お付き合い下さい

 近くが桃の産地であるため、通勤途中に見える桃が見事な花をつけています。

「桃の花は、桃色です。」

さて何故あたりまえのことをあらためていうのかというと、職場の前に桜が見事に咲いています。

ソメイヨシノでしょうから、薄い白色に近いピンクの花のいろです。

つまりは「桜色です」

そんなことをいつも近くにいる人にたずねていました。

「桃の花は何色ですか」

「ピンク」

「桜の花は何色ですか」

「ピンク」

どうも私のさきほどの独り言をしっかり聞いていたらしく、桃色や桜色といった表現をあえて避けて答えています。

「では桃の花のピンクと桜の花のピンクは明らかにみて違います。どのように言うのでしょうか」

「桃はピンク、桜は薄いピンク」

「そこは素直に、桃色と桜色でこたえてもいいんじゃないですか」

「ピンクです」

カウンタクエッスチョンです。

「では桃と桜を使わずに、その色を言ってみてください」

「桜は淡く薄い紅の色、桃はそれより少し濃いでしょうか」

「紅(くれない)は赤色が強調されて感じられませんか」

「しかし、向こうにある桃は確かに淡い紅ですが、あちらにある桃は見事な鮮やかな紅でした(赤が鮮やか)。

あれを『桃は紅(くれない)』(一般に花はくれない)とあらわす人がいるんでしょう。」


ふふふ

言いたいだけの私に付き合ってくれる方が割と好きです。
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好日

 いつも仕事をしている場所からすぐ見える場所、ちょうど今桜が七分咲きでしょうか。美しいです。
「庭が美しいですね」そう職場の庭を若い夫婦が言われておられました。私の庭ではありません。けれど褒められれば関係ないですが嬉しいものです。

ワンパターンな私がでてきます。

「ちょうどあの庭の今の時期の美しさを例える言葉があります。

それは柳緑花紅(りゅうりょくかこう)と言います。

ちょうどあの庭にある柳の萌えるような若葉、花(桃)が紅に咲いています。あるがままが美しい。

あなたがた二人、あるがままが美しいのと同じことです。」


咲き誇る桜に鳥が飛び交い、桜と鳥が揃えば尚更美しく、あの風でそよぐ竹、夜空高くに浮かぶ月



誰が言い出したのか知りませんが「花鳥風月」という言葉



誰かが美しく思えるとき、素直であり、慎みあり、自分だけの小さいことにとらわれず、善いことをしている人は美しいと思ってしまいます。


よくすべてに仏性有りという言葉を聞きます。



何故かです。あの美しい風景から

「(わたしたちは)ありのままの姿であれば美しいのです」


そんなことを教えてくれているように思いました。



「ありのままの私」が美しい。


本当に私もどなたでもそうであれば、楽しいことが多いだろうなんて、またきれいごとをここへしるすのです。

腹が立つことを

 落ち着いていく傾向

 落ち着かず騒がしくなる傾向


 一人で勝手に怒る傾向

 一人で怒りを鎮める傾向


気がついているけれど、知らずに何事も計画を立てている。予定どおりにいけば落ち着いている。

立てた予定と流動する現実の食い違いが大きいと感じれば感じるほど、苛立ち時に激しく怒っている。

決めつけてしまえばしまうほど、現実との差を意地とプライドと怒りや誰かのせいとして解決しようとしている。


いつになれば決めつけすぎることが少なくなるのか。

勝手に予定を立て自分一人で起こる必要もないのに。


ふと周囲を見渡せば、そんな私と同じような人を見かける。少し安心する。だからといって私がよくなったわけでもない。

そんなあたりまえのことを見かけ、勝手に自分で起こす怒りを必死にしずめていく。


腹が立つ事を自分で原因を作り、それによって怒りを必要以上に起こして、短気で角のある言葉、挙句は誰かのせいなんて短絡的なことをしているのだろう。

自らによって怒りをあまり必要以上に欲しいとは思わない。

あこがれ

 以前何故ここを管理している名前が大渓水なのかという話をどこかへ書きました。

自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人とWIKIにもある「種田山頭火」、山頭火の名前が納音からきていますので、山頭火の俳句に興味があり憧れがありましたから、ものを書くときには納音からと決めていました。

