あの子

 まだ3歳の三男坊「けいくん」あの子は私にいつも色んな事を教えてくれます。

「ねーねー、おとうさん、ほらだんごむしがしんでる。」

「けいくん。それけいくんが捕まえて逃さなかったから死んでるんでしょ」

「おとうさん。だんごむし、しんでる」

うーん都合がわるいことは聞かないふりで報告をすることもできるようになっています。

この時期若葉や庭の隅に咲くバラにアブラムシが沢山ついています。ビワにも他の植物にも新芽や若葉のあたりにびっしりついています。それを餌とするテントウムシもよく見かけます。

昨年同様、ナミテントウを見かけます。二紋型や四紋型の全体的に黒いナミテントウ、赤いナミテントウ、ナミテントウとナナホシテントウはどうも一緒にいるところを見かけません。住み分けているんでしょうか。

「おとうさん、テントウムシのようちゅうみよう。」

休日だった私は、あの子が退屈になれば一緒に連れていかされます。あの子はまだ可愛らしいです。どれくらい可愛らしいかといえば、40になった私が人前で「おっぱい」なんて言っても白い目で見られますが、あの子が言ってもただ可愛らしいだけです。それくらいの違いが私とあの子にあります。

「ねーねー、おかあさん」

そう呼ぶあの子と呼ばれる家内は見ていて可愛らしいです。

基本的なことを私や周囲はあの子に対して容認しています。何も役立つことは出来ないけれど

「あなたにここにいてほしい」

あの子は何もしないんだけれど笑顔をかえします。

目の前の人に笑顔を向けます。

「ぼくはここにいるよ」

そんな言葉のないやりとりが聞こえます。


いつかもっと身体が大きくなり、知能も高くなれば、何かをしなければいけなくなります。それまであの子はただ笑顔と可愛らしさの象徴です。


私もそんなあの子と同じ時を過ごして今に至ることを、あの子は私に教えてくれます。

可愛い子に何をするかなんて決まっていることです。


ただ優しく同じ時を過ごすことだけ



簡単なことを理解することが私には難しいことばかりです。


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行う

 「世渡り上手のばちあたり」なんて聞くことがあります。一見するとわからなくても、親しめ(時を長くおなじくすれ)ば、少しずつその人がわかっていきます。

「悪いことをしない人」「悪いことをする人」「善いことばかりする人」

ここでの「悪いこと」とは、皆とわたし(自分自身)が心から喜ぶことを「善いこと」とよんで、その反対をなすことを悪いこととします。

世渡り上手の罰当たりのようなことを日常として行っている方、「何を考えているの」と思う人は多いです。よく見れば悪気がないということもあります。

悪いことを自らが行っていると心底思って(理解して)いるのならば、悪いことはやまるものです。

悪い(相手と自分に対して害をなす)ことをやめていないのであれば、(その実行している人は)相手ではなく自分にとっても大切なことを理解していない人であり、悪いことだと皮相的にとらえていると周囲の目には現実として写っているだけです。

「(あの人は)わかっているんだけれども実行できていないだけだ。」という言葉も耳にします。本当に理解している人は、まっとうに生きていくと(他者にではなく)自らに誓っているのだから、行いも言葉も(自らの)善い行いによって清らかになっていくだけのことであり、もしそうなっていないということは、(自らの)悪しき行いによって自らを汚し続けてているだけのこと。それは理解しているとは誰も言えず、本人が思っているともとられないとられないように思うのです。

これは別に私が他人のことを批判しているのではなく、ただ自らが自らを知らず結果的にも何にでも悪いことを行いつづけていた時がどうであったのかを省みて、だから他人事ではなく、自分自身のことに他ならないこと・・・

「(悪気なく)みずからを悪いことはしていない。」そう思う人は落とし穴のようなものがある。

突出したよいこともしない。ただ悪いことはしていない。ただ悪いことをしないから自分が善いかといえばそれは違うとしか言いようがない。

悩むと誰かに私はたずねてみる。

「大体そのような人たちは、自分自身のことを過大評価している(自分で気がついていない人ばかりだが)。他人が決めてくれることなのに何故か自分で自分を過小ではなく過大評価している。(偉そうに発言したり、私は悪いことはしていない。あなたはどうなのですか、と相手に上から切りつけていくような言葉が出るのはその一例だろう)」

悪気なく、悪いことをしていないと自身が思い込めば、過去の愚かな私のような言動が出現する。

短く言えば

「偉くもないのに、偉そうに発言する(そのような立ち居振る舞いである)」
(実際は根拠がないために、地位名誉肩書きがなくても根拠をもつ人に一喝されれば沈黙するしかない。)



みずからの行いによって浄(きよ)くなり


みずからの行いによって汚れ


ただ自らの行いによって汚れるものを他は浄くすることができない


(何度素晴らしい人が助け続けたとしても、自分で自分を汚し続けるものは美しくできない)


汚すことを続ければ、かばう(ふれる)ことすらままならなくなっていく。



それでも本人は(どんな方でも)困れば近くにいる人にすがってくるのだろう。(私もそうなのだから・・・)

助けられるの反対

 いつも自分に厳しく他人には優しい年配の方と仕事をしております。言葉では言い尽くせないほどにあの人は(私だけではなく皆に)優しいです。
恨みを持っているような発言を極稀にするかと思えば、自分を瞬時に捨てできることを目前の方に行っています。時間があって落ち着いていれば「めんどいことは、私はしないよ。」なんて笑いながら言われています。しかし、何かあれば誰よりも早く、自分の変な思いは全て捨て、できるだけのことを誰彼構わずおこわなれるそんな方です。

