讃岐(香川札所66番)

 第66番札所 巨鼇山 千手院 雲辺寺(きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ)
 冬季は車道が使えないため、ロープウェイまたは歩きで登ることになります。今回は香川県観音寺市大野原町にあるロープウエイ乗り場へ自動車で朝早くから向かいました。
 ロープウェイ乗り場にはお遍路さんは少なく、スキー・スノーボードを持ったレジャー客ばかりでした。どうもこのロープウェイは雲辺寺のすぐそばにあるリフトとの割引があるようです。
大人     往復2,060円 片道1,200円
中高校生  往復1,500円 片道900円
小学生    往復1,000円 片道600円
今回私と家内で大人往復二人4120円、長男次男が小学生二人2000円、三男坊は4歳なので無料、合計6,120円となります。(次回からは冬季のお参りではなく、車道を通れる時期にお参り決定です。)
ただ見晴らしは最高です。一度は乗るものです。
雲辺寺は標高1000mに近い場所にあり、かなりの高さを一気にロープウェイは上ります。太龍寺ロープウェイより距離は短いものの、空中散歩はなかなかできないですから子供達大興奮している間に山麓駅から山頂駅へ着けば、外気温-3度、少し前の寒波のため、雪が積もっていました。参拝道は溶かしてありお参りの方へ配慮されています。
寒いのに素手で雪をなげたり、雪の中を走り回ったり、子供たちは後のことを考えずはしゃぎまわっていました。朝早いこともありお参りの方はほとんどおられませんでしたので、広い雪景色の境内を貸切です。
雲辺寺の境内に入れば、羅漢(石造)が立ち並んでいます。おそらく500羅漢であろうから、500体境内にあるのだろうと思いながら歩いて本堂へ向かいます。右にも左にもあちらこちらに羅漢が立ち並んでいました。暫く羅漢さんたちが並ぶ中を通れば石塔がたちその前に釈迦涅槃像(石造)がまつられていました。その横になられているお釈迦様を座って礼拝する弟子の石造もありました。亀の背の上に乗った線香立て(石造り)も傍に安置されています。
 そこから少し歩けば大師乳銀杏と呼ばれる大木の銀杏があり、看板に

「昔、乳の出ないお母さんのために弘法大師が銀杏の苗を植え乳がでるようお祈りをし、木の幹を削り煎じて飲むと乳がでるようになったそうです。
 雲辺寺三大巨木の一つです。どうぞ近くによりお子様の健康をお祈りしてください。」


残念です。雪が積もりすぎて参拝道より離れているため近くに寄ることはできませんでした。
仁王門は新しく綺麗です。手がかじかむなか、線香ロウソク納め札御賽銭を御供して並んで読経、横には護摩堂があり本堂前ななめには「おたのみなす」の腰掛けがあります。案内に

”親の意見となすびの花は万に一つの徒もない”の諺にもありますように「なす」の花は一つの無駄なく実となります。また
「成す」との語呂が同じで努力が報われて願いがかなえられます。一度 願い をこめて「おたのみなす」に腰かけてください。


(とりあえず腰かけてみました。)
それから少し坂をあがり大師堂へ向かいます。大師堂の左前に稚児大師像がまつられています。
大師堂では一人同行の方にお会いしました。挨拶をして、大師堂の前の広い場所は雪だらけ、段々と身体が冷えてきたので、作法と読経を済ませ、納経所へ向かいました。納経所では若い女性が笑顔で迎えてくれました。子供(次男坊)にも優しくはなしかけてくれていました。つぎは本堂より高台にまつられている大きな大きな毘沙門天像を近くまで見に行きました。冬季積雪のためか、その下にある場所は拝観できませんでした。

スキー場へのリフトを遠巻きに眺め、ロープウェイ乗り場へ、ここも太龍寺の乗り場と同じく、待っている人へお茶のお接待をされていました。外はかなり冷え込んでいましたから、私達以外だれもいないことをいいことに係の人に何度かおかわりをいただき有難いことでした。下りの眺めも素晴らしくあっという間に山麓駅へ到着、降りてからもお茶のお接待を受け冷えた身体に暖かいものが有難いものです。




年末押し迫り、記事も用事のためはかどりませんでした。

今年一年さまざまな方にお世話になりました。来年も学び多き年でありたいと願います。


どうぞ皆様よいお年をお迎えください。合掌
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高知(31番・32番)

 第31番札所 五台山 金色院 竹林寺(ごだいさん こんじきいん ちくりんじ)
小高い山の上へ車で上ります。お寺より少し上に植物園があり駐車場も兼ねているようです。植物園前にとめれば少し下って境内へ入ることとなります。
 駐車場から入ってすぐには苔むした趣のある庭園と納経所があります。拝観料を納めれば納経所横より名勝庭園をみることができます。納経所から山門へ向かう右側に虚空蔵菩薩がまつられているお堂、左側には宝物殿、何人もの方がお正月を迎えるために清掃されておられました。その隣に鐘楼堂があります。
 木造の立派な山門と仁王像をくぐれば、ここも紅葉が屋根となり、左右には苔がむし、石畳をまっすぐ歩いて少し階段を上がります。 
 階段を登りきろうとすれば、左斜め前に朱色のあざやかな五重塔が高台に見えます。階段左側は大師堂、右側を見れば少し離れたところにとても大きな大きな本堂があります。
 五重塔や本堂に気を取られますが、本堂の前(少し離れています)に童子がたっています。私は即座に後姿をみて声を上げました。
「あれは善財童子」
近くによって正面からみれば、まぎれもない善財童子です。あどけない顔で手を合わせ、(本堂のほうを向き)空を見ています。
「スダナ」
だよ、長男坊にそう言い、何枚も写真に収めました。善財童子に会えるとは思っていませんでしたので、心躍りました。

「昔、スダナ(善財)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願うものであった。海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえていることを聞いた。
 また座禅する出家を訪れては、その静かなる心が姿に現れて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。また気高い心の婦人にあってはその奉仕の精神にうたれ・・・(中略)・・・このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。
 かよわい女にもさとりの心あり、街に遊ぶ子供の群れにもまことのせかいがあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、者に従う心の明らかな智慧を悟った。(中略)
 
 昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。
 童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。」
和訳 仏教聖典より抜粋


(以前、「スダナ」という2012.12.28に書いていた記事から一部引用しました。)
東海道五十三次の53という数も、善財童子が53人の「善知識と出会った人数」からとられたとも言われています。

本堂は文殊菩薩さまです。本堂前には絵馬がたくさん奉納され、反対には賓頭盧尊者がまつられていました。
大きな大きな本堂の前で家族で感心していました。すると本堂右手に獣がいます。猫でもない犬でもない。狸が出てじっとこちらをしばらく見ていました。こっそり写真に収め、線香ロウソク納め札御賽銭と読経を終え、大師堂でも同様に読経を済ませました。最初に気になった鮮やかな五重塔への高台を登りお参りしました。

五重塔は元三重塔であり、明治32年の台風により倒壊、昭和55年12月に五重塔として再建され、インド・ブッダガヤより勧請された仏舎利をまつり、初層内陣には大日如来がまつられています。(要約していますがそのように看板に書かれていました。)

少し離れた場所にブッダがまつられていました。成道さ(悟りを開か)れ初めて説法されたときのブッダ像です。その左側にブッダ(お釈迦様)の生涯が8つに分けられてパネルで紹介されていました。

1番から71番までお参りした中、ここ竹林寺の本堂は本当に大きなお堂と広さのある境内です。感心させられまくりのお寺でした。無事納経をいただきました。

第32番札所 八葉山 求聞持院 禅師峰寺(はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ)
 ここもお寺に峰がついていますから、車で登ってまいりました。駐車場からも階段をまた上がっていきます。駐車場にはきれいなトイレとその左側に修行大師、右横に大きな十一面観世音菩薩像がまつられて出迎えてくれていました。手をあわせ、階段を上がっていきます。
 中腹に納経所や峰寺不動明王がまつられ、その左側にはピースポールがたっています。古い山門をくぐり、風と雨と時間により複雑な形に風化した岩肌の突起が多い境内に囲まれる階段を登りきれば眺めの良い場所、本堂があるところにたどり着きました。
かわいい小さな「おかげさま」と書かれたお地蔵さまには、どなたかが笠をかぶせていました。あまりにもかわいいので「けいくん」や次男坊と並んで写真を撮りました。

本堂の前から町を見下ろす景色は素晴らしいものでした。静かに見とれていたら次男坊が
「ヤッホー」
何度も大きな声を出していました。
「静かに、他のお参りの方に迷惑になるから」
さいわい、ほとんどお参りの方がおられなくてよかったです。どうも子供は高くて見晴らしがよいところへいくと、大声で「ヤッホー」と何度もいいたくなる病にかかっているようです。(私も思い当たる節があります)
本堂付近の岩肌は特殊です。ぽこぽこと石がもりあがって生えてきているような感じです。本堂十一面観世音菩薩、大師堂でも作法と読経を済ませ納経をいただきました。

ちょうど一年前 33番札所 雪蹊寺から(家族で)遍路をスタートしました。これで阿波(徳島)7番から65番まで打ち終え(繋がり)ました。12月26日は讃岐(香川)の札所からとなります。


せっかく高知にきています。高知と言えばやっぱり桂浜へ龍馬に会いに行きました。

どうしても高知近辺にきて朝日を見たら「日本の夜明けぜよ」とか言いたくなる私です。桂浜駐車場にとめ、銅像を見て、海岸の砂浜で太平洋と夕日を眺めました。

帰りに龍馬像の前で記念撮影をして、駐車場横のとさいぬパーク横のお土産物屋さんで皆へのお土産を購入して徳島へ帰りこの日が終わりました。



(まだ明日も遍路記事が続きます。)


高知(29番から)

 第29番札所 摩尼山 宝蔵院 国分寺(まにざん ほうぞういん こくぶんじ)
 師走、正月が押し迫っている境内は大掃除正月の飾り付け・念入りな清掃で寺内の方は慌ただしそうでした。
歴史を感じさせる山門と守護されている仁王様、一礼して参道をきょろきょろと歩いていきました。

土佐国分寺の金堂(本堂)木造薬師如来坐像二体並びに梵鐘は国の重要文化財。


とあります。ここも全国にある国分寺の一つ土佐国分寺、天平十三年(741)聖武天皇の勅願によって建立されたもの。何故にそれが遍路の札所となっているか、遍路は弘法大師(空海)の修行された足跡をたどっていくもの、弘法大師以前から仏教は日本に伝わっていました。弘法大師は774-835年の時代に身体を伴っての活動をされています。それからは心・仏法・信仰・遍路・高野山・全国の大師伝説・お陰をいただいた人達・救いを求める人達・私(達)の誓いを見守ってほしいと願う人々の中に生きています。
遍路は弘法大師が当事創建されたばかりの四国の寺院・古来より伝わる峻険な山々(霊峰・霊域)・神がまつられる・大海を望める海岸を求め続け歩かれたのでしょう。
「何を求め続けておられたでしょうか」
(足跡と書物・著作・経典を読めば)簡単だろうと言われる方がおられるかもしれません。お大師様と話ができればこたえを聞いてみたい。書きながらそう思っていました。

