どちらかといえば

 先日珍しく購入した「いつやるか?今でしょ!」「今やる人になる40の習慣」林修著作、仏教関係の著作ばかり読んでいますし、ジャンルにすれば自己啓発本になると思います。

春から中学生になる長男坊が「お父さん割とこれ面白いよ」なんて言いながらサクサク読み進めていました。小学高学年生でも楽しくためになり読み進めていける本です。

難解な言葉を避け、読みやすく、理解しやすいような例えを出し、当然その著作者である方の思考がよく反映されているせいか、男性的な文章のように受け取りました。

林先生よりまったりとゆるく生きている私には、痛く突き刺さる言葉がいくつも出てきました。素直に受け止め、過去・現在・未来を見つめ、いつやるのかを自らが自らに向けて問いを発していく。その答えはいつも決まっています。

「いまでしょ」

そう心の中でこたえるようになっていく自分の出現の数を増やしていく。

シンプルに書いてありますから、目を通すだけなら本当にそんなに時間はかかりません。ただ忘れないように現実に反映させるようにしていくためには継続が必要です。

気分転換にいい本だと思います。ただ林先生の独特な雰囲気が苦手な人には好きじゃない書物になるかもしれません。(それはこのブログだってどの本でも同じです。)

「いつやるか? 今でしょ!」と「今やる人になる40の習慣」を読んでみて、どちらが好きかといえば「いつやるか?いまでしょ!」が好きです。より強い力を感じました。

我が家は五人家族ですから、中古で送料込み600円位で購入しましたので、5人が全員読めばお得です。

よっぽど林先生好きになってお気に入りにの一つにする人であれば、改めて新品を買い直し古い本はぼろぼろになるまで使うか、誰か好きな人に読むようにあげるかしたらいいだろうなんて思います。

普段から現実逃避・空想・仏教が好きな私は、仏教関係の(あまり難しいと理解できないので)難しそうな書物に時間をかけて読破していくことがあっているような気がしました。けれど日常ですから、変化や気付きは必要です。

林先生にちからをいただきました。ラジオからの話、話から本、本から私、わたしからあなた、そうやって世の中何が知らの見えないものでつながっていると思うときがあります。
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痛い

 他者の善いこと(徳)を見て敬い、自らの悪しきことを恥じる。

 他者の悪い点(短所)を見れば、自らも気づかずにしているのでは罪の深さを見る。

誰かが何も考えずわかっておらずの言動によって、周囲更に誰かは特に後になって激しく痛い思いをするなんてことはよくあり、まるで愚かな過去の私そのものをみてしまいます。

「こんなことになるなんて思っていなかった」又は「こんなことになるなら、あんなことは絶対にしなかった」又「わかっていれば・・・」

だからでしょうか、目の前でわかっていないから自らと他人を傷つけるようなことをしている人と接すれば、かばうのではなくそこに私を見てしまい「悪気はないんだ・・・」なんてぼそっと言ってしまいます。

わかっていたら、自らと他者をそこなうことを偉そうにするわけもなく、わかっていないから・・・


そんなことを近くのいつも皆にやさしくできることを続けている人に聞こえてしまい

「そんなのは悪気がないとは言わない。ただの考えなしだ。あなたのいう悪気なしの意味が分からない。」

誰もわざわざ自分が悪くなるようにつづける人も少ないです。できれば自分がよくあればなんて思っていると私は思っています。いつも優しい方は言葉はきつくても困っている人が目前に現れれば誰よりも早く動きできることを率先しておこなっています。

おそらく私は愚かで痛い言動を続けてきたことにより迷惑をかけすぎてきたから、悪気はないんだと言ってしまうのです。誰にもやさしい方は私のように愚かな言動がこれまで少ないかほとんどなかったのでしょう。

悪気がないから何をしてもいいということではないです。自分で悪気はないと言うのはもっとおかしな話です。ただ自らのいたらぬ言動によって自他を害していくことが本当に理解しているのであれば、その痛い言動はなくなっていきます。

目前の人が痛い言動を続けていれば、私は「悪気がないんだ・・・、果てしなく痛い思いをしたいなんて自分はおもっていないだろうに、本当に理解すれば・・・」その人をざっくりと切り捨て話にならない・相手にしない。なんて言えないです。過去の私が誰にも相手にされず切り捨てられれば、今の私もないように思うからです。

ただ気づかねば相手にも自分にも迷惑の範囲やひどさが年月だけ拡大していくでしょう。




本当に他人事ではないので、前例の多い私は特に気を付けたいです。

いつもの口癖

 先日お聞きした話の中で、ペンディングという言葉を使っておられました。英語や世間のことに疎い私はわからないことがあれば、とりあえず広辞苑でひくのです。

ペンディング 事柄が未決定のままであること。未決。保留(広辞苑)


