褒美をとらそう

 長男坊は期末テストが始まりました。あの子割りと成績は悪く無いです。私の前ではコンピュータに向かってばかりで、宿題も学校で済ませてくるから、ほとんど勉強熱心な姿は見ない私の口癖は

「お兄ちゃん大丈夫なの(勉強や宿題)」

「いけるよ、いける(こうみえても真剣にやってるから)」

「今までのテスト結果も悪く無いから、きっと真剣に私の前でもやれば、トップとれるんじゃないの」

「そこまでしなくていいって、いける、いける」

年をとって、いつも近くにいれば、何かを心配するものです。

ただですよ、今回は友人がお兄ちゃんの成績が3位以内だと、「カラオケに行こう」なんて太っ腹な発言をしていました。

彼には今まで以上に真剣に取り組んでもらわねばいけません。保護者として彼のカラオケに不本意ですがついていかなければいけません。決して私がsing a song が人より好きなわけでもなく、ただ(無料)に弱いからでもなく、三人よるところには行かなければいけないと思う性格でもなく、ただあの子の親としてしょうがなくついていかねばいけませんから、是非あの子には今回頑張って欲しいところです。

あまり私は願掛けしないのですが、今日は禁酒で彼の側にいようと思います。

お兄ちゃんも楽しみだけれど、次男坊や「けいくん(三男坊)」の方がもっと楽しみにしていそうです。彼らの願いを兄は叶えてあげれるのか、ちょっと楽しみです。
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気を付けること

 お酒の肴を何にするか
明日がday offなので、ゆっくり楽しもうと思い、家内へ何か必要なものがないか仕事が終わって灯油を買って、ようやくこたつの次に石油ファンヒーターを冬に向けて出しました。

スーパーへ行って、昨晩はご馳走でしたから、贅沢は慎み、なおかつお酒のあてになるリーズナブルな品物がないか物色していましたが、結局頼まれたものだけを購入して帰宅しました。

美味しそうなものは値段も高いし、お腹周りにお肉がつきそうだし、ダブルで体と懐に優しくないなんて考えていたら、肴はなくなったのです。なのでまた格安のワインだけを飲むと

ちょっと気も体もゆるみがちですから、しっかりしていきたいです。

目標

①余計なことは言わない。

②正しいと思い込みすぎて正しいことを言わない。

③買い物は慎むこと(スーパーでついあれもこれもと食材を無計画に買わない)

④真剣に書物に取り組む

⑤よく寝ること

⑥何事もほどほどに

⑦お酒はできれば飲まないほうがいい

⑧愛は多ければ多いほどいいけれど、経済力も大事(わかっていても経済力が増えないのはなぜ)

一杯やって寝ることにします

矛盾していそうで矛盾ではないこと

 久しぶりに家族でおよばれしました。
焼肉をたらふく家族全員いただきました。お腹がふくれることは幸せの一つ、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか、食べるために生きているという方もいるし、生きるために食べている方もいます。

有名な内田樹先生が著作で何度も言われています。与えることによってのみ形を変えて自らの欲しいものが返ってくると、本当これは矛盾しています。

しあわせが欲しければ、相手にしあわせを与えることによって、自らにかたちを変えて自らの欲しいものが返ってくると、彼は私と家族に優しい方です。家族全員今日はしあわせになりました。

「けいくん」にいたっては、しあわせすぎて彼の家に住みたいと何度も懇願していました。

しょうがないです。私は「けいくん」の願いを叶えようと思います。

「けいくん、いってらっしゃい」


ただ良識ある彼は微笑みながら、一人で帰りました。おそらく次回は「けいくん」の願いをかなえてくれることでしょう。

家内と私と子供たち本当に善い日でした。

酔っぱらった私は難しいことが考えられなくなって、ここも凄く短めなのです(おやすみなさい私)

いつものその差

 私がいない間に口論があったと二回ほどありました。

「私がいれば、あなたが口論しなくても、こちらが言うのに」

後出しじゃんけんのようなことばかりいってもしょうがないですから、

「次は私がいるときに話をしてね」

あえて誰もいない時に向こうは話をしてくるんですよ、みたいな空気を出している。

私は思ったことを割とその時にずけずけというから、煙たがられたり、言いすぎたり、恨まれたり、うとまれたりすることがあります。
それだけわかっているのであれば、言わなきゃいいのに、気がつけば感情を抑えきれず言ってしまったあとです。

「おおらかに おおらかにあれ」

私の心を(痛い思いをして取り返しがつかないことになって)大きく願うのも私だし、狭く小さいものとするのも私の心です。


ただもっとめんどくさい私の心があります。

それは言わずに後悔長くするより、はっきりと言ってしまうことを好む傾向です。

本当自分でもそれが困ったものだと思うのですが、相手にしたらもっとめんどいだろうにねえ。


性格というか性分というか、と言えば単に自分にとって都合のよい言い訳をして変える気がないのだととられるのでしょう。
だからでしょうか、言うとしてもあたりまえのことで正しいこと、その現実に即していることをと、色々日々調べ物をします。