ひょんなことに(近くに)、山頭火の俳句集本がありました。その表紙には

山頭火 句集 編村上護  山頭火文庫 ①

文は人なり 句は魂なり 魂を磨かないで どうして句が光ろう




裏表紙には

分け入っても分け入っても青い山



魂を揺さぶられるような句がいくつもいくつものっています。






欲張りなわたし



「文も人も心も光り輝かせたい」



以前から言葉がみつからず、何故に山頭火にあこがれたのか


その答えが表紙にのっているとは親切で素晴らしい本でした。

ねえ

「お父さんこの辞書、親字が凄いのってると書いてあるよ」

「何そのオヤジって」

「親と字で、おやじ」

「お父さんそれシンジって読むのかと思ってた」

「ちょっと広辞苑ひいてみるよ」

「まずはお父さんが言っていたシンジと、どれどれ

うーん載ってないよ」

「じゃあやっぱりオヤジなんだ」

「ほらやっぱり親字でのってるよ」

親字 親文字に同じ(広辞苑)



親文字を見ているようです。

意味 ①漢和辞書で、同じ頭字の語彙の初めごとに書き出した大字。親字(広辞苑より)



(僕があってたねという)雰囲気です。

「ほらお父さん、『オヤジギャグ』ものってるよ

えっとね

年配の男性が口にする、時代感覚からずれた面白くない冗談や洒落



だって」

「ちょっと、それ口に出してあらためていうと、きついよ」

「だってそう広辞苑にのっているから」

何やらそのあたりにいた家族が私のほうを見ています。


「・・・・・・・・心の声(いやあ意外と時代感覚にのって、洒落も聞いて、いけてるとおもうんだけどな)」




外はいい天気だな

 あなた


手近にある安易な道に頼って自分ができることから目を背けていないか


確かに誰かに頼れば、自分は楽を出来るかもしれない。現実が楽になるかもしれない。


誰かに任せ、自分は楽をしてるのではないか、誰かに自分より背負わせ、自らが背負うことを逃げていないか



私はできれば楽をしたい



だからといって自分の分を誰かに背負わせ、また逃げていないか



自分の分を背負ってそれでも私はそれが私の道だからといって背負おうとしている人をみて何を思わないか私



自らの心の叫びをどうしてうけとめないのか



何故に安易な道へいこうとするのかわたしのこころ



それは私の本当のこころであり、わたしのこころなのか




誰かに投げて任せ逃げるのが、本当に私の心なのか



私の心が私のものになっているのだろうか



わたしはわたしなのか



いま、それを問いたい



わたしはわたしをもってこたえてくれ

 先日から今更なのだけれども、何回あっても慣れないことがある。

「善いことであれば、慣れていなくても心地よい感動や驚きととなるので、慣れていなくても慣れたいと願う。」

「悪いことであれば、慣れていない上に心地悪ければ驚愕の事実との遭遇となるので慣れていても慣れない。」

つらいことが訪れれば、これには慣れない、さらにつらすぎれば慣れたくない、慣れることがない


あまい私を見る。


ずっと見つめてきた方達に全く理解できない現実をおたずねしてみる。

「・・・・・・・・・・・」

私と同じで言葉が当てはまらない。



意味が分かりたくない。


どうしようもないものをみてしまう。



「あれはいったい何だろう」

誰が

 職場の桜が一輪、今朝見れば咲いており、冬の間葉が無くなっていた柳も緑をたたえていました。職場の近くは桃の産地でもありますから。桃畑に花が咲きだしています。

何度でも大好きな例えを出します。

「柳緑花紅」

春の美しい風景のたとえ。禅宗で悟りの心境を言い表す文句。(広辞苑第六版より引用)