ふむふむ、あまり好ましいことではないです。

あえて好ましくないから「宙ぶらりんにして、そのあたりにただよわせておく」みたいな使い方をする人もいるのかも、なんて考えていました。

一人になりたいと思う時間を欲することもあります。ただ皆といれば一緒に何か(時間や思い)を共有したいと願うことのほうが多いかもしれません。

ただそれなのに、こちらの身勝手で偏りすぎる言動であれば、自らの願いと正反対のこと相手にどんどん距離をとられ、しまいには相手にされないこともあるものです。

自らの言葉と行動が願っている自らの心にぴったりと寄りそったものになっているのか、自らではなく相手から見て寄りそっていないようになっているのであれば、現実は少し難しくなります。
現実とはこの場合、相手の現実ではなく、自らの現実だから難しいですまないこともでてきます。


都合のいい棚にあげておく

宙ぶらりんにして知らないふりをしておく


職場のパソコンの背景に、淡雪に包まれた庭園を写真に撮っていたので、最近気に入って表示させています。
すると近くの方が意味深く言われました。

「雪が少し積もって隠れたら、同じ風景でも美しくなるものですね」

どうもそれは、うまく見せかけを淡い雪が積もるように綺麗に隠し続ける人のこととかけて使っているようです。

「すぐ溶けるから、(見せかけかどうか)時間を長く過ごせばわかりますよ」


悪いことを書けば、あまりどころか他人のことを言えなくなってしまいます。(問題にもよりますが)悪いことの一つの側面でその人すべてをおおいつくし決めつけてしまう。


「(言っているわたしは)どうなの」





(返事に困ることが多いわたしですが、あえてこたえれば)

「私は悪気はない(なかった)んです」




難しい(わたし)を見てしまうものです。

余韻

 充実した昨日の休日が終われば、通常の仕事に戻ります。いつも外にでて交流ことがないですから本当に楽しいものでした。あまり引きずりすぎれば周囲に嫌がられますから早めに現実に戻ることにします。

大学時代、食事を作ってくれるおばさんの小さな子供達と仲良くなり、一緒に泊まって遊び、口実として外出してよく遊んだものです。気がつけば私の子供達もその遊んだ子供と同じくらいになっています。

職場の友人は、子供達と共に遊びに出かけていました。帰ってきたのを出迎えれば、顔が楽しかったことを物語っています。子供の頃他所の人と楽しく遊んだ思い出はよく覚えているものです。楽しければ楽しいほどいいもの。

友人に感謝です。

初め私も誘われましたが、私が一緒に行けば親ですから何かと注意せねばいけませんし、あの子達も私がいれば私の存在を視野に入れていますから、たまにはいないほうがあの子達も友人も面白いだろうとお任せしました。

帰ってきてあの子達は、楽しい余韻に浸っています。

「楽しい時が永遠に続けばいいのに」

つらく悲しいことが永遠に続かないように、反対もまたしかりです。


出逢えば別れがあり、好きがあれば嫌いがあり、愛があれば憎まれることもあり、生きていればやがては死ぬものです。


悲しいことを書いているわけではないです。あの子達も私も少しずつそうやって自分と他者と向き合い成長していくのだと思います。


意の如くならざる世界をできるだけ、辛いことも嫌なことも笑いながら過ごせていく時を過ごして行きたいです。

講師依頼

 今月の初めに、講師のご依頼があり慎んでそれをお受けさせていただきました。始めから数えれば今回で4回目となり、間隔は大体一年に一度といったものです。

あまり呼ばれることがないのでよくわかっておりませんでした。お地蔵様の縁日である24日に講師の方を招いての毎月の行事であり、長い年数続いている行事です。主催されている方もしっかりされているのできちんと謝礼も出ます。

私はそのあたりの無名な人です。ただ私以外で呼ばれる方はその道でも有名な方が呼ばれています。少しではなくずっと疑問がありました。今日は聞いてみなければわからないことなのでお尋ねしてみました。

「なぜあの高名な先生も呼ばれてるようなところへ、私が呼ばれたんでしょうか」

少し間があって、微笑みながら

「あなたとならば気楽だからかな」

確かに私の方が年下です。また地位肩書きもありませんから大納得です。講師に求められる話の内容は「仏教で有難い話になればなんでも」そういうことなので内容の指定もありません。初めに伝えてくれました。

「30分は最低でも話をしてほしい。ただのってきたら一時間くらい話を続けてくれてかまわないです。」

「そうですか、わかりました(ふむふむ)」

声をかけていだいた初めての話、私は私を見つけて光の当たるところへ出していただいたこと、この場を与えてくれたことに心から感謝し、必死に話をしました。無我夢中で時が過ぎることを忘れていたことを覚えています。

終わったとき主催の方は目を大きくして喜んでおられました。控室に戻って

「よかったよ、きっちり一時間、今年呼ばれた方の中で君が一番いい話だった」

期待に応えられたことに胸を撫で、帰宅して包みをあければ謝礼がそれなりだったことに家内と二人で驚きました。よく考えれば主催の方は高名な方にも私のような無名の方も謝礼は一定にしているようです。人によって差をつけていません。

あの初めてから今回で4回目、必ず講師の紹介をされてからはじまります。控室のときの話と違うことを話されていました。

「質問を受けたのです。講師の選定基準は何か、どうして私が選ばれたのか、それは地位・名誉・財産でお呼びしているだけではありません。目に見えないものを基準にして選んでいます。目には見えないのですが私(主催者)と彼の間にみえない縁がつながっていて、それでお呼びしているのです。」

