因と果(ただの目前の現実とこれからどうするのか)

 少しお尋ねすれば、丁寧に詳細までお答えしてくれる方がいます。黙って聞いていれば本当に丁寧で知っていること全てこたえてくれています。隣にいた友人がその方へ何度も
「本当に丁寧ですね、1から100までお話ししてくれますね」
そう告げていました。

かくいう私も聞かれてもいないことをよく誰か捕まえて話をしている口ですから、

「私もあの方と同じですね」

と近くのお世話になる方にお尋ねしてみたら

「聞かれたことだけ簡潔にわかりやすく答えるのが、親切っていうんでよ

必要以上に知っていることだけ話すのは親切と言わずに、『しゃべり』っていうの」

「えー、親切だと思ってました・・・」

「よーくわかっとかないかんよ」

ということで、これから少し気を付けていきたいです。


今日もかもしれません。終ってみれば色々なことがありました。その色々なことが善いことでいろいろなことであれば、私だけでなく近くの方もふれあう方も喜ばしいことです。

望んでいないことですし、誠に残念ながら、悪いことが露呈するということでした。不幸中の幸いといえば、私が過去においてできることをやらなかったからではなくて、その時やらなければいけない人たちが、自分の仕事をめんどくさいからと放置したり目を背け続けたりしたから、その因として果が訪れているだけのことです。
面白いことに(全く面白くないことですが)自分の責任を放棄する人は責任を取ることも放棄することに特化して、それなのに目先の自らの利益はいただくなんてことばかりで、問題は先延ばしとなり、円満解決とは無縁の方向へ進んでいくことを残すだけでなく、現在もそれは増え続けさせてくれます。

誰かがしっかりしなければ、他の誰かがしっかりしようとする原理が世の中に働きます。


なかなか、世に生きる人で悪い見本をわざと周囲の成長のために狙ってしてみせる人は稀なことだと思う日でした。
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安易に手にとった書物

 ちょっと前に「ぞっとする」の反対の言葉は「ほっとする」だと書いたことがあります。

近くにいる友人がそれを聞いてから、凄く悪い光景をみたり想像すれば「ぞっとする」と言うことがあります。その友人にはよく話を強制的に聞かせます。聞く気がなくても聞くまで話をします。

「今眠いからいくら話しても聞こえませんよ(無駄ですよ)」

しょうがないので

「ここに錐(きり)があるから、これを(自分で)太ももに突き刺して、目を覚まして聞け」

なんて冗談で言います。笑えばしめたもので話を続けるのです。そんなくだらないようなやりとりをしていて、「ほっとする」と「ぞっとする」にもう一つあるのだなと彼を見て気が付きました。

話半分に聞いているような態度であれば、早く目覚めろ、これだからいつまでたってもおまえは悟れないんだ(悟っていない私が偉そうに言うから彼も笑うしかないです。)

ただ素晴らしい先生方の真実の言葉を聞けば、彼は目を見開いて聞いています。

なるほど、「ほっとする」と「ぞっとする」というようなこともあれば、真理に近い(高徳な仏教者の書物からの引用ですが)話を聞く方は、「はっとする」顔をしています。

諸大徳の残した高く広く深い仏教の真理の言葉を聞き、自らの中にある呼応し憧れ求めるものに再認識し、「はっとする」のです。これを諸大徳は縁や契機といった言葉を用いて、「はっとする」者に対し声なき声を発するのです。

「耳あるほどのものよ、己が信を発せよ」

それに声なき声(真摯な態度)をもってさらにこたえる。こんなことを「はっとする」なんていうのだろう。

以前の続きを彼を見て思っていました。高神先生の著『般若心経講義』本当に彼にも私にもためになりました。


「先生有難うございます」


(誰かを)見て(誰かが)怒る

 よく身近な友人が怒っていることがある。気にしないようにしてもずっと怒って何かぶつぶついっていれば気にしなくても気になるのでたずねる(それは彼の作戦なのかもしれない)。
「何をそんなに怒っている(腹を立てている)の」
「棚から牡丹餅であぐらをかき、その今(自分が存在して)いる場所の有難さや、今までも今も支えてくれる方達のことなどを何一つわかっていないことです。
何故そんな簡単なことがわからないか」
「いやね、私に言わ(怒ら)れたってその人じゃないから、しょうがないじゃない。その人に言いなよ」
「(遠回しに又は直接的に)言っても、伝わってない(聞いていて聞いてない・見ていて見ていない、というか受け取る気がない)から怒っているんじゃないですか」
「だから、私にきつく言われてもねえ、まあお互い自分の事から気を付けていこうよ」
そんな他人事みたいに受け取れば先の通りなんですけど、私が一番そんなことで怒ってるから人のことをとやかく言えなかったりするもんです。
悩んで悩んで悩んで、あれこれと試して、「これか」「いやこれか」「あれだ」「いやあれかも」「それだ」「誰かに宜しくお願いします」私がいくら思い悩んで実行しても、その当人が聞く耳がなければ・理解しようとしなければ・見ようとしなければ・考えようと思わなければ、私の考えは私が考えることだし、主観と客観の客観を思い通りになんて、時には主観さえ思いもよらぬ方向へいくことがあるというのに、他者のことがどうして。
なんて聞かれれば答えるのに、自分がそうなればそんなことで怒り・悩み・心配して・何かを行い痛い目にあい・良かれと思ってしたことでぎゃふんとなったり、では冷たく知らんぷりをすれば優しくないといわれ・本当のことを言いすぎれば口が過ぎると思われ・考えて答えを出せば考えすらださなくて何一つ決めきれない人に偉そうに後出しじゃんけんのように揚げ足をとられ、それでも困ったもので私は私の生き方が上手になっていかないとかなんてきっと人によってそれぞれあるのだろうと落ち着いているその瞬間は思ったりします。