だからってその大切な時に役に立つか、間に合うのか、皆に即しているか

それがその差の分私はいつも痛いです。

(書きかけのまま)

冷静になって考えてみれば容易に理解できる。
けれどもいざ現実では、(自らの中にある)損得・打算・周囲とのつきあいに流し流され
冷静さ客観性なんてどこにあるのと思わされることがある。

落ち着けば、それはそうだと納得する。現実は落ち着いて話をしたときがまるで存在しないかのような言動ばかり。
嘘のような不思議なことばかりが続出する方がいる。

「よく(あの人のことは)わからん」

そんなことを果てしなく思ってしまう。まともなことを言う方に囲まれていればおかしなこともいわない。
おかしなことを言う方達に囲まれば、わをかけておかしなことを言う。

「蓬生麻中不扶而直」(よもぎも麻の中に生えてくれば、助けることなくても自ら真っ直ぐに育つ)

麻の中の蓬と地べたに蓬のみ生える違いか、理想は目前にいつも泥中にあって泥に染まらぬ蓮を観ている私。

「理想と現実は違うんだよ」

行動も思慮も足りておらず、両方足りている人でさえ、過酷な現実が訪れることもある。



今日はいろいろあって欲しくないのに、いろいろあった。

悪くなってほしいと思っていない。よかれと思って言っているつもりでも、私の言動がきつすぎれば、言わないほうが新たな問題にならなかったのになんてことはよくある。

これから出てくる問題に対処しようとすることを忘れてはいけないと言いたいだけのことが、どうして私は愚かな言葉しか出てこないのか。

相手が問題ではなく、相手の問題が問題でもなく、やっぱり私の問題は私にしかない。

行事と幼児(用事)

 家内に用事が増えて、家庭のことに割く時間が減れば、その歪はどこかに現れます。今まで家内へほとんど任せっきりだった行事や病院なども、いなければ私がなんとか時間を作っていかねばなりません。

この時期インフルエンザが流行する前に予防接種があります。幼稚園小学生は流行しやすいですから、二回目の予防接種へ次男と三男を連れて行きました。

病院や薬にそんなに病気になっていないのに、「けいくん(三男坊)」は素直で慣れたものです。今日の予防接種も他の同じ年齢の子が泣いて嫌がっている子もいるのに、一人でスタスタと先生の椅子の前に座って、「お願いします」とにこにこしていました。次男坊が突然

「僕をさきにお願いします。」

「いや、けいくんが先にもう座っているし、あの子からでいいんじゃない」

「僕が先で」

何度か言うのでしょうがなく、「けいくん」の順番を後にしました。しょうがないので理由をたずねれば

「人が先に注射しているのを見ると怖くなるじゃない、見たくないから先にしてもらう」

まあとっても正直です。そして怖がり屋さんです。

「けいくん」は一人でその後座りました。横の看護師さんが

「この子一人で大丈夫ですか、逃げたりしたら怪我するので危ないと思いますが」

「何かいけると思いますよ。一回目も泣かなかったですし、今回もわかっているみたいですから」

「じゃあ、お父さん注射をしない反対の腕を持っていて下さい。」

「はい」

先生この時期多く注射しているのでなれたもので、さっと済ませていました。

「けいくん」逃げることもなく泣くこともなく、堂々としていました。

「あら、この子ほんとうに大丈夫だわ、凄いねえ泣く子も嫌がる子も多いのに」

そう言えば私は血を見たり、注射されたり、血を抜かれたりすることが大の苦手です。あの子はしゃべれるようになってからもお医者さんの言うことに素直で嫌がることが全く無いです。

長男坊は中学生でそろそろ期末テストです。私に似て勉学にあまり励んでいません。中学校の先生から電話がかかってきて、三者面談を何日にするかのプリントが返ってきていないと連絡がありました。どうも先週プリントをもらっているようですが、私はそれを見ていません。本当私に似て物忘れの多い子です。

今度の三者面談で先生に、普段の長男坊がどのようなものかをお尋ねしてこようと思います。そう部活から帰ってきた長男坊へ伝えると

「こうみえて、やることはきっちりやってるから、不安なら先生にその時尋ねると良いよ」

意外と私に似ていない落ち着いた答えです。

どうも幼稚園の「けいくん」の参観日もあるようです。家内が無理なら私が参加してこようと思います。

(明日仕事の休日の調整を皆にお願いしてこようと思います。私が無理をしてダメなら家内に無理を言ってそれでもダメならあきらめるしかないな)

第五回目、講演(講話)

 今月初旬外から連絡してこられる方は少ないです。携帯電話を持たないようになってからそれに拍車がかかり、携帯にはかけやすくても固定電話にはかけにくいと、我が家の世帯主は私なのだから気にしなくてもいいのに、ほかの家族のことが気になるのですね。
まあ誰が出るかわかりにくい要素がダメなのでしょう。携帯ならばその人しかほとんどといってよいほどでませんから。
ただ昔は黒電話一本で済んでいたのに、本当人間というのは贅沢で欲張りですね(特に私)。

