散歩

 お盆も過ぎ、夏も終わり、子供達の夏休みも終って、雨が多いです。午前中に溜まっていた用事を済ませ、先日から買い物へ行くたびに旬の秋刀魚を見て、家内へ

「こないだから美味しそうなんだよね」

「一尾ずつ」

「いや半分でいいよ」

用事が終わって、家内は秋刀魚定食(和風)のお昼を作ってくれていました。旬のサンマにスダチをかけ、脂ののった秋刀魚でした。どんな味かと

「やっぱりサンマだね」

そう家内に聞かれてもいないのにこたえておきました。それから「けいくん(三男坊)」を少しだけ雨の降る中、歩いて迎えに行きました。

小学校の体育館の横を過ぎ、小学校の正門を過ぎ、墓地(町営)を過ぎ、側溝の水にはメダカが沢山泳ぎ、水面で背中がキラキラ輝き、ちょっとメダカが欲しくなりました。

幼稚園のお迎え組さんと預かり組さんでは迎えに行く時間が当然違います。いつも仕事で迎えに行く回数が少ないですが、気分転換に余り行かないところに行くのは少し楽しいです。行き交う人も母親が多く、次に父親やおじいさんおばあさんってとこです。

子供は道草を食うものです。何かに注意を奪われ、時を奪われ、心奪われ、役に立たないように見えてそれが1番役に立つことがあると言い訳をしておきます。時間と心に余裕があれば一緒に楽しめますがそれが割りと私にできないことばかりと・・
なので後で散歩に行って、色々と見て回りました。

帰り道に草むらの中で雨に濡れた朝顔の花が幾つもあり、その朝顔の花の中でバッタが座っていました。(バッタが倒れているのはわかりやすいです。バッタが立っているのか座っているのかは私の主観次第かな)。

粋なバッタです。緑の葉っぱに留まっていれば、擬態していてわかりにくいのに、白く美しい朝顔の花びらの中で休んでいるとは、「けいくん」としばらく眺めました。

稲刈り途中の田んぼ、カリフラワーの苗を栽培している畑、タニシばかりの溝、近づけば逃げる茶色い小さな蛙、畑と水田に降りてきて何かを探す白鷺、同じような年頃の子を散歩させる親子、犬と散歩の人

ジャングルジムのてっぺんに登って、上機嫌の「けいくん」

登り方も降り方も、少し余裕が出て変わった降り方をするようになっています。

「あぶないよ」

「いけるよ」

言葉も達者になりました。

「けいくん」だけでなく、お兄ちゃんたち特に次男坊といろいろしていきたいと思う日でした。
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繰り返し

 いつも楽しそうな方がいます。その方私が言うのもなんですけれど、マイペースな方です。

気ままに自由奔放なイメージ、その方遠巻きなら私も楽しめます。ただ二人きりだとその方に巻き込まれそうで目も合わせることを避けがちになり、うーん所謂蛇に睨まれた蛙状態、苦手ではないのですが、こちらが気が付けばのまれてしまいそうに思えるような、可愛らしくない蝶(私)が蜘蛛の巣にかかって身動きがとれない感じでとでもいいますか。

いつも楽しい方です。プラス思考です。

つまりは(私とよく似ているから)似すぎている人から無意識に離れようとしていると、家内から言われそうです。

家内に惹かれるのは私と違いすぎるところが多いからと言われれば、それも割りと納得できます。

近くにいて楽しい・遠くから見てたら楽しい・一緒にいて欲しい・時折いてくれたら嬉しい・割りと苦手・本当に苦手、そんなこと他人に本当は言えないことなのに、よく言っています。


元に戻りますが、苦手ではありますがあの方いつお会いしても、楽しそうです。独特、いわゆるユニークなんでしょう。

夕食を沢山食べて満腹、何かに満たされず、近所のスーパーへ行き、陳列してあるものを見て

「これはどうだろう(いや、お腹は減っていないからやっぱりいらないか)」

好物を見ては、一つずつその問答を繰り返し、結局何も買わず帰り、満足しないことに満足して、ここのところ自分で足りないものを補うことをしていないのに、他に求め、やはりないと無駄な確認を繰り返し、日々過ぎています。

少し盲目的に何か一点を見つめていく時間を増やしていこうと思います。




どう言えば

 横で誰かがこんこんと、自分を見つめなければいけないのですと言っていました。随分と力説するので

「自分を見つめることが大事だということはわかりました。ではその方法はどうしたらいいのですか」

「(そう来ると思っていましたよ)それは自分の今まで(又は現状の)悪いところ一つずつ見つめていくことです」

そんなことを言われました。意地悪な私は違う誰かに成り代わり再度質問するのです。

「私は悪いところがないのに、見つめるとこなんてありません」

すると(それを少し見透かしていたように)また質問してきました。

「人間生きていれば後悔や失敗など一つはあるでしょう。悪かったことだってあるはずです」

こちらも(そう来ると思っていましたので)

