聞こえてきた鳥の声、(私の)心あり

 よく調べもせず、たずねることもなく、雰囲気を察するだけで、つまりは自らの無知を知らずして、根拠なく発言することにきがついたときに、恥ずかしいこと悔いあらめなければいけないこと、過去において行われているのであれば消すことができない。

そんなことを思い知らされる出来事があったのです。他の方が不真面目で几帳面でもなく、つまりはだらしないからと自らの非を責任転嫁する発言をしても、余計に見苦しいこと。

相対する方を冷静になる話し方を心がけねばと今更謝ることができない方へ謝罪したいです。ただ私が放ったものを倍加して返されることのほうが多いことばかりです。善いものを放てば帰ってくれば嬉しく、悪いもの放てば帰ってくればただ黙ってそれを受け取るしか無いだけです。そんな私に優しい言葉をかけてくれたり聞いてくれたり、ここへ記すことに共感してくれる方に救われることばかりです。

以前、法華経に関する書物を二冊ほど読了したのです。もっとそのお経自体も解説書であるものも読まなければいけないのですが、怠け者の私はそれを疎かにしています。それもいけないことですから、新しい法華経の解説を読み始めました。

法華経の信奉者は数多いのですが、お経を信奉していますというより、「南無妙法蓮華経」はお経の題目を有難いと唱えることでもありますが(私の信ずるところの宗派は真言宗ですから題目は唱えません)、ただ単に仏が説かれた真理(大乗経典)である法華経、正式には

「サッダルマ プンダリーカ スートラ」(直訳すれば「正法の白蓮華の経」、「白蓮華のような正法の経」などとなる。竺法護は「正法華経」と訳し、鳩摩羅什は「妙法蓮華経」と訳した)とし、諸仏の共通に説く究極の法として位置づけた。
『法華経入門』菅野博史著作より抜粋


また同著作の冒頭には

私はこれまで『法華経』を読み、研究してきたが、『法華経』の思想を一言で表わせと求められたならば、どのように答えたらよういであろうか。この問を前にして、私は『法華経』に登場するある不思議な人物を思い出さざるをえない。彼は、自分の出会う人すべてに「私は深くあなたたちを尊敬する。軽んじあなどろうとはしません。なぜならば、あなたたちはいな菩薩の修行を実践して、成仏することができるであろうからです」と語りかける。つまり、彼はすべての人を未来の仏として尊敬するという実践をしたのであった。ところが、周囲の人は彼にきわめて冷淡であり、そればかりか石をぶつけたり、杖で打ち据えたりする。それにもかかわらず、彼はこの実践行を一生貫いたのである。この人物は常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)という名の菩薩である。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に出る「デクノボー」はこの常不軽菩薩をモデルにしたとされ、宮沢賢治自身が彼のように生きたいと痛切に願った人物である。


宮沢賢治の伝記を読んでも彼の生涯を調べても、彼と法華経は切り離せないことが幾つもの書物に載っています。

優しすぎる不器用で理想を追い求め、夜空を見てはその向こうにある数えきれないほどの生きとし生けるものの生ける三千世界を思い、どのような人にも「あなたは(正確には「あなたも私も」必ず仏となれる(この世で最上のものな)のだから」と言い続けたのでしょう。

ここのところ懺悔ばかり書き連ねるのは

*慚(ざん) *愧(ぎ)
(大善地法十種の中にある)それぞれ二様に解釈される。第一の理解によれば他者の徳に対する恭敬が慚であり、自己の罪に対する畏怖が愧である。
第二の理解によれば、みずからを観察することによって己の過失をはじるのが慚であり、他を観察することによっておのれの過失を恥じるのが愧である。
*無慚 *無愧 慚と愧の解釈の反対である。
存在の分析「アビダルマ」―仏教の思想〈2〉桜部建・上山春平 (著)より引用



私は普段は器用です。ただ肝心なときには不器用なことばかりです。この世界で上手に生きる人は私のことを「器用貧乏」と呼ぶ人もいました。

家内にはかなり悪いのですが、器用貧乏な自分が意外と大好きです。それは肝心なときには不器用にしか生きれないということを改めて意味しているのです。


今年はじめて「ホケキョ」と澄んだ美しい鳥の鳴く声を聞きました。
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ほんと

 飽きやすい私は、飽きないように本は何冊かを平行して読むことにしています。気がつけばそれには少しルールが有ります。

何かしら書物を読めば、その書物には「これは凄い。是非読まねば。」というもの、つまりは新しい書物を私へ示してきます。その書物は、近くにいる誰かに「いやあ、調べてたら(まだ見ても読んでもないけれど)凄い面白そうな本を見つけて」なんて誰かと話してたら誰かが知らずに購入しています。財力と知識に乏しい私は持ってる人に本だけお借りしに行きます。

少し前から「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」と「存在の分析アビダルマ」や内田樹先生の本とその辺の何かの本と大分以前に買ったようなきがする割りと分厚いハードブックの本を平行して読み進めていました。

これ、当然私の読解力や知識力や漢字の理解力が足りないことにより、人より大分読むスピードが遅くなります。特に仏教書は専門的知識の理解を進めていかないと、目を通すだけではさっぱり読んだことにもならない(まあ専門分野ならどれもそうなんでしょうけれど)本ばかりです。読んで難解すぎたり漢字ばかりであったり、解説ばかりであれば、読むのを諦めるのではなく、違う読みかけの本に移ります。

