自分のことを都合良すぎるぐらいに見なければ、他人のことをとやかく言える私です。

あらかじめ知る努力をしていないだけ、つまりは悪気がないだけでただ悪くなっただけのこと(問題の程度によるのですが)、皆が大したことなければ、その人のことはそんなに嫌いにならないです。

人によれば簡単に「悪気あったほうがまだいい。無いから余計にたちが悪い。」そう言って自分は悪気が合った悪いことをする人もいます。そんな人のほうがつきあうことが難しくなります。
先ほどの話と関係ない話になります。

ふと気がつけば困りものである三つの「偏り」・「決めつけ」・「おしつけ」が苦しめます。

自らを見ること無く、他人だけをみていれば、私こそがその三つを生じさせ他を苦しめさせるなんてことが、後から考えればよくあることです。

仏教によってさとりに至るには三学が重要なものとなっている。なんて言葉があります。

それは「戒」・「定」・「慧」の三つ

「誰かにがんじがらめにされるようなものではなく、自らを成長させるための戒め」

「瞑想とも禅定とも」

「正しい知恵」

この三つの正しい修学によって、それが自然に身についた時に解脱となり、自らが正しい解脱をしているという認識を「解脱知見」と言い、これを「戒・定・慧・解脱・解脱知見」という五分法身(ごぶんほっしん)と言います。

最近読んだ本の中にそのことが書かれていました。お経やその解説書には面白いことがのっています。法を大別して五つとし、さとりへの修行的段階、そんなことを認識し超越していった方が言われたこと書かれたことがお経としてのっているだけのことです。

解脱はともかく、次の解脱知見(げだつちけん)、自らが正しい覚りを今この身に備わっていることを認識し超越することがどれほどのことか、その方の言葉や態度と身にまとう空気がそれを他者が感じ取り、「私は正覚者である(この世でさとりを開いたものである)」そのことを他者が素直に受け止められた時、その言葉はお経に編纂され、お経は膨大な文字数となってきたのでしょう。

感心ばかりしている私ですが、最初の自らに課す戒律つまりは「戒」の取得段階でその方の身にまとう雰囲気は違います。

見る側と見られる側、修めるものとそれを受け取る側、いずれにしても見解は分かれやすいのですが、「正しく有難い雰囲気」は見解は分かれにくいものです。自らが修めていなくても他者の修めたものがわかるのは何故であるのか、善いものをみて憧れ自らもそう願うことが何故今までであったことが無いのに理解できるのか

難しい答えをせずに、どこかのお経のなかに、「自らは元からさとっているのに自分自身こそがそれを気づいていない。むしろ当人がさとっているなどと言われれば困惑し、否定し、さとりより遠いことをしてしまう。」なんてことが書かれてありました。

最近、その言葉がほんの少しそのとおりだなと実感することがありました。


いつも根性が悪く、他人に厳しく自分に優しい人に「あなたはさとっている」なんて真剣にいっても、こちらには余計に辛く当たられることが増えるだけです。

善い人に言えば、その人は善い人なんだから、こちらには善いことばかりしてくれるもんです。


ただいつも悪い人でも、その人には光る部分だって見えます。いつも悪いことばかりして根性が悪いことでマイナスになっているだけのことで、光はなくなっていません。確かにあるのですが差し引きして見がちで光っていないわけではないです。これは現実的に難しすぎることです。

だって(私はそんな人といればよく)腹が立つからです。

私には光ってみえなくても、ある人から見れば、その方でも光って見えて感動して泣いている光景をみました。


ふとそんな時に普段のその方の悪い行動はおいて

光はともかく、その光を邪魔させないためには普段の言動が随分と大事なのだと、腑に落ちました。



だから現実として、ダメな奴なのに何故付き合っているのだろうなんていう関係は成り立つように思います。


その方の「光」、ただ嘘か真かは、本当に日常における言葉と行動によって、「(有るのに)無い」と言われ、ある時には「(無いのに)有る。」なんて言うのだろう。



スポンサーサイト

ミンミンミンと声がする頃

 本当暑いです。

暑いですが、この時期恒例の大掃除があります。お盆前に声をかけ何人かで一人では出来ない場所を掃除します。いつもその時大きくとても重たい机を移動しないと掃除ができないので、二人で抱え上げて移動をするのですが、昼過ぎに少し腰が気になりました。今までそんなことなかったのですが、これは普段からの運動不足による筋力の低下を痛感しました。

明日も引き続き違う場所へ、大掃除に向かいますが幸いなことに明日の場所には大きく重いものがありませんので、助かります。
いつも掃除の時に年配の方の話を聞けばためになります。

「いつの歳が来ても、いろいろあるものだよ」

誰にでも何かあるし、自分では気づいていないことも、気づいているつもりでも忘れていることでも、気づいているのに目を背けていることも、気が付かせてくれることを教えてくれます。

「この世界が私に一体何をしてくれるのか」
(この世界という言葉は、夫・妻・会社・周囲・あの人、などと入れ替えても問題ない言葉であって)

その考えは失望と絶望をもたらす要素が格段に上がり、その反対のような

「この世界で私は今一体なにができるのか」

何かを実践され、つまりは生きていることを実感される方を見れば怨みの反対が何かを見るように思います。



暑くてだらけがちな私ですが、今もこれからも世界(あの人達)に何ができるのか


あまり考えを先行させず、行動していきたいです。


無理せず、長く続くように、自分だけでなくあなたも大切だということが伝わるような私でありたいです。

(それにしても暑い)

 今住んでいる近くは名産の一つに桃があります。

何年も住んでいれば知り合いも少しずつ増えて、よく出会う方からとれたばかりの桃を有難いことにいただきました。仕事が終わって自宅へ

「お土産だよー」

「なになに」

「桃」

「やったー」

本当我が家の子供達は果物に目がないです。特に甘くて美味しい果物は、三人もいれば競争も激しくなります。次男坊はその中でも特に果物を好物としていて、誰よりも早くやってきて、誰よりも遅くまで食べています。長男坊は争いを避け、ある程度で次男や三男へゆずっている光景を見かけます。

桃を家内が食後にむいていました。すでにまだむき終わっていない上に呼んでもいないのに、次男坊は真横でフォークを持ってスタンバイしています。これは危ないので、用事をしているお兄ちゃんにすぐ声をかけました。