「そんなもの、ありません!」

少し苦笑いしていました。

「確かにそのように答えられる方がおられますね」

「そうでしょう。そのようにこたえられたら、どうこたえるのですか」

「笑うしかないですね」


よく答えを探しています。一点を見つめ過ぎないように、狭くなり過ぎないように、離れすぎないように、それでいて「ああ、そうだ」と納得がいくものを探すことがあります。

見つからない時は、楽しいことを言って笑うのです。

「私は女性を見ると、すぐ優しくなれるのです。あなたも望めばでてくるその優しさに目を背けず、格好つけていないで、うわついた心を大肯定するとよいですよ。

『動かざること尊し』である不動心、対極にあるものを誰よりも知ることができるからこそ、深くなるのですよ

そういって私は素敵な女性をみるとふらふらと流されていくのです。」



なんてやりとりを笑い合えることがありました。



それから不動心という言葉を誰かと別れた後で考えていました。

「なにを動かさないのか」

「あの大盤石の神々しい山の如く動かないことが尊い(だが何よりも自由自在に動いているだろう)」

「うわついた心と不動心、それを流動するこの瞬間瞬間に、どうあらわせば」


なんて考えていたら家につきました。結局一杯やって寝ることにします。

好み

 また昨晩の夜更かしによって、通常より気分が高揚していたのか、はじけることが多い日でした。

よく笑う日でもあり、一生懸命に行いながら、またはじけていました。仕事から帰って次男坊のスポーツの準備を少し手伝い、スポーツがある日は送り迎えで、一杯やりたいですが迎えが終わって無事帰ってきてからになるので、一杯やる時間が減り残念だとも思いますが、あの子達と充実する時間で慌ただしいことは永遠ではないでしょうから、「これもまたいいか」と言い聞かせ、やっぱり終ってからの一杯(焼酎又はウイスキー)を楽しみにしています。(ビールも飲めますが気がつけば焼酎かウィスキーに走っています)

咲いていた美しく紅い一輪の蓮が散って、緑の蜂の巣ようになって、中にある緑の7粒の種も大きくなっています。あのまま枯れていって、種が残ってくれればと願っています。

蓮をおいたことにより、一匹の大きな(握りこぶしより少し小さいくらいの)蛙が鉢の中でよく休んでいます。

水をあげにいけば、私の驚き逃げます。ただ暫くすれば鉢の水の中に戻ってきています。ボウフラもヤゴもトンボもカナブンらしきものも蓮に寄って来ていました。私もよく寄って行き眺めます。

私は好みで寄って行きます。他の方(虫や爬虫類)は好みなのか生活のためか、理由はどうあれ、同じ仲間だと思っています。

好きなものには近寄り、そうではないものから遠ざかりやすい(私)

誰というわけではありません。最近痛切に感じることは、私のことを理由はわからないけれど気に入っている雰囲気を出す人、これもまた理由はわかりませんが理解しようとする人、私が阿呆で愚かな事を行ったことを信じ騙されたとしても許してくれる人、よく聞いてくれる人、話が合うのではないかと私自身が思い込んでいる人、優しい人、何故か私に物くれる人、そんな人が好きです。

こうやって書けば、本当あたりまえのことで、他の方もそう思う方が多いことではないかとも思います。

好きな人をより好きになるために、好きな人の反対のことを普段から行い続ける方を首から上の理解ではなく、体の芯から思い知らないと、好きという言葉もまた深みがない言葉のように感じることがあります。

「悪いことも含めて貴方が好みです」

そう心から多くの人に言えるだけの私を想像して、それもまた偏った好みだと言う私がどこかにいます。





多いのに少なく

 最近、以前より少しは現実を受け入れなければ、しばらくして痛い目にあうことを失敗の回数ではなく、質というか見るところが変化したことにより、ただ相手ではなく自らを少しずつみなければなんてことになってきて、それは良いこともみつめることになっていて、悪い点をみつめることになっていて、わたしをみつめることになっていて、あなたをみつめることになっていて、世界をみつめることになっていて、広さ(狭さ)をみつめることになっていて、深さ(浅さ)をみつめることになっていて、高さ(低さ)をみつめることになっていて、しょうがないことにもなっていたりするし、どうでもいいことにもなっていて、考える必要もないことにもなっていて、深みにはまっていて、深みから脱出することにもなっていて、優しさにもなっていることもあって、何にもなっていないこともよくあります。

一つ言い訳として、自らの愚かさを例えとして相手より先でも後でも出せるようになってくることでもあり、言い訳上手な私が出来上がり、愚かさと阿呆さと知恵が足りないという過去や現状を納得行かなくても認めなければ、現状の被害は多くなり、全て認めるとまではいかなくても、理解できなくても理解しようとする行為によって悪影響は同じことなのに少なくなって、ただ自らの愚かさを情けなくて涙が出ながらでも笑えるという私はそこにいることがあります。

被害は最低限であることを選ぶか

被害が甚大になることを選んでいくか


私が知らない(愚かな)私を知ることができるか

知らなくても、知ろうと努力できるか

情けない私を相手ではなく自らが認めれなくても認めようという方向へ進もうという心があるか


気がつけば周りを見て、そこに何かをみて


やっぱりきれいごとを言うのです。


「できれば、(私から出現するものがどうであれ、前より今いる場所で)よくありたいと願っているだけなんです」


今日の言い訳として記すのです。

きっとあったんだと思う

 近くでニホンザルの群れに遭遇、もっとも職場近くの山から軍団で忘れた頃に現れます。
本当に近場まで現れている一群、正確にはその群れの中の若手のサル達が食物に困って山を降りてきています。