そのようなもっと高尚な言い方であったようにも思います。私が言いたいことを私の言葉であらわすより、以前にもだした先生の話がわかりやすいでしょう。

仏教は「空」を説くわけでございますが、インドでもほかの学派のほうから空ということは、実践を破壊するものだという非難がありました。ところが仏教の哲学者に言わせますと、そうではないというのでございますね。空であるがゆえに、われわれは実践し、人格を修養することができるというのでございます。たとえば、人間の内心を考えてみますと、むさぼりとか、怒りとか、嫉妬とかいろいろの悪徳を仏典でも数えております。もしもそういうものが特別の実体としてずっとあるものだったら、いくら修養しても断ずることができない。ところが、本体は空だ。だからそれを断じて、そして徳に転ずることができる。したがって、空こそ実践倫理を成立させうるものであると、そう申しました。空の考え方に基づいて「慈悲」が出てくるわけなのでございます。もしも人と人とが対立してる、この二人が絶対に別のものでしたら、相手の人にいたわりを持つとか、同情を示すとか、愛情をいだくということはありえないのでございます。どこかで見えないところでご縁がつながってるわけでございますね。だから「我」と「汝」と相対立しているけれども、決して別の人じゃないんで、目に見えないところでずっとつながっている。それが空の理論でございます。空にもとづいて慈悲が成立すると、そういうように説くわけでございます。
「対談 東洋の心-日本の心の原点を探る- 諸橋轍次・中村元」



優れた方はその身に「空」・「般若(智慧)」・「慈悲」を身にまとうものです。

たとえ普段がぱっとしないからといって、すべての面がぱっとしないことはないです。その人にとって素晴らしい側面はどなたにも存在しています。その側面をとらわれなく理解しあえるとしたならば、対立を離れ対立があったとしても縁によってつながっていると私は思います。

私のつたない極めて狭い善い側面、とらわれなく見て共感していただける方に私は縁を感じるのです。



さて、今回の話はどうだったのか

終わった後に何度か突込みと要望が入りました。出来はともかく私としてはそのツッコミがとても楽しいものでした。


(次にまたご依頼があるのか、神ならぬ仏のみが知るのでしょう)

夜空の三日月

 夜空に浮かぶ三日月、雲ひとつ無く星もきれいな夜に子供たちをスポーツに送って行きました。
長男の友人に誘われ始めたスポーツ、長男とべったりの次男も一緒にはじめ、二人仲良く続けています。中学校に入ってからも同じスポーツするのかなとたずねてみました。

「せっかく何年か続けているし、道具も揃っているし、中学校に行ってもやるんでしょ」

「うーん」

どうもあんまりやる気が無い返事です。あまりスポーツも勉強も強制したくはありません。ただ何もせずぼーっとして力を余らせることも私は好みません。なのでスポーツをしないのであればそれに代わる何か役に立つことに時間と体力をつかってもらいたいんだけどね、なんてことを長男に言えばしばらく考え込んでいました。次男にたずねれば

「サッカーしたい」

「いいよ、思う存分やって」

女の子のことは私はわかりません。かといって男の子の全てもわかりませんが、子供の頃

「こうであったらもっといいのに」

そう思ったことはよくおぼえています。だからスポーツの無理強いとか、勉強だけやたらおしつけるとかはできればしたくないのですが、お節介と余計な口がついている私はときに押し付けようとします。できるだけ私が素直に感謝し、謝るべきところは子供にも素直に謝っていきたいです。間違いを早めに認め謝罪したいです。そうでなければ良いこともあの子達に実感が少なくなるなんていつも思います。善いものは善い、悪いものは悪い。その極端と中間をふらふらと行き来する自分自身を見つめて欲しい。私もあの子達にもと思う願いの一つです。

そうでなければ、私たちはあの三日月や星たちのように輝いて見えないでしょう。

他人からみて輝いて見えるなんて理想です。ただあの子達が「あらかじめなされるべき努力」をもって、いつの今でも私があの子達に伝えたいなんておしつけを思っているのです。



「あなたたち、輝いているよ」

どうやら

 三男坊(四歳)はまだ学校に通っていませんから、ゲームを楽しそうにしていることがあります。ただずっとゲームばかりされても困ります。
頃合いというものが世の中にあり、大抵は近くにいる年長者つまりは大人が注意しなければいけない立場となります。
ここは仕方ありません。可愛らしいけれども「けいくん」へ

