看板と役割

 守っていない人に、お節介を出して注意する。それがあたりまえのことであればあるほど、あたりまえのことを言われたので腹が立つ、挙句には何か言い返さなければこちらは腹が立つ(気が済まない)と思う人がいる。
(その代表として、ここを書いている私とかがそれで、たまにそんな私に似た感じの人もいたりするけど、気を付けようね)

静かにしなければいけない場所でうるさくしていれば

「静かにして下さい」

と、言われることもあり、言われなくても静かにしたい人たちであれば、

「静かにしてほしい・・」

と願われたりして


誰かが、わたしの近くで皆(年間を通し多数の方)が有難くお参りする場所、神聖な場所(浄域)をお参りする作法のことを話されていた。

禅定に入られている場所(浄域)にての作法がいくつかあることを嘆いていた。

「看板などで書かれているのに、読まない」

「団体で連れて行く代表者ならばすべて学べとは言わない。最低限のマナーくらいは調べて来てほしい」

その方たちの結論としては、看板があっても読まない方が多いことと、下調べを少しくらいはと思うのであれば看板は読むし、最低限は調べてくる。

「あのいつもどなたにでもうるさく注意するおじさんがいるけれど、あんな人がいないとだめだ。」

気を付けている方からすれば、めんどいおじさんに映るかもしれないけれど、あたりまえのことを声を大にして誰彼構わず言う人に元気でいつもいてもらわないとだめだと


あたりまえのことを見ず知らずの方へ誰彼構わず注意しなければならない役目、それをあなたがして下さいなんて言われても
わたしなら

「それはそのまま前任者が続けてくれれば問題ないと思いますよ。はい」

言わなくて、つい誰彼かまわずきつく言うことを貫けないわたしならすぐそんなこと言って断りそうです。


 よくここに偉そうなことをわたしも書いています。あたりまえのことで出来ていないこと、知らないこと、自分で気がつかないから注意されてはじめて気がつくこと、気がつくのに身勝手に目をそこからそむけていること、自らや知人のために知っていて目を背けていること、本当よく考えればそんなこと盛りだくさんです。

そんなことを思い知れば思い知るほど、誰彼かまわずきつく注意してまわることが難しくなるという情けない言い訳みたいな弱いわたしがいます。

気がついていることは、これまでより気を付けていこうと思います。

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新婚

 ここのところ家内とべたべたしています。もっとも家内はべたべたしようとても逃げようとします。
家が狭いことと、結婚して伴侶であることと、子供三人が私たちをみていることと、いつも一緒にいる二人であるということと、これからもずっと一緒にいるという制約から中を悪くするということはできにくいことです。

よって私はべったりとしているのです。

何かにぶつかり打ちのめされ、現実が厳しくなればなるほど痛いことが増え、わたしは言葉も行動もちょっとしたことで怒りやすくなり、短絡的な言動になりがちです。

また少し時間がたて(忘れれ)ば、楽しいときに戻り、皆に聞かれれば言うのです。

「まだ新婚みたいなものだからね」

「もう子供も中学生になるのに、何年までが新婚なの」

「わたしがそう思う限りですよ(もっとも家内がそう思っているかどうかはおいといて)」

あの人を見て心浮かれ(惹かれ)るうちはそう思っています。

何も無ければそうも思わないのでしょう。
へこたれることも、悲しいことも、つらいことも、苦しいことも、怨みも、思い通りにいかないことが連続することも、何かあって元に戻るたびにあの人をみて、心惹かれるわたしをみるとき、それでわたしはあの人と結婚したのだと納得させられます。

そう思えないときも、何も思わないときも、心惹かれるときも、困るのですがそれもやはりわたしです。


自分のこころに手を伸ばし、温かい気持ちをいつでも見たり聞いたり取り出せれば何も問題がないといつも思います。


笑うこと・楽しむこと・好きということ・愛するということ、打たれれば打たれるほどへこめばへこむほど、形が変化していくように思います。

 割と変なことをよく話します。この「変な」というのは近くにいる人が言わなさそうなことをよく言うから、変なことをと言っています。

2年前にお会いした方達が何の偶然かわたしのことを覚えてくれていました。顔を見るなり覚えていますと二人若い夫婦揃ってそう言われました。

「よく似ている人もいますけど、わたしでしたか」

「そうです」

変なことを即座に聞いてしまいます。

「何か悪いことや変なことをわたしいっていませんでしたか」

「いいえ、その反対です。とてもよかったから、また来たのです。」

そんなことを言われれば、ちょっと心が浮かれるものです(もし、人違いだとしてもね)。


依頼されたことを終わって、いつも少し話をします。話が終わって下る階段を降り玄関近くで若い男性から

「いつも話は決めてからされるのですか、今日はピッタりと子供の話をされていましたが」

「そこはいつも考えるのですよ、こんな話をしようか、あれにしようか、これにしようかただ相対すれば、そんなことも忘れて、変なことを思いついて言っていることが多いです。用意していたことを全く使わないことだってよくあります。」