「お兄ちゃん、もうそろそろ桃お母さんがむきおわるから、早く来て(でないと次男坊が全部一人で食べてしまうよ)」

「わかった」

長男が次男の横に来た途端、次男がお兄ちゃんに注意しています。

「味わって食べてよ(競争して急いでたべないで、ゆっくり食べてよ、そうでないと僕の取り分がすくなくなるから)」

笑いながら三人を見ていたら、長男が言い返しています。

「おまえ人にはそんなこと言って、自分は必死に早くたべとるでないか」

確かに遠慮して(不服だと思いますが弟の)言うとおり、ゆっくり食べているのに、当人はいつもより急いで口に入れるだけ入れています。

「ちょっとちょっと、ちゃんと味わってたべてよ」

次男坊は必死です。それを横で見ていた長男は

「もうオレはいいよ」

次男と三男坊はマイペースでそれぞれ味わっています。

三人が三人共我が子です。それぞれ個性があり、見ていて楽しいです。周りのことを配慮しながら行動する次男坊、難しいことをあまり考えずマイペースな次男坊、まだ小さく可愛らしい饒舌な三男坊「けいくん」。


これからあの子達がどうなるのか、私の悪い所があまり似なければいいなときっと私の思っている以上に家内は思っていることと思います。

本当沢山桃をいただいて有難いことでした。もっと味わいたいのにそろそろ桃の時期も終わりです。

誰かと

 それなりに晴れてもみえますが曇りがちの空、気温と湿度は高く、蝉の声も身体の割にとても大きく感じ、アゲハ蝶が舞い、とんぼが草木にとまり、小さいかえったばかりのカマキリを踏みそうになり、日向ぼっこしている小さいトカゲ達も近寄れば逃げていきました。

曇り空の夏の日です。

有難いことに職場にはクーラーがついています。外気温と内気温と湿度差が涼しくて快適なのですが出入りしていればこたえます。かといってクーラを消せばそれはそれで割りと応えるし、いつもと同じで贅沢なことを言うわたしです。

ふと気になって探しものをしに倉庫に行けば、目的の物以外がやたらと目につき、探しものが何かということを忘れ、目前の物を抱えこんでは「ああこれいいよね」、「いや、今は違う目的で来たからこれはおいといて」、また違う物を見つけてしまえば、それをつい担いではいないはずの背中のリュックへ「何の役に立つかわからないけれど、これは入れておこう」、そんなことを繰り返すうちにようやく目的の物を見つけ、当初の予定通りに事を進めれました。

少し心にゆとりができたのか、ただの怠け癖や現実逃避がでたのか、何かに取り組めば口実をみつけ頼まれてもいないのに脱線して、ようやく戻ったかと思えばあらぬ方向へ脱線しまた戻り、そんなことをしている間に一日が終って行きました。

夕方に花の茎が出た蓮(はす)を見れば、毎日少しずつ成長しています。いよいよ実際の花をそんなに見たことはありませんがよく見る未開敷蓮華になっています。

「未開敷蓮華」(みかいふれんげ)

観音様の像の手でよく見うけられる、まだ開いていない蓮。

まだかためのつぼみ、ただこれからどんどんとふくらみ暫くすれば花ひらく。

どのような花が一体そこに咲くのか、開ききったものを持ってしまえば現在は美しいそのものをあらわせます。ただ人間は過去も未来もつい考えます。少し後のことも予想します。


開ききった生きる花は永遠にそのままあるわけのないことを知れば、その先は散っていきます。


「だから観音(仏)様の蓮はいまだ開いていないつぼみの蓮が似合うのかな」

なんて思います。

全て苦しいことも嫌なことも大抵の事ならば、流れていきます。観音(仏)様などが持つ水瓶が何の意味があるのかよく調べていないけれど、生きることに必要な水、水は停滞すれば腐りやすいものです。

変なものを変に(自らによって)とどめるのではなく

「すべては流れるのですよ」

こころに余裕があれば、そんなことを思います。


倉庫にあって目を奪われたものとは挿絵が入り少し年代ものですが、保存状態の良い「観音経」の大きめの経本でした。

誰かを見て「あの人も観音様だ」そう思うことも以前より格段に増えてきました。誰かが苦しい思いをしてその暗闇に一度は染まりそこから光へかえってきたときに、その方は以前よりおもしろくなります。

「(よかったねえ、あの悪いひとも観音様だよ)なかなかそんなことを教えてくれる人も少ないから有難いことだね」

(かっこ)内を省略して後の文をその場に会うかたちでよく使います。

苦手な人、嫌いな人、およそ悪い方向のことを受けるので避けたい人の光をみることができれば、現実が随分面白くなると思います。


変なことを考えていたら、咲くのを楽しみにしている蓮のつぼみにトンボが止まっていました。


よからぬことをわたしは思うのです。

「(トンボさん、かなり咲くのを楽しみにしているからそこにとまるのは少しやめて欲しいのです。咲ききった後ならいいんですけど)」

ただ思うだけで、トンボに悪いので言えませんから、近くにいた人にお頼みしました。


「皆が楽しみにしている蓮のつぼみだから、ちょっと咲き終わるまでトンボに言っといてよ」


誰かは日本語で

「トンボにそこは今とまったらいけませんよ」

そんなことを言っていました。





トンボにわかる言葉で言って欲しかったです。

言い訳

 久しぶりに口論をしてしまいました。言いたいことだけを言い放てばその時はすっきりするのかもしれませんが、後になって感情にまかせて考えの足らない言葉を幾つもそのあたりに投げ捨てれば、だれもそれを拾いたくも当たりたくも大切にとってくなんて人はまれです。
揚げ足をとるために全て残らずとっておくなんて人もいますが、放った言葉を消す消しゴムもなく、ただお互いが痛い言葉を投げ合ってしか進めないこともあるなんて、言い訳にならない言い訳をしてみます。


「何か言われたことを素直に受け入れないという私」

割りと厳しい口論になるきっかけはそんなことで、これを「喧嘩を買う」と呼んだり、後になって思うことは決まっています。日頃の自らの行いが足りず、善いことが自らが思い込んでるほど無いという私をみるだけのこと。

つまりは足らないものを普段から補う努力をしているのであれば一言で終わり、いやただ黙っているだけでも問題がないように思います。

変わらず足りないものの多い私、他者が思うほど善くないのに勝手に善いと思い込みすぎる私自身による思い込みが問題を悪化させる。その問題というのは他でもないただの私というだけのことです。

近くに何か言われたとして、反論をしようにも何も反論できないくらい、いつも皆に優しくできることを惜しまない方がいます。その方は一言で終わるものです。

私に合った言葉が足りないからと書物をいくら探しても、他に役に立つ言葉や知識があったとしても、その探している肝心なことはそこには存在しないというディレンマに陥るのです。