現実人よりうまくいっていないのに、いつも身近な友人へは「おまえしっかりしろ」と言い続けています。彼がまだ自分を見つめはじめる前は、よく言い返されたものです。

「私のことより、貴方自身がしっかりしたらいいじゃないですか」

「よく言うじゃない。自らは見難く、他人は見易い。見やすく目につくところからはじめているのだよ(笑)」

「困った人ですね」

「そうなんよ、困った人だから貴方まで困った人にならないでね(もう人数間に合ってます)」



一杯やって酔っぱらいの私、困ったことばかりであれば、家で恐ろしくなることがあります。周囲が困り果てるような言動を平然と目前で行うような大人にしたくないと子どもたちのことを心配してしまいます。

痛い言葉を恨みと見ず、感謝にとれる人間であって欲しい。そう押しつけ的なことを、私の痛い言動と失敗を持って、教訓として欲しいとさらに(身勝手なことですが)願います。


少なくなる方法

 できれば多くのものを得たいと気づけば願っています。

誰かと会う時、何か新しいことに臨む時、何かを行わなければいけない時、普段よりも余計なものを詰め込んでしまっている私を後から見るのです。
時にそれは先入観であり偏った知識・経験であり・あろうことか悪い考え思い経験を持ち込んだり、時にはそのどれもを捨てることが正解であることもあるのに、必要以上に持ち込むのです。

「それで本当にいけるの」

そう自分が問いかけてきても、問いかけ自体に気が付かず、気がついたとしても何かに気を取られている私は

「いける、いける」

なんて誰にでも答えるのです。

身近な方は厳しく(そして誰よりも優しく)注意していました。

「くだらんものは捨てな」

先入観・間違ったどこにも使えない自らが正しいと思い込むくだらない思いや経験。

「いらないものを出されても誰も受け取るはずがない。話にならない。」

くだらないことを捨てろと言われても、何が正しくて何が普通で何が正しくなくて、何がくだらないのか、くだらないものだけを一刀両断されているのに、自らが切られたと思い込み、反発したり正しいことに間違った対応を続けるだけ。

最近そのくだらないことだというものは、捨てれなくてもいいと思います。ただそれがくだらないことなのだという認識をしっかりと持ち、胸を張って「くだらないけれどなかなか捨てれないのです」と笑って悔しがりながら言うのです。

情けないことを情けないと、悔しいものは悔しいと、愚かな私は愚かな私であると、私こそが認めなければどうしようもないのです。

そこが出来て初めて、善いものは善いと・美しいことは美しいと・あなたは素晴らしい人であると・私も素晴らしくありたいと。


その言葉に嘘が以前より少なくなるのです。


私から出る言葉が、いつ見たとしても私の心と距離がほとんどないような私であることを願うのです。


何々の定義

 久しぶりに友人に電話をしました。
どうして友人が友人となったのか、そんなことを考えるとたまには面白いです。一度か二度顔を合わせただけで、友人なんですと紹介することもないです。
知り合いと先輩と後輩と家族と親戚と友人の定義はこれもまた面白いです。

気が付けば前・横・後ろにいて、時が移ろいゆき、私の良いところ悪いところ普通なとき、相手の良いところ悪いところ普通なとき、その過ごした時間が長くなり、それでも何故か近くにいる方が私としては友人となっていくようです。

友人ではなく先輩や後輩、同じようで少し違います。何かで同期というようなことが当てはまり先ほどのようになっていけば年齢が違えども友となるようです。

これは腐れ縁といった、避けたいけれども避けれないのに衝突を繰り返すことによって友人となることもあります。

望んでも願ってもいないのにつらい時に助けれくれる方も友人となります。

友人という言葉の(私の中の)定義は、損得勘定だけの人を指さず、損得を抜いたことで付き合える人となっています。

まあ善人・恩人・助けれてくれる人・優しい人・理解してくれる人も損得を超えています。


現実を生きていくために私はパンのみで生きていけないので、パンのために損得を考えねばいけないことです。綺麗事だけで生きていければ言うことないのにと思うのですが、思いの分だけ現実は厳しいことです。

厳しくつらく死ぬまで続くこの現実、損得だけでは私の心はすさみ、友人といった善い方達がいつも助けてくれます。言葉・手助け・食料・金銭など、本当にありがたいことです。

時折私の中の定義が偏りおかしくなれば、そのおかしくなった分だけ苦しみもがくのです。


何でもいいから(悪いことを除く)日々継続して、いかなければどうにもならないことが増えるばかりになっていくと何故か思うことが多いです。

つちけむり

 故郷より離れて生活しているこの土地(四国の徳島)でまるで家族のようにいつも接してくれるおじさんがいます。家族より家族らしい方、何気ない話をよくします。

ここ徳島(鳴門の端)から板野郡あたりで最近雨がとんとふっていません。おじさんは食べるためとふれあう方に野菜をあげるためにもうかなりの年齢ですが農作業を続けておられます。

