また

 誰かを見る。初めてお会いした方であれば、どんな方かもわからないから、どのような感じなのか別れてから初対面は終わる。
また(二度目)出会う。以前と同じような感じであれば、私はあの方はいつもあのような感じなのだろうかと受け取る。
また(三度目)出会う。やはり今までと同じ感じであれば少し安心する。

人が生きていれば波風の立たない場所などなく、問題のない場所もなく、死と生が及ばない場所もなく、年月が押し寄せてこない場所もない。
誰かと何回(何百回以上)も出会う。その人の全てはわからない。ただその人の普段の傾向はこちらへ伝わってくる。

また出会う。少し感じがおかしい。いつもとは違う雰囲気を受けとっている。「どうしたのですか」とたずねる。
「いや、ちょっとありまして」など返ってくる。そんなあたりまえのことはよくある。

話は変わる。

誰かを見る。初めてお会いした方であれば、どんな方かもわからない。初対面から違和感を感じる。
また(二度目)出会う。以前と同じような感じであれば、私はあの方とは何かしらの違和感をかんじとる人だと受けとる。


いずれにしてもその人の何度もお会いすればその人のもつ雰囲気はこちらへ伝わってくる。だからといってそれがその人の全てでもない。ただ一面はあらわれている。

誰かを見る。人に優しくしている。また出会う。また人に優しい。また出会う。また人に優しい。

誰かを見る。人に優しくせず自分に優しい。また出会う。また自分に優しい。また出会う。また自分に優しい。

同じ引用を持ってくる。

善人には善はなし易く
悪人には善はなし難い
悪人には悪はなし易く
聖者には悪はなし難い

(小部経典、「ウダーナ」(自説経)五、八。漢訳同本、四分律、四六)




善いことをいつもしている人に、善いことはなしやすい。
悪いことをいつもしている人に、悪いことはなしやすい。

難しい話は多い。私の主観が入りすぎる見解ばかり、「あなたそれは(悪いことだから)やめたほうがいい」
相手からすれば私が悪いことを言ってきたととり(邪魔をするものと認識し)、私が悪い人になることもよくある。

困った私だ・・・。

誰かを見る。また皆と自分のために自分が存在する場所をよくしようと努力している。またその方と出会う。
同様に汗を流しながら、よくしようと努力している。「あなたそれは(善いことだから)そのままでいてほしい」
相手からすればどう思われるのかわからない。「ただ私はそのようないいものではない」と言葉や態度でかえされる。

また私はその両者やその方達以外のたくさんの方と出会う。
(私のように)変な人にも出会う。


「また」の後に何がこれから続くのだろうか
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誰でも

 何を基点としているのかわからないことばかりだけれども、苦・楽・辛・憂・悩・怒・怨・妬・嫉は気がつけばこころにあらわれている。
苦と楽の中間が普通なのだろうか。それとも様々なものが生じていないときが普通の状態なのだろうか。平静を保てるときはどのような状態なのだろうか。
誰かに叱責される。厳しい言葉(できていない己の現実)を前に動揺しないことは(私には)難しい。

 近くにいる方をいつも私は見ている。ほとんどの問題に簡潔に即答。それには誰もが納得、反論はでない。
誰かに悪口を言われたとしても、「一人で言ってたらいい。私はなんともない。」たずねればそういつも答えられる。
悪口を否定しようとはしない。言うのをやめさせようともしない。ただ自分にできることを続けている。
自分だけでなく、皆のために考えて行い続けている。言葉より日々の態度で相手を納得させている。
その上何かあれば誰よりも優しい。どんな人にもわけへだてなく優しく助けている。
「私はこれくらいしかできないから」
返す言葉がない。それが簡単に皆できることではない。いや私にはできていない。正確にはしようともしていない。
私にもようやく一つのことがぼんやりと理解できる。

誰もがいつ来るとはわからない困難の中にある。やがておとずれれば「私はだめだ・・・」の思いは誰にでも
でてくるように思う。ただ瞬時に何かでその揺れや波をうちけしている。
みずからのこころからでてきたマイナスの要素を即座にプラスの要素で打ち消している。
人によればプラスがあまりある人もみかける。

雨にうたれれば誰でも濡れる。うたれればへこむ。傷つけられれば痛い。

「濡れるし、へこむし、痛い」だけで止まっていたら、これからも同じことでまた悩み続けるだけだろう。
思い悩み揺れ動きすぎることはあまり好まない。原因は簡単なもの、(私は)即座にプラスへできるだけの(日々の)行いが足りていない・・・



足らないもので(補えるのであれば)補わなければしょうがない。

 我を出しすぎる。

自分の思いはとても大事なものだと思います。理由は簡単です。我に我があって、その我を拒否されたり嫌がられることは誰でも嫌だと思うからです。「自分のことはわかってほしい。他人のことは少しもわかりたくない」ではどうにもならないからです。よって人それぞれ何かあれば自分の気持ち(思い)が入っていることが多いと感じます。

ただ私は激しい感情と共に相手に出していくことがあるので、激しいものはよっぽどの人しか受け止めれてくれません。ほとんどの方が軽く流されるか、受け取らないでしょう。

相手の思いを聞けば、自分の思いを聞きます。相手の意見に大賛成なら自分もそれを喜び受け取っているのだと気づかされます。当然相手の意見に大反対なら、自分の意見はそれとは違うことを教えてくれます。何が納得いかないのか、何に反対なのか、どうしてなのか、相手を好嫌に関係なく思っているのであれば考える必要があることも気づかせてくれます。