いつも話に耳を傾けてくれる方に助けられ、聞くということのすばらしさを、わたしは話すことによって有難いと感じます。


いつも言いたい放題のわたし、それを聞いて喜ぶ方も、涙する方も、ただ黙って聞いてくれる方も、すっぱりと反論される方にも、受け取らない方にも、後で感謝しています。その時、瞬時に心の奥底から感謝するような雰囲気を出せていないことを省みて、また大切なことを忘れては思い出し、言いたい放題の楽しいわたしをみることが好きです。

言えば言うほど楽しく深く広く大きく高くわたしも皆も歓迎できるようなことを人生の終局まで貫いていきたいです。



それは今のわたしからすれば理想であり、ただよく思う願いです。


こける

 運が良いことに、気の合う方がすぐ傍にいて、いつもその方がいれば皆とわたしをサポートしてくれます。

「そんなの仕事であればあたりまえだ・親しい間柄なら当然だろう・だからいつも一緒にいるんだろう」なんて言われたり思う方もおられますが、わたしにはそれが何よりも有難いことです。

気(相性・こころ)が合わなければ、ちょっとした意見の交換・段取り・事務・目前のこと、歯車がかみ合わなければ「まだ一人の方がよっぽどましだ。」なんて、それは誰かではなく、相手によって揺れ動くわたしの存在を後で思うのです。

事の運び方は、同じことだとしても人が変われば微妙に人によればかなり方法・行程が変わります。その過程はよっぽどでない限りわたしは問題にはしません。

ただ、相手があってのことであれば、いつも自分の都合を優先の言動を見聞きすることは非常につらいものです。言える方であれば即座に「それは駄目でしょう。自分より相手のことを先に考えないと、お金をもらって仕事であればなおのことだ。」と、現実はわたしだけでなく皆に厳しいことが訪れます。

皆相手のことを尊重して仕事をされていれば、こちらも気が引き締まります。ただその中にあって皆に染まらず、いつも自分中心の発言や予定無理にでもすすめていこうと毎度続けば、そんな言葉を聞くたびにこけそうになります。

「一体何をみて、あなたは何を言っているのだろうか」と心の声がでてしまいます。

周りを見れば、周りの人もそんな顔を、びっくりして顔を見合わせてしまうようなこと(例としては)

「目が一瞬倍ほどに大き開いたように感じる」
「椅子に座って聞いていてよかった、立っていたら倒れるとこだった」
「(そんなことが出てくるとは誰も思っていないことを言うから)呆れ果て声も出ない」

落ち着いて話せる状態になれば

「危うくこけよった」


本当、椅子に座って心を落ち着けて聞かなければいけないことに(よく)遭遇するもんです。


できれば、面白い話と楽しい話との間に、ずこっとこけるような話の程よいバランスを保ってくれたらなと(その人には無理そうな)願いを持つことがあります。

何故繰り返すのか

 前に進むことも無く、後ろへ戻るようなことも無く、そのどちらでも・どちらでもないこともできるのに、何もしていないことが続けば親切でお節介な方が言うものです。

「何も難しいこと考えなくていいから、(目前のこと何でもいいのだから)すればいい(飛び込んだらいい)。
(結果悪くなっても良くなっても、何もせんよりはいいだろう)」

失敗をしたことがある人もしたことが無い人でも、上手くいく(よい)ことと上手くいかな(悪い)いことを比べれば、できれば良い結果を望む人が多い。


あれこれと考えているだけで何もしない。何も考えることなく何もしない。わかっているけれど面倒くさいので目を背ける。言われるからしぶしぶ何かする。失敗しそうにないようなことしかしない。労せず目立つことだけをする。いい格好をしたいからする。


わたしや誰かは何かを気がつけばみている。

自らと対象を少なからず把握している。


みてどうするか答えを決める。


わたしや誰かは対象に向け照明をあて、わたしや対象を認識している。

わたしと対象の間に照明がある。照明とは行動なのか見ることなのか言葉なのか、人それぞれ照明の感じが違う。


善いものになればなるほど、その照明は光り輝く

悪いものであればあるほど、その照明は暗く濁らせていく


「一体どうすれば」


自らがその照明と瞬時に同化すれば


善いものであればまばゆい光がそこを包む


悪いものであれば周囲(の顔とこころ)を暗くする



「どうすればそうなるのか」


わからない場合は冒頭へ、だから帰る。


失敗しても、傷ついても、心が張り裂けそうでも、涙をどれだけ流しても、時にはうまくいき喜んでも


どうなるかわからないがまだしたことないところへ飛び込む


一つ一つ、泣いても傷ついてもしょうがないことを覚悟してのぞみたい。


 それぞれが相手のことを悪く言う方たちをみつめる。その差がどれくらいかはともかく、どちらかに優劣がつくのだろうと思うことがある。
客観的に今回の状況においては、あの人に軍配が上がるとでもいうのだろうか、そこで味方になるとか、今までの悪い行いをも含めてとか、しがらみなどをどこかへそっと置き、じっくり見てみる。