「最近雨がないから、皆こまっとる。」

「降ってないもんね、しばらく」

「うーん、機械で耕しても湿り気がないから、土煙がでるほどやけんな

いつものように種をまいとるけど、一向に目が出ん。出んかったとしても時期が来れば野菜は種をまかきゃならんしな」

「そっか・・・」

夜、次男が空を見て叫んでいました。

「お父さん、うろこ雲と満月の(ような)お月さま、きれいだよ、見て」

「どれどれ」

月の光に照らされたうろこ雲とまるいお月さまが夜空の真ん中に浮かび幻想的でした。

「本当だ、綺麗だね」

次男をスポーツに送った帰りに自宅前でまた空を見上げました。今度はお月さまを中心として放射状に薄く照らされた雲と月でそれもまた見事でした。

明日は休みだけれど、雨が降ってくれるとおじさんも喜ぶのにね。

(用事が終わればお月さまをみて、家内をみて、一杯やることにします)

十何年過ぎても一緒のこと

 会者定離(会う者は別れる定め)とあたりまえのことをあたりまえに思えていない時、何かにはっと気がつかされ、その言葉が目の前に浮かぶ。
身勝手に思う。好きな人には会いたい。そうではない人には会いたくない。何を言っているんだか私は

すると愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)が出てくる。思えばつらい。愛することができにくい人ともそうなのだけれど、身勝手に良いことだけを考え悲しむ。

一緒にいて心地よい人はいるのだろうと思う。その反対もまた然り。好きなことの時間の過ぎる速さ、嫌いなことの時間の過ぎる遅さ、自らの身勝手な思い考え、他者の思い考え、願いも思いも知識も生き方も人それぞれであることがあたりまえなのに。

悪くなるようにではなく、善くなるように覚悟を決める。相性が会わない人もいるだろう。



一つ、いつものように良いこと・つらいこと・悲しいことを話して共感してくれる方に心から感謝したてまつる。


(一体私は心から感謝するの反対をどう思うというのだろうか)

くだらないことを

 都合がよすぎる振る舞いばかりで嫌になります。それが誰かでなくて誰かと言え無いことが問題でもなく、自分だって都合がよすぎることをしているから、腹が立つのです。それなのに相手には注意したいとか治してほしいとか都合のいいことを願うとか、冷静に考えればありえないこと。めんどくさい(私)です。

珍しくないことですが相手のしていることに腹が立って、ほっといてきました。経験上耐えてやるべきことをやってもやっぱり腹が立ち、かといってほっといけば後悔することが頭でわかっているのに、そおっとそこを去ってきました。

(自らの)くだらないこと簡単に捨て去りたいです。

(自らで)辛くなるようなことを作りあげたり思いをもったり、めんどくさくしたくないです。

もっと誹謗・中傷・称賛やこちらを全く見ていなくても、変わらずできることを続け、品性を害いたくないと、それを失うなような振る舞いをしてから終って思うのです。

くだらない相手は見たくないと誰もが思うでしょうけれど、くだらない私はあまり見ないようにしようと思います。

難しさ

 いつも自分があらためて話さなければいけない時、終わって思うことがあります。

同じ話を二回聞くことを嫌う私がいますので、どうしてもでなければ同じことを言わないように気をつけています。それでもすがるものがなければ同じ話をしなければいけない(私の)現状がくれば、考えさせられるのです。

その時に調べて「これだ」と思ったことを話し、手応えがかなりあったとしても、心配になります。同じ話を二度されることを嫌う私は、また違う何かを求めなければいけないことを意味し、話せば話すほど、それは私の中では難しい話となります。けれど話すことが大好きな私がいつもいて、話さなければ生きていけないと思えるほど話を誰かとするものです。

これは人によって違うことで、私の中での決まり事のようなものです。

難しく・情けないということは、同じ話に頼らなければいけない状況の私です。そういう時の私は必死にわらにすがる私を見ており、自らをみてつらくなるのです。

今回の話が上手くいってよかったと上手く行けば思いますが、その後は恐ろしいのです。また先人達が書かれたものを読み、何かを見るのです。

他人の話を聞いて、自らで作り続ける難しくめんどいものを見てしまう日でした。


次男のスポーツが終わり迎えが終われば、全てを忘れるように一杯やることにします。

またたくと流れる

 流星群がどうとかネットやラジオで言っていました。オリオン座がどうとか、しし座がどうとか、よく調べる気がないけれども流れ星が見たいので家族でそんな話をしていました。
家族がそれぞれ持っている情報を足してみても、釈然としないというからちがあかないので、外に見に行こう(百聞はなんとやらです)。
少しもやがかかっていましたが、お月様はちょうど半分明るく見えました。街灯と民家のない畑の中心で家内と長男と宇宙を見上げました。しばらくすると目も慣れてきて星がはっきり見え、もうしばらくすれば長男が
「今流れ星見えた」
「本当よかったね」
私と家内は違う方角を見ていたのでその流星は見逃しました。それから暫く眺めていましたがみることができませんでした。家内は最後の方に一つ見たようです。
流星を見るには街灯も民家や周囲の高い建物も邪魔になります。皮肉にも田舎であればあるほど星が綺麗なのはそのせいです。暮らすのに便利な都会であれば、生きるために照らす光が宇宙の光を害っていきます。ある人はそれを光害とも言われていました。青色発光ダイオードは便利なもので、それ以降かなりの光量が夜に増えてきました。おかげで子供達の塾帰りの道などは明るく危険も減っています。本当皮肉なものです。
そんなことを考えながら、家内や長男とは違うことを話していました。
「子供の頃、お父さんはど田舎で育ったから、兄と寝転んで幾つも幾つも流星を数えたもんだよ。懐かしいねえ」
長男と家内は流星と言えば、お願いごとがとかどうとか言っていました。
「以前にお兄ちゃん(長男)と次男が二人で、お父さんをお母さんと一緒に迎えに来た夜、皆で流れ星にお願いしてたことを思い出したよ。
お兄ちゃんと次男は面白いことお願いしてたよ」
「なんて言ってた(ぼく)」