「もうだいぶ時間経ったから、やめようね」

「おとうさん、ちょっとまって」

「そっか、ちょっと待つね」

「うん」

しばらくして

「もうやめようね」

「おとうさん、もうちょっとまって」

「そっか、ちょっとだけだよ」

またしばらくして声をかけます。

「もうやめましょう」

「ちょっとまって」





「ちょっとじゃないよ、ずっとまってるよお父さんは」

慌てて片づけています。

ただ家には後二人息子がいます。長男はどうか

「お兄ちゃん、やることやってないならやってから遊ぼうよ」

「ちょっとまって」

「わかった、ちょっと待つよ」

しばらく何かをして時間が過ぎます。

「もうやらなければいけないことをしようよ」

「うん、わかった、ちょっとまって」

「ちょっとだよ」

私が何かをしているうちに時間は過ぎていきます。

「お兄ちゃん」

「ちょっとまって」






「お父さんは、ずっと待ってるよ」


三男と長男の間に次男がいます。

「やること終わっていないなら、終わってからしてね」

「うん、ちょっとまって」

「わかった、ちょっとだよ」



以下同文


どうも子供は「ちょっと」が好きです。


ああそうえいば、私も家内に何かあるときは「ちょっと」なんてことをよく言っています。

あの子たちはどうやら私の子供みたいです。

柔軟

 仕事もそれなりに充実した日、無事に仕事が終わって自宅に帰ろうとすれば、いつもお世話になる方に呼び止められ、ひょんなことから道なき道の山をしばらく登り降りすることになっていました。

小学校を卒業するまで遊び場のほとんどは裏の山々を駆けまわっていました。飼っている犬と一緒に走って薪を拾いにいって、下りは倒れた一本の木を斜面を木を引きずりながら降りていました。

もう40も過ぎて、以前のように走れば事務仕事や読書やパソコンの前に座ってばかりの身体は少しの運動で身体が言うことを聞かなくなっていました。運動不足と年齢の経過、ライフスタイルの劇的な変化です。

以前ど田舎の実家の山に20くらいの頃、父と一緒に見回りに行き、まだ若かった私は下りは滑るように駆け下りて元の道へ戻れば、追いかける父が「俺も年を取ったな・・・」そう今の私の年齢位の頃につぶやいていたことを思い出しました。

スポーツマンの父は体力はあります。ただ若い子の柔軟性が歳とともになくなっていったことを感じたのでしょう。

私の駄目なところは、面倒なことを嫌います。スポーツや運動をあまり得意でないために積極的にすることがなく、人に言われれば反抗してもっとしないなんて始末です。

春になろうとしています。冬に蓄えた金銭ではない体内の余分なものをそろそろ散歩などで少しずつなくしていこうと思います。そういえば家内も冬はいつも顔が夏よりまるくなっていますから、誘って同じ時を過ごそうと思います。

色んな事を素直に受け止めたいです。

まだ

 11月下旬の結婚記念日に三本のバラを花屋さんで買ってかえり、あの人に渡したバラ。

三本の内、二本は頃くして散ってしまい、残りの一本は美しく咲いていました。

「暖かいところだと早く枯れてしまうから、玄関なら暖房つけないので、長く持つんじゃない」

「そうしておく」

それからずっとあのピンクの上品で美しい形のバラは咲いたまま、朝と夕方私を出迎えてくれます。

「まだ綺麗に咲いてる」

あれから二ヶ月弱、少し弱ってきたものの、まだ綺麗に咲いています。長男坊が少し前に

「これプリザーブドフラワーじゃないの」

「普通のバラだよ」

もうしばらくあのバラは咲いていそうです。確か値段が一輪三百円(とちょっと)でした。冬のバラや蘭など、シンビジウムを贈ったところの花もまだ美しく咲いていました。

花が生活の何の足しになるのか、そんなことを以前はよく思っていました。少しだけお金はかかりますが、花を楽しめるということは生きることを楽しめることだなんて思うようになっています。

うまくいかないこと、いつも殺風景であれば一輪の花に元気をもらうなんてこともあります。

「物言わぬ花」と話をしていないのだけれども話をしているのです。正確には上品で美しい花になった自分と話しているという表現が意外とせいかくなのかもしれません。一つの例として



「美しいですね」と語りかければ、誰かが「美しいでしょう」そうこたえるのです。

今日でしょ

 毎週というわけではないのです。日曜出勤の際に最近は自動車通勤が多いです。その際日曜朝のラジオを楽しみにしています。

ラジオ版 学問ノススメパーソナリティ 蒲田健さんの番組です。(クリックすればそのHPに飛べて、気になる方の話を聞けます。)

昨年のある日、いつものように聞いていたら、軽快におもしろくもあり知性のある話をされている方、この人はと思っていたら「内田樹先生です」と紹介があったとき妙に納得してしまいました。様々な分野の方が出演されています。

そんなことを友人と話していましたら、これひょっとしたらHPにあるんじゃないのなんてことになって探したらやっぱりありました。親切に昨年の方もまだ載っています。気になる人をクリックして時折聞いていたのですが、「いつやるの?」で有名な「林修先生」も出ておられました。

林先生の話楽しいもので、すぐに感化されやすい私、林先生の本を購入してみようと思ってしまいました。これ私が本を買うなんて凄くめずらしいことです。(だって大抵借りてよんでばかりですから!ちっとも自慢にならないことを自慢しておきます)

本は本当にコスパの高いもの、最近は私のようにあまり外に出ない人にでもamazonとやらで新書でも中古でも、クリックすれば自宅に届けてくれるもの。

しかも!