「今回ばかりはいくらあなたでも、あちらのほうに分があります」

と言ってあげたい。

ただ全てそうはならず、ときに優劣がつかないことがある。


「本人達はそう思っていないけれど、周囲から見ていれば

どっちもどっちだ。」

その言葉をわたしではない誰かが言う。否定できないことの連続もある。

「どっちもどっちだ」

そう言ってあげて受け取れるようなら、どっちもどっちの結論とならず、受け取る方であれば自らの言動を深くみつめ反省・内省とへ向かい、見ている方からは簡単に優劣がつけやすくなる。

ただ、優劣がついたからと自らが優れているといった雰囲気をあたりに出現させれば、誰よりも劣るのではないかと感じられてしまう。


現実的な問題、利益(金銭・利権・くだらない我・地位)・がからめばなおのこと、ゆずらないので難しくなる(そう簡単に折れない)。



あまり難しいことは考えたくない。



単に誰も考えないから考えざるを得ないことだということもあるし、性格的なのかもしれない。



楽しい(私も皆もしあわせになる)ことを考えてるときが楽しい。

しっくり

 何故でしょうか、話を聞いてくれる人を知らずに選び、個人的な好みを出現させ、困れば困るほどその選択は普段より一層顕著になり、相手が「私に話してくれたらいいよ」と言われても、選択に入らない人には余計に話さないなんて

「(わたしのことを)よく理解してくれる人と話がしたい(話をきいてもらいたい)」

そんな人はそこいらじゅうに沢山いるわけでもないので、大切なことになればなるほど限られ、落ち着けば誰彼かまわず話して問題が無いと、本当面倒くさいわたしです。

理解できる方といつも話していれば楽です。しあわせにも思います。

話をすればするほど、時を長くおなじすれうばするほど、お互いの理解しあう方向から離れれば離れるほど

「あの人だったら」

なんて思ってしまい、情ないことにもあらためて気がつかされ、その人をすっかりたよりにしている存在(わたし)を認め、認めることができれば現実は変わらなくても少し変化していくことが増えることがあります。


結局、波長が合う、理解しあえる、認め合える。だからこそ生きていけるなんて思っているのかもしれません。


だからこそ、わたしを理解してもらいたいと思うのであれば、少しでも誰かを今までよりも身近に感じることが出来れば、今までとは少し違う景色が見えてくる。


家内からすれば、わたしはころころと考えが変わっていくので、時折ついていけないときがあるようです。これも最近思うことですがわたしはいつも変化(流動性)を求めているように思います。



反対の言葉だと「わたしはいつも停滞を求めているように思います。」こちらはちょっとしっくりこない気がします。



続き

 目前のことに対して意外と不器用です。戸惑いとあれこれと考えすぎて動きが遅れてしまうのです。誰と比べてというわけでもなく、自らが望む動きより遅くうまく対応できていないということをただ意外と不器用と使っているようです。

何かを尋ねられれば、以前なら即答が多く、少し前は底の浅く狭い答えを胸を張って返し、今は違うことを考え答えが遅れ、挙句はいい答えがみつからず、「うーん」とだけ返すことがあります。

ナツツバキ(沙羅の花)の花の香りを確かめに近くへ寄ってみました。ナツツバキの花は長く咲いていません。開ききった花から香りはそんなにしませんでした。樹高が割と高いため、まだ咲いて間もないものには届かず、切ったりすることもできませんので、また今度開き始めで近いものがあれば確かめてみようと思います。仏教でいうところの盗むとはどういう解釈か、自らに与えられたもの以外をとることをいいます。香りが誰のものかわたしのためかと誰のものか教えてくれませんから、今度わたしは香りの盗人になろうと思います。

気がつけば、こころのかたちを思い浮かべていることがあります。普段落ち着いていればそんなかたちを意識することはほとんどありません。

わたしにとって大切な人や物・場所などが失われると、これまた誰に頼まれてもいないのにこころが削られたように感じてしまいます。平静の状態が○やハート型だとすれば、そのかたちが削られたりひびが入ったり、割れたように感じてしまいます。

