プレゼント

 そろそろ長男坊と三男坊の誕生日です。

昨日家内へ「なにかプレゼントを買ってあげないと」と心の中で思いながら、

「ちょっと電気屋さんいってくる」

最近の電気屋は電化製品だけでなく、おもちゃやら何やらたくさんおいてあって便利、これだとおもちゃ屋さんも困るよねなんて少し前に思ったものです。

「お誕生日」という言葉を聞いて「けいくん」は小躍りしています。

まだ3歳次で4歳の誕生日ですが、家内・私・長男と次男の誕生日にお祝いをささやかながらしています。当然子供たちにはプレゼントがあります。彼もそれをしっかりとおぼえているようです。

「おとうさん、誕生日のぷれぜんと、買いに行こうね」

どうも彼(けいくん)は、買えばすぐもらえると思っているから、今すぐにでも買いに行きたいようです。

「けいくん、誕生日まで後10日位あるから、もし今日買ったとしても、すぐもらえないよ」

当然(プレゼントがすぐ手に入らないので)納得いかないようです。あとちょっとその日まで待つことが大事です。

今日も折にふれ「けいくん」は「誕生日の買わないとね」と笑顔で訴えてきます。

私が子供の頃は住んでいたところもど田舎で近所にお店もなく、小学生の頃まともにプレゼントはもらったことなんて記憶にないですから、あの子達には何でもいいからプレゼントは毎回もらっていたという記憶をあげたいと自己満足的な思いが心の中にあります。

楽しいことを待つのも楽しく、欲望はその対象が手にしてしまえばその瞬間に消滅します。人は欲張りだからまた欲望を自ら生じさせそれに対してとらわれを発生させ、また手に入れればその欲望は消滅、何度も何度も私自身が気が付かない時でもそれを繰り返し続けています。

よい欲望は人も自分も喜ばせます。反対はつらいです。


家族も自分も喜ぶ欲を持ち続けていきたいです。
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まよい

 顔見知りの人、二人も同時にお会いすれば話にも花が咲きます。

嫌な人、苦手な人なんて思う人を顔見知りと私は人に言いません。同じ回数あっていたとしても言わないなんておかしな私です。

よく私も道に迷います。道に迷う原因もすこしずつわかってきました。

「行き先(目指すところ)がきまっていない」

「行き方がわからない。」

「いまこの瞬間、何をしていいかわからない。」

「周囲の発言行動によって動揺し、大切なものを見失っている。」

考えれば考えるほど理由は増えていきます。

私は車を運転して、決まった道ばかりではなくなんの確信もないのに

「この道はきっと(私が思う道へ)通じている(だろう)」

大抵行き止まりであったり、細くて通れない道ばかりで引き返さねばいけないことばかりです。家内はそれにつきあわされてばかりだから、他人にそのことを

「絶対に引き返そうとせず、行くところまでいくのだから・・・」

私はよくそれに反論します。

「道に迷うとは、新しい道を知るということである。」(など誰かの名言を自分の言葉のようにいってみたり)

または

「すべての道はローマに通じる」(・・・・・)

まあ、日本に住む人がローマを目指して車を走らせているかどうかは聞く必要もくらいでしょうか。

元の話へ戻します。

顔見知りの方が話の最後に大事な話があるんですと言われました。なるほど大事な話でした。人の話を聞けば私の悪いところを指摘されているようで、他人事ではないです。

「ルール・正しいことを遵守する。」

「時」や「人」や「場所」などが違えば正しいことやルールは流動的な要素が出てきます。感情(人情)が出れば尚更です。団体行動でのルール・正しいことにある程度のラインはあります。ただ偶然集まった人達のだれもにはっきりと目に見えて理解できるラインがあるかどうかはあやしいものです。

その人に微妙な判断は任されることにより誤差が生じ、こちらの思いが勝ち(思い込みが激し)すぎれば私は相手との思いや相手が受け取らない分、こちらへ厳しくかえってきます。うまくいかないことをすぐ環境や人(自分をのけた世界)のせいにする自分を見ればさらにきつくなっていきます。