意外とそれが難しい本を読むのに急がばまわれ方式になって、気がつけばどれもを読み終わることになっています。だって読みかけの本ばかりになったら折角目前に来た新しい本が読めないので、「これ以上読みかけを増やせない」という圧力が働いているからです。

「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」の和訳を読み終え、玄奘三蔵の生涯を駆け抜け涙していました。最後に日本に玄奘三蔵の舎利が安置されているお寺のことも記されていました。いつか玄奘三蔵の舎利の前でお経を読誦してきたいという願いがでてきました。

大学時代、母の意向で中国へ弘法大師「空海」の入唐求法の旅、追体験で大師が行かれた場所を訪問しお経を読誦したことを思い出しました。あの時獅子の中にいた私は「信」がなく、仏教がそこにあるのに仏教に入ることも見ることも聞くこともできていなかったことが悔やまれます。中国で仏教が盛んであった時の数々の遺跡を巡ったのに感銘を受けることもできなかったことを三蔵法師伝を読み終えたときに痛感させられました。
そこを理解できないことや感銘を受けなかったことが悔やまれることではなく、何も努力をしていない自分自身であったことが悔やまれて仕方がないのです。

現実を見つめなければいけないときに、本とまた出会うのです。

本と出会うことにより、過去と現在と未来に出会うのです。



まあ変なことですが、「ほんと」のことです。

少しでも

 ぼんやりと見つめているからか、日々起こることの波に慣れてしまったのか、「これだ」と思うことが起こりにくく、よって文章も左右されています。

色々あって(私にではないけれど)ここのところいつものように休日をとれていないことを言い訳にしておきます。


 何かあれば、近くの人に頼み事を来る人達がいます。その近くの方は優しく何を頼まれても自分のことのように(又はそれ以上に家族同然)優しく助け続けています。
何かがその行為によって去れば、頼んだ方は「ありがとう」といいます。けれど頼んだ方を見ていれば「ありがとう」の言葉が軽く虚しく、一時的にもならないようなことを困った時以外に優しい方へ返されます。けれどまた困れば助けをもとめてきます。同じように何度もできることをつづけておられます。いつか相手に本質が伝わるだろうと手を抜かれることが無いです。けれどいつ見ても返し方は「恩を仇で」といった返し方ばかりです。以前それについて何度もおたずねしたときの答えに
「よっぽどのあほでなかったら、こちらが礼を失わず出来る事を続けていたらわかってくれる。」
あれから何年も優しい方は困れば助けていました。今もそれは変わらないです。けれどいつも何か会って困る人は優しい方にこたえるようなことはしていません。言うのです。
「あの人(達)はよっぽどなんですね」
それを無言をもってこたえられています。やはり困れば出来る事を続けておられます。

私は考えや行いたいこと、真理の欠片を拾ったのではないか、嬉しいこと、悲しみ、怨みを誰かに理解してほしいと気がつけばその思いを持っています。

何かキラキラと輝くものを見つければ、優しい方に助けられているからそのお礼という名の名目でいつも話をするのです。笑って「ありがとう」とこたえられます。

一人では潰れそうでも、二人なら乗り越えられることがあります。

他にも時間の経過によって乗り越えれることもあります。

日々の継続によって乗り越えられることもあります。

あほになってしまえば、乗り越えられることも多いです。



私はなかなかあほなのにあほになれないから、時間の経過や近くの方(ふれあう人)たちに助けられ乗り越えてばかりです。



もっとしっかりしたことを書いたり話したりしたいです。

あれから

 気がつけば情けない私が出現しています。

やれ誰が苦手だとか、あの人は嫌いだとか、あまり会いたくないとか、お近づきなんてもってのほか離れてくれとか、そんなことを知らずに言っていました。

自分がしていることに気がついていない。なのに他人は批判する。また調子に乗れば角のある言葉を放っている。こんなことが出てくるから、「人の性分はなかなか変わらない。」なんてあまりよくない意味で使われてしまうことがあります。

「親しき仲にも礼儀あり」、「親しくなくければ余計に礼儀は大切なものだ」ということを忘れてはいけないと、相手が非礼なことをいつもしてくるからといって、こちらが礼儀を失えばどうしようもないことになっていきます。




あれから何年でしょうか

もう5年くらいたったはずです。気がつけば忘れやすい謙虚さを忘れないでいたいです。

あの時、この手にと思ったものはまだ手にとれていません。


ただ、それが何なのかは私自身わからないのですが、手を伸ばし続けていきたいです。

人によれば声をきくのか、その身にあらわすのか、わたしは望めばいつでも手にとってそれをさしだしたい。


漠然としたことですが、あの時も今もそれは変わりがないです。


「ほら、これですよ、あなた」


そんな言葉ではなく態度で、何かをだしたいのです。

つめたい

 気分転換にネットのニュースをあれこれとみる。どうもどれもがピタッとこない。何やら文字ではなくもやのかかったものをずっと読んでいるだけでしばらく時間が過ぎ、いつもそうなんだけれども、いつも予定をたてないことが多い。それなのに最近は予定をたてようとしている。予定を楽しみに待つ自分をみてさらに楽しんでいる。現実は予定通りにいかない。ささやかな予定なのだけれども予定通りにいかないことが多い。これならいっそ予定を立てなければいいのでは、以前と同じ自分にもどるようで厳密には違うものになるか、なんてことをあれこれと考えていた。

何かあとを残さなければいけないのに、そのあとが何も出てこない。

そんな日もある。ただそれでもいつも共にする人をみれば相変わらずの他者への優しさと配慮が身(と心)から出ている。その人とは反対に位置する人も見る。いつも自分(とその眷属)にだけ優しく、物惜しみがひどく、損得計算が上手で場合によっては親しい人をばっさりきることも厭わない。ただ誰も言わないからか「私は優しいから」と言葉で教えてくれる。

