教育

 いつも

「教育についてしっかりしなければいけません。」

真剣にその言葉を口にして、自分にも家族にもしっかりしなければと戒める若者がいます。

若者とあるように、若いが故の過ちや、自己満足、過信、慢心、怒り、怨み、物惜しみ、好き嫌い、人間的な幅のなさ、それが私も彼も多かれ少なかれ同じようにあります。

ただそれがある故に、個性があり、人間性もあり、あるが故にそうでないものに憧がれがあり、ときにとらわれています。

社会人になれば後の人達のためしっかりしなければいけない、やはり真剣に言い続けています。

「じゃあ自分はしっかりできているの」

意地悪な人はそう(態度やときに厳しい言葉などで)問いかけます。

「そんなことはどうでもいいじゃないですか、しっかりやらなければいけないじゃないですか」

彼は厳しく反論します。


少し離れて見つめています。

自らの言葉や態度は返ってくるもの、自分ができていないのにきつく発言すれば嫌われることもあるし面倒臭い人だと思われたり、自分のことを全くわかっていないのに何を行っているんだと思われたりする場合もあります。

それでも彼はあきらめることなく、いつも親切です。

また少し離れて見つめます。

教育について考えも少しずつ変わってきました。理解していないから理解できるよう教えていくことにとらわれつづけている私を見ます。

言葉を何千何万と並べても伝わらないことは多い

何故わかってくれないのだろうかと相手を嘆いてもしょうがない

怒っても伝わらないこともある。(だから怒ることが駄目とも思わない)


ただ日々の生活の何気ない行動の一つ一つを見ている人がいる。その積み重ねがその人の言葉を超えるもの(風格)や他人から「あの人がしてきたことはずーっとこうだった」悪いことでも善いことでも伝えられる。

それだって教育だと思う。


今日逝くから、それまでに私はできることを続けてきたという見えない道程を言葉を超えてあらわしたい。


相変わらずのダジャレ好きな私、変なことをつい書いていしまうのも何かに私はすぐとらわれる。むしろもっととらわれたいと思うことすらある。


変なとらわれの私を見せるのも教育だろうと根拠の無いことを書き、今日も一日を終える。
スポンサーサイト

何かの続き

 昨日の運動会でコケたときにバトンを離すまいと離さず手をつき、右手を二カ所ほどすりむきました。

教訓

大人が走って転べば無傷で済むことなんて少ないです。

家内と長男は

「お父さん、ウケを狙ってわざと転んだと思ってた」

「ウケを狙う人が、こんな怪我するはずないでしょ・・・、かなり痛いし」

今度はおそらく次男坊の運動会で強制のリレーがあるとすれば、後二年後ですからそれには、コケないように準備をしておこうと思っています。

職場の人にも

「運動会どうだった」

まあ話すと大笑いしているし・・・

「コケた人は私だけでなく何人もいたよ!私はこけてもバトンを離さなかったし着いたのは手だけだったけど、派手にコケた上にバトン戻っかに飛んで行ってた人もいたから!」

「五十歩百歩じゃないですか(笑)」

「こっちが五十歩で向こうが百歩、五十歩も差があるじゃない(キリッ)」


まあネタにしかなってない私でした。

あれほど怪我しないようにと思っていましたが、ほんの少ししかダッシュしていないのに、凄い筋肉痛だし、擦りむいたところは痛いしで記録なんてないですが、記憶に残る運動会でした。

仕事に没頭しているときは、時がすぎることが早いから昨日職場は大忙しだったようです。

理解してもらえること

助けてくれること

話が気さくにできること

仕事が忙しいこと

助からないこともありますが助かることも多い職場です。本当ありがたいことです。


また目前の仕事を今まで以上に、一つずつしっかりやっていきたいです。

運動会

 一年ぶり小学生の長男と次男の運動会でした。

日曜は仕事が忙しいのですが、職場の方達が気を使ってくれてお休みをいただき、台風もなく雨もなく曇でもなく、快晴で本当に運動会日和でした。

昨年次男坊の学年の競技玉入れに出て楽しめたので、今年も玉入れに出たいと思っていました。

長男坊が2週間前くらいに

「お父さん」

「どうした」

「今年の6年の競技は親子合同リレーだよ、しかも強制参加」

「選べないの」

「うん、父母がでれないときには親戚でも兄弟でも絶対参加なんだって」

「玉入れでたかったのに」

ということで合同リレーに参加決定と・・・

自慢じゃないですけど、足は遅い方です!

プログラムを見れば、リレーは全競技の中で一番最後、6年最後の思い出ですか、ちょっと緊張しました。

次男は誰に似たのか足が早く、リレーで二人くらい抜いて一位をとって喜んでいました。他の競技でもアンカーをしているあたりはクラスでも早いほうなのでしょう。

4年生くらいはまだ生徒全体的に幼い感じがだいぶ残っています。一生懸命に走って盛り上がっているあの雰囲気に少し涙が出ました。

心と身体の一体感をあらわす空気にあてられ少し涙が出ました。

お昼がくれば家内が早くから子供達が喜ぶものをお弁当に作っていました。そういえば私も子供の頃運動会のお弁当を皆で食べたりその後次の競技まで友達とはしゃいだり、見知らぬ人達が学校へたくさん来ていることに興奮していた頃を思い出しました。

いつもと同じ校舎グラウンドなのに運動会は違う風景

そんなことを思っていたら最後の競技がやってきました。あまり緊張しないだろうと思いましたがクラス全員の父母が揃って並んで点呼しているころにはわりとドキドキしてきました。

ちょうど中頃に出番、その頃には一位と大分差があり2位争いの2番でバトンを受け勢い良く走り始めたら


途端にこけました!