世間的に有名な人の本なら皆買うので、中古市場も飽和状態になって、送料は別として本一冊1円とかよくある話。

「あの有名な先生の本で、素晴らしい書物なのに?」

なんてことがよくある世界。

ということで、二冊中古で早速購入して読破してみようと話を聞いてみたら思ってしまいました。



「あなた私の本いつ買うの?」


(タイトルに答えを書いておきます。感想は後日しるすことに)

都合

 日が長くなり、少しずつ気温が上がるにつれ、白梅・紅梅などに目を奪われます(一瞬時がとまります)。

のどかなのか、平和なのか、やる気が無いのか、今まで目前で起こったことに以前ならば動揺したり、恨んだり、怒りに必要以上にとらわれすぎたり、見当違いのことを考えすぎていたり、言わなければいけないことを言う相手を間違えたり、言わなくてもいいことをこれまた必要以上に言いすぎてかえって問題が悪化しすぎたり、なんてこともよくありましたが、最近は穏やかです。

問題が解決していないことは以前と同じで多いです。もう見向きもしないから楽になったとかいうのではなく、慌てず騒がずただ力まかせにしなくなっただけかもしれません。されど問題は問題、目前にあるのならば一つずつ改善していきたいと願っています。

どのように伝えれば、どのように示しせば、素直に受け止めれるのだろう。これは問題をよく出現させる方だけでなく、私も同じように私自身気がついていないだけであり、よく問題を出現させている。

相手が発することをどれだけ素直に「はい」と聞けるか・受け止めれるのか。


「問題の解決方法が自分にあることを理解した上であえて目を背け、誰かのせいにしている。」

「(あの人は)素直ではない」と思われることの一つ。


本当他人ごとでなくて、素直に「はい」と言えばいいことを何かしら色々言った上でようやく認めるとか・・・


自分にとって都合がいいことだけ素直にならず、全体的に素直なことが自分も他者にとっても喜ばれるような、素直な人になりたいです。

春の

 近所にみかんを100円で(袋にいくつも入れてあって)売っている無人販売があります。みかん好きの家族、特に次男坊は走って何個も買ってきていました。「けいくん(四歳)」もお兄ちゃんの楽しそうな様子いつも見ていましたから
「みかん買いに行こう」
少し前から置いてありませんでした。
「みかん、ないねえ」
家内に昨日はなしていました。どうも今年のみかん販売は終わったと書いてあったそうです。

みかん好きな家族のために、「けいくん」と二人で近くの野菜などを地産地消販売をしているところへ散歩ついでに行ってみました。大根が50円とか60円とか大きさによって違います。時期の野菜は比較的安めです。お目当てのみかんを探せば何人かの販売者が一袋割と入っている200円前後のみかんが幾つかありました。
「けいくん、どれにする」
「これ!」
比較的玉の大きなみかんを選び自分で持っています。
「これおもい」
そう言いながらも自分で持って行きたいようです。この辺りまだ田舎な場所と発展している場所とが入り混じって、近くの生産者が持ってきて売ってもらえる場所が幾つかあります。スーパーよりお得な値段の時がありますから、安くいいものを買えたときは、嬉しいです。

家から少し離れています。道中の家々の庭には様々な植物が植えられています。赤い花の咲いている多肉植物のアロエ、緑をたたえる松、寒い時期から咲き出す梅、椿やさざんかの花を野鳥がつついていました。

柑橘類には鈴なりの檸檬や他種類がみわけられないときは、「まあ、みかんだねあれは」なんて言ってごまかします。この時期枯れたバナナの木、花好きの家だとかいろいろ見れて楽しいです。そんなことをしていれば、家につきます。

