておられる場所を目指しました。
四国遍路される方は四国を一周88の札所を回り、高野山におられるお大師様へ会いに行くことになります。自動車で回ることは時間と労力を格段に助けてくれます。やはりここで頭によぎります。確かニーチェの「その人の獲得した真理の高さはその獲得された真理に対する努力に比例する」と、やはり歩いて労力と時間を惜しまずただ一歩ずつ前にと歩まれた方とは比べることができないものです。
いろいろなことを考えさせられますが、やはり言い訳の天才である私は「それ」より家族との思い出を綺麗事として優先しました。(情けないことです。)

ただ子供達が高野山へお参りしたことは覚えていることと思います。三男坊の「けいくん」は5歳だから怪しいけれど、上の二人はきっと覚えていることでしょう。

高野山奥之院の入り口、一ノ橋から歩いて御廟まで歩いて迎いました。その間天空にまっすぐにそびえ立つ千年杉と何万基とある戦国武将や各宗派の祖師や大師を慕って建てられた墓石の間を歩いて向かうことになります。世界遺産に認定される所以は奥之院の言葉に出来ない空気にあります。よって熊野古道と高野山が共に認定を受けていますが、やはり奥之院の空気と存在が後ろ盾となったことはお参りされた方であれば納得できるはずです。

大師を慕いお参りされる方の姿勢に心打たれる場所です。

弘法大師(空海)信仰・真言宗の源泉(の一つ)でもあり、何もわからない私も初めて奥之院へお参りした時深く感銘を受けました。ここは私が言葉をもってあらわせる場所ではないです。(いつかはと願います)

御廟参拝が終わり、奥之院で納経をいただき、師のおられる場所へ挨拶へ伺いました。私は無名の中の無名ですが、師はその道では有名の中の有名です。いつか師が「それぞれが仏教と出会えてよかったと思える人生であってほしい」そう文章で書かれていました。
師の奥様がおられ、奥様と少しばかりお話をする時間をいただきました。奥様へお伝えしました。

「私がここへ入ってよく奥様に怒られました。

あんたら、掃除や他のこともだけれども、この場所のためや人のためにやっていることではないですよ

そう何度も怒られたことの意味がはっきりと外に出てはじめてわかりました」

「あんたも、外に出て成長したんやね」

師は今年で82になると教えてくれました。当然奥様も同じくらいの年齢です。私も師も奥様も出会った頃より23年の時が経ちました。お土産を持って行ったのに、かえってこちらにお土産をいただき恐縮に存じます。

私のお祖父さんは90を超えて長生きしました。師にも奥様にもどうか長く生きて私のような後から生まれ生きていくものに一つの真理を指し示し続けて欲しいと願います。


長かった四国遍路もこれで一回目が終了となります。


(私の努力と忍耐と精進と信心不足により、お大師様へ会えませんでした。いつかお会いしとうございます。)

おお掃除

 年末恒例行事、大掃除が我が家にも押し迫ってきました。
凄い田舎で育った私は祖父から厳しく
「正月を迎えるため、家の中も外も綺麗に掃除しないと新年は迎えられんぞ」
家族の中で率先して、内と外の掃除に身体を張って毎年汗を流していました。私もそれによく意味がわからないけれど一緒に頑張っていた幼少時代を思い出します。
お祖父さんは長男で家督を守る立場です。正月お盆など必ず親族が実家に全員挨拶に来ました。祖父の兄弟は7人でしたから兄弟が全員集まりうちの家族が六人家族ですから、最低でも13人、親戚の家族も来ればそれは田舎の古いしきたりが毎年行われ、長男の嫁に嫁いだ母もおもてなしに毎年大変だったと思います。

今は正月という節目を大切に神事として扱う祖父の気持ちが少しだけ分かります。お客様が来られるということは家屋内も庭も綺麗してしておかなければ、家の恥という概念が家族にあったからでしょう。

誰かを家に招くまたは訪れてくれるということは有難いことです。そのために客観的な目線を知らずに獲得ができます。今家族の住む長崎よりかなり離れた徳島の地で、近くに親戚がいないし交友関係が少ないですが、子供達と大掃除を昨日より取り掛かっています。
誰も来なくても古くとも綺麗な部屋は感じが良いものです。彼等にお手伝いの大切さとお金が入らなくても身体を動かすことの意味がわかってもらえるとなんて押し付けてきな願いを持っています。