わたしは誰にも頼まれないのに自らの望む安心をかたちにしたり、それを永遠のものにしようと囲いをつくり、その一部に何かあれば大切であればあるほど、叩かれてもないのに痛く、かたちの変化を受け入れようとせずかたくなになってしまうことが多いです。

ナツツバキ(沙羅)の紹介に無常感をあらわす、と書かれてあったように思います。

はたして無常という言葉をどう解釈しているか

単に「無常」を読めば「むじょう」か「常は無い」と読むか、わたしに常は無いのか、他者に常は無いのか、この世界に常は無いのか、真理(法)は永遠不滅であるが物質的現象やこころに常が無いのか、それともあるのでもなくないのでもないのか。

難しく考えすぎるのが最近の悪い癖です。


誰かがこの世に生まれれば、生まれたものは必ず散っていく。


果たして誰かが生きていることが喜びなのか、苦しみなのか、何なのか


それはその人が決めることですが、わたしは何があっても楽しくわらっていたいです
(その思いに反比例するかのように、泣いていることが多いです)


ただ、いつもはわらっていたいのです。


のびる草

 気まぐれと何かのために、少しだけお手伝いをしていました。洗濯物を外に干してくれば、庭の草が雨と日光と気温が高いことですくすくと成長をしていました。

身勝手なものです。青々とした芝生が一面に広がっていれば満足しそうです。ただ名も知らぬ何種類もの草が雑然と茂っていてもそんなに満足できず、むしろ抜かないとなんて思わされます。

スコップを片手に草を抜いていきました。抜いた草をまた土に返すために、固めておいてあったところに抜いた草ではない違う草が茂っていました。

「もう、油断も隙もないんだから」

そんな継続的に草を抜く努力をしていないわたしは変(身勝手)なことをよく言います。

言っても勝手に抜けてくれませんので、そこも抜くのです。スコップで少しほってみてわかったのですがそれは草ではありませんでした。根に丸いものがついています。

子供達と公園へ行って、拾ってきた大きな立派などんぐりが玄関に拾ってからしばらく飾られていました。ただ古くなってきたために草を抜いた所へ誰かが捨てたようです。

どんぐりが何本も目を出していました。

「お母さん、草かと思ったら、どんぐりがいっぱい生えてきてるよ」

「誰か欲しい人いたらあげれたら、植えれるのにね」

しばらく顔を見合わせ

「どんぐりの苗なんて欲しいひともいないか」

仕方ないので庭に植えるスペースも予定もないので、子供達に見せるように二本だけ残し、後は抜いてしまいました。

もっと見える範囲抜いてしまおうと思っていましたが、プーンと沢山の蚊がわたしを襲ってきたことにより一旦撤収です。
今度は蚊対策を万全にして、根こそぎあの草を抜いてしまうのです。

他所の家は土がなくコンクリートで庭を全て覆っている所も多いです。そりゃそうだよね草生えてきたり、雨で土がぬかるんだり、汚れたりします。ただそこに草だけでなく生き物を見ることもできなくなります。そうやって生き物を見ることが身近で少なくなっていくのでしょう。

単に私は借家だから、庭を自分の好きに改造なんて出来ないから、草を抜くしか方法がないだけとも言います。

負け惜しみですけど、草も木の緑や花、そこに来る虫達にはいつも心和まされます。いずれ土に還るんだからあまり人工物ばかりで囲まれると田舎育ちのわたしは少し疲れます。なんてただの負け惜しみと言い訳をここへしるしておきます。

優しいを

 何でも自分が思い通りになるなんてことは少ないです。ただその中にあって自分のことだけしか考えず、自分の思い通りにしようと市手段を選ばないことを続けているのに、「自分はできているから問題ない。」と忠告・助言・話しかけなどを「わたしは一つも受け取らない。あなたがもってかえったらいい。」そんな態度でいつも返してこられる方がいます。

ここにきて、価値観の違い、考えの違い、望むものの違い、生き方の違い、手段の違い、言い方の違い、態度の違い、それぞれ考えさせられるのです。

「そんなことをしていたら、自分が大切にされたい・しあわせになりたい・お金を楽して手に入れたい。目的は問題ではなく、手段・方法が周囲をめちゃくちゃにするようなら、自らが望むことの反対が押し寄せてくることになりますよ。」