(自分が)欲張りだなんて思うことが多々あります。何か考えを発言しても受け入れられなければどうしてだろう。なんてことが多いです。世の中自分の思いどうりにいくことなんて少ないのに、本当に欲張りです。

「あの時言ってくれればよかったのに」

「あの時言わなければよかったのに」

冷静になれない私は後者ばかり、後悔と変な自信を気がつけば前に出す自分としっかり向き合っていこうと思います。

 お家(借家ですが)には庭があります。昔ながらの家屋ですのでコンクリートで固めてあるところが半分と後は土です。当然土には草が生えます。仕事が事務や書物ばかりで座ってばかりですから、体力維持と庭の美化の一石二鳥をかねて最近は真面目にやっています。(別に家内に言いすぎて機嫌が悪いからってわけじゃないのですよ・・・)
理由はともかく、毎日少しずつでも草を抜いていけば7割くらい綺麗になりました。どうせなので延びた木やバラの木なども一気に剪定。「もうこの木は枯れてもいいや」ぐらいの勢いで枝を全部刈ったことが何度かありますが、気が付けばあの木達は元以上にはえています。
庭の木を剪定が終わったら、その中に埋もれていたビワの木が出てきました。他の木が茂りすぎてちっとも目立っていなかったのです。

種を発芽させ、少し大きくしてから庭に植えてからもう4年位は過ぎたでしょうか、すでに長男坊(小学6年生)の背丈を超えて大きくなっていると思います。

一年先をおもいては花を

十年先をおもいては木を

百年先をおもいては人を

あのビワの木を見ても、花を見ても、立派な人をみてもそれをしみじみと実感します。

変な理想ばかり追い求めすぎることが多いです。変なことや先のことを考えすぎるより、目の前の草を抜くことのほうがよっぽど大切だなんて思い知らされます。まずは草を抜き花をそだてたいです。

落ち着けば木を植えたいです。


考えすぎることより(先のことを考えすぎるより)、草と目前の人をしっかりみることが(私にはとても)大事なことです。

継続

 (勘違いな)思い込みによって物事がうまくいくときがあります。私はその反対が自慢できないほどに多いです。

職場でともに仕事をする方となれば、家族より長い時間対話したり過ごしたり、仕事をしながら同じ時を共有していき、慣れていなかったのにいつの間にかお互いを知ることになっています。それぞれの価値観の違い、性格の違い、方向性の違い、実践力の違い、思想の違い、信ずるもの微妙な違い、願うところの違い、そのどれもが不思議でならないくらいだったものが過ごす時間により隔たりにいつの間にか架け橋がついています。嫌でもなんでも同じ時を過ごすことは無駄にはならないと思うことがあります。(もっとも誰でもは理想です。なかには距離を置かねばならぬ人もいるように思うことも多いです。)

自分にとって善くなる方法と思われることが、相手に合うかどうか、これは思い込みで相手にしてしまうことが多い私です。どこかで「これだ」と思えば、家族にも職場の人にもそれをしようとする自分がいます。

それが受け入れられるかどうか、私のこれまでの行いと現在行っていることや相手をどれだけ思っているかが相当重要です。気がつかないうちに(私を)あらわす雰囲気(空気)として相手へ伝わり、私の現実がいつも返ってきます。

「痛い(自分のありのままの現状)言葉を怨みと見るか、感謝ととるか」職場でいつも時をながくする人たちに何かあれば言います。
たいして精進をしていないから、自分がきられたり、激しく痛い言葉(私のひどい現状)が返ってくることを承知で発言します。もっともここには信頼関係がなければ私はその場(すべて)を失います。悪い癖です・・・

怨みや怒り妬みの炎が消え、冷静にその言葉を(私は)見つめ,、いつかは言いたいのです。

「ねがわくば、この苦は生じないように、ほかの苦も生じないように」



痛い言葉を自分ではなく相手に向け、その跳ね返りがきてからしか頑張ろうとしないこの現状をよくしたいです。
(家内や近しい人にはこれでよく迷惑をかけているからです。)
本当に問題はいつでも(相手ではなく)私です

ねがい

1を聞いて10を知る。

願うところのもの(理想)です。何も言われなくても100を知る人だっているでしょうけれど、どちらにしてもそれは受け手の言葉です。

10すべて言わずに1を言う。
10は知らないけれども1を言う。

1しか言えなくても10まで言えても1だけ言うのであれば同じことです。ただ両者の違いは直接なら微妙な雰囲気で知っているのか知らないのかはわかるのかもしれません。

説明するのにとても親切な人であれば

1から30(時には50も100)まで順序よくしっかりと飛ばさずに簡単なことから漏らさず説いていくのでしょう。ただ最後のあたりでは相手の集中力がもっているか、一度だけ聞いて最後まで全部覚えているのか、そこは問題となります。

私はそんなに優しい人ではないです。

あえて皆が3から5を言うあたりを簡単に言いながら「これですよ」と100くらいを突然言うことがあります。もっとも私が思う100だから相手からすればそれは1かもしれないし5かもしれないし-5くらいかもしれないし10かもしれないところも楽しいところです。話は突然あらぬ方向にとばしたり、様々な方向の10を行ってみたりそうかとおもえば-10あたりを・・・