春の美しき風景と共に先生の言葉が出てきます。


 わが家の花が赤いからとて、花はことごとく赤くなければならぬといったならば、それは愚かしいことでなくてはなるまい。赤きがあり、白きがあり、黄なるがあり、紫なるがあって、わが花園はいよいよ繚乱としてあでやかとなる。しかるを、あるいは根本仏教のみが真の仏教であると主張し、あるいは大乗仏教こそはまされる仏教であると言い張るならば、それもまた同じように愚かなこと。仏教の花園もまた、それがあり、これがあって、はじめて百花繚乱たることをうる。わたしがいま根本仏教と大乗仏教とを並べとりあげて、その会通(えつう)を語らんとする所以もまた、まったくその他はないのである。
(増谷文雄著「根本仏教と大乗仏教」より抜粋)



私の愚かさを痛感させられる言葉でした。私はよく「これが美しいんだ」「これが・・・」「これしか」なんて人の話を聞かずに決め付けることばかりです。以前よりそれは少しましになったくらいでしょうか。

ただ「赤きがあり、白きがあり、黄なるがあり、紫なるがあって、わが花園はいよいよ繚乱としてあでやかとなる。」という言葉は全てにあてはまるように思います。

私みたいな人もいて、いつも隣にいる人もいて、身近な人もいて、優しき人もいて、物くれる人もいて、慈悲ある人もいて、とらわれすぎる人もいて、怨みにそまる人もいて、怒る人もいて、優しくない人もいて、物惜しみひどい人もいて、無慈悲な人もいて、皆がそれぞれいるからこの世は美しいのだろう。余裕が有るときはそう思います。余裕が無いときの私は先に上げた悪い例の中心に位置しているだけのことです。

「百花繚乱、わが花園はいよいよあでやかとなる」

そう思える時の私の心は広いことが多いです。



「もともと際限のないこころ、誰がその大きさを決めつけようとするのか」



狭い時こそ、その問答を自らへ向けるように、美しく咲き誇る花をみて何かを思うのです。

願い

 家内へ長男がお願いをしていました。どうも私には厳しく言われるので、優しい家内に言うことが当然多くなっています。
近くにいる私にもそのお願いが聞こえてきます。

「お母さん、僕はもう4人目は欲しくないから産まないでね」

要約するとそんなことをお願いしていました。

長男は兄弟にも家内や私にも優しく、時に自分のことを後回しにして兄弟達の面倒を見てくれています。その性格が自分で納得いっていないようです。

好き放題ですが優しい次男坊に振り回されたり、まだ小さく可愛らしい三男の面倒に自分の時間が割かれており、自由な時間が兄弟がいるため少なくなる、何かいただけば三分割、気に入ったおもちゃやゲームも三人で仲良く、つまりは遊ぶ時間も彼らがいれば3分の1になります。

「もう一人増えれば、どうなるのか」

仲の良い家内と私を見ていたらそんなことを伝えておかねばなんて思ったのでしょう。

子供の頃、確かに私も兄弟がいて楽しかったことも沢山おぼえています。ケンカしたり、対立があったり、独占があったりなんてあまり良くないことも、今は楽しい思い出。

彼も後になれば、理不尽だけれども忍耐しなければいけないこと、分けたくないのに分け合わなければいけないこと、自分の思うように時間をもてないこと、一人ならばもっと自由なのに、なんてことと、いざ自分一人になれば色々考えさせられることになるでしょう。