はっきりと伝えれるような関係であれば、疎まれても怨まれても怒られても伝えたい。



何かを言い訳にするわたしをまたみてしまう。


できるだけ優しい言葉で伝える。


わたしと同じだ。


自らが望んでいないものは、受け取らない。




だからといって、優しさ(愛情)は無くしたくない。

紫陽花

 今近くでは紫陽花が咲いています。幼稚園の送り迎えにも散歩をしても通勤をしていても、紫・青・赤・ピンク・白などの美しく咲く紫陽花を見ることができます。

木の影、少し暗い場所コンクリートの門柱にかたつむりが何匹か歩いていました。よくその木とコンクリートの場所にかたつむりがいます。

木は当たり前だと思いますが、なぜあのコンクリートや石の所にいるのかと、雨がよく降り続くときにかたつむりを何度も見かけるときに不思議に思ったことがありました。

「あの辺が好きなんだろう」

そんな漠然としたこと、それから考えたことはありませんでした。

少し前に長男と次男が眠る前に毎日ではありませんが、科学の本と短いおはなしを読みます。その科学のお話の中に

「なぜカタツムリはコンクリートを食べるのか」

そんなタイトルのような話がありました。やわらかい体を守るためについている殻を硬く作り維持するためにカルシウムを必要とし雨上がりのコンクリート(正確にはカルシウムの元を)を食べるなんてことが書かれていました。

納得です。

あの辺りを好む理由は餌とカルシウムの両方を獲得しやすく、日光も適度にさえぎられて快適なのでしょう。


そんなことを考えながら紫のあじさいをみていました。


いつもなんですけれど、楽しい出来事、面白い出来事、笑える出来事、楽しくない出来事、怒るような出来事、ひょんなご縁、いずれにしても、悪いことにとらわれすぎないわたしでありたいです。


わらっていたいです。

雨と風にそよぐ沙羅

 ぽつりぽつりと雨が降る中、あの子と一緒に歩いていきました。送っていけば帰りは一人、足取りも早くなりすぐに家に着きます。職場へ向かいます。

休日の次の日、職場へ入る時は連日で通勤しているときには無い空気の重さを感じることがあります。ただ元気よく丁寧なあいさつをすれば幾分その空気も軽くなり、謙虚であればあるほど、無くなることがあります。

大きな沙羅の木に見たところ二つ花が咲いていました。

夏椿、白い花、小雨の中美しく咲いており、少し嬉しくなりました。

見ていればこの時期沙羅の木の花を見に来られる方が何人もおられます。俳句の会の方たちとその前で話をしたことを思い出しました。

俳句をよまれる方、わたしのように日々何かを書く人、花が好きな方、新聞社の方、それぞれの思いで花をみます。

花はそんな見る人の思いとは関係ないかのようにただそこに咲いています。

美しい花だと思う白い花には、わたしや他の方だけでなく、蜂や(他の)虫たちもあつまってきていました。

わたしは知識と経験や何かによって花に惹かれそこにいました。虫たちは誰に教わるわけでもなく生きるためでしょうか。


何でもいいです。


白く清楚で美しく咲く沙羅(夏椿)の花



名に椿と名がつくように、長くは咲いておらず散って(落ちて)いきます。


それでも来年また白い花が咲くのでしょう。


誰かが(わたしも)それを楽しみにしています。

しょうじきにあったことを

 先週休日をいただく日に用事が入り、その分を今週にまわしていただき、三男坊を幼稚園へ歩いて送ってから、今日の予定にとりかかりました。

先日の休日に買い出しに行き、家内と次男坊と三男坊が庭のプランターに植えたトマトに実がなって赤くなっていたのですがそれをカラスか何かが先に収穫しそのあたりで食べ散らかすということの対策のために、防鳥用に網を張り、家内が台所仕事する場所に西日がまぶしいので(わたしにとっては家内がまぶしくみえますが)そこへすだれの新しく掛けるもの、床の間のある和室の障子が汚くなってきていましたので、家内から障子を張り替えてほしいいっていましたから、張替用の竹柄の障子とのりを購入しておきました。

早速前日仕事が終わって今日のために障子は先に綺麗にはがしておきました。大学時代に修行していた場所に建具(表装)屋さんがよく出入りしているところでした。いつも障子を張替えるところを眺めていました。門前の小僧は習っていない障子張もずっと眺めていましたものです。
プロの手際や破れた所だけの補修は流石です。いつも終わった後に

「上手ですね」

気に入られようとしたわけではなく、その手際と仕事の仕上がりの良さで気がつけば言っていました。
その方が立派な襖絵を屏風に起こし、仕上がったものもみせてもらったこともあります。手に職とは素晴らしいものだと思っていました。その方の息子さん達とは泊まりにきて遊んだものです。

その方の次男さんは、両親の職業を継ぐ気になったらしく、「私みたいなものに弟子入りしてもしょうがない」からと京都の有名なところに弟子入りして修行をして実家に今は帰ってきていると、わざわざ和歌山から四国(徳島)まできていたときに息子さんが報告してくれました。(おっと障子から話が大脱線)

