どのあたり

 見失っている。

そんな時は近くにいる人達をよく見つめることにしている。

その人をじっと見ていれば、その世界を見ている。一貫している世界なのか、たえず流動している世界か、安定しているか、不安定なことこの上ない世界か、混沌としているか、楽しい世界か、悲しい世界か、微笑ましい世界なのか・・・

いずれにせよ、私はその世界を見つめようとしている。(私なりに)一生懸命理解しようと務めている、理解したと錯覚すれば理解には程遠く、わからないと心の底から嘆くほどの思いが出ていれば誰よりも理解していると思える世界が出現することもある不可解な世界。


「その人が過去において成したことの報いは誰も責任が取れない。その人自身が報いを受けるしかない。
だから、現実が一番つらいことになる。そう言っていたではないですか」

確かに私は「現実が一番厳しい・・・」そう口にすることが多い。冗談で他人に向けることも多い。

何が厳しいか

「自分が過去において、成してきたこと・成さなかったこと・理解していなかったこと・勘違いしていたこと・(目前にあることから)逃げ続けたこと」

今この瞬間も厳しい。成さねばならぬことをなしつづけているかといえば、気楽に過ごしていることが多い。その時間もまた未来の私に降り掛かってくるという現実。



「自分は人より気をつけているから(問題ない)」という世界を見る。あまり私はそんなことを思わない(ただ気が付かず出現させていることは多いのかもしれない)。

他人が本心からその人に向かって「あなたは問題ないです」と言葉や態度によって出現させる世界とは少し違うように思う。


「(私は私の確信と決定において)問題ない」と決めている世界、その世界に続いて「しょうがないじゃないですか(私は一生懸命やっているのだから)」という言葉は周囲へ安心と反対の思いをもたらしやすい。


自分でかってに世界の枠を決め、やることも決め、できる範囲も決め、その中だけで判断し、自分はできることはしている。悪いことは一つもしていないと胸を張る。



世界は広く、大きく、長く、深く、果てしないものでもある。



隙あらば自らによって世界を小さきものとする傾向にある(私)。


言葉をもってこの世界すべてを描こうという傲慢な願いを捨てれない(私)。



中身(実)の伴わない言葉に、一体何の意味があるというのか(私)。





「言葉を伝えたから(私は)問題ない。あとは聞いたのにしていない人が問題だ。」なんて言葉は聞きたくない。



言葉の前か後、またはその瞬間も世界を作り続ける行が、「どのようなものだろうか」と見つめようとする行いを何かを行いながら、冷静に見つめていきたい。




「今あなたは道のどのあたりにおられますか」



勘違いではない。思い込みでもない。錯覚でもない。私なりにその世界を出現させたい。

心をもって心を伝えたい。
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あらぬ方向

 「邪魔をしている」




「(人により自らの何かを)成長させ(ていき)たい。」

私は思っていないと思う人も、思っていると思っている人も、そう願い信じ続ける人も、望んでいないことなのに何故と思う人も、何かしらを拡大させようとしている。ふとそんなことを考えている。

その拡大させようとする力は、生きていくための力にもつながっている。人によればつながるどころかそのものだと教えてくれるかもしれない。自らのしていることに気づかずしているのかもしれない。知らないのだけれどもしているのかもしれない。望んでいないのに気づけばしているのかもしれない。


現実から逃避することが多いわたし、理想や現状がどうすればよくなるのかと未来へ向かって考えを巡らせる。限界のない世界へ入っていく。いくつもそこに思い描く。


その世界と現実はかけ離れていない。

わたしをとおしてどちらの世界もその現実を示す。今置かれている現実とあるはずもないのだけれども確かにあって未来のビジョンなはずなのだけれども現在にあるもの。

その差を笑って楽しめるときは心身に余裕がある。楽しめず辛く苦しく何よりも重荷となり逃げ出したい現状を「余裕がない」「人として幅が狭い」「視野が狭い」「考えが硬い」「学がない」「たまには広い世界で遊べばいいのに」「極端」「偏りがありすぎて疲れる」「話にならない」などの言葉がそんなわたしに当てはまる。

わたしはそんなわたしから「わたしと(私を)囲む人達が心から望む方向へ少しでも進みたい」遠くの人だけが喜び近くの人が喜べない世界もつらい。私だけが喜び皆が喜べない世界もつらい。(綺麗事ではなくただひとりぼっちが私は嫌だからなんだろうと思う)


「成長したい」



そんな漠然とした問いを発し続ける。



私は勘違いをまたしてしまう。そのように皆が思っているだろうと




それぞれの人がそれぞれ考えがあり、願うところが違うことを私は錯覚してしまうことが多い。



その人はどこへいきたいのだろう。







わたしはどこへいきたいのだろう。

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続ける

「上げるているのか、下げているのか」と考えることがある。


ある人をふと私は見ている。

その方は謙虚で礼を失わず、少しでも時間が開けば何か自分がいる場所でやらなければいけないことを見つけたと思う前から動いている。

その人をもっと見れば、その人は伴侶や近くにいる人を自然に立てている。年下の方でも関係なく敬意を払っている。

気がつけば、目前の方を自分より上の方と思い接しておられる。近い言葉にもってきて「上げている」と勝手に呼ぶことがある。


今度は違う人をみる。

その人は何かあれば近くにいる人を蔑み悪口をいい、気に入らない人従わない人を下へ下の位置へ落とし続けることをそ人の自然状態なのかどうかはわからないが、行い続けている。その人のそんな場面を一度や二度、三度や四度みたくらいなら、ただの偶然か虫のいどころが悪いことがたまたま続いただけなのかと思う。見る人が「これはいけない」と思う瞬間の自分を連続させ、気がつけば長い時間となり、「その人はいつもそんな感じだ」と近くにいる人に思われる自分自身を、その人なりの継続によってないものなのに永遠にあるかのごとく思われるほど強烈に印象に残ることも多い。