「カネ カネ カネ って何回も夜空に叫んでたってお母さんが言ってたよ」

「そんなこと言ってたんだ(少し笑っています)」

「今回はなんてお願いするの」

「うーん」

(しばらくして)


「お金がほしい お金がほしい お金がほしい かな」

「一緒じゃない、それに流れ星が見えている間に言おうとするなら、それってやっぱり『カネ・カネ・カネ』になるんじゃないの」

笑っていました。

子供達が寝てから、家内と二人でまた夜空を見ていました。家内は家内で何かお願いごとをしたいのか、ただ美しく儚いながれ星がみたいのかわかりませんが、ずっと宇宙を見上げていました。

私はそらと家内を見ていました。


結局一度だけ私は流れ星を見ました。家内は何度か見れたようです。



口実という名の何かが私をいつも助けてくれます。

いつもの困ったさん

 職場から帰路の楽しみは見通しいのよい景色です。今道端にコスモスが植えられ、風に揺られる一群のコスモスと芒に秋を感じます。いつもよりもやがかかり、遥か遠くの山と空の境界がほとんど区別できず、遠山の輪郭がうっすらとしか見えないこともまた美しいと感じました。

帰れば次男(小学生)が遊び呆けていました。たまにならそれも何も思いませんが、最近目に余るので少し注意をしました。怒りすぎる人は近くにいる人にも雷を落とすものです。字の練習をさぼっていた「けいくん(三男)」へもれなく落ちます。我が家で雷が落ちないのは家内だけです。私と子供達は男性でよく遊びすぎるので雷はつきものです。

子供たちによくおしつけをします。私は幼い頃からたいして努力もせず、学ぶことも少なく、現実逃避を続けてきました。あの子たちには私と違って自分をよく見つめて欲しいし、あらかじめなされるべき努力をして欲しいと願います。失敗ばかりというか負けてばかりというか、それは勝負にもなっていない私が負けてるはずもないことです。世の中をしっかり見てほしいとかではなく、自分そのものをしっかりと見てほしいです。

これをあの子たちの無垢なキャンパスに私色で塗りたくることになり、彼らがそれをどう受け取るのか、私(の束縛)からの脱出が良い方向へ向かうにはなんていつも願うことです。

家内が部活で遅くなった長男へ

「今日は二人(次男・三男)がお父さんにきつくしぼられてたよ」

「あー(最近目に余るから、僕も何遍も注意してたんだけどなあ)」

なんて話をしていました。夜にスポーツへ次男を送っていく道中二人だけですから、踏み入って話します。長男と次男と三男、父母が同じでもまったく個性が違います。向き不向きも本当に十人十色です。長男と同じように話すのでは伝わらないことは多いです。
まあ話よりもっと実践に重きをおいていこうと思います。

あの子たちより、私のほうがよっぽど問題なのはこれは内緒です。



四摂

 私が誰に頼まれたわけでもなく求めているもの、求めている私自身がそれを忘れ道がわからなくなったときや、読破しようとする書物が難解過ぎて気持ちが切れてしまいそうになったらお世話になっている住職の書棚を見に行きます。
そこには多くの書があり、およそ全部読破はできそうにありません。ただその中からその瞬間気になる書物を手に取ります。あれかこれか、これはタイトルから興味ないとか、この著者は苦手であるとか、この分野はまだ未開であるとか、何かの縁であることは確かです。ただその時手にした本は必ず読んで見せると思っています。

難解すぎれば、何度も何度も読み返し時間を人より必要以上に時間をさきます。何故そんなことがわからないのかと言われたとしても自分なりの進み方でとむきになっています。それでも難解なときはそこでその本を一旦停止し、違う書を何冊も読み始めます。何故こんなことををするのかよくわからないことです。ただ何冊何冊も他の書物を読み終われば、読みかけてていた書物があっさりと読了できることはよくあることです。

その中、目から鱗であった文を今読んでいる本を見て、同じ言葉の描写を思い出したので拾ってみます。

経の第七十九章「四摂品(ししょうぼん)」に菩薩が世のひとにさとりに導くために四つの方法として「布施・愛語・利益・同事」の四摂をあげている。この四つは菩薩の利他を語る代表的なものである。いまこれを経によって示すと、まず布施について、これには財施と法施の二つがあるとし財施については、みずからの身体を含めた一切の財物を、好きなように取れと提供した上で、相手に仏と仏の教えとその教えを奉ずるものの集まりに帰依(三帰依)することを教え、あるいは五つの戒め(五戒)を守るように教え、あるいは心静かな瞑想にひたることを教え、あるいはひとに楽を与え(慈)、苦を除き(悲)、ひとの楽しむの見て喜び(喜)、他人に対して愛憎のない平等の心を抱く(捨)ことを教えないしはさまざまな大乗・小乗の修行法や最高完全なさとり(阿耨多羅三藐三菩提)について教えることが、般若を行じてなされる財施である、とのべている。これを見ると、財施といわれるものも、単に財物を施すだけでなく、相手をさとりに導くことにそのまま繋がっていることがわかる。これが般若波羅蜜による財施であることを注意しなくてはならない。法施についてはすでにのべる必要はないであろう。経にはこれに世間と出世間を分け、世俗の法を捨てて、出世間の大乗真実の法に導くことを縷縷説明している。
 また経典には愛語以下についてその内容を説いてはいない。しかし愛語とはやさしい言葉をかけることであり、利益(利行りぎょうともいう)とはさまざまな利益を与えることであり、同事とは世のひととともに苦楽をともにし、行動をともにすることである、と知るとき、これらが般若波羅蜜のなかに収めとられるすがたをさきの布施によって推察することはできると思う。
実践への道 般若・維摩経 石田瑞磨 現代人の仏教3 筑摩書房より引用