こちらは百も承知なのに、あえて無言を通すこと(人・時)もあります。とても丁寧な人であればどのような方にも同じで優しく1から10(30)くらいまで説くのかもしれません。

本当に短い言葉で相手に思いを伝える。

誤解のない言葉で短く相手に思いを伝える。

平静を保ち(揺らぐことなく)相手に思いを伝える。

私はそのどれもが問題となり、現実の課題となっています。痛い言葉や行動をもってしか相手に伝えることができない。(あいてにしっかり伝わったかどうかもあやしいものです。ただ自分が恨まれたり怒りを持たれたり厄介な人だと思われることばかりかもしれません。)

話さないとわからない。

話しすぎれば道はそれていく。

臨機応変に大切なものをそこなわず、極端にもとらわれずにいきたいです。

はなれない

 さっぱりさっぱりな私

土曜日に子供たちのために朝から一生懸命に頑張り、家事もこなし、夜は町内会の会議へ出かけて遅く帰ってきた家内。
私は仕事が終わり、酔っ払いながら簡単な家事だけ行い残った子供たちを面倒を見ながら調べ物をしていました。
最近の悪癖が酔えばでてきていました・・・

外では言わず、言いやすい人にだけ言いたい放題、酔えば饒舌になりすぎて、あろうことか一日一生懸命頑張っている家内へ何でも言いたい放題。家内へよく口癖のように言っていました。

「家族の迷惑になるようなお酒はいけない。」

事実で言えば、お酒のせいにしているだけで原因は私です。「ありがとう。おつかれさま」だけでいいのに余計なことばかり言ってしまう誰か(私)が悪いだけです。

偉そうなことだけ言って、自分はまったく実践していない。悪すぎる見本の極致、あげくには少し時間が経てば悪い自分を正当化しようとする自分すら出現しています。自分で自分の悪いところを正当化して一体何になるのか・・・

大好きだし感謝しているのに、言いすぎたり本当のことを伝えれなかったり、ちっとも昔から進歩していないとしか思われるはずがないです。

「悪い見本はもう十分です」という言葉しかあてはまらないです。

人には善いことをよくいうのに、当の本人はどうなのか・・・

いつもお世話になる優しい方に何度も言われたことが思い浮かびます。「反省ならサルでもできる」あの人にも、いつも触れ合う方にも、心から納得できる実行でしか反省して前へ向いていこうと思われることはないでしょう。
昨日に引き続き、話にならない私に残された道は「(不言)実行」しかありません・・・

さまざまのものごと あまた導くは こころ こころを主とし こころより成る 汚れたるこころによりて話し語り行いあらば 苦しみは その人をおう 車引く牛の足に車の輪従うがごとし



この次の詩は

さまざまのものごと あまた導くは こころ こころを主とし こころより成る きよらなるこころによりて話し語り行いあらば 楽しみは その人をおう 影添いて離れざるがごとし(ダンマパダ法句経)



返す言葉はありません。

どんなに私が願っても私がした(悪いことが)タイトルどおりなのです・・・

さっぱり

 昨日から考えがまとまらず、見通しもたたず、焦らなくていいのに焦ったり、言葉に角も多く、何やら幅も視野も狭く、まあつまりはかなりめんどい私が誰にも絶賛されてもいないし待望されてもいないのに出現しています。

困ったことに身近な人にだけ言いたい放題、よその人にはいい格好をしておとなしくしている(私)・・・

言いたいことを言われた人はどう思うのか、そうかといって思い(考え)をどうやって伝えるか、そこが恐ろしい程に不器用です。

感情を激しくともなってぶつける。もっとも変なところだけ賢くて受け止めれそうな人にしかぶつけないのですが、私の勘違いや見込み違いで、相手がそこを理解してくれなければ私はただのどうしようもない人にしかなっていないです。

考えなくてもいいことを必要以上に考えることをしばらく慎みたいです。書けば書くほど必要なものがわかります。考えより「実践」です。

気が付けば即座に極端に走りやすい自分を冷静にみつめたいです。


まあ昨日から何も出てこないここのとおり、本当さっぱりです。

実行することが三日坊主にならないように、場当たり的なものにならないことを忘れないでいきたいです。

感謝と反省

 久しぶりに仕事のことで外部の方と打ち合わせがありました。あまり外に出ない私にとってそれは珍しいことです。あれこれと事前に考え込むのは悪いことでもあり、たまにはよいことでもあるとすぐに私は言い訳をします。

お互いの意見を交換せねばいけないのに、言い過ぎることの多く落ち着いて後になれば、相手の発言の意味が理解できることは多いです。

面倒くさいことは嫌です。それは私だけではないです。面倒くさいことを後回しにしても解決が先延ばしになっていくだけ。誰かがそれをやらねば、そうかといって自分が率先してねえ・・・、変な葛藤する私を見ます。

抱えている問題を誰かに話せば少し私は楽になります。話を聞いてくれた人がどうも少し何かを持ってくれています。私の話や私のことを理解してくれる人に知らずに感謝しています。

落ち着けばそれも、私が相対する人の話を受け止めなければいけないことを教えてくれます。

まったくもって後でないとというのが私の課題です。

「思うがままに発言したあと」

「思うがままにしたあと」

「思うがままに書いたあと」

ここ(ブログ)は心地いいです。見ている方は良識がある方ばかりだから私の程度や書く事が拙くても、言いたい放題をする人もいません。書きたい放題の人もいません。


本当に有難いです。



(見ている人がいないというだけかもしれませんが・・・)