花を楽しむための桃、紅い花でいつも春たのしませてくれる木があり、今その実が青く鈴なりになっていたものに、若いサルたちが何頭も登ってその実を食べていました。人には慣れていないので皆で近寄れば相手も逃げます。

サル達は木からおりて颯爽と屋根に上がり、屋根を越え、山へ逃げていったように思えました。屋根に登ってからしばらくして、何かが降ってきました。

よく見ればそれは桃の種だけが上から降ってきていました。周りを見ればそれは何個も。隣にいた人が

「あの青い桃、美味しくなさそうなのに食べれるんだね」

田舎で育った私は、年寄りから教訓を受けていたのに食べるものに困ったときは

「青い梅だって、バリンバリンと私と兄ちゃんは、美味しい美味しいと食べてたから、猿だったらもっと食べると思いますよ、青梅じゃなく、あれ一応桃だし」

(私と長く年数を過ごしているその人は、何故かそれを納得していました)


そういえば前回(少し前)に若いサル達が近くへ下りてきて何をしているのかと見に行けば、逃げながらこちらへ上から捨てていくものがありました。よくみればそれはちっとも熟していない、近くの青い柿をかじっては見たものの全く食べれ(美味しく)ないので、こちらへ逃げながら投げ捨てていったことを思い出しました。

その時は、いつも若い猿や赤ちゃんザルを群れは割りと連れていますから

「子孫繁栄しすぎてるな」

とか

「ニホンザルには少子化の波がまだおしよせてないのか」

とか

「獣だから当然か」

とか思っていました。ふと思い出しました。

あるところに、サルとカニが住んでいました。

ある日カニはおむすびを拾って喜んでいました。それを見ていたサルは(浅)知恵を働かせ

「カニどん、カニどん、この柿の種とそのおむすびを交換してくれんか

おむすびは一回食べたらなくなるが、柿なら毎年実が食べれてこっちのほうが良いものだぞ」

人(カニ)のいいカニは、サルの言うことをすっかり信じ、柿の種とおむすびを交換し、カニは子どもと一緒に種を植えました。

「早く芽がでろ、柿の種、でないとはさみでちょん切るぞ」

あら不思議、あっという間に芽が出ました

「早く大きくなれ、柿の種、大きくならないと芽をちょん切るぞ」

あらあら不思議、あっという間に大木になりました。すると美味しそうな実が沢山なりました。

美味しそうな柿をとろうとあれこれ試してみたカニの親子ですが、とることが出来ません。それを見ていたサルが

「カニどん、カニどん、わしが登ってとってやろうか」

人のいいカニは、またすっかりサルを信じ頼りとしお願いしました。

いくら待っても、サルは自分で食べてばかり、一つもカニにとろうとしません。

「サルどん、サルどん、早く柿をとってたもれ」

青い柿を投げつけ、投げた青く硬い柿がカニの親を死なせてしまい、サルを懲らしめるために近くにいた

身体が大きく重く丈夫なウスさんが、カニの子に一部始終を聞いた後に頼まれ、臼(ウス)は

「ウス!!」

そう言って快諾、また近くにいたクリどんに、一部始終を話せば

「そいつは、たまげた ビッくり!! おいらにできることがあれば、任せろ!」

と快諾、また近くにいた正義感の強い蜂どんに、一部始終を話せば

「ハ! チょっと待てオラがいない間にそんなことが」

そう言って快諾、揃った皆にこてんぱんに懲らしめられましたとさ

『(私の頭のなかの)サルカニ合戦』編大渓水



あの誰もが知っている有名な話もまんざら嘘でもないのかもな・・・


サルが頭上高くから投げてくる、青くかじられた柿や桃の種を投げてきたのをみて、そんな(変な)ことを思う日でした。

私のせい

 九州に台風が上陸、こちらも離れているとはいえ余波を受け朝から激しい風と雨が続き、職場から電話があって

「今日は危ないので(特に急ぎのこともないでしょうし・私がいますから)今日はゆっくり休んで下さい」

そう上司から連絡がありました。

家内と子供は喜んでいました。私も休みが増えるのは大歓迎です。それからまたごろっと寝させていただきました。昨日もごろっとしていて、今日もごろっとしていて、(一日中ではないですけど)腐りそうですね本当に。

子供達の夏休みも終盤、宿題の催促をしてみます。現実ではないところを見たり、根拠の無いものを根拠として出したり

「いけるよ」

そう言って何かで遊んでいるのを見れば「うーん」と考えさせられます。ただわたしの育て方もありますから、あまり子供達だけ攻めれないところです。ゴロッとするのは好きだし、遊ぶのは好きだし、まったりするのも好きだし、家内とイチャイチャするのも好きだし、それを見ている子供達が皆賢くなるといのは怪しいような気がします。

ちょっと気分転換に家内と買い出しにでかけ、帰ってにぎやかなあの子たちを遠巻きに見ている間に、台風も過ぎていったようです。

家内は家族全員いるからと、私と子供たちの労力を期待して

「掃除するわよ」

私と子供たちは家内の気迫に負け、しぶしぶ手伝っておわらせ、その後趣味を満喫と私を筆頭にだらしない男どもです。

さらに現実逃避へ

外には出かけれないため、一日子供達の声を聞いて、雨と風の収まりつつある外へ

けいくんと二人で、水田風景を眺めながら、繁殖しまくっている西洋タニシやおたまじゃくしから手と足が出て卒業しつつあるカエルを眺めたり、時折激しく吹き付ける風や、ザリガニとまた無数のタニシに挨拶をして、自宅へ帰りお風呂へ入りました。



(恒例、明日のために一杯やって寝ることにします!)