短く書けばどうだろうか、言葉ではなく態度によって出現する優しさを出し続ける方を「慈悲ある人」、反対の人であれば「あの人は無慈悲だ」となるかもしれない。
よく会話や言葉で伝えることが多い私も同じようなものだなんて思う。気がつけばそんな自分は無視できない。

簡単なことの連続(継続)ができていないから、違いがある。


せめて角のある言葉の使い方を減らしていきたい。

継続

 一緒にいなくて後であったことを聞いて怒っている人がいました。同じ場所にいて一緒に仕事をした人は同じことを聞いても怒っておらず普通でした。

注意して怒っている人を見続けていると、どうも誰かが失敗があることを歓迎し、あれば皆に言いふらしています。その後必ず「自分はあの人と違ってできている。」と何も仕事をしていないときでもつけくわえています。どうもそのほうが利益があるから続けてているようです。

何の利益か私はそれがずっとわからないのです。

騒げばかまってもらえる。自分が良いことをしているとアピールすれば認められる。誰かを悪くすれば自分は何もしていないのに良くなる。そんな理論やそれによって得られる利益の意味が相変わらずわからないです。

とりあえず悪く言いまわったり非難して何もしないのなら、関わらなければいいのになんて思ってしまうことを伝えても、やはり変わらないのです。

それならいっそ、失敗をよくする人を失敗しないよう教えたらいいのになんて言葉にしてもやはり変わらないのです。


悪く言えないと都合が悪いなんて理論もよくわからないのです。

もう少しめんどくさいのは、それを継続しているということです。


「継続は力なり」



(変なことの)継続の理解に苦しむ私です。

響き

 「思いもよらぬこと」
そりゃまあ、起きた時には思っていないことなんだから(あればいつも)驚いてます。けれどいつも(自分では)涼しい顔をしています(内心穏やかではないことは多いです)。

何か人前に出なければいけないことが突然多くなり、いつもと違って平静を保てない自分を見れば後悔します。例えて言うと新しい機械を購入し性能が素晴らしければ、人がその機械(の作動状況をみて)を褒めたたえます。
その機械が素晴らしいことを褒め称えているのに、私が「そんなたいしたことないですよ」なんて言って少し照れてしまうことに似ています。一緒のようで少し違うことに尊敬される職業だということもそんなものかもと思います。
まだ新人で右も左もわからなくても、尊敬される職業であれば「凄いですね」なんて言われるでしょう(私はそんなものではないし、言われないので実際のところはよくわかりませんけど)

そんな言葉や羨望などに浮足立つことなく、自らが行うことを正しく理解して向き合っていく方に尊敬します。

早朝まだ陽の光がどこにも見当たらないつまりは夜空、それでも朝です。ジョギングをする集団を見かけ驚き、日課なのかそれとも日曜に行っている集団なのかなんて、考えていました。落ち着く頃に夜が明けており、本日の段取りにかかりまいした。段取り9割、気を抜けばゆっくりしている私、段取りのことすら忘れていることもよくあります。
そんな時こんな私のために何かの段取りを進めてくれている方のことを思い出します。日々の何気ない段取りをしてくれる方に感謝します。

一つ、二つ、三つが終わったとき、「コココココ・・・」懐かしい音が聞こえてきました。

前の木にキツツキ(コゲラかな)が一羽ではなく二羽、杉を突いている音でした。

またキツツキに会えるとは思っていませんでした。誰かがキツツキを見て以前言っていました。

「凄いねあの子達は、体一つで巣を作って、餌をとって生きている。(人間一人ですべてを行える人は少ない)見習わないけない。」

そんなことを言う人も誰よりも日々努力されています。何かを見て素晴らしいことを思う人は本当に有難い人だと痛感します。

一つ一つ終わり、任せるべきところは余計なことは言わず任せ、一日が無事に終わりました。同じことしか言えないのですが、何気ないことが有難いことです。




本当、思いもよらないことでしたが、皆のお陰で何事もない(日をおくれた)ことが有難い日でした。




(つつかれる杉にはかなり気の毒ですが)あのキツツキにまた会いたいです。

ためになる

「礼節を重んじ、品性を害わない。」

思いついたまま感情で他人に言い放つ人に、そういえば通じるのだろうかと考えた。

礼節とは礼儀と節度、礼儀とは①社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式②謝礼。報酬。
節度とは度を越さない、適当なほどあい。
とは①物事の基準・標準とすべきもの。ほど。ほどあい。
②ア、生死の迷いの海を越えて、悟りの彼岸に渡ること。また、そうさせること。イ、仏門に入って戒を受けること。
ほど(程)、ころあい。程度


(広辞苑第六版より


話は全く違うものへ変わります。


「こんな人を見たことあるでしょ」

いつもばたばたして、大きい声で大丈夫問題ないですと何度も繰り返し、「はぁはぁ」言いながらいかにも私は頑張ってやっていますよと悪気なくされている。

「そんなん私とか、ばたばたうるさくされ続けた、そっちのほうがいっそ間違うから、なにもせんと静かにしとって」

まあこれ、本人はこれが正しいと皆は思っていなくてもただ本人のみが思い込んでいるから、いつもこういう始末でして、
こんなことばかりであれば、せっかくの自分の良いところを自分で(自らの考えの浅さや配慮や愚かさと深くない理解で)潰し続ける始末。