(おっと本題の遍路と土佐国分寺へ戻ります)

冬の冷たい空気、掃き清められた境内、杉や苔のある庭園と趣きのあるお堂、美しい境内です。何故かそれが(私には)懐かしくもあり、違和感がなく、善いものだとおもうのは日本で生きていきたからだと実感します。私一人であって私一人でなく、父も母もそのまた父も母も日本で生きて境内やお堂をどこかで見て美しいと思い続けたのでしょう。

(また脱線したので本題へ戻ります)

ここは友人の知り合いのお寺です(まあ遠い遠い縁となり、つまりは他人ですけど・・・))確か村岡空さんという仏教関係の書籍をいくつも出されている方とも縁があります。本堂(金堂)は古を感じさせられる建物です。

金堂は七堂伽藍の中心となる建物で 本尊を安置するお堂。現在の建物は永禄元年(一五五八年)に長宗我部国親・元親親子により創建時の金堂跡に再建されたもので 柿葺(こけらぶき)と天平時代の建物に模した寄棟造りに特徴がある。
 又、内部の海老虹梁は土佐最古といわれ吹寄垂木等に室町時代の特色がうかがわれる。明治三十七年に国の特別保護建造物に指定され現在にいたる。(金堂前看板より引用)


大師堂の作りも素晴らしいものです。

創建寛永十一年(1634)
文化二年三月(1805)藩主山内豊策公再建
桁行三間(5454㎜)梁間三間
本尊弘法大師(大師堂前看板より引用)


朝一番のお参りは格別でした。作法・読経を済ませた後に、友人も毎年挨拶していると以前いっていましたから、この境内や本堂・大師堂をお参りしているのだろうと考えていました。納経をいただきに向かえば光明殿(お堂)があり、阿弥陀様がまつられていたように思います。恐らくここは祈祷や法事(供養)などをされるお堂かと思います。無事に納経をいただき次の札所へ向かいました。

第30番札所 百々山 東明院 善楽寺(どどざん とうみょういん ぜんらくじ)
 土佐神社の隣のお寺となります。うかつな私は間違えて神社の境内に停めていました。よくよく見るとお寺の駐車場ではないので、道向かいの善楽寺駐車場へ停め直しました。
道路と通路が境内の近くです。境内はさほど広くはありません。すぐ横に霊園(墓地)があります。本堂の直ぐ左へ大師堂が横に並んでいます。歩く距離は短めで、段差も殆どありません。よって移動に時間がかかりませんでした。
本堂の(道を挟んだ)前方に、「子安地蔵」が比較的小さめのお堂にまつられ、その横には「梅見地蔵」がまつられています。「子安」は以前にも書いたように子授け・安産にご利益があり、梅見地蔵さまは以前は大師堂の梅の木の下にあり「梅の花を仰ぎ見る形であったことから「梅見地蔵」と名がつけられ、現在は境内整備で小さい梅の樹の下へまつられています。ご利益は首から上の病によくきくと言われ、また試験合格・学問向上にご利益があるとおまいりされているようです。
本堂は阿弥陀如来さまです。また本堂の左前には仏足石と不動明王がまつられ、すぐ左の大師堂には有難い額があり「弘法」と「厄除大師」の二つが目を引きます。
そういえば私は厄年、念入りに作法と読経が終わってご祈願いたしました。大師堂のすぐとなりに納経所があります。無事納経をいただき次の札所へむかいました。

高知(まだ遍路は続くのです)

 第27番札所 竹林山 地蔵院 神峯寺(ちくりんざん じぞういん こうのみねじ)
 峰という字が寺名についているように、割りと登らねばいけません。自動車を降りてからもそれなりに歩きます。境内にあるトイレの脇に立派な烏蒭沙摩明王(ウチュッチャマン)がお祀りしてあり、「お札」をいただきたい方は納経所にて受けられますと書いてあります。
あらゆる不浄なものを浄化すると言われる明王、トイレだけではなく悪しきものを打ち砕く明王です。不動明王が明王の王であれば明王の手下でもあり本体でもあり、不動明王は大日如来の化身です。全ては一つへつながっています。
また別の(本堂から少し下った)場所に彩色がほどこされた不動明王がまつられています。本尊様は十一面観世音菩薩、密教の仏さまが多いです。
「みちびき大師」他の札所でも同名のお大師様(修行大師像)みます。ここでも私達を出迎えてくれています。また仏足石もあります。同じ施主の方が何ヶ所もの札所へ「仏足石」を願いか思いがあって奉納されたのでしょう。
「神の峰の寺」縁起は次のとおりです。

縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724〜49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。
明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日にいたっている。
四国八十八箇所霊場会公式HPより抜粋


廃仏毀釈の余波というものは大変なものだったと老僧の方達は言われています。四国八十八箇所霊場会という組織も廃仏毀釈や戦争などによって廃れかけたものを必死に立てなおそうと結成されたものです。いつしか平和になればその組織も回帰がおこります。仏教そのものが危うくなれば「ブッダにかえろう」又は「祖師にかえろう」ということがおこります。
「神と仏と人、皆で一緒に生きていこう」
神峯寺の名前を見てそう思います。境内も階段が多いです。運動不足の私にはちょうどいいものでした。本堂の十一面観世音菩薩様がおられるところとは別(右)に聖観世音菩薩がまつられる観音堂があります。本堂・大師堂ともに作法・読経を終え、納経をいただきました。

第28番札所 法界山 高照院 大日寺(ほうかいざん こうしょういん だいにちじ)
 山門から本堂へと続く階段には赤いのぼり(南無大日如来)が両脇に立ち並んでいます。札所の境内はどこも掃き清められています。ここ大日寺の境内も手入れが行き届いていました。17時も近づいてきたため(12月)24日の最後の札所となりました。お参りの人がほとんどいないので境内を貸切状態で読経ができました。私と家内と長男の三人で読経をしました。「けいくん」三男坊四歳はまだお勤めではなく、境内で気に入った物を追いかけています。誰か一人付き添いに家内か次男坊が交代であの子につきそってくれています。いつかあの子が大きくなり真摯にお参りができる時はまたお参りしようと各札所をでる際に「また参ります」と挨拶をして帰っています。
 ここ大日寺の本尊様は大日如来ですが、金剛界の大日如来様です。真言は「オンバザラダトバン」胎蔵界だと「オンアビラウンケン」両部大日ですと「オンアビラウンケンバザラダトバン」それぞれ真言が違います。他の大日寺と真言が異なるのはそのせいです。(もっとも阿波(徳島)13番大日寺は本尊様が十一面観世音菩薩さまですけど)

帰りの車の中で、走り回っていた次男と三男が肩を寄せあって眠っていました。なかよく寄り添って眠る二人を微笑ましくみつめる家内の顔が美しかったです。

何度もここには書き続けています。

「その人の仕草や行動の上に愛情があらわれる」

借り物の言葉でもなく、その人の心から瞬間に出たと同時に出た人の身体を自然に動かすもの

それは意図しているものでもなく、誰かによく見られたいなどというものでもないです。


「しょうがない」ものです。




あの子達とあの人が大好きです。

一休み

 冬季休暇が終わりました。いつもならばどちらか(または時に双方)の実家へ帰省するところでした。
今回は四国遍路一色、朝起きて遍路、明日の用意と片づけをしてすぐ就寝、その繰り返しとなっていました。大抵の休日の私はよくごろごろしていることがあります。予定があればそんなこともできません。矢のように時間が過ぎ去り通常の生活へ戻っていました。外に一週間ほど出てみて少し変わったことを帰ってから思わされました。

 広い世界にふれ、大きなものであることを知るのに、すれ違う方とは挨拶ばかり、家族とだけ話すことばかり、日常にもどれば従業員仲間で話が盛り上がることと対照的です。狭いのにいろいろと深まり自分だけでなく他者のことを考えたり実行せねばと余計に感じます。

私も人間、人の間に生きるもの、家族の中だけで生きることと血がつながらない大勢の人たちと共に生きることとをはっきり意識しました。

「自分だけが、良かったら良しではいけない」

従業員の方が口癖のように私へ言葉(行動)をもって示し(続け)てくれます。
ただ「外を見れば、内がわかってきます。」(数多く他を見れば、数多くの自がわかりはじめてきます。)
より多くを聞かねば、耳ではなく心で聞ければ一人前になれるとおもいます。

忘れ物をしたので外に出れば、夜空の三日月が美しいです。


(私も)美しくありたいです。

土佐(高知)の打ち残しへ

 讃岐(香川)の札所へ行こうか、土佐(高知)の札所の打ち残しにしようか、阿波(徳島)の札所は8番から23番まで終わっていました。とりあえず8番から65番まで全て納経帳の空白を埋めるために、土佐(高知)の札所を先にお参りすることにしました。

今回徳島からそのまま海沿いで室戸岬を目指し、道中に鯖大師を通り過ぎ、御厨人窟(みくろど)又は御蔵洞を通っていきます。この御厨人窟(みくろど)は弘法大師が修行されたといわれている場所、ここにまず最御崎寺より先に立ち寄ってみました。洞窟が2つあり一つは二つともに神様がまつられていました。その一つの神明窟に入ってみたかったのですが、落石のため立入禁止、前で中を覗くだけとなり残念です。もう一つの御蔵洞から外を眺めれば、そこに「空」と「海」が見えます。少々心残りでしたが24番札所へ向いました。
室戸岬に向かう海岸沿いの道には太平洋が広がっています。大海原です。最御崎寺が近づけば中岡慎太郎像があります。先を急ぎすぎる私は車から見るだけで札所へ向かってしまいました。

第24番札所 室戸山 明星院 最御崎寺(むろとざん みょうじょういん ほつみさきじ)
 四国地図をみてちょうど下側の両端が尖って突き出ています。右側が室戸岬、左が足摺岬、今回はその室戸岬にあるお寺です。

大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。
「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」
四国霊場会公式HPより引用



どれも大きな「山門」・「鐘楼堂」・「本堂」・「多宝塔」・「虚空蔵菩薩(石像)」・「御影堂(大師堂)」・「十一面観世音菩薩(石像)」・「屋根つきの土俵」・「くわずいも」が境内にあります。

とりわけ私の目を引いたのは「虚空蔵菩薩(石像)」です。端正な顔立ち、菩薩ですから装飾品も素晴らしく、正式な名をアーカシャガルバボーディサットヴァ、虚空アーカシャ・蔵ガルバ・菩薩ボーディサットヴァ、虚空を埋め尽くすほどの智慧を有する菩薩、智慧の象徴である利剣を持たれています。
賢者が一言発せば、二の句を告げさせないように、「今あの方は素晴らしいことを言われた。返す言葉もない。」を剣(真理の智慧)をもってのあらゆるものを一刀両断してしまいます。
いつか「ややっ、これは虚空蔵菩薩の宝剣(が目の前にあらわれた)」となることを夢見ています。
多宝塔は多宝如来と釈迦如来が並んでおられるところ、多宝塔があれば真理が説かれる方がくれば「善いかな善いかな」と並んで褒め称えてくれる場所です。
「くわずいも」確か以前民話の話を読んだときにのっていました。実際に「くわずいも」が本堂横にあるとは思っていませんでした。