まあそのときに抜かれ、しまったと思って必死に走りバトンを渡す頃、抜いた父兄の人もバトンを渡すときにこけてバトンがどこかへ飛びました。

自分だけがこけて恥ずかしいと思いましたが、仲間を見つけてホッとしました・・・

結果は散々で手をかなり擦り剥き痛いですが、楽しかったです。強制参加もいいもんです。

次男坊が帰ってきて三男の「けいくん」が6年の父兄が出ていいリレーには

「僕が出てごぼう抜きするよ」

本当こけて痛いから、ぜひ今度はあの子にまかせるのです。



忘れないようにここへ書いておきます

ないもの

 爽やかで身体能力も高く、長身でスタイルも良い青年と仕事で合います。

男の私が言うのもなんですけれど、私と違っていつも無口で動きもキビキビしていて礼儀正しく、真面目です。少しひやかしても照れて言葉を失うところとか、近くにいる女性の方はあの方を気に入っている人も多いです。

ただあの方は女性だけでなく私もそうですが男性も気に入っている人は多いと思います。

また久しぶりに今日お会いしました。今日も彼はイケてます。

仕事仲間の方が辞められたりしたと聞いておりましたので、ワンパターンの私は聞いてもなんにもならないし頼まれてもないのに誰よりも早く「何があったのでしょうか」と尋ねます。

少し時間をおいて

「それぞれのこれからの人生の道を選んだのではないでしょうか」

(私と違い)言葉少なく格好いいことを言います。

楽しくはしゃぎ言葉多き私は、言葉少なく礼儀正しくスタイルの良いあの方にないものをねだります。

最近親しい方に「上手く行っているじゃない。腹が立つなあ」と面と向かって言うことがあります。

「何でですか」

「そう言われても私より上手くいってれば、こちらは腹が立つからしょうがないじゃない」

そんなことを親しい人には言います。

これ親しくない人にはあまり思わないし、思っていないから当然言うこともないです。

「おめでとう。よかったですね」

私は純粋にその言葉を発していることが少ないです。だから不純なものを全面に親しい人に押し出します。

「うまくいっているから、腹が立つわあ」

「何ですかそれ」

「しょうがないんだよ、腹が立つんだから」

まあ私はそんなもんです。

それぞれの生き方や感じ方もあるし、純粋性を保てない私は、不純なものをまず押し出してごまかしている私を見ます。


本当は純粋な言葉を発する自分を多く見つめたいとも思うこともあります。

ふけた

 あれは20代終わりの頃に仕事で出会った方、若者です。ただ私もそのときは20代なんだから若者でしょう。中学高校大学と歳相応に見られず幼く見られてきた私でしたが、そのときに出会った若者は私よりもっと童顔でした。

出会うたびに、「本当にこの人年齢がわからない。何歳なのだろうか」

何回目かに出会ったときに「何歳なのですか」と尋ねました。私より二つ下で更に驚きました。その聞いた年齢に到底見えないから驚いただけです。

出会った頃から12年たちます。彼は5年前程前位に職業が変わりしばらく会っていませんでした。

「お久しぶりです」

童顔だった彼は歳をとっていました。(まあそりゃあたりまえなんですけどね・・・・)

あまり自分の顔を鏡で見ませんが、私のほうが二つ年上だけれども、若いなんて思ってしまいました。

職業が変ったときに住む場所や仕事そして結婚とで5年程色々あったようです。

話も驚きました。出会えたことも驚きました。彼が老けていたことにも驚きました。何よりびっくりなのは彼が老けているということは私も同じだけ老けているということを改めて気が付かされ驚きました・・・・

いつも一緒に働いている年配の女性に

「あの方大分老けたね・・・、いや本当に驚きました。以前は私よりもっともっと若く見えたのに、今ならまだ私のほうが若くみえると思う」

即座に

「あの人苦労が多かったんじゃない」

「ちょっとちょっと、それだと私が苦労していないみたいな感じじゃない」

「あなたは苦労があっても顔に出さないから」

あんまり意味がわかりませんが、驚いたことは家内にも尋ねてみると

「苦労があったんじゃない」

同じことが帰ってきました。ただ少し私の悪いところを見て苦労をしていないという要素も入っている返事です・・・。


生きていれば何処でも誰でも色々あると思います。

ただ機会があれば、お酒でも飲んでいろんなことを話してみたいです。

あの子

 我が家の三人の息子達、長男と次男と三男です。女の子に縁がなかったのはまあ何かよっぽど息子と縁を深く持たせたかったのだろうなんて思います。

割と言葉好きというか喋ることが好きな私に長男坊はよく似ています。隙あらば新しいものに興味を示し大人の話題へ入ってきます。それとは対照的な次男坊、口数は少ないです。ただ喋らないからといって何も思っていないかなんてことは誰でも一緒ですから、話すことが得意ではないだけで動きによってあの子自身の特徴を常に出しています。
変化を好み新しい姿勢や高いところからトイレにおしっこしようとしたり・・・・、何かがあればそこへ登ろうとしたり、いつも飛び跳ねるイメージの次男坊