あの子(けいくん)も遠くまで歩いて楽しんで帰れる様になりました。春から幼稚園、友達何人もできるといいね。

寒い中、白く咲き誇る梅が美しいと思った休日でした。

指摘

 うまく(計算通りに)いかないことが多い。気がつけば無いものを欲求する。

美しいものを見れば求めようとする(距離を近づけようとする)。

穢れをみて、穢れを離れようと求めすぎてしまう。

善い人がいれば少しでも長くそばにいたい。


以前友人たちと夜遅く話し込んでいたときに、指摘されたことがあったことをふと思い出した。

私は大切なことから逃げることが多く、大事なものを気づかないことばかり、そんな自分を見ようともせず、かといってそれに代わる何かをしてもいない。

「早く向かい合わなければいけない」

それを少しでも早くしたい。賢いかたならば早くから自分なりの何かを継続している。

「それは天才じゃないか、天才だけがすべてではないだろう」

そのような問答をして、うまくこたえることができなかったことがどこか宙に浮いたままだった。


素晴らしいものにとらわれている自分を指摘されていたのだろう。

愚かで減らず口の私、反論をする。

「悪いものにとらわれているより、善いものにとらわれなければいけないだろう」


知らずによいことを行う方を見る。とらわれがないために自然体となっている。それこそ目指すところだと思うことがある。

善いという善いにとらわれ、善いしか見えていない。誰かに「かたよりすぎではないか」と指摘を受ける。悪い人より善い人からの指摘が多いだろう。

それを「とりまぜにしてね」と言われる。


一つの比喩として

悟りたいと激しく願うこともまた一つのかたより。

誰かならば指摘するだろう。

「悪いことを願うよりいいではないですか」

本当それだけでは狭い、狭すぎるのだよ。

善いを願い、善いをつきぬけていく。

停滞はいけない。川のように流れていきながらも、流れ過ぎて帰ってこないものでもない。


ただ理想にはるか遠い私、仕方ないので中身はともかくわからなければあえてとらわれてみる。


言葉をただ多く並べても響かない。

言葉を否定して、言葉をもってあらわしたい。




逆行

 以前からなのでしょう。同じ人もいるでしょうが日付と時間の概念が割とないです。
意の如くならざる世界から目を背けているだけなんて現実逃避の一端かもしれません。だからといって親であること、仕事をしなければいけないことなどはいくら目を背けても、「働かざるもの食うべからず」という現実は常に眼前にあります。
視点を変えれば、人と違うところが見たいと思っています。そんなこと思っているのに人と同じことや人が大分前にきがついたものに目を奪われていることばかりの日々です。

いつも家族のために専業主婦として家内は自分の仕事をこなしています。私が外で労働の対価を持って帰ります。昔で言えば「山へしばかり」です。家内は「川へせんたく」でしょう。

現実、貨幣の数値によって左右され、動かされ、確固たる指標とされています。だからでしょうか専業主婦という言葉が「今は家で楽して、役割を全うしていない」と思われたり、「外の世界に出て貴方も労働の対価を金銭であらわしなさい」という態度と、そのような人を優遇していく社会へと移り変わっているようです。

自由を尊重しているのに、男性と同様の労働環境と対価の保証を声高らかに宣言する社会とでもいうのでしょう。

不埒で愚かな私は時折思います。専業主婦が好きな私の家内のような人もいます。見ていれば楽をするために主婦でいるのではなく、時間が空けば家族のために金銭にならないのに身体を動かしています。またそれを喜びとしています。

どこかの記事に、夫婦共に働くことがあたりまえである社会にとって、主婦に変わる労働力の対価を金銭であらわした計算がされていました。二人が働き家庭のことはプロフェッショナルの家事育児の方にたのめばかなりの金額が発生するということが載っていました。それなら他人にではなく自分が愛情を子供と主人に注いであげれば、金銭は入ってきませんがよりよい人間関係が結べるなんて思う人もいます。

私は家内へ言います。

「少しくらいお金に不自由していても、愛情はお金で買えないのだから、あなたはそのまま(愛情を子供達と私へ変わらず向けて)でいてもらいたい。(先進国でも仕事より大切にする家族とのお金を払ってでも優先することの一つなのだから)」

なんて私がきれいごとを心の底から思っていても、現実社会はその方向性ではすすんでいないようです。

「お金を稼ぎ、社会や民間の施設に昼間はずっと他人へ預け、子供へ愛情を注いだりしつけをしたり学ぶことも人に任せ、家で過ごす時間は体力と精神をすり減らして仕事から疲れて帰った後に十分に両親が子供へ愛情を注いであげることにつかってください。」

そのほうが貴方と子供達にも安心な老後と快適な社会になります。

私は変わっていますから、時代に逆行して、「専業主婦最高だよ、だって自分が信頼できる人に子供をずっと面倒みてもらって、私の面倒もみてくれます。その方が私は安心しています。」

本当文章に書けば、ただの金銭がないことへの言い訳と私自身の変なかたよった思いがでているだけの文です。




しょうがないです。他の人にはおかしいと言われても、私と子供達と家内はそれが一番ぴったりとくるなんて話なのです。

甘い(わたし)

 高校(男子校)の頃、仲良い数人の友人の中の一人は、いつもこの日がくれば私へ言います。

「どうしよう。おれ家に帰れないかもしれない。」

「なんで、帰ったらいいじゃない」

「ほら今日はバレンタインでしょ、校門に待ちかまえている女子が大勢いるから、でれないんだよ
モテル男は困るぜ」

「ふーん」

昼休みに校門の方を校舎から見下ろし別の友人が言います。

「誰も並んでないからいけるんじゃない」

「放課後だよ」

「そっか」

放課後になり、下駄箱で靴を履き替え、皆で校門へ向かいます(というより下校しています)。

「女子一人もいないけど」

「自宅の周りで待ち伏せしているから、やっぱり家に入れないな今日は」

「そっか、気をつけて」

毎年そんなくだりがあった日です。

今は就職して結婚もしています。職場で年配の女性からチョコレートをいただいたりします。甘い夢を見ていた若いころ、お返しのことなんて少しも考えていませんでした。もっと甘いのは自分をみることがない私の考えですが、それもまた甘い思い出の一つ、あの頃の友人に年賀状などの交換があれば思い出します。

「また会いたいね」

バカなことばかり言って、バカなことばかりして笑っていました。現在はあほなことを言ってあほな自分を見て笑ってしまいます。


あほなことで笑っている時間と真剣な時間の両立、怠け者の私は笑っていれば何かを思います。

(自らへの)戒め

 誰かがよく騒いでいることを見かける。何故騒いでいるのかと思えばどうも揚げ足をとろうとして重箱の隅をつついている。騒ぐ誰かは問題だ。ただ重箱の隅をつつかれる人を皆の話を聞いていれば若いせいか問題はある。ちょっとのことでも騒ぐから、おかしいから、どうもそれだけでもない。騒ぐ人以外の話や実際にその人がしていることを見ていれば問題がないとは言えない。