「動いているから、しっかりしている。言葉を早く多く言っているからしっかりしている。」


それも正しいときはある。しかし、いつも正しいとは限らない。逆に動かないほうがしっかりしており、言葉少ないほうが正しいときもある。何も言わないことが正しいこともある。


ほんと、いつも近くにいる人が示してくれるさまざまなことはためになります。

余計にね

 誰かが誰かのことを悪く言っているのではなく、起こったまま言っています。この起こったままはありのままの現実ということで、それを他人が聞いてその現状が悪すぎれば、「起こった」が「怒った」に変わることがあります。

同じ現状でも、知っていて悪いことをしている人を見ます。また違うところでは知らないがために悪いことになっている現状の人を見ます。

どうも知らなくて行い続けている方へ、「それは周囲から見ればこんな風になっていますよ」つまりはあなたがしてきたことは「こんなことばかりですよ」とそれとなく告げれば、「知っていたらしませんでした」となることがあります。

知っているのに、あたかも知らずにしているふりをして行っている人へ、「それは周囲から見ればこんな風になっていますよ」つまりはあなたがしてきたことは「こんなことばかりですよ」とそれとなく告げれば(ちょっとしらじらしい)「知らなかったんです」と言われます。

この知っていて行う方と知らずに行う方は、双方の理解に苦しむということをよく見受けます。

「知らないから損する」や「あほだ」とか、悪く言う前に教えたらいいのに、何故か教えることなく「誰かを悪く言っていれば、自分(または自分たち)は得するから、なにもせず誰かを悪く言うだけ」という手法を取られる方も見ることがあります。

さて、知らずに行っている方の中には、注意や些細なきっかけにより、自分に気づきだすと反省・謝罪し、よいことをしたいと願う方もいます。

なかなか自分の発言・行動を全て客観的に把握するということは困難です。ある程度予測したり把握するということは可能かもしれません。

私はよくことが重大な罪ではなく法に触れておらず、些細な日常のことであれば、「悪気がないからいいじゃないですか」そんな言葉をよく使います。それも簡単なことです。私がその代表だから悪気がないから怒らないでとか、いろいろわからないことやできていないことは教えてください。そんな意味で知らずに行っている人の話を聞けば他人事になりにくいものです。相手をかばうと言われればそれもそうです。どちらかといえば私をかばっている発言です。

誰かが誰かを何かのためにかばい支えようとしたり優しく接し時には怒ってくれる。安易にその人短所を周囲に吹聴してまわり続け傍観を決め込む、そんな人は「自分の見せかけだけ取り繕うスキルが高い」なんてことをされ続けても(私は)ちっとも嬉しくならないです。


ただ危機感を持つことが全く無いために、やらなければいけないことをせず成長のないさま(むしろ悪くなっているのでは)を見続けることも(私は)嫌です。


「悪気がないから」

本人にその気や危機感がいつまでもなければ、それ以上なんといってあげればいいか


平和すぎる代償なのか、(自分から自分を支える)恩恵が無くならないことにあぐらをかいているのか、何故勝手な判断ばかりして怒りっぽい発言ばかりなのか


悪い時なんて誰でも(特に私なんて)そうだろうと思うのですが、人のことになれば余計に気になるものです。

誰かの思う女性(達)

 若い男性の方と話すことがあれば(私の愚かでいたらぬ振る舞いの連続を教訓にして)

「男性は寛容・融和を忘れないように心がけてください。」

そう私のいかにもありそうな失敗談と共に言うのです。

女性の方は優しい方が多いです(あくまで私の体感上です)。余計なお節介だけでなく身の回りの細かな気配りは女性方にはかなわないし、素晴らしいことだと、そう言えば大抵の男女は納得されています(当然例外もあります)。

自らの欲しいものは与えることによって、違うかたちで他者からやってくる(内田樹)


(内田先生の本にそんなことがいくつものっていました。)

女性は自らを大切にして欲しい。優しくして欲しい。配慮して欲しい。(男性でもそう思っていますけれども)賢い女性達は先に行動が出ています。

男性は失敗・後悔・挫折と共に、遅れて優しさやあたりまえに気がつくもんですよ。失敗の多い誰かは自信満々に言います。

違う言葉であらわせば

他者をそこなうものは自らをそこなうものである(中村元)



角のある言葉を考えもなしに人に向けて放ち、痛い行動を自覚なしにしていれば、それは違う形で己にかえってくるものです。そんな人にも優しくしてくれる人も確かにおられます。


だから女性は優しいのですよ。


妙に納得される方がおられます。





誰かの失敗や愚かさと無知は、何かの役に立つことが(稀に)あるのです。

おもさ

 例えを出すとわかりやすいこともある。

とある母と子が生活をしている。母は日々家事・仕事に一生懸命汗を流している。少し時間ができれば我が子が結婚し新しい家庭の少しでも足しになるようにとできることを続けている。子もまたそんな母にこたえようとして日々頑張っている。
そんな母と子にも衝突はある。
思いの違い。子は子なりに日々精進しているからこそ自らの思いが出てくる。だが双方の話をずっと聞いていれば経験の数(年数)だけ母のやさしさ(気遣い・配慮・自分は辛抱しても金銭や食材の援助の継続)が突出している。
双方がどんなに頑張っているといっても、現実的に差は出てくる。その差を理解して思いをのべてたり、態度で示していれば、差は差とならず問題とならない。そうであるときは意見の交換が容易に行える。

「わかっているから言うんだ」

と相手だけでなく周囲もわかっていないと思っているのに、当の本人だけが「わかっている」と語気を強め言い放っても、あきれられて言葉が返ってこない(時にそれは自分が正しいから反論すらでないと錯覚するものもいる)。