対立

 台風はこちらから進行がそれた上に消滅したせいか、今日の徳島の天気は暑いくらいの晴れでした。

じっと考えることより先に動きを出したいと思っていた日でしたから、休日明けの今日は朝から溜まっていた仕事を急いで片付けることにだけ専念。広くみることよりあえて狭いところだけを見つめて動き続ける。
少し私の空気を読んでくれる人はそんな私に用事を控え、バタバタと慌ただしい私を見ながら自分のやることをしようとする人、あえて私の空気を読まずに自分の荷物を即座に減らしたいというだけに急いでいる私に用事を頼んで何処かへ安心して行ってしまう人、それ以外の遠巻きに見ている人など色々です。

誰もが歳をとります。高齢化が進んでいるせいか、私がもう40になったせいか周囲を見れば良い歳のとりかたということを深く考えさせられます。

70くらいの人はまだ若いという感じを見受けます。個人差もありますが80が近くなったり、越えた人は70くらいや60くらいのその人達を私が知っていれば、「歳をとられた」と実感します。人により髪や顔が老けたり、体力的な衰えであったり、現実への対応力、目が薄く耳が遠くなったり、同じことを何度も聞いてみたり、生きていれば老いていくという真理からは逃げることもできず、ただ受け止め生きていかねばなりません。私もこの瞬間だって歳をとっています。他人事ではなく私の現実でもあります。

良く歳をとるというよりは、その瞬間を生きていけるかというただの連続、今もそうなのかどうなのかはわからないことばかり、いつかはそれも考えなくなるかもしれない。いつかは思っていてもしんどくなって動かないのかもしれない。

動きが止まったときの私はあれこれと考えごとをします。悪いことにとらわれるのではなく、私と近くにいる人を含めよくなるようにありたいと考え実行していきたいです。

悪いこと(怨み・怒り・貪り・愚かさ・物惜しみ)にとらわれる私は、その問題や人と対立しています。

人と共によくありたいと善いことを願う私は、問題や人と対立から離れていきます。


笑ってほんの少しでも対立しない私であるような私を願います。

さっぱり

 少しはよくなるようにと考えることがあります。

これは自分だけのことで相手がいらないのであれば、簡単なのですが、悪いことを少なくすることは習慣を良い物へ変えていくことにもなるので慣れというか習慣を変えるには割りと変化しようと思う一番最初とそれを一定期間維持しようとすることに大分私は力を使います。

できていない自分を忘れてしまい、いつもいる方の心配をしたり、少しでもよくなるようにと考えたり、気づくように発言してみたり、あの手この手と試行錯誤するのは別に構わないんだけれど、自分が悪くとられていき相手も変化なく開き直って目をそらすだけの現実になっていけば、「何も考えたり、しなければよかった」や「もう少し上手くいくように何故できないのか」それくらいならまだいいのですが「腹を立てたり」「機嫌が悪くなったり」「対人関係が嫌になったり」うまくいかないときの私はさっぱりです。

相手に気がつけば望んでいるということは、私を助けて欲しいと願っている私が多分にあるのでしょう。こちらも困れば相手を助ける。こちらが困っていれば相手に助けてもらいたい。

関係が良好であればあたりまえであって、悪化すればあたりまえではないと言われる。

考えが先行しすぎてばかりで行動が出てこないときには何も良さがでてこない・・・

発言して関係が悪化するなら、発言は減らし、考えすぎて関係が悪化するなら考えを減らし、ただ実行に力をいれたい。


一人で考えすぎてなにか変なものを作ってそれによって関係を気まずくすることになる私はそんなに見たくない。

好日

 今日は秋分の日(9月23日)お彼岸の中日(ちゅうにち)です。
夏はお盆、秋のお彼岸、冬に正月、春の彼岸、四季を通じて行事があり、子供の頃お彼岸の意味もわからず、墓参りやご先祖様からお世話になっているお寺へお参りしたり、お家の仏壇に親戚がお供え物やおはぎやぼた餅をお供えしてくれたり、美味しいもののお供えは盗んででも食べたいなんて思っていました。

「お彼岸だから」

と聞けば、春と秋の過ごしやすい時期であり、此岸(しがん)から彼岸(ひがん)へと到る努力(精進)をする期間と言う人もいます。

「プラジュニャーパラミター」智慧の完成と訳したり、智慧によって彼岸に到るとも訳します。漢字で書けば「般若波羅蜜多」
有名なお経「般若心経」を読誦している人なら何回も耳にする言葉。

迷っていたり、とらわれていたり、自らの欲に染まりすぎていたり、個人的な怒りを出しすぎていたり、怨みしか見ていなかったり、物惜しみをしすぎたり、怠けすぎていたり、目前の自分がやらなければいけないことから逃げ続けたり、そんなところを此岸というのかなと考えたりします。ただ蓮が成長し花を咲かせ種を残して生命をつないでいくには、糞泥を必要としており、私達にも同じことが言え、欲望から離れれば生きていくことも難しくなるのが現実です。

此岸から彼岸へ到る。今いる場所から遠く離れ素晴らしい場所へ皆で移るということではなく、今の場所で花を咲かせ種を残していくといった意味合いが強いように思います。素晴らしい場所が限られればそこを少数の者が奪い合うのでは本末転倒だからです。「私の糸だから、皆すぐに手を離して降りろ」なんて世界で叫べば蜘蛛の糸はプツリと切れてしまうなんて話のようなものでしょうか。