誰かが騒ぐだけで人を激しく注意しない人だっている。実際に自分の目で見て問題が多いことを自らが傷つくことを覚悟で厳しくいう人も稀にいる。いつも大切なことを伝えてくれることを目を背けたり誰かのせいにして問題をそらし反映させない。変な優しさでごまかせば、やがては自分に返ってくるだろう。身近な人が言うことも気にしなくていい。他人が言うことなのだから、問題の本質から目を背け続けるといい。背負えないものは背負わない方がいい。ただ一つの問題だけであのいつも優しい人が他人へ怒り注意することはない。今までの行いが目に余るのだろう。
わからないなら聞けばいいと言う。何がよいか悪いかどうなのかがわからなければいつもいるのだから聞けばいい。
他人が(自らを)悪く思われても激しく注意することを気にしなくていいなら、そのうちそんな人には地位・名誉・財産に頭を下げる人だけが近くに残るだろう。誰が身を削って注意することをおろそかにするものに真剣にこれから相手にするのか、それもまた誰かと何かのせいにして正確な判断や大事なことの決断を先延ばしにするなら、何も気にしなくていい。

他人のことはさておき私は

オイ コラッ(それはだめでしょう)」

と正しい知恵をもって示される(不動尊の如き)方がいれば、こちらも正しく受け止めたい。



いつだって誰かと何かのせいにして目を背け逃げ続ける姿を私自身にも子供達にもあまり見せたくない。

気分転換

 子供達の卒業と入園・入学がせまり、家内は説明会・準備で慌ただしくなっています。私はマイペースなのです。任せるべきところは家内に任せて、仕事と休日にゴロゴロしたり、家内にベタベタしてみたり、酔っ払ってオヤジギャグを言うことが忙しい毎日です。

気分転換に子供達を近くの遊技場へ、あまり連れて行かないせいか汗をかくくらい盛り上がっていました。少し前までは子供を差し置いて私の方が一人で盛り上がっているなんてことばかりでしたが、私も大人になったものです。(正確には歳を取り過ぎて老人に近くなってきているようなきがします)

バレンタインデーが近づくとそわそわするなんてことも無くなってしまいました。誰でもいいから綺麗な子が(誰でもじゃないじゃないなんてつっこみはともかく)私にくれないかなとか思ったりもしなくなりました。

中学と高校は男子校でしたから、女性からもらうことがなかったのです。大学でも女性がほとんどいないなんていうところでした。なんせ100人中二人くらいしかうちの学科に女子はいませんでした。女子がいることにかなりびっくりしていました。

社会人になれば義理チョコや彼女が欲しいから自分の限界を打ち破り彼女ができるよう努力しました。人は私のことを女好きだといいますが、男子校や男ばかりの環境で育ったから、女性とどう話してよいのか、女性がどのようなものか、縁遠い私は女性とよく話した思い出は小学生くらいです。

最近は誰とでもなんでも話せますから、ただの女好きのオヤジギャクが言いたいだけのちょっと変わった人だと思われているようです。猫に鰹節みたいに私に女性なんて思われているかもしれませんが、本当はシャイなのですよ。(誰もしんじてくれませんけどね)

ある時期に変わりたいと強く願ったので、そこから何かが変わったのです。女性のことだけでなく今は何でもそうなのかもと思います。大きなショッピングセンターに行けばバレンタインのチョコが沢山並んでいます。女性がそれを楽しそうに選んでいるのを遠巻きにいいものだなんて見れるのも、私には家内がいるからです。甘いチョコがなくても、私は家内との甘い生活がありますから、もっとも子供がその間に割り込んできますので、困っています。

あの子達も家内が大好きです。

好きの概念、愛するという概念、優しいという概念、人によって違うものです。

あの子達が大人になればどんな好きや愛の色・形になっているのか楽しみです。

いつも思うことですが、(私より)少しでも早く何かを見つめて欲しいです。何かは人によって変わるものです。ただ少年が海辺で貝殻や自分にとってたからものだと思えるものを果てしなく広い砂浜で見つけ目をキラキラさせている。あの子達も私も死ぬまで何かを見つけて目を輝かせていたいとあの子達には勝手なことを願います。

何を見たくないか

 何か不測の事態が起きたときに、近くにいる優しい方は誰よりも決断が早い。その不測事態を予測していたかのように一つ一つ諸問題を解決していく。かなり遅れて私は決断を下し、動いている。

どうも人による。時にその問題による場合もある。複数見ていれば問題そのもより、その人が問題となる場合が多い。不測事態を自分より早く予測しているように見える人がいる。当然遅れて予測しているように見える人もいる。常日頃に起こる問題があらわれ誰かが悩まされていれば、いつも身近な優しい方の決断速度は他を圧倒する。