それもまた、(私の)迷いの一つです。

善い驚きは感動や素晴らしい出来事と受け止め、その反対は他人のせいにするだけで何も努力せずただ驚くばかり・・・



どのような人にも変わらない態度ができる(礼をを失わない)私でありたいです。

幼虫

 昨日久しぶりの休日でした。
三男坊とお庭の山椒の葉をいつもの如く眺めていました。アゲハ蝶の幼虫がたくさん繁殖しています。ぱっと見ただけでも小さく黒っぽい幼虫が八匹、脱皮が何回か進んで緑色の大きな幼虫になったものが四匹ほどいます。

初めは恐る恐る眺めていた「けいくん(三男坊)」も最近は、彼(または彼女)等が人へ害をなさないことを何度も見ることによって学びました。

「けいくん、わけもなくつついて警戒させちゃダメだよ」

図鑑で角を出すことを学び、実際に緑色になったばかりの幼虫から黄色い角が出てくることを楽しむようになっています

「幼虫達も成長するために一生懸命だから、あまりつついちゃだめだよ」

幼虫からしたら、あの子(けいくん)は要注(ようちゅう)意人物です。

「害をなす」という言葉よく聞く人もいるかもしれません。その反対の言葉はわりと有名です。意味を知らなくても聞いたことがある人も多いはずです。

害する(ヒムサー)ということばに否定(のア)がつき、「アヒムサー」(アヒンサー)という言葉になります。

漢訳すれば、「不害」となり、他者に害をなさないなどの意味として使われています。インドに興った宗教、仏教と姉妹宗教のジャイナ教などにも尊重され、マハトマ・ガンディーによっても「非暴力」などに訳された言葉でも有名です。

お経ではもっとわかりやすく、「不殺生」(ふせっしょう)生き物を殺さないなどに訳されています。

殺す殺さないまでいかなくても、非暴力までいかなくても、他者へ「害をなさない」という意味が私にはぴったりきます。

「(私に)害をなして欲しくないから、あなた(目前の方)に害をなさない」


これができないと




「ふがいない」私が出現しているのです。

 何気ない(自分の過去の)ことで、現在において突然それが跳ね返り痛い目にあうことがあります。

「突然、何故今頃そんなことを」

忘れた頃に唐突に現れればそんな言葉をもらしています。

結婚してからも、結婚する前もですが、私は大事なことに気がついていませんでした。思いつくまま言葉を幾千と連ねる。
中身がなければ、見る目がなければ、理解がなければ、自分の現状を全く理解していなければ、連ねる言葉は惨憺たるものです。

余裕もなく、現状うまくいっていないことが多ければ多いほど、その原因を自分に向けず、向けやすい人だけに向けるなんて安易な手法をとりつづけていました。

一回くらいなら誰でも耐えれるものです。何回どころか一年以上続けば向けられた人は発した人へ少なからず怨みを持ちます。こちらが忘れても言われた相手は(一生)忘れないのでしょう。

私の子供三人、特に次男坊はそのあたりがよく私に似ています。

何でも思いついたまま発言、自分が行っていることもわかっておらず、行ってきたこともわかっておらず、相手がどれだけのことを自分に対して行ってきたのかもわからず、自分が何をいっているかもわかっていない。簡単に言えば、そんなことをしていたら怒られます。怒られるだけならいいです。それ以上のことだってありえます。

子供でも簡単にわかることが、大人の年齢になった私は全く出来ていなかった。

「あの人が大好きです」

その言葉はごまかしのためでも、機嫌をとるためでもないです。

思いつくままに言葉を連ねるわたし、忘れた過去をうけとめねばいけません。もっと己を見つめ直さねばいけません。

見つめる(反省する)だけで止まっていては、誰の目から見てもどうしようもなく、ただ目前の小さなことから実行・継続するしか、誰からも理解してもらえないのは世の道理です。

まずは知らぬ間にまた生えてきた草を抜くのです。草を抜くのがどういうことなのか、何をしなければいけないのか、どうしたいのか、考えるだけでなく、草をぬくのです。

竹林

 蒸し暑い日々が続く

最近では珍しく今日はよく風が吹いて心地いい。

いつも眺める場所に竹が3本生えていた。今年も春になれば竹の子が何本も生えてきた。庭を維持する人が竹が生えすぎないように毎年手入れしているのを見かける。今年は何故か竹の子を何本も残していた。