4枚の戸を張替え、最後に霧吹きをして仕上げです。

家内にぶっかけかまたまうどんを作ってもらい、おいしくいただき、それから小雨の中、「けいくん(三男坊)」を迎えに行きました。

新しいものは綺麗です。

「また破れたり汚くなったら、はりかえるよ、腕もあがるだろう」


できれば破られないことを祈ります。

きいろ

 最近「けいくん」(三男坊)の幼稚園へ送り迎えをする機会が有難いことに増えました。幼稚園生や小学生(低学年)は黄色のイメージです。

雨が降れば傘は黄色、幼稚園の登校用の帽子も黄色、カバンも黄色、小学校(低学年)生のランドセルにつけるカバーも黄色、何というか、小さい子が黄色で何かに興味を奪われ足取りも興味が惹かれたほうで立ち止まり、自我もしっかりして自己主張も大人並になっています。

ただ小さい子が黄色い感じで興味があるほうへ足と時をとられ、「ひよこ」と同じに見えます。

「(恒例として)ひょこひょこ歩いているから、ひよこなんですよ」

思いついたら書か(話さ)なければいけない病気の一例を記しておきます。

幼稚園の途中にある柿の木になるまだ小さく青い柿に気を取られ、白く美しく咲く朝顔に目を奪われ、タンポポが黄色く咲いていれば数を数え、鳥がいれば「あれはスズメだね」と教えてくれたり、水田の稲ではなくオタマジャクシが泳いでいるのに心浮かれ、お友達がいればそれまでゆっくりでふらふらしてた足取りが途端に早く最短で近くへかけていったり、家の黄色い子だけでなく、まだ他の四歳の子供達も似たような感じです。

子供がいれば、子供のために、変なことは捨てて、笑顔で通り行く人に挨拶をします。面白くはないのですが子供連れでなければ挨拶をすることにためらいが出るなんてことはよくあります。
(子供がお世話になるというお互い様の前提があることによって)既婚者でも若い女性に笑顔で挨拶してもおかしく思われないのは本当にあの子たちのおかげです。


黄色い子達が幼いこと、小さく可愛らしく、笑顔がまぶしいこと


あの子たちの笑顔が黄色く輝いてみえます。

 調子に乗って言い過ぎて、後悔が多い性格を後になって痛いことが押し寄せることで見つめなければいけなくなるなんてことは多いです。感情的に発言を繰り返し、思う方向とは逆をせざるをえなくなり、またそれも後悔するのです。

「言わなければいいのに」

「感情を爆発させなければいいのに」

「言い過ぎなければいいのに」

本当誰のせいでもなく、自分で自分の首をしめつづけることを気がつけばやめれない、あんまり痛い思いをしたくないのにめんどいわたしです。

しばらく自重しても、忘れれば、気がつけば、元のわたしに戻っています。


楽しく生きていきたいです。


楽しくということ、可愛いということも、好きということ、愛するということ、わたしということ


幅広く、時に難しく、楽しく、面白く


めんどくさいわたしです

誰かの言いたいだけ

 あまりそうあってほしいとは思っていないのです。そんな思いに反し、現実はいろいろあります。

自分自身人よりいろいろないのかもしれないし、いろいろありすぎるのかもしれないし、普通なのかもしれないし、そのどれでもないのかもしれないし、そのどれもかもしれないです。

極論(勝手な結論)へもっていきます。

それぞれ(自分のことを)わかってほしい(自分がしていることを・自分が大切だと思っていることを理解してほしい)。

仕方ないことです。

人が違えば、見た目が異なるように、考えていることも大切なことも微妙に変わることは多いです。同じようでいて違う。違うようでいて同じ、違うのでもなく同じでもない。

現実の変化とそれが加われば、判断をあやまり、道が見えなくなることもあるもの

その解決方法に、「自分ではない誰かが悪いと言い続けるだけ」これを継続して続けられると、わたしは疲れます。いらないことを言うものです。

「悪く言うんだったら、それがよくなるように力を使ったらいいよ、(何もせず)文句を言うだけなら、誰かのことはもう言わなくていい。もう思わなくてもいいんじゃない。(自分が何もする気が無く文句を周囲に言いたいだけなら)」