「一回や二回であれば偶然じゃないの」

そんな問いが発生する。何度も繰り返して(その方の正確で早い対応が出現すれば)、自らによってそれは消えていく。

「何故そんな速度で対応できるのだろう」

かなり遅い私は考える。宗教と哲学という題において次のことを引用されている。

「主体的問題は主体性そのものにかんすることであって、事象に関する問題ではない。つまり、問題は決断ということにあり、すべて決断は主体性の中にあるから、そこには客体的には事象のあとかたさえない。
なぜなら、事象が問題になると、主体性は決断の苦痛と危機をいくらか眼をそらせ、問題をいくらか客観的にすることになり、それにともなって決断が延期されることになるからだ」(キルケゴール『哲学の断片への後書』)
存在の分析〈アビダルマ〉櫻部健・上山春平著より引用


先のキルケゴールの引用の文章における主体的や主体性を「わたし又はわたしの」に事象と客体的と客観を「他人」という言葉に変えてみれば今までの疑はどこかへ消え、新たな問題が出現していく。

「わたしの問題はわたしそのものにかんすることであって、他人に関する問題ではない。つまり、問題は決断ということにあり、すべて決断はわたしの中にあるから、そこには他人には他人のあとかたさえない。なぜなら、他人が問題になると、わたしは決断の苦痛と危機をいくらか眼をそらせ、問題をいくらか他人的にすることになり、それにともなって決断が延期されることになるからだ」



遅いまたは気づかない。解決するそぶりだけを見せる。努力をしない。自らが傷つくことを恐れて安易な優しい振る舞いだけを続ける。他人のせいにして問題をいつも終える。自らを見れば解決するのに他人の真相をみようとして時間と労力だけが過ぎていく。そんな(私の)悪いところを知らなければどうにもこうにも先に進めそうにない。
あまり「見ない・聞こえない・見る気がない・誰かと何かのせいにして何もしない」そのようなわたしは多く出現させたくない。けれど気がつけば出現してこまらせる。

ぱっとしない(私)

 いつも何かをここへ紡ぎだすようにあらわしていく。一つの例として

「さとり(解脱・涅槃)をここへ書きたい」

問いがむけられる。

「(あなたは)さとっていないのに、どうしてさとりについて書けるのだろうか」

お経にお釈迦様の言行が(多少の変遷はあってもその本質)が成道(悟りを開いてから)後の40年、完全なる涅槃(入滅つまりは人間としての死)が残されている。

私はお釈迦様より、かなりあほうで愚かな私のことを書く。誰かよりも私が一番わかることもある。私はさとれていないと。
無数存在するもののなかから私の愚かな行為や思いや言葉は本質のおぼろげな姿を出現させることがある。悪いことであればその対極、私の数少ない善いことがあるとすればその延長線上または果てしなく広く大きく高い真理の前提の前提や手がかり足がかりになるのでは、そんなことを思う。実際は役に立たないということでお役に立っている人もいるかもしれない。

何かとは、こころを描こうとしている。無味無臭であり目に見えないこころ、私の心であれば心肺停止状態になり、生物としてのいのちが終われば、これから新しい変化を出せない。

こころは何かによって影響を受ける。何を受けどう変わって保持していくのか。どう変わりたいのか。どのように継続していくのか。生命の飢餓状態になればこころは何を求めていくのか。どうあろうとするのか。

内に向けなければいけないことを(ひたすら)外に求め、わからないものを違うわからないことを理解して、さらにわからないことが加速していくその連続。



最近はまたよくわからない。

定番

 春がくる前の寒い時期、今頃母は生まれました。母の三番目の子供として同じ月日に私も生まれました。

恒例のご挨拶です。「誕生日おめでとう」そう言えばそう返ってきます。お得なことといえば家族がその日を忘れないことと覚える労力が一つ少なくなることです。母のお祝いがあれば「そういえば」なんてお得に私がついてきます。

今実家より遠方で住んでいるため、うっかりしているときを除いて何かを贈ります。花であったり家内が何かを買ってきていたり、今回はうっかりしていましたので、ちょうど珍しいものを目の前でたまたま売っていたものを近くの人が買うといっていましたので便乗して、即座に送ることにしました。品物だけ送るというのも抵抗がありましたので、近くにあった便箋にすらすらと手紙を書くのです。

「誕生日おめでとうございます」
          (花よりうどん)

            ◯◯・◯◯


(◯には私と家内の名前が書いてあります)

中学から家を離れているから、久しぶりにてがみを書けば他人行儀な言葉になる私です。ただ珍しく贈答用のうどんを目の前で売っていたのも縁です。ちなみに私も贈答用ではなく家用に小袋に入ったものを購入しました。

このあたりでは「たらいうどん」が有名です。正確には住んでいるところより西地区の山際になります。これもまた何かの縁で家内が立派な「たらい」をいただいていました。

「たらい」といえば回す。

「たらい」といえばお寿司。

いやいやこの辺りなら「たらいうどん」ということで貰って使わないのも勿体無いですから、手巻寿司と「たらいうどん」に早速つかいました。

何でもそうです。新しいものですし、白木の木目が美しく、テーブルに並べればちょっと豪華に見えます。たらい一つで意外と変わるものです。


喜べるもの、私は何でも受け取ってしまいます。




喜べないもの、近くにいる人へたらい回しです。
(おそらく見ている人が思っていることでシメれたはずです)