問題・答え・理解など欲しがることが間違いだと気付き、色んな意味でのその場に合った優しさの大切さを考えさせられました。


お互い理解しあうことを難しく、その方法すら見つけれない私を見て、情けなくなることもあります。


私自身の都合の悪いことは忘れ、ひたすら隠し、良いことだけを言いたがり、良く見られたいという思いにいつの間にか支配され、それなのにできることがあるのに怠けている。


誰も自分が嫌われようとも思っていないだろうし、悪く思われようと願う人も少ないだろうに、原因は私の中によく存在し出現させてばかり。


言われました。


「喧嘩を買ったのか、しょうもない」





本当しょうもないです。

 それぞれカップルから結婚した方へなれば、夫婦となります。

人により良い夫婦の形があるのでしょう。それぞれが願う(願わなくても一緒にいれば)夫婦になっていくのでしょう。

どこかいつもべったりで何年たっても熱々の新婚気分のままの夫婦だっていれば、冷めた感じに見えるけれどもしっかりとした夫婦の方もおられます。もちろん夫婦の数だけ厳密にはあるのでしょう。

狭く愚かで大切なことに気がついていない私は、夫婦のあり方は一つではないかという転倒したものの見方と捉え方をして、挙句それをおしつけたりすれば、後々痛い目にあいます。

進み方・過ごし方・付き合い方・願い・願わない・精進・何をみるか・あえて見ないか・自分を何よりも大切にする方法か・自分は家族の中でも後回しにして他の方を優先するか・理解しようとしているか・理解する気がないか

その他さまざまな(環境・おいたち・文化・性格などの)ものが複雑に絡みあい、それぞれの見えないけれど見える形を出現させていき、夫婦(人間も)は十人十色となり、理解し合えないことを理解し、認めれないと思えることを認めれば少しずつ前に進むこともあります。

この大宇宙の中で、私達を取り巻く世界の中で、難しく予想できないことの複雑な絡み合いとの出会い、それを因縁といい、悪いことのみを因縁というのではなく、すべてを含め、この中で最も大切な因縁を何よりも美しく光り輝く自分の本質に出会うきっかけとなることを因縁と使うことが善い使い方と思います。

どうでしょう。深く自分をみつめ何よりも自分自身は美しく光り輝くものであるとの認識はどうしても他の方との密接な関係が必要不可欠となると最近身にしみます。

「何故(何も返すことの出来ない・見返りを求めずあの人は)わたしに優しい(慈しみ深い)のだろう」


誰かが光ってみえると感じること


何よりも光って見えると感じる心、その瞬間その方は光を発しています。


この時の自分を客観的に見つめると、相手ではなく自分の何よりも美しく光り輝く本質と出会っていると伝えたいです。

「誰かではなく、あなたが光っていますよ」


よく誰かにそのように伝えたいと願いますが、相対する方がどなたでも光をみることができるようなことをだせず、愚かさといたらなさを痛感し考えさせられます。

『法華経』はそれを難しく表現することをいとも簡単にクリアしています。常不軽菩薩は出会う方誰彼かまわず

「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以はいかん、汝等皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に作仏することを得べし



例え「何を根拠にお前はそんなに偉そうなことを言っているのか」と罵られ、時には石を投げられ杖で打たれたとしても、目前の方(達)の今あなたがどうであろうとも貴方自身は何よりも美しく光り輝いているものに、生涯礼拝し仏となれると断定し続けた菩薩の言葉。


ただ私は根拠を求め続け、いたずらに時間を費やし、身近な方にも大切なことを伝えることができず、また懲りずに何かを探す日々です。

やらなければいけないこと、言わなければいけないこと、そのタイミング、根拠


何も考えず何かを一心に行う、少しその時間を増やして行きたいです。誰を見ても美しいと心底思えるようになった私を想像しています。



久しぶりに

 普段通りに仕事(主に事務など、つまりは内勤)ばかりであれば春夏秋冬はまだわかりやすいものですが、太陽の傾きによる影の長短、照らす角度の変化など、前はここまで日が照っていたのにとか、影があそこまで伸びているとか、やはり外でいつもいる方に比べればその変化に気がつくことが遅れるのだろうなんて思います。

以前から(二年前くらいでしょうか何気なく)蓮を種から植えました。目前に偶然あったレンコンの種からはじまり、花蓮(はなはす)の種をネットにて安価で購入し鉢を増やし、現在は鉢が6個です。枯れたりして越冬できなかったものは残念ですが片付けました。

鉢に泥を入れ、ペットボトルなどの容器で発芽させて二三本葉と根が割と出たら鉢に植え替えました。あれから二年蓮を眺め続けています。蓮はお日様が照っている場所が大好きです。泥と水も大好きです。私はその泥と水面から高く元気に育つ蓮の立ち葉が水滴が触れても触れていないかのようにクルリンと水滴が回って落ちるところが大好きです。

山と木々に囲まれた場所で二年も蓮を生育していれば、お日様の当たり加減が気になります。太陽の光は当然何か障害物があれば影となって照らしたい場所があったとしても影の場所は当然暗くなります。山の陰、木の影、岩の陰、物の影、移動できるものであれば、移動すればより蓮のためには長い日照時間の確保できますが、移動できないものであれば当然蓮の鉢を移動したほうが早いのですが、山に囲まれたところで影が多い場所に日照時間を長く確保するということが難しいことも蓮をみてようやくきがつきました。考えてみれば田畑は平地であれば邪魔するもの無く、一日中お日様を独占できます。季節による太陽の移動も蓮を見続けて、その時によって日の当たる時間も変わり、物の影も太陽の昇る場所の移動により変化しています。

内勤ばかりで机やパソコンの画面や人と建物の中や書物だけを見ていてもそれには全く気が付かないことでした。

夏季休暇から戻り、蓮を見れば蓮には今までに無い変化が、一つの鉢からこれまでは茎がでても葉になる茎ばかりしか見かけたことがなく、ただ何日か見ない間に、華を咲かせるための茎が生えてきていました。

あのまま何事もなければ小さいですが花が咲くのでしょう。


私の育て方が悪かったので、いまはまだ細く小さな蕾です。ただあの小さな蕾をみて心躍りました。


「どんな花が咲くのか、花は何色なのか、無事に咲いてくれるのか、種がなるのだろうか」


本当私は欲張りです。無いものを常に望み、あればそれ以上をのぞみ、他を見ては羨みときには嫉妬し怒りもします。


もう少し私は私を見つめ、嫉妬し怒り欲張りな私を大好きになりたいです。



そうすればあの蓮、もっと美しく見れるような気がします。

予定通り

 ずっと雨ばかりでしたが(休暇の)最後の日に、朝は少し曇っていましたがそれからどんどん晴れてくれました。予定通り海へ皆でお出かけの予定でした。

ただ朝起きて次男坊が38度を超える熱を出して家内が世話をしていました。子供三人いれば思いがけぬアクシデントはつきものですが、長男坊と「けいくん(三男坊)」は残念そうでした。一応保険をかけておいて昨晩家内と出かけて天気が悪い時や何かあったらの時のために、久しぶりに映画を借りてきていました。