お兄ちゃんたちを習っているスポーツに夜送って行く途中、ついてきていた「けいくん(四歳)」が夜空のお月様を見て

「おつきさまがほそい(三日月だ)よ、あのほそい下のところにすわって、ぼくはつりをしたいんだ」

どこかの映画の前にあるようなことを願っています。


お兄ちゃんたち、あの子がいると確かに我慢しなければいけないことも、助けなければいけないことも多くなるけど、皆が笑顔になれることも多いよ。



今日の夜空には、映画に出てくるような、細く綺麗な三日月浮かんでいます。

それら

 美しかった梅の花も散り、まだつぼみであったチューリップも綺麗に咲き並び、さくらも咲こうとしています。

相も変らぬ職場と自宅の往復、職場に来られる方・職員さま・家族以外の方とお会いすることが少ない日々です。だからでしょうか職場に来られている方に隙あらば気になること何でもおたずねしています。

もっとも余計なことを話しすぎて変な人に思われたり、勝手に決めつける雰囲気を出しすぎて変な人に思われたり、初対面なのに盛り上がりすぎて変な人に思われたり、家内との愛の話で盛り上がりすぎて変な人に思われたり、自分の世界に入り込みすぎて変な人に思われたり、そうかといえば仏教の話にとびすぎてとても変な人に思われる日々です。

ただ黙っていれば関係は深くもならず冷めていき(つまりは盛り上がらず)、おしゃべりがすぎれば墓穴を掘ってしまい(語るに落ちていく私)、どちらでもないその中間に位置しようとするのですが、極端な傾向していることが多い時が多いが故に頃合いが難しいことになっています。

今日初めて、先達という四国遍路を生業とする方がおられるということを知りました。もっとも今まで先達をしているけれどもそれだけでは生活できないから副業として、つまりは兼業先達という方には何人もの方と出会ったことがありました。

関係ないけれど、農業だけを生業としてということも私からしたら難しいことだなんて思います。僧侶も資格として取得される珍しい方もおられます。四国八十八カ所霊場会公認先達も資格としてとられる方もおられます。どれもが本人の自由です。

ただ先達という職業によって家族を養われている。あまりそういうことを聞いたことがなかったもので本当に今日は衝撃を受けました。

先日子供の小学校の校長先生が子供達と保護者のお話の中で、

「あなたたちが大きくなった頃には、今までにはなかった職業が存在し、その見知らぬ職業についているかもしれない。今までの職業だけにとらわれず、自由で柔軟な発想も時には持ってほしい。」

みたいなことを言っておられました。

本当頭の固すぎる私は、人一倍固定観念にとらわれすぎて、新しいものを即座に理解できないことばかりです。あろうことか否定的な意見をいってしまいすぎるなんてこともあります。


もっと現実にも相手にも柔軟な対応ができるように普段からもっと驚いておこうと思います。


決めつけ・おしつけ・偏り・とらわれ・理解のなさ、(自分の中の)それらとしっかり向き合っていきたいです、

まとまらない内容

「わかりやすく言わなければ(しなければ)いけない。」

見れば普段から親切にしようと、優しくしなければと思っていることが態度に現れている方の口癖です。

長いことその方をみていると、一つの傾向が出ています。親切に(優しく)しようとすればするほど、話が長くなっています。

(やらない私は他人のことだと簡単に)勝手に思っています。

理解というものは、自分が納得すること(またはしっかりと納得していないこと)、だからその自分が変われば、納得の条件や言葉も必然変わるものです。

少し面倒くさい話になります(相手がではなく私がです)。


「誰かが素晴らしいことをされていた」

そのされた行動が素晴らしいために、同じように使うということが増えます。「誰か」と「素晴らしいこと」は何かでつながっている時に力を最大限発揮します。

「誰か」が変わり、その「何か」が無く、「見知らぬ誰か」と「素晴らしいこと」を出現させてもつながっていない場合、周囲に「何か違う」又は「使い方が間違っている」又は「その素晴らしいことの意味がわかっていない」本人が気がついていなくてもそんなことが出現します。