そのような特質の一つを、「下げている」と言葉にしている私を見る。

とってつけたような褒め言葉が目前の人を「上げている」のか「下げている」どちらになっているのか、性格はなかなか変わらないというから、人により傾向は出やすい。ただそれが全てでもない。

目前の人の悪い点を言っているから「上げている」のか「下げている」のか、優しさで言っていることなのか、ただ言いたいだけなのか、いま自分は重荷を背負う余裕がなくてつらいから言っているだけなのか、わかっているつもりでもわかっていないだけなのか

それは「上げている」のか「下げている」のか、どちらでもない他のことなのか・・・


いずれにせよ、何かあれば他人を悪く言い続けたりおとしめ、自分へ矛先が向かないようにすり替えを行い続けられたり、することを得意とする人を見ることはつらい。





本当に私の悪い時だってそんなときだから、人ごとだと思っている私は見るに耐えない。

留守中

 この炎天下の中、スプリンクラー(自動水撒機)もなく、池や沼や泥地に植えておらず誰かが水を日々あげなければいけないところにおいている蓮がどうなったのか、ほんの少しだけ気になっていました。

「蓮は立派になっていました。」

以前より茎もかなり太く、葉も厚く、たくましく育っていました。欲を言い過ぎてはいけませんが花が咲いているかと思ってしげしげと見ても、らしきものはありませんでした。欲張りな私です。


一つ生育の悪かった鉢は枯れてしまっていました。それは私のせいです。大きく育つようになんて思いを捨てきれず、安易に肥料をたくさん与えすぎてしまい、肥が多すぎることにより根が焼け、それによって葉もやけてしまい、大きく成長することができず、結局暑い日差しを耐えうるだけの大きさと強さまで成長できなかった。

近くの農家の方が言ってくれていたことが本当に今になって身にしみます。

「○○くん。種から植えるんだったら肥はいらんよ」

植え替えた時に肥料を入れすぎた鉢一つをダメにさせてしまいました。申し訳のないことです。

相変わらずのプラス思考で行きます。失敗があるから次がいきてくる。次への一つの知恵(教訓)として痛いと思った分(人に)だけ残っていきます。

それでもまた忘れることが多い私です。

どれだけ痛かったことを・痛みを我が事として受け止めていたのか、それが次回の私の行動として試されているだけのことです。(私がまた阿呆で愚か者だったら忘れています・・・・)

変な話はともかく、留守中大変お世話になりました。おかげで蓮(達)はすくすくと元気です。

直接も伝えましたが、ここにあらためて気持ちをのせて、今日の何かとします。



「ありがとう」



(人は本当に素直な時と反省してなんとかしたいと思っているときは、綺麗で素直だなんて蓮の成長を見ていつも思わされます。)

約束

 以前海と私と約束をしました。

またあの子達と一緒にここへ

あれから時間が割と経ってしまいましたが、私の夏の長期休みの最後の日に海へ

海にまったくなれていなかった「けいくん(三男坊4歳)」も今年は海になれてきました。

しばらく歩き続けば火傷しそうなほど砂浜は熱せられています。大人なら大丈夫だろうなんてサンダルを遠くに置いてきてしまい、急いで次男坊と共に海へ飛び込みました。「けいくん」はサンダルをちゃんと履かせていたから熱くはなかったでしょうがいきなり海に飛び込むほど海に慣れていません。

以前海にきて、砂浜でカニが綺麗に干からびていたものを大事に持って帰っていました。時間が経っているのに「おとうさんカニとろうね」しっかりおぼえています。

ただ今回は泳げる時期です。けいくんは波打ち際で波が引いたり押し寄せてきたり、濡れた砂で何かを作って遊んでいます。たまには打ち寄せる波を感じて、海を満喫しています。

海水浴のシーズンということもあり人も多く、カニをじっくり探したりとか、ゆっくり自分たちだけの時間をというのは難しいので、純粋に砂で山や城を作ろうとしたり、お兄ちゃん達は泳ぎが達者だからずっと泳ぎ続けていました。

家内は体調が少し悪かったために、日陰で休んでいました。本当なら子どもたちをほっといても、あの人と一緒に泳いで海を満喫したいところです。(かなり子どもたちが怒るし、けいくんもほっとけませんのでしょうがないです・・・)

実家へ車で長時間帰省したときに車が大分汚れたので、車を洗車して今回の休みを終えることにします。





また(皆で)海へ行きたいです。

自分自身に早く気がつけば

 頭のなかで考えていることと、現実にあること、それは違うようになることばかりです。

愚かな私は自分が考えていることに違いないと根拠の無いことで「それは私の思ったとおりだ」なんて言いはることばかりです。そんなこと言ってしまったり(言い張り続けたり)態度で示しているから、私に善いことがあったとして帳消しどころかマイナスになり、ただの愚か者となっているだけです。