仏教とりわけ、大乗仏教の中核を占める、「菩薩」の特性について書かれています。ある仏教者は生きとし生けるもの全て菩薩だともいい、菩薩にも(経典中にも現実にも)有名と無名の菩薩があり、観音菩薩や地蔵菩薩(勢至菩薩などなど)は有名の中の有名の菩薩です。仏教を信じ好み愛し生活の中にあるかたも無名のなかの無名の菩薩であると思います。大好きな方の心が美しくそこに仏教を信じることをみれば、その私の好きで愛し信じる方の心中にある仏教とその方が無名ではあるけれど無名の菩薩に思えてならないです。上流階級や一部の権力者に庇護されたから仏教が日本にありつづけてきたのではなく、市井に生きる人達の心のなかに仏教は生きてきたから、今もあり、私はそこに惹かれなにか求め続けているのだとも思っています。

菩薩の生活と四摂法 ところで、仏教ではこの菩薩の生活、すなわちほんとうの人間生活の理想を四つのカテゴリー(形式)によって示しています。四摂法(ししょうほう)というのがそれです。「摂」とは摂受(しょうじゅ)の意味で、つまり和光同塵(どうじん)、光を和らげて塵に同ずること、すなわち一切の人たちを摂(おさ)めとって、菩薩の大道に入らしめる、善巧(たくみ)な四つの方便(てだて)が四摂法です。四つの方便とは、布施(ふせ)と愛語と利行(りぎょう)と同事でということです。布施とは、ほどこしで、一切の功徳を惜しみなく与えて、他人を救うことです。愛語とは、慈愛のこもった言葉をもって、他人によびかけることです。利行とは善巧な方便(てだて)をめぐらして、他人の生命を培う行為(おこない)です。同事とは、他人の願い求める仕事を理解して、それを扶(たす)け誘導することです。禍福を分かち、苦楽を共にするというのがそれです。しかし、お経にはかように菩薩の道として四つの方法が説かれていますが、四つの方法の根本は結局、慈悲の心です。貪(むさぼ)り求めるこころ、すなわち貪欲の心を離れた慈悲の心をほかにして、どこにも「菩薩の道」はないのです。
般若心経講義  著 高神覚昇 角川文庫より引用



同じようなことを書かれてありますが、仏教者の数だけ微妙に表現方法が異なっています。その異なりが好きです。何かをあらわすのに別の何かを持って、その人が前へすすめるよう手がかり足がかりを仏教者は幅広い見識・行(動)・信をもって、言葉を超えるものを制限の多い言葉であらわしています。

有名な言葉です。あきらめるも仏教の言葉で「真実のごとく明らかにに観る」、あからむる(など)があきらめるへと変わっています。仏教の根幹の教えである四諦(生・老・病・死)も四聖ともよばれ、人は生まれれば必ず死ぬという真理、若きものも一秒一秒老いていくという真理、生きていれば望んでいないけれども病にかかるという真理、「あたりまえのことをあたりまえに観ること」(実の如くあきらかにみること)

唯識 認識と超越の難解さに(私以外の人には簡単なんだろうけれど)他の書物の光に目を奪われ、また私は現実へと帰るのです。

近道だけが近道ではないという屁理屈と、先生方の四摂の解釈はいつみても素晴らしいと思い直す日でした。

三輪車

 割と前に「けいくん(三男坊)5歳」に家内の両親が三輪車を買ってくれていました。最近の三輪車は後ろに押しやすくハンドルも親がまげれるような持ち手がついています。

まったりと育った三男は、三輪車に乗せてもペダルをこぐこともなく、ただ散歩に遠くまで行くときにペダルを固定ではなくフリーにさせて楽に連れていくことにつかってばかりでした。

今日何故か彼(三男)は、珍しく外で三輪車に乗るといって一人で遊ぼうとしていました。見ればいつの間にか三輪車を華麗に乗りこなしています。せっかくなので私も着替え、彼が行きたい場所へ付いていきました。

「(三輪車の後ろの持ち手を)おさないでね(自分でこぐからお父さん)」

後ろからついてきていたらそう振り返り教えてくれました。

「どこ行くの」

「にしこうえん」

家からすぐ近くで小さめですが滑り台とブランコ二つとコンクリート造りのベンチや草が生えたスペースのいい感じの場所です。ここ本当に皆が利用して、公園の有難さを実感できます。その付近に住まれている方々が定期的に維持管理されています。
しばらく滑り台とブランコで遊んでいました。私はベンチでごろりと寝転んでいました。風は少し冷たく感じ、Tシャツ一枚のため寒いかと思えば、温かい日差しの毛布があり心地よい昼寝ができました。この場所からまた少し離れた公園へ行くと彼が言います。
どうも三輪車を乗りこなせることが楽しくてたまらないようです。
三輪車はあきらめ、自転車を買ってあげようと思っていましたが、しばらく三輪車にあきるまで自転車は見送ろうと思いました。