一杯やったあとの中年オヤジ(少々メタボ気味)は説教臭くていけないものです。

もうちょっと一杯やることにします。

こころのありかたの一つ

今日はクリスマスイブ、キリストの誕生日前夜、私の故郷長崎では敬虔なクリスチャンが無数ある教会で祈りを捧げ様々なことを祈り感謝していることでしょう。

私は仏教を信ずるものです。よって一家の主人に左右される私の家族はクリスチャンではなく、やはり仏教徒と確固たる信念をもっていることに気づいてはいませんが、彼らは仏教を信奉するものであり、やがてその素晴らしさに気づくことと思います。

けれど我が家では今宵や明日は馬鹿にされるかもしれませんが、クリスマスを口実として我が家の幸せの一つである普段はしない贅沢なごちそうや子供達はキリスト教に関係なく年に一度のこの日を楽しみにしています。私はそれでいいと思います。家族が口実だとしてもしあわせになれ何か普段はいただけないものをいただき笑って過ごせる日が増えることは歓迎です。

人は欲張りです。ご馳走をいただきながら、彼等(子供達と家内)に独り言をいうのです。

「人のこころはまるいもので、人が変わったとしてもそれぞれの大きさは同じだと私は思う。
こころが大きければ大きいほど、人は幸せを心の底から実感できると思うんだよ。
一人のこころの大きさが決まっているのだとしたら、誰かとこころを共有できたら誰かと自分とで心の大きさが倍になると思うんだ。
一人より二人、二人より三人、ただね人は生まれたらいつかは死ぬものだから、こころは誰かと共有できてもまるくなると思う。
まるいこころが誰かがいなくなったことにより欠ければまるくなくなるんだよ、人はさ、心がまるじゃなくなった時に悲しむんだよ。
でもさ、人は生きている限り欲張(無い物ねだ)りだから、一人の心より大きくなりたいと願って、欠ければこころから悲しむんだよ。
本当矛盾しているんだけれど、矛盾してないんだよね。こころは大きくなりたいね(悲しみが増えるという矛盾はおいといて)」

誰かが私の変な身勝手な理論を理解してくれると私はしあわせを感じることができます。

「メリークリスマス」

(この言葉は、ふれあう人に幸あれ)

何だと思います(仏教を信じているのにおかしな私です)

冬の雨

 落ち着いている日なのに落ち着いていない私によって、一人だけ落ち着いていないような日となってしまいました。
家内と子供のためにという口実で、私が動くことによって楽になれると思って動いていたのですが、動けば疲れるのです。
怠惰(怠け)と体力不足なだけだとも言います。
予定通りではないですが、予定通りとして、子供のスポーツを迎えに行き、一緒にお風呂に入り、ようやく一杯やって現実と向き合うのです。

「酔わないと現実と向き合えないの」

そんな問いが優しく微笑んだ隣の家内から向けられました。

「ふふふ、酔ったほうがさらに向き合えるのだよ」

ちょっとした準備不足で子供たちのサンタからのプレゼントの購入が遅れています。一番の理由(言い訳)は子供たちに秘密ですすめないとけないこと、年々あの子たちは賢く成長しているのでそれが凄く難しくなってきているということ。最近色々と生活スタイルが変わったこと。

本当相変わらずの言い訳を探すことの上手な私です。

国民の祝日(天皇誕生日)であった今日ですがそこそこ忙しく、本当忙しいのはいいことで、私も含め従業員全員がそこそこに忙しければしあわせだと思います。雇われの私がそんなこと思うのも変なのかも知れません。

しばらくお休みをいただきましたので、子供たちとの時間をとれると思います。何か冬休みしかできない思い出になることをいくつかしなければと考えています。

外は冬の雨、月が見えないことが残念です。

何かをしていれば少し後で楽になれると思いながら何かを行います。

それが本当に楽になればよかったと思えますが、徒労や反対の思いへかわることもよくあることです。

「あの子たちのために何かしたい」

「何かしなければいけないから、あの子たちと家内のために何かする」

私は本当に損得勘定を脱せず、身勝手な理論を振り回してばかり、何も考えず笑ってできることのできる人の時間が増やせればと願います。

冬の雨もまた風情があってよいものです。

大人の

 「言わんといて」

その人のありのまま(過去・現在)のことを言葉にしようとすれば、人が違って言い方雰囲気がまるで違っても同じことを言われる方をみました。

その人のことをあらわす言葉には、当然悪いことをあらわすこと良いことをあらわすことという言葉が存在し、同じ事実をあらわすにも悪いことでも良くあらわせる言葉があり、つまりは悪いことでも良い言葉をもって描き出すことも可能です。つまりは善人にとってはありのままの事実と遜色がなく、悪い方であれば「よくもまあそんな上手(遠回しな嫌味)を言えますね」と周囲が聞いていれば思える言葉になり、善人の特徴としてはありのままの成した(善い)ことをお伝えしても