本当こまったわたしです。

他人を悪く言い続けるだけの人だっているのかもしれません。

周囲のことを悪く言えば自分がよくなるということをずっと続けている人かもしれません。

自分が誰かを悪く言う誰かより、よっぽど自分のほうが悪いことだってあります。

挙句はいつもわたしなりの見解でおさまってしまいます。

「なかなか(自分の事だけ棚に上げ)周囲に悪く言いまわるなんてできないこと。」

ただその言葉に時折「わたしはできている(問題がない)、だから言ってもいいんだ」


「わたしができている」か、「わたしができていない」を決めるには、自分の浅い思い込みで決めていれば大問題です。大抵他人が決めてくれるものです。


「わたしは、できている(さとっている)」


よっぽど中身がしっかりしていないと、断定(発言)できない言葉だと思います。

真似もできず、対応は

 いつも皆へ近くの人の欠点・揚げ足を周囲へ告げて回る人をみる。よく見たところ誰かに頼まれてもないのに他人の監視・欠点・失敗を残さず自分の役割として継続させ続けている方。

善いことなら、誰彼かまわず伝えてくれてもいいなあといつも思う。

広報担当者をよく見つめていると、人間だから失敗や欠点も同じように存在している。ただそれでも何故か他人より自分はできているとよく申告してくれる。だから自分の悪い事なんて言う人もいない上に、もしいう人がいたらその人はおかしい。そんなことをいつも言動によってわたしへ示してくれる。

誰かの悪いとこを監視・報告された後には、いつも思う。

「自分がそれをされたら、怨み・怒り・嫉みなどが激しく出現するのではないの」

どうもそれは本人からするとやはり、自分は気を付けているしできているから、それはない(自分は特別だというような)といった言動が出現してくる。

いつも賛同してあげれないわたしがこたえることはせいぜい

「人間完璧な人はいないと思うよ。ダメなとこがあるなら言って教えてあげればいいじゃない」

「(完璧な人はいない)それはそうだ。(ただわたしは言うだけで何もしませんよ)」

そのように返事があるけれども、私が勝手におもう真意はいつも伝わらない。


相手ではなく、私自身が本当に難しくめんどうな人だと思う。相手の意見に賛同せず、思うがままの言動をつい出してしまう。結果相手に味方とも思われず、理解してくれたとも思われない。時折そんな人に捨てられそうになることがあるのに、気がつけばうまく立ち回れていない。

いろんなことが勉強になる。

要望

 先日、長男坊が

「最近髪が伸びてちょっと困るんだよね」

「切って欲しいの」

「うん、じゃあ部活や用事のない土曜か日曜に全員きるよ」

「わかった」

「でもさ、ずっとお父さん(わたし)が髪きってるけど、中学校なったんだし散髪屋に行ってきってくる?」

「いいよ別に、お父さんに散髪してもらってるって皆気がつかないから、大体みんな『散髪屋行って来たんだ』っていうから、お父さんでいいよ」

「ふーん、まあ散髪屋がいきたいなら言ってよ、別にお父さんが強制で髪切らせろってわけじゃないし」

なんて会話が何日か前にありました。今日は朝から二時間ほど家計のために行列に並び、それによって少し職場の方にご迷惑をお掛けしました。ただ皆私を攻めることなく、受け止めてくれることが有難いことでした。いつもより余計に力を入れ仕事をしたつもりですが、終わって自宅に帰れば、約束の散髪です。