 割りと新しくない一軒家に住んでいますから、よく虫を見かけます。

庭にはダンゴムシ、家で見かける代表的なものはクモ、巣をはるタイプではなく、巣を使わず捕食するタイプの小型と大型とを見かけます。割りと嫌われますけれどクモを調べてみると毒持ちなんて日本にはほぼいません(外来種を除かないといけません)。

私がクモを甘やかすから、そのうち屋根の隅の方にクモが繁殖しようとしていました。

「あれこれからどうなるの」

家内がそうたずねます。

「その内あそこから沢山蜘蛛が孵ってでてくるんじゃない。それをなんかしようとしたら

蜘蛛の子を散らすように

とかなるんじゃないかな」

「おとうさん、すぐとって」

小さいクモがその辺りを散歩しているのを見かけると、元気と声を掛けたくなります。ただ軍団で散歩されたらちょっと声を失いそうなので、あれは可愛そうですけれど撤去することに。

届かないものであれば雲をつかむようなものなんていいます。あれは割りとやる気だけでクモをつかめると家内に言われました。(ちょっと言葉を私なりに脚色しています。家内はオヤジギャグなんて言うことはないです。)

これを書いている時に、後ろにいる長男坊のところに、巣を使わない小型のジャンプして捕食するクモがあらわれ眺めていました。家内は

「最近徳島でもセアカゴケグモ発見されたらしいよ」

「このクモはどうみても在来種で毒ないし攻撃しないと思うけど」

誰かが潰す前に外へ出しておきました。蚊やムカデとかゴキブリはやっつけたりするけれど、助けようとする虫もあると、この辺り本当私は身勝手なもんです。

外の山椒の木に、青虫が葉っぱを食べ、すぐとなりには蜘蛛が何匹も蜘蛛の巣を張っています。色々虫達を見ていれば考えさせられます。雑草を見て心動かされることは少ないのですが、花を見れば心が嬉しくなります。

本当、身勝手なもんです。

(悪い)日常

 いつもの癖で、夜子供たちが寝静まって静かになったら、一人の時間を満喫できます。
時間は(誰にでも平等に)一日24時間しかないですから、趣味の時間を増やせば、睡眠しなければいけない時間がどんどん削られ、睡眠欲求が私の身体を支配し、昨晩は9時前には「けいくん(三男坊)」と共に、布団へいけば、おやすみ3秒で、家内と長男は呆れる始末と・・・・。

皆の思いはともかく、今日の私はずっと冴えていました(晩9時から朝までずっと寝て睡眠時間充電が万全でしたから)。

どこかの誰かが、人間は睡眠時間が決まっているとかいう話を聞いたことありますが、人により睡眠時間をどれだけとれば一日を快適に過ごせるかは、聞く人ごとに時間は違います。

「えっそれだけしか寝ないの」

なんて人もいれば、私みたいに丸一日寝て、ほっとけばずっと寝つづけたりすることが可能な人も、近くの人でそれを聞いた時に

「それだけ寝てたら、くさるよ!」

意外とくさらないし、寝れるもんです。若い頃はもっと寝ていて、一日半位寝続けたこともありました。基本寝るのは好きです。ただ寝るより大好きな趣味がくれば、寝食を忘れそれのみに没頭し、ふらふらするようになって、食事や休息をとるなんて、つまりは極端な性格だということも少し前にわかりました。今でも気がつけば徹夜してしまうことも最近でもあります。

そのまま仕事に向かって疲れてれば、皆にその理由を聞かれ呆れられたり、その日がいつもの何倍も長く感じつらいことつらいこと、ただの自業自得なんですけど、好きなこと・我を忘れることに出会うことは楽しみです。ただ健康に注意していこうと思います。l(その気がなくても周囲に迷惑かけてしまうからね)

明日は休日をいただきましたので、子供達はそれぞれ予定が入っているようですから、家内とどこかへ出かけてこようと思います。

日々本当に思いもよらぬことが押し寄せいろいろあるけれど、いろいろあるからこそあの人をずっと好きでいたいです。

困りはてれば

 先日初めて出会う若者と話すことがありました。

関東からおいでのようで、まだ歳は20を過ぎる頃、白装束で四国遍路に来られていました。

「若いのに関心ですね」

少し返事にとまどっておられました。私は性格上気になったことは初対面の方によく質問する方です。

「若いのに、どうしてお遍路へ?」

とか

「どうしてお遍路に行こうと、きっかけは?」

とか

聞いてそれが一体何の役に立つかわからないのに、たずねることが多いです。

予想しなければいけないとか思ってもいないのに、返ってくる答えに驚くときは予想を上回るときもあります。

「四国八十八ヶ所参り、つまりは四国遍路を何故しようと思ったのか」


シンプルな答えでした。


「ただの仏教好き」


でもなく


「お家の宗教が仏教だから当然です」

でもなく

「お坊さんの話(法話や説教)が良かった」


でもなく


何やら般若心経の短い漫画を見て、ふと気になり、他の雑誌で「四国八十八ヶ所」という言葉がふと気になり、2つを合わせて検索して、四国遍路となり、今まで一度も一人旅なんてしたことなかったのですが初めて四国遍路を歩いてまわろうと思いました。