自分だけが理解できているなんて思いすぎていたりする時の私は滑稽そのものです。

ピエロは自分が道化だということを知った上で阿呆なことを演じて人を笑わせているから一流の道化師は「あの人はあんなふうに見えて賢い人だ」と言われます。本当に自分に気がつかないときの私は笑わせているのではなく(笑われているだけです)ただの馬鹿な私を世界に出現させ、それに気づかず「私は賢者だ」と自分だけがそれを信じているなんて言う世界。

現実や事実が一番辛いのは万人に共通する真理です。

誰かは不器用だけれども自分とその世界を守るために悪いことや苦しみに染まること無く不器用に自分と近い人達のために出来る事を必死に続けています。

少しばかり見る目があって器用になんでもできる人は、先ほどの人達からすれば勘違いもしやすく悪いことにも手を出しやすいのではないかと思ったりします。


悪いことをしている人の傾向は、悪いことをやめれば悪い自分を世に出現させることがとまって悪い自分がなくなるのに、現実の目先の利益と自分本位で自分しか尊重しないことを捨てきれず(あきらめきれず)が故に、悪いことの報いを受け止めたらつらいし、何が何でも逃げ切ればそれでいい、死ぬまでそれから逃げようとし続けています。

ただそんな人にも少し考えて欲しいと思うことがあります。

「自分のこと(自分の人生)なんだから好き勝手したっていいじゃないか」

好き勝手が善いことであれば、関係する人も家族も喜び、その報いは善いことが返ってくることは確かです。悪いことの報いをその人が突っぱね続ければ、その人の近しい(家族や知人や友人)に「おまえの近しい人だからお前も悪いのではないか」関係ないのだけれども、関係があるからと受け止めれない人や恨みや苦しみを持った人たちは(死ぬまで関係ない人に)言い続けてくる人も大勢います。

自分がしたことが近くの人達に仇となってかえってきたら、その人は悔み悩みくるしむだろうに・・・


できれば生きているうちに、自分の現実と向きあえばその自らの苦しみはなくなっていくのに


心から反省(謝罪)して、(全ての財産を失ってでも)善いことしたい。そういう人を人は歓迎するのに



何故逃げ続けるのか・・・



人事ではなく、私もそんなようなものだし





大事なことには早く気づきたい(気づいてもらいたい)



(それも私の中の身勝手な理想の一つ)


本人こそが思わなければ現実に反映されることは一つもない。

 何か誰かと時を過ごす。時をともに過ごしていれば仲が良くなることは多いのに、いつもと違って、しっくりこなかったり、距離が遠くかんじたりすれば、やはり 知らずに相手を自分の基準という眼鏡をかけて見てしまい勝手に喜んだり、勝手に失望したり、私自身を私自身が制することができず、ああしまったと思うことは多い(私)です。

どれの私も受け入れてくれれば、その人とは血縁関係がなくても濃いものだなんて思ったりするし、この人に出会えてよかったなんて思うことがあります。痛い言葉(や態度)もなかほどの言葉(や態度)も善い言葉や態度も「私は別に問題ないよ」なんて大らかに受け止めれる人も確かにいます。やはりそんな人と出会うことは本当に稀です。他ならぬ私自身がその人のように受け止めれないことが多い人だからそう思うのでしょう。
「自分自身ができていないのに知らずに相手には望んでしまう。」これが情けないところで、しかも落ち着かないと私自身気がつきにくいことばかり。「何故あんなことを(言ったのか行ったのか思ったのか)」と反芻している。
過ぎたことをあれこれ気にしすぎてもしょうがないのに、過去についてあれこれ悔い悩む。

よく見せたいなんて最初から思っていたのかいないのかそれすらわからないのに、気がつけば目の前の人に自分のことを善くみられたいときに発している自分の言葉は恥ずかしいものです。伝えたいことの本質がそれ、違うものになり、あろうことかその本質を汚してしまい、それを発する私も汚くなってしまう。

傷つくから私はやらない。近づくから傷ついてしまうので遠ざかる。避け続ける。そんな消極的な回避も望んでおらず、積極的にいきたいです。

以前にどこかから送ってきてた言葉を人に向けたことがあります。

「言う前に少しは考えてから言葉を発しよう。」

他の人に向けるのではなく、いつも私自身に向けることがふさわしいです。考えずに言葉を発し続けて痛い思いばかりしたくないです。

里帰り

 里帰りから帰省

徳島から長崎までいつも家族を乗せて車で帰ります。運転が好きな人なら車が便利というし、運転する手間や長時間拘束されることを嫌う人は飛行機や新幹線でいかれます。

そこが理解できていませんでした。私が思う強さくらいに別の交通機関で行く人も思っているんだろうなんて最近は思います。

「車で(自分で運転して)行ったらいいじゃない」

口で言い返されなくても人によれば

「本当に飛行機で行ったらいいのに」

「新幹線で行けばいいのに」

「高速バスで行けばいいのに」

まあ人によれば

「お金かかるから行かなければいいのに」

言わないけどれも、そんなことを思う人もいるのだろうし、思わない人もいるのだろうし。人のことはわからないことは多いです。ただ一つわかることは自分の思いだけが全てでは無いと思っていない時の私は全く綺麗ではないです。
思い込みと偏りが発生して、あろうことかそれを押し付けしようとしています。寛容という言葉の反対、よっぽどの人でないとそんな私を受け止めてくれる人はいません。