しばらくして竹の子は枝のない高い竹になった。暫くして枝が茂ってきた。さらに時が経てば葉が茂ってきた。

竹の枝はやわらかい。若い竹の枝はまだ上斜めへ葉を茂らせている。育ち切った竹の枝はその葉と枝の重みで水平かそれより下斜めへ垂れているものばかり。

いずれにせよ、風にゆられている。


風にゆられ、サラサラと音を立てている。

若い枝にすずめが一羽止まって遊んでいる。

その重みでも竹はなんともない。私がのったら折れるだろう。

風に舞う何かをすずめが軽やかにおいかけている。






私も何かを追いかけている。

そうだ

 最近ここ(ブログ)も、本人のこころの状態を見事に反映され、パッとしません。

理由をあとから付ければ幾つかおもいあたります。思いつかないことは書けません。

その一つに、気持ちが伝わることを望みすぎる自分にやられています。優しい方・できた方・興味ある方に話が通じれば通じるほど、知らずに私はそれを誰にでも望んでいます。

えも言われぬ一体感、うてば響く、その響きの音色(余韻)にやられているのでしょう。

人に、何かを尋ねたり求めたりしながら、(私的偏りのある)響きを追い求め、求めているのに求めておらず何かしているのに何もしていないそんな時に出会う響きにやられています。

気負いすぎてもだめ

求めすぎてもだめ

押し付けてもいけない

わかっているなどと一人で思い込みすぎてもいけない


何がいいのか


あの雰囲気がいい


何の根拠もなく期待しすぎる自らのこころにやられる。


あの育てている蓮(はす)たちは、黙って新しい葉をつけている。



そうだ


困れば蓮に聞こう。

たずねれば何も答えない蓮の芽や若葉や成長に教えられてばかり。

いけない

 誰か人の前で何かを行う私は、自分でも気づかないところで他者の目線を気にしている。


「気にしているだけならいい・・・」


中身がないのに自分を善く見せたいという思いが生じ、行うことに何か無駄な力が入ることがある。その思いに気がつかず強すぎるものを持てば、言動に知らずに反映されている。見るもの聞くもの触れる人がいれば思うだろう。

「(ただあなたは)人前に出たいだけではないか」

問われれば否定する。「わたしはそんなことはないです。」ただ言動には絶えず見苦しいものが現れている。

「認めるか」

「なぜ邪魔なものをはさむのか」

「どうして自分をそこで入れるのか」

「普段からきれいごとばかりで、言動はその反対ではないか」

周囲へそんなことを思われていることにすら気づかない。


何故見せかけだけ取り繕い続けるのだろうか、普段の行いを見られ続けているのに


よどみなく、自分から「している」でもなく、誰かに「させられている」でもなく、自然に現れるもの


「身につくもの」


あいた口がふさがらない言動は見続けたくない。

見られたとき

 別れを望む。

気が付けば嫌なことばかりしてくる人、自分自身は普通か善い人だと言うのだけれども客観的にはそうでない人、何かあれば全く優しくない人などには別れを望む人もいます。私もよくそんなことを思います。

望んだところで別れるという現実がやってくることはまれです。思ったようにいかないことが多いのが現実だなんていう人は多いはずです。

出逢えば別れるのは世の常

生まれればやがて死ぬのも世の常

赤子もやがて老人になるのも世の常


あのとき、聞こえてきた言葉が私の頭から離れられないのです。

「黒髪(くろかみ)つねに黒からず・・・」


怨みをよく持つわたし、そんな私も怨みを持つ人をみれば(他人事みたいに私は思う)怨みを持っているうちは解決しない、怨みが止むこともない。相手より自分こそが怨みを止めなければいけない。

私が怨みにとらわれていればその私を見る人も同じように思うのだろう。

私が怠けていれば、その私を見れば何かしたらいいのにと思うのだろう。

私が私のこころが美しい状態であれば、それを見る人は何を見るのだろう。

私が真摯な振る舞いをしていれば、それを見る人は何を見るのだろう。

正しい(善い)人と正しくない人を見て同じような振る舞いをする人に何をみるのだろう。



一生に一度しかない別れに涙する人を見て、私は何をみるのだろう。


その身を持って真理を示してくれていることに気がついていなければ、私は「生きる」という意味から遠いところにいる。

ありがとう

 いつも美しく格調高い言葉をブログで発信されている方がおられます。
私がブログをはじめてまもない頃、そこのブログを見たとき衝撃を受けました。私の中のブログというもの、その可能性、概念がだいぶ変わりました。