そのような答えでした。

悩み・迷い、青年につきものの葛藤があったようです。

「その葛藤がどこから出て何なのか」

そんな詮索はしません。

「遍路だけでなく、迷い悩み葛藤が大きければ、私も夢遊病者の如くただひたすら歩き回っていた時が20代でありましたよ。全てのしがらみを捨て、誰も知らないところへ逃げていこうと思っていましたが、結局私は逃げることができませんでした。
ただ、何も考えず・何かを必死に考え続けても、ただただ歩き続ける。
これは一つの答えではないかと今では思います。(その時は気がつけば歩いてただけですけどね)」

なんて出会いがありました。

「迷うときは、とことん迷ったらいいですよ」

なんて笑顔でいって別れました。

言い訳

 ここのところ自分が出来ていない上に頼まれてもいないのに、勝手に問題を作ってその問題を重くしたうえで、それを背負い

「重い」

なんていうことばかりの私で、挙句は近くの人を巻き込んでそれぞれ知恵を強制的に借りるようなことをしてみたり、いやこれあらためなくても本当困ったことを捨ててきてもすぐに拾ってきています。


途方に暮れるものは、何かにすがりやすいなんておもいます。

ワラではなく、誰かに問いかけ、どうしようもないことをどうしようもないと、結局接した時間ということが後になって有難く思うことができます。

理由や私の悪いことも含め、こちらの言っていることを理解しようとしてくれること、相手のこともこちらもそうであれば、理解できなくても、落ち着いていなくても、答えが見つからなくても、わからなくても、安心に近づいていることは確かです。

私はどうも私の発言や文章と思いなどを意味不明なことを言っていても、理解しようとしてくれるひとに感謝し安堵するのだということがなんとなくわかってきました。

周りを見れば、それは人によって方法などはちがっても、理解しようと努力される方を好むと思わされます。

また私をみます。

わたしが落ち着かなくて一緒に時を過ごしたくない人の傾向は、比較的他者を理解しようとせず、身勝手な人といるのを不安に思うようです。


文に書けば、人からすれば「なんて当たり前のことなんだ。今更」なんて思うかもしれません。


何かを知ろうということ

何かを理解しようということ

何かをつかみたいと願うこと


きっと私は不安なことが多い私だから、日々そう願うのかもしれないです。






あわよくばそれが誰かの役に立てばなんて欲張りなことも言い訳としていつも思います。


背後にあるもの

 ここのところ快晴の日もなく、気がつけば冷たいものが肌にあたり、まだ蒸しますが涼しい感じです。

夏の終わりだからか、台風の関係なのか、日頃の行いのせいなのか、これと断定できる要素を特定する必要もないのに都合のいいことに結びつけ解釈することを好むわたしをみます。

中村元先生の著作の中に「とらわれている人は大切なことが見えない」そうあらわす言葉を見て、おしつけと偏りと激しい感情にとらわれている時の愚か者の中の愚か者とととられてしまうものをあのときから痛感させられました。

誰かが言葉で

「これが大切なんだよ」

これと示しても、とらわれていればその字面も見えず、その字の背後の本体なんて認識すらできず、言葉(文字)の認識より問題は自らを正しく見つめることすらできていないために、望むことと反対の方向へ行ってしまうことが問題だと何かを見て思います。

見ること・聞くことにとらわれ・その本体が伝えてくることを見ることも聞くこともできていないと、今ならかえりみて思います。もっとも過去より今が幾分ましになったかと思われる程度であって、それが他人から見てできているかどうかは、これもまた残念ながら別の問題です。

「以前の自分よりましになったから、私は素晴らしい。」

そう胸を張っていれば、ちょっとどころか随分と考えさせられることや人が増えてくるだけのことをみてしまいます。



自らが信じて決めたことであれば、捨てるのではなく、(理想は)人生の終極まで貫いていかねばならないこともあります。


すべてのことに当てはまるとは思いません。捨てることを選び目を背け続ければ、これから心の底から楽しく笑って過ごせる時間が減っていくのではないかと考えていました。


私もそうですが、近くにいる人達が楽しく笑っていて欲しいです。



本当心の底から笑うためにその反対のことが必要になることがあるなんて、皮肉で辛い話です。

見えないのに

困った時出てくる言葉に「しかたない」と耳にする。同じ言葉だとしても違う方が言われていれば違うことを見てしまうことも
「しょうがない」
と誰かが口にする
「しょうがない(じゃないですか)」
前者は己と周囲をある程度以上把握して、自らのことだけではない言葉として独り言のように聞こえてくる。

後者はただ自らの狭い見解と器の小ささと思慮が足らないために、自分では持つことがこれ以上できない誰でもいいから背負ってくれとの意味合いが強くときに放つように聞こえるときがある。