一緒に仕事をしていても私が持っている量が少ないため先に終わり、その方がまだたくさん仕事を抱えていたとしても、「私が半分しましょうか」なんてたずねても、「問題ないよ」そう言って私へおしつけてくることはないです。まあよっぽど私が暇そうにしていれば話は別になりますがそれでもよっぽどです。ほとんどないくらいでしょうか。

人により仕事を行う速度は違うものです。早い人であれば人の倍くらいのスピードがある人もいれば、人より遅めの人だっています。早くて的確で丁寧な人もいれば早くて雑な人もいますし、遅くて雑な人もいれば遅いけれども誰よりも丁寧な人もいます。もっと細分化すればまたそこにもその人らしさがでるなんて思います。

優しい人と仕事をすれば、本当に私は楽しいものです。思うように発言しても思うようなスピードで行っても、あの人は全てを受け止めて平然としています。
こちらの勝手な意見として、相手を受け止め余裕を持って(楽しみながら)されており、私が自由に動くことを楽しんでいるように思うことがあります。なんとなくそのことがあっているかどうかは別として考えが浮かんできました。

人間として大きい人は余裕を持って行動しています。逆に私のように余裕がなければ何をしても発言がきつくなったり行動がきつく狭く理解の幅もないように思えるものです。

発言が相手に対してきつくならないためには

心にゆとりをもつには

人間として大きくなるためには

相手を受け入れるようになるには

くだらないものを即座に捨て、すぐに行動できるようになるには

相手の気持ちになって、即座に涙をこぼすことができるようになるには

自分のことを正確に把握できるようになるには



あの人を日々見続けていれば、できていない私は勉強になります。

あの人は(いろんな)荷物をいつも代わりに持ってくれています。私はそのことをよく考えることがあります。

「それによって軽くなる私にできることとは何だろうか。」

私のことをあまりわからない人は、私の荷物を持つどころか反対に余裕がありそうだと思い私に荷物を持たせようとします。


何かに塞がれれば、自由度は失われます。


あの人にいつだったか、次のようなことをたずねたことをおぼえています。

「もっと何も見えないくらいに、一点に集中したい。時折そのように激しく思うことがあります。それは(私の性格が)難しくて周囲が私より何でもいいから必死であれば、負けず嫌いな私はその一点に力を注ぎたい。熱くすべてを忘れるほど一点を見つめたい。(私はそれによって何を出すのだろうか)」

あの人は

「いいよ、あなたは遠くから全体を見つめていたらいい。」

わざわざ狭くしなくていい。こまごましたことは皆(私)がするから、そのような雰囲気をだして用事をしにいかれました。


あの人はいつも皆を助け、一緒にいることばかりの私はら助けられてばかりです。そんな人ばかりではないのが現実社会なら当然です。


助ける人ではなく、その反対に荷物を押し付けたりする人だってどこにでも当然います。塞がれば荷物を片付けるだけで時間は過ぎていくだけなんてこともよくある話です。

いつまでたっても、私は「自分の役割」「助けること」「助けられるの反対」などわからないことばかりです。


「あの人が何を見つめているか」

「わたしが何を見つめているか」

「何をみつめたいのか」

「何を見つめるわたしを皆は喜ぶのか」

あの人とわたしはここでは誰でもいいです。


もって冷静に自分と周囲の人を見つめ、荷物を背負うことがいいか、背負わせるのがいいのか、果たしてそれ以外がいいのか、冷たい目で(私を)見つめたいです。

思い込み

 「あの人は本好きだ。」

客観的であれば何故か「そうなんだ」と信じてしまいたくなります。「私は本が好き」これは私もたまにそう見られたいと思って使います。実際に好きかどうか他の人はともかく私は怪しいものです・・・。

最近精力的に読むスピードを上げて、溜まった本を読んでしまいたいと思っています。ただ本は悪くないのですが、私が理解できない、興味を持てない、馴染めない、内容が硬すぎだとか、そのようにとってしまえば気持ちとは裏腹に進まないもんです。

読むことよりも、私の悪い思い込みから捨てなければお話にならないです。善いと思いすぎることも捨てなければいけないことも多いことです。よかれと思って相手を見ることなく変なところだけを見つめて話し続ければ、まあちょっと嫌がれます・・・。

何かの本に感化され、その本におすすめの本が書いてあれば、「これだ」とか「はい、すぐ読みます」とか返事を誰かにしている私も最近見ます。それもまた思い込みの一つ。気がつけば誰かではなく私自身によって思い込んでいることは多いです。「思い込みすぎること」が皆にとってどうなのか、よく考えなくても相手を見つめれば少しは雰囲気がこちらへ伝わってきます。

迷惑はあまりかけないようにしたいところです。かといって自分らしさの発現を失わず、思い込むものの質、そのあたり気をつけねば、日々時間を長くする方は知らずに左右されます。

ふふふ




まあいっか


近くにいる人はこんな私を一番知っているでしょうから、今までも左右されているでしょうし、それはきっとこれからもね


ただどうせ振り回すなら左右の振り幅はもっと今までより大きく、上下にも大きく、深く、長くいきたいもんです。

とある夢

 「執着がいけない。」

善いことにだったらまだ堪えてくれそうです。どうでもいいと思われたりすることや悪いことであれば、再度「執着がいけない」なんて言葉を耳にします。

昨日は友人が泊まりに来ていました。久しぶりだから私もうかれていました。それより子供達は大はしゃぎ来客が泊まりでくることを本当に楽しみしていたようです。

「もう早く寝なさい」

なんて言ったら、家内へ泣きながら「ものすごく楽しみにしていたらか夜更しを少しくらいはしていいのではないか」なんて声にならない声で訴えているのを見れば、まあ今日くらいはいいか・・夜遅くまで相手をしてもらいました。

友人も疲れていたでしょうが、そこからお酒にだいぶ酔った私との会話!