此岸から彼岸へ到る方法にも幾つかあるなんて考えます。

此岸(しがん)に岸と名がついているように、川(または大河や大海)を挟んで存在するイメージです。そこを渡る方法ということになります。


自らの精進をもって渡る。

誰かに助けられながら渡る。

船を作って渡る。

渡らない。


私みたいに愚か者にはその川は激流のように見えています。「この川誰がどうやって渡るんだ」というかんじでしょうか。

誰も渡ることが出来ないと言われる激流でも、信を持った人は己の心と身体を深く見つめ、浅瀬や激しくない場所を見つけ渡りきり、後につなぐ方もおられます。

渡る力を持っているのに、あえて渡らず後から来る方を支え続け先に渡らせる方もおられます。

皆渡りきれば誰も居ないと寂しいから、渡れない人と楽しく過ごす方だっておられます。


渡り方はその他さまざまです。

ただ彼岸は日本の伝統的な仏教行事です。

本日お寺の行事に参加していましたが、お小さい方が僧侶の読経中に無邪気に遊んでいる姿や、お参りの方の少し上空を飛ぶ黒アゲハ蝶、トカゲも参加し、少しやんちゃな男の子は行事や読経より手に持ったザリガニに水を掛け、何より行事が晴天で過ごせたことはありがたいことでした。



あの空に浮かぶ雲、あれは精霊です。

皆様のご先祖様も喜んでおられますよ。



そんな言葉を思い出して反芻していました。

「いもむしってね」

 町の図書館から家内と子供達は沢山本をかりてきていました。

四歳の「けいくん」は絵本を見ては喜び

「ねーねーおとうさん、一緒にこっちきてみようよ」

一人で楽しむのではなく、一緒でないと楽しめないというか一緒じゃないと嫌なようです。

「いもむしってね・・・」というタイトルのいもむしの絵本がありました。人参の葉を食べるいもむしが主役で脇役に色んないもむしがでてきます。

住んでいる庭の片隅に山椒の木が生えています。年々木は大きくなっており、初め「けいくん」より小さかったのに今は「けいくん」の背丈の倍はあり、横幅も凄く広がって生い茂っています。

山椒はミカンなどと一緒で木に刺があり痛いです。薬味にも使うくらい香りがきついものですが、そのキツイ匂いの葉を食べるアゲハ蝶の幼虫がいつもいます。もう秋になり少し肌寒くなっているのにまるまるっと肥えた6匹くらいの緑色の「いもむし」が見えます。緑色の前の小さい時は黒く汚い色をしており、同一のいもむしと初め気づきませんでした。

何日か前に「いもむし」の一番大きいものがさなぎになっていたものが、羽化していました。子供達と羽化するのがいつか楽しみにしておりましたが、朝見た時にはいつも緑色だったサナギが前日から少し黒ずみ、朝にはもっと黒が目立っていました。「そろそろかな」そう思った日の仕事から帰ってみれば既に羽化していました。

「あーお父さんが仕事入っている間に羽化してた・・・。仕事しないと羽化見とけばよかった。」

子供達に冗談でそう言いました。夜おでかけしなければいけないときに次男坊が私を外で呼びます。

「おとうさん!羽化したばかりの蝶が、庭の反対側の低い木にとまって休んでいるよ」

「うそ、どこどこ」

駆けつけてみれば本当に羽を広げ休んでいました。長男坊と次男坊と三男坊「けいくん」と私でしばらく眺め、次男坊は自分が見つけたからとデジカメを持ってきて何枚も写真を撮っていました。

朝仕事に出る前に昨晩いた所にまだいるのか、無事に何処かへ飛んで栄養補給して生きて欲しいと思いながらもまだいないかなとも思いそこを見ました。


蝶はいませんでした。


「けいくん」はその日何度も蝶がいた場所を見て

「蝶おらんねー」

「いもむしってねがたくさんまだいるじゃない」

山椒にたくさんまだ残っている「いもむし」のところへ走って行きました。

「おとうさーん、いもむしってね いっぱいおるよ」

「いっぱいいるね」





あの本、良い本でした。

何かに

 事実はともかく、自分が勝手に思い込んでしまうことがある。

その思い込みが大きければ大きいほど、事実と食い違えば怒る人もいる。

ただ怒るだけならいい。話がそれでもできれば次第に納得される。やがて落ち着けば思い返して何かを見ている。

怒りすぎたり、食い違う現実との差は自分が作ったものであるのにそれを相手のせいにして話を聞かない人や聞いていても聞こえていない人もいる。


 (誰かに)何かを言われる。

 (誰かが)何かをしてくれている。


目前でしてくれているのに本人に見えないときや聞こえないことがある。目が見えているのに何故その時その人は見えないのか、耳が聞こえるのに何故その時その人は聞こえないのか

怒りすぎているときだけでもない。必死になりすぎて視野が狭いときもある。苦しくてそれ以上何も背負えない時にもある。自分しかみていないときにもある。悲しすぎてその悲しみを見つめすぎてしまうときにもある。嬉しすぎるあまりに嬉しいことだけを見つめてしまう時にもある。

自分が作る何かに、自分によって必要以上にとらわれているときには見えないことや聞こえないことがある。

私は自分自身が何をしているかを自分こそが知らないのに、人にたずねられば「そんなものは知っている」向きになり答え、何を知っているのかを自分は全く理解していないこと、あろうことか指摘してくる人に八つ当たりをすることがある。