「しょうがない」はその人によって違い、、一回ではなく複数回その言葉を聞き続ければその方の見えない中身か見えない器の大きさが現れてくるようにみえることがある。



己すら己のものでなく(思うよういかないのに)、他者(や取り巻く世界)がどうして思うようになるのだろうか



ただ誰もがわかりやすい光の当たる場所に最速最短で(しがみつき)、さっと陰にまわりできることを続ける黙ることができない方をみる。

ただ別に誰かをたてようとするのではなく、知らずにふれあう方を尊重している方も見る。


ふと客観的に双方を見ていう

「しょうがないか」

人が違う・思うことも・見えることもお互いに違っている・見ようとするものも違っている・見たくないものも違う。


人はともかく私はどうだろうか





あまり人のことはとやかく言えない

鑑賞

 気がつけば残すところ三人の子供達の夏休みも残り少なくなってきました。お盆の間休みもありませんでしたので、前から約束していた映画を皆で鑑賞へ。

私もあの子達も皆男の子、男の子はヒーロに憧れますし、仮面ライダー大好きでずっと見てますから(私も子供達をダシにして一緒にずっとしっかり見ています。平成ライダーおもしろいよね。CG凄いけど最近のは!)行ってまいりました。

5歳になった「けいくん(三男坊)」は、前日から大興奮、明日のことなのに

「おとうさん、いまからみにいく?」

「いやいや、けいくん、明日見に行くんだよ」

「えー、いまからでしょう」

「明日の楽しみにしといて」

なんて本当に楽しみにしていました。何かを我慢しなければいけないときも

「良い子にしていないと仮面ライダーの映画見に行けないよ」

「わかった」

本当好きなことのためならどの子も聞き分けがよすぎます。

中学生になった長男坊も小学高学年の次男坊も幼稚園のけいくんとオヤジになった私も皆仮面ライダー満喫してきました。ただ映画館に持込できるドリンクとポテトやポップコーン、美味しくて醍醐味合ったけど、あれ高いね・・・

留守番だった家内へそう報告したら

「皆が楽しめたらならよかったね、皆が使いすぎた分、私が倹約する」

なんてちょっとおもしろいことを言っていました。

私も初めて家族で見に行った映画ゴジラが楽しかったことを鮮明におぼえています。その後グッズで蓄光ゴジラバッジを兄弟で買ってそのバッジを見るたびに映画の余韻を楽しんでいました。

大人になった私は映画が大好きです。子供達の部活などのスケジュールの関係で夜開始の上映しかあわせれなかったのでここの更新が遅れました。もっともそれだけでなくまったりしすぎたせいもあります。

今度は家内と二人で余裕があれば映画を満喫したいと思います。あの子達は可愛そうですが留守番ですな。

本当の子たちの笑った顔が見れて何よりです。


「プライスレス」

なんて言ったら

「家内が割とあなた達お金使ったわね」

とぼそっと言っていました。

(あんまり気にせず、一杯やって寝ることにします。)

欲張り

 昨日夕方に雷が落ちた。

けいくん(三男坊)が家内とお風呂に入っているときたずねられたそうだ。

「お父さん、何で怒ってたの

うーん、お兄ちゃんたちが怒られてたから、ぼくはだいじょうぶだね」

家内が私へそうお風呂の後に教えてくれた。

「それは確かに間違っていないね。

今日一日遊ぶ時間が山ほどあって、事実遊んでいたのに、みにくい光景を私に見せるから(お手伝いを嫌がったりおしつけあいしていたりするから)だよ

やる気がないならお父さん(私)がするから自らのしなければいけないことを真面目にしてなさい

そう言って雷が落ちてただけだよ、けいくんもお兄ちゃんさっきのお兄ちゃん達みたいなことしてたら当然雷は落ちるけどね」

とあの子たちが嫌がったお手伝いを私がしながら、けいくんにも話をしていました。

雷が落とされたくないと思うのなら、普段からの自らの行動だよ、しっかり普段からしていれば雷が雷でなくなる(私がおかしいことを言っているだけだとなる)。


まあ今ならそんなことを子供達に望んでみたり押し付けようとしたりする私ですが、子供の頃はあの子たち以上に遊びほうけて役に立つことをしていなかったですから、あの子達は私に比べれば本当に賢いものです。

よく長男にはダメ出しをされます。

「おとうさんの子供の頃と比べてどうなの?」

「そりゃあ君たちの方がよっぽど同じ年の頃と比べてもできてるよ」

(じゃあなんでそんなこというのさ)といった雰囲気でこちらを見ます。

言葉で答えます。

「そりゃあ、お父さんが欲張りだからだよ、もっと私と比べ物にならないくらい良くなってほしいなんていつも思うんだよ
(出世もしてないし稼ぎも少ないからね・・・)

中身(知恵と努力と品性)があって、稼げたら自分も伴侶や子供もいいとおもってね、欲張りにのぞむんだよねえ」

(長男坊は黙って聞いてます。)

まあ本当押しつけがましく欲張りな私なだけです。ただ雷は落ちても問題が無いように普段からしようね(私もあの子たちもね)