かわいそうなことをしました。今回こそいろいろ話を聞こうとするのに、いつもの如くよくしゃべると・・・。どうもうかれると悪い意味で我を忘れています。

最近私の頭の中で流行っている(私が勝手に思う)弱者と強者の理論と現実例と仏教がどう関係しているかということを気がつけば夜遅くまで語っている始末・・・。今度は5月にまた来れそうだとか、今度こそ、多くを聞く私を出現させたいと願っています。

今日は仕事で仲の良い方と久しぶりに会いました。昨日の睡眠不足と少し風邪気味もあったので、普段より無口な私だったようです。
相手の方が「どうしたんですか今日は、いつももっと饒(毒)舌なのに、ちっとも言葉が出ていないですよ」

「たまには無口な時もあるのですよ(ちょっと体調が優れないというだけです」

「熱があるんじゃないですか」

どうも仲の良い人といるときのいつもの私はどうなんでしょうか・・・


知的で冷静で寡黙で理解ある私を見たいもんです。


聞こえますか

 以前はあまり問を発することがなかった(私)です。

最近は気がつけば問を発しています。他人にであれば向けられた人は大変です。真剣に問えば人は何故か真剣に返そうとします。それは深く何かを見つめその人なりの答をかえされます。「(おそらく)これではないでしょうか」または「むずかしいですね・・・」「わからないです・・・」それは人により異なります。ただこちらが問う前に雰囲気で答えを出されている方、問答無用という言葉になります。

相手に問を発することもあまりなかったように思います。本題はその先でしょうか。「自らに問うことがなかった。」こちらのほうが適切かと思います。

問はどのようなこと(分野)にもあり、何故か人はそれをみればこたえようとする人がいます。私もその人同じようなものです。頼まれてもないことを勝手にこたえようとしたり、頼まれたことをこたえようとしなかったり、関係ないことを追い求めたりするのが割と好きです。(うーんこれはただのへそ曲がりというものかもしれません。)

時折夢中になり、何かを求めます。我を忘れるくらいに求めます。その時はその現状に即して私なりの答えが出ます。
「これだ。」もっと突き詰めれば何故か謙虚になっていくことを見ます。「これじゃないでしょうか」誰に対して答えを発しているのか。さらには答えではなく「聞こえますか」なんて誰に聞いてほしいのでしょうか。人というより大いなるものへ、私の現状を聞いてほしいような声なき声を発しています。

「わたしのこえがきこえますか」

何故かそんなとき、近くではなく遠くをみつめようとする私が存在しています。


変なときの私はそんなもんです。


はやり

 何かあれば、弱者と強者なんていう概念が最近の私の頭の中によぎります。頭によぎれば知らずに考え込んでいることばかり、答えなき答えを求めることに何の意味がなんてことさえ思わずに気がつけば考え込むと・・・

「ペンは剣よりも強し」(The pen is mightier than the sword.)

(ブルワー=リットンの作品により知られる)言論が人々の心に訴える力は武力より強い。(広辞苑より抜粋)


(ΦωΦ)フフフ…、何故か調べて簡単な英文をあげただけなのですが載せれば私が知的に見えるのではないかというあさはかな思い込みなだけの錯覚的手法を持って知的な私を演出という安易な手法をとってみます。変なことはともかく・・・本題へかえります。

言論が武力より強い。ペンは剣(でも銃でも暴力)より強し、この言葉を小学生くらいでしょうか初めて聞いたとき圧倒的な力の前でペンがなぜ強いのかなんて疑問に思いました。私の子供の頃の声をだせば「それはないわー」くらいですかね・・・

わかっていないのだから、呆れられてもしょうがないんです!キリッ


私を持ってくればわかりやすいことです。大切な意味を理解する人には言葉や言葉を超えた態度雰囲気が剣よりも強くみえます。

素晴らしき智慧が悪しきものを一刀のもとに断つ。仏様などの持ち物に剣をもっておられることと同じです。甚だ深く妙なる素晴らしき智慧によりあらゆる迷いを瞬時にたちきる智慧をあの剣はあらわしています。(一例として文殊の理剣は諸戯をたつ。般若心経秘鍵弘法大師より)

それと「ぺんは剣より・・・」は同じかそれ以上のものだなんて思います。別にほとけを出さなくても、この理論は世間一般でよく見受けられます。いざこざが起こる。誰かがその素晴らしき解決方法を出す。相手が受領すれば争いはとまります。
問題は相手がその真理を認め受け取れるかどうかにかかっているだけのことです。

「武器を何も持っていないから弱者であるのか」

「武器を持っているから強者であるのか」

その問を己にむければいいのですが、問を己に向けるどころか他人に力や暴力を向けてしまうなんてことになれば、どこの場においても話にもなりません。まあ私の悪いところそのものです。

都合が悪いことになれば話を聞かない・認めない・反抗する。相手の素晴らしい言葉や態度によってきられているのにきられたことに気がついていない。

弱者と強者の言葉が私の頭の中につきまといます。


弱者なのに(根拠を有していないのに)強者だと言い張る(私)