ジャングルジム・ブランコ・上って遊ぶ人工の丘と砂場・前後に揺らして遊ぶ馬のような乗り物、子供達(幼子から中学生位まで)見ていれば皆利用しています。

彼が遊んでいる場所の近くの日当たりのよいベンチ、ポカポカして気持ちよくしばらく横になっていました。満喫できたようで、また帰りの道を三輪車をこいでいました。少し上りではこいで上がるより、足でぱたぱた乗りながら押して、またこぎ、楽しい散歩でした。

休日、彼の幼稚園の送り迎え、一緒に買い物、散歩、夕ご飯を食べれば

「おとうさん、いっしょにおふろはいろう」

ちょっと用事で入ることができなかったことが残念です。彼はまだ幼稚園ですからこころと言葉の距離が本当に近いです。

まだ生きている年数が少なく知恵も多くはありません、その持っている知恵が浅知恵にも知恵が病気になって愚痴にもなることが少ないです。
知恵を病気にさせず(愚痴とならず)、浅く狭い知恵とさせない学び、こころと言葉・行動の近さを考えさせられます。


「また散歩にいこうね」

はっきり言えれば楽な(私)

 今日は晴れ、ただ室内で仕事をしていれば、肌寒く感じることが増えてきました。仕事が終わり帰路につく道中、遠くの景色を眺めます。

そらは青く、青と言っても水色でもなく、深い水色で西の山際は紅く染まり、天高くには美しい三日月と深い水色の空のコントラストもまた美しく、遠くに見えるぼやけた山の景色(遠山)を眺め、今日一日無事終わっていくことに感謝しました。また明日も美しい日であるようにと欲張りな願いをしながら、近所の公園で無邪気に遊ぶ微笑ましい親子を横目で見ている間に自宅へつきました。

一日が全て良いかということもなく、「あまりよくないこと」も当然ありました。
今回のその定義はその時の状況にもよりますが、「法律に触れていないから悪くない(と言い張るようなこと)」ことも含まれますし、「(普通の人だったら)他人の迷惑を考えるからそんなことはしないでしょう」も含まれますし、「自分は他人のことを悪くいい放題なのに、自分が言われたらその方を貶めようとする」とか、これ他にもいろいろあります。

あまり自分(自分と味方してくれる人)達にとって都合が悪い発言をとめてくれと頼まれました。変わり者の私は話の内容を聞いて、思うように言います。
「別に他意はないからいいんじゃないですか(悪く言おうと思ってもいないし、わるぎもないですよきっと、ほんとに)」

「そのせいで(私たち)心が病んでしまうから、やめてほしい」

「うーん(自分達の方がよっぽど普段から人のこと悪く言いまわってるけど言えた義理はないんだけどなあ)

でも、その言葉反対に自分に置き換えて考えてみれば、悪く言っているんじゃなくて助かることだから、やっぱり悪気もないし、きにしなくていいんじゃないですか」

なんてやりとり、短く言えば「人の口に戸を立てて欲しい」ようです。

隣の方が

「そんなに言われたくないなら、自分で言ったらいいじゃない」

なんて言っても、言えないと言うし、言いたくないし、言われたくないから、誰かに言わせて止めて欲しいと言うのです。

言われたくないなら、普段からの行動やみずからのこころを見ようとしていたら、勝手にとまっていくのに、安易な手法を選ぶものです。

はっきりと(いろいろなしがらみを言い訳に)言えない私をみます。

なので言い訳がましく、ここへ

「人の口に戸は立てられぬ」

そう書き記して一杯やることにします。

たまにはね

 私はよく慈悲(または慈悲喜捨)の話をします。といってもそれは渡辺照宏・中村元・宮坂宥勝・諸先生方の書と出会い体験が再体験され、上書きされたものを言葉にしています。

「他人の幸福をのぞみ(慈) 他人の不幸を取り除き(悲)その仕事に満足し(喜) とらわれることがない。(捨)」
(渡辺照宏)



もう少しわかりやすいように(私なりに)訳します。

私には有難いことに目があり、目前の方をみることができます。「慈」とは私の目は私自身をみることに長けていません。目前にある人や物をみることのほうが便利です。目はそれ自身を見ることができないのに何かを見ていることと同じなのかもしれません。

ぱっと周囲を見て、まずは手を伸ばせば届くところそこにいる方(家族や伴侶)のしあわせをのぞむ。(慈)

やはり次も同じく、手を伸ばせば届くところそこにいる方(家族や伴侶)の不安・苦悩・重荷を取り除くよう努力する。(悲)
この「悲」は自分をみずにやはり相手の悲しみについて「取り除く」のではなく「取り除くよう努力する」ことにかかってくる。
私もそう、私の家内でも子供でも突然医者から不治の病と余命いくばくもないと宣告されれば、家内や子供なら私はどうにかしてかわってあげたいと願う。ただなんぴともそれを変わることはできない。
「わたしに何ができるのだろうか」
だから今のわたしにできることをする。