よく見かけること

 いうことを聞かない子供達に注意する優しいお母さん。優しいがゆえに言うことを願いをかなえてくれるから、感謝からスタートしているのだけれども、甘えや怠けや現実逃避に発展、何もしていないのに偉そうにする。あろうことか偉そうに振舞うだけならいいのだけれども、自分が偉いなど勘違いをする。

家内と子供を見て思う。(私はここでは見ないでおきましょう・・・、話を進めます。)

家内は私に注意してくる。

「あなたが怒らない(注意しない)から、あの子達が毎朝怠けて言うことを聞かない」

「うーん。いやそれちょっと違うんだよね」

「何が違うの」

「私は大体、いや徹頭徹尾くらいかな、怒ることばかりだったよ、でもあまりにも激しく怒りすぎるから、私を見て皆が恐がるし、少しは丸くとか優しくとか、加減してとか、ほかの方法でとか、そういう態度や言葉を向けてくるから、最近怒っていないでしょう。頭から尻尾まで怒りを持って貫くことは簡単だよ。でもそれあまり望んでないでしょう。だから最近は違う方法をとっているだけなんだけどね」

「確かに・・・」

「まあ怒れというなら、(私には)簡単、でもやっぱ皆それ望んでないような気がするんだよねえ」


何かをおしつけられることが嫌いなわたし

周囲に目を向ければ、おしつけられることが嫌いという人はたくさんいるように思います。ひねくれた私は時折激しく押し付けます。何かを激しく押し付ければそれを跳ね返すにも同じくらいの力がいります。正しいものをおしつけたとして、世の中は広くほかにも正しい道が存在していることを世に生きる人誰もが知っています。

「激しく押し付けられたけれど、私はそれをひとつも受け取らない。ただそれより正しい道を選んだのだから」と出てくることもまれにあります。

どの道へ進むにも、結局は自らがどれだけ自らに望んでいるかの強さが必要不可欠です。

あえておしつけはねのける力をださせるか、自然にそのような力を持たせるようにできるか、ほっておいて成り行きに任せるのか、はたまたそれ以外の無数の方法を採るか・・・

あの子達をみれば学ぶところも多く、反省させれられることも多く、私の現実の課題も多いことを知らせてくれます。

(あの子達も私も)共に学び多き人生でありたいです。

草むしりと

 草が育つ、花が育つ、虫が育つ、人が育つ、本当にほっておけば庭の雑草が生え放題です。
家内は私と違って日々抜けるところを少しずつ抜いています。先日の休日ごろごろしていれば、家内が私に話しかけてきます。
「日々の継続が大事だよね(皆でコツコツ草を抜いた方がいいんじゃないかしら)」
寝ている私は聞いてないふりをしています。次の日は仕事後雨でした。思い立ったらなんとかです。
「これからコツコツやるよ(少しずつ草を抜くよ)」
「雨で風を引いたら困るから今日はやめたほうが」
「土が雨で濡れて草もとりやすくなっているし、少ししかとらないし、雨もそんなに強くないしすぐ戻ってくる。」
今日も仕事終わりに少しだけ草をとります。ただ終わったところをみれば雑です・・・。三日坊主にならないようにしようと思います。
今日もテントウムシの幼虫は元気です。テントウムシのサナギも増えています。テントウムシの成虫がパッと見た所3匹いました。蝶々の幼虫も小さく黒い一回か二回脱皮したものも見かけます。草を取るよこで「けいくん」はダンゴムシを捕まえています。
「おとうさん、だんごむし、白いのから黒くなっているよ」
「けいくん、ダンゴムシのお家は外だからちゃんと逃してね」
「はーい」
返事は可愛らしいです。ただダンゴムシをほうり投げていりあたりが・・・・
そんなことを言っている間に、嫌になる前に草むしりは今日の分終了。

何かを求め、今日も若者に、その何かが何なのか、話をします。限られた時間は大切なのに、つい夢中になれば時間は矢のように過ぎ去るものです。


何かとは何なのか


さまざまなことで迷い悩み立ち止まり、思い悩み苦しむ、自分すら知らずに答えをもとめる。

話をすれば思い込む私はそれを、話は違うのだけれど、心のなかで話しかけるのです。

何かとは、「あなた」

「あなた」とは「何か」

あなたとは何かの問に返ってくる言葉は

「本当のあなたなのですよ」

人に話しかけるようでそれは私に話しているのです。


「わたしとは何か」

種(続)

 昨年の夏頃にふとおもいたって種から育てはじめた蓮(はす)、無事に越冬し、四月が終わり五月始めの頃には蓮の根つまりは土中のレンコン(蓮根)から小さい芽(新芽)がでてきていました。
今年は蓮を育てる人になると(昨年)決めていました。周囲の人に「おれは蓮男(はすおとこ)になる」と豪語していたものです。昨年の蓮についてとべます。

蓮の生育がどのようなものか、種からの育て方や植え替え、越冬のさせ方など調べていました。あまり何もしていませんが無事に昨年の蓮が越冬できたのは嬉しかったことの一つです。

ただ昨年の構想では「大量に蓮を植え、花をたくさん咲かせてみせる」なんて思っていたのに、昨年暮れから五月まで思った以上に忙しく(ただの怠けぐせがでただけなのですが・・・)取り掛かるのが遅れています。