願わくばこの苦は滅せざれ、他の苦は生ぜざらんことを




冷静に(私の内を)みつめたいです。


海とお約束

 松茂の月見ヶ丘公園へ子供達を連れて行きました。海岸のすぐそばにある広く綺麗な公園、レンタルコテージなどもあります。

三男坊「けいくん」(今年7月で4歳)と長男坊と家内、次男坊は約束をしていたのでお友達のお家へ遊びに行っています。

平日の公園でも子供連れの家族と若者がスポーツを満喫、私は公園の直ぐ側にある海、長く広い砂浜へ行きたかったのです。しばらく子供達とアスレチックの遊戯でたわむれ、私は砂浜へ

まだ砂浜へ吹く海風は肌に少し冷たいけれども、日差しは暑いくらいTシャツと裸足で波打ち際の砂浜を遠くまで歩きました。

しばらく砂の上に何か打ち上げられていないか、綺麗な貝殻を探しながら歩き、振り向けば家内と子供達の姿が小さくなるほどに、砂を歩く感触、残された足跡、温かい砂をしばらく水平線と波が寄せてはかえるさまを見ながら遠くまで歩いていました。

これ以上遠くまで行けばあの子達と合流するのに時間がかかるから、豆粒ほどに小さく映るあの子達に向かって戻りました。まっすぐ歩いているようで私の足跡を振り返れば右へ左へ蛇行しています。

まっすぐ歩こう。

波の打ち寄せるさまに気を取られたり、貝殻に気を取られたり、砂浜の微妙な感触の違いを確かめながら歩いていれば、振り返るとやはり綺麗に一直線には歩いていません。

ただそれより眩しく広く青い空と青い海とぼやけた水平線、言葉ではなくこの世界が広いと私へ伝えてきています。

「たまには海もいいな」

なんて家内に言ったら

「そうね、家から離れているのがいいのかも」

「いや、(広く青い空と砂浜の)海がいいんだよ」

今度は海水がもう少し暖かくなってきたいです。まだ素足を入れても冷たすぎました。

「今度来るのは5月過ぎかな」


「けいくん」は綺麗に乾燥したカニの殻を見つけ、大事に持って帰ってきていました。

「みてほら、かにだよ、かに」

私は綺麗な少し大きめの貝殻を5枚持って帰り、お庭の隅におみやげとして飾りました。


また(後で)目にすれば、約束を思い出すはずです。


いいこと言う

 「昔の人はいいことを言ったもんだ」感慨深くいつも隣に座る方が言われています。書物にも古人が残した素晴らしい言葉は沢山残っています。ただ書物だけではなく民間のあいだでも、口伝えで残っている言葉もかなりあると思います。

「困ったら長老にたずねにいこう。」まあ長老でなくても博識で経験豊富な方へたずねることはどこにでもありそうです。古いことをたずねれば、何も知らない私には新しい知識が入り、思い出やびっくりする話を聞けば、過去のことなのに私に新しい考えとして入り、以前大変困ったことがあったが運良くあれでのりきれたんだ、なんて聞けば新しい実践方法の一つになるよくある話です。

「我事」「他人事」他人事のように思っていれば話や実践されたことが目前にあるというのに遥か彼方にあり、わがことのように思っていれば目前より近づき自らの身心と共にあるかの如くに思えます。

私がこれまで出会ってきた人達の中にも大勢の方が私だけでなく誰かのために何かを言葉や態度によって示してくれたことに全く気がついていなかった私の存在があり続けたことを今になればかなり悔やみます。

文を書くことも人により目的が違うのは当然だと冷静になればそう思えます。ただ気を抜けば自分と一緒だろうなんて期待することもあります。
ふと友人に言われたことをがあります。「人によれば書物を読むことがただ、ネタを探しているだけ。何を探しているのかなんて人もいますよ。」それはそれとして、最近は善いことを人がしているのなら、動機や目的はなんでもいい。善くなるのならなんの契機でもいい。悪いことをしていたり、言うだけで何もしていないより遥かにましだろうと・・・

いつもお世話になる方に、あの人は一体何でああなのでしょうか(何かの原因の一端をたずねれば)
「人前で目立つことや自分がしたいと思うことだけ前向き、嫌なことや日々の積み重ねや目立たないことや沈黙は大の苦手だ。まあそれでも、何もせんよりはましかな」
安易な手法をとることをお世話になる方は嫌われます。

 他人のことをたずねれば、いつも自分はどうであるかと必ずたずねなければいけなくなります。私がいつもとるその手法を人はワンパターンと言われるかもしれません。けれども仕方ないです。私が今よりよく生きていく上での必須条件だからです。

目前の人が問題多すぎだとしても、私だって問題が多すぎなのは(私の)現実あるがままです。

遥か長きにわたる人の歴史は、先人たちが残したものをふまえつつ乗り越えることに、人としてやらなければいけないこともある。なかなかどうして先人達までもいかず、目前の人達までもいかず、なかなか自心の内奥に辿りつけないのです。

冷たいことと冷静に物事や自らの心を客観的にみつめることは全くの別物だと最近になって気が付かされたことです。

棚にのせすぎ注意

 何だろう。

「あれは(どう見ても)いけない(ようにしかならない)。」

そうなるとよく考えこむ(私)ぼそっと

「ちょっと考えたら、いや考えなくてもわかりそうなことだと思うけど、何で・・・」

近くにいる人に、私だけがそう思うのかもしれないので、ありのままたずねてみる。

「(なんでそうなるのかが)わからん・・・」

私と一緒か

一回二回ならよくあること。

三回四回なら、それでもよくあること。

五回六回でも、まああるかな。

ずっとそれなら、あるのかな・・・あるからしょうがないか。

なんてことで考えても納得の答えも出せず

「うーん」



隣にいる方が(私を見て)