一昔前はよく映画を見ました。年間100本を超えるくらい見ていた年もあります。暇さえあればレンタルビデオ屋さんに返しに行ってはまた何本も借りてきて鑑賞していました。その時の私はよく

「いやー、映画って本当にいいもんですね!」



なんて誰かれ構わず言っていたもんです。あの時より今は本(書物)に時間をとっています。(正確には趣味のパソコンやネットにはもっと時間を欠けていることは内緒です。)

五歳の三男坊が満喫できてその間の長男坊と私が楽しめる映画をチョイスするのに少し時間がかかりました。小さい子は複雑な描写や難しい話なんて全く楽しめません。私は映画のそんな所が楽しくてしかたないのですけどねえ。

困ればSFアクションしかも前作などからの続編物、「トランスフォーマー(ロストエイジ)」を鑑賞、「けいくん」が映画が終わって

「おもしろかったー」

子供によってディズニーが好きとかいろいろ別れますが、あの子は何かの縁で(私はちっとも進めてないのに)トランスフォーマーシリーズが大好きです。

皆楽しめて何より、ただ熱で寝ているしか出来ない次男坊は治ったら楽しんでもらうことにしています。結局海は行けなかったけれど、次は機会を逃さず海へ行きたいです。

いつものパターン

 夏休みに遊び呆けることもなく、スポーツに汗を流し、(短い時間だけれど)毎日宿題・課題を続ける子供達も遊びが必要になってきました。(建前はおいといて本音は毎日ゲームとかネットとか読書は勉強した時間の何倍以上ちゃっかりしてるんだけど。)

今日も海へ連れて行ってあげたいと思っていましたが生憎の曇り空と雨、じゃあ(ストレス発散のために)友人を呼んで遊びたいという要望が長男坊と次男坊からきましたので、それを快諾し、見ていたら注意したくなる性分ですから、私を一人でほっておけない(仕事以外で私を一人にさせたくない愛情の多い)家内と一緒に、この時期どこも冷房が効きすぎて身体にこたえるようになった私達はしっかりと二枚くらい多めに着込んで、快適なところで読書を二人でするために出かけました。

「いわゆるデート」というものですね。

(子供達をダシにして、二人の時間を有意義に過ごすと)

本当にこの時期の人が沢山存在している屋内施設はどこも冷房が寒いくらいです。周囲を見渡すと若い子やお洒落な方は、薄着一枚で楽しそうにしています。オヤジになった私からすれば、あれは自殺行為ですね。

働いていたり動いていたり、日中に先程までいた方ならば、砂漠の中のオアシスでしょうけれど、静けさを好む(ただ動くのがすきじゃない無精者)の私からすれば、極寒地帯ですよ本当に。

でもまあそのおかげで『法華経入門』菅野博史著(岩波新書)を読了しました。初めて法華経解説を読んだ本は渡辺照宏先生の
『法華経物語』 渡辺 照宏 (著) であったと記憶しています。次は確か現代人の仏教〈5〉『いのちの世界・法華経』紀野一義(著)でその後忘れてしまいましたが、何か法華経関係の本を読んだような気がします。

今回は初心に帰り(というか本をそれから割りと時間を書けて幾つも呼んでいたら大事なことを忘れてしまっているので)、タイトル通り大好きな先生方以外の方が書かれた本を読みたかったのです。

よって『法華経入門』を時間を書けて読んでいました。先が見えかけた頃に紀野一義先生の『法華経を読む』講談社現代新書を平行して読みかけていました。

親しい友人が仏教好きで、気になる本を読むために買い溜めています。私はそこでまだ彼が手を付けていない本でまだ時間的に読みかけた本が終わらないのをいいことに、本人より先に読破してしまうという。漁夫の利です。

ミステリーやサスペンスや現代の読みやすい本なら、何時間(一日)も立たずに読み終えれるものも多いです。仏教書は私にとって、私が私を何かで縛るような思いで、通り過ぎないように時間を書けて読んでいくようにしています。読み飛ばさないこと、理解していないのに先に進まないこと、本当にそれは人からすれば私が私に縄をかけているだけのようにも思います。

私が家内を大好きで、いまだ新婚気分が抜けないこともそれと同じようなことだと最近は思います。


「誰がそなたを縛っているのか」


本当は誰もが気づいていることです。


誰かと何かのせいにしたり、楽な(怠惰へ走る)ことへ目を向け続けたり、今ではなく先でもいいと先延ばしを続けたり、呪われていると思い込みすぎていたり、才能がないと思い込むことも、生きる意味が無いと思うことも、幸せではないと思うことも

よく思うのですよ

「善いことは、肯定 肯定 大肯定」

「悪いことは 見つめ 我に置き換え どうありたいのか(と自らに問う)」


否定がない肯定によって、笑っていきたいと願います。

図書館

 子供達とともに過ごす夏休みも後僅か、忙しくなる前にいただく休暇が終われば通常に戻ります。 小・中学生の子供には個人懇談・部活、参加学習など、本人たちはゆっくりと過ごしたい(遊び呆けたい)という顔も見せますが、真面目にやる顔も見せてくれます。

次男坊は参加学習に皆で送って行き、その間その場所である図書館で、家内が子供達のために絵本や本を探していました。私はそれに比べるとちっとも話しになりません。

本を子供達のために探そうとして、自分が気になる本があれば、それを立ち読みで没頭して、暫くの時間が過ぎ、「はっ」とすれば本を置いて子供達の本を探そうとして、また気になる本があればそれを読むのに没頭し、そんなことを何度か繰り返すうちに、家内は何冊も子供達の興味ありそうでためになりそうな本を探してきていました。
「長男坊のは、探してくるよ」
意外と中学1年生の子に沢山の本の中から探すのは簡単ではありませんでした。そこは開き直り個人の趣味でとなれば仏教関係が1番に出てきますがそこはおいておいて、あの子はいつも芥川龍之介を暇な時広辞苑を側において読んでいます。あまり簡単すぎても通りすぎるだけの本はちょっととか、難しくなりすぎれば読むのを嫌がるかもしれないので、ほどほどのところを探していました。
結局個人的趣味を優先し、「銀河鉄道の夜」を借りてきました。
宮沢賢治の描き出す不思議な世界観に入ってもらえればなんて個人の偏りを少し押し付けてと、もう一冊保険のためにタイトルと作者を忘れましたが借りました。