越冬したものを少し広いところへ植え替えし、一週間以上前から新しい育てる種を芽がでやすいように削り、小さい容器に入れ発芽させ、もう少し葉がたくさん出て根もはってくれば植え替えの予定です。

昨年、縁あってわたしのところへ転がり込んできた(蓮の)種、蓮が咲き終わり種が入っている場所は、花が枯れてから種を育くみ「蜂の巣」のような形の所へ入っています。
蓮(はす)の名前の由来の一つに「はちのす」から「はちす」、そして「はす」となったなんてどこかの書物にありましたが、種が入っているところは枯れれば本当に蜂の巣そっくりです。

その「はちのす」をオブジェとして飾ってあったところに、後期心旺盛な私の出現

「これって種か」

オブジェからピンセットで取り出し、その時はなんとも思っておらず、漠然と「いつかこの種をどこかでのためにとっておくか」くらいで収集していました。書いていたらはっきりと思い出しました。

何やらHPのリンク(仕事先のHPに)をお願いされた方のページに丁寧な蓮の育成方法が掲載してありましたので、目前に「蓮の種」と「蓮の育て方のHP」が揃い、時期的に最も暑い(生育しやすい)時期でしたから試しにやってみたら案外と楽しかったのです。

どこかの高名な先生が確か、「おめでとう」の語源は「芽出る」(めいずる)、からめでたいやおめでとうへ変わり使われていると書いてあり、植物が芽が出て繁茂するさまは、誰もが喜ぶことであるから、蓮の芽いずるさまを見て(再度)妙に納得しました。

遅くはなりましたが、予定では花ハスの種もなんとか入手して、今年こそ花を咲かせたいです。あまり意図を皆(蓮を置いている場所の人たち)に話さないから、(私が考え)何をしているのだろうかわからないことだと思います。


ただ、泥中から出てその泥に染まることのない立派な立ち葉と咲き誇る蓮の花を見たいのです。

(まあただの自己満足なんですがね・・・)


それがいつかは(今は)わからないのですが、とても楽しみなのです。

 先日近くの方に野菜を沢山いただきました。農業をなりわいとしていないので野菜を食べたければ買うしかありませんから本当にありがたいです。私の実家は以前は農業でしたから山川草木と農作物の中で育ちました。
いただいた野菜に可愛らしい青虫がついていました。家内が見つけて「けいくん」(3歳10ヶ月)にここにいるよと呼んで指さしています。
「けいくん」見つけて嬉しそうです。
「おとうさん、幼虫がおるよ」
虫も食べないものは人も食べれないよな、思い返せば小さい頃から虫や動物との取り合いです。あれ(果物)がなっている。美味しそうだからとって食べようとすれば、かじれば虫がもう中を食っていたり、そろそろ収穫時期かなと思えばとる日に限ってすでに動物に取られていたり、悪い私の子供の頃みたいに何かをとって食べたりするような子もいますから要注意です。
 庭のテントウムシ(ナミテントウ)の幼虫はいつの間にかサナギになっています。「けいくん」が幼虫が住んでいた植物から離れたコンクリートのブロックへサナギがいるのを見つけ「おとうさん おとうさん てんとうむしが」呼ばれたので見に行けば確かに割りと離れた所でサナギになっています。他にもテントウムシのサナギがいくつも見れます。
「裏の山椒の葉にまたアゲハ蝶の幼虫がいるかもよ」
「みにいこう」
枝の先端の柔らかい葉っぱが食べられています。これはどこかに食べている正体が隠れています。しばらく探せばいました。大きい緑の幼虫がいます。近づき威嚇すれば赤い角のようなものをだす蝶の幼虫。
「けいくんおるよ、ここに」
「おとうさん、おった」
あの子はよっぽど嬉しかったのか次男坊(お兄ちゃん)を呼んできてここにいると興奮して指差し教えています。家事をしているお母さんにも知らせここにいると訴えています。コンクリートのブロックについているテントウムシのサナギの場所も連れて行って教えています。
この時期植物も活発ですが、それを餌とする虫達も活発です。梅雨がくれば外にもあまり出れなくなるし、今の時期は花粉もないから花粉症の私や長男坊にとってもいい時期です。
ただ毛虫もたまに大量発生しています。毛虫やムカデとかはちょっとご遠慮願いたいと勝手なことをいいます。

人間からみて善い虫、人間から見て悪い虫、前者を益虫、後者を害虫なんてよんでいるのでしょうけれど、最近よく耳にする地球からみて人間はどう移っているのかなんて捨てれない私はそこをあまり考えないようにしています。困ったものです・・・。

予定

 今年も母の日が過ぎました(今日ではなく先週の日曜のこと)。
毎年この日はあの子達の母、私からすれば家内になりますが、いつもおでかけして夕御飯にしています。当然今年もその予定でした。ただ今年はその日に「けいくん」が高熱を出して家族で外出は無理でした。
「あの子が治ってからいこう」
「そうね」
今日は仕事も遅くならない上に家族も体調万全、飛び入りの予定もなく、おでかけです。家内の好きな所でと決まっていましたので、職場の人がよく絵画の個展をしているお洒落なお店、調べてみれば今日はイベント(音楽演奏など)もしているとか、子供達も家内も嬉しそうです。