エッセイ

 行事も特にこれといって問題も起こらず、無事に終ってなによりでした。

自分の計画しているとおりにとか、相手を自分の思い通りにとか、それはひとまず置いといて、光に当たる(主になる)人達と周囲に問題がなければ本当よかったです。

ただ毎回の行事で少しずつ改善しているつもりではありますが、終われば毎回課題が幾つか浮かび上がります。忘れないうちに思いついたことをまとめておこうと思います。



話は変わって、文章を書くことの難しさを今日も改めて知らされました。

自らの考え・中身・文章にふれられた方が願う方向へと自然に受け取れるか

そんな難しいことを考えて書いた時は大抵願わないようなものになることが多く。勝手にあふれでてきて気がつけばできあがっていたような時の方が後になって、よくわからないけれど思っていたとおりかそれ以上ではないかなんて思うことがあります。
もっともそれが他者にとって思った以上かどうかは別の問題であって、難しいことです。

最近エッセイストの方が何やらメディアで取り上げられていましたが、エッセイとそれを書く方のエッセイストの定義がよくわからないので調べてみました。

エッセイは随筆とか随想とかいったようなものの一つとか、必ず自らが思う何かを文に描き出すものがないといけないとか、色々とあるみたいで、徒然なるままに自らがおもうことを書き連ねるとか、こころのままに書いていくとか

「そんなようなものとは・・・」

とか考えていると、ここも(たまに書く記事の一つ位は)エッセイと言えばエッセイなのかも

まあそうじゃないか違うのかなんて別に何にも関係ないことなんですが、無事に行事が終ってなによりでした。

今日は夕方から雨が振り、晩8時前には土砂降りここのところまとまった雨もありませんでしたから恵みの雨かもしれません。


(まとまりと中身の無いことを忘れ去り、いつもの如く一杯やって寝るとします。)

余分

 変わった人もいて、言えばその反対のことをしたがる人がいます。そんなことをしていたら(人によれば親切に)

「(あなた)素直じゃない」

なんて教えてくれます。よく私もそう言われる変わり者の困ったさんという特典を受けてしまい、違うことや時に困り果てると


近くの青年は以前はそんなことがあまりなかったのですが、何を言われても黙って受け取ることが増えてきました。

その青年は自らが気付かずにしてしまったことが結果悪くなったこと・過去において思慮や学びが足らず痛い言動をしたこと、つまりは痛い言葉を一見受け止めるようになってきました。

ただ一見とつくように、いつもそうではないのですが、何か言えば自らの悪いことをもっと突かれてしまうことも学習し、黙って受け続けることを会得したように見えます。

痛い言葉を黙って受け止めること、彼の過去の行いを誰かが指摘続ける回数だけ、身を持って示してくれる彼に感謝しています。もっと痛いことをしでかしてくれれば、私もそれを見続けることにより成長すると思うので、彼には賢くなるよりその反対でいてもらうほうが、ひょっとすると私のためになるのかも、なんて不埒なことを考えることもあります。


言うこと

聞くこと

黙ること

黙らされること

愛すること

愛されること

理解すること

理解されること

生きること


どれにしても、私がそれを深い理解や共感をうけるとき、誰かが必要になっています。


誰かが誰であれ、共感できるのも、理解できるのも、愛するのも、理解できるのも、理解できないのも、感謝できるときも、感謝できないときも、怨みにしか思えないときも、誰かに何かをみて学ぶことができるという(あとになっても感じる)余裕があれば、誰かのおかげかなと思うことがあります。

どうして悪い人や性悪な人やいじわるな人に私が

「いつも(貴方らしくて)有難う」

そう言う笑って嫌味だねそれは、と取られる時がよくあります。


だってしょうがないです。善いことをしてきている人にの貴方らしさと、その反対の方の貴方らしさ、それはその人の過去・現実だからそれでも感謝しているのですよ。(ただ私の発言に何か余分なものがはさまっている以上、素直にとられず嫌味ととられてしまいます)

たまには余分も楽しめます。

時には純粋なものを出したいなんて思う日でした。






かえりに

 あの人に贈る花、バラを探していました。

お盆(または定休日かもしれません)ですので近くは確か昨年閉まっていたように記憶しています。離れたところへ仕事帰りに行き時間をとられるのは早く帰れないとの思いがありましたので、近くのいつも行くスーパー確かバラを買ったことを思い出し、そこへ車を走らせました。

菊や緑や仏さまへお供えするといった花ばかりが並んでおり、バラは売り切れているのか元から無かったのか、しかたがないので赤とピンクの小柄なものを一つだけ購入し帰りました。

家の前までくれば、庭にピンクのバラが三つ程咲いていおり、1番小さくて可愛らしいバラを手折り、あの人へ。

気分屋で忘れっぽい私は、約束していたことをよく忘れてしまいます。言われれば、思い出すのですが、言われなければ思い出さないことがあり、時にそれは意図していない心のすれ違いを生じ、後悔やあろうことか悪い張本人ではなく相手へ腹を立ててしまうなんてことがよくありました。