本当は午後からあの子達三人を海へ連れて行きたかったのです。夏だというのに生憎の曇り空や雨続き、なんとか休みが終わるまでに夏らしい日がくればと思います。

子供の頃しかあまりいかなかったので、図書館に何がおいてあるのか忘れていましたが、新聞・雑誌・漫画、当然書籍、あまりお金をかけずに楽しめる素晴らしいところです。

仏教関係の読む予定の書籍が(割りと山ほど)たまっているので、それが読了できれば図書館に入り浸るのも悪くないかも、なんて思う日でした。






故郷の前提

 気がついた頃、私にはおばあさんがいないということにかなり大人になって気が付きました。正確に母方のおばあさんは今も生きています。父方つまりは父の母がいないという、そんな人はたくさんいると思います。別にいないということに大人になるまであまり気にしたこともありませんでしたから、確か幼いころ母に尋ねた記憶はあります。
「ぼくのおばあさんは」
「ずっと前に死んだのよ」
「ふーん」
それから何回かその質問を母にしていたようにも思います。返ってきた答えは
「もう死んでしまったのよ」
「ふーん」
幼い子に出会ったことのない方が亡くなったという現実が現実として受け取れるはずもなく、ただ漠然といないことを了解していました。

母方のおばあさんも事情があって疎遠でした。昔にはよくあったことでしょう。母方の父は実の兄が急逝、家を継がなければいけないために福岡へ戻っていき、母だけが父親ちがいの兄弟ということもあり、私は近親のおばあさんという存在が少し希薄でした。ただ親戚のおばあさんやお祖父さんの兄弟のおばあさん達が沢山いましたから、少しも寂しくありませんでした。

大学生も卒業した頃でしょうか、突然何気なく気になったので母へ

「おばあさんって何時頃なくなったの」

そう尋ねました。

「どこかで生きてるわよ」

「ええー」

「お父さんに聞いてみたら」

気になったら直ぐに質問する子ですから、父へ問うてみました。

「おばあさん生きてるの」

「生きてるだろ」

「どこにいるの」

「しらんよ」

「なんで」

父は三人兄弟(長男・次男・三男)の長男の跡継ぎでした。

「幼いころに何処かへ出て行った。それから知らん。」

「会ってないの」

「一回会いに来たけど、会いたくないから会わなかった。それから見てない。(けれど生きていることは知っているようでした)」

「会いたくないの」

「そんなの思ったこと無いな」

それきり、おばあさんのことは父に尋ねたことはないです。母の父についてもそれは同じようなものです。

最近私も人の親となって、現実にいろいろあれば、父や母のこと、身近な人に実際振りかかる数奇な出来事、いろいろ考えさせられます。一つの結論はでます。

「生きていれば皆それなりにいろいろある」

お祖父さんはとても働き者でした。(かなり酒癖が悪いことを除けば)本当に大好きです。

「お祖父さんと男の子三人、家には男ばかりでよく頑張ったんだねえ」

母へそんなことを尋ねたことがあります。

「おじいさんの兄弟の末っ子のおばさんが嫁がずに、ずっとあの人(私の父)のお母さん代わりでいてくれたのよ」

「でもきがついたら、おばちゃん嫁いでたよ」

「そう、もう結婚せずにずっとここにいるんじゃないかと思っていたら、急にはなしがあって、お嫁にいったのよ」

「へー、それでおばちゃんちに子供の頃から、お父さんも私もよく遊びに行ってたんだ。」

「あの人からすれば、母親のようなものだから」


捨てる神あれば拾う神あり、なんて言葉あっているのかどうはともかく、世の中捨てたもんじゃないなと思っていました。

私が40歳をこえて、父はもう60代なかば、母代わりのおばちゃんは90位になります。


実家へ帰省すれば、おばちゃんが実家に来ていました。つい最近おばちゃんの旦那さん(おじちゃん)が満93歳で亡くなっていましたので、おばちゃんの家に行ってお線香とお経をあげてきました。おばちゃんは頭をべったり下げて

「あの人はあなたに拝んでもらうなんて(私が孫のように若かったから)、思ってもいなかっただろうねえ

ありがとう。」

旦那さんがなくなった時、遠方にいた私に連絡が母から来ました。

「すぐ帰ろうか」

「いや、もう貴方遠い所にいるし、関係も少し離れているから、今回は帰らなくていい。ただおばちゃんが亡くなるときには必ず返ってくるのよ」

「わかった」


おばちゃんも歳が90になり、心臓もかなり弱ってきて、普通に元気でしたが、母が言うには

「おじちゃんより、おばちゃんが先に無くなるかと思うくらいの容態だったのよ」

「本当 本当」

おばちゃんも母も笑っていました。生きていれば笑えます。


きっとおばちゃんより私が長生きしていれば、私はまた仏壇の前で拝むのでしょう。その時父や母が何をどう思うのかなんて一瞬考えさせられましたが、考えないことにしました。

長崎の実家へ帰省中、「長崎は雨でした。」

休む暇もないくらいにうぐいすが競い合って鳴き、トンボが棚田の上を飛び回り、緑ばかりの場所です。

晴れていれば星も見事な田舎なのに、生憎の曇り空、実家の樹齢700年以上たった大木が先日の台風で倒れており、大きな倒れた幹にきのこが生え、タマムシや大きな蟻、近くにヤギが鳴き、何日かそこでゆっくりしました。

私が何を見て、何を思っているのか、子供達や家内には口に出さなければわからないことばかりです。


絶え間なく鳴く、ウグイスの声を聞きながら、法華経に関する書物を読んでいました。


調べていはいるのに、なかなか進まない調べもの


調べることをやめたとき、私は死んでいるか、道をうしなってしまったのかもしれないと思うことがあります。



おばちゃんや父母にあえてよかったです。



遅くに

 無事に里から帰りました。予定では18時頃には帰宅し、それからゆっくり更新しようとしましたが帰宅したのが0時前と・・・

長崎から徳島を自動車で移動は遠いです。今回子供達があまりフェリーに乗ったことがないので、帰りは別府(大分)から八幡浜(愛媛)まで自動車とともに船に乗りました。家内がせっかく自動車移動は土日祝日が割安だということで予定をしていたのに、私のわがままで船に乗りましたが子供達とくに次男坊と「けいくん(三男坊)」は大はしゃぎしていました。ただ後私を含め他の人は全て船酔いで気持ち悪くなっていました。長男坊が言うには

「思い出だからいいよ、それと行きの高速道路が火災事故で渋滞の上に、(お父さんが中国道へ回避しそこねたせいで)一時間半ほど送れたのも、それもまた思い出だからいいよ

帰りの別府へ向かう、高速道路もキリの為渋滞の上、降ろされそうになったけれど、降りる寸前で三番目に乗れたからそれもまた思い出でいいよ」

いいのか悪いのかわかりませんが、思い出は多いほどいいようです。

船酔いの上に、朝から運転疲れと、夜遅くと眠たくて仕方ありませんでしたが、無事についてほっとしました。

詳細は明日(というか今日の晩)に記すことにします

おしつけ(と偏り)