「どれが悪いことか、良いことか、(全く本人は)わかっていないのだろう。」

続いて

「(わかっていなかったら)簡単にするわな」

妙に納得しました。

それはでも、他人だけではなく私だって同じことです。


よかれと思っていたり、悪いと思っていなかったりする時の私は、悪いことをしているなんて気づかずに行っていることがあります(私自身気がついていないことだから例としてここへ具体的に出せないのが残念なのか、何なのか・・・)

過去のことであれば家内や周囲にいる人に聞けば、それはもうちりも積もれば何とかくらい。


人が行っていることを悪く言っている私自身を見れば、ああそんなこと言えるような私でもなく、人より私は完璧なのかなんて言われれば、その答えは「気をつけます」くらいでしょうか


都合のいい棚ばかりに自分をあげて、人のことをとやかく言わないようにしたいです。


まかりとおる

 まかりとおる。

まかりとおるという語の使い方の一例に「あんなことがまかりとおるとは世も末だ」なんて使い方もあります。

周りで平然と何がまかりとおる。

誰が聞いてもそれはないだろう。

理論になってない(話にもならない)。

納得のしようがない言動。

ただそれでも何のためかわからないが、その意見に賛同する人たちも全く私はわからないのだが存在する。


「何故」


皆の迷惑やその場所の現状とこれからのことを少しでも考えればその反対の結論にしかならないのに、どうして悪くなることがわかったうえで賛同するのだろうか。

さらによくよく見てみる。

やっぱりそんなことをしたら誰かにかなり迷惑がかかる。事態が好転するとは思えない。

みなの顔色がどんどんくもっていく、悪化する一方だとわかっているのに・・・

悪くなることを善くするまではいかなくても、通常(普通)の状態へ維持しなければその(自分たちが存在する)場所は成り立たなくなる。

それはどこでも一緒だと思う。

恒例の安易な手法を用いれば別だろうけれど、隠蔽や改竄とか誰かを人身御供にしたり、やめさせたりして責任を押し付け乗り切る。本当にこれは割とどこでもそんな話を聞く。

自分がされたら嫌なことなのに人に対して行うことは何も問題がない。そこまで極論でなくても、誰かに嫌な仕事をおしつけて普通の状態にさせる努力を行わせることだってどこにでもあるだろう。


「人それぞれ役割があるから、お互い納得しているから問題ない。」

普段から皆のために行っている方が言えば説得のある言葉、何もしない考えない手柄は私のもの悪いことは人のせいのような人がそう言えば何故か(私は)腹が立つ。

腹が立とうが立つまいが、自分がそこにいると決めているのであれば、やらなければいけないことは避けて通ることは出来ない。口に出す・・・全く駄目な私を見る。態度に出す・・・・まだまだな私を見る。口にも態度にも出さず普通に行う。けれども後でひとしきり悔やむ・・・普通に近づくにはもう少しかなんて思う私を見る。笑って行い、後にもひきずらない。・・・・いい感じの私を見る。


何がまかりとおるか


事実は小説よりも奇なり、なんて言葉があるように人それぞれあるのは間違いない。




できればいつでも、これから楽しく酒を飲みながら、(語る相手と)その幅を楽しみたい。



身勝手な理想

 有難いことです。

普段私が良く使う有難うや有難いということ、有ること難しだから有難いなんていうようなことをよく耳にします。

当たり前なら当然だし、有難いことが有ることが難しいことだから、余計に有難いなんてことを省略し、有難うございますといっています。まあ余計なことが長いと嫌われるから、「ありがとう」という短い言葉を沢山耳にします。

昨日、よくお世話になる方にあらためてお礼を述べました。

「何のお礼なの」

いろいろなんです。(今回は)しいていえば、あの時のことを再度はっきりと何かによって思い出したからです。

私にあなたが、宅建の資格をとったほうがいいと言われたときのことです。私はあれによって自分の道というものをはっきりと見つめることができたからです。私の現在の職業と宅建とは何の関係もないし、ただ常に皆に優しく、考えるより先に皆を手助けする方であり、何もない年下の私をいつもたててくれている方ですから、宅建を取ろうとその時真剣に思ったことは確かです。ただそれを捨ててでも今進もうとしている道を誰の目から見ても全く問題ないという自分をつくらなければいけないと思ったことを覚えています。

適材適所の言葉が似合う方です。自分が不得手なことは得意な方にまかせその代わり他の仕事を人より多く動かれる方です。私は長くあの人を見つめることで自分も知らずにそうなりたかっただけかもしれません。


自分が決めた道がなんであるか

決めた道を自分は真剣に歩んでいるのか

皆が納得する根拠を出せるよう努力しているのか




「あの言葉は私にとって中途半端な自分を気づかせてくれた言葉でした。


ありがとうございました。


私はきれいごとが以前から好きで、好きなのにそれに向かうような努力をしていませんでした。



私は何を求めているのか


あの全てを貫いて悠々と流れる大河


私はそのようにありたい。」


有難うの言葉とともに、私の中身に似合わないいんだけれど大好きなもののようにありたいのです。


何かよくわからない(意味不明な)恥ずかしいことを久しぶりにお世話になる方へ伝えました。



その方の返事は素直でそれもまた(私には)よかったのです。

「私はそんなつもりでいったのではないのよ、あなたが狭い世界に閉じ込められたままでは・・・(光の指す場所へ)」

もっと広い世界へあなたを出したい。そんな思い(言葉)があふれるているように感じました。


母が以前私に実家から遠くへ長く旅に出させたり、海外へ見聞を広くするように行かせたり、「こんなど田舎に一生あなたたち(わが子たち)を、閉じ込めたままにしたくなかった。だから私は必死にあなたたちを広い世界へだしたのよ」