その時も今もその方のブログは変わらず美しいです。

その方が「暇」という言葉について、自分自身暇だとあまり思ったことがないという言葉を出されていました。

少し前に私も「暇つぶし」みたいなタイトル「主観の相違」に気づかされ書いたような記事です。

「違いとは何か」それは次のようなものです。

誰もが時間を長く過ごす場所があると思います。時間を長く過ごす場所が騒々しかったり、問題山積であったりすれば長くその場所で時を過ごすことを嫌になる気持ちは出てくるように思います。まあ皆はともかく私は問題ばかりなのは嫌です。

そこで問題だらけの私の登場ということになります。

問題が多い場所で問題の原因を一つずつ調べ、元からたっていけば少しずつではありますが改善していくはずです。正確に把握することも困難なことばかりです。それは問題が複雑であったり、解決に向けて協力的でなかったり、あろうことか協力しているとみせかけているだけで問題をさらに複雑にさせる方もおられるからです。

問題を一人で複雑にしておきながら、その人自身がで「苦しんで困っている」といってくれば、(私は)余計なお節介をします。

「これが原因だから、そのためには元の原因であるあなた自身が気をつけなければその問題は解消されない。だから具体的にこうしていったら貴方自身は問題ではない。他の人だけが問題となる。」

なんてまとめれば上に書いてあるくらい短くなるけれど、具体的な例を挙げながら一つ一つ理解してもらい、自分が何をしなければならないのか話をしたら、お礼を言われました。

「ありがとう」

それだけならいいんですけどね、後が続きます。

「ありがとう。(私はしないから)あなたたちがしてよ」

ときにはその後にもっと続くことがあります。

「ありがとう。だいぶ遊ばせてもらった。」

問題の原因を作る本人が何一つ解決策を受け取らず解消しようとせず

「私可愛そうだし、困っている」

なんて言ってくるような人もたまにいます。こっちは真剣なのに渦中の真っ只中の人が暇つぶしとは・・・

「暇つぶしに付き合った私も、周りから見れば暇を潰しているだけなんて見られるな・・・・」


私は何をしているのだろうかと思うことが多い私は、今日も何かを記すのです。

自由と救い

 誰かと出逢えば善いことばかり言いつづける人を見かける。それは私も善いこと(言葉・行動ともに見聞きすることは)好きだから問題とはならない。

問題としてしまうことは、「善いこと」を言っている人の発言中や後になって、その人がいつも(現在)していること・過去においてしてきたことと、その言い続けている言葉と落差がありすぎれば、「善いこと」は何も問題ないのに、「善いこと」と「善いことを言い続ける方」の差を見てしまい、勝手にこちらで落胆したり、幻滅したり、反省のなさに呆れ返ったり、改善する気のなさを悲しんだり、あろうことか「黙ってくれ(それだったら善いことをあなたは言う権利はどこにもない)」など思ってみたり、問題は相手ではなく私自身が作り続けていることが問題となっている。

別に目前の人が普段皆に微塵も優しくもなく、善いことなんかまったくしていなくても、「善いこと」を言い続けることは自由であるし、当人は「善いことを言っているし、しているし、何の問題もない。皆が問題だから言ってあげた」と思うこともその人の自由だ。


「(わたしって)善い(人間だ)から」

やっぱり(わたしは)言葉とその人の普段の行動の差(違い)を見てしまう。

問題は多く、難しい。


「私はいけてる。あなたは問題多いね。」

なんてそんな態度や言葉が来れば、たとえようのない悲しみがおとずれる。


笑顔や子供たち、礼節を重んじる人に私はいつも救われていることを実感する。

即加入

 先日の日曜は仕事、私の代わりに家族皆で日本代表(サッカー・ワールドカップ)をTV観戦で応援していました。

「おとうさん(私)の分まで応援しといて」

子供たちへお願いしておきました。仕事が終わり子供たちにが出迎え

「日本先制点とったのに負けたんだよ」

「残念だなあ

おとうさんが応援しなかったから負けたんかな・・・」

そんなことはともかく、ワールドカップに日本代表が出ていれば何故か嬉しく、応援したくなります。普段はそんなことはないのに私はサポーターの一員です。どうもサポーターと名乗るのに誰かの許可はいらないからです。名乗りを上げればそれで既にサポーターに加入しています。場合によっては選手を呼び捨てにして自分がその人より上手にできないのに偉そうにダメ出ししたり、「あそこはもっと・・・」とか言いたい放題ができます。