さて何の連絡だったのかというと、その連絡は携帯をもっておりませんから職場にいつも連絡があります。講話の依頼でした。仕事ではなくプライベートなことですが、職場の方達の素晴らしい配慮と理解で休日や他のこまごましたことも支えてくれます。本当に本当に有難いです。

いつも一年に一度のペースなのですが、今年は2月に依頼がありまして、私は来年の二月頃運が良ければあるのかもしれないと思っていました。今11月、講話(講演)の依頼が年に二回というのは初めてで少し驚きました。今回を入れれば確か4年目くらいで今回で5回目のご依頼だと思います。

考えてもわからないときは、その方へ素直に尋ねることにしています。ただ今までと違いました。

「いやあ、前回玄奘三蔵の天竺への求法の旅を話してくれたけれど、天竺(インド)につく前に話を終わらせるから、今回は是非玄奘三蔵を天竺までたどり着かせて唐の国へ返してもらわないと」

理由は至極簡単でした。いつも始まる前にどういった話を幾つか練っていくのですが、主催の方がそのときどういうものを求められているかを直前の会話を参考にしてお話をしています。だから用意していた話が不要となったり、計画通りになどなったことは少ないです。けれど場数も少なく愚かな私には無駄になっても無駄なことへの準備をすることにしています。

「前回の話、(真剣に話していたのですが)どうも皆途中から聞いてないと思って、興味ありそうな話をして、すぱっと切ったのですが」

「聞いてるよ(特に私はと主催者の方が)」

「そうですか」

「今日は天竺まで行って帰ってきてもらわないと、ああそれと君九州出身だから、九州押しで、話はおもしろくして、頼んだよ」

「はい(おいおい、今回の依頼は明確な上に、ほかの注文も多く、おもしろくしてって)」

私は笑顔で会場へ一緒に向かいました。

まあ私のその話がどうだったかは、じゃんけんみたいなもので、終わってしばらくしてから今まで同様出してくれます。良い結果が後出しじゃんけんのように先にわかることはないです。

いつもであれば、どんな話だったかを忘れないように書くのですが、まあ頼まれていたことを何とかクリアできたと(あくまで私は)思います。

色々ともっと良くなるようにと終われば教えていただきます。少し痛いこともありますがやはりそれは私のできていないところですから受けとるしかありません。

へそ曲がりな私は、自分を捨てきれず、自分の願う方向性とその方の願う方向性とその他など色々なことが善いことを願います。


終わって思うことはやはり同じです。日々の学びや努力をもってしかその時の私を支え輝かせてくれるということが回数を経るたびに身に染みて思います。

今日は終わってほっとしています。ただ次があるかどうかより、困っている私をあまり見たくないので、もっと真剣に日々を送って行きたいです。


ですので真剣にお酒を飲むことにします。



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反対ばかりの

大学生時代、まともな勉学に努めることもなく、本を読むこと、調べること、そんな簡単なことをないがしろにしているだけでなく、何かと誰かのせいにして逃げていました。

20年以上前のことを書いたかといえば、その時何故か(単に流行っていただけなんでしょうけれど)「相田みつを」さんの本を集めていました。子供の気分が抜けない私は知人友人へ「相田みつをさんの本が欲しい」とよく口にしていたら、優しい人が何冊もくれました。
阿呆な私はくれた方に感謝するのではなく「自分がいけてるからくれたのだ」なんて変な頭をしていました。

  セトモノとセトモノと
  ぶつかりッこすると
  すぐこわれちゃう
  どっちかやわらかければ
  だいじょうぶ
  やわらかいこころをもちましょう
  そういうわたしはいつもセトモノ

これは相田みつをさんの詩である。私は結婚式のテーブルスピーチをたのまれる、よくこの詩を贈る。しかし、一言付け加えることにしている。「私がやわらかい心で、相手がセトモノだと思ったら、その心がセトモノの証拠。私がセトモノだったと気づかせていただく心がやわらかい心であることを忘れないように。しかし自分の心がセトモノであったということは自分ではわからない。おおいなる教えの光に照らしていただかないと、自分がセトモノであったということには気づけないものなんだ。」ということを。
 しかし光となるべき教えさえも、聞き方が悪いと、他を非難する材料におとしかねない。澤木興道老師がある婦人会へお話に行った。話が終わったところで、会長である姑(しゅうとめ)がおしぼりを持ってきていった。
 「老師さま、まことに結構なお話をありがとうございました。さぞかし嫁が耳がいたかったろうと思います」と。入れかわりに嫁がお茶とお菓子を運んできていった。
 「さぞかしお姑さんが耳が痛かったろうと思います」と。
 この嫁姑の姿もほかならない私の姿と、せっかく仏法の話を聞きつつも、他の非難の材料としてしか聞けていない自分にきづかせていただかねばならないと思ったことである。
みちしるべ 正しい見方 -八正道シリーズ- 正見(しょうけん) 仏教伝道協会