自らの仕事を喜びとする。(喜)
主婦であれば、家事育児行事ごとなどを喜びとする。自らの職業を誇りとする。

「これだけしたのだから、これぐらいの見返りは」「これだけしたのだから、あたりまえだ」何かをなして、成した後の付け足しの思いを捨て去る。くだらない心の思いは即座に捨て去る(捨)。

本当書けば書くほど理想であり、きれいごとです。そこと私の現状の差が厳しいこともまた現実です。

「一体わたしにとっての仏教(宗教)と問われれば、何と答えるか」

そこ(目前と心中)に怒り・怨み・嫉み・苦しみ・死への恐怖・病の恐ろしさ・老いが求ていないのに眼前だけではなく身体や心に及ぶほど侵食され、一体生きることに何の意味があるのか、そう心からの問いにこたえるもの。

たんにそれは「(私が)生きていてよかったという根拠」つまりは私がこの世に今生きていていいということ。

それを信じ仰げる力を、今は信仰と人は呼び、その力を生きる活力や信仰の深さ、根拠などと言うのだろうと思っています。

この記事は暫く前に書きかけ、書きかけのまま何故か終わりが無いものでした。今は今なりの私の答えを記します。

宗教における信仰という意味、(現状の)私なりの見解です。

「今生きていいと信じ仰げるものを、私は私の宗教、仏教という言葉を持ってあらわすのです」


本当酔っぱらいの私は饒舌で、突飛なことを思うものです。

(今宵は何杯もやることにします。それは昨日一杯やるつもりが、いつの間にか一杯やることを忘れていました。)



人は大切なことをいつか忘れてしまうものです。

蓄え上手

 あらためて「そっか」と思いついたことがありました。

「どうしたの」

(いいこと思いついたという表情と雰囲気)なので言うのです。

「自分勝手ばかり言ったり続けていたら悪く思われることが多い。自分勝手なこと慎んでいけば品性や徳があると言われることもある。」

「いつもそんなこと言ってるじゃない」

と返ってきました。

「いつもと同じなんだけれど少し違うから、良いと思うし大切にとっておくよ」

「それ何の役に立つの」

「いつか何かの時に役に立つ時があるかも」

「今日もだけど、これからだってそれくらいだったら(悪いことの見本がいるのだから)出続けるから、書かなくていいよ(蓄えんでいいよ)」

「それはそうなんだけどね、蓄えときます」


調べれば何かに納得して、前に調べて納得していた前の何かを気がつかないうちに忘れ、何かを契機として思い出し喜びとしたり泣いたり笑ったり悔いたりします。本当に情けないのに、笑わなければいけないこともあります。


大したことない問題で悩んで根本を解決せずに、いつも手近な方を悪くして解決する方がいます。

「どちらが(本末でいうところの)本で、どちらが末ですか」

そう問いかけても、わかっているのに誰かや何かを悪くして自分達は何一つ改善しようとしないことを正当化する話にはこりごりな日でした。

(子供のスポーツの送り迎えが終われば、いつもの如く一杯やって全てを忘れることにします。ただ何故か一杯を忘れるどころか追加してばかりです)

同じことを

 ふと気になっておたずねする。

「あの方達はいつも同じことを続けておられる。片方の人はいつもふれあう方に優しい。手助けを続けている。お金お金なんて言うことがない。ことが終われば
(あなたが)よかったらいいんだ。」

そう言っていつも笑ってくれる。

「もう片方の人はいつも自分に優しい。手助けではなく自らの利益に直結することばかり続けている。お金お金とすぐに言う(ようなことばかりしている)。ことが終われば
(私って)よく働くよな。」

そう言っていつも笑ってくれる。

双方ともに「お母さんだから」と終わって言ってくれる。

どうも途中のやり方はともかく目指すことは同じように、あなたのお母さんのようなものだということを比喩としてあらわされている。

また思う。私がよいお母さんだと思う方にたずねてみる。

「どうせ同じお母さんだからと言うのであれば、心の底からそう思えるようなことをしないんでしょう」


あっさりと答えられる。


「きっとその人は、しかたがわからんのでしょう」


仕方ないなと思えました。

それじゃない

 いつも優しく面倒を見てくれる方に

「本当誰よりも優しくて助かります。いつも有難うございます。」

そう近くにいる友人も口をそろえてお伝えします。ことがあるたびに何回も何回もそうお伝えしていたら

「貴方(達)は、よく私のことを親切だというけれど、私は親切ではないよ」

少し間が空いて

「(私は)ただ(目前のこと聞いたことに)嘘がつけないだけ」

悪くなりそうにことに出会えばできるだけのことをいつもされており、素晴らしいことを見ればその方を喜び讃え、誰かが悪いことをしそうであれば注意して、何もしていなければしっかりしなさいと何かできるようにできることをされています。

何かの話を聞き、それと自分を照らし合わせ、即座に周囲が「そうだ」と納得のいくことばかりを言う方です。自らを客観的に瞬間的に眺め言葉にできる方は(私の乏しい人間関係の中ではそういう方は)少ないように思います。

よく誰かの話を聞いて一つの感想に

「良い話だった」当然「ふつうだった」とか「あんまり良くない話だった」ということはあります。折角話すのであれば良い話をしたいとよく願っていました。最近は良いとか悪いではなく少し違うことを考えています。そんなことを話していました