どこかにそれすぎた話を元へ戻します。

600kmほど運転して帰った私は、少し疲れました。実家へ帰省のときはいつも車だから毎度のことです。ただご馳走(晩御飯)とお酒を父や母が用意して待ってくれていました。姉と(姉の)子供二人も時を合わせ帰省していました。
子供達が全員寝たあと、母と姉と私でお酒を飲みながら話を夜遅く(正確には朝方で飲んでいたのは姉と私だけ)まで気がつけばしていました。

話し込めば出てくる(私の仏教)の話・・・

ただ他人に話す時と、身内に話すことにはかなり違いが(私には)出てきています。相手が出来ていたり、私を受け止めてくれる人であれば加減無く善いことも悪いことも現実のことも話しすぎてしまいます。そこでの問題は私の現実が一番問題です。私は過去においても現在もですが品行方正ではないです。善いこともすれば悪いこともしてきました。善いことも言えば悪いことも言います。あくまで私の主観だから悪いことしか言っていない人だと思う人もいると思います。

家族は私が生まれたことから小学生になって中学生になって高校生、大学生と大人になってから、簡単な事です。私自身が成したり発した善いことなんて数えれるほどあるのかなんて思います。ただ悪くいったり悪いことをしたりなんてことは山ほどあります。そんな私が善い言葉を発してもやっぱり現実の私とは差がありすぎます。他人には気をつけて話をしても家族には飾らずに話せば他人よりぼろが出るなんて言うのでしょうか・・・

相変わらず発言しすぎて後悔する私を見ました。正確にはうまく言葉を発することが出来なかったとまだ言葉にこだわる自分を見ました。

帰省中(きせいちゅう)の道中、時期的に伸びすぎた植物を伐採するために高速道路や一般道路でも道路整備のための看板が出て片側車線を規制中(きせいちゅう)が多かったです。

何日か仕事をせず双方の実家へ里帰りして仕事をしていないと、落ち着かない私も見ました。仕事をしないで楽をしてたら私は寄生虫(きせいちゅう)みたいだ・・・




両親や大叔母さんと久しぶりに会えて墓参りができたことはとてもよかったです。



ただ他は私とかオヤジギャグはさっぱりです・・・

概念

 大学生であったときです。まだ仕事をしながら二十歳かその前後に二つ上の先輩にいろいろなことを教えていただきました。

その時その言葉は心に引っかかるものでしたが、意味をよく理解できませんでした。ただはっきりと覚えていることは多いです。それほどインパクトのあることばかりでした。先輩は賢い人でした。

自分が持たざる者だということを理解している人でした。

現実にやらねばいけないことを即座に把握している人でした。

愚かな私にいろんなことを話してくれました。

私が愚かなことをしてクビをとばされたときも親身にできることをしてくれました。

本当に感謝しています。


私が四国にいることになったのも、路頭に迷うとき先輩にどうしたらいいかと指示を仰いだら

「おれならこうするけどな」

迷う私は、その時だけはすがる思いで迷うことなく四国に行く道を選びました。家内にも子供たちにもその理由と根拠を話せる日が来ればと思うことがあります。

先輩はとんでもなく素晴らしいところで一生を終わられると思います。先輩を知らない人は「棚からぼた餅だ」とか「運が良かった」とかやっかみでいうかもしれませんが、私は「あのひとなら当然のことだ」そう断定します。

また先輩もひとつ下の後輩も、一緒にお酒を飲んでひと晩語り明かしたいなんて思うことがあります。


先輩や後輩と違って、私は毎日を生きることで必死です。与えられた場所を維持することに必死です。甲斐性も未だ無いです。

ただ、二人には伝えたいです。





「私はふたりと違って(お金も地位も財産も安定も)何もないけれどしあわせです。」








本当に私の言葉は世間ではただの負け犬の遠吠えです。

待っているのは

 (大体)毎日「蓮(はす)」の様子を見に行っています。

昨年から植え替えた蓮は最近まで一番大きかったのですが、今年は少しお金をかけて、土壌や肥料と環境に気配りしたことにより、今年種から発芽させた蓮(はす)も負けじと大きなものになってきていました。

発芽させて土(泥)に植え替えたばかりの蓮はまだ小さい浮き葉ばかり、しばらくすれば小さい浮き葉は大きめの緑も濃い浮き葉へ変わりました。

蓮の特徴である水面より抜きん出る「立ち葉」は種から育てる場合はでないです(レンコンなどの根が大きいものを植えれば別です)。

浮き葉がたくさん出て、毎日酸素補給のために水をあげていました。しばらくすればまだ小さいですが浮き葉ではなく立ち葉がでてきました。

今あの蓮、浮き葉より全体的に「立ち葉」が目立ち、蓮らしくなっています。高いもので水面より60センチ、葉も大きいもので直径30センチになっています。

だんだんと気にして見る方は私に「(今年)花が咲くといいな」や「いつ頃花が咲くだろうか」楽しみに言われても育てはじめた私にはわからないので答えようもないのです。


ただ私も「花がいつ咲くだろうか」本当に楽しみなことの一つです。


暑い毎日、お日様も照り、人にはきついものですが、あの蓮達(はすたち)はその恩恵によって段々と大きくなっていくことを眺めれば現実嫌なことがあっても全てを忘れさせてくれて私に励ましの言葉を送ってくれます。(私はがんばっていますと、貴方はどうですか?)