悪いことは本当にあてはまり、面白い話ではありますが、事実私も仏教書をよく調べながら、善い言葉や文章をみつければ、できていないと私が勝手に思う方にあてつけるかのように話をしていることも同じです。

いつも近くにいる若者(友人でもあり同僚でもあり上司でもあり、めんどくさくもあり・・・)とお互いにそんなやりとりをして時間を過ごすこともそうです。

気づけと思えば思って言うほど伝わらず、ただただ自らに言い聞かせるように思えば思うほど相手に伝わっていることもあり、難しい私です。

改めて書くとこれは

 昨日趣向を変え健康のためにポリフェノールがいいとかいう記事をどこかで見つけましたので、(凄く安い)赤ワインを購入、流行のボジョレヌーボーでもなく、ポリフェノールが一体身体に何のいいのかなんてことを追及もせず、たまにはいつも飲んでいる焼酎ではないものを飲んでみたい口実として、飲んでいました。

自慢ではありませんが、ワインの味なんてわかりません。アルコールが入っていて健康に害がなさそうなら問題ないという私です。(そもそもお酒をよく飲む時点で健康に害がとかいうつっこみは見ないようにしています。)

寝る前には一本空いていて、家内が起こして心配そうに

「大丈夫、一本空けてたけど、一体昨日は何時に寝たの」

子供が寝た後、私は趣味でパソコンに没頭していたり、何かの番組を見ています。よって子供達が起きていればあの子たちに時間(趣味)をとられるので、寝静まった後でないとあの子たちが夜更かししてしまいます。

秋の夜長(もう冬も近いのかもしれないけれど)を満喫していれば、時間の概念なんて無くなるのです。

ただ家内が心配してくれるのは、睡眠時間の不足や飲みすぎによる、体力の低下です.

もっとわかりやすく言う必要もないんでしょうけれど、子供たちの面倒もある上に(家事・育児)旦那のお世話が余計に来ると大変だからです。


「ん (これはいつも近くにいる人の声がするような気がします)

『わかりやすく書けるなら、気を付ければいいんじゃないですか』

それが簡単にできるなら、もうとっくにやめてるんですよそんな無駄なことは」


なんて頼まれてもないのに、心の中からもう一人の私が気の利いたことを言ってくれるのです。


なので、仕事と体調に影響を及ぼさない程度に(多分)その声(心)に甘えているのです。


家内と甘いものには目がないわたしでしょうがないです。

やーねえ

 三つ巴という言葉は良く出来た言葉だと実感します。

じゃんけんが一番幼い子から大人まで三つ巴ということをあらわしているように思います。何かには勝てるけれど何かには弱い。

人間だって三人いればそんなことがあります。

得意分野と弱点、人それぞれ違い二人だとどう返ってくるかが、時を長く過ごせば過ごすほど理解できるので、ここで第三者の目新しい視点や理解がさらなる発展を生むことになります。

二人以上だとさらに良いのでしょうが、三人というバランスの悪さがまたいいです。ある時は私と誰かが組んで強くなり、ある時は誰かと誰かが組んで私が弱くなり、対象の問題が変わるたびに弱くなる人が入れ替わります。

それもまた時間を長く過ごせば、弱点をつきやすいのですが利点もつきやすく、やっぱりじゃんけんみたいになります。

先日有名な話を子供にしました。私の子供は三人ですから例えとしても使いやすいのです。

「3本の矢」の譬え

お兄ちゃんとそんな話になりましたからその話をしました。しかし、彼も家内もその譬えは有名なので3本の矢と聞けば最後まで理解しています。

「貴方自身が一つの矢だとして、一本ならば簡単に折れる。(矢を簡単折るしぐさをしてみせます。)

ここにその矢が三本ある。一本ならば簡単でも、三本ならば(ここでも矢を折るしぐさをしてみせます。)

(どうも彼らは、三本ならば折れないと言うと期待しているようです。へそ曲がりの私にそんなことはありません)

この3本の矢を折ろうとすれば、このようにやっぱり折れる。」

誰かが

「折れるんかい」

そう突っ込んでいます。

「どうだろう。人は矢じゃないから、集まれば確かに一人より強くなる。けれど折れる。もっと折れないために強くなるためには、それぞれの短所と長所をそれぞれが周知すること、口に出すより目を見てそれが通じ合えるようになれば、今まで簡単に折れたことでも三人よれば、折れなくなる。

ただ三人寄れば折れなくなるという話ではないとお父さんは思うよ」


(酔っぱらいは時に饒舌で、時折良いことを言うものです。)

今夜は趣向を変えて、葡萄酒をいただき、過去と自らの良さ気なとこをさり気なく自慢するのです。困ったやつです私は)