「良いとか悪いとかそんな話ではないんです。もっと違うことを・・・」

「(あなたの話は)いつも考えさせられる話だ」

と短く返ってきました。

理想は他人事にならずに自然に自らのことを考えていくことが自他共に喜ばれるようなことだと気がつかずに、喜んで学び多きものとなるような雰囲気が出せればと思います。


ただ浅い考えの私、狭い視野の私、愚かな私、わかっていないのにわかっている素振りをする私、素直じゃない私、情けない私、失敗多い私、不器用な私を見ていれば、悪い見本に困らないことは多く、その反対は色んな方から智慧を借りるしか無いことばかりです。

「嘘がつけない」

そんな人からは見習わなければいけないことばかりです。

好き(と嫌い)

 「あの人が大好き」

それをしあわせと思いそんなことをいう私がいれば

「あの人が大嫌い」

なんてあろうことかその思いを誰かに理解してもらおうとしてみたり、共感してもらうことに必死になったり、とにかく悪いことになればなるほど、私が「押し付けと偏り」そのものに他人から見れば思われ、そんなこと思ってもいないのにそれでも善いことを願っているなんて私そのものは本当に身勝手です。

だから全てを超越するすかのごとく、「有るのでもなく、無いのでもなく、そのどちらでもないのでもない」といった言葉が存在してきています。

現実は普段の努力だけでは決められませんがつらいことが無くなることは無いです。関係なく近くで優しい方はこちらへいつも

「おしつけと偏りなら受けとらないよ」

そのように親切に忠告してくれます。その時とらわれを発生させるほどに美しいもの・遥か高みの真理と思われるもの・人・言葉・できごと・無数有る中の特定のことにぴったりとあう形の一つ。

いつもいつも私の理解に応じ目前にあるものが高みだと思えば、まばゆく(私の心に)映り、それをたたえるためだけに、それが全てかのような言動・雰囲気を出してしまうだけのことです。
だから次のようになっています。

誰か「おしつけと偏りは受け取らないよ」

私 「おしつけ(と偏り)ではありませんよ」

誰か「それならいい」

事実は、おしつけと偏りから脱却できていません。よかれと思ったり・まばゆく映るものであったり・真理だ(と思っていたり)・善くなること(だと私だけが思っていたり)です。

山頭火の行乞記に「あの人は深切そのものだつた」なんて描写があります。親切という漢字の解釈なんてよく知らないことですが

「親が子供に対して、邪魔になりそうなくだらないことを切り、できるだけのことをする。」

を略して「親切(しんせつ)」

「深く見ず知らずの人に対して、それは真理ではないとくだらないものを切り、できることをする。」

を略して「深切(しんせつ)」

まあ意味は私なりだけど、昔の人はやっぱりいいこというなと勝手に思いました。

私も人には深切でありたいです。

偏りかもしれませんが

誰かにも私や家族や違う誰かに対して深切であってもらいたいと偏ったことを願います。

そんなことが好きです。

海釣り

 慌ただしいことが続き、休日がいつかと気がつけば今日、有難いことに近くの方が子供達と一緒に過ごせる祝日に休日を入れてくれていました。昨晩家内に「明日休みだよ」と告げれば

「本当、みんなでどこへいく」

楽しそうにたずねてきました。もちろん突然休みだとわかったので「ノープラン」です。子供達と家内は勝手に何やら盛り上がっています。しょうがないのでいつのも海の側にある公園を思いつきましたので

「海いこうか」

即座に次男坊は

「やった釣りだね」

「いや、海としか言っていないんだけどね」

「釣りだー」

まあもう思い込んでいる上に、三男と盛り上がっているので、海そして釣りに決定。

「道具(釣り竿とか)家にあったっけ」

長男と次男と家内が声を揃えていいます。

「おじいさん(家内の父)から(無理言って)もらってきたのがあるから大丈夫」

すると残る問題は場所・えさ・はりなどの仕掛けだな。

鳴門に近いので海と釣具店は調べればよしとして、釣りだけで子供達はきっともたないだろうから、何か他に空き時間が潰せそうなものも用意しとかないとね。

朝から家内はお弁当(おにぎりやハンバーガー)と飲み物や子供達の着替え、暇つぶしの品々を用意してくれました。

「後は釣るだけですな!」

鳴門市にある釣具店にて、餌を二種類購入、子供達でも安全に釣れそうな場所を聞き現着です。まず釣り針などの仕掛けは危ないですから、釣り竿三本ほどセットしていました。子供達は久しぶりの海で近くをはしゃいで走り回ってみています。一本家内に渡せば、意外と器用に釣りをはじめていました。見たとこ周囲もそんなに釣れていないようです。
「こういうのは雰囲気を楽しむもんだよね」なんて思っていたら

「お父さん、つれた」

「ええ、まさか釣るとはね」

カワハギが(少し小さめ)を釣り上げていました。雰囲気だけで帰ることになるかと思えば、なかなかやります。浮きをつけた仕掛けでまったりしていれば、浮きが変なところにきがつけば行っています。根掛かりでもしたかなと思えば「メバル」らしきものが釣れました。

子供達大喜び、サイズが小さいとかより釣れたことが嬉しいようです。それから暫くしてランチにして、海を眺めながら釣りしていましたが、収穫はありませんでした。仕掛けとエサ代で1200円位かかってしまいましたので、見た目の割に高い魚と思い出を持って帰りました。帰りの道中子供達(次男と三男)は

「めっちゃおもしろかったね」

また行きたいようです。天気と休みが合えばまた行ってもいいかなと思います。(あまり釣れなかったのは場所のせいにしておきます。)