「言わんといて(私はそんなに善いものではないから)」

と言われることが私の近くでは多く。反対の方であれば

「言わんといて(言ってくれる人もなかなかいないから、もっと皆に言ってよ)」

と返ってくることが多いです。どちらも言葉としては同じことを言われています。その両者を長いこと誰かが苦しいときにどうであるかを見ていたりすれば、ことさらに言葉と本人の距離がどうであるのかが理解できはじめてきます。

言葉が飾りにしか思えないか、しっかりと身に付いたように思えないものであるか

嬉しいか悲しいのか、一つわかることもありました。ただよく知らない方の言葉が善い言葉であるとしても、その方が善いのか悪いのかが、ある程度その方のことを知らなければわからないということ。

よって善い言葉を放っている方達のあまりよくない方であれば

「頼むから、知らない人の前で言ってくれ」

と心の底から思うような人もいたり、もっと

「本当に頼むから、知っている人の前でも知らない人の前でも言わないでくれ、本当に頼むから」

そう願うのだけれども、情ない私はそんな思っていることを言えないことがほとんど。


ここで誰かから

「そんなことで悩んでるなら言えばいいじゃないですか簡単に」

大人である私は華麗に

「では、あなたお願いします」

そう質問されたら(そして私は関係ないことにしてくださいねと)にっこり笑うことにしています。



さけたい

 年を忘れに行ってまいりました。

二年前のそれでは、本当に飲み過ぎてしまい飲まれてからの記憶を失ってしまい(送り迎えをしてもらうことや介抱などの)迷惑をかけ、翌日の恐ろしいまでの二日酔いや気分の悪さをまだ忘れていません。

よって、(我を)忘れるほど飲むことは自重しています。そんなことが忘れられないほど何かにとらわれる人、忘れたいと思う人は時に思わぬほど酔って酔ってしまいたくなるようです。

酔うためにのむのか、のむために酔うのか

忘れたいためにのむのか、のむから忘れるのか

こうやって言葉を変え、(最近山頭火に習い考える方法の一つとして)私の何かを変えるようにしています。尾崎放哉や山頭火は自由律俳句ですから、私もそれに習って自由に何かを考えます。

仕事で時間が空けば(いつもではないですけれど)、後で困らないようなことを探し、取り組みます。ずるい私です。その時やらなければいけないきついことから目をそらし、他のことを考えています。自分にできそうなこと、やっておけば後で慌てずにすむこと、しんどいことめんどいことは本当に選択肢に上がりにくいことをみて、しょうがなく自分に向いたことを取り組むのです。

仕事が終わって夕方5時を過ぎれば辺りはもう暗く月を探します。

子供達のこと、家事、食事、お風呂、書き物をなんてしていればあっという間に時は過ぎ、次男のスポーツを迎えに行かねばいけません。外は寒く家に早く入りたいです。

「忘れていた月がそらたかく」

暖かい家の中で一杯やることにします。


(投稿したつもりが、下書きのままとはね・・・)

よく飲むぞ

 よく手紙を書くことを頼まれ、手紙をどう書くかで迷うより、何か他のことに取り掛かって慌ただしくしている時に妙に頼まれ、頼まれてもいないのに腹を立てています。そこは腹を立てても立てなくても、どっちみちそれはやり遂げるのに、やっぱりぶつぶつ言いながらやっています。結局真剣にそれはやり遂げるのだから怒らなきゃいいのにねえ(私は)。

どうもそれは私だけではないようで、忙しくしている時に頼まれたら同じように腹を立てている人がいました。なので

「どうして忙しくなってきた(本当に忙しい)ときに、わざわざそこで頼んでくるんでしょう」

そうお尋ねしてみました。するとその方も同じで、二人が頭を抱え、怒った上に悩む始末という、ちょっとはたでみていたら困った二人の出現です。さいわいなことに二人しかいないので、その時の共通の仲間ということです。(普段意見がそんなにぴったりあうことばかりではないですよ)。