ムキになって物事に向き合うのも悪くない。

怒ることも悪いことでもない。

悲嘆にくれることも悪いことでもない。

喜ぶことも悪いことでもない。

愛しすぎて視野が狭くなることも悪いことでもない。

そんな自分を自分が気づいていないことや、そんな自分を自分が容認していないことが問題となることが多い。



ある人は女好きで隙あらば女性と楽しくしている。誰かに「貴方は女好きだ。」と声を出して言われる。その本人が女好きを認めなければ「私は女好きではない」と言う。しかし、隙あらば女性といつも楽しくしている。周囲は思うかもしれない。「言っていることとやっていることが反対だろう・・・」

ある人が女好きで、隙あらば女性と楽しくしている。誰かに「貴方は女好きだ。」と声を出して言われる。その本人は女好きを即座に認め「私は無類の女好きなんです」と言う。また皆の前で笑顔で隙あらば女性といつも楽しくしている。周囲は思うかもしれない。「本当に女好きだな」そう言って一緒に笑う。


何かにとらわれすぎれば、大事なことも見えず聞こえない。

よく思い込みが強すぎて、場当たり的な発言をして痛い思いをした。そのことをよく人のせいにしたことも多い。
ようやく今頃になって人にあたるまえにしなければいけないことを考え始めることが少しずつ増えてきた。


(私は)何にとらわれていたのか
 


わからなければ、頭を下げてたずねたい。

見慣れない果実

 欲まみれの私は、青い果実なんて聞けばちょっとなんか若い女性をイメージすることがあります。

「見慣れない果実」

別に見知らぬ女性というわけではありません。

長崎で生まれ育ち、大学からは関西圏である和歌山で8年ほど過ごし、それから岡山で少しだけ過ごし、現在は故郷から離れた四国、徳島で過ごしています。

私が徳島へ来たのは13年くらいまえ、テレビをつければ当然のごとく徳島関係のニュースや情報が流れています。このことはあたりまえじゃないか、なんて思うかもしれませんが、長崎で18まで過ごし和歌山へ移り、テレビの天気予報を見て一人で怒っていました。

「何故変なところ(関西地方)の天気予報だけ映して、長崎の天気予報を映さないの!」

まあ住んでいるところが和歌山なのに長崎の天気予報を見て一体何になるのか・・・・、少し落ち着けば関西地方の天気しかいらないことに気がつきます。ただ人の習慣や思い込みとはそんなものだなんて今は思います。つまりはそういうことです。

徳島へ来て驚いたことの一つ、見慣れない青い果実です。

そう聞いてピンときた人は徳島通です。テレビのCMでも田舎のおばあちゃんが一言

「徳島わな、何でもすだちじゃ」

よく流れていました。

事実すだちの時期がくれば、徳島の人は何にでもすだちを使っています。まあ騙されたと思って最初すだちを刺し身などに使ってみました。料亭などなら全国にも出回っているようです。全国のスーパーにもあるようですが徳島以外にあるすだちは値段が高めになり買うことをためらう人も多いのではなんて思います。

柑橘系の青い果実、すだちは酢がよくきいていて、香りもよく、小ぶりで絞りやすいものです。徳島で何年も過ごせばやさしい人達は庭に植えてあるすだちを分けてもらいました。本当に有難いことです。

柑橘系の絞って使うような果実は全国的に有名なものはゆずではないかと思っています。長崎でもゆずばかりでした。ゆずシャーベットはどこにでもあるように思います。

青い果実スダチは全国でもその生産のほとんどは徳島県です。ただそのライバルのような果実もあります。

九州で耳にするカボスです。

先日カボスを知人からいただきました。そのカボスの親戚のような青い果実ヘベスも一緒にいただきました。カボスの生産のほとんどは大分県です。その親戚もおそらく同じようなものではないかと思います。

スダチとカボスでは、スダチの方が小ぶりで香りと酢はスダチの方が強いと感じます。ただカボスは大きいですから、絞りがいがあり、一つでの果汁の量は相当なものです。

その親戚のヘベスはスダチと大きさが似ています。カボスよりスダチに近い感じを受けました。

徳島の人は酢のきいている果実といえばスダチですから、他の郷土の酢がきく果実は受け入れ難い人もおられます。大分もそれは同様のものかもしれません。酢がきいている果実はカボスという人も多いというかもしれません。(そこで実際に住んで近くの生まれ育った人たちの意見を聞いてみないとわからないことです)

私はどっちもが郷土でないので、どの青い果実やユズでも楽しめます。いいとこどりなのです。

まったく関係ないですが、ワインもたわわに実った果実からできています。

私は家内を見ても素敵な果実だと思うことがあります。






フフフ

酔っ払った私は、書いていることもよくわからないのです。

あまり背負わないすることに

 なぜ

 どうして

 
つらいと感じるとき


その言葉の後に「どうしてわかってくれないのか」


何をわかってくれないのだろうか

その人によってもたらされる過酷な現状のことだろうか

皆が心配して手を差し伸べている意味を理解していないことにだろうか

こちらがこれだけしているという意味を全く理解してくれないということにだろうか

自分のことだけでなくいつも近くにいる人のことを見ようともしていない(言動をしている)からだろうか

相手の気持ちを汲み取ろうしない言動が続いているからだろうか

自分自身の言動の意味を微塵も理解していないとも取れる言動を繰り返していることにだろうか

目前や身近な人や知人関係者は存在しないかのごとき振る舞いを続けていることにだろうか

自分が精一杯やっているという思いと世間一般の人の思いが悪い方向へずれすぎていることにだろうか

何故いつも悪いことがあれば自分を見つめるのではなく、他人だけ見つめそのせいにすることにだろうか


少しでも自分を見つめる自分の心を自分の心によって見つめないのだろうか

相手の悪いところを探すことに終始するのではなく、何故に本当の自分自身を探さないのだろうか

悪いこと考える自分を戒める自分をどうしてもっと見つめないのだろう。

その自分がいなくならず、冷静に見つめれば確かに存在している。



私としては自分がこれだけしているのだから、相手も少しは理解してもらえただろう。少しくらいは行動に反映されるだろう。そんな後の私による思い込みを自分で作らないようにしたい。今までよりもっとできることをしたい。ただへんなものを少しでも自分で作ってとらわれないようにしたい。