すくすくとできることを怠らない蓮に励まされてばかりです。(私も頑張りますと心で答えます。)




花が咲くことを周りの人も楽しみにしているようですが

「花を一番待っているのは私です」

そう人にはあまり言わないですけど誰よりも待っています。



理由も簡単です。


「きっとあの蓮に花が咲けば、私にも花が咲くだろう」







何故かそう思ってしまうからです。





(仏教で尊重される、泥中(現実の苦しみ)から咲き誇り、その泥(現実・過去・未来の苦しみ)に一切染まることなく、ただ見る人の心を奪う程の美しさを放つ花、だから仏様それを実践(人間としての完成)されているからは蓮華の上に座っておられ、見る人の心をうばうほどの光をはなっておられるのです。仏教者や仏教を信じておられる方がこよなく蓮を愛されるのもしょうがないなんて思います。

後輩(善き朋輩)

 私にも大学時代の一つしたの後輩がいます。彼とは同じ屋根の下で長い時を過ごしました。

私の10代は目も当てれないようなものです。大事なことに何一つ気づかず、大切なことも何も理解できず、自分自身を全くわかっていませんでした。何より一番ひどいと思うことは私の身近にいる方の素晴らしさや何よりも有難いことを示してくれていることに気づかなかったり、わかっていることでも目を背け、目の前の現実や努力すべきこと成さねばならぬことから必死に逃げ続けていたことが今は悔やまれます・・・

私のひとつ下の後輩は不器用でしたが目前のことから逃げることは皆無でした。持病の腰の病に悩まされながら呻きながらも現実やらねばならないことに必死で向き合っていました。彼が今も過去においても私の中ではまぶしい光を放っています。私の師匠や先輩や後輩がまばゆい光を放つだけそこから私は必死に逃げていました。それは私の中で本当に情
けない過去となってその分現在の私はそれを取り戻そうとむきになっているところもあります。


なぜ突飛にこんなことを書き出したか


ここは現実発言力の乏しすぎるわたしが思うように書けるばしょだからということもあります。強者と弱者と分類されればわたしは弱者に分類されるでしょう。世の中でブログに思うことだけ書き連ねて現実思うことを言うことがない弱虫だという人もいます。事実わたしはそんなところです。

昨晩十何年ぶりかに一つしたの私にとってはまぶしすぎる光を放っていた後輩から電話がありました。

彼は相変わらず礼を失うことなく、私に鄭重に話をしていました。

「先輩、私も40になりましたがようやく結婚することになりました。できれば結婚式に来て欲しいのです」

本当におめでたいことです。彼が行ってきた過去と現在もですが私は学ぶところばかりです。そんな彼が結婚する。一も二もなく何をおいても参加したいところです。

彼にたずねました。

私「その結婚式には師匠も師匠の御子息様も先輩方も来られますか」

後輩「はい、礼をうしなえませんので先輩方も師匠も御子息様も招待しなければいけませんからこられると思います。」

私「・・・・・・・・・・」

あのまばゆい光を放つ人たちを前に私が平静を保てるか、礼を失わずに一緒に時を過ごせるのか、といってもすでに十何年もご無沙汰しているあたりで礼を失いすぎているので合わせる顔もどこにもないのですが・・・

私には愚かな過去があり、家内にはそれで迷惑をかけすぎています。そのため家内がいってはだめだといえば、私はそれに従うしかない。それほど家内には頭が上がらないです。本当に愚かすぎる私を悔やんでもどうしようもないのですが、悔やむしかないのです。

そんな私の愚かなところはどうでもよく、後輩の幸せは本当に祝福しています。


何事にも後輩は十代の時から真摯に現実と向き合い逃げることがなかったです。出来ることを惜しまない後輩でした。

「おめでとう」


ただ愚かなことしか示せない先輩であった私を許して欲しいです。




「ごめんなさい。」









「本当に有難う。」






私の生命があるうちに、言葉として後輩に伝えれてひとつ悔いがなくなりました。

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頼まれてもないけど

 仕事をして家族も増えて生活していれば、故郷や(遠くの)高校・(遠くの)大学、つまりは今住んでいるところとは遠いところの友達にはなかなか会えないものです。

仕事では、何の縁か会いたくなくても会いたくてもいろんな方とお会いしたり会えなくなったりします。

私は長崎生まれ長崎育ち、大学は関西あたり、気がつけば四国で生活をしています。

よく仕事でお会いする方にお会いすれば

「本当に友人や家族・親戚より、よくお会いしますよね」

なんて声をかけます。

「本当ですよね」

大体皆笑ってそうかえされます。

ここ(ブログ)も、書きたい放題のことを日々続けています。お世話になっている他所様のブログは何度も見ているせいか何故か凄く親近感を持っている私を見ます。やはり

「下手な友達より・・・・・」

そんな言葉を伝えたいと思うことがあります。

仕事でよく見かける方の中に、私より年上の方ですが、いつも元気よく声も大きく、一生懸命に仕事をされる方がいます。

一言で例えるなら「元気な方」もしくは「にぎやかな方」かな。

ただその方の良さを良いように受け取られない方もおられるのは事実です。

それはその方だけが特別でもなく、私だってそうです。私の良いところを皆が「良い」と受け取ってくれる方ばかりではないからです。

ただ優しくできた(ふところが広く大きく高い)方は、悪く思うこともなく大きく包み込まれ安定しています。ただそんな方ばかりではないので、世間では「あの人とは相性が」良い・悪いなんてよく聞くこととなり、事実(私も)「あの人とは相性が・・・」と口から出ることは多いです。