到着すれば知人とその仲間たちとその先生の絵が飾ってあります。私は絵は得意ではないですが見るのは好きです。見る目があるのかといわれれば怪しいものですが・・・、先生(清水亟典)の絵はいつ見ても素晴らしいです。その他有名な人を知っているかといえば知らないのですけれど、好きなものは好きなのです。

到着してみると、今日のイベントはフォークソング(弾き語り)です。たまには生の演奏もいいものです。ただ私も若い頃よく弾き語りをしていました。今日演奏されていた人達と比べ物にならないくらいに私は下手です。ただそれでもギターを弾きながら楽しく歌い続けるのは大好きです。もっとも今はギターも何年もまともに弾いていませんし歌も練習すらしていません。もう10年位前に友人の結婚式で二度弾き語りをたのまれ、何故か姉の結婚式でもやってくれと頼まれ、「人前でやれるほど上手くないから」なんて断ったけれど、いつの間にかやっていた思い出くらいでしょうか。「弾き語りは(上手くはないけれど)大好き」という点が気に入られたんだろうなあ、最近はそう思います。

やっぱジャズとかピアノとか自分がしない演奏のほうが気楽に聞けるなんて思いながら食事をしていました。家内や子供達はとてもよかったと喜んでいましたから、結果としては良かったです。

最近調べものも続けているのですが、なかなかまとまらずここ(ブログ)への反映していないことが少し気になります。漠然とあたりまえのこと、もとめるもの、わからないこと、それが何かがわからないことが多い日々です。


困ったさん

 思っていることが全てとは言いませんが、本人も気づかないうちに態度に出ていることがあります。
よいことを考えたり、善いことがあったことにより悪いことから知らずに離れていたりなんて誰でもよくあることだと思います。

いつもお喋りな私です。話していればそれはおそらくいつもの私が出ているのでしょう。

無口を貫いていれば、何か思うことがあって沈黙を守っているのか、ただ単に機嫌が悪いのか、体の調子が悪いのか、悪いことがあったのか、難しいことを考えているのか、我一人深刻になっているのか、考えても何もならないのに考えに耽っているのか・・・

話すことと、言葉が好きな私

もっともそれは私だけではなく、私と同じような人もいると思います。ただそこで問題はおそらく無い物ねだりが基本な人間は自らによく似ていれば敬遠しそうな感じです。よく話す私がいるとすればよく話す私の話を聞き続ける人かそれに負けずに(対抗して)話を入れてくる人でないと成立しないような気もします。まあ成立しなくても成立しても、どのような状況でも楽しみたいなんて思いますが(笑)

気分が高揚すれば雰囲気、節度や大事なことを忘れることが多い私です。

本当に忘れてはいけないことが多いのに、気がつけば忘れていることが多い・・・

ただ話すことにより出る雰囲気、話さないことによりでる雰囲気、その中間の雰囲気

極端にとらわれず、節度を保ち、なおかつ品性を一切損なわない。




そんな私を見たいものです。
(相変わらず一杯やって、即座に理想を見ることにしたいです。今日もお酒は美味しいです。)

妄想

 何故に気になるのか、調べ物をしたあとや、いろんなことがあったり、落ち着けば 「私はどうなのか」という問が発せられこれにたいし、明確な答えはなかなかでてこないです。即座に出てくる人は善悪(または極端)のどちらかに近いのだろうかなどと思うことがあります。

「私はどうなのか」
次のような漠然とした問も含んでおり、「(全体ではなくあのことにたいしてこうだった自分が)善いのか悪いのか」、「迷惑かけすぎていないか」、「仕事はどうなのか」、「人としてどうなのか・・・」)

その問を返答に困れば、人に向けて聞いてみることがあり、中には「悪いことをしていない(人より気をつけている)から問題ない」とかえってくる人もいます。

事実、あからさまに悪いことをしているのであれば、「その人は問題しかない」と答えるのも一般的だと思います。

大分前お世話になる方へおたずねしたときのことがよく出てきます。「(あの人は)悪いこともしていないけれども善いこともしていないな」世の中のおもしろいところで、悪いことをしていてもバランスを取ろうとしてかよいことだって普通の人よりしている人もみかけます。

悪くもなければ善くもない。つまりは「中ほど」普通という認識なのだという返事なのでしょう。

中ほどの範囲も広いものです。つぎの場合だって中ほどです。「悪くもないけれど普通でもなく善いでもない。」悪いから見る側に近く、善いからは遠く、中ほどからも距離がある。当然「善いに近く、中ほどからはなれ、悪から遠い。」

その両者の中ほど、つまりは「普通」ではないかという見解もあります。ただこの見解は人により大分差があります。当然自分が存在している場所によっても差が出ます。あまりないかもしれませんが素晴らしい人達が集う場所であれば、少々賢くても太刀打ちできないことだってあります。その逆もあるでしょう。

善いと悪いの相対を離れなければいけない問答になります。

「善いから問題ないではない」

「悪いことをしていないから問題ない」

結果としてつきやすい善悪の観念、結果(過去)ではなく現在を生きている。ただ結果(過去)はかえれない。評価もそれによってつきやすい。
私の中で何かが矛盾しています。どこに根拠をおくのかが違うのかもしれません。人により結果(過去)をみて問題なしととるか、現在(いま)を見て問題なしととるか、そのひとの未来(これからと人間として)を見て問題なしと判断するのか

私が身近な人に思われている現象がおきます。

愚かな行為を続けていたり、己をみることなく相手には思いついたままの言葉を放っていたり、きれいごとを言っているのにそうなるような努力をしていない。なんて人にいきなり信頼はつかないものです。「悪いことはしていないから問題ないじゃないですか」周囲は言葉を発しません。