自分が放ったものにさらにお世話になっていることが重さに加わり、やがてわかっていない本人へかえることがある。返らない場合は見捨てられたか相手にされていないか、当人が気がついていないかのどれかだろう。

言葉の重み、立ち居振る舞いに重み、瞳の深さなど、いずれもわかる人は言葉を超え(本心の言葉の交換でも)理解し合う。
わからない人は涼しい顔をしている。大切なことが目前であったのに「今何があった」のかなんて顔をしたり、皆が深く内を省みるような言葉で深まりを感じていても、「ケロッ」としていたりする人もいる。先に歩み続けている人と立ち止まる人の区別は時に難しい。

重みのある言葉や立ち居振る舞いは、その方が誰もが背負えないものを背負って歩く月日の分だけ重さが出現する。

わかったふうなことを言っていても、背負うことが少なく、逃げも多く、何か周囲から見れば簡単な問題であるのに言い訳や誰かのせいにして、自分は背負うことがない。


瞳の色を濃く(深く)したり、言葉を重く響かせたいのであれば、仕事の優先の見極めと似ている。自分の仕事を周囲の反応をうかがうことなくいつも最優先、他のことはお構いなし、自分だけが満足をしていることだけが続けば、その仕事も見向きや評価はされなくなる。


反省することが多い。現実の身に反映させたい。

指し示すことと、その身に示すこと。



なんとかしたい。

つぶやき

 久しぶりに横にいる人が懐かしい言葉をつぶやいていました。それを聞いていれば20歳前後の時を思い出します。

子供の頃、春が来て「ホー、ホケキョ」と聞けば「あれはウグイスだよ」と鳥の名を教わりました。以降「ホー」と泣けばフクロウかウグイスかを連想します。

これから春になっていき、「ホケキョ」と鳴く声が風情と春をより実感させてくれるでしょう。言葉で「ホウ、ホケキョ」ですが実際はそう言っているように私には聞こえているだけです。ニワトリの鳴き声と同じでウグイスが違う国でもいれば言語表記は恐らくちがってくるはずです。

ただ以前はあの美しい声を聞けば、私の心を一瞬静止させます。これを聞き入るというのか魅入られるというのか、風情を感じているというのか、魂が揺さぶられるというのか、人により違うのかもしれません。

以前に仏教を信じる人は「ホー、ホケキョ」を「法、法華経」と解し、その美しく声高らかに告げる鳥の声を聞けば、(仏)法とその真理を書かれたお経、その声とともに帰依や信を再確認し、その深まりを見たのかもしれません。

友人がブツブツと何度もつぶやいていたのは次の句です。

閑林に独坐す

草堂の暁(あかつき)

三宝(さんぼう)の声一鳥(いっちょう)に聞く

一鳥声あり

人心(ひとこころ)あり

声心雲水(せいしんうんすい)

倶(とも)に了々(りょうりょう)

(遍照発揮性霊集 十)



師もこの言葉をよく言われていました。どうも真言宗の僧侶は皆この言葉が大好きなようです。三宝とは「仏法僧(ぶっぽうそう)」、仏と法とそれを信じ守り続ける人達のことです。ここではウグイスではなく、三宝鳥正確に「ブッボッポ」との鳴き声が「ブッポウソウ」と鳴くように聞こえる鳥のことです。正式名はともかく「ブッポウソウ」と鳴き声が聞こえる鳥が三宝鳥だと(私は)認識しています。(ブッポウソウという鳥は諸説ありそうです)


「雲水」①雲と水。②(行雲流水のようにゆくえの定まらないことから)所定めず遍歴修行する禅僧。行脚僧(あんぎゃそう)。転じて、自由気ままな旅。
「了」①終わること。すむこと。②わかること。さとること。広辞苑第六版より抜粋




最近はウグイスや三宝鳥だけでなく、他の鳥を声を聞いても心が洗われます。

一鳥声あり

人心(ひとこころ)あり




青空にぽっかりと浮かぶ雲も、私の足元にある水たまりの水も、私(の心)も、どれもが澄み渡り美しいもの。



いつもそう言い切れないのですが、美しい鳥の声を聞けばそう思えることがあります。

整理

 土日はまた有難いことに忙しく、休日であった今日は家内と少し整理をしていました。

結婚して子供が三人もできれば、私と家内より子供達の荷物がどんどん増えていきます。限られたスペース(家の中)は定期的な整理を迫られることになっています。

「上の押入れにあるお父さんの荷物で使わない物がどれか見て、整理していくから(いらないものは処分していくから)」

大分前に使っていた教科書・書類・手紙・文房具・本・自作用パソコンパーツの交換品など、まだ使えるもの、もう使えないもの沢山です。

「いらないのは全部処分だな」

結婚する前に筆まめであったあの人(家内)からいただいていた手紙が南通もでてきました。

「当然これは保存しておかないと」

恥ずかしそうな顔をしてそんな私を見ていました。結婚式の写真や上の子二人がまだ小さい時の写真もたくさん出てきました。

「どれどれ」

そんな言葉の後、中身を見ていれば整理できる時間がどんどん少なくなっていきます。なので保存するものと処分するものとに分ければ、こちらの許可をとれば後は家内が更に分別しています。その横で結婚前の二人で撮ったアルバムもありました。

その写真や手紙の時から14年くらいでしょうか、家族が増えたことで家内は私だけに構ってはくれません。ただ私はよく構ってもらいに行きます。ほどよくスルーされてばかりです。