悪いことは気が付きやすいのですが、「素晴らしいこと」は少し本人に気が付きにくい要素が強いように思います。



「誰か」が「素晴らしいこと」を成し、周囲が心から喜ぶ。

どうも狙うと失敗する要素も格段に増えるようです。


「相手が喜ぶ」とか、「素晴らしいこと」とか、「わたしが」とか、そのような思いがないような状態でそのような状態であれば上手に伝わる事が多いようにも思います。


「それって言葉でどうあらわすのか」


わかっている方に対して、短く素晴らしい言葉であらわすことはまだ簡単なことのように思います。

わからない方に、ただひたすら言葉であらわすことは本当に難しいことだと思います。


わかることは書きやすく、わからないことは書いていても書けておらず、わからないことはわからないことをもってあらわすしか(私に)手がありません。



時には言葉を捨てなければ

何の

 仕事であれば毎日家内がお弁当を作ってくれます。何気ないことを日々続けるということが一番有難いことです。それが今日私は朝ぼーっとしていて(大抵毎日朝は頭がぼーっとしています)、お弁当を作ってくれていたのに持っていくのを忘れました。そう言っても初めてでなく何度かそれがあります。(ごめんなさい)
家内は頼んでいなくても文句も言わず職場に届けてくれることばかりです。

春休みに入った長男坊といつも家にいる「けいくん(三男)四歳」が、職場の駐車場から走ってくるのが見えました。小さい「けいくん」が片手にお弁当を持ってかけてきます。

「おとうさん、おべんとう」

「けいくん、ありがとう」

お目付け役の長男はそれを隣で見ています。二人にお礼を言い、家内にも有難うと伝言を頼みました。

コンビニのお弁当もたまにはいいです。続けば少し飽きてきます。贅沢な私は

「やっぱり手作りが一番だな」

(日々作る手間を考えず)なんて言うのです。


次男はまだ小学校春休みに入っていませんので、給食を食べている時間ですから、一緒に来ていませんでした。もしいたならあの子が真っ先にダッシュしてきたでしょう。

家内はあの子たちに任せ、あまり人前に出ることを好みません。控えめなところがまた(私は)好きです。

「あの子たちと私の日々の何気ないやりとり」

よく幼少の頃のことを思い出します。普段は難しいおじいさんが私にはいつも優しかったこと、父はいつも楽しんでいる人であったこと、思い出の中の何気ない対応に愛情を今は感じ見るのです。


私は本当に損得勘定にうとくて、肝心な時には不器用です。ただ楽しく日々を送っていきたいと願っています。


何かが足りなければ、愛情と楽しさで乗り切っていきたいなんて、甘い考えで頭の中を満たそうとしています。

「そんなもの何の役に立つの」

以前ならそういわれる方に腹を立てていました。最近はようやく少し私は人と違う道を歩もうとしているのですよなんて意味を持たせた笑顔で返そうなんて思うようになりました。



何の役に立つのかわからないけれど、とりあえず拾って大事にしてみるのです。

スピード

 若かりし頃の過ちと言えば可愛らしいく聞こえるけれど、自分が何を言っているのか何をしているのか、その意味がわからない時期をある意味で若さの一つに含まれるように思う(ここは私が助かるために含まれてほしいと願っているだけかも)

知らないが故に何かをしようと思うこと、限りがあるものを限りがないと思うことによって、予想外・人とは変わった・過去に簡単な事でも乗り越えられないという乗り越え方が出てくるのだろう。

賢い人達は過去のことを参考にしている。書物・経験談・結果・過ち・成功・挫折、それを学び、流動的な現実に即し、縛られすぎず、時には大切なことだと思われることも大胆に捨てさる。

「早い決断が何故可能なのだろうか」

(遅い私は)いつもそこで止まったままのことが多い。だからこそいつも的確で皆が尊敬するような人を気付かずに見つめている。

わかりやすいように、何かをぶつけてみる。いつも何かに対して即座に的確な答えがかえってくる。


一つの何かが出現する。

「(自分に)解決できること」

「(自分では)解決できないこと」

その判断が早い。

自分に解決できるとわかれば、自分の身体なのだから即座に行動に移り問題を解決に向かうよう努力されている。早ければ早いほど安心が近くにより、自分のことよりその方のことへ没頭する要素が強ければ強いほど、解決できなくても更に安心は近づいている。そうこう言っている間に問題は解決している。それを安心するというのだろう。