怒る練習

 中学生になって部活を頑張っている長男が帰ってきて落ち込んでいました。

「どうしたの」

「顧問の先生に怒られて」

「何で」

「ミスが有って先輩もそのせいで怒られた」

「誰のせいなの」

「僕が知らなかったことが原因」

「知らなかったことならしょうがないよなあ、でもさ落ち込まなくていいよ

子供は大人に怒られるのが仕事だし、大人が子供に怒られるのが仕事ってのもちょっとお父さんとしては困るしねえ」

「そりゃそうだけど」

横で晩ごはんの支度をしながら、家内が何か言いたそうな顔をしていました。

「何、何を言いたいの」

「いやね、お父さん誰かに怒られたら落ち込んでるし、怒ってるし、何か不満よく言うじゃない。それなのに子供に言ってることがさ」

「それもそうだ

よし、お父さんが先生に怒ってやるよ、モンスターペアレントになる」

「おかしくないそれ」

「ちょっと練習してみるよ

先生、うちの子を怒ったんですって、理由を聞けば、うちの子に原因があるとか、怒るのも当然ですが、怒られることが腹が立つので怒りに来ました!

いや、これ正論過ぎて怒りながらムキになってお父さん言えそうもないな

もう一回練習してみるよ

うちの子がおかしい所があるから怒られたとか、おかしい所があるものを怒るなんて、先生にだから私は文句を言いに来たんですよ

やっぱりダメだ・・・

お父さんはモンスターペアレントになる才能がちっともないみたい。

お兄ちゃん先生怒りに行くのあきらめて」

どうも、怒りに行くことをあきらめるより、お父さんの阿呆さ加減にあきれて、不機嫌なことはどこかへ少し飛んでいったようです。


次男のスポーツの迎えにこれから行って帰ったら、いつもの如く一杯やることにします。


これできっと才能が開花するのではないかとも思います。

棚上げ

善い関係を誰もが築きたいと願うこと(とき)ある。(偉そうに言うあなたはどうなのなんて、自らのことを棚にあげ、思いつくことを書き連ねていく。)


善い関係を誰かと築きたいということは、みずからのしあわせを願うことである。

我が我がだけが良かったら良しがしあわせ(我の利益のみを優先する。それを「我利我利亡者」と呼ばれる)ではなく、むなしく寂しく満たされないものであることをそれを追い求めれば求めるほど(周囲が先に自らは遅れてその程度だけ)思い知る。

何かよくわからないけれど(不可思議な)縁によって気づく。気づけばいつも時を長くするかたやふれあう方と心から笑っていたい(共にしあわせであるこ)と気づかずに願う。

厳しくも悲しくもつらくも苦しくも恨み多くあるからこそ、笑っていたいと願う。

人によればつらいことがなくても上記のことがなくてもしあわせを願う人もいるだろう。


一つ

つらく苦しく恨みの中を理解できることなくして、ただ笑いあえることも少ないと思う。


深きを知るからこそ、(その深さの分・幅だけ)高みを観るのだろう


浅く狭い世界で勘違い(顛倒)したまま、それこそがこの世界のすべてだというようなことは見聞したくない。


私にこの世界が美しいことを笑って示してくれる人と時を長く過ごしたい。

この世界の真理は長く広く深く輝きを放ち、まばゆく美しいものだと微笑んでくれる生き方(その道は何でもいいと思う)。


それがそのすべてではないけれど、しあわせの一つ



本当、「(そんなことを書く)あなたはどうなの」という言葉が痛い。


(お酒がすすんで仕方ない)
口実と健康とそんな生活ができていることを感謝したい。

金の

 仕事が終わって「けいくん」を幼稚園に迎えに行きました。仲良くほかの子供たちと遊んでくれていることが何よりです。

「きょうも楽しかった」

「うん、楽しかった」

小さい子の笑顔に代わるものは少ないです。帰って用事を帰宅しているお兄ちゃんたちと分担で済ませ、お風呂へ入るのです。

自宅で気が緩めばおならがでることもあります。(まあ子供たちからしたら、お父さんまた・・・)

ここはですね、一緒にお風呂に入っている、あの子にたずねてみるのです。


「あなたが落としたのは、金のおならですか、それとも銀のおならですか」

「どちらもちがいまーす」

素直に答えてくれます。先ほど晩御飯が終わってあの子にりんご(シナノスイート)をむいて食べさせていました。

「あなたが食べたのは金のリンゴですか、それとも銀のリンゴですか」

うふふと笑いながら

「ふつうのりんごでーす。」

「素直な良い子には明日の朝みかんを食べ放題です。」

「わーい」

本当他愛もないことをわらいあえ、私のあほな質問にも素直に答えてくれます。


今日も迎えに行ってきました。迎えに来た私を見て喜び言うのです。

「おとうさん、買い物行って帰ろうか、おやつ買って帰ろう」

そこは、可愛いので「うん」と言ってあげたいところですが

「家に昨日買っておいた大きなプリン(広告の品格安でゲット)があるから、早く帰って食べよう。」

「それなら早くかえろ」

帰って手を洗ってうがいをして、大きなプリンを食べてから少し字の練習をしました。晩御飯が終わって次男をスポーツに送って帰ってくれば、家内と食後のみかんを食べていました。