長男坊は歯医者へ家内と共に定期健診に行っていました。その間に夕食の準備に邪魔になる洗い物を終わらせ、外の片付けなどを次男坊に頼み、散髪の準備です。

「さあ裸になってこの新聞の上に来て」

切った髪がつきますので、まず次男坊から、わたしも子供も裸、これが男同士裸の付き合いというものです。

「目閉じといて、髪の毛入ったら困るし、お父さんの大切なところをじっくり見られ続けても困るから」

「見ないよ」

「まあ見られても減らないけれど、髪の毛入ったら困るから目閉じといて」

まず次男坊の散髪終了です。次はその辺りであそんでいる三男坊「けいくん(四歳)」です。

「けいくん、すぐゲーム終わらせて裸になってこないと、ゲーム禁止になりますよ」

かしこい彼は、即座にパソコンを終了させ少し不服そうですがちゃんと私の所へ来ました。無事に三男坊も散髪が終わり、まだお風呂に入っている次男坊へ頼むのです。

「けいくんを綺麗に洗ってあげてね」

「はーい」

洗い終わった後、お風呂で楽しそうに二人ではしゃぐ声が聞こえます。まだこの時歯医者から長男坊が帰ってきていないので、しょうがなく自分の髪を散髪しました。

私の散髪も終わり、しばらく正座して待ちました。玄関から

「ただいま」

「おかえり、すぐに服を脱いでお父さんの所に来て」

この時点で散髪人数4人目です。ただ念入りに格好良くしました。お父さんが切ったから格好悪いなんて思われたくないと思う負けず嫌いなわたしをいつも見ます。

髪質が硬い長男坊の髪が1番散髪しやすいです。猫っ毛の私に似たのか次男坊とまだ幼い「けいくん(三男坊)」はやわかい髪質なので散髪しにくいです。

まあ無事に終わり、お風呂へ入り、髪も身体もさっぱりです。我が家の男共4人見た目さっぱり。


これにて今日のわたしの任務は終了です。



一杯やって、趣味を満喫し、明日の仕事もがんばることにします。

目前のことだけでなく、そこの何かをともにみる。

「何かとは何」

「これです」と案外言葉で伝えることが簡単でいて難しい。

阿呆なことを言っている自分にきがつかない阿呆なわたしが「(これが)何かですよ。」なんて答え、答えた本人だけが満足していれば、周囲は開いた口が塞がらない。
それでも(何の自信や根拠なのかわからないのに)周囲が何も言わないから(あきれて何も言えないだけなのに)、余計に自信をもつなんて、よいことを言ったと胸をはる。

目前のこと、そんな阿呆なわたし、ふつうのわたし、ちょっといいかものわたし、すごく善いわたし、そのほかのわたし、いくつかそんなことを考えすぎて深いところをみる。

「まあ即答で変なことを言わなくてよかったか」


そんなことを忘れている。


誰かが目前で、周囲が呆気にとられるようなことを胸を張って言うのを見る。

今も気がつかないわたし、過去においてよく見られた阿呆なわたしをそこに見る。


目前の方を軽んじれない。いまも過去のわたしもそれと変わらないことをしていたことも多いのだから



仏教者はいう。

「深く己をみつめることに徹底すれば、やがてその人はさとりにいたる。」

「内省をくりかえす。おのれをみつめていけば、我がことだけを考える(思う)ようになるのではなく、他者への深い優しさ・愛情(慈悲)が出現し周囲をつつんでいく」


目前の方を軽んじることは簡単

他者を害うものは自らを害うものである(中村元)




(害い続けているのも)軽んじているのは、ほかならぬ自分自身


わたしはわたしを大切にしたい(されたい)。


「自ら望むものは他者へ与えることによって、違う形で自らにかえってくる」


(たしか内田樹先生がそのようなことを著書に書かれていた)


最近そのことが痛いほどわかるときがある。

その瞬間

 何やら沖縄では例年より早く梅雨明けとか、こちらはしとしと雨が降り続いています。それとはまったく関係のないことであれこれと考えを巡らせ、一つのこれじゃないかと思うことが浮かび上がってきます。

(わたしが勝手に)広く大きく深い人だと思う方が何人もおられます。

身近にもおられますが、(わたしの)師もそうだと常に思います。

「何が原因で大きく感じるのか(わたしや周囲の方が大きいと感じているのか)」

「これ」と一つをとって、根本の原因だと断定できないのがこの世界や人間の特徴だと最近思い知らされます。(わたしの)愚かさをもって例をだせば

「原因はこれだ。これしかありえない。これ」

なんて浅く狭い理解や思い込みで偉そうに言ってしまえば、後で大変な目にあい、反省・懺悔し悔い改めなければならないことが増えていくのです。


誰かが神仏の御前にて、真摯に深く頭を下げ、一心に周囲の方のことをお願いされるさま


その時、それが誰であれ、わたしはそこに神仏はみえずとも、そこに信仰とこころをみます。

その真摯な姿の瞬間、大いなるものと一つと思える瞬間となり、その方は大いなるものに包まれているのか近くにあるのかともにあるのか、こころにあるのかとなり、美しいものだと感じます。

師もまた、折にふれ神仏を深く礼拝され、その姿勢は呼吸をしているかのように流れ、ありのままです。


わたしが他者から大きく深く広く美しいものだと思われる瞬間があるとすれば、それはくだらない思いを捨ておおいなるものを害うようなわたしではありたく(品と礼と努力を失いたく)ないと心から願うその瞬間があるとすれば、その瞬間だけは師と大差がないと最近思います。

わたしはよく(本質・大切なことを)忘れ、一体そのとき何をみてものを言っているのか、表象のわたしだけをみてできた風なことを言って調子にのり、少しの風でもどこかへ飛んでしまうかのごとき軽さを自らの言動(こころ)によって出現させているのです。

忙しい・慌てていた・仕方がなかった・いきなりだったから・教えてくれていないから・褒められすぎて天狗になったから・地位・名誉・恩恵が人よりあるから・今安泰だし気にしなくていいから、そんな時でも大いなるものをみつめ、その時のおのれ(こころ)をみつめたい。

「どうやれば、大きく深く広い人になれるのでしょうか」


誰に問われてもないのですが(これが正しいということもなく、間違いではないのかもしれず)ただ現状の思いつきとしてここへしるすのです。