私たち男性二人のことはおいといて、こちらを困らせることをよくして来る方が女性であれば二人は

「本当女性はこれだから・・・・」

自分を都合よくしか見ず、相手をひとくくりにして決めつけてしまう男二人は

「本当(あなたたち)男性(二人)はこれだから・・・・」

そう思われて仕方ないです。近くに女性が誰もいないことがさいわいです。


何がさいわいとなるかそれは、私のこころが決めることです。
(格好良く言ったって、だめなものはだめと、今日は一杯ではなくただ酒を沢山飲んでくることにします。)

一杯と好き

 昨晩家内は翌日の仕事が休みということで、子供達を寝かせてから、(私とあの人のために)酒の肴をこしらえ、家内と一杯楽しみました。
お互いの生活スタイルが変わったことにより、少し慣れるまで時間がかかるように思います。

(私も家内も)若い頃からタバコとお酒はさっぱりでした。二人共タバコはおそらく死ぬまで吸わないように思います。お酒もきっと私は楽しめること無く歳をとっていくのだと思っていました。
30代半ば位からお酒が楽しめるようになりました。これには昔の友人や両親もかなり驚いていました。何のお酒でも楽しく飲めるわけではないこともわかってきました。どうも赤ワイン・ウィスキー・焼酎(最近はもっぱら麦)が好みだということがわかり、日本酒はそんなに何故か飲めず、人もお酒も相性があるのだと勝手に思います。

いつも何か考えることは多いのですが、私ということ、私だけにあてはまる正しいということではない皆にあてはまる正しいということ、こころをみるということ、正しい認識とは、そんな事を考えては答えがでないことばかり。

かなり前から読んでいる書にあったことを考えていました。

私やこの世に生きる人の心は偶然的に汚れがつくということ、ただその心に汚れがついても何があっても清淨である心は如来であり真理であることだと、そのようなことをあれこれと考えていました。

心そのものは汚れがなく仏となれるもの、ただ偶然的に汚れがつくことにより、迷い・恨み・怒り・恐れ・自らを信じることも他人を信じることからも離れたりさまざまなことがある。

それから他人を見ても、その心に偶然的についた汚れによって転倒した方を見れば(いけていないのにいけているとか、できていないのにできているとか、とにかくどうにもならないのに良いようになると思い込んでいるだけとか)、偶然的についた汚れをどうも私は正しくみることも把握することも理解することもどうやってつきあっていくのかもわからないことばかりであると。

一体汚れが偶然的についても我を失わず、大切なことを見失わず、その汚れさえも認め容認でき、清淨であることがどうあればできるのだろうかと考えていました。

こんなことを書いている間に末の息子を歯を磨いて絵本を読んで寝かせてきて、またここを書きながら、あまり関係ない最近の私の中の好きであることの定義を思い出していました。

「その人の悪いことも良いことも普通であることも感情も、全て含めて受け入れることができればその人が好きであると思うのです」

なんて認識の甘い私はそんなことを言います。


そうでなければ私は誰にも愛されることも好きであるということが無理だからです。

本当私は身勝手に誰かを好きでありたい(愛していたい)と、誰かに好きで居てもらいたい(愛されたい)と、よく願います。

 話をすることが好きです。

よって勝手に一人で話し続けている時もあれば、誰かに聞いてもらったり、聞いたり。 

誰でもそうと思います。会話や時を過ごす相手に対して相性というものを感じます。

何気ないことを何気なく聞いてくれること。

そこにいてもいいとさえ考える必要がないくらいに、そこにただいること。

そのように時を過ごせるとき

あの人とは相性が良いのだと、そう口にしていました。

ほんとに

 今日もまた色々とありました。私にというか周囲にというか、色々良いことがたくさんであれば、自慢ばかりできるからなんて思うこともありますが、自慢ばかりしている人の近くには人が寄り付かないという思わぬ特典はあまり受けたくないことです。

色々という意味は望んでもいないことなのによくないことの連続に避けたいけれどさけれないことをいう言葉だと世間に生きる人は誰もが知っています。
人生いろいろなんて歌が売れたのも仕方ないことで、誰にでも長く生きていればいろいろあるのはあたりまえなことを自分には起こらないと思っていれば、世間に生きる人同様にただ出会うだけのことを、自分に訪れれば悲しんだり恨んだりそれを理由にしてあたりまえのことをしなくなったり、あろうことか関係ない人に八つ当たりして、さらに望んでいないことが訪れるという思わぬ特典を受けてしまうという。