昔、土地の者が芋を洗っていると、一人の遍路(弘法大師)が通りかかり、その芋を乞うたところ「これは食えない芋だ」と言って与えなかった。
 それ以来本当に食べられなくなったと伝えられている。
 現在は胃腸の妙薬とされている。



案内の看板にそのようにのっていました。最御崎寺に向かう道中の「鯖大師」というお寺の縁起も感じが似ています。
大師堂前にある「鐘石」は不思議な石です。みたところ普通の石に見えますが、石で叩けばキーンと金属を叩いた鐘のような音がします。三人の子供達に教えると、叩きたい放題です・・・。
ツブラジイやスダジイの木に寄生生活を営む「ヤッコソウ」が木の根に沢山生えていました。不思議な植物です。高知県の天然記念物となっていました。端のようにある場所には少し変わったものが有るような気がしました。
山門を出て、室戸岬灯台と大海原を眺め、次の札所へ向かいました。

第25番札所 宝珠山 真言院 津照寺(ほうしゅざん しんごんいん しんしょうじ)
 駐車場の場所がわからず、少しその辺りをくるくる回りました。道中の水分不足を補うためにミカンを買うついでに家内が駐車場の場所を店員さんにたずねれば、少し離れた場所にあるそうで、近くにもあるけれどもそこは有料だと言われていました。200円を惜しみ、割りと離れた所へ停めました。魚を水揚げしたり積み荷を積卸している港町の中を少し歩き、海岸沿いの高台にあるお寺へ向かいました。
 山門の左の石柱には「海上安全 交通安全 御本尊楫取地蔵大菩薩」とあり、この付近の港の人たちが祈りを捧げてきた場所だということがわかりました。
本堂へ向かう階段の途中に「写経大師像(石像)」がまつられています。普通の立像の修行大師様と違って杖の代わりに右手にお経を持たれている像です。
それから少し階段を上がれば赤い門があります。もう少し上がれば本堂が待っていました。本堂から素晴らしい眺めの港町や海が一望できます。
「童地蔵」(石像)小さな幼子のように可愛らしい顔をしたお地蔵様がおまつりしてありました。しばらくそこで足を止めて可愛さにやられていました。
本堂にて線香・ロウソク・納札・お賽銭・納札をおさめ、後のお参りの方の邪魔にならないよう端に並んで読経を済ませ、大師堂へむかいます。大師堂は階段を下まで降りた納経所の横となっています。ここでも作法と読経を済ませ、納経をいただき次の札所へ向かいました。

第26番札所 龍頭山 光明院 金剛頂寺(りゅうずざん こうみょういん こんごうちょうじ)
 小高い山の上に有るお寺です。駐車場には童子像が沢山まつられていました。宿坊前から少し山門まで自然の中を歩いていきます。
名前が金剛頂寺ですから、金剛頂経が収められた真言のお寺だろうと思っていました。その通りでした。真言宗豊山派でした。看板に次のようにありました。

金剛頂寺(西寺)霊宝殿には
木造阿弥陀如来坐像(藤原期仏像)、板彫真言八祖像、銅造観音菩薩立像、金銅密教法具、金銅旅壇具、銅鐘、両部大経(金剛頂経三巻、大毘盧遮那経七巻)
重要文化財をはじめ、仏画、古文書等多く保存されています。
金剛頂寺
室戸市教育委員会


ここの境内にある修行大師(石像)は他寺院の修行大師と違い、かなり骨太で肉厚な胸板、頑強な大師像で動きがある大師像でした。本尊さまは薬師如来、作法と読経を終え、大師堂に向かいました

大師堂のそばに「一粒万倍の釜」があり、長男が
「お父さんこれ何」
「一粒植えたら万倍になるという意味の釜じゃないかな」
「おおー、それならここにお金を入れたら万倍に、ねーねーお母さんここにお金を入れたら・・・・・」
先に行って大師堂でお参りをすすめることにしました。
大師堂の前には「がん封じの椿ご霊木」がまつられ、その右側にはお陰あって治癒された方が小石に字を書いて幾つも奉納されてありました。大師堂でも読経を終え納経をいただき境内を散策していました。
ここの境内にも「ヤッコソウ」が生えています。自然に囲まれて人の手が加えられていない自然に囲まれているお寺はいいものです。

遍路(61番から)

 第61番札所 栴檀山 教王院 香園寺(せんだんさん きょうおういん こうおんじ)
 子供達が休みであった20と21日には一泊二日で伊予(愛媛)遍路、22日(月)子供達は終業式で遍路は行けず、通信簿をもらって走って帰ってきました。長男次男両方共前回より少し成績が上がっていました。父親の私としては嬉しい限り。
「さあ明日も朝からお遍路に日帰りだけど行くよ、着替えとか必要なもの準備して」
子供達三人共遍路を楽しんでついてきてくれています。そのうち「僕行かないから、行きたい人で行って来て留守番しとく」とか言いそうな息子がでてきそうです。
本題に戻り、61番(香園寺)さんは近代的なコンクリート建築の大きな大きな建物です。駐車場から境内に入って右側直ぐに手を上にひろげたように大きな杉が枝分かれ(手の指をひらいて上にむけたように)して、生えています。目ざとい次男坊はそこの杉に(手のひらの中に入り込むように)のぼり
「みてみて」
「いやあんまり登らないほうがいいよ」
変わったものをみると、子供は頭より体のほうが先に動いています。「けいくん(四歳)」までのぼっているし・・・
ただ彼らは、あの(仏)の手に抱かれたかったのかもしれないと言い訳をしておきます。

本堂へ行くまでの右側に山頭火の句碑も二つたてられています。

「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」


「南無観世音おん手したたる水のすじ」



山頭火の(自由律)俳句は好きです。
ただ好きというわりに不勉強なのでほんの少ししか知りません。けれども心惹かれる(揺さぶられる)ものがいくつかあります。もしものを書くようになれば山頭火にならい納音から使おうと決めていました。よって私は自分にあたる納音をここに使っています。

「また見ることもない山が遠ざかる」


「分け入つても分け入つても青い山」


好きなものを二つあげて本題へかえります。

 札所は本堂と大師堂が別にあるのですが、香園寺は同じ場所にあります。二階の本尊様の右脇の厨子にお大師様がまつられています。ここの本尊大日如来さまは、お大師様を拝むときにじっくりみれます。圧倒される大きさと荘厳の素晴らしさ、その祀られている建物も相当広いのです。コンクリートですから中で拝めば響きます。さいわいなことに誰も拝んでいませんでしたから家族で大きな声で読経をして気持よく、納経所へ向かいました。

この本堂の右前に赤子を抱いた「子安大師」さまがまつられ、安産でお参りされる方も多いようです。家内に教えたら、もう御縁はこれ以上無くていい(三人子供達がいる)からと急いで離れていました。

家内はコンクリートで現代の技法で建てられている建物を見て
「お寺らしい建て方でなくてもいいんだね」
「自由でしょう」
後で車の中でまた聞いていきました。
「お寺らしいお堂は、当時(昔)の最先端なんでしょう。だったら現代の最先端の建築物でもいいってことかな」
「いいと思うよ、そこの住職さんや檀信徒の方が納得してたら何でもいいでしょう」
ただ大きな屋根と木でできているお堂や塔は、温もりを感じます。そういえばLEDのイルミネーションも冷たい感じがすると神戸のルミナリエも白熱球に交換して電気代は上がるけれど実行されたとどこかに書いてありました。些細なことかもしれません。まあ関係ない話でしたが、温もりを感じることによって救われたいなんて私は思っているのかもしれません。

納経所で納経をいただくときに書いてくれている僧侶の方が
「次の62番札所(宝寿寺)の開創1200年のお姿はもうどこかでいただきましたか」
「いえこれからお参りするのでまだいただいていません」
「それならば、ここでお渡しします」
丁寧に次の札所の分の四国八十八か所開創1200年記念の「おみえ」(期間限定)をいただきました。ただどこの札所も「おみえ」の下部には寺名が入っているのに、62番宝寿寺さんは記載されていません。謎が多いですが次をお参りすれば謎は解けるでしょう。


第62番札所 天養山 観音院 宝寿寺(てんようざん かんのんいん ほうじゅじ)
 境内は鉄道や道路の関係で昔より縮小されているようです。本堂が山門正面ではなく、正面の建物は工事中で何のお堂なのかわかりませんでした。本堂と大師堂が横に並んでおまつりされています。
家内にかわって次男坊が三男(けいくん4歳)を面倒をみてくれるようになっていました。私と長男・家内で線香・ロウソク・お賽銭・納札をすませ、読経をはじめました。多少のことで読経は途中でとめないのですが、次男・三男がはしゃぎすぎて悪さをしたので止めて注意をしました(他の方もたくさんお参りされますから)。またお堂前に戻って
「最初からやり直すよ」
本堂・大師堂で読経と作法をすませ、納経所へ向かいます。

納経所に張り紙がしてあります。

「当寺は四国霊場会と無関係です。」

「納経時間は8時から5時(お昼に12時から1時まで休憩)」

「霊場会が出している彩色(カラー)おみえは在庫がなくなりました。入荷しません。」

そのような3つの趣旨が書かれていました。

以前から噂は聞いていました。納経時間が他より短いこと、四国霊場開創1200年の記念おみえは配布(許可)しない
ことなど、聞いたとおりでした。私はさいわいなことにお昼の時間にかからずにまいれたので何事もありませんでした。
私もいろいろあります。お寺も場所によればいろいろあるようです。無事納経をいただき次へ向かいました。

第63番札所 密教山 胎蔵院 吉祥寺(みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ)
 吉祥寺の山門斜め前の駐車場に車を停め、お寺に向かえば、山門前に象の石像が二頭向かい合わせで蓮台を背中にのせ、お参りの方を迎えてくれます。象にのっている仏さまで有名なのは普賢菩薩です。
子供達は象を見たらのっていました。私は恐れ多くてのれませんでしたが、あの蓮台には仏さまがのるものです。幼子や童子が悪いことを考えていなくて笑顔でのっていたらそれはそれでいいのかと思い写真に収めました。
山門の中心の額には「密教山」と書かれています。門左の看板には「本尊四国唯一体毘沙門天王」とありました。四国の札所寺院の中でもここだけなのでしょう。真言は「オン ベイシラマンダヤ ソワカ」です。
 本堂前に地面と同じ高さにある高さ1mほどの石があり、中央に30〜40cmの穴があり、金剛杖を通せば願いが叶えられるという。「成就石」の案内が看板にありました。本堂と大師堂でお勤めし、納経をお願いしにいきました。年配の男性が、納経に来られる方を待っている間にご飯をたべておられました。
「食事時にすみません。」
「いえいえ、本当なら代わりの人がいつもはいるのですが、今日は皆ではらっていて、ご飯をたべていてすみません。」
謝っておられました。おそらく前の札所、62番札所が食事休憩を1時間きっちりとり、その間納経を受け付けていないので、そのお寺のぶんまで一生懸命にしようとされておられます。たずねてもないけれども前の札所のことを少し説明され、代わりに謝っておられました。出来た方は関係ないと思われる方のぶんまで背負って一生懸命されておられました。
何故かいつも近くにいる人達のことを思い浮かべていました。