その方、真面目で一生懸命なのに、二人で仕事をしていれば相方との距離が離れていく光景が多いです。

「一生懸命でいつも元気なのに・・・」

私はあまりそうは思いません。あの人は楽しい方です。ただ自分が真面目で一生懸命に仕事に取り組んでいるとしても、自分が人と比べて少し不器用であるということ、自分自身の理解度が低く、自分と他者との温度差に自分自身が気がついてないだけですから、それに本人が気がつけば何の問題もないだけだ。

なんて、誰にも頼まれていないし質問されてもいないのに、勝手に回答してみます。



(ΦωΦ)フフフ…


(ここは、書きたい放題が通用する私にとって素晴らしい場所です。どうも世間でブログが流行るわけです。)

時間

 我が家は五人家族(私は次男であるから実家より遠くで過ごす私とその嫁とその子供三人)です。

 あの子(三人の子供)達との過ごしてきた時間、長男は小学6年に、次男は小学4年い、けいくん(三男坊)は4歳と早いものです。

昨晩テレビ番組の録画を機械に強い長男が予約していました。新しい機械に慣れようと一旦削除してまた毎週録画予約をしていたら、同じ番組の再放送を私は予約していました。

晩御飯が終わり、楽しみにみようと、長男坊がテレビをつけて再生したら

長男「おかしい。これ見たことある(過去の番組だ)」

私「お父さん、ちゃんと今日の番組録画したけどなあ・・・」

あれこれと探してみると、私の手違いと判明、長男坊はぼっそり

「僕が予約したのを消したりするから・・・(そういってすごく楽しみにしていたのかうなだれています)」

あの子達が失敗したら怒ることが多い(私)です。私の失敗だけ見て見ぬふりではあの子達に示しがつきません。

「二人共ごめんなさい。おとうさんの失敗です。」

家内が洗い物をしながら

「あなたが謝るなんて・・・・(後の文を省略しています。今まで私に対してあなたが謝ってきたことなんて皆無に等しいのに)」

私「しょうがないじゃない。あの子達に都合のいいところばかり見せれない。悪いところは悪いと言わないと」

家内はまた首をかしげています。(今まで一回もそのような素直な姿勢を私に対して見たことなかったけどといったような仕草です。)

「私は最近大人になれたんだよ。人より大分時間がかかりすぎた。」

さらに首をかしげています・・・

他人にも素直でないことが多いことの私です。子供にも都合の悪いことばかりでした。気がついたときくらいはなおし、これからは今までの分も含め素直でありたいです。

まあただ、家内と過ごした時間に私が素直でなかった時間だけ、変なものがたくさんたまっているようです。
それは






これから、頑張るのです!



(できれば過去は忘れて欲しいなんて思うことはよくあります。)

増量

 仕事が終わり家に帰れば、4歳になった三男坊と小学四年生の次男坊が仲良く遊んでいます。家内は台所で晩ご飯の支度、長男坊は寝冷えをしたのか夏風邪をひいてしまい休んでいます。

仕事のことしか考えていなかったのですが、あの子達(上の子二人)は明日から夏休みが始まります。大きい休みの前には小学校では通知表をもらってきます。

「どれどれ」

今回は長男はいつもより成績が思わしくないです。次男はいつもと同じくらい。私の小学生の頃よりあの子達は優秀です。まあ私が勉強まったくしてなかっただけとも言うのかもしれませんが・・・

子供に多くを望みすぎれば、あの子達はそっぽをむくことばかり、「全く望まない方がかえっていいのかも」とよく思いますが、それが私にはとてつもなく難しく「今やっていることは真面目にやりなさい」なんて怒っています。

自分の胸に手を当て、子供の頃の私を思い出してみます。遊ぶこと以外何一つ真面目でなかった私しか思い出せません。すべて忘れるくらいに自然の中で遊んでいた日々しかないです。それなのに子供達には怒るなんて、皮肉なもんです。「遊ぶことにも真剣に遊んだらいい。遊ぶだけあそんだなら他のことも真剣にやったっていいじゃない。」なんて怒っているときにはよく言ってしまいます。
望み過ぎないように。自発的に求めるようになるにはどうしたらいいかわからないことが私には多いです。

あの子達より、わたしがおおらかに、おおらかに、ならないといけないなんて思います。

おしつけと偏りは以前からの私の悪いところ、あの子達とわたし、相変わらず考えるだけ(のわたし)ではどうにもなりません。

休みは特に子供達とスキンシップをいつもより増量していきたいです。

こころ

 人が違えば違うことに気付くことは多い。

同じことを見ても、聞いても、行動しても、自分との差に気づく。

気づいたものが違うことになる。

「何かわからないけれども、なんだか」

違和感は違いなのだと後になれば気が付く。


あの人とわたしの違い。(あの人は誰でもいい)