「(少し歳をとったけれど)あの頃と変わらないね」


そんな休日でした。

ほわん

 どうも我が家の三人の子供達、何か遊びに没頭し、一人の世界へ入っている時は除いて、仲良く楽しそうにしています。

「仲良き事は美しき哉」


どなたかが言い出した素晴らしい言葉が、あの子達の笑顔と仲睦まじき雰囲気の世界にもぴたりと当てはまるものだと思います。

私が幼いころは田舎で育っていましたから、おもちゃをあまり買ってもらうこともなく、ただ一つ上の兄と動物達や山・池・自然で毎日疲れ果てるまで遊んでいたことは覚えています。

だからでしょうか、自然もいいものだとも思いますが、買ってもらえることがあまりなかったおもちゃには憧れがありました。あの子達には誕生日やクリスマスには何かしら記憶に残るおもちゃを贈っています。

三人違うものを買い与えれば、皆男の子だからそれぞれのおもちゃを貸してもらい代わりに遊んでみたり、他人とは違う目線で新しい遊び方を開発してみたり、ときには奪われ泣いてみたり、ある時には兄ちゃんが弟のおもちゃを遊びすぎて壊してみたり、小さい弟が寛大に兄へ自分より先に遊んでと譲っていたり、遊ぶのを助けていたりすることを見かけます。

「プレゼントが三種類あれば三倍楽しめるから、兄弟がいることに感謝するんだよ」

三人が盛り上がりすぎれば、割りと騒がしいです。いや割りとではなくうるさすぎることもあります。それで私に皆注意されれば一瞬の静寂がおとずれます。相変わらずそれは寝るまで繰り返すこともあります。

三人の息子がいて本当に楽しいです。周囲の人や男の子ばかりだと話せば「女の子が一人は」なんてよく親切な言葉をかけてくれます。確かにいたらそれはそれで私は女の子を溺愛してそうです。だから生まれなかったのかとも考えることがあります。それにしても私に似た男の子三人、どのへんがと言われればあほなところは私似です。それが可愛らしいです。

家内のことが大好きな好きと、あの子達のことが大好きな好きと、自分のことが大好きな好き、身近に居る方が大好き、それぞれの好きが同じ言葉だけれども違うあらわれかたです

些細な区別はどうでもいいと最近思います。好きだと思う気持ちが多ければ多いほど、何故か私はしあわせです。

現実思い通りにならないことも多く、問題も多いです。けれども大好きだという気持ちが内からあふれてくるとき、私はしあわせなものにつつまれています。

ただ激しい波のようにあらわれては消え、そんな出現である今より自然体で望んでいないのにあらわれるようでありたいと願います。


私は欲張りだから、変化を求めているのかもしれません。

こっち

 外で仕事をしていないため、私の仕事は天候によって影響を受けにくい日々を送っています。

ただ今日は曇りがちではじまり、晴れかと思えば雨、雨かと思えば曇り、雨かと思えば晴れ、晴れかと思えば曇りや雨と少し強い風でした。

(敷地内の)少し離れた場所へ書類を届けに、何度か往復していた時の天気はそのようなものでした。三時頃、離れた場所から内線が、何の用事だろう・急用かそれとも何かあったのかと電話をとれば

「虹がでてる」

そんなお知らせでした。ひと段落つきたかった私は、

「どこに出ています」

「こっち」

「いや、電話でこっちって言われてもわからないんですけど」

「ごめんなさい、前にある道の向こう側」

私がいつもいる場所から外に出て、空を見上げても山と曇り空しか見えず、まあ折角外に出たんだから、雨も少しぱらついていましたが、虹を探すことに、離れた電話のかかってきた場所へ探しながら到着、すると電話をかけてきた方が

「ほら虹、さっきより大分無くなってるけれど」

空をみれば、虹が半円じょうでなはく、かじって少なくなったバームクーヘンの残りくらいの虹が空の下のあたりにかかっていました。

「本当だ。あっちではみえなかったけれど、こっちでは見えるね」

「そうでしょう。こっちでしょ」



案外「こっち」という言葉も正しいんだなと、一人納得して雨が少し降る中を戻りました。


似て非なる

 身近な人が忠告してくれているのに(たとえその方が根性や性根が悪くても)、こちらに助言されているなら(腹がたっていてもいなくても)対応は限定されている。

怒り返す(暴言を吐く)でもなく、腹をたて(周囲の物や人にあた)るでもなく、聞く気がないという態度をとるでもない。
頭を下げ「ありがとうございます」または「気をつけます」または「また色々と教えて下さい」が無難だろう。

自分自身がどのようであれ、目前の方に助言をしたときにどのような態度であれば、自分が嬉しいのか。自分だけの都合でものを言い、はねのけているようであれば、全て痛いものは自分に形を変え返ってくる。

自分が思うようにしたいことに、時や形を変え反対されたり、協力ではなく阻害という形をとったり、好きではなく嫌いという形になってかえってくる。(全てがそうとも限らない。例外もあり、善い人達も別になる。)

自分がいつも角のある言葉や態度をしているのに、自分(達)のやることを邪魔されるなどを周囲へ助けを求めても、助けようにも自分で沈めていくものを浮かび上がらせることは他者にとって容易ではない。(これも例外もあるだろう。簡単だという人も確かに存在する。)

フォローをしたいのに、フォロー出来ない現状を次々当人(達)が起こし続けていれば、フォローをする人も共に沈んでいく。

身の上を嘆いて同情を求め、原因を他者のせいにだけすることはいつでも簡単なことの一つ、安易な道にいつも逃げこむだけで本質を見つめない。たずねれば当人は見つめているというのかもしれない。