「一つのアドバイスならいいけれど、おしつけならだれも受け取れない。」

いつも私の近くにいて優しくできることを惜しまず、愚かなわたしにも敬意を払い続けてくれる方が、戒めとして言われる言葉の一つです。

「これだけが正しい(他はありえないだから他は捨てろというごく狭い道)」

のような雰囲気が出たときに、言われています。ただ本当に素晴らしいことなら狭くても大歓迎され、そうあろうと努力もされています。

年若く、思い込みが強く、男性で、知識と経験がまだ浅く、自らがどのようなものであるのかの内省が足りていないため己と他者の力量の差が見極めれておらず、自らを偉いと思い込んでいたり、相手を軽んじているときに、アドバイスや優しさではなくただの、自己顕示というか自己満足というか、まったくみることと理解ができていないときに、「おしつけ(と偏り」が発生しがちです。

本当他人事とすればよいですが、そんなことが頼まれてもいないのに私によく発生するから周囲はたまったものじゃないです。

挙句、あたりまえにやらなければいけないことをそれができていなければ、そこにいる資格はないなんて声高らかに言ったりしていれば、自らがそんなにできているのかと周囲に心の中で思われ、そんなに大したもんじゃないあんたはとか、言える資格あるのか・・・とか、自分に優しいだけで自分が何様だと思っているのかとか、相手にできんわとか、付き合いきれんわとか、思われ失望されるか自らが望む方向とは反対の現実が思いもよらぬ時におとずれ悲嘆にくれるなんてことになります。

大体相手に厳しく言えるだけの人なんて、そうそういるもんでもないです(いや本当、気をつけろよ私)

「正しいことを言っているから間違いない、私が何か間違ったことを言っていますか」

その正しいことに相手への大きな慈しみがともなっているならば、誰もがそれを歓迎するように思う。ただ厳しいだけ、自らの正しさを言いたいだけならば、何の役に立つというのだろう。

いつも優しい方はわたしの発言に何か気になることがあれば、問い返してくる

「おしつけではないか」

「いえ、違います」

「ならいいけど」

くだらないものは捨て、厳しく言う時に慈悲が伴わない言葉は誰の心にも響かない。必ず誰もが背負わなければ自らが背負って見せるという覚悟も必要となる。


「自らにではなく、あなた自身が言う方に慈悲を持って発言していますか(ただの狭い道のおしつけでもないですか)」


本当自らに難しいことを大好きな人には望んでしまうわたしを見てしまう。



ちょっと遠出

 実家へ休日をいただき帰省します。徳島から長崎へ、わたしと嫁と子供達三人、五人一緒に早朝から自動車を走らせます。家内は子供達の準備などを前日には既におわらせ、朝早くでるために朝ごはんのだんどりを昨晩にすませていました。(わたしはその間趣味のここの更新をカタカタとしているだけなのです)

わたしの実家ですが、家内からすれば夫の実家、子供たちは家内ほど難しいことも考えず、気も使っていないように思います。子供達本人にたずねれば「そんなことないよ、これでも結構気を使ってるよ(特にお父さんとかお母さんには)」なんて帰ってきそうな気がします。

笑顔でいることが何より素晴らしいと実感できることを理解するのに相当長い時間をかかりました。三男坊が生まれて先日5歳の誕生日を迎えました。あの子は気がつけばいつも笑顔でした。笑顔がまぶしい男の子です。何かあれば笑っています。
どうもそれは私だけがそう思っているのかと思えば、家内にたずねてもそう思っていました。幼稚園の先生も懇談の時、「いつも笑顔で楽しそうなんです」そう教えてくれました。

少し成長した「けいくん(三男坊)五歳」は、笑顔だけでなくいろんな表情をするようになりました。悔しい顔、すねた顔、気に入らない顔、泣いた顔、少し喜んでいる顔、とても喜んでいる顔、普通の顔、照れた顔、まんざらでもない顔、自慢している顔、ただその中で笑顔は本当に変わらずまぶしいです。

小さい子は言葉も笑顔も、不純なことが混じっている割合が少ないから、皆の心へダイレクトに気持ちが届きます。

幼子の

「ありがとう」

その言葉、大人の社交辞令やとってつけたようなものでも、言っとかないと後で恨まれるとか、打算とか、計算とか、くだらないものを捨て去っているというのではなく、元からないものは捨てようがないからただありのままを伝えているだけのようです。

おじいさんおばあさんと呼ばれる人たちは、もう若くはないです。歳を重ね肌も髪も見た目も若いころより老けています。見た目による区別も幼子はあまりないです。幼稚園へ送り迎えをするおじいさんやおばあさんと幼稚園児を見ていれば痛感させられます。

普段不愛想に見えるおじいさんでも、そのお孫さんは何よりも迎えに来てくれたおじいさん(おばあさん)に感謝しています。まぶしい笑顔でくだらないものがはさまないこころを向けて手をつないで帰られている光景をよく見ます。

幼子にみる神仏の影の一つだとわたしは思います。

話がそれましたが、あの子たちのおじいさんおばあさんに会いに行くのです。家族というのは本当に不思議なものだと思うことがあります。


(ということでコメントする奇特な方は少ないのですが、不在の間ネット環境がないため返信は遅れます。そして今日から予約自動更新になるのです)

寝なければ

 昨晩普段のくだらない趣味で夜更かしの代償、眠いので早く床に着きました(晩8時位)。まだ末っ子の「けいくん(三男坊)」すら寝かしつけていないのに、思いつく用事だけ済ませ真っ暗にして布団にもぐりこんでいました。

まあ当然そんな私をみて、家事などをして休めない家内がどう思うのかなんて、正確な判断ができるのであればそんな早くから布団になんてもぐりこむわけもなく、ただもぐりこんで寝るのです。

寝ようとすれば「けいくん」が横の布団にやってきました。家内が一言

「寝るのは構わないけど、けいくんが本を読んでほしいって言っているから、読んであげて」

眠たくて難しいことはわからない私ですが、読んでから寝かせてあげないと、後々のためにはならない雰囲気は漠然とわかりました。

よってここに

「けいくん寝かしつけ計画」を発動したのです。

「けいくん、どの本を読んでほしい」

本をすでに既に近くに用意して

「お父さんこれ!」

「わかりました(相当眠いのですがこの計画を完了させなければ、わたしに安眠は訪れることはないのです)」

とある小学校の風景を描いてある絵本でした。間違いさがしや面白い演出、個性的なキャラ、ありえないことを楽しく描いてストーリもよくできています。さてその本のタイトルは「しょうがっこうへいこう」斉藤洋(作)田中六大(絵)です。