ただ家内は私へ普通になるように努力を怠りませんでした。もし、私の今の状態が周囲から見て普通であるなら、それはあの人のおかげです。

何気ない言葉は深く考えさせられる言葉ばかりです。

ただ(現実や未来や自分と周囲のことを)悪くしたいとは誰もが思っていないだろうに



過去の私を振り返ればそう思うことは多いです。それとは裏腹に現実は厳しいです。

よそう

 予想外な出来事は嬉しければ望ましく、悪い方向性のものであればちょっといらないと私は思います。ただ思っても悩んでも苦しんでも何かしなければなくなることもありません、何かしてもなくならないときもあります。どうしようもなくてもただ月日が流れれば解決することはあります。

大抵予想外のことであれこれと思案していれば、家内は私に一つの例話を持ってきます。

「あなたと結婚する(付き合う)と周囲の友達に伝えたとき、あんな遊び人で特に女性関係に器用な人とはやめたほうがいいと、皆に言われた。」

私「いや、皆知らないから好き放題言うなそれ、今だって(結婚して13年くらいたつけど)すごく仲いいしうまくいってるし問題ないじゃない、それは皆やっかみだったのではないかなあ」

真剣な眼差しの家内
「いや、皆反対してた。」

私「それならなんで結婚したの」

家内「うーん、だまされたかな・・・」

私「誰に」

こちらを見つめる家内
「・・・・・・・・」

そんなことを予想外の例としてだされてもねえ・・・・

私はいつもそれに応えます。

「愛しているからいいじゃない(愛があるからいいじゃないも可)」

どうもそれだけでは、満足できないらしいです。

いつもお世話になる優しい年配の方が私に独り言のように言っておられます。

「人間はないものねだりだから・・・」

欲望が根深いことを長い人生体験によって、私へ教えてくれます。喉が渇いてしかたがないときに水を欲するような渇愛(欲望)、おのれと相手と周囲を焼き尽くすごときあつく赤い炎の如き欲望、喉が渇いて仕方がないのに海の水を飲むが如き短絡的なやりかたでは、人は満たされない・・・。けれども何かを欲してしまう。

欲望を滅すとは全てなくすのではないことを意味しています。全てなくせばそれもまた一種の両極端の極端となり、そうかといって欲望すべてを思うがままも極端となり、どんなに美味なものも大量に出されれば嫌になることもあります。多からず少なからずが正しき付き合い方となり、仏教で言う「正しい道とは何か」の問いの答えの一つに中道を説くことはそう言う意味もあるようです。両極端から離れ(両極端から距離をおき、冷静に極端と己を見つめる)中ほどの広く自由な境地を進む。

ひとつの譬えが思い浮かびます。それぞれ人間には心に善き種を持っている。我が心の欲望の炎が燃え盛り強ければ強いほど、種を焦がしていく、その種は何回焦げても無くなることもない。燃え尽きることもない。ただ優しい慈しみの雨がその近くになければ、善い種は発芽しない。

何万回焦げてもいい。

それでも慈雨がくれば芽はでてくる。


悪い時ほど自分で(善い)種がないと思い込む(悪い種しか自分にはないと思い込む)

根拠がいつもなければ、私のように愚か者といわれるだろう。それでも根拠がなくても善いことを見つめたい・信じたい・望みたい。


そんな私は愚かだけれど好きでもある。


(あんまり変なことをいうのはよそうね私)

高く青い空

 昨晩早く寝ようとしたのですが、家族は全員寝ていたのですが、周囲が少し騒がしく2時間ほど布団で寝ることができませんでした。

寝ることには評判の高い私、寝るなと言われても気がつけばよく寝ています。(エヘン)
休日なんかは隙あらば!キリッ

早く寝なければと思うと寝れないことが時折あります。

関係ない話になります。

家族や身内が他人へ言いたい放題、事実本人は気をつけているから問題ないということはよくあります。ただ家族全員がそれを守れているかとなれば、それは子供や孫や老齢の方であれば気をつけていないということもあります。
好き放題の他人に向けての発言、それがそのまま自身の家族のことに向けられればその人は何というのだろう。何て考えることがあります。
こちらがそのことを気をつけているから、相手に注意し放題であれば、やはり子供達ができていなければ、またその発言はこちらへ返ってくることになります。簡単な理屈です。

あたりまえなこと、簡単なこと、それは小さい子でも理解できても白髪の老人でも難しいなんてことがあるのも現実そのままです。

誰かが好き放題の発言を一つも受け取らず、相手に対し礼を失わないことをはじめなければおさまりもつきません。

私はよくバカなことを言います。自分や相手が楽しくなればと思い楽しくしようとしていますが、冷静になったときには後悔します。無神経すぎではなかったか、不謹慎ではなかったか、言い過ぎではなかったか、それは時既に遅しというものです。放った言葉はどうしようもないものです。