自分の発言が「自分の行動に問題がある」という言葉の前に「誰かがこんなだから自分(達)は苦しみ悩みが多い。いつまでたっても救われない。」確かに本当にそんな現状の人だっておられる。ただそのことを決定するのは周囲であり、本人が言い訳がましい言葉がいつも先に出ているのであれば、自身の問題の解決は遥か遠い。

誰もが簡単に判断する。「その人」のせいなのか「他者」のせいなのか、「誰か」をいつも出して悲劇の主人公になりすぎるより、自らが痛い言葉や態度を減らしていくことだって解決へ向かうこともある。

「感謝すること」と「安易な褒める言葉」とは似て非なるものだと、誰かが使い分け続けることを見ていれば思い知らされることもある。

時に回避のために使うこともいいかもしれない。自分の痛いところをごまかしてもらうために使うこともいいかもしれない。

大切な人であればあるほど、本当の思いを早く伝えたい(伝えて欲しい)。


言葉が出ていれば良いということでもなく、多ければ良いということでもなく、口にしているからよいということでもない。その判断ができないとき、自分よりいつも正確な判断をしている方に本心からたずねた方がいい。



何か問題があってたずねても遅いことは世の中よくある。

遠くと近く

 我が家の長男坊気がつけば6年生になっており、春からは中学生です。
私が小学生の頃、何故か母親は中学受験を申し込んでおり、気がつけば(たいして勉強もしていないのに)自宅より車で3時間ほどの学校へ受験に行っていました。(運良く受かった)私に母親は
「あなた地元の学校へ進むのか、遠く離れた学校へ家を離れて寮から通うか、どちらか自分で決めなさい。」
正直な気持ちで言えば小学生時代の友達と離れ離れになることは寂しいことでした。どちらか決めかねている私に電話がかかってきました。私より二つ上で同じように遠方の学校の寮から何かを察したのか掛けてきました。
「お母さんはとてつもなく厳しいでしょ、他所の方がまだ楽だから、貴方も寮に入って家を離れなさい。」
確かに今まで母親がどうであったか他人に聞いても他人が私に「お母さん厳しいね(他人でも容赦がないね」と教えてくれるほど厳しい母でした。
今もですが、考えの浅い当事の私は母へ
「お母さん、寮に入ってがんばります。」
それから次男坊の私は、中学・高校・大学、仕事をしてからも家を出たままです。

私の子供達に、母ほど厳しくできていない私をよく見ます。優しさが厳しさとして誰よりも特化した人でした。厳しくすれば人の心は距離をおきがちになります。優しくすれば当然その反対です。母は自分自身には特に一貫して厳しく、私達にもふれあう人にも厳しい人です。今は以前より丸くなったように思います。
あの中学校へ進路をきめた12のときから、長崎は私にとっての故郷であって、住んでいるところがどこでも優しく家族のように接してくれる人がいました。今住んでいる場所も故郷のようなものです
話が脱線しました。

あの子(長男坊)には別に受験や遠くの学校へなんて言ったことはないです。その人の進路は周囲に左右されるものです。
大抵の方がおそらく、小学・中学は近くの学校への進路でしょう。あの子の偶然であった友達は学校でも一・二を争う秀才でした。その子は自宅近くの中学ではなく、賢い子供が狙う中学校を受験するようでした。
うちの子に関係ないと思っていたら、ある日
「(友達が一緒にその難しい学校を受けようと誘われたから、)あの学校を受けたいんだ。」
何かに出会う理由は人それぞれ、何でもいいと思います。ただ(余計なお節介として、一言忠告はしておきます)
「そこ勉強していないと受からないと思うよ」
「うん」
それから彼の日常は今までと試験前まで変わりませんでした。(つまりはほとんど基礎学力向上の勉学はしていません。)

そんなこんなで試験が少し前にありました。当然の質問をします。
「どうだった」
「あまりできなかった」
(まあ普段の行動の積み重ねなら当然の答えです)

失敗をすることも、自分の現状を知ることもよいことだと思います。さて、合格発表はまだですが、落ちていても受かっていても、失敗を本人自身がどのように教訓とするか。

欲張りな願いを私は持ち続けています。
私より少しでも早く、自分自身の現状に気がついてほしいです。何かあれば目を背け・逃げ続け・言い訳が多く・すぐ誰かのせいにしたり、それもそれで役に立つことはあります。

遠くで気がつくこと、近くで気がつくこと

成功する人から学ぶことも多いけれど、私のように失敗が多い人からも学ぶことは多いです(失敗談を楽しめます)。


あたりまえ

一回り程年上の方と何度もお会いしていますから、楽しい方ですので楽しい話になります。ただ楽しいことばかりの人生というのも少ないですから「それを(お互い)いろいろありますね」と平易に置き換えています。
「今年は何かよいことがありましたか」
そうたずねてこられました。ふと考えても今日は(一月)十四日、まだ悪いこともなくそれなりの日々、とりたててこれが良いことは思いつきませんでした。「普通ですかね」なので話としては、同じ質問をお尋ねしなすことになります。

「今年何かよいことがありましたか」

「今年というか最近、あたりまえのことが有難いと本当に思うようになりました。」

いつもよいことばかり、それがあたりまえという方、まあよくもなく悪くもなく、まあ普通それが当たり前という方、周りを見渡して、ここは少し悪いことが多い。それが(ここの)あたりまえという方もおられるでしょう。