本当に私は他人事であればそんなことを軽々しく口にします。

「私に(悪いことの連続が)訪れればどうなのか」

私は愚か者だから他人より余計に恨みに囚われ激しく恨み、誰よりも感情的になり、他人に私が今書いていることを言われたとしても受けとれず腹を立てまくっているというね

馬鹿だね私は

ゴロゴロ

 12月16日 晴れときどき小雨 夜空には三日月

少し間隔が空いた休日、私が休みであれば「けいくん」を幼稚園へ預かり保育ではなく迎えに行ってあげれます。かえる組になれます。

昨晩遅くまで一人で飲み過ぎたせいか、疲れていたのか、睡眠不足なのか、朝あの子を歩いて一緒に送り、洗濯物を二回ほど仕掛け、沢山いただいたほうれん草を茹で、そのあたりを片付けながら、洗濯物を干してしいました。家内の実家からも野菜が送ってきていて、根付きのネギを庭の菜園へ植え、そんなことをしていたら昼に、あの子を迎えに歩いて行きました。

お迎えに来られている方は共働きではない方、または祖父母知り合い兄弟などが迎えに来てくれる方、預りさんはお昼寝に入ります。お昼寝組さんにバイバイをしながら楽しそうに帰るあの子、歩きですから最短ルートを通って帰ろうとしたら

「おとうさん、こっちからかえろう」

違う小学生たちがグラウンドで楽しそうに遊んでいる横をぐるりと見ながら回って帰る道が好きなようです。

「おにいちゃん、おるかな」

グラウンドに走り回る沢山の小学生の中から必死に探しています。

「多分あれじゃない」

ただ、制服も同じですし、しっかり見分けがつかなかったようです。帰ってあの子は字の練習をしばらくしていました。
自分からするような天才ではありません。ほっといたら私のように遊ぶことしかしないので、練習がしっかり終ってから遊べるのです。

「集中してやらないと、遊ぶ時間がどんどんなくなるよー」

「はーい」

素直な返事とは裏腹に、私の指導が悪いせいかあまり進みません。進まなければ遊ぶ時間が減るのにねえ・・・

ただ少し体調がよろしくないので、遊ぶ時間が来たら隣で私は寝ていました。寝るのは得意なのでずっと起こされなければ寝ます。ただ外に干した洗濯物が気になり、見てくると二三粒の雨が落ちてきました。グッドタイミング全て取り込み、洗い物などを片付けまたその辺りで寝転んでゴロゴロしていました。最近車がないので、どこかへ連れて行くことも少ないです。何か手を考えておくことにします。

一杯やってよく寝ることにします

有り難や

 今年はよく大根を何本もいただきました。例年こんなに大根をいただくことがないのに、何故なのかなとか思いましたが、ただでいただけることに理由を探す必要もないです(けれど気になる私です)

ネットに今年は11月雨がよく降ったことにより、大根の生育が例年より早く育ったと書いてありました。つまりは農家の方が同時期に早めに大量の出荷がはじまったことにより、箱に入らないほどの大根の成長で出荷ができない大根も多かったと書いてありました。
それが本当かどうかは確かめにも行かないのですが、確かにいただいた大根はどれも相当立派に育った大根ばかりでした。
大根を出荷される農家さんは大根の値下がりに気の毒ですが、我が家はその農家の方々の恩恵に預かって、立派な大根を色々とふんだんに使って、大根三昧の日々です。
「ありがたやー」
おでんとか何度も楽しめるし、雪見鍋とかにもケチらずに使えますし、大根サラダとかも美味しいですし、まあ他いろいろ大助かりです。ただ私だけがしあわせで、作っておられる方が儲けれなければ作られる方がそのうち存在しなくなります。満腹になってからそんなことを考える余裕が出てきます。無い時や空腹時の私は情けないほど余裕がありません。何かをいただけば「助かります」としか言いようがなく、食べれたら幸せだくらいしか思いついていません。いつも自作の野菜を沢山くれるおじさんに本当に感謝しています。