みずからの考えや思いの大きさ、相手の考えや思いの大きさ

完全一致するときは稀なことです。

完全に一致していると双方が思い込むことと、一致することは同じではないのだろうなんて思い、難しいことよりただあの人のことを好きで笑っていたいです。

お互いを理解し合うことは難しいのかもしれません。ただ理解したいという願いは大切にしていきたいです。


本当身勝手な私をよく見ます。

このあたり

 昨日から書いているように今徳島はお盆の時期です。

盂蘭盆に行われる法会を盂蘭盆会とか、先祖をお迎えして供養(相手を供え養う)の時期を、略してお盆と言っています。

この時期、お坊さんが檀家様の家をお参りして先祖を拝み供養をします。

これをこのあたり(徳島や他の地域でも)棚経(たなぎょう)と言っています。

近くの世話になる優しいおじさんが私に教えてくれました。

「このあたりは『みず棚』(おそらく水棚の漢字だろうと思います)を拝むから、棚を拝むから棚経(棚経)だな」

そう教えてくれました。なるほど私の近くのお寺の檀家は仏壇の前にて拝むより、外に「みず棚」をおまつりして、そこへお供え物をお盆の期間日々交換し供え、その棚へ向かって僧侶は読経・供養している光景をよく見かけます。

このあたりならば、「みずだな」へ向かって拝みますが、ところが変われば「精霊棚(しょうりょうだな)」を中または外にこしらえ、そこへ御供えをして、そこに拝むところもあります。

結果「精霊棚(しょうりょうだな)つまりは棚へ拝むので、やはり「棚経(たなぎょう)」と呼ばれています。

私の地元長崎の実家ではお祖父さんが毎年お盆が近づくと、仏壇に敷くための敷物を水辺に生えている草を刈ってきて編み、その上にお供えをお盆の間続け、最後はそれをくるっと丸めて船のようにして、川へ流していました。

どうも徳島でも川に流す風習が合ったようですが、どこも環境破壊のため、川に流すことを禁止される場所が増え、最近流すところがあったとしても、流す場所の下流でしっかりと回収するようにしているようです。鳴門あたりにそうしているところがあります。

今川に灯籠が流れていたり船が流れていたりする光景を偶然見ることが(私は)少なくなりました。

「水に流す」

その言葉、許してくれる時、許してほしい時などに聞きます。

川に流れがなければ、それは川ではなく、流れなければ水は濁っていきます。


他人を見て自分のことを棚上げして思います。誰かと衝突したり物事をうまく処理できない時

「さらりと流していけばいいのに」

他人ごとであればそう簡単に思います。自分が渦中であれば

「簡単にそんなことを言わないで下さい。(貴方自信が今そうでないからそう言えるんですよ)」

なんて、言い返すの関の山だと思います。

だから普段から「全ては流れるのである」なんて言いたいだけのことを仲良い人や自分に言い聞かせます。

「流さないで、どこかで自分勝手に堰き止めたり、変なとこへ流そうとしたり、逆流させようとしたり、自らや他者へかけ過ぎたりなんかするから、痛い目にあうんだよ」

本当他人にいうことは簡単ですが、自分のことに置き換えれば簡単にいえなくなります。


まあ都合よく行きます。

良いところは取れるだけ取って欲しい。悪いとこはどこかへさらりと流してくれとね。



(棚経の話から、本当どっかへすっぱり流れて行きました)

 盆灯籠が風に揺られ、風鈴の音に夏とその暑さを忘れる風に気が付かされます。別に夏も風もその出来事がなくても、日々そうなのに何かで眼前にあらわれるなんてことは他のことでもよくあることです。

徳島の夏、今の時期であればお盆であり、阿波おどり一色、長崎出身の私も聞いたことがあった阿波おどりという名称が盆踊りだと気がついたのはこちらへ来てからです。

まだ結婚する前、兵庫の田舎の友人のお寺へよく会いに遊びに泊まりで行っていました。普段はあっけらかんとしていますが気がつけば私は以前から物思いに耽る自分の存在を最近気が付きました。

今身体より、何かを考えてばかりいて動きのない私ばかりをみます。

今日は仕事が終わり残業がなければ、家内と子供達と一緒に阿波おどりを徳島へ見に行こうと予定していましたが、残業で先ほど帰ったところです。

小さい頃の祭りの楽しみ方といえば、夜店や友人と出会うこと・屋台でなにか買って食べること・クジにお金を使い込むこと、与えられたお小遣いの範囲で考えながら自分の楽しみで埋めていくことが本当に楽しみでした。

大人になり、親となってあの人の夫となり、祭りの楽しみは大分変わりました。

少し前は仕事が終わった後であればなおのこと、疲れることをしたくないという思いと家族の時間との戦いでした。今は余裕ができ、あの子達と家内が楽しめればなんて思う気持ちも少し出てきて、共に私も一緒に楽しもうという思いもあります。

若い子を見れば、その若さの輝きをみて、以前の私の若い頃を少し思い出し、今の自分をそれからゆっくりみて、笑うのです。

(歳相応に)輝いていきたい

一人で楽しむ楽しみもあります。ただ一人は孤独を愛し楽しめるときしか楽しみにくいもののです。


身勝手な振る舞いをする私です。

「今は一人にしてくれ、今は構ってくれ」

なんてコロコロとそんなことを出したりするんだから、接する方も面倒くさいと思っているでしょう。それもまた私。


明日は割と忙しくなることを言い訳に、一杯やって早めに休むことにします。


(結局は一杯やりたいだけのことです。果たして一杯で済んでいるのかコップ一杯か腹いっぱいなのか・・・)