あたりまえがあたりまえでないと心の底から思えるとき、「あたりまえの底が抜ける」なんて言う人もいます。(私には)少しわかりにくい言葉です。ただそれも最近は他を使っています。

浅知恵という言葉が私自身にあてはまりやすい状態、あたりまえのことを「そんなのはあたりまえじゃないか」と思慮のかけらもなく発しておれば

「(この人は)あたりまえのことに理解も感謝をしていない(挙句は自分が発した言葉の意味さえもわかっていない)」

つまりは賢者と同様の言葉を発しても、深みや重みがない言葉にとられ、その発した人自体にそれは還元され「かるい人」と認識されることが増えていきます。

「あたりまえのことが有難い」

何気ない日常を支える行為をつづけれることと、それを何事もないように続けている人達へ感謝しています。相手を感謝し愛することが、自分にも返ってくるようになることが増えていきます。

忘れれば、痛い言葉や態度を放つわたしが出現し、またそれもその本人へ還って行くだけのことです。


あたりまえのことが有難いと思うようになったということは、あたりまえの状況を維持できない何かが出現したということでしょう。それでもあたりまえの状況に戻りたい。わたしはあたりまえに感謝しているのです。

何故か痛い思いをして、反省・感謝し、何かしら身近なことからよくありたいと願い継続をしている人に優しく接する人は増えていきます。

完成していないみずからを知り、みずからの行為にも罪悪深重であると知り、それでも私は少しでも前に進みたい。そう願う人は、言葉が以前より広く深く重くなります。別の言葉であればその方は瞳の色が濃くなっていきます。


自慢しやすいわたし、すぐに人の悪いことを言ってしまうわたし、継続を忘れやすいわたし

あたりまえのことは、わたし(だけでなく全ての人)に無限の深まりを要求しています。




わたしは、今よりすこしでも、それにこたえたいと(応えきれていないからこそ)願うのです。

とりあえず

 本日は休日、長男次男は学校なので二人とはどこにも行けませんから、家内は末っ子「けいくん(四歳)」に

「明日おとうさんいるけど、一緒にどこ行きたい」

そう寝かせつけるときにたずねていたようです。海か公園かどこか他の楽しい所にいきたいのか、その答えは

「おっきいお風呂にいきたい」

「おとうさん、けいくんそんなこといってたよ」

「なら近くの大きなお風呂に行こうか」

ということで、困ったら行く場所、近場の名湯「神山温泉」へ出発です。家内は飲み物を作り着替えを用意して乗り込みました。うちの子供達は皆温泉が好きです。家内曰く「あなたが若い頃から温泉が好きでよく行くから、好きなんじゃないかな」私が温泉が好きなのは、おじいさん子であった私は銭湯や温泉におじいさんと一緒に行って楽しかった思い出があるからです。大人になって「どこ行くか」となれば、「温泉」です。泊まりだとお金もかかりすぎますので、日帰りまったりゆったり、それにしても神山温泉はいい湯です。源泉100%、入れば肌がぬるっとした感じがして、あがれば肌がつるつるします。もっとも若い人はそんなにおらず、女性目当てでいっても駄目です。少し前の若い女性ならばいつも沢山おられます。
(四国八十八箇所第12番札所)焼山寺の近くでもあります。

温泉の近くに道の駅があって、そこで売っているものを見て、もうすぐ春になれば枝垂れ桜の美しい時期です。ただ花粉症の私や長男にはキツイ時期です。

行く所に困れば温泉が上位を占め、次には公園か海です。本当は海に行きたかったのですが、寒い上に風が強いから風邪をひいてしまうかもしれないので、温まる温泉、最高でした。次は長男と次男も連れて行かないとね。


温泉後に一杯やってゆっくりしたいところです。

なんとか

 この連休は沢山の人でにぎわい、仕事も忙しいものでした。昨年はもっと多かったのです。まあただどんなに忙しくなっても「これでギャラは同じ」ですなんて本当のことを言っています。長い目で見れば職場が暇だったら私も雇ってくれなくなるので、忙しいにこしたことはないのです。けれども、あわただしすぎれば「もうちょっと暇でもねえ」と贅沢なことを言っています。

何もなければ「暇だねえ、誰か来てくれればいいのに」、世の中そんなに都合よくいきません。準備(段取り)・計画、暇なときにじっくりできる仕事、たまにはゆっくりなんてのも悪くないものです。

何かを願ってはじめたここ、最初と違った思いになっているように思います。今もかなり不純な私ですが、当初はもっと不純であり、怨み瞋り妬みにとらわれていたように思います。もっとも今も人が変わっていないんだから同じようなもんですけどね。

誰かを悪くだけ言ったり、恨みだけ言ったり、変わって欲しいと願ったとしても、方法や自分自身がそれにとらわれすぎてしまえば余計にどうにもならないなんて最近は思っています。

都合のいい棚にのせることばかりの自分であった。

都合のいい棚にのせることばかりの自分というのに少し気がつき始めた。

都合のいい棚にのせることはやめなければいけないのになかなかやめることがでいない自分を見つづけた。

どうも都合のいい棚をなくせばいいのではなんてことを考えるが、それは私がいる限り無くなることはないことにうっすらきづきはじめた。

都合のいい棚は見れば、自分の愚かさと見たくないことなどが山積みであったことを見たくないけれども見なければとなりはじめた。

都合のいい棚から、棚おろしをはじめようと思い始めた。

都合のいい棚にあげず、棚おろししようとしているが、なかなかはかどらない作業だ。



それでもなんとか



まあなんとかしたいとこです。