わかりました

 初対面でも顔見知りでも、何かをたずねればその相手が

 「わかりました」や「わかっています」

そう答えれば大抵の方がその相手のことを信用し、理解して実行すると信じます。(よっぽど痛い目に合って人間不信にあったときなどは別です)

そう尋ねればいつも「わかっています」と答えるのに、実際の行動や日々の態度は「わかっていないそのもの」であれば、再度尋ねられるか、「わかっていない」ととられるか、もう一度教えようとする人があらわれるか、ひどくなっていけば皆に真剣にあいてにされなくなったり、この辺り自分のことは棚に上げて人を見れば色々思います。

何故本人が「わかりました」や「わかっています」や「わかった」と言っているのに、誰よりもわかっていないことをしているのだろう。

「遠回しにこんなことやこんな人がいるから、私もあなたも気をつけないといけないですね」

といった言葉や態度で伝えたとしても、何故か「自分は気をつけているから大丈夫」といった態度や「貴方が気をつけないといけない」という言葉が即座に返ってくることがある。

この「わかった」や「わかっています」、嘘を言っているようでもないけれども・・・

何てことをいつも明朗に即答される方に相談してみれば


「そんなの簡単に『私はわかっています』なんていう人に限ってわかっていない。本当にわかっている人は『わかった』なんて気軽に言わない。」

「ああ、なるほど。言葉を変えれば自分の内を深く省みてもっと自分の心をわかろうと何かをみつめ続けている行為をわかっていると言う方が正しいのかな」



「あなた大切なことがわかっていない」

そう尋ねた方は、落ち着いて良いタイミングで相手に伝えられている。

ただ「大切なこと」は漠然とした言葉で、相手にわかりにくいのではないかと聞いてれば思うことは多い。

「もう少しわかりやすくしてみはどうですか」

例えば

 今日人々がいずれかの宗教を選ぶ場合には、教理や教義によるのではなくて、それを奉じている人々の人格や生活に顧みる場合が多い。もはや聖典の権威は世間でさほど通用しないが、心情・行いの純粋・誠実なることの権威は高く君臨している。それは根源的なものであり、聖典の権威はそれに基づいて成立した第二次的・派生的なものにすぎない。こういう事情は何も今に始まったことではなくて、原始仏教の興起したときも同じであったし、他の国々で新しい宗教が興起したときには事情は大体同じであったであろう。

 ところで派生的・習俗的な権威ではなくて、根源的な権威の底にはたらいているもの、それは純粋の愛の精神であり、仏教のことばで言えば慈悲である。
 この大きな価値の転換が、例えば最も保守的であるといわれるビルマ(現ミャンマー)においてもティッティッラ僧正(ラングーン大学教授)によって明言されている。

同長老は諸宗教の間に教義の相違があるということを述べたあとで、

 『相違はあることはあるけれども、一見したときに見えるほどの相違は存在しない。何となれば老い死ぬという偉大な法則と、愛のより偉大な法則は万人によって認められているからである』

 『重要な事は、宗教における単なる信仰儀礼儀式ではなくて、宗教の道徳的・精神的諸原理にもとづく同情と愛情と理性と正義の生活である。真の宗教は心情の教育であり、心情と心の実践である。』

という。

 従来宗教といえば、信仰や教義が中心であると考えられた。ところがここでは同情・愛情が中心とされている。最も保守的な立場の人にしてなおこの立言をなす。たとい意識されていなくても、これは大きな転換である。われわれはここに潜む重大な問題の意義を追求したいのである。

中村元 著 『慈悲』より抜粋



「話が難しくなったのですが先生の引用にある、「心情と心の実践」。心をどれだけ相手と自分を理解しようと実践に反映させているか、それが貴方は理解しようとしていますか」

そのように言葉を置き換えれば(どなたにも)通じると思うのです。

即座に

「どれだけ素晴らしい言葉にして伝えようとしても、相手が聞く気が無かったら言わんのと一緒。


言うだけ無駄やけんな。


相手が必死に伝えていることは(真剣に)聞かないと。」


それに返す言葉を持ち合わせていない私がいました。


ただ人のことも心配になりますが、私自身にも同じことが言えることは確かです。


中身が足らなければ補う努力をして、わからないのであればたずねたりわかる努力すればいい、礼が足りなければ礼を失うことを少なくし補っていくしかないという、いつもと同じ答えしか出てこず