自分に解決できないとわかれば、自分より正しく的確だと思われる人に即座に真摯にお願いされている。お願いの仕方も潔い。お願いするからこちらは礼を失わない。自分にできることは全て行う。それでもこちらはお願いしているのだから偉そうなことは言えない。そんなことを言っている間に問題は解決している。それを人は安心するなんていうのだろう。


最大の特徴、自分のくだらないと思えることを瞬時に捨てれている。今まで何度も役に立って成功していたことだとしても、目の前のことを成し遂げるのに邪魔になるのならと思う瞬間に捨てている。

理由も見ていれば簡単なこと、その方が物事が早く解決して自分も皆も安心できるから

だからいつも決まったことを言われる。


「くだらないものは捨てればいい」


一体自分の思いが、くだらないか大事か目前の問題に対して正確に判断できるのならば、簡単に捨てれるだろう。


それを正確な判断ができないから、私は捨てれずに物事が複雑になり、解決から遠ざかる。


再度(私は私に)問うてみる

「あなたくだらないものはすぐに捨てれますか」






誰かにとって簡単なことが、私には難しい。



いまは

 しとしと降る春の雨、鳥はさえずり、木々は芽吹き、萌黄色の柳、梅花は終わりを告げている。やがて桃の花が開き、桜が咲いてくる。一雨ごとにあたたかくなっているのが感じられる。

萌える若葉、花が咲き誇ることに目を奪われ、散りゆくころに懐かしさと悲しみをみてしまい、別れを告げる。

「また、あいましょう」

人だけでなく、さまざまなこと(花鳥風月など)にその言葉を使う。


また出会うことになる

同じなのだけれども、同じではなく、違うのだけれども同じものと出会う。



一年後の私とであう。一年前の私と出会う。何年も前の私と出会う。どれもが私で私ではないのかもしれない。


春に芽吹くように、へんなものが私の中にも芽吹くことは多い。



今年は花を咲かせたい。


あらかじめなされるべき努力




(忘れないように準備を進めないと)

おめでとう

 仕事お休みをいただき、長男と次男は小学校へ行っていますから、残っている三男坊とまったりしていました。

長男の卒業式、家内が式へでかけ見届けて帰ってきました。通信簿も私の小学校時代よりずっと良い成績で卒業しました。これからの彼の成長が楽しみです。違う中学校へ行ってしまう友人との別れ、私も小学校から中学校へは遠くはなれた所へクラスでただ一人地元から離れました。

すぐにあほな私でも友人ができました。皆賢い子ばかり、私以外の人はよく勉強していました。勉強だけが全てではないです。ただあまりしなさすぎるとそのツケはかなり変な所に溜まっていくものです。

お節介ながら、長男には私の中学時代のようになって欲しくないと勝手に思っています。もう声変わりもしており、身長も家内より大きくなろうとしています。あの子を授かってから今まで、色々ありました。ただ嫌なこともつらいことも忘れてしまいました。
今はあの子達が大きくなって成長していることが喜ばしいことです。他所と違って足りないものは多いです。余計なお節介、家内の愛情、私の変な優しさ、長男も次男も三男もそれぞれに見つめていく時間を増やさなければと、やっていないことが多いから改めて思います。

中学校へ行って、楽しいことがたくさんみつかるといいね

「卒業おめでとう」



出会いと別れは人を成長させるもの、ただ別れたくないと心から思う大切な人との出会いがどのようにやってきて、いつ気がつくのか

説教臭いオヤジになりすぎないように注意したいです。

降ってくる

 「上に立つ人は人の痛みがわからなければいけない」

何かあって、皆が困らないようになるまで身体を動かし、落ち着いてそのように言われています。

「上に立つ人」は指導する方・上司・役職ある方・先輩・先に仕事をはじめておられる方のことだけではないです。誰でも年をとっていくもの、後から誰かがついてきます。目上の方は全て上の方とも解釈できます。