第64番札所 石鈇山 金色院 前神寺(いしづちざん こんじきいん まえがみじ)
 前神寺へ向かう道中、すぐ横に「石鎚神社」みるからにとてつもなく大きな神社がありました。家内と子供達へ
「前神寺」が終われば、ここもお参りしていこう」
家内は普段もよく神社やお寺に子供達をお参りに連れて行っています。笑みで応えてくれました。

前神寺は、山岳信仰の山として崇拝される富士、大山など日本七霊山の一つ、国定公園・石鎚山(標高1982mの麓にある。真言宗石派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。弘法大師は若い空海のころ、この石鎚山に2度入山しており、虚空蔵求聞持法や37日におよぶ護摩修法、あるいは三七日(21日間)の断食修行をしたことが知られている。
縁起によると、修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行をしたのは天武天皇(在位673〜86)のころとされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石蔵王権現となって現れたのを感得した。その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇(在位781〜806)が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院・前神寺」の称号を下賜した。
以来、歴代天皇の帰依が厚く、仏像や経巻がしばしば奉納され、諸堂の修復や増築にも寄与されている。また、江戸時代には西条藩主・松平家の祈願所になるなど、寺運は隆盛を極めた。しかし、明治新政府の神仏分離令により寺領を没収され、廃寺を余儀なくされた。その間、石鎚神社が建立されたりしたが、明治22年に霊場として復興した。
信徒は、現在300,000人を超すといわれ、毎年7月1日からの「お山開き」には数万人にのぼる白衣姿の信者たちが集まり、法螺貝の音に「なんまんだ」を唱和している。
四国八十八ヶ所霊場会公式HPより引用


山門近くの看板に「権現縁日毎月20日 石鉄山大権現お開帳 午後七時半 前神寺」とあります。またもう一つの看板には次のようにありました。

 四国霊場64番札所 石鈇山 金色院 前神寺は桓武天皇の勅願により建立され、明治初期までは現在の石鎚神社の位置にありましたが、新政府の神仏分離政策により廃寺となりました、その後、明治11年現在地にかろうじて「前上寺」の名前で再興が許され、元の「前神寺」の呼称が許されたのは明治22年でした。ここは石鉄山東の遥拝所で、石鉄派修験道の本山として全国に30万人の信徒を抱えています。


 山門前に狛犬とピースポールが出迎えてくれています。山門から本堂まで階段はあまりありませんが、山と自然に囲まれ清澄な空気の境内をしばらく歩かないと本堂にはたどり着けません。
本山ですからどのお堂も素晴らしいものです。本堂前には柴燈護摩を修する場所が設けられてあり、横には人が濡れないためにか立派な屋根も常設されています。本堂右の小高い所へ蔵王権現がまつられています。本堂で作法と読経をすませそこにもお参りしました。神仏がともにあることがしっかりとのこっています。そもそもお寺の名前も「前神寺」、神の前の寺とよめます。修験道の行者が使われていた不動尊が刻まれ苔むした滝行を受ける場所も趣がありました。
納経を無事いただき、おとなりの石鎚神社へ向かいました。

石鎚神社
石鎚山総本宮と称し、宗教法人・石鎚本教の総本宮です。とにかく山自体が境内、山にそって社務所や神の祀られた大きな社が幾つもたてられています。本殿は一番上にあり、かなり階段を登らねばいけません。階段にある手すり代わりの鎖は石鎚山にある鎖を交換したもの(つまりは現在のものよりひとつ前の鎖)が使われています。
石鎚神社にしても前神寺にしても石鎚山と関係をもち、平地での礼拝所(遥拝所)となっているようです。神道に教義理念をあたえたのは仏教者です。神仏分離まではお寺が神社を管理しているところばかりでした。
まあそんな細かいことはどうでもよく、仏前も神前もお参りすれば心清々しくなります。個人的な印象では神社には難しいことぬきで有難いと感じる要素が強いです。ここも無事にお参りが出来ましたので(計画に入っていませんでしたが)次の
愛媛最後の札所へむかいました。

第65番札所 由霊山 慈尊院 三角寺(ゆれいざん じそんいん さんかくじ)
 三角寺は山の上にあり、かなり登っていかねばいけません。平地はそこそこ暖かく、雪なんてどこにもなかったのに、登るにつれ気温は下がり、道の脇に雪がふえていきます。住んでいる徳島も平地で暖かいところですから、普段見ない雪を見て子供達が興奮しています。
「おとうさん、おろして」
「なんでよ、まだ着いてないよ」
「雪合戦するから」
「頼むからお参りがおわってからにしてくれ」
しょうがなく、実際はちっとも納得いっていませんが、しぶしぶ「はい」と言ってます。
四国の札所の幾つか、山上にあり、道が険しく乗用車でも、対向車をかわせるところが少なく、お寺専用道路のため道路維持のため料金がかかるところがあります。ここは山門下の駐車場料金ですみました。
駐車場から勾配のすこしきつい階段を登れば山門が見えてきます。仁王像と立派な山門が迎えてくれました。山門には鐘も中心に釣られ、裏に賓頭盧尊者もまつられていました。本尊十一面観世音菩薩、雪が沢山降り積もった境内で子供達ははしゃぎまわっています。さいわいにもお参りの人がほとんどいないので迷惑をかけずにすみました。しっかりと本堂・大師堂で作法読経がすめば、また子供達は雪で遊んでいます。その間に納経所へ行き、無事に納経をいただきました。この日はこれで打ち止めとなります。
次は住所は徳島県ですが香川県の札所に属している(どうかんがえても地図で見れば徳島より香川や愛媛にちかいため)雲辺寺です。納経所の方が親切に「この時期は道路が通れないから、ロープウェイを使わないと」そう教えてくれました。日を改め、今度は讃岐(香川)の札所へお参りとなります。


遍路(56番から)

 第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺(きんりんざん ちょくおういん たいさんじ)
 泰山寺駐車場には見たことが有る大型バスが停まっていました。ひょっとしたら知り合いが乗っているかもと思い、写真を取りながら境内へ入りました。なるほど団体様が先達様に大師堂を拝んでいました。納経所を覗いてみると顔見知りの添乗員様が納経の判をお手伝いされておられました。縁の下の力持ちです。
「お手伝いしましょうか」
「ああ、こんなところで会うとは(びっくりされていました)」
「(ふふふ)ではお参りしてきます」
その会話を聞いていた長男坊が質問してきます。
「お父さんあの人知っているの」
「何十回以上もお会いしたことある人だからね」
「お手伝いって」
「(ふふふ)お手伝いする気はないけれど、挨拶みたいなもんだよ」
本堂に向かいました。「不忘の松」小さな松があります、何やら気になったので写真に収め、本堂正面斜めから離れたところには「地蔵車」があります。回せるものは回すのです。子供達も真似して地蔵車を回しています。

石塔に丸い輪があり、これを回すと六道輪廻の絆を断てるといわれる。
六道は、地獄・餓鬼など衆生が背負う六つの迷界。(四国霊場会公式HPより引用)


境内の説明も同じようなことがのっていました。「輪廻の絆を断つ」これはちょっと聞いてわかりにくい言葉です。一気にわかりやすくします。
遠い遠い過去より生命が生まれ死に生まれ死に今ここにいる。悪い行いが今に何らかの形が引き継がれ(影響され)悩み苦しむ、その悩み苦しみとらわれる輪からの解放、つまりは解脱・涅槃ということです。
簡単にいえば「さとる(仏となる・正覚者となる・ブッダとなるでも可)」でしょう。

泰山寺の本尊様は地蔵菩薩(伝弘法大師作)です。作法と読経を済ませ、ふと右側のガラス張りの通路を見れば、仁王様が二体が安置されていました。

そういえば山門は見当たりませんでした。消失して仁王様だけ避難しているのか、老朽化のため本堂横におられるのか、仁王門を境内に事情によりまだ建てることが出来ないので、仮宿をされているのだろうかなんて思い写真に収めました。
大師堂へ向かう途中、団体の添乗員さまが笑顔で挨拶をして別れました。
私達も無事に大師堂で読経を済ませ、お納経をいただき次へ向かいました。


 第57番札所 府頭山 無量寿院 栄福寺(ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ)
 このお寺の名物は、白川密成(住職)様です。『ボクは坊さん。』という本を書かれています。確か新婚さんいらっしゃいにもでていたとか耳にしました(本当かどうか見ていませんが・・・)。糸井重里さんと知り合いと書かれていたように思います。それはさておき、栄福寺は広い札所の境内と比べればさほど広くはありません。新しくお堂ではない建物がありました。少し変わった印象の近代的な建物です。何故かそれは妙に納得しました。

本堂には阿弥陀如来さまがまつられています。本堂前の左側にもう古くなった箱車が置かれています。それには千羽鶴も幾つか掛けられていました。いざり車を誰か奉納したのかと思い写真に収めました。

少年の箱車
足の不自由な15歳の少年が、犬に引かせて巡礼した箱車で、 昭和8年にこの寺で足が治り、松葉杖とともに奉納したもの。四国八十八か所霊場会公式HPより抜粋


調べてみれば上記のように少し違います。ただお陰あって奉納されていかれた有難いものだということにはありません。
やはりここにも仏足石がありました。本堂・大師堂共に作法お参りし、納経をいただきました。


第58番札所 作礼山 千光院 仙遊寺(されいざん せんこういん せんゆうじ)
小高い場所にあり、道路整備を自動車などで行く場合には使用料を(お寺へ行くまでの道)護持のために払うことになります。駐車場横に大きく綺麗な子供を抱いた観音様が見えますので、近づいてみました。子安観音とあります。家内へ声をかけます。
「子安観音さまだよ、子安とは子宝に恵まれるというと安産であるというをとって子安その観音様だからありがたいよ」
家内は観音様に目も合わさず、すたすたと本堂の方へ小走りでさりました。

「もう子供は三人もいるからこれ以上はご縁は」

楽しい人です。

阿坊(あぼう)仙人と称する僧が、ここで40年間仙人のような生活をした後、雲のごとく姿を消してしまったといわれており、このことから仙遊寺という寺号がついたと言われています。


仙遊寺境内にある看板にそう書かれていました。

ここにも仏足石がまつられてあり、

インドグプタ朝五世紀の作で最も古い仏足石の模刻です

と案内に書かれていました。
本堂正面左脇に四国随一の大きさと書かれた賓頭盧(びんずる)尊者がまつられてありました。確かに今まで本堂などの脇にまつられていた賓頭盧尊者より大きいです。大きさもさることながら説明もしっかり記されていました。

「博識であり十善を尊重し、神通力を得た。白髪長眉の相があったといわれる。
彼の説法がライオンのようであったため獅子吼第一とされた。なお身体が赤いのは神通力をあらわすためであり、決して飲酒したわけではない。撫でて神通力をあやかれば除病の功徳があるとされる」