誰かには有難い人でも、誰かにとっては憎い対象なんて話もあります。

人には相性があります。きっと皆が大好きなんて人は稀なように思います。私はきっと普通の人だから苦手な人も居て好きな人も居て普通の人もいます。

家内も新しい場所で悩んでいるようです。

悩みがあるということは生きていることだと家内へそう言いませんが、そう思います。やっぱり人にはあたりまえのことを思ってしまいます。
苦手な人がいるから好きな人がいるんですよ、なんてね。

それは誰かにではなく、私にこそいつも忘れないように言い続けなければならない言葉なのにね

簡単なこと

 一昨日の話を今日いつもお世話になる方達にお伝えしていました。二人共その話を聞いて、涙をしていました。
私もそれは同じです。いつの時もなのでしょうが、子供の言葉は何にも勝る力がそこに確かにあり、どなたの心にもすーっと染み入ていきます。

そんなことを話し終わって考えていました。

私も子供の頃があって、素直な言葉を大人達に言っていたのでしょう。私だけでなく他の大人も、子供の頃もう忘れてしまっているかもしれませんが、素直な言葉を言っていたと思います。

ただ子供達を見ていて、どうもそれを計算して言っているわけでもないようです。狙って言っているようなものでもないです。自分がそれを言っていることにも気づいていないようです。

おそらくそのことに本人が気づいていれば、きっとその言葉は損得勘定や計算高いと思われる要素が入ることになり、素直ではなく純粋でもなく、どなたの心にもすーっと入ってこなくなっていくのだと思います。

私はもう子供ではありません。

けれど誰の心にもすーっと入っていくような言葉を出せる大人の私を夢見ています。

考えればそれは出てこないのに

計算しても出てこないのに

学んだからとていとも簡単に出るわけはないのに

けれど簡単なことです。

くだらないことを捨てされているそのとき

一切の損得を考えていないそのとき

ただただ、目前の方のしあわせを願うとき

美しいものに涙するとき


本当皆に簡単なことが、私には難しいことばかり

けれど今日もそれを願い思うのです。

それ

 友人達に会い、話を聞いていると、成したことを言わなくても、身についているものが何気ない言葉や態度として出てきています。それに圧倒されたり、優劣がついたり、笑いあえたり、かなわないと思うこともあり、その他さまざまな違いに気がつかされます。

「ある人にとってあたりまえであることが、私にとってはあたりまえではなくて特別のこと」

人間に個性があるからそれはあたりまえのことなのに、(私は)驚くこともあるし、学ぶことも多いし、感心させられるのです。

誰かのあたりまえのことが驚嘆にあたいすることでも、私はそれを簡単にできないことばかりです。それはその人の生きる道なのだと納得してしまうほど、気がつけば四人いたそれぞれが同じ職業ではあっても生きる道が少し異なることも認識しました。
誰かは誰かであって、私は私、誰かの道は誰かの道で、私には私の道がある。

私はよくあこがれる誰かになりたいと願うことがあります。どれだけ憧れてもその人にはなれず、私は私をみるほかないのに、私は私の道を行くしかないのに、私の道があっているのかと不安に駆られ迷うことがよくあるのです。

間違っていても、あっていなくても、それしか思いつかないのだから、それでいくのです。

誰かを囲んで三人よる(そんな夜)

 久しぶりに友人四人で集い盛り上がりました。
笑えないことなのに笑い合い。知らない人にならば言えないようなことで笑い。何を言っても笑い合えるという時間。皆それぞれが別の場所で働き家庭を持ち、それぞれの道を進んでいます。
私が一番あれでしょうね、皆一国一城の主となってやっているのに、ずっと地味なままです。それもまた私は気に入っているし悪く無いと思っています。あの人達にはあの人達の、私には私の道があるのだと最近は思えてきました。

あまり楽しんではいけないのに、四人でいつまでも笑っていました。お酒が飲めなかったのは残念なことです。酔うと本音というか少し制限が誰でもはずれますので、大人であれば何にでも制限をかけてしまうことはよいことです。ただ遠慮して無難なことを言い合うだけの時間より、多少傷つけあっても本音を言い合うことを欲しています。
不器用だからそんなことでしか、痛い言葉を言ったり言われたりとかではないと、先にすすめないなんてやっぱり頼まれてもいないのに思うからです。

今日は本当にいろいろあったので、お酒を飲んでは次回の楽しみとしたいです。(明日のために寝るのです)