あの人も母も、同じことを言っていると何故か思いました。


今は思うのです。

皆の期待にまったくこたえられてないけれど、私がいる場所はどこだっていいと思います。場所に左右されることのない自分であれば問題がないです。

ここで光っていない私ではどこにいっても光ることができないです。


いまここで、「何も問題がありません。(私は現在の場所で光を発しつづけたいのです。)」そうあの人たちに言葉ではない言葉で伝えれるような私でありたいのです。



本当にそんなことを考えさせられるほどの実行力と影響力と優しさを放つあの人に感謝しています。





そのおかげで近くにいる親しい友人へ(わざと)

「あなたも宅建でもとりますか(あなたの進むべき道は何ですか)」

そうたずねたこともはっきり覚えています。


(彼は何か大事なことを見つけたなんて勝手に思うのです。)

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やりとり

 昨日仕事が終わり帰宅すれば、次男坊(小学四年生)と三男坊「けいくん」(四歳)が玄関先で遊んでいました。どうやら彼らは二人仲良く子供が好きなダンゴムシに夢中だったようです。

虫取りカゴ(カブトムシやクワガタを入れてみるよなプラスチックの)に土を綺麗に敷き詰め、松ぼっくりを入れ、ダンゴムシを30匹くらい入れて、二人共笑顔で私に

「お父さんダンゴムシいっぱい」

お褒めいただきたいのか、捕まえたダンゴムシの良さを共有したいのかはともかく、ちょっと先のことをスグ考える私は

「すごいね。

だけど、そのままだとダンゴムシ全部死んでしまうから、ダンゴムシのおうちに返してあげてほしいんだけど」

次男坊と三男坊は声を揃え

「えー」

私「(いや絶対そのままだと死ぬってそれ)逃がしたほうがいいよ」

どうやら手に入れたものを我がものとしたいようです。ただ移ろい変わりゆくものを我がものとすれば苦しみが後でおとずれるということから目を背けたいようです。

まあそれはともかく、中に入れば、長男坊は宿題に取り組んでいます。

「おーしっかりやってる。素晴らしいね」

遠くから家内の声が聞こえてきます。

「帰ってからずっと遊びに行ってたから今くらいはやらないとね・・・」

私「ああ、そうなの」

何やら長男坊(小学六年生)の宿題は難しそうです。よく見れば学力テスト国語問題は試験時間40分と算数問題は試験時間40分、何やら本格的な宿題です。足したら80分書けてする問題なんてことがすぐわかります。

長男坊「だめだこれ、難しいよ・・・。もうあきらめた。」

なんて声が聞こえ大の字になって寝転んでいます。

私「お兄ちゃん。目の前のことを逃げたり投げ出したら後で大変になるよ。」

長男坊「いいよ、もう勉強の道(大学)はあきらめたから」

どうやら自暴自棄になっています。

私「まあ宿題だからやらないと、先生に怒られるんじゃない。それよりかもっと問題はやることやってないと遊ばせたりとかゲームとか絶対させないけどね」

長男坊は起き上がって、何のためにか取り組み始めようとしました。けれどもやっぱりブツブツ言っています。

私「一生懸命考えてわからなかったら、それはそれでしょうがないんじゃない。先生にだって言えば通じると思うけどな」

長男坊「それがだめなんだよ、ちゃんとやっていかないと」

私「意外と大変なんだね、でも真剣に考えてわからなかったら先生に、教えてくださいと頭を下げたら教えてくれると思うんだけどなー、先生だったら何でも真面目なことにはきちんと答えてくれると思うよ」

長男坊「じゃあ、『いきる』とかたずねたら教えてくれるの?」

私「先生は学問的なことや団体生活でのルールとかが専門だから、それはちょっとなあ」

長男坊「そうなんだ。」

私「それは代わりにお父さんがこたえるよ

  生きるという意味は、自分がおかれた場所において目前のやらなければいけないことから逃げないことだよ。自分の行わなければいけないことを一つずつ行う行為の積み重ね、簡単に誰でも一瞬でわかること、あの人はいつもしっかりとやれることをやっている。よく生きているなんて誰もがいうことだし、その反対の与えられていることから逃げ続け何もしない人をみれば、あの人は何をしているんだとか、存在する意味が無いとか、よく生きてないなんて言うと思うよ・・・」

長男坊は私の話を聞き、雰囲気を察したのか真剣に宿題に取り組んでいました。

しばらくたって

長男坊「終わったー。死ぬかと思った。

(意地悪な)私「死んでないけど」

長男坊「比喩だよお父さん。比喩」


(よくがんばったね。)


宿題を全くしなかった子供の頃の私と違ってあの子や次男坊は素晴らしいなんて思います。

酔っ払えば私はあの子達に言います。

「お父さんのような馬鹿になっちゃだめだよ。私なんてくらべれないくらいに貴方達はもっと賢くなれるから」




本当に逃げ続けた私のようにではなく、よく生きてほしいと思います。


一人前

 ふとしたことから、世間一般のことをご年配の方に教えていただくことばかりです。

話の流れで次のようなことがでてきました。

「大体そうじゃ、やらん奴に限って言い訳ばかり、する人は何も言わんと、ぱっとしている。言うばっかりで結局何もせん。(そのようでは)あかんわ」

ありのままの現実をあらわす言葉が、私には激しく痛い言葉になることばかりです。その後には

「偉そうなことを言っているが、(よくよく全部見てみれば)一人前にもなっていない。」

私にとって「一人前」凄く重たい言葉です。私は三人の子供の親であり家内からすれば旦那です。

「旦那として一人前とは」

その問に胸を張って答えれるような甲斐性をもっているわけではないからです。ただ自信をもっていようがいまいが、月日は皆と同じように流れ、いたずらに過ぎ去るばかり、気がつけば不惑になっています。