「お風呂入ろうか、けいくん」

「うん、だっこしてお風呂連れて行って」

「おいで」

抱っこちゃん人形みたいに、しがみついて笑っています。

「きょうもおうちは楽しいね」

すなおで笑顔の多いあの子に、私も家内もいつも心和まされます。


幼子に厳しい現実をむけることを誰もがしないことです。理由がなんとなくわかります。大きくなっていけば自分の現実、自分を取り巻く社会の現実など、困難なことが望まなくてもおとずれます。小さい子が愛情をたくさん受けて育てばきっと大人になって自分の番が来た時に困難な現実と優しい愛情を認識するでしょう。


彼が大人になってどうなるのかは、わかりません。ただ愛されていたと何となくでいいですが再認識できるような生き方であって欲しいと思います。

あの子の笑顔は金色です。




ここ重要

 ちょっと他所様より遅れて、「けいくん(5歳)」は幼稚園から帰れば、遊ぶ前にひらがなを練習しています。
「習うより慣れろ」なんて言いますから、初めはなぞって書いて、次には見本を見て書き、後は日々の反復、子供から望んで読み書きソロバンをお願いしますという子供は私の家には生まれてきませんでした。

よってうちの子達は全員男の子で、一家の大黒柱とならねばならぬ人たちばかりです。今時大黒柱とか使っているのかわかりませんが、まあお父さんになる人がしっかりしていないとお嫁さんも子供も困るでしょうしね。

「けいくん」はお母さんがよく絵本などを読んでくれます。だから絵本は大好きです。

「けいくん、字を覚えるとけいくんの好きな本、読みたいと思う本、色んな本を自分で好きな時に読むことができるよ

だから、がんばろうね」

素直ですから

「うん」

と答えます。ただ絵本は読んでくれたほうが、正確には一緒に並んでみたほうがあの子は今それが一番のしあわせのようです。

私の中の絵本の定義が最近出来てきました。

①文章だけでなく、視覚に訴えることの多い本であるから、絵の出来もかなり子供には重要

②絵本の内容より、一緒に同じ本を見て、同じものを見て考えて、ぴったりとくっつく時間を持つということが何よりも大切と思えること

③最大の難関、子供より親の継続が大問題であること
いつの間にか読み聞かせをさぼろうとする才能の素晴らしさに乾杯(完敗)に注意

④子供にというより、自分が楽しむこと

なんてとこが私の中の絵本の重要な点です。


⑤があるとしたら、その子の性格性別年齢理解力に応じた、絵本をチョイス出来た時自分がしあわせになれます。
(なんていったって、相手の反応が最高なんだから!反応ないとちょっとね・・・)

こんなことを書いている後ろで彼(けいくん)は字の練習をしていました。最近ようやく文字の練習から文の読み書きの練習へ切り替わってきました。これが平易にできれば、絵本だって自分で読むことができます。


「う!」


自分で読めたら、こちらが読まなくても「一人で読みなさい。読めるんだから」なんて冷たいことをいう私が出てきそうで怖いです。



あんまり怖いので、そんな怖い私の存在を完敗させときます。

(つまりは口実として乾杯しときます)

休日

 やっと休日がやってきたと思えば平日の朝、学校へ行かなければいけない人達は朝慌ただしいものです。まだ旗当番が回ってきたり、「けいくん」を幼稚園へ送っていかなければ行けなかったり、家内も用事がありますから、もれなく私へこなせない用事は回ってくるのです。
よって、朝寝をずっとしようなんて甘いのです。「けいくん」と一緒に幼稚園へ歩いて行って帰ってくれば家には

「そして誰もいなくなった・・・・」

静か過ぎれば、段々と眠くなってきました。気がつけばコタツでうっとりしてしまい、はっと起きた時にはAM11時、仕掛けていた洗濯物を干す間に、新しく洗濯機をしかけ洗い物をして、昨晩何枚も残っていたお好み焼き大きな一枚だけとってありました。おかげで昼ごはんを作る手間も省け、まったりとランチタイム。
それから三男坊を歩いて迎えに、園児を迎える人達、母親がメインですが、私のように父もたまにおられ、祖父祖母の方もおられます。「けいくん」と仲の良い女の子と一緒に歩いて帰っていました。どうも女の子のお母さんが言うには
「けいくんが大好きなんです。でもうちの子の片思いなんですけどね・・・」
そう相手のお母さんとは初対面なんですが教えてくれるお母さんでした。あの子も私に似て隅に置けない子です。(フフフ)
帰りに黄色い小さい花が咲いており、一つ摘んであの子は持って帰っていました。小学校の隣を通っていましたら、グラウンドで次男坊が昼休みにサッカーを元気にしていました。姿が見れないかなと探していたところだったのでかなり嬉しく、二人で上機嫌でお家へ帰り、手洗いうがいを済ませた人からアイスクリームを食べ、昼下がりを満喫、それからあの子に字(ひらがな)の練習をさせ、終って一緒にゲームをして遊びました。