まだ幼稚園に行っているけいくんにとって、小学校というものは未知の世界、ただ二人のお兄ちゃんたちが通って(いた一人は現在進行形)おり、幼稚園へ行く通学路に小学校にお兄さんお姉さんたちがたくさん通っていますから、興味津々です。

ただ文章だけであれば、絵本の文字数は少ないものです。

例えると

「一枚の写真に美しい景色が写っています。」

この文章だけだと、それぞれが思う美しい景色がそれぞれの脳裏にぼんやりとうかびあがります。絵本はそれとプラスに子供達だけでなく大人も感情移入しやすく、わかりやすく楽しい絵が加わることにより、その世界が現実的にありえないことだとしてもそこに一つの世界があらわれてきます。

絵本の素晴らしさはその世界の素晴らしさだといつも思います。夢の国というものはないのかもしれないけれど、絵本の世界へ入れば現実に生きるわたしたちも瞬時にその世界へ飛んで行けます。楽しくもなりしあわせにもなり、話によれば可哀そうでしかたなくもなり、深く考えさせれることもあり、それを読み聞かせするとなると子供と一緒にその世界と同じ時間を共有できます。

そんな風に文章を考えれるわたしの頭は今、はっきりとしています。昨日は読むことと役割を果たすことに必死でした(寝るために)。

最近の大人(特に私)、自分のやりたいことや自分の時間や趣味などを優先してしまい、子供達と一緒に楽しむ時間や小さい子を一人の人間として真摯に向き合い続けることを軽んじることがあります。

どれだけ小さいとしても、それは人間です。

増谷文雄先生が著作の中に

人間とはその言葉があらわす通り、「人の間」そこに生きており、それは一人で生きているのではなく、何かを見つければその見つけた何かを人に話したいし、やりきれないことがあればそれを話したい。辛いことがあればその一端でも理解してほしい。死を願うほど苦しいことも誰かにわかってもらいたい、好きや愛するという情熱(気持ち)を共有したい。素晴らしい物を見つければそれもまた伝えたい共に喜びたい、まばゆいばかりの真理を見つける人がいればその人も人間だから、誰かに伝えたいと思うことも人間だからです。

「わたしはここにいるよ」

そんな思いをもつ人間であることを理解しあいたい。

人間という言葉の意味を私に示してくれた仏教者の増谷文雄先生の言葉に出会えたことに喜ぶ私を見ます。

(また今度私なりの解釈の文でなく、増谷先生の原文をのせることにします。)

とやかく言え(る身分では)ないんだけど

「仕事だからしっかりとやらなければいけない。それができなかったらそこにいる資格が無い。そのためにいるのだから」

かたく真面目な方が真剣にそう言っていました。あまりにもかたすぎるので

「なかなか(色んな意味でそれは)難しいことだよ」

「仕事なのだからやらなければ仕方ないじゃないですか」

と前にもまして真剣に言う。


気づくことが少なく、失敗の多い私としては、相当に痛い言葉であって他人ごとに思えないので気が気でなくなる。

あろうことか、その発言している方のこれまでの同じようなことを探さなくてもいいのに探し当て、自分も同じような失敗や気づかなさ、配慮の足りなさがあったのだから、そこまで言えないだろうなんて思ってしまうことさえある。


関係ないことを思いつく

いつも怒るときには個人的なことは抜きにして、相手に対する慈悲と自らの品性を損なわないように、怒らなければいけない。


自らの意図していることが切り捨てるような思いや狭すぎる思いではなく、大いなる怒りであるのなら、怒りに慈悲が伴い、その怒りには変なものが付随しなくなる。


誰かに何かを思うことをおしつけすぎてはいけない。おしつけとかたよりが自分が思うより多く言葉に反映されれば、相手より発言する本人が最も悪くなっていくこともある。

「自らの評価は周囲の方の曇らぬ眼に委ねられている」

わたしも誰かもそれは同じだろう。広く大きく高くなくてもいいから、そうありたいと願い続けたい。


ならなければ何も意味が無いのでは意味が無い。

なっていなくても、それになりたいと願い、そこへ歩み続けるような私でありたい。


他人のことに目が行きやすく、他人のあらは見つけやすい。言うときには言われることを意味し、発言するのならば慈悲は必要不可欠となる。

短くそれを

「大いなる怒りを怒れ」


(言葉尻をとって、小さい怒りなら怒らなくてよいということではない)


道は思っている以上に広い。





不携帯(というか持っていない)

 雨模様の日々から一転、からっと晴れた日になっていました。どうもTVや新聞をあまりみないので周りの人の話を聞いていれば、このあたり梅雨がはれたようです。

ただこれも知らなくてびっくりされたのですが、どうも台風が近づいているとか、青く晴れた空、夏の雲らしい、もりもりもりあがる雲、眩しい日差し、ちょっとうるさい蝉の鳴き声、どうも台風が来るなんて信じられないほどです。

休日でしたので朝から家内と普段ためていた用事を朝から済ませ買い物に出かけていたら、知人がその間にお届け物を留守の家にたずねてきていたようです。最近は携帯電話がありますから、ただいまどき珍しい携帯とかスマホなんてものを持たない私ですから、近くにいる家内の携帯へ電話がかけられ、買い物をしている場所を届けてくれるなんて、いまどきの運送業のサービスもびっくりのサービスでした。

なにやらお中元でしょうか、そんなに贅沢な品があがらない我が家には不釣り合いの素敵なお肉をいただきました。有難いことですし、届け方もニクらしい感じの演出です。

広いショッピングモールで離れてしまえば、広さと人の多さで出会うことが少し難しいことです。まわりをみればポケットから携帯(やスマホ)を取出し、「今どこ」そう簡単にたずねて終わりです。携帯がない私はどうでしょう。家内にあうのに家内のこれまでの傾向や今日の目的の買い物など、いろんなことを予測して落ち合うつもりでした。ただ出先で家内へ電話があり、届け物を受け取りに行っていたという、予測できない事態で家内をしばらく探していました。

人からすればめんどくさいことしないで、携帯を持てばいいのになんて思うでしょうけれど、携帯を持たない自由というものも存在し、会うことや声を聴くのに苦労がかかることが直接話したり会う時の喜びを増やすものというあたりまえのことに気づかなくなるものです。(なんて言い訳をのせておきます)

予測して、割と探してあえたとき嬉しいものです。家内のことは大好きですが、会えない時間がもっと好きにさせるものなんですよ。(そんな大それたことじゃなく、いつもあることなんだけどね)