「わかっています」という答えは、特別なものでもなく、言葉(正しい言葉を無数に並べ立てること)でもなく。

その人の日々の生活から離れず、自然と相手にでる優しい仕草、個人的な怒りから離れた大いなる怒り、自然と出る真摯な行いに「わかっています」とでているのでは・・・



そんなことを思う日でした。

(わたしは)どう決めるか

 近くに楽しい方がおられます。仕事も誰よりも力を尽くされ、皆が困らないようにいつも優しく、けれど時にはその人の現実をあらわす言葉を短く言われています。

いつも書くこと

その人の現実が善ければ善い言葉や賛辞としてでています。

その人の現実が少し悪ければ、少し悪いという現実ありのままのその人の姿を端的に言葉にされているだけです。

突き抜けて行くくらいの人には言葉を発しておられないです。

「その人の現実がいつも善すぎて、言葉を発する必要がなくただ礼を失わないようにされているだけのとき」

「その人の現実があまりにも悪すぎて、言葉にすれば洒落にならないので言葉は確かにあるのだけれども礼と品性を損なうこともあるので、ありのままの言葉を発することができないとき」


こうして並べて書けば簡単なことが出てきています。

前の例えはどちらも言葉を発しておられる。

後の例えはどちらにも言葉を発しておられない。


客観的に見ている人には凄くわかりやすいことです。

ただ皆に言われていないから私は悪くないと常に悪いことをしてばかりの人が思っておられるような態度の人も見かけます。


その人の現実をあらわす言葉、不出来な私が無意識か意識的な態度・行動や発したりする言葉は客観的にみればつらいことばかりです。

「あなたの今までを言葉にしたら、悪くしか言いようがない。」

「あなたの今までを言葉にしたら、悪いことも多いけれど善いこともあった。だからあなたはそれでいいです。」

「あなたの今でを言葉にすれば、素晴らしいとしか言いようがない。」

最後のたとえは私から遥か遠いものです。


いずれにせよ、悪いことや出来ていない現状・怠惰・なんとかしようとしない常の行動・大きな自分だけの勘違いを他人から指摘されれば痛い言葉としてあらわされ

その言葉とどう向き合うか

目をそらして何とかしようと思わない態度を一貫してとりつづけたりすることもその人が決め

告げてくれた相手に悪口雑言をあびせ、相手を悪く言い続け自分は悪くないと周囲へアピールすることもその人が決め

真摯に向き合い、教えてくれる人に自らの態度を持って礼を失わないとその人が決めるのか


私はよく私の厳しい現状を言葉にされれば、腹を立てますがぐっとこらえ「気をつけます。教えてくれて有難うございます」そう言わなければいけないと思いつくことが出てきはじめたというくらいでしょうか・・・


正しい言葉だけで実行が伴わないのは、色あって香りのない花のようはものである


(どこかのお経の和訳にあったようにおもいます)


もう少し


色も香り(知恵も徳や実行)を足りなければ足していきたいです。



できれば見る人の心を奪うほど美しく咲き誇るような人間(生き方)でありたいと理想を思い描くことがあります。


それに比べ(私の)現実は厳しいものです。

食欲の

 家内からお願いがあり、ススキを探しに色々探索しました。どうもお月見のススキが何本か欲しいとか、田舎育ちの私だからススキなんて簡単に何処でもあると思っています。私が住んでいる近くには山が連なり何とでもと安易に引き受けました。

普段ススキが何処にあるかなんて、覚えていない私です。ただあのへんで見かけたような気がする。くらいは頭にありました。

ススキも一年中ススキのままでもなく、葉だけの時もあり、葉もススキの穂もないときもあるし、やはり時期があり、少し時期を外せばまだ全然ススキが生えていないことも、以前に阿讃山脈沿いに板野から土成の方へ続く農道沿いならススキがいっぱいあるのではなんて思い、車をゆっくり走らせ、気がつけば30分位も走って土成近辺にたどり着いていました。

そこまで来てススキも何本か手に入れることができたので、さらなるススキが生い茂る原っぱを探して土成から香川へ抜ける道を登りはじめれば、秋の味覚ぶどう直売所が沢山あり土成あたりはぶどうの産地だと確か誰かに聞いたことを思い出し、何年か前のこの出来事以来、家内とドライブがてら沢山の種類が直売しているところへ赴き、試食をしながら緑のぶどう、赤と緑のぶどう、紫のぶどう、選ぶ楽しみと試食できる楽しみと極稀に売店の人によってはおまけしてくれます。私も家内もそのへんは不器用なので「まけてください」その一言はでません。

ただぶどうが大好きな子供達のために(子供をダシにして私も家内もかなり喜んでますが)少し遠くへ買いに行きます。

今日も休みでしたから久しぶりに家内とでかけ、緑色のぶどうと巨峰とピオーネと赤色のぶどうを少しずつかってかえり、晩にに皆で満喫の予定です。

赤ワインとぶどうジュースとぶどうとお肉で満喫するのです(私まるで外国人みたいだな・・・)。


そういえば私の記憶ではワインは高いものと思っていましたが、最近はどこにでもワインを見かけますし、値段もどんどんお手頃というか安いワインが増えている気がします。


今宵は秋を満喫



一杯美味しくいただくのです。

どこでも

 「これはいいんだけど、これはちょっとなあ」

場所や会社や社会や国家だけでなく、それは人間でもよくあることだと思います。

誰かが沢山の人が会社を辞めたと言っていました。大量に入社したという話であれば、喜ばしいように思います。人を一人正式に雇用するとなればそれなりの金額が発生しますから「凄いことだ」なんて思います。

「勤めていた人が何人も辞めた」

「何があったのですか」なんて相手が聞かれたくないと思っても私はつい聞いてしまいます。私も世の中を生きている人間の一人ですから大なり小なり何かあるものです。何もない人のほうが最近は珍しいのではと考えます。