割りと低い位置にあんちされてあるので、特に頭を皆がなでられているのか(頭の病の人が多いのか)頭頂が他の部位よりつるつるしていました。礼拝だけして(私は)さわることをしませんでした。

本堂正面の戸(左側)に東日本大震災復興祈願という紙が貼られあります。一日も早い復興を願います。ここの本尊様は千手観世音菩薩です。本尊様は雰囲気がよいものでした。ありがたいです。大師堂で読経を済ませ再度本堂内に戻り、納経をすませて次へ向かいます。

第59番札所 金光山 最勝院 国分寺(こんこうざん さいしょういん こくぶんじ)
 四国は四県あり、阿波・土佐・伊予・讃岐それぞれ国分寺があります。ここは伊予の国分寺となります。

国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。四国霊場会八十八ヶ所公式HPより引用


奈良の東大寺を中心として、全国に国分寺・国分尼寺が建立され、その一つとなります。

小高い場所にあるためか、ここも冷たい冬の風が吹き抜ける中お参りとなりました。まず階段を少し上がり、入って左手にある手水場が新しく建立されていました。よく龍の口から水が出るところが多いのですが、ここは本尊様が薬師如来さまですから、かわいらしい薬師の壺が手水場の中心にあり、スイッチを押すとその壺の四方から水が出るちょっと楽しい手水場です。まだその存在に気がついていない長男坊を呼びます。
「ほらちゃんと手をここで洗って」
「うん」(真面目に手を洗っています)
「ちょっと今手を洗った分、水が減ったんじゃない」
「そうかな」
「減ったからたすね(スイッチオン)」
ピューッと四方から水が出たのを見て、驚いています。
「最初に言っとくけど遊びで使ったら駄目だからこれ以上足さなくていいよ」
「いや、まだ足りないからたさないと」
どうもやりたいだけのようです。
「ほどほどにね、ああそれと次男と三男にはこの存在教えないで」
「何で」
「面白がって、ずっと押しっぱなしだろうから・・・」
「そうだね」
まあそんなちょっとユニークな手水場です。確か看板に開創1200年記念事業にあわせて建立したようなことを書かれていたように思います。
寒い風が吹く中、本堂と大師堂で作法と読経を済ませ、納経所へいきました。納経所も新しくいい感じなところで、僧侶二人が座って待っておられました。無事納経もいただき次へいきます。

第60番札所 石鈇山 福智院 横峰寺(いしづちさん ふくちいん よこみねじ)
 今までの札所は少し小高い所には会っても、横峰さんにくらべれば、低いところにあります。国分寺あたりの外気温は7どくらいだったでしょうか、横峰寺へ向かうにつれ、段々と道端につららや雪が見えてきました。この時外気は0度になっていました。横峰寺へ向かう道路は細く荒れているところもあります。有料道路に入れば更に細くあれているところもあります。台風や大雨・大雪には通れなくなることもよくあります。また冬期は朝8時から夕方4時までの交通制限もかかります。
今回はまだ温かい日でしたし、交通制限もかかっていませんでした。一応タイヤに取り付けるチェーンも持って行っていましたが、運良くノーマルタイヤでお参りできました。ただ山頂は雪がふり水があるところは凍っているところばかりでした。風も強く、温度以上に体感温度厳しいものでした。この時59番から60番への移動中に寝ていた三男坊「けいくん」は戦意を喪失、なので駐車場から境内まで彼を肩車して向かいました。
はじめ直ぐそばだろうなんて思っていましたが、上り下りはあるし距離は割と離れています。それでも本日の打ち止めの札所となりますから最後まで張り切りました。山上の雪景色の中のお堂は美しいものです。冷たい空気も何故か凛としたものをより感じさせてくれました。本堂・大師堂と読経を済ませている間、回復した三男とやんちゃな次男は雪と氷で遊んでいました。帰りはもう歩いて帰るだろうと思ったら
「おとうさん、おんぶして」
仕方ないのでまたあの道を肩車して帰りました。朝早くに起きて徳島を出てから割りと時間が経っており、家までなんとか運転したかったのですが、家内が見かねて途中で帰りをの運転を変わってくれました。お陰で無事に一泊二日の伊予(愛媛)遍路を終えることが出来ました。想像していたよりあの子達が良い子でしたので順調に回れ有難いことです。

でも、まだ61から88番と高知が少しと、徳島がまだほんの少し残っています。



まだまだ遍路は続くのです。

理由

 第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺(くまのざん こくぞういん いしてじ)
出発前から遍路の最中もずっと雨が降っていました。遍路の団体(バス)の方たちは皆傘ではなくカッパのようなものをきていました。お参りするのに傘は不向きです。ただ統制がとりにくい家族子供遍路、末っ子4歳の「けいくん」は幾度か転んだり雨の中走り回ったりして、用意していた着替えが底をつきかけるほど着替えました。家内がつきっきりで世話をしていましたがはしゃぎすぎたり楽しんでいる子供は抑制出来ないことが多いです。
世話をする家内も傘をさしていましたが大分雨で濡れ、身体が冷えていました。石手寺横の駐車場でしばらく車の中で暖をとり休憩しました。15時でしたので家族には今日はここで打ち止めするから、石手寺だけ最後がんばろう。元気な私は先に写真をとってくると一人で石手寺境内をぐるりとまわってきました。一言、一風変わった感じのお寺という印象です。
石手というなのあらわすとおり、衛門三郎が亡くなる前にお大師様へ「今度生まれてくるときは、善いことをしたい。」(大分要約)無事に殿様として生まれ、その手にはお大師様が亡くなる前に衛門三郎に持たせた「衛門三郎再来」という石を手に握って生まれたお殿様、その物語の中心となる寺なのでしょう。
境内にかなり大きく達筆で「再生」やさまざまなことが書かれてありました。仏陀研究所と呼ばれる建物もあります。看板に人間らしい仏陀、苦悩する仏陀などさまざまなことが大きく書かれています。なんと新しく納経をされた人には小冊子で仏陀について書かれた住職さんの本がついてきます。納経料は300円、小冊子というより簡単な本です。
「これ本をつくったら単価(卸値)一冊300円くらいは絶対しそうです。」
真言宗豊山派のお寺ですが、仏教はブッダからスタートしていますので、ブッダのことが大好きでも何もおかしくないです。本尊様は薬師如来でした。一風変わったものにインパクトを受けすぎて、立派な堂宇伽藍が見落としがちでした。お寺はその代の住職さんに影響をかなり受けます。まあこれはこれでいいのかもなんて思いながら初日の遍路は終わりです。

このすぐ近くに道後温泉本館があります。以前道後へ温泉に入りに来たときの道中に石手寺が近いことを学びましたので、道後温泉街を観光へ、とたんに子供達は大張り切り(遍路も真面目に頑張ってましたけどもっとという意味で)温泉に入って、予約をしていませんでしたが、安めの旅館で素泊まりをすることに、旅館のおばあさんは子供達三人いるということもあって頼んではいませんでしたが値段を安くしてくれました。お部屋も下がお風呂だから少し「子供さんがどんどんはしっても大丈夫だから」そう言って配慮してくれました。お風呂は温泉でした。早めに寝て朝早くから長男次男と一緒と温泉に入り、なんとか宿を7時少し前には出発(私にしては珍しく計画的実行)、それから52番へ向かう道中にコンビニへよって「皆好きな食べ物をたくさん買っていいよ(朝ごはん限定、おもちゃお菓子不可)」
長男はおにぎりを3つとパンと何やらたくさん買い込んで、ぺろりと食べていました。小学六年生になれば大人並みです。

第52番札所 龍雲山 護持院 太山寺(りゅううんざん ごじいん たいさんじ)
道後温泉付近と違って、山があり静かです。駐車場も少し離れた所にとめねばいけません。朝早い上にまだ外は寒いのでまだ末っ子は甘えて歩く気がないです。
ということは私が肩車していくのです。賢い子だから肩車したら皆に
「早く行くよー」
「おいおい皆に掛け声欠ける元気があるなら歩きなよ」
「あるけん」
木に囲まれ紅葉したもみじが参道にたくさん落ちてきれいでした。そこから勾配のきつい坂をあがって境内へ向かいます。早朝から掃除をされているお寺の方が私と上にいる「けいくん」を見て
「おはようございます」
「坂きつかったのに、よくのぼってきたね」
「はい(だって自分で登る気がないから、肩車するしか無いし)」
けいくんも通りすぎる人達に「おはようございます」挨拶をしていました。小さい子はどこへ行って人気者です。特に寺社参りのときには、皆が優しい目でみて、笑顔で声をあの子に掛けてくれます。
「小さいのに偉いねえ」
あの子にその意味がわかるのは、大人になったときだと思います。
早朝の澄んだ空気、人気の少ない境内、太山寺本堂は国宝、古く趣きのあるお堂、火気厳禁です。それでも少し離れて線香とロウソクをおまつりするところは設けてあります。長男次男と並び最初の読経、今日は晴れで雨に濡れない心配もないことが有難いです。線香を立てる灰も綺麗にならされ私も家族も気分よくお参りできました。境内も掃き清められています。何気ないことですがそれによって心が清くなることがあります。澄んだ空気・静かで清掃の行き届いた境内・大きく立派で大屋根の諸堂・お遍路の方だけではなく散歩でこられている方もいました。その気持がなんとなくわかったような気がしました。大師堂でも作法を済ませ、くるっと本堂の裏を回れば、聖徳太子堂があります。どうやら学業にご利益があるようです。そろそろ受験の長男坊は
「おーここは拝んでご利益をいただいておかないと」
「それも大事だけどやっぱ普段の努力じゃないか」
「いやお願いしとこう」
どうも受験(参加)するだけだからといっていましたが、やはり受かりたいようです。
帰りは気分が良くなったのか三男坊(けいくん)は歩いてしっかり帰っていました。本堂から割と離れた下にある納経所へ行き無事納経していただきました。

第53番札所 須賀山 正智院 円明寺(すがざん しょうちいん えんみょうじ)
松山市内八ヶ寺の打ち終わりの霊場となります。太山寺とは違い平坦なところにあるお寺です。善い感じのお寺です。山門をくぐり境内に入れば、本堂大師堂の近くにもまた門があります。上の方に「遍照金剛」という額が飾られています。ご本尊様は阿弥陀如来さま、私は阿弥陀さまは縁があると(根拠は何ですかと聞かれればないのですが)思っています。阿弥陀さまが本尊様であると知れば、妙に親近感が湧いてきます。すると初めてのところももっと好きになれます。
境内にキリシタン石塔がありその昔隠れてお参りされていたものだとか(ただ説明書きには諸説あります。)書かれていました。風化が進んで元の正確な形がどのようなものであったかわかりませんでした。仏足石が置かれてあります。どこの札所にも有るわけではないです。この辺りには特に多いのではないかと感じました。
本堂の右上・鴨居にあり、5mほどの彫り物があり、左甚五郎作の龍、行い悪い人が見ると目が光るという。説明が霊場会公式HPに載っていました。なにせ帰ってきてからその説明を見たもので、行ったときに見忘れました。