わたしは傷つけば、心が傷んでいる。

心が傷むも人により時により場所により表現が異なる。

傷ついた心を補う方法もその人により異なる。

誰かがいればそれで心が落ち着く、あの大切なものがあれば心が落ち着く、優しくしてくれれば心が落ち着く、話を真剣に聞いてくれれば心が落ち着く、買い物をすれば心が落ち着く、何かに没頭すれば心が落ち着く、写経をしたり読経したり座禅をしたりすれば心が落ち着くなんて人もいるだろう。

本当に「こころ」をきれいにするという方法だって人により違う。

かたち、存在、大きさ、高さ、奥行、時間など本当に違うのだけれども、同じであると思えることも多い。


非情なことばかりしていれば、「あなたにこころは無いの」とされたり見ている人は思う。

「情にもろい」の反対、お世話になりっぱなしなのに大事な時に誰よりも見知らぬそぶりをする。人は言う。あの人は「情がないのか」もっと略して使う。

あの人は「薄情だ・・・・」と


いずれにしても自分のこころならば、思うようになることも多い。他人のこころを思うようにということは甚だ難しいことになる。感謝するときには皆「有難う」と口にする。

お月様がまるく綺麗に輝いているのを見れば、何故か嬉しい(わたし)。


大きく、(角のないように)まるく、太陽のように直視できない眩しさでもない明るさ、お月様がこころの見本になるのもしょうがないか

何かこころについて書こうと思えば、夜空に浮かぶ月を思い出してしまう。

意味

 悩みごとがあるような顔をしている。

どうしたんですかというような顔をする。

矛盾を抱えてなやんでいる。

何の矛盾かなど聞いても、また矛盾は生じてくるだろう。

ひとつ解決すれば、また一つ悩み、何かしらの矛盾を抱える。

いっそ考えないほうが・・・

そう思いながら必死に考え続ける。

何故か関係ないのに、私の生きる意味は、そんなことも出てくる人もいるだろう。

悩みは悩めば尽きず、矛盾は何によって解消されるか

いつも動くことが多い人ならば、じっと動かないこともたまにはいいのかもしれない。

悩んで何もかもが止まる人であれば、草を抜いたり、誰かがしなければいけないことで放置されていることを真剣に考えながら没頭してもいい。

いくら考えても悩んでも答えがでなくても、没頭していることは進んでいく。

善いことを思いつかない私は、とんでもないことに遭遇すれば、ただ ただ 歩き続けた。それもいいかもしれない。

今は思う。できるならば身近でしなければいけないことを放置していることに没頭して悩み抜きたい。


矛盾が何なのか考えてもいい。

欲張りな自分の欲が客観的にどうなのかを考えてもいい。

考えてすぎて悩んでも答えがでないという答えを出してもいい。


本当にそれを簡単に世間では、「困ったら目の前のことをしっかりやりなさい。」意味がわかりにくい言葉で伝えてくる。



わかりにくく、その時に応じて意味の変わる言葉の意味を私は知りたい。

 住んでいる徳島はまだ梅雨明けしていないようです。確か九州の方では梅雨明けしたとか。確認すればわかるのですがまだ梅雨だと思っています。もう暑いしそろそろ梅雨明けだと皆口々にしています。

ゴールデンウイークからだんだんとこちらでは暑さが目立ち始め、暑くなりすぎるのではないかと思えば梅雨に入り、夏の雲や暑さ、おたまじゃくしではなく蛙の声が増え(うるさくなっ)って、今日の昼頃には蝉が何匹か鳴く声が聞こえました。
蝉の声も夕方には一匹も鳴いていませんでした。

夏といえば季語でもある「蝉時雨」、本当に蝉がうるさいくらい鳴き出せば夏の到来。

スイカを誰かにいただいたり、その辺で安く売っていても夏の到来を感じます。

入道雲を見ても「夏」だなんて思います。

晴れていたのに突然の夕立や雷雨もそう感じます。

かき氷を食べてもちっとも寒くならないときもそうです。

子供たちが(夏休みの)宿題が「多すぎるよ」という声もそうです。

「海水浴」も「スイカ割り」も「キャンプ」も「実家への帰省」も「お盆」も「うちわや風鈴」も「花火」も私の中では夏です。

家内の誕生日も真夏にあります。

なんでも蝉でも蛙でもうるさく鳴き過ぎるまでは風流だとおもってしまいます。暑さも度が過ぎるまでは夏が近いなんておもってしまいます。

あの子達と夏と実感できる夏を過ごしたいと思う蝉の声でした。

あまえ

 だらけていれば、勤しむ人に戒められることがあります。たまになら歓迎されることはあるでしょう。

子供達はお母さんが大好き、よく甘えています。私に甘えても厳しく突き放されてしまうから余計にお母さんに甘えるのでしょう。

お母さんに余裕があれば(見ている私には)甘えることも微笑ましいです。ただ母さんが忙しすぎたり体調が優れなかったりやることが多すぎたときには甘えることも難しいです。あの子達からみればそんなことはお構いなし、やれることをさぼって、甘えるだけが続けば怒られていす。