まあそれから家内に頼まれた用事で銀行や買い物、残った洗濯物を干し、少しコンピューターを触って、今度は家の中で遊びすぎる「けいくん」を公園へ連れ出して遊びました。

長男が帰宅、家内が帰宅、晩ごはん前に次男に頼まれた文房具を購入へ行って、ついで長男のスポーツで使うジャージとウィンドブレーカー上下を悩んで購入して、家内に頼まれた品をスーパーへ買って帰り、晩ごはんを済ませ、次男のスポーツを迎えに行って帰ってきて、これからお風呂へ入ります。

ふう、恒例の一杯やるのはお風呂へ入ってからです。

(何やらこまごましたことの多い日でした。)


 日曜日、子供達にとっては待ち遠しく時がすぎるのが早い日であり、ただ両親の要望(思いとおしつけ)をクリアしないと、自分の思うように遊べなくなることもあって、長男と次男は家事の手伝いなどをこなしていたようです。私は土日祝日ほとんど仕事であって、彼らが日中どのように過ごしたか、家内に仕事が終わって尋ねます。(その理由は後で明らかになります)

「今日はどうだった」

「そうねえ、お兄ちゃん(長男)家事手伝いしっかりやってたよ」

「宿題とかは」

「やってたみたい」

「そう、残りは(次男と三男は)」

「けいくん(三男・5歳)お手伝いお兄ちゃんたちに負けないように、率先して頑張ってたよ」

「それは偉いねえ」

「(小声で)お兄ちゃん(特に次男坊)が、おまえは手伝いがないからずるいみたいなことを言うから」

「あの子たち幼稚園の頃手伝いなんかほとんどさせてないのに、末の弟にきびしいな、まあ気持ちはわかるけど」

仕事が終わって、今日は珍しく私が晩ごはんを作ると前日から言っていました。おじさんに野菜をたくさん頂いていましたから、キャベツを山盛り使った、お父さんお手製のお好み焼き食べ放題コースです(なんてたって焼くだけです)。

かれこれお腹いっぱいになるように焼き続けていたら、8時半を過ぎようとしていました。

「そろそろお父さんも食べ始めるから、お兄ちゃんたちお皿の片付けと洗い物分担してね」

どうやらどちらが片付けて洗い物をするかで、言い争いが勃発しました。自分の趣味の時間(ゲームの時間)を削られたことが不服なようです。醜い言い争いが聞こえてきました。

「二人共、お父さん仕事から帰ってずっと、ご飯作って、やっと皆が満腹になったからこれから食べようとしてるのに、あなた達遊びほうけた上に、先にご飯も満腹食べた上に、まだ食べていないお父さんの前でくだらない口論するって、一体何様だ。文句があるなら父さんとやること変わりなさい。」

あっという間に二人は静かになり、遊ぶ権利が何処かへ消えていきました。

「遊びたいなら、周囲が何をしているかを把握して、せめて怒らさない振る舞いくらいしろ、人を怒らせて自分の思う通りにいくことなんて少ないぞ」

静かに仲良く遊んでいれば、私も怒らないのに、本当あの子達、短気なお父さんでお気の毒です。以降またすぐ忘れるだろうけれど、目に余れば、もれなく怒られるのです。

上手

 友人がひょっこりたずねてたずねてきました。

「あら、いらっしゃい、まあ上がって上がって」

何やら手土産(名僧の色紙)をいただき、びっくりしていたらお礼を言われました。どうも高野山へ無事にお参りを終え、感動冷めやらぬようす。

「(師匠と)会えて大変良かった」

その時の住職との話をしばらくして、思い出したようにその折いただいた品を大切に見せてくれました。

「いただいたの(本当に良かったね)」

本堂落慶記念、旧本堂を支えていた松からこしらえた、赤みがかった木の念珠を見せて嬉しそうでした。

一つ私より歳は上なのですが、いつもそんなことを微塵も感じさせない程、柔和で彼とは同じ釜の飯を一年食べ、その後も同じ地区で同じ仕事をして交流が深まりました。あの人は愚かな私と違って学があり、良い大学を出ておりますが、それも全く感じさせないほど自らの努力を話すことも無いです。

私とは大分違います(そりゃまあ人が違うんだから、改めて書くまでもないことなんですけど、それくらいあの人は柔和です)。

よく怒り、激しい感情が出やすい私、冷静じゃない私、その反対のような人、私と同じであればきっと今仲良くないなんて思います。


割りと長い時間を過ごして帰って行きました。その間近くにいた方達には他愛もない話を随分聞かせたことになって迷惑を書けました。

「今度はお酒でも飲んでゆっくり話そうよ」

当然、その話の主題は仏教(仏道)についてとなります。相手によればそれが自らのことか大切な人のことか、恨みを持つ相手か、伴侶のことになるか、自らを深く見つめることになるか、私の話をみるか、それは自由です。