お祭りは好きです。

現実仕事ばかり、調べものばかり、勉強ばかり、真面目なことばかりでは真面目ではない私は気分転換したくなります。

お祭り騒ぎなんて言葉は私のためにあるのではないかと、気分が高揚すれば思うくらいです。

毎日お祭りはちょっと問題ですが・・・、たまのお祭りは大歓迎

「その日運良く仕事がなければもっといいだろうなあ」

なんて欲張りなことを言っているくらいがいい時なんて思います。

近く

 近くにいる方の話、その方がご子息ご息女にたいして行われていること、お孫さんにされていること、どれもがいつもためになります。

「子供が何かを学びたいという時に協力してあげないと、何かをし(学び)たくない時に、協力してもおしつけても、やる気がないときにはどうにもならないから」

それはその人の子供や孫相手への何かあれば口癖となっています。

なかなかそれを真似できず、隙あらばおしつけてしまい、結果物事はうまくいきません。

近くにいる方と私、それ以外の人だってたくさんおられます。

自分は滅茶苦茶なことをしているのに、何故か他人の悪口だけ手当たりしだいに吹聴する。

「何故自分のことは何一つ省みることなく、人のことだけ悪く吹聴できるのか」

悪く言われている人には意味がわかりにくい。

悪く言われる人と吹聴する人は考えや理解が反対のことばかり

「何故あんなことをするのだろうか」

「理解できない」

「あの人はめんどい」

「苦手な人だ」

何故か違うことを考えているのに同じことを思っていることが多い。

理解できないときは前に進みにくいことが多い私。

理解できれば前にどんどん進める

理解できなければ前に進まない

自分が立ち止まってしまい、悪く吹聴する人を悪く吹聴しているだけ(のわたし)


(気がつけば)いつも問題をすりることよって、核心から遠ざけ続ける人、その核心とはそのすり替える人の場合は多い。

悲劇の主人公になりきり、他人を悪く言い、問題をすりかえ、
問題の改善ではなく誰かを悪くすることによって、
「少し(なのかそれ以上なのかはその人によるのだけれども)悪い自分は(自分が悪くした人)より善いから問題ないです」
という結論に終始する人も見ます。


「真似したいと思える」かどうかよりは、皆から見て

「真似してる貴方は問題もなく。むしろそんなあなたを皆歓迎しています」

なら問題ないかな。

(それぞれの)暇つぶし

 現状で何か問題があれば、皆その問題で頭を悩ませられることを嫌がるので大抵は原因を突き止めようとする人がでてきます。

不具合が多いのにその原因を知ってか知らずか、見当違いへ持っていき話をそらす人も出てきます。

話はこじれます。

一足飛びに問題解決の原因へ向かいたい人、あちらこちらと問題の原因にたどり着かせたくない人の攻防が知らずにあるなんてあとになって気がつくことばかりです。

何故、「後になってから気づくのか」という理由は、そうなる前の状況を幾度となく見てきました。
解決したいと思う人は、自分が行おうしている思いを汲み取り協力してくれての発言や行動だと(相手を)信じています。何かしら意味があるのだろう、問題解決へ近づくだろう、そう思い相手を信じて動いています。

道はそらされてばかり、問題の解決への道と違うあさっての方向へときには連れ去られます。気がつけば右往左往、時間だけが過ぎていた。そんなことはどこでも何度でもあるものです。