ただこの間はとても楽しかったです。面白かったです。なんてことが聞こえてくれば後悔や反省はどこへやら・・・、いつもの私が出現します。それが私の日常かもしれません。

ただ少しずつでもなんとかしたいです。

答えが出なければ青い空を見ます。

「青い空が綺麗ですね」

目前の人にうまく伝わらないとき、最近口にしています。


またその言葉の意味するところも上手く伝わらないことばかりです。

なかなかどうして

 気がつけばそのあたりからもってきてしまうものの中に疑問があり

「あの人は何故、ああなのか(進歩しようとしないのか)」

自分をさておき、勝手に迷惑をかけている人をみればそのあたりからそんな疑問をもってきている。そんな独り言(問い)を聞いている人がいれば答えてくれる人もある。

「あの人は大切なことに気づいていない」

また他にも

「簡単なことができていない。自分のくだらないものを捨てればいいだけだ。」

そんな答えを迷っている人だと私が思い込んでしまえば口にしている。

「くだらないものは捨てたらいい」

相手にとってそれが痛い言葉になるようであれば、こちらにもそのままかえってくることも多い。

「あなたがまず捨てたらいい(言葉でなくても後から厳しい態度によってあらわれる)」

落ち着いて考えれば、そりゃあそうだ。捨てよう捨てようと思ってもなかなか捨てれないことだから、それでも捨てなければうまくいかないことも多い、だから口にしている。私はこたえる。

「(私には捨てたいけれども)難しいことです」

今までのことはよくあるのだけれども普段は忘れている。

ただ現実に何かあれば考える(私)はいつの間にかまた出現している。

目の前にいっぱいいっぱいの人がいれば、こちらができることも限定されてくる。ひとつの方法として目前の方は重荷を背負う方であるから、こちらができること(重荷を少しでも背負えば)をすれば相手は助かることもある。事実私が重荷を背負っているとき誰かが少しでも手伝っ(背負っ)てくれれば本当に助かる。

相手を手伝おうとするときに、相手の思いを尊重しない。つまりは自分の思いをおしつけながらの手伝いであれば難しいことになることもあり「変なものはいらない(受け取りません)」とはっきりと言葉でまたは態度でされることもあります。素直に言ってくれる人はありがたい人です。

「(皆の邪魔になる)くだらないものは、捨てなければいけない」

その言葉に「簡単です」という人、「難しいです(けれども何とかしたいです)」という人、「無理です(だからしません)」という人、その他にもいろんな人がありそうです。

その違いが最近まで私はわからず、「何故だろう」の思いはつきまとってばかり・・・、他人を見るからダメなのですよ(私)

私が愚かなことをしている時のことを客観的にみればいいだけです。

「ああ、あの人(私)は全く気がついていない・・・

(続く言葉があれば)いつになったら気がつくのだろうか・・・(しっかりしろよ私)

気がつけばうまくいくのだろうに・・・(なんて思われる愚かな私)」

そんな時に限って、他人が私にたずねたとしても

「大丈夫、ちゃんとわかってる」

「はい、問題ないです。いけます(根拠のない返事は相手に安心を与えるどころか不安の元にしかならない)」


うーん・・・、問題がありすぎます。どうも、不安な返事を周囲に与える人の頭(私)の中は「わかっています。(ただそう思っているのは自分だけで周囲はこの人は理解していないとしかとられていません)」けれども、たずねられれば「わかっています」や「簡単です」とこたえ続けている。



自分のことをわかっていない人ほど、簡単に「わかっています」と答える場合が多い。

自分のことを理解しはじめている人ほど、簡単に返事をせず「難しいことです」と答える場合が多い。


ただ発展性があるのならどちらの返事でも問題ないなんて思う。そこで止まったり戻るのならどちらの返事も問題あるように思う。

物事や周囲を理解することは、だんだんと恐ろしく思うことがある。


それでも止まるわけにも行かない。




笑っていくかな・・・



バラ

 近くで「バラまつり」があっているようです。町内にあるバラ園はいつも遠巻きに見るだけでいったことがありません。

庭につるバラとバラの木があり、綺麗な花を咲かせています。バラの木にはピンク色の華が咲ききったバラよりつぼみのほうがバラらしくもあり、美しいです。

ああ、庭のバラも咲いているけれども、見渡せば他の家の庭のバラも綺麗に咲いています。バラの咲く時期をあまり気にしたことがなかった私、今はバラの咲く時期でもあるのですね。

昨日の母の日に長男坊と次男坊はお小遣いを出し合って、家内に小さな花束をプレゼントしていました。

真っ赤な立派で美しい、少し模様のあるバラ、初め家内は玄関に飾っていたのですが、日当たりの関係もあるしいつも皆がいる目につく

「置くなら食卓がいいんじゃない」

「そうね」

晩御飯時に子供達に

「綺麗だよねこのバラ、いいもの買ったね二人共、やっぱ花屋のバラはなんか違うよねえ立派だ。」

私は残業があって花屋にいけなかったので、近くのスーパーでカーネションはいつも買ってるからバラ二本を買いあの人へ。庭のピンクのバラも二本切って玄関に飾っていましたがやはり買ってきたバラは違うものです。

何でしょうね、今年で私も40歳になりますが、最近になってようやくバラが美しいなんて思うようになりました。これからも今まで気が付かなかったものが美しいなんて思うのでしょう。私の実家の母へは家内が気を利かせて事前に花を送ってくれていました。些細な気遣いは女性にはかなわないとよく思います。

すると私の特徴は大胆な実行力や突飛な発言力やすごく長く寝ることやすごくまったりすることかな


まあ変なことばかりしていたら、家族がバラバラになってしまいますから気をつけたいです。
(まったくまとまりがつかなそうだから、くだらないことを言って今日も一杯やるのです。)