あまり極論はよくないのですが、一例をあげてみます

「無駄に歳だけとって、いつも(上から)偉そうに言うだけ、痛みもわからず、理解もない」といった言動ばかりの人。


若いうちの苦労は買ってでもなんて言葉は、痛みを知ることと、歳を取りすぎてから痛みを知るのでは遅すぎることを意味しているのかもしれない。なんて最近思います。

近くの人が教えてくれました。

「歳をとった人は、自分が偉い。できている。そう思い込んでいる人が多い。だから言うことを聞かない人が割と多い。」

できた方もおられますので、全員がそうとかでは無い話であって、そういう方だっておられるという話、早いうちに何か大切なことを重要なことを、善い意味での心の痛みを多く知らなければ、歳だけとって「上から言い放つだけ」なんてことが増えれる自分は恐ろしすぎます。

若いうちは素直・謙虚でないといけない。けれど歳をとれば今までより素直・謙虚でなければ、誰にも相手にされないなんてことも


難しいことより、まずは目前の方に礼を失わないことを心がけたいです。



有難いことが降ってくるのならば、皆に少しは歓迎されるように思います。

対立

 昨日60歳位の方とお会いしました。これから遍路に行かれるという。話をよく聞くと外国の方と現地待ち合わせだとか。

「英語(またはその方の母国語)が話せるのですか」

なんて日本語しか話せない私は、素朴な疑問をなげてみるのです。

「いえ、日本語しか話せません」

「相手の方は日本語が話せるのですか」

「いえ、ずっとボディーランゲジですね」

「凄いです」

どうも二年程前に一度巡礼された折、道中で意気投合し、帰国後もメールで連絡をとりあっていたそうです。この度また一緒に巡礼にと徳島へ来られたようです。

なかなか到着しない外国の方を待ち合わせ場所でまっておられました。

遠くから外国の方が見えましたのを気づいておられませんでしたので、お知らせいたしました。到着してすぐに男性二人、抱き合って再開を喜んでおられており、関係ない私でしたが、言葉と国境を越え通じ合う二人の喜ぶ姿に感動してしまいました。

よく注意してみると、お互いそれぞれの母国語で話しています。

また変なことを聞く私がいます。

「わかるんですか」

「わかりますよ」


どうも大切なことは言葉ではないようです。


同じ日本語を話し、よく話をしていてもわかりあえないこともあります。そんなことを近くにいる人にお尋ねしてみたら

「いっそ、言葉が通じないほうが通じるんじゃない」

そういえば、口癖のように私へいう人もいます。

「心合わざれば肝胆も楚越の如し」


気が合わないと、近親の間柄の者どうしでも、疎遠な他人のようなことのたとえ


他人でも、心と心が理解しあえれば、対立を簡単に乗り越えていける。

夫婦がその代表だろうなといつも思います。血がつながっていない二人が心と心をぶつからせていきます。


泣いても・笑っても・怒っても・恨んでも・時には喧嘩しても、対立があるのに対立をこえて出現する慈しみによって関係が好転していく(たまに後退もするけど・人によれば相手が交代もするけど)


いろいろあるものです。けれど出会った二人に素晴らしいものを見せていただきました。


「道中お気をつけて」


もう

 楽しい予定が入れば、目前のことを忘れ、まだその時が来ていないのに、もうその場所へ行っていることがあります。

「気が早い人だな」なんて思われても「上の空」とか「何を言っても聞こえていない」とか言われていたとしても、楽しものはしょうがないものです。

反対もあり、その時のことを心配しすぎて、すでにそこへ行っていることもあります。

「そんなに心配しなくていいのに」なんて言われても(思われても)、心配なものは心配であって、理想と現実の狭間に存在していないのに存在しようとしています。楽しそうであったり・心配しすぎていたり・浮かれていたり・特に誰かにそこへ行ってくれなんて頼まれなくてもそうあろうとしているから困ったものの一つとなっています。