両者ともその人の個性、個性と聞けば自分の個性を認めて欲しい私は「しょうがないか・・・」なんて思ってしまいます。

けれども、「問題の解決」と「個性の容認」は別の問題だということを誰もが知るところのものです。


暇つぶしに、「(皆が困らないように)あれもこれもしておかないと」そうして時を過ごす方もいます。

暇つぶしに、「(皆のことなんてどこへやら自分だけが)思うままの言動しほうだい」そうして時を過ごす方もいます。

どちらも「暇つぶしには違いない」なんて両者を見ていれば思います。

何故か「問題解決を目指す人」と「現状問題だらけの場を必死に維持を目指す人」の対立を見かけます(知らぬ間に私はまきこまれていることばかりです)。

何が双方にとっての願いで、どこまでは侵食されたくないのか、双方にとってのメリットは何か、そこに自分をいれて三者での問題解決の落としどころに放り込む。


そこのところ(私には)難しいことばかりです。

幼い

 庭(の草木)で孵化し、たくさん見かけた(ナミ)テントウムシも最近は見かけなくなりました。

テントウムシが大好きな三男坊「けいくん(三歳)」は、庭に出れば石をめくり植木鉢をどけ、「ダンゴムシいっぱい」そう言って大きいダンゴムシを探しています。

何故でしょう。私もつい大きいダンゴムシを探しています。真剣になれば大人の力は馬鹿にならないものです。

「けいくん、あのあたりがあやしいね、あそこなら大きなだんごむしがきっといるよ」

思ったとおり、とても大きなダンゴムシがいます。捕まえて手の上においてみると、やっぱり大きいです。

「ダンゴムシおっきいよ」

あの子が欲しがるので手に乗せてあげたら、小さな手を歩き回っているダンゴムシとても大きいです。

「おとーさん、ダンゴムシ、おっきい」

「もっと大きいダンゴムシに会いたいだろうから、おうちに逃がしてあげてね」

「はーい。ダンゴムシさん、またねー」

今度はあの子「ようちゅう」をさがしています。スコップで土を掘ってなにかの幼虫を探しています。テントウムシの幼虫がいなくなり、山椒の葉を食べて大きくなるちょうちょの幼虫もいないか確かめ、何かのムシか幼虫がいれば

「おとーさん、ようちゅう、こっちきて」


あの子もまだ幼いです。幼虫もあの子もこれから何に変化していくのか、いつ飛び立つのか

山椒に大きいみどりいろの大きな幼虫がいました。

「けいくん、おっきいよ」

「ほんとだ、おっきい」

けいくんも少し緊張していますが幼虫も何かされないかと少し警戒しています。近くの葉に小さい生まれたばかりの幼虫も何匹か、それから一段階脱皮したものもいます。

あのみどりの大きい幼虫、少し経てばサナギになり、時が経ち無事であれば羽化します。アゲハ蝶になるのを何回か見たことがあります。

見た目は幼いあの子

中身が幼すぎる私


幼いにもいろんないみがあるなんて思うものです。

徹底

 大人同士になれば、自分ひとりの限界を知っていき、自分では解決できないことは他人にお願いしなければいけないことも避けて通れないことがあるものです。

見渡しても見渡さなくても、人に好かれることを望みます。見渡せば他人もそうだと思うし、見渡さないときは自分を見てそう思い、生きていくにはいつもではないですが必要なことかとも思います。

自分のことはさておき、誰か(外の人)を見ていると、良い事は皆に好印象をもたれるから自分から率先して他人の分まで良いことだけを自分の手柄のようにする人を見ます。もっとよく見るとその人は悪いことを(どちらかでもなくその中心にいるのに)直接したり自分が悪く思われるような発言を徹底して(良いことをしていないけれども良くおもわれたいから)避ける人がいます。

人前でいい格好するのも好きです。私は別にいい格好してもらっても全く問題ないです。ただ問題なのはいい格好はするのに自分が何一つその言葉に沿っていくような自分自身にしようとしていないことのほうが問題です。

安易な体裁をとりつくろうことばかり続ける。初対面やたまにしか合わないならばれないかもしれません。
わりと時間を過ごしているのにそれをやられると本当に私はへこんでしまいます。

私がへこむのに、私自身がそんなことを出しているなら全く話になりません。


さまざまなことを教えてくれます。いろいろと教えていただいて有難いです。

善い人は善いことを徹底しようとするし、その反対も同じようなことが多いです。

失敗

 仕事に就けばつらくてもそれ(給料)に見合わない労働が、なんてことは誰でも思うだろうなんて思います。(何故なら私も時折そんな不埒なことをかんがえるからです)

忙しすぎれば、そんなことも考える間もありません。とにかく目前のことに必死です。無事に今を乗り切らなければ、以前はあせりすぎてよくミスをしたものです。(今もミスしますが・・・)急ぎたいのに余計に時間がミスによってとられ本末転倒になることも私にはよくある話です。

急がなければいけないけれども、落ち着いて正確に、けれども待っている人達がたくさんいれば急がないとなんて思ってしまいます。

開き直り、急ぐことをやめれば、マイペースに刻んでいけます。ただそれによって以前より成長はないことばかりでした。何とかしようと心に身体がひっぱられ成長もするし学びもあるし、ミスもあります。