子供だけでなくそれは私も同じ、調子に乗っていれば甘えさせてもくれません。

「私は高い女よ」

冗談でよくそう言って、相手にしてくれないです。

「給料全部渡してるから、相手にしてくれていいんじゃないか」

厳しい目で見られています。(お金ではなく普段の行いで証明しないとダメって感じの目です。)


子供たちが甘えることが好きなのは私が一番家内にあまえていることを近くで見続けているからだとも思います。


「もうあなたたちは大きくなったんだから母さんから卒業しなさい。(私のお嫁さんなんだから)」



なかなかです(あの子達なのか私か・・・)

夏だから

 しっかりした人と過ごせば、後になって思います。

「あの人は自分があるな」

隣にいる方もその言葉を聞いてうなずいていれば、あらためて感心します。

よく「私は自分を持っている」という態度をされることもあります。同じように口にします。

「あの人も自分があるな」

隣にいる方から聞こえてきました。

隣人「前者が自分を持っているというのはいいけど、後者の人は自分を捨ててもいいな」

私「・・・・・・・・・・・」

隣人「(ああ、言い忘れてた)無いほうが邪魔にならんし、(そのほうが)1からスタートできるわな」

気が付けば思い込むのは若い頃の特徴なのかなと思うことがあります。年配の方を見ても思い込みの激しい方もいますから、年齢に関係ないといわれそうですが、若いほど思い込む傾向は強いと何故か思います。

皆に持ってもいいと思われる「自分」

皆に捨てたほうがいいと思われる「自分」


案外自分のことは気づかないものだなと他人を見れば思います。てことは私も私のことは意外とどうなのかわかってないのだということか。

気がついたときには、変なプライドだけ高くて、自分を捨てれず(めちゃくちゃ損をしたとしても)意地をはってしまう。

冷静に見つめたい。冷静に見つめれないときも冷静でありたい。


冷たければ冷たすぎるほど夏にはちょうどいい。

気がついたことがあります。

私はどうも朝おきてしばらく頭がまわっていないようです。
何か言われても、日中や夜なら即答しているのに、朝は何か聞かれても答えがでないどころか頭に何もはいってきていないです。
深刻なことは何もないのですが、それは短くすれば、ただ「寝ぼけている」だけです。

子供たち三人をながめていても、個人差はあります。起きてすぐ寝ぼけているときは、ふにゃふにゃしています。
普段は強い発言をしているのに、「何故そんなに甘えたり何もしなかったりごろごろしているのか」そんなことを私が発言しても
おそらく当人は寝ぼけていて、その答えにたどり着くどころか聞こえていない覚えていないかもしれない。
あの子達と私はそのあたり年齢は離れていますが共通しているなんてしみじみ思うのです。

思いついたことを誰かに聞いてもらいたい。そんなことを思っていすぎたり

思っていると気がついていないのに話をしたくてたまらず話ばかりしていたり

思っていることを誤解されずに伝えるにはどうしたらいいのか思案していたり

思っているままに話をして状況が悪くなったり

思っていることを言わないでおこうとして寡黙になったっていたり

何のあてもなく話したことがたまには善かったり

わからないことばかり、ただ(自分のことは全て)わかっているなんて思い込む。
もっと多くを見ている(ただ気がついていない)。わたしも皆も同じなのではないかと思う。


わたしは筒を見ている。


多角形の筒を見ている。


多角の角は数え切れないほど角が存在しているものを見ている。


厳密に初めは筒ではないのかもしれない。

触れたり見たり聞いたりするたびに、その角は増えていく。

角が少なすぎる多角の筒は、人があたるたびに痛い思いをしやすい。

最終、筒は多角の筒ではない。円筒だ。最近そのように思う。

厳密に「筒」ではない。

「円塔」になっている。


近づけば角がないので何なのかわからない。その大きさと高さ、中は何なのか、(私には)わからないことは多い。

私の筒はどうなのだろうかと思う。

角がありすぎるために円筒ではない。数えれるほどの多角の筒だろう。

数えれる角はその人の個性を生み出している。

角が心地よいと思う人はその人を好きな人だろう。その角が嫌いだという人もたくさんいる。

近づけば全体を見失う。遠ざかれば小さく見える。ただ小さければ見えない、大きくてもぼんやりとしか見えない。

わたしの目は正面からしかものをみることができない。

多角の筒もひょっとすると前面が多角で後ろは円かもしれない。もしかしたら一つの辺かもしれない。いや存在しないかもしれない。ただいずれであるとしても前面と同じなのではないかと推測している。

前と後が同じならばその人に隠しごとや嘘がないのだろう。(透明性が高い)
見えている面のみを取り繕っていれば、全面を把握されれば失望されやすい。見えない面はその人の有している根拠をあらわす。(なければ砂上の楼閣のようなものだろうか)

大きさがわからなければ、その人が大きすぎるのか、判別できない私が小さいのだろう。

どれだけの高さなのか、高ければその人のたどりついた高さは素晴らしいのだろう。高さを判別すらできないときは見ているものと差がありすぎるためだろうか。


美しく雄大で素晴らしいものに憧れることに難しいこと(理屈)はいらない。


わかるかどうかより、自分が何を出しているか(出現させるために何かしているか)

目前の多角の筒でも円塔でも、こちらには何の問題もない。


わたしの角はどうなんだろう。



ただ、「わたしはわかるよ」という言葉の意味に心がふるえるばかりによろこぶこともある。