「私悪い人だから見なくてよかったと思います。」

無事に本堂大師堂で読経を済ませ、納経をいただき次の札所へ


第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺(ちかみざん ほうしょういん えんめいじ)
 延命寺山門は元今治城門を譲り受けたものだと山門の近くの看板へ書かれてありました。御本尊様は不動明王です。本尊が不動明王だから密教系寺院だろうと思いました。調べれば真言宗豊山派です。
山門からちょうど真正面に本堂が見えます。本堂へ行く途中の小高い左側へ大師堂があります。このお寺はのどかな印象を受けます。

越智孫兵衛の墓
阿方の庄屋であった越智孫兵衛は、 農民の窮乏を救い、享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられる。


ただの善人であった人の墓があります。境内はそれほど広くはありません。お遍路さんにも割りと出会いました。この辺りから私は今日の予定を気にしすぎていたのか、境内ですれ違った尼僧さんくらいしか思い出がありません。
急ぐということは悪いことが含まれていることを忘れてはいけないです。


第55番札所 別宮山 金剛院 南光坊(べっくざん こんごういん なんこうぼう)
平地にありますが山門もとても大きく本堂大師堂も立派です。ただ山や周囲に建物が無いために吹き抜ける冬の風が冷たいです。
大師堂横に駐車場がありました。山門から入り直す前に写真を撮りました。仁王様ではなく四天王格調高く大きく上品な四天王様が南光坊を守護しています。
いつものように手を洗い口を漱ぎ本堂にて線香ロウソクとお賽銭納札を済ませ、並んで読経です。本尊様は珍しい仏(如来)さまです。(もっとも法華経を読誦していたりする人には珍しくないのかもしれません)

大通智勝如来『法華経』の化城喩品第七に説かれている仏です。
目的地を目指す道が険しく疲れ果て目標を見失いそうな時、率いる長が
「(幻の城を出現させ)あそこが目的地だ、皆のもの、もうひと踏ん張りだ。」仮の場所に辿り着き、休息をとって心身共に恢復すれば、本来の場所に導いていく。
たしかそんな感じの話が法華経にのっていたと思います。千里の道も一歩から、遠すぎれば時に人は今自分がどこで何をしているのか何をしたかったのか、そんなあたりまえのことも忘れてしまいます。
忘れてもいいです。迷ってもいいです。思い出せばそれでいいです。(生きているうちに気がつけばいいのです)
思い出せば必ずその人は歩みを進めていきます。

まあかなり脱線した話ですが、本当に素晴らしい伽藍です。この日は12月21日今年最後の弘法大師の(縁)日で大師堂ではこのあたりの僧侶の方が集まられ、大師堂で作法をしているときに何人もの僧侶の読経が響いていました。
ちょうど私達がお経を唱えようとした時、僧侶が退出してきたので、元気よく挨拶をしました。中に尼僧さんもいました職員さんかこの辺りの近くの住職さまが尼僧なのかどちらだろうかなんてどうでもよいことを考えていました。
子供達と読経を済ませ、納経をいただきにいきました。この時期納経所で並んでいることはなかったのですが、ここ南光坊は何人もがならんでいました。年配の方が一人納経されていました。どうも人を見かけたら話しかけることが大好きな方です。並んでいた私と長男にもいろいろ話しかけてくれました。親切にお尋ねしていないことまで教えていただきました。
納経所でお礼をのべ、車への帰り道に長男坊は
「お話するのが大好きな人なんだね、だからここだけ並んでいたのか」
「いやそれだけじゃないかも、今日はお大師様の日だから、拝んでいたり(行事)で人がとられてたのかもよ」
まあ楽しそうに納経をされる方でした。余計なお節介を私も良くしますし話も多めですから、私自身が一番問題だと勉強になり次の札所へ車を走らせました。


(長いので続きの記事が書けておらず、明日へ)
まだ続くのです。

続・坊ちゃんたちと

 第47番札所 熊野山 妙見院 八坂寺(くまのざん みょうけんいん やさかじ)
古風という印象より比較的新しいつくりのものが多い印象のお寺です。駐車場も新しいですし、柴燈護摩を修される壇の後ろに不動尊(立像)もまつられ、その真後ろに山があり、不動尊が本尊か山が本尊か修する行者が本尊なのか、あれこれ思いながら有難いので写真に収めようとその場所をカシャリと撮るのですが、その感じ取る雰囲気は写真には取れないような気がしました。

熊野権現をお祀りされている。熊野本宮は阿弥陀の化身といわれがあるように、このお寺の本尊様は阿弥陀如来さま、本堂下には万体阿弥陀仏が安置され、数えてはいませんが沢山の阿弥陀坐像、一体は考えていたより割りと大きめでした。

ここの副住職さんでした確か山岳修行をされています。柴燈護摩・山岳修行ときてこのお寺の宗派は真言宗醍醐派とあり合点もいきました。理源大師聖宝さまの開かれた醍醐寺も山上の観音様のおわしますところ、八坂寺の開基も役小角とあり、行者つながりもまた納得しました。

閻魔堂と地獄の道・極楽の道など、大人の私が見てもドキリとさせられるものです。次男坊に地獄の道があるよ長男に声をかけます。怖いもの見たさか恐る恐る見ています。他所にはないから余計に有ることが有難いと感じました。降りしきる雨の中、本堂と大師堂で読経を揃って済ませ、納経をいただき次へ向かいます。

第48番札所 清滝山 安養院 西林寺(せいりゅうざん あんよういん さいりんじ)
 松山市にある札所、本当に車でお参りするのであれば近く、あっという間です。
駐車場には大型バスが一台いました。小川の横にあるお寺、立派です。ただ小川を渡ってすぐに大師堂がありました。
石碑には「大師堂番外札所四国八十八か所」とあります。よくわからないので後でまた調べることにします。
西林寺も自由に鐘はついてよいようです。子供達は鐘を見れば走って撞きに行こうとするので
「優しく鐘は大切に撞かないとだめだよ」
「はーい(ちっとも声は次男坊には届いていません)」
力の限り撞こうとしています。
「優しくしないと駄目だよ」
本堂にいくまでの左側に地蔵尊がまつられています。立派な屋根がついていますが、それを支える柱は木の生えたままの形を利用し一本の木で屋根を支え、お地蔵様と自然の形の木がなんとも言えず、印象的です。本尊様は十一面観世音菩薩、恐らくここは大笑いの面がある素晴らしい十一面観音様をまつる真言宗寺院と勝手に推測していました。帰って調べてみるとやはり真言宗、豊山派でした。徳島県は真言宗が多いです。それも高野山が多いです。愛媛は智山派か豊山派が多いようです。団体様が本堂でちょうどお参りをおえたあと、私達も読経を終え、続いて大師堂へ、大師堂の横には小さな小さな池がありその中心には天然の石の形を利用した上に小さな祠があります。それを中心に枯れた蓮の茎が何本もありました。夏場でしたらきっと青々とした蓮の葉がここに茂っていたのでしょう。ひょっとすると蓮の花も咲いていたのかもしれない。自然とシャッターを切り、納経所へ向かいました。

第49番札所 西林山 三蔵院 浄土寺(さいりんざん さんぞういん じょうどじ)
名前が浄土とついてあります。本尊様は阿弥陀さまかなとおもっていましたが、釈迦如来様です。ただ空也上人ゆかりのお寺ですからそこに寺名が反映されているのでしょう。
山門前左にピースポールが立っています。「世界の人類が平和でありますように」本当その通りです。
山門前右に仏足石があります。足裏の紋様もシンプルで中心に転法輪がひとつあるくらいのもの。どのお寺もですが山門があれば仁王さまがまつられており、境内を守っています。平幡良雄先生の四国遍路の本に(要約すると)

「この門をくぐれば、厳しい遍路修行の始まりとなる。そなたにその覚悟があるかどうか。その覚悟がなければ帰るほかあるまい。」


そのセリフをよく友人に
「そなたはあの門をくぐってここへ居るのだろう。覚悟がなければ帰るほかあるまい。」
「そんなこといったら皆帰ってしまいますよ」

覚悟はなくても遍路は出来ます。

ニーチェだったか「獲得される真理の高さは獲得した真理への努力に比例する。」その言葉と同じものなのでしょう。
空也上人は念仏聖、六字名号を唱える、一字一字が仏にたとえられるほどのかたです。おそらくは接した人は空也上人が阿弥陀様におもえたかもしれません。ただ「空也」とは「くうなり」と読めます。どのように素晴らしい方もまた空なり。移ろいかわり、やがては滅していきます。けれども何故か伝説や人の心に生きていたりします。形がない心に形がない空が入りやすいのかもしれない。なんて境内の松をみながら写真をとります。
本堂・大師堂で読経を終え、納経をいただき次の札所へむかいました。

第50番札所 東山 瑠璃光院 繁多寺(ひがしやま るりこういん はんたじ)
 繁多寺の山門から本堂まで少し離れていますが整備の行き届いた真っ直ぐな道です。道より少し上の壇上に本堂があり、本堂斜め前に鐘楼堂があります。長男が鐘を撞こうとすると奥の方に立て札がありました。鐘楼堂の説明と天井絵について書いてありました。
鐘楼堂にきれいな彩色をほどこした天井絵、「綺麗だね」と二人で声を合わせそれから鐘を撞きました。
すると山門から僧侶の一群が整列して現れました。家内も長男も次男も「けいくん」は少し驚いていました。私は見て直ぐに何かわかっていたので驚きませんでした。智山派の僧侶の四国遍路です。この間その中の二人と話をしましたので、ただ同じような衣(装束)でしたから二人をみわけることができませんでした。それもそれでいいかなんて思いながら本堂で読経をしようと思いましたが、あの一群の読経を聞いてからでもいいかなと思う前に颯爽とお勤めがはじまりました。家族は揃った大きな声の読経に圧倒されていました。
「ではこちらも負けずに行くよ」
声の大小と人数で勝負はつかないものです。そこに心あればいいんです。読経がはじまれば落ち着くものです。何かに集中していれば繁雑なことはかんがえれなくなっていきます。読経のよいところです。
(しかし、あの人数での理趣経・御詠歌・陀羅尼はかなりの迫力です。)
そんなことを思っていたら、その団体の添乗員さんが納経所へ挨拶に行かれていました。何故か知り合いなので本堂前からその方へ手を降るのです。(ここにいますよ)
二度くらい私を見て、どうも私だと確信したようです。
「個人的ですか」
「そうです。家族できています。あそこに長男、あっちに次男、えっといたいたあそこに三男、その後ろに家内がいます。」
どうも添乗員さんは私と長男と次男が読経と納経をしている間に、三男の面倒で走り回っていた家内へ
「お接待です」
そう言ってバスに乗って帰られたと家内は言っていました。
繁多寺の前の池にカモが3匹ほどいました。次男坊はカモに「カモーン」とか大きい声で呼んでいました。
「そしたら本当にきたんだよ、凄くない」
ある意味すごいです。