落ち着いているのだけれども、早く的確に的を射抜くようなものが理想です。周囲から見れば慌てていない。(あたふたしていない・ミスも少ない)冷静な中に感情を時折混ぜたいです。

予想外のできごとで大変な目にあっている人もみかけます。手伝えることがあれば手伝いますが、自分でやらなければどうにもならないことまではその人がなんとかしないといけないです。
そんな時私の横にいる人は

 「上司(社長など)は、人の痛みがわかる人でないとなれない。(だからがんばって)」

何か周囲の方に苦労がやってきたときに、近くにいる方はその言葉を誰にでもではなく(受け止めれる方にだけ)口にされています。

同じ仕事をしている人が何人もいて、初めから何年経ってもミスひとつない人が上にたてば、自分を基準に注意指導します。誰でも自分を基準にすることはあたりまえです。

だから(若いけれども私の)上司がミスしたときには、すぐお礼を言います。

「ありがとうございます。何一つミスしなかったら、私がミスした時に「おまえはなぜこんな簡単なことをミスするんだ」なんて簡単に言われるから、上司になる人はたくさん仕事もしないといけないけれども、ミスもたくさんしてくれたほうがいい。
有難う御座います。」

大抵はミスをすれば注意されたり怒られたりするもんです。私以外の方の失敗はありがたいもんです。

返ってくる言葉は

「どんな嫌味ですか・・・」

いや本心なのです。


人の痛みがわからない人は上司や社長などに向いていないと私も本当に思うからです。

こちらが

 昨晩から明朝にかけていつものように熟睡できず、仕事が終わったというのに睡眠不足で頭が痛く、ほんの少し体調が悪くなるだけで、身勝手な言葉や態度が出ている始末です。

体調のせいならまだ言い訳としてなりたつのかもしれません。

何もないのに、冷たい言葉を発してしまうことがあります。

「冷たい言葉」

もっともそれは発してからでないと気づかないことが多く、相手の反応をみてその言葉と反応をもう一度考え直してみたときに、再認識ではなくやっと認識しはじめる・・・

相手の立場になることなく、他人事のように放つ言葉や態度も冷たいなんて思われるでしょう。


もう一つ相手をあきらかにみて、ありのままの現実を伝える言葉も冷たい言葉となることがあります。

他人に優しくないのに自分にだけ優しい。
やらなければいけないことから目をそむけ安易なことばかりしている。
傷つくことをおそれ、前に進もうとしない。なのに文句だけ言う。
自分の厳しい(できていないという)現実を教えてくれる人をおとしめたり悪く言いふらす。
周囲の問題ではなく、自分の問題を解決しようとせず(問題点を)指摘されれば相手にあたりちらす。
従わなければいけないのに、(肝心要の)人に従うことがない。
素直ではない。
謙虚でもない。
人前でいい格好はするが、裏方にまわることや地道な自分を支えてくれる大切なことのため(日々)の努力をしない。
余計なことを言わず(だまって)「はい」といって、自分や自分にとって大事な人のためにできることをしない。


私は余計なことをよく言います。出来た人ほど私ができていようがいまいが関係なく、「冷たい言葉」を真摯に受け止められます。

まったく私ができていないのに、反対にお礼を言われたりすれば、本当に深く考えさせられ実行するしか道はなくなります。

「冷たい言葉」

真摯に受け止めたいです。

どこ

予定通りに行かないことは往々にしてあります。例をあげれば仕事、計画、栽培、恋愛、結婚、人生、予定などなど

私の近くにいる皆に優しくできることを惜しまない方の口癖は

「9割思うようにいかないことばかり・・・」

そういっていつも皆が困らないようにできることを続けておられます。
できることを常に怠らない人に、予定通りにいっていなくても、現実上手くいかなくても、
「しょうがないよ」と笑顔で終わり、悔いなく先に進めることは多くなっています。
私から見て悔いなく見えることと、本人にたずねれば「悔いばかり」と帰ってくることが多いことは、事後の笑い話でしょう。

あれこれと考えすぎて、悪いことばかり考えてしまいどんどん沈んでいったり、「行う」ことの反対に向かうばかり、考えないほうがましなのに考えすぎてしまうこともよくあります。