教えてくれる人は、私に戒めの言葉を言っているようではありません。けれども(私は)ずっしりと響きます。

「大人になる」

「一人前」

「旦那さん」

「自分が就いている職業として、恥ずかしくない(努力を怠っていない)人間であるか」

「父親」

本当に書けば書くほど考えさせられることがあります。「気軽にいったらいい」なんて思う人もいます。そういう方がやれるだけのことをやっていて後はなるようになるという人の言葉であれば、(私は)納得します。やるべきこともやらず、努力もしない、考えることも学ぶこともない、そのような人に「気軽にいったらいいんだ。」なんて言われれば、逆に考え込む始末です・・・。

(その時は)相手が問題ではなく、足りなすぎる私を見て考え込んでいるだけの私を見ます。


「案ずるより産むが易し」

友人が新しい行事をはじめ、ひとつずつこなしている姿を見続けていればその意味もよくわかります。あれこれ考えるより実行が誰の目にもわかりやすいし、足跡として残り、ひとつずつ積み重なっています。

私はよく自分のことを棚に上げ、彼に継続や新しく成すことを必要以上に望みます。仕事をしながらこれからの職場の展望を考えることが大好きです。


花に香りがあり、私に我がどこかにあるようです。


その我が皆にとって邪魔にならず、望まれる我を私は望みます。

おそらく私が勝手に思う一人前とはそんなようなものだなんて思う日でした。


日々

 一日お休みをいただいて出勤すれば、一日は短いようですが色々な出来事があったみたいです。私はいないんだからみたいとしかいいようがないです。

いつも共に働く二人の顔が疲れていました。

今日は昨日ほど忙しくなかったようです。昨日はお疲れ様でした。とここへ記します。

現在有難いことに私も家族も大きな病気にかかっていません。家内も私も実家の家督を継ぐ立場にありませんから遠くに双方の両親がいます。老いも生きていればやがて私や家内と子供達にもおとずれます。死がおとずれるのはいつか、わかれば苦労も少ないなど思うことがあります。

老いも深刻な問題です。ご老人の方を見れば時折その方のことをではなく、自分自身が年老いたとき、我をあまり出さず謙虚で礼を失わず学ぶことを忘れない自分自身でありたいと現在は願っています。

確固たる信念と、我がありすぎるとは違うものです。

地位・名誉・恩恵・財産などがあればあるほど、人は勘違いしやすいものだなんて思うことがあります。恩恵などの光はまばゆいものです。ただ自分の光でないことは間違いないです。

わかり易い例を出すまでもないですが

「私にはお金があるから問題ない。」

「私には地位・名誉があるから問題ない。」

そのように口に出して言う人はいないと思います。けれども態度で出してしまうことはよくあります。まあ私なんかはどれもがないのに偉そうにいったりしてしまうから・・・、しっかりしていきたいです。

親しい人に疑問が多すぎる私は何でもよくたずねます。

「あなたの道はなんでしょうか」

即答の方もおられます。答えられなくても見える道を出している方もおられます。迷って答えられない人もおられます。

質問はいつも逆説的なものだと思います。私の道が不安定なときほどそんなことを相手に聞いたりしていました。最近はその質問もしていないように思います。


その時まで歩み続けるしか無いです。後悔や不安や見失うこと、立ち止まることもあります。それでも歩み続けるしかないです。


その答えも簡単です。



だって自分で決めたのだから


その道で生きていくと決めたのも、他ならぬ私です。


自己満足でおわらせてはいけない。そんな言葉をよく自らに問えば返ってきます。




難しいことです。少しずつでも前へいきたいです。


つい

 なかなかどうして、悩みが尽きない毎日です。
子供達を見ては、黙って見守るなんてことが全く出来ていない私です。

つい、出来ていなければ口うるさく注意してしまいます。彼らの顔が曇ります。わかっていることをあらためて人に言われれば誰だって嫌になります。

そこはそれ、子供ではなく私だって同じようにわかっていることをいわれれば嫌です。

なのに、子供には言ってしまうわたし・・・

あの子達より私が直さなければいけないことをあの子達と接することによって教えてくれます。

「今日こそ」

まああの子達が怠けてたり、変な言葉を使っていたり、宿題をしていなかったり、お手伝いをしていなかったり、やることをやらずに遊び呆けていれば・・・・・、ついつい注意をしてしまいます。