(今日は残業が長引き、記事を書くのが遅くなってしまいました。言い訳上手な私を見ながら一杯やるのです)

お気の毒

 いつもいろんなことを教えてもらいます。相手が教えているなんて思って話している訳ではないと思うことのほうがそれは多いです。
実体験は何よりも勝り、こちらがそんな目にあったわけではないのに激しくつらいと思うこと、気が利いたこと、楽しいことなど、いわゆるためになる話というものです。(他愛もないしょうもない話を私がしたとしてもそれはそれで、役に立たない話という点で役に立てます。)

聞きかじった言葉を時折聞きます。そんな時その言葉と本人の差が激しすぎれば、見聞きした瞬間言葉を失うことすらあります。
落ち着いて振り返り

「あれは何だったのでしょうか」

なんていう問いの答えを後から何かの拍子で聞くことがあります。

「知っとる言葉何でも使ったらいいってわけじゃない。そうやって思うときもあるんよ」

しばらくして

「考えんと使うけん、受け売りがもろに出る」

私もそんなことが思い返せばよくあるものです。

大抵そんな時なんて、良いこと言おうと思う気持ちが強すぎたり、格好つけようとして(見栄をはろうとして)いたり、説教臭くなっていたり、調子に乗りすぎていたり、自分を過剰評価していたり、まあ一番悪いのは自分のことを全く分かっていないときに発する言葉こそが思い返しても果てしないほどにつらいことです。

自らを正しく見て、正しく判断することは難しいことです。断定できる方は本当にまれです。私が断定する時なんて、誰よりもむきになっているか・自らの愚かな言動を後から帳尻合わせ用としている時か・間違いを否定されて感情がたかぶっているか・プライドが捨てきれないとか、あげればあげるほど苦しいものです。

考えて使っても

「言いたいだけじゃないですか」

なんて言われることもよくあります。

言いたいだけの私をあえて肯定・肯定・大肯定させていただきます。

正しい誰かが素晴らしいことを近くで言っていれば、私も

「そうだそうだ!」

とついでに色々つけつけのせのせで、言わせてもらうのです。

(口の中にモノが溜まりすぎるのはきっと私の体に良くないような気がするからです。)

そんな日もあります

 静けさが身にしみ、それに感謝しました。誰にも何にも見られていないと思えば、怠ける私です。
ここにきて「みられる」ということが有りがたくもあり、重荷にもなります。

人は「生きる」ことを実感するために、理解してもらうということでその意味をあらためて実感できます。

表面上の理解では、違うと思い、相手が理解していますと言っても、こちらがそうは思えなければ理解していないと思い。

理解していないと相手に思われれば、万の言葉も瓦礫のようなもの。

理解していると思われれば、言葉なき言葉が美しい光と見え、その方も光ってみえます。


「あの人の言葉には、真実がある」

「あの人の言葉には、重みがある」

「あの人の言葉には、深く考えさせられる」

「あの人の言葉は、あの人に付き従う影のように離れることがない」

何かを調べ、その方が放つ言葉を見て思います。


その言葉がその人そのものと見える言葉を放つ方

時折真似して使ってみます。

私が放っても、言葉が浮くことがあります。

私が放つとしっくりくる言葉も時折確かに存在します。


言葉が光るのか

言葉を放つ人が輝くのか

その人の心が光を発しているのか

その人の心そのものが光そのものなのか


誰かの放つ文・言葉・雰囲気に何よりも光を観ることができるその時

光の中にいる私を観るようです。

かんぱい(乾杯とも完敗とも)

 何にでも口実が必要です。

「今日はポッキーの日だね」

なんて家内に役に立たないことを言っている私でした。新しいことに取り組んでいる家内は、役に立つのかわからないけれど自らのリュックに背負った何かを使ったみたいです。お世話になる方に何かお礼をする口実として
「今日はポッキーの日ですからどうぞ(ポッキーを買ってグリコに貢献と)」
使い方(口実)としてはいい感じじゃない。なんて思っていました。

誰かの出来ていないことをさり気なく言うのも、改めて身近な方を褒めるのも、何かの口実があれば言い易いものです。何か行動を起こすにもそうです。

私が取り立てて祝う必要があるのか、なんてことでも口実として一杯やるのもそうです。

友人は段取り十二分やって、行動するさらに前から行動しはじめていました。彼はある意味、何かを凄く口実として使う達人だと思います。本人がそう思い込んでいる勢いが強いから、説得力というより、それしかないという雰囲気を向けてきます。

まあ悪いことをするより、何もしないより、良いことに向けて努力していることは、行動している人は強くなります。

私はまた動かざること尊しと自らに言い聞かせ、動かずして何かを劇的に動かしていきたいという変なことを言い訳として動かず、何かを調べ続けるのです。よって子供のスポーツを迎えにこれから行って、おつかれさま私という口実をもって一杯やることにします。

(動かない私は台所のお酒を胃の中へ動かすのです)