日々ここへ、思うがままに書き記しています。

一秒一秒、一分一分、一時間一時間、一日一日、一年一年、時が積み重ねられ、いやどこから来てどこへ行くのか、時は気が付けば過ぎ去り、わたしは歳をとっています。

何かを追い求め、何かを読んだり経験したり、書物を読み、意見をきき、たずねたり、ただ気が付けば忘れていることばかりです。

目前に到来し

「ああ、そういえばそうだった」

求めたものを再認識する言葉です。

時がどこからきて、どこへいくのか

風がどこから吹いて、どこへ行くのか

わたしはどこからきて、どこへいくのか


いまわたしはどこにいるのだろう

少しは

 昨日から頭が痛かったのです。

頭痛にもいろいろあります。ありがたいことにほとんど身体的なもので私は頭が痛くなることはないです。
私のことをよく知る人なら

「プラス思考だからストレスもなさそうだよね」

異論もなく、まあ実際その通りです。

でも、時折悩みます。

長く話をしているのに相手に言葉が通じないときは悩みます。時間だけかなり経過している。意味がまったく通じていなければ、頭が痛くなることもあります。

こちらがそれだけ思っているということは、相手もこちらに同じように話が通じない人だと思っているでしょう。
久しぶりに昨晩は夜遅くまで頭が痛い日でした。

次回はこの失敗が教訓になり、そのことを忘れてさえいなければ問題も少ないです。

「話せばわかる」いつも私が思い込んでいることのひとつです。相手の思いを汲み取ることも大事です。ときにはわからないことも、話をしないことも必要なこともたまにはあります・・・。

「何故に頭が痛いか」それも簡単、自分の意見や思い込みにとらわれ、話を理解してくれるという勝手な自分自身の思い込みにとらわれ、相手がこちらの意図が理解してくれないことを嘆き、相手のせいにして自分の不足をごまかそうなどという思いにとらわれ・・・

怨みをもつのも

怒り狂うことも

理解してくれないと嘆くことも

(他者が)優しくないと思い込むことも

上手くいかないという世界に浸ることも

自分が現実から目をそらし、相手のせいにして、自分を改善しようと思わないことに、私の頭痛の原因です。

何かよいことがあったり、優しい人にであったり、時間が経過したり、忘れたり、何かを成し遂げたりすれば、私の変なものもどこかへいつの間にか消えていることばかりです。


少しは賢くなりたいです・・・

おかしくないですか

 お寺や神社へ行けば、お参りをされる方と少なからず出会います。

拝み祈る。

人により願いは違っています。

たずねても教えてくれない人、たずねないのに教えてくれる人、声に出してお願いしているので聞こえてくる人、何もお願いはなくただ拝み祈る人もいると思います。

礼儀正しく、真摯にお参りする人を見れば何か感じるものがあります。

その礼儀正しく真摯にお参りする人「普段はちょっとこの人なあ・・・」なんて思う人でも何故かその拝んでいるときは美しく見えます。

しっかり身についた(その時だけでも可)礼や真摯な姿は清々しいものを私の心にもたらしてくれます。

ひとつ謎が解けたような気がします。

あの人(この人は誰でもいいのです)を好きな人と嫌いな人と普通の人がいます。

私はそうでもないのにあの人を好きな人と嫌いな人もいます。その違いは何故だろうかと思案することが多い私です。

「人が違えば個性もあるし、好みもあるし、ほか様々な要因があるから考えたってしょうがないじゃない」

と思うのだけれども、何故だろうかとあれこれと思いめぐらすのです。

「真摯にお参りする方がもたらすことと同様のものか」

それがその人全てではないのだけれども、ある一面を持って美しいようにみているか、そのプラスがほかのマイナスを補っているように受け取れるか、その人のそのバランスが合う(いいと思う・じゃまにならない・むしろ歓迎な)人には、あの人が好きなんでしょう。

人はさまざまな方向へ顔を向けているものです。ひとつの顔だけではないです。ただその顔全て自分自身でも把握しているかどうかは本当に難しいものです。

あの人を見つめる(理解していく)ことも難しいことです。

それより自分を見つめていくことはさらに難しいことです。


何かあれ(少し自分の言動が不安になれ)ば私は私の行動を見ている人にたずねます。

「私(の言動)は、おかしくないですか」

その問を発しているか、心にあるときはどうも問題は少ないです。忘れている時見るに耐えないことが気が付けば出ていることがあります・・・。