上司に気に入られれば出世も早い。私は普段は器用だと言われますがその辺りはかなり人より不器用です。

得意な人もよく見かけます。最短ルートで駆け上がる人を見ればその違いに思い知らされ打ちのめされます。

「あなたのやり方では損をする。もっと上手くやったらいいんだ」

そんな言葉や態度に打ちのめされます。それが出来ないから肝心なときに不器用なのです。


「お金を多く得るための最短ルートを突っ走る。出世するための最短ルートを突っ走る。」


負け犬の遠吠えと格好つけてるだけの私なんですが、何かを押しのけて自分が最短でたどり着くことには、やっぱり不器用です。綺麗事でお腹は膨れないからさらに困ることもあります。

まあともかく(いきなり沢山人が辞めたなんて聞けば)どこでも色々あるんだなんて改めて実感しました。

他人事にすれば楽なことは多いです。

いきなりきつい話は嫌なので、普段からできることを一つずつしっかりとこなしていくことにします。

おなじ

 同じ言葉を聞く。

 ある人に言われるのは腹が立つけれども、あの人から聞けば素直に聞くことができる。


ある人が素晴らしいことを言っていた。

誰かがその言葉を一字一句間違えず言っている。だが、ある人と違いその言葉は目前の方へ響かない。



言葉を誰かに憧れつかってみたい(だけ)か


言葉が自身の中にあるものに突き動かされ自然にでてきているだけなのか


光り輝いてい見えるその言葉に自身をどれだけ近づけたいと願い行動しているか



一言だとしても深く高く広く重い言葉を放つ人もいる。

同じ一言でも、軽すぎて言ったそばから何処かへ飛んで行く言葉を放つ人もいる。


どちらも同じ言葉なのに、何が違うというのだろう。


放つ本人に違いがあるということもさることながら、受け取る側の差もある。


人から見ればなんてことはないような人に見えるのに、私にはあの人の言葉が輝きを放って見える。

一般に恋や愛という相手を愛おしく思う気持ちは、距離を近くしていく。

恋や愛つまりは好意をもたない場合は、やはり言葉を発する人の普段の行い(たどり着いた真理の高さ)が重要となる。


私の言葉が初対面であった人全てに軽いと思われるのは、私の普段の行いや努力などが足りていない。

たとえ素晴らしいものが借りものだとしても、行いが十分に足りている人が発言すれば納得する方は多い。


その違いと足りないものを見つめれるだろうか


足りないものを補おうと努力できるだろうか

自分のたどり着いたところが何処か理解しようとしているのだろうか


あの透き通り青く高く広い空と私はどちらが高いか




貫いていきたい

わたし

 今日は何かとうまくいかない日でした。原因ははっきりしています。夢見がちな私のせいです。

やらなければいけない優先順位を間違え、必要なことを忙しいことを理由に省略して自分にツケが回ってくる。仕事をずっとしていたとしても誰に怒られたというわけではないのですが、うまくいかない日でした。そんなことだから今日の「何か」も予定時刻が来ても「白紙」、書くことを幾つか頭のなかにおいていたのに、「頭が真っ白」という表現は誰がいいはじめたのかしりませんが、ある意味真っ白です。

うまくいかないことがあれば、逃げようと思ってしまったり、誰かに責任をなすりつけようとしたりする私を見たくないのにみてしまいます。

これから私は目前の些細なことでも一つずつ確かなものとしなければ、さっぱりさっぱりなことも他の誰のせいでもないんだから受け止め前に向くしかないです。

過去のすさんだ私のことを思い出しました。

何にも気づいておらず、自分が何を言っているのかもわからない。挙句は大切な人に受け止めれない現実のやつあたりで言いたい放題だった私・・・

相手が私の贈り物を受け取らなければ、その贈り物は私が持ち帰らなければいけないです。

善いものなら自分で自分に返ってきても何の問題もないですが、悪いものは天に向かってつばを吐くそのもの


「持って帰るがよい」


逃げたくても嫌でも、私のものは私が受け取るしかないです。


変わって変わらず

 今日はまだ乾燥しきっていないはちすを見ました。れんこん屋さんからいただいたそうだと言っておられました。

蓮が乾燥してしまえば、緑から茶色へと変色します。生命を感じる緑はどこにも感じられないですが、その代わり果托に蓮の種が入っています。蓮の種保存状態さえよければ古代蓮の育成の話にあるように100年以上1千年以上でも冬眠しています。

そんなことはさておき、育てていた蓮も段々と枯れてくる葉が増えてきました。今年は花はみることができませんでした。無事にレンコンとして残っている根を越冬させ来年(こそ花を咲かせるため)に備えることにします。

昨日いつも丁寧で配慮の行き届いている方にお会いしました。

いつもの如く礼儀正しく、自然な気遣いに圧倒され、我が身のいたらなさを言われてないのに気付かされました。


「私はケチを隠すために、物をあげたりお金を出したりしているだけだから」

最近はその言葉をよく真似します。その人曰くわたしはちょっと違うそうです。


まあ違ったとしても、意味は大体一緒なのでお世話になれば「ケチを隠さないとだめです」。私ができていないことを隠すために、よいことをするみたいなものです。


忘れやすいから忘れないように毎日書き続けるのです。


いつか自らがおもいえがくようなところへたどりつきたい。そう願うことは多いです。


果たしてそれが何なのか


やっぱりそれがタイトルのまま、書き続けてそれなりの月日が過ぎましたが未だ変わらないのです。


その思い描く


「何か」とは、なんなのだろう。