まだ(明日へと)続きます。

坊っちゃんたちと

 四国遍路はじめから1番からではなく、変則的に回っています。初めは徳島から一番遠い高知の足摺岬近辺(33番雪渓寺から愛媛に入り45番岩山寺まで)、続いて徳島(阿波)の札所8番から23番札所まで打ち終え、今回は45番岩屋寺の続き愛媛、道後近辺札所を打ち終えました。

第46番札所 医王山 養珠院 浄瑠璃寺 (いおうざん ようじゅいん じょうるりじ)

「何故お寺の名前が浄瑠璃寺なの」

簡単です。

浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。
縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。
四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ引用



考えても出てこないので調べさせてもらいました・・・。

確かに引用の通り松山市内打ち始めとあるとおり、どこも車で回ればさらに近いです。衛門三郎ゆかりの寺、文殊院も通りすぎていきます。

「おとうさん衛門三郎って」

「遍路を最初にはじめたと言われている人で、この文殊院辺りで生まれた人なんだ。」

それから衛門三郎について熱く語っていたら、浄瑠璃寺を通りすぎてしまいました。つい話し込むとすべてを忘れてしまいます。12月20日朝6時半頃に徳島を出発して生憎の雨模様です。起きる前から雨は降っていたようです。

浄瑠璃寺へ雨が降りしきる中到着、朝も早いせいか、雨のせいか一組か二組の方くらいしか遍路の方にお会いしませんでした。ここは仏足石があると案内であったことを覚えていましたし、そこへのってお陰もいただけるから子供達は絶対のるだろうと思っていましたが、雨が割りと強い上に仏足石は雨で濡れている上に水たまりもできていましたから、のるのは断念、写真に収めて本堂に線香・ロウソク・納め札とお賽銭を済ませ並んで読経です。末っ子の「けいくん(四歳)」雨だというのに境内を傘もささず縦横無尽に走り回っています。お世話をする役回りになる家内は雨とけいくんでいっぱいいっぱいです。大師堂でも同じように作法を済ませ、納経所へ向かいます。浄瑠璃寺の境内は比較的狭い印象です。

ただ「説法石」がありインドのお釈迦様が活躍されて有名なグリドラクータ「霊鷲山の石が埋め込んであります」と書かれてありました。住職様がインドに行かれていただいてこられたのかな、有難いことだから、ただここも仏足石と同じく雨でずぶ濡れです。写真にだけ収め納経をいただいて次の札所へ向かいました。


(後片付けのため続きは明日へ・・・)

あれこれ

 皆の休日に出勤日が多い仕事、サービス業など沢山あります。私も皆の休日が仕事は忙しいために平日に休日が多いのです。

つまりは双方の実家から離れて(仕事の関係で)暮らしているため、私と子供達の休日はほとんど合いません。それでも家内が家を守ってくれているので休日がくればあの子達を一生懸命見てくれています(もっとも母親ならば当然だと言う人もいます。)当たり前のことをあたりまえに出来ていないことが多い私に、家内があたりまえのことをしっかり続けてくれていることが有難いです。

それでも正月の時期を外し、実家へ帰省や挨拶のためにいつもお休みをいただいています。今回の休日を帰省に使ってしまえば、また子供と休みが合わなくなり、四国遍路1200年記念が終わるまでに遍路を打ち終えることができません。帰省は次の連休へと先延ばしと。

私だけが風邪をひき迷惑をかけただけで、子供達は誰一人今のところ風邪も引かず怪我もせず無事で出発できそうです。(最もこの記事が出ていれば、もう出発して朝から伊予(愛媛)の札所をうって、どこかでゆっくり明日の準備をしている頃です。)


できれば、格好良くありたい・賢く見られたい・善い人だと思われたい・好かれたいなどとあれこれ持ちすぎてしまう私です。人には簡単に(特に子供達には)「正直が一番だよ、素直な心が一番、嘘をついてもいずればれるから」そう言うのに実際実行できているかどうかは怪しいではなく、できていません。

虚栄心がいつも読んでいないのに(実際は私がよんでいるのにね)でてきてばかり


私は欲張りだから、子供達を見れば素直さ・笑顔・あどけなさ・何気ないことに照れたりするしぐさを見て笑顔になります。

ここでまた呼ぶのです。

あの子達よりもっと私は素直でありたいです。



慈悲の心からでる真っ直ぐな心、それが正直な心である。(中村元)




(正確におぼえていませんが、確かそんな感じで載っていました。出先から戻れば元をまた見て直しておきます。)

楽しい

 (徳島の)阿南に友人がいます。もう割と前になりますがその結婚式に呼ばれ、友人のお父さんの挨拶が印象的でした。
「私とあの子の黄金時代です。」そのようなことを言われていました。

うちの長男坊は小学六年生、来年は中学生です。まだあの子が産まれておらず、家内のお腹にいるときに徳島へきました。徳島育ちです。どうでしょうね、私と家内が生粋の徳島県民ではないために言葉もそれほど阿波弁(方言)はきつくないです。

あの子は忘れっぽいところ、調子に乗りやすいところ、饒舌なところなど悪いところはよく私に似ています。物わかりのいいところや優しいところ、善いところは家内に似ています。あの子も初めて進学について選択肢が訪れています。

勉強が嫌いな私ですから、住んでいる近くの学校へ進むのだろうなんて思っていました。あの子の一番の友達は学校一の秀才らしく、何やら頭のよさそうな学校を受けるとか、気がつけばお供で受けるなんて私と家内に言ってきました。

「勉強していないからあなた落ちるよ」

どうやら参加することに意義があると胸を張っています。そこは私はそれはそれでいいと思いますが家内は難しい顔をしていました。

(きっかけが何であれ、善いことに出会うのなら、そのきっかけはなんでもいい。できれば早くあればなおいい。)

「それはそれでいいんじゃない。」

あの子を毎日見ていれば、何とかなるかもしれないなんていう考えが見えてきます。「いやそこは甘くないと思うよ」なんて思いながら、またしばらく眺めておきます。試験の日が近づいてきています。お節介な私はその学校の入試過去問題を家内と一緒に買いに行き、あの子(自身の)甘い考えを、自分自身に知らせるためにするだけです。

「今日早速、晩御飯と宿題と手伝いが終わったら、模擬試験やってみるよ」

「うん」

意外とやる気はあるようです。本番と同じように時間をはかり、「兄ちゃんの邪魔をしないように」次男坊と「けいくん(三男坊)」に小声で言います。

時間です。「はい、そこまで、鉛筆を置いて」

「あー」

どうも、本格的な学校以外の試験を受けるのは初めてなので、(自分の現実を今は少し)思い知らされたようです。

採点後

「どうだった、結果見て受かりそう」

「だめだね」

それに自分で気がついただけよかったです。

「まだ本番じゃないし、落ちても近くの学校もあるし、今は自分の現状をしっかりとみつめてくれればそれでいいよ」

「うーん」(思いのほか試験が甘くないということが、少し伝わったようです。あくまで少しです。)

あの子の一喜一憂、いろんなこと見て聞いていれば楽しいです。楽しくて仕方ないです。



「私とあの子(達)の黄金時代」それがいつまでも続けばと願います。

(知らぬ間に)習って

 すべてはどこかにつながっっている。その不可思議なつながりという言葉を平易に「ご縁」という言葉でよく使っています。

自分一人で見知らぬ土地でと思っても、どこかでつながっていることの気がつかされる。大きく広い世界がすっと身近に感じる。

誰も自分を知らない場所というのも羽が伸ばせます。これは(束縛からの)遠離でしょう。

皆が知っている場所であるがのびのびと居心地がいい。これは(束縛からの)解脱でしょう。

昨晩布団に入りながら、何かについて書かなければいけないと思いつき、その言葉を思い出しながら涙していました。朝起床、仕事へ、帰宅、それが何だったのか、悲しい話ではなかったことだけはっきり覚えていくるらいです。

仏足石について(インターネット)調べていました。本当は書物がよいのですが、近くに無いので仕方なく幾つもの情報を集め、どれが正解という正解を集めるのではなく、集めたものによってぼんやりとでてくる大まかなものを見ようとしていました。結果先日歩き遍路で訪れてきた若者の父親のホームページへ何故か辿り着いていました。

辿り着いたことも少なからずびっくりしたのです。それ以上に驚いたのはその内容の深さと高さ、驚きを隠せない私は近くにいる友人へ

「全部よまなくていいから、これを少し読んでみて」

少し読んで大きい目をして無言の返事、幾つかの文を読み、普段賑やかでとても饒舌な(コメントなど多すぎる)のに、しばらくししてぼそりと一言


「お坊さんだ」


何でしょう。彼自身の言葉でずしりと重い一言を聞きました。


私が毎日書き続ける言葉も軽すぎるものだと思わされるものに何故か出会いました。それをたずねられれば(たずねられてもいないけれど)

「ご縁でしょう」


ならってそうこたえることしかできません。

言い訳の多い(私)

 住んでいるここ(徳島県の平野部)でも雪がちらついています。徳島県西部は雪での被害が報道されています。寒波の影響、普段降らない所へ思いもよらぬ時期に降れば思いもよらない事態になっています。

昨日久しぶりに意見の衝突、それぞれが思っていることは、微妙にどころかしあわせをねがっていても思いがやはり違います。捨てきれない私は感情的にそれで衝突します。正しいという思いを持ちすぎて押し付けてしまい、相手を否定することをよくしていました。今回はそうではないけれども、愚かな振る舞いが多ければ今回もそうだと決めつけられます。過去は変えようのないものです。

時はそれに関係なく流れ、外は強い寒く冷たい風とちらつく雪、「冬」です。

感情で相手を許せないと一時的に思っても、その思いを自分で断ち切れば許せるはずです。それが簡単な時と難しい時があります。捨てたと思っても捨てきれておらず。無いと思ってもいつの間にかある。それが善いことであれば誰もが嬉しいでしょう。

冬の次に春が訪れます。ころころと猫の目のように変わりやすい私(の心)、あれこれと考えたり話していれば直ぐに陽気になります。もっともその早さに相手が余計に信じられないなんて思われることもあります。

ちっとも相手からは嬉しくないでしょうけれども私には嬉しいことです。




(寒さと雪と大風と波には気をつけて)

前に

 トラブルが重なり悲嘆にくれる人がいる。避けようのないことであれば「しょうがない」と慰めの言葉をかけれる。その方を以前からも普段も見ていれば、「そんなことで悲嘆にくれなくてもいいよ」なんて言いたくなるが今つらい立場で怨まれているととらわれる人にそう言い放てない。相手がそんな言葉を望んでいない。

解決策は以前から見ているからよく分かる。普段からしっかりとやらなければいけないことをしていれば、怨まれていると思い込む必要もなくなる。普段自分が見る場所が違う。見なくていいところを見ている。見なければいけないところをあえて見ていない(逃げている)。

「その悲しみはどうしようもない悲しみではない。お金でいつも解決したり、お金だけを見ようとしたり、それ以外をどうでもいいものと見ていることが悲しみだよ。」なんて言えば今まで思っていた怨みよりか発言した私が怨みの対象となってしまう。