あたたかく見守る。今の私の課題であります。

今日は仕事おやすみでした。家内は私と一日過ごせる日を楽しみに待っていました。まあ忙しい日々におわれる私は朝もよく寝て、昼もよく寝て、夜も恐らくよく寝るのです。

家内「きょうは雲ひとつ無い青空なのに、どこへもいかなかったね・・・」

旦那「日々の疲れをね・・・」

家内「私には子供(けいくん)を公園へ連れて行ってあげてってたのんでるのに、(貴方は何をしているの)」

旦那「日々の疲れをね・・・」


本当だらしないです。

まあ最近いそがしいから・・・、なんてことを言い訳にしておきます。


実行と休息と実行と思考


私にはバランスが必要です。


弱者

 生きていれば何だろうか


何故か自分が弱者だと必要以上に思い込むことがある。

根拠も誰もいっても思ってもいないのに必要以上に強者だと思い込むこともある。


理解者がいない。

優しい人もいない。

協力者もいない。

いるのはただ私だけ。


悲しみの渦中に自らによって自らが入っていく。

世界や他者のせいにして、自らを見ない(見えない)。

この私にいい人やいいことや素晴らしい世界なんてどこにあるのだろうか。


そんな考えが少しでもあれば、自分は自分で弱者だと嘆いている。泣き叫ぶことだってある。

時間は何かを促していく。

ひねくれるのか。

悪くなるのか。

恨みで世界を満たすか。

普通にしたいと願うか。

素晴らしき世界であるように願うか。

自分と同じ人を見たくないと知らずに願い、何かを変えようとするか。

どの人にも時間は同じように流れる。


弱者にだって、よい願いをもってそうありたいと続けたことが少しずつどこかへたまっていく。


その量や時間がある一定の基準を超えれば、超えたことをさかいに弱者が強者へと反転する。

「その身に根拠を有した。」

ただその根拠は見えるかたちばかりではない。見ることができる人には弱者と見ることができない。その音なき声を聞くことができる人には、やはり弱者とは見えない。


どうだろう


わからない人には


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いい日

 大抵平日が休みの私は、当然今日もお仕事、またありがたいことに大忙し、雇われの身だから暇でも忙しくても給料は変わらないんだけれど、忙しければ安心するし、忙しいという概念を覆すほどに忙しければ、ちょっと暇でも・・・なんてよからぬ思いを持ちます。職場が忙しければ職場は安泰だし、閑古鳥が泣き続ければいずれは私が困るから、私の思いはともかく贅沢はいえません。(たまには暇に一日過ごしたいぞ、なんて誰かが言っています。)

朝から仕事は順調、しかもいつもいる方にお褒めをいただいて気分が良かったのです。

質問の内容は次のとおりです。

私のことを避けようとしたり、要注意だと思ったり、おかしな人だと思ったりするような女の人もいるんだよねえ、なんて7年以上も日々共にする年上の素直で品のある素敵な女性の従業員の方に聞いてみたら

じっと私のことを見て

女性「魅力があるからじゃないかな(自分から近づかないようにきをつけてるんじゃないかな)」

 私「おー」

朝仕事が始まったばかりだったですが

 私「今日は本当に気分がいい。


   これから長い一日仕事だし、悪いこともあるかもしれないから、これで仕事は終わろう。


   一日の仕事が最高で終われるから!」



まあ、私のたわごとは、皆の笑いとともにどこかへ行ってしまい、今日も残業で帰りは遅いのです。


他にもたくさんの方に会いました。3人いれば3人とも色が違います。まあそれは当然です。十人十色なんていいます。実際は百人百色でもあてはまりません。「千いや万いや億でしょ」そんな独り言をいっていたら、「もういいですよ(数増やさなくても)」考えようとしていることを止められました。

自分の仕事でいっぱいいっぱいの方もいました。その方の勝手な私の印象は、いっぱいいっぱいでいっぱいいっぱいだから、視野も狭くなり、自分のことがいっぱいいっぱいだから、他の方の思いなどがその方に入る余地もなく、あったときから帰られるまでいっぱいいっぱいでした。まあ仕事とは関係ない方で知り合いというだけですから、仕事優先であまりその方を手伝えなかったからかなとも思いました。

自分に今与えられた仕事をまっとうする。これはどの仕事でも共通しています。ただ同じ仕事だとしても十人十色の人がやれば結果は同じでも、その人の仕事にはその人の色が出ています。

その人の色を見るのが好きな私です。

その色を大好きになったり、憧れたり、真似をしてみたり、真似をしてみたり、真似をしようとしたり、まあ真似をしていいように見られたいなんて思っているだけなんでしょうけれど・・・

私には好きな色に見えても、人によれば違う色に見えている人もいます。私と同じような色に見えている人もいます。まあ私が好まない色を出す人がいます。避けたい色もあります。これはその人が避けたいとか好まないではありません。仕事にでる色という意味です。

初対面は大事だと冷静になれば思っています。ただ初対面が終わり後悔する私をよく見ます。

作ったものではどうしようもないだろうなんて、後で思います。自然に出る雰囲気それが今回は色という言葉を持ってあらわしています。


まあ、いろいろあるかな


(仕事後一杯お家でゆっくりしたいので、中途半端な辺りで書くのをやめてしまうのです!キリッ)



理解

 いろいろな人と出会います。私はよく思ったことをすぐ口にしてしまいます。よく質問をします。気になってしょうがないことはすぐ聞いてしまいます。

まあ人によっては失礼や無礼な人だと思われたり、悪いことをいう人だと思われたり、この人には気をつけないといけないとか、それに気がついて黙りこくってしまえば体調が悪いのですかや無愛想な人だと思われたり、まあ両極端にしかできない不器用なところばかりです。わかっていそうで全くわかっていない。気がついているようで全く気がついていない。そんなこともよくあります。

自分の長所を長所ととってくれれば喜び、長所を短所ととられれば悲しみや怒ったり不機嫌になったり挙句は憎んだり人間不信みたいになったり、理解してくれなければ怒っており、理解してくれれば喜びととっています。(ここに書き続けていることも、全くそんなことばかりの私を見ます。少しでも理解してくれれば嬉しいし、反応が無かったり、けなされれば割りと何かが(私のこころなんですけど)かなりひねくれています。