休みらしく、のんびりまったりとしていればあっという間に夜になっていつもの更新時間(晩八時)を過ぎていました。誰のために何のために何を書き続けるか、自分でたまにそれを考えおかしくなり、意味があるのかな、なんて思いながら、それでも何かを続けていこうと思っています。

「人生山あり谷あり」

近くのお世話になる方が誰かに

「あなたは今 谷あり、谷ありやな」

なんてことを言っていました。

それを聞いて、山がよいことで谷が悪い時なのかとはっとしました。

悪い時でも、愛はそこにあるし、しあわせもあるし、わらいだってあるし、楽しさだってあるし、もとめるこころもあるし、誰も理解してくれないこともないよ。


谷もなければ笑えることも少ないよ

 いつも職場の近くで活動をされている老人会の方と偶然話をすることがありました。老人会と名がつくように所属されている方は地元に長く住み老齢の方ばかり、ただ若い人より精力的に活動をされているように思うこともあるくらい元気です。

しばらく世間話をしていたら

「歳をとったら大したことはできない。だから花を植えるんよ」

その方たちの植えた綺麗に咲く花を見て通勤する私は、その言葉が印象的でした。

「和顔愛語」



花がこちらへ美しい顔をみせてくれれば、わたしは優しい気持ちになれます。言葉をかけてくれてはいませんが慈しみのある言葉を感じます。


ふれあうかた・お世話になる方・私も少しずつ歳をとっており、それは本当にいろいろ考えさせられることがあります。

「あなたはまだ若いから大丈夫ですよ」

そう優しく言われる年配の方もいます。普段の行いの積み重ねは他人を見ていれば本当に大事なものであることを痛感します。何かあればその人の今までの積み重ねの行為が見え隠れし、そこを他人ごとにみれば失望したり喜んだり、わがことのように見れば激しく痛くまた憧れ感動したり、ただよいことより悪いことは見えやすいものです。

「わたしは大丈夫ではないです」

ただ花はそんなことを忘れさせてくれ、優しいいくつもの言葉を聞くようなもの


わたしは変なものを混ぜすぎてしまい、あの花のような和顔をみせることができないことばかり、でも時には言葉よりあのように自然に微笑みかけていたいと思います。

田舎の人

 私が育った場所は田舎で、今徳島で生活していますが、ここも都会とは言いがたく、つまりは田舎に近いと思います。
ということは住んでいる人も都会人ではなく、田舎に近い人達が多いように思います。

家内が初めての子供を妊娠して、運動のために散歩をしていたら、農作業をしていたおばさんが野菜を抜いて「これを食べて、お大事にね」なんてことを言われ野菜を持って帰って来たことがありました。

私のことをよく知らないのに、親切なおじさんがいて、何でも手伝ってくれたり、野菜をいつも分けてくれたり、何かお返しはするのですがいつもそれ以上にしてくれることばかりです。おじさんまではいかなくても時を長く過ごし顔見知りになれば、それぞれ自分が作っているものを分けていただくことが多いです。都会に住んだことはないのですが、都会ではそんなことは少ないのではないかと思っています。

田舎の人すべてが親切で優しい方ばかりではありません。ただ優しくお節介が多い方が多いと実感します。

少し余裕ができれば、私もそれに習って余計なお節介をすることがあります。ただやはりお節介ですから相手に喜ばれないこともよくあります。少しそれで悩んでいたら

「私ら(私とあなた)は田舎の人の親切だから、都会の人はそんな付き合いをあまり望んでいなくて、重荷になっているのかもね」

私のことをみてボソリとそう言われていました。


あくまでお節介ですから、相手がそれをどう受け取るのか、やはりそれは相手次第です。ただ相手が「ほっといて下さい」なんて雰囲気だとしても、縁があるなら「私はほっとかないのですよ」なんてお節介をやくときがあります。

手を出すことで、問題の解決を早めれればとか相手が望んでいないことを思い行動することがあります。


ほっておけば気も楽なのにね


相手が望んでいないことであれば、何をこちらがしても反映されず余計に逃げられることもあるのにね

知り合い(縁ある方)には、うまくいってほしいなあと、余計なことを思うことがあります。

わら

 ある光景を何かによって思い出す。

まだ(自分より)年の若い人(自身の子供が)が余命いくばくも無いとき、藁にもすがる思いで神仏にすがる方を見かけたことを思い出す。

ただ冷たく関係のないわたしは本当に客観的にその方を見ていた。一心に日々健康と長寿にご利益があるとお参りされる所へ、屋内ではなく外、地面にひれ伏し生を願う姿、わたしはただそこで何を声をかけていいのかわからず、ただその光景を見ているだけだったことを覚えている。

また誰かが老いと病によって、身体を害い死がそこに近づいているのではと思い、何かを思いそこへすがる人を見た。


誰かの普段をよく知っていれば様々なことを思う愚かなわたしが出現する。


その誰かが、普段からできることをおしまず、くだらない自分を簡単に捨てさり、目前の方どなたにも優しければ、貴方の願いは叶うだろうと駆け寄って私は言う。嘘つきだと何の根拠があるのかと言われても、嘘でも何の根拠もなくてもあなたの願いはきっと届くと

その誰かが、普段から目前の方を軽んじ、できることや都合の悪いことから常に目を背け、ただ自分の都合の良いことだけに優しく、目前の方をいつも見ようとせず、神仏を常は軽んじているのに、都合のいい時だけ藁にもすがるような思いですがるのであれば、本当に愚かなわたしは区別してしまう。真摯な願いごとをするのであれば、どうして普段からできることをせず、本当のことから目を背け続けるのか、一体私は貴方に何と声をかけたらいいのかと、声をうしなう。



また関係のない話を思い出す。

「願いがかなうの、かなわいのどっち?」

そうわたしへ問を発っされた光景が目に浮かぶ、かなわないというのなら大切な誰かに何かが合った時に「どうかよくあってほしいとあなたは願(思)わないのか」かなわないなら無駄なことはしない、できることはしないと合理的だからと言うのだろうか


体裁なのか、ただの一時的な憧れなのか、よく見られたいと思うだけなのか、金銭が欲しいだけなのか、地位名誉恩恵にしがみつきたいだけなのか


いずれにせよ、その方の(取り繕う・建前)の言葉より、普段からの行いを見続けていれば、わたしはいつも考えさせられる。どうしてその時にそう思うのであれば普段からできることを続けないのか(反対の罰当たりなことばかりつづけるのだろうかと)


世の中いろいろな方がいることを思い知らされる。


できていないことが多く、愚かなわたしはただ目前の方をみればその差をみて時に感動したり、失望したり、悲しみ、驚き、喜び、そして共に笑う。



大迦葉がわたしの側にいるのであれば、言われるだろう

「そのようなことだから、おまえはいつまでもアルハトとなれないのだ」と