何故に自分があえて目をそむけていたのに、その時がきて怨まれているなどと何かのせいにするのか。

(仮にではなく)前にしっかり進みたいのなら見るものを見なければいけない。



誰かへではなく、私の前でそれがあるということは、忘れやすく気が付きにくい私へそのことを教えてくれている。怨まれているなんて思い込むより、その前にもその時にもしっかりと何かをしたい。

余計なお節介

 若い人達(ほぼ男、20前後ばかり)が20人位訪れました。話をすることが好きな私は隙あらばその中の誰かを自然に捕まえ、いろいろとお聞きしたり、おたずねしたりしようという雰囲気が私から出ています。

何気ない会話の中にほんの少しだけ気になる要素を放り込むのです。大抵はそれで去っていくだけなのです。ただ気になる人は何故かまた話をするために戻ってきます。

こうなると、かかった獲物は逃さないのです。(最初に男ばかりとかきましたが残った人もやはり男ですから、危ない関係などにはならないのです。私の話し相手をしばらくしていただくことになるということだけです。)

その訪れた方達は、京都に本山のある真言宗の僧侶の修行中の僧侶達であって、いわゆる老僧からすれば雛僧(ヒナそう)や門前の小僧に毛が生えたくらいといわれる年頃の人達となります。といっても正式な行を受けておられますから自坊やお寺に入れば若くとも一山の住職となる資格を有しています。

根掘り葉掘り、初対面でも尋ねるのです。

「お家はお寺ですか」とか「みなさんは修行が終われば自坊(実家のお寺)に帰られるのですか」とか「在家出身(普通の家)の方とお寺の後継者との比率はどれくらいですか」とか、「年齢層はどのような比率ですか」とかたずねていきます。

大体の方は、お寺の後継者だそうです。ということはほとんどの方がいずれは住職となるということを意味しており、住職となれば仏教者とよばれ、宗教者の一人です。

「あなた方、医者ならば医学に詳しいと私は思います。

あなた方は仏教者となるのですよね」

「はい」

「仏教者が仏教に詳しくなければ何と呼ばれるのでしょうか」

まだ若い僧侶へおたずねしてみます。

それから何でしょうね、40分くらいですか彼らは私の話に付き合ってくれました。私の願いを伝えただけです。

「仏教に出会えてよかった。その仏教に出会うという言葉は短いものです。

その仏教と出会うという言葉を置き換えれば、本当の私に出会うことや本当の貴方に出会うこと、出会えてよかったと思える人と出会うことを意味しています。

まだ若いですが、(つぎにあうときには)私は仏教とであえてよかった。そう断言できる仏教者であってほしいと勝手に願うのです。」

話の最中何度かいい顔をされていました。

仏教好きな誰かの余計なお節介が、彼らの会法久住の一助ともなれば、私は嬉しいなあと思い帰りました。


ただの自己満足です。

みせられる(いろんなものを)

随分と前から読む本を選んできて、近くに積んでいました。本を読まずに積んでいるだけのことを人は「これが山積みだ」と言うのです。それを聞いたとき何だか他人ごとだけれども私は気恥ずかしくなりました。それでも気がつけば読む本を探し分けて積んでいる私がいました。理解と意味がわからず、真摯さが足りないため一向に進まない本、過ぎていく時間に比例して中身(知恵)は積まれず、ただ本に埃が高くつまれていくだけ、私は何故そんなことをするのかと誰かに問われればいわなければいけない。

「私はほこり高く生きたい。」

誰もたずねていないうえにほこりだけ積もるのもあれなので、本を整理する(元の書庫へ戻す)ことにしました。次に目を通すもの10冊ほど残し、何故か仏教書以外にトルストイ民話集 中村白葉訳が残ったまま、現実逃避に全く違うことに目を通してみるのです。(原文を読むだけの語学力がない私は諸先生方の和訳にお世話になりっぱなしで有難いのです。)

読みながらその描写にするすると引き込まれ、仏教好きであるのに「神」と「人」と「愛」を違和感をなくならせ読み終わる頃にはくだらないことを忘れさせただ涙をながさせるという文章力。つたなく日々文字を連ねるだけのここと違い、圧倒的なものを再認識しました。
ただ神とか仏とかそんなことすら読み始めてまもなく私の中で無くなってしまいました。終われば神が好きになりました。


初めだけ読んで書きかけたものを後に蛇足ですが消さずに残しておきます。

冒頭に次のような引用が

わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを知っている。(新約聖書 ヨハネの第一の手紙 第三章14節)


神を見た者は、まだ一人もいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(新約聖書 ヨハネの第一の手紙 第三章12節)



「神を愛している」といいながら兄弟を憎む者は、偽りものである。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。(新約聖書 ヨハネの第一の手紙 第三章20節)


『愛のあるところに神あり』 トルストイ民話集 中村白葉訳より抜粋

他にもヨハネの手紙から引用されてありました。私は仏教を基底としてそれを眺めます。慈悲と愛はやはり似ています。時折同じようにも思います。時折違うようにも思います。ただ圧倒されるときは同一のものにしか見えません。

真ん中の引用の「神」という言葉を「仏」でもお経にのっていてもおかしくないような文です。もう少しわかりやすく(勝手に)してしまう言葉は「本当の己」ならば差し替えても(仏教好きな)私は問題ないと思います。ヨハネ好きな方は変える必要はないと思われるでしょうけれど。

神を見た者は、まだ一人もいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(新約聖書 ヨハネの第一の手紙 第三章12節)



最後の引用は愚かな(わたし)への警告でしょう。そこはやはり「神」を「仏」に「兄弟」は「衆生(いきとしいけるものすべて)」と読んでしまう仏教という井戸で育ちそこから世界をみようというおろかな蛙(私)ですからそれも。

素晴らしい物にやはり国境や宗教が違うなどの壁は、無いから私には違和感なく私なりに理解しています。


「神を愛している」といいながら兄弟を憎む者は、偽りものである。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。(新約聖書 ヨハネの第一の手紙 第三章20節)



少し前に「仏(や仏教)を愛しています」愚かものである私は使っていました。意地悪な人・根性が悪い人・理解してくれない人・何一つ見ようとしてくれない人を私は嫌いだというのに、狭く偏りのあるよいものを好きだという私がどれだけ愚かなのかということを簡単に教えてくれる節でしょう。

今は以前より他人にも身内に嫌いだという思いも怨みも怒りも少なくなってきました。

周囲がわかってくれないから、自分だけが思って発言するなんて浅はかなことに気がつく時間や出来事・文も必要不可欠です。

仏教書もいいものです。ただトルストイの他の作品の本も是非また読むことにします。
(感化されすぎて宗派が変わった私がそこにいたらそれはそれで面白そうです。)

今度(忘れないように)

 何日か前、晩の7時に子供達を部活へ送った帰りに、何気なく郵便受けを見てみると葉書が一通入っていました。

「何かな」
この時期に多い喪中葉書が届く。誰だろうかと名前で驚き、家内へすぐに知らせました。

「うそでしょう・・・」

一目で家内の顔色が変わりました。

 家内は子供三人を出産し、互いの実家より遠くで生活するために結婚してからは主婦となっています。まだ仕事をしていた若い頃の家内の上司である部長さんが亡くなったという一枚の葉書です。

「亡くなったことを知らなかった・・・。お葬式も行っていない」


 家内がまだ彼女である23の頃、あの人に会いたいがために時折迎えに行ったりした勤め先のビルその時はお会いしませんでした。私は人見知り激しく、難しく、不愛想、愚か者の20代の後半であったときに部長さんと出会いました。

彼女が大学生であった頃から結婚しようと何度も言い寄っていた私に根負けして付き合っていたころから、双方の両親は結婚に大反対でした。
私はよくあの人に、「駆け落ちしてでも一緒になろう」何度それを言ったことか、それくらい双方の両親は大反対。ただ彼女の勤務先の上司であった部長さんだけは頼んでもいないのだけれども、あの人と私を見捨てず、彼女の両親と何度も話し合って仲をとりもってくれました。
何か私に気に入らないことがあって彼女の両親が私のところから彼女を奪いさっていきました。情けないことですが私は一人泣き伏していました。そんなとき部長さんはやってきて

「心配ないよ」

そう言って私の話を聞き、彼女の両親とのなかに入って話をしてくれました。部長さんは気さくで岡山の自宅へ招かれたこともはっきりと覚えています。
無事結婚してからも、部長さんは四国遍路のついでによって声をかけてくれました。
まだ職場に馴染んでいない頃でありました。何かサービスをしたいのに何一つ自由にならないとき、気の利いたことが何一つできなかったことが悔やまれます。
家内は岡山へ帰省して時間があるときは会いに行っていたようです。今年の正月にも

「病院で会ったけれど元気だった。」

「部長さん元気なら安心だな」

みたいな会話をしただけでした。家内は少しその時から心配はしていたようです。毎年の年賀状を送っていたためでしょう。(部長の)奥様から喪中葉書が来ました。奥様とは私も家内もあまり交流はありませんでした。

ただ部長(旦那)さんは若い他人である家内と私のために本当に何度も足を運んで両親との仲をとりもって色んな解決策を私達以上に模索して体を動かしてくれました。
もっとも私のいけないところ、それがなくても駆け落ちをし(逃げ)てでも結婚する気でした。

本当に円満に結婚できたのは部長さんの余計なお節介の賜物だと思っています。四国へ来た折に私と話をしてそれから後で家内に

「ご主人雰囲気変わって(少しは立派になった)、偉くなったの」

家内は

「いえ、ひらのままです。ちっとも偉くなってませんよ」

まあずっとヒラのままは本当の話です。ただ迷っている中で、もがき続け迷っていることに気がつきはじめた頃でしょうか、もがいても悪くもならずましてたいして好くもならないけれども、やらなければ前には進めないだけだったでしょう。
今もそんなに変わりはないです。
部長さん家内も私も見知らぬ土地でそれなりに生きています。相手と私が生きているうちに言わなければいけない言葉をいいそびれてしまいました・・・。

今度帰省の際には、墓前でお伝えしてこようと思います。

としわすれ

 年末恒例忘年会、ご馳走とお酒とカラオケを接待していただき有難い日です。

あまり外の集まりに行かない私としては、年に一回の行事になります。ただ今年は風邪を引いてしまい、前日まで仕事が終われば寝てばかりでしたので、忘年会のことを忘れかけていました。というかあまりにも体調がすぐれないので欠席しようかと前日まで思っていたくらいです。

まあ何とか今日の仕事も忘年会も乗り切れました。帰りも酔っ払った私を家まで送ってくれて本当に有難いです。

職員さんの中に芸達者の方がいて、年々芸に磨きがかかっており、その方の独壇場というか他の追随を許さないくらいの芸です。私はまあ少し歌をうたうくらいであの方とは勝負にもなりません。それくらい衣装も踊りもすごいものです。地方のケーブルテレビに教えて撮影してもらいたいほどです。

職場でそのうちフラダンス部ができるかもしれません・・・・

私はちょっとダンスは苦手なものでそこに入れないのが残念です。酔っ払いすぎた私は今日は何も思いつかないので、体調のために早く寝ることとします。



親知らずを抜いた家内の顔はますます腫れ上がっています。早く善くなることを願ってとりあえず寝ます。