挙句の果ては、行ってもないのに終わってもないのに、自分の中で終わらせて次へいってしまい、冷めたのか次のことへ行ってしまっているなんてことまである始末。

困ったことが出てくれば出てくるほど現実を見つめることが苦手だと痛感します。


ただ楽しいことを思い描くことが大好きなんだとも思います。




理想は何が(どんなにつらく苦しくても)あっても笑っていたいです。

何も

 おしつけがましい、お節介をしてしまっていることがあって

「これはそうじゃなくて、こうだから。わかってないな、これはこうでこうこういうことなんだ」

なんて言葉をあれこれと並べてみることが多い。その時は自己満足に入ってしまい

「きっとあれだけわかりやすくしたのだから、理解して反映され実践に移っていくだろう。」

今までと同じような問題が出てくれば、やはり以前と同じように理解していないことをしていれば

「だから、そうじゃなくて、これはこうであれでこれなんだ。」

そんな解決しないことを繰り返す、愚かな私がよくいる。何かにすがる私が出てくる。

「他のものをとおして知られず、静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが真実の形である」。
真実の形というときの形(ラクシャナ)とは特徴のこと。言語の上ではラクシャナという語は対象のしるし、特徴を表すと同時に、その対象の特徴づけ、しるしづけとしての定義をも意味する。「他のものをとおして知られない」というのはその真実は他人の教えによって知らされるというようなものではなくて、自分で瞑想し、直感しなければならない自覚の境涯であることをいう。
空の論理<中観> 梶山雄一・上山春平著作(角川文庫)



関係のないものをみて、そこに見るものがある。


誰かに「これはこうなんですよ」ということを私自身が理解していないから、思い悩むことが続いていたと腑に落ちていく。


「本体」から出現する「てだて」の「本体」は言葉で捉えがたい。けれどそこから派生してくる「てだて」は言葉として出現してくる。

「てだて」は「本体」ではなく、その出現方法つまりはわずかな一側面、一側面を理解したとこたえているのに、その「本体」を理解したと錯覚している。


苦労・忍耐・仕事の経験年数・人付き合い・修行(旅)・困苦は、言葉ではなく直観に働きやすい。


その「本体」をあらわす言葉(または否定によって示す言葉)、どれもが本体ではない。


「てだて」理解しやすく、困っていれば特に「愛情・親切・知恵・慈しみ」は心にしみいる(すさんでいても時に清らかになる)。





私は何もわかっていない

ながれ

 本当にめんどくさい私です。

本音と建前の差が大きすぎて、周囲ではなく自分自身がそれにやられて動揺することがよくあります。

知らずに格好つけているのか、発言して実際にそうなれば「えっ」なんて思いがあっては驚いています。それを外に出さないように必死な私、再度になりますが本当にめんどくさい私です。

通勤途中の風景に和まされることは多く、朝の景色、夕方の景色、夜の景色、川、山々、大空、寒い中列になり蕾が大きくなっていくチューリップ、鳥の鳴き声。

人工物よりやはり自然に、美しいと感じています。

遠く連なる山々のシルエット、澄み渡る青い空、夜空に浮かぶ月、風に流れる雲

一つの傾向も出てきています。

固定的なものより、流動性のあるものに心を奪われています。

私も年齢を重ね、流動しています。やがてはこの身もどこかへ還って行くのでしょう。


考えも固定されすぎれば、何故か嫌がられることもあります。

客観性を伴い自らと他者の心が喜び望む方向を探す私を見ます。


見つからないことばかりです。

(わたしの)心が見えていないことも多いです。


たえず動き続ける(わたしの)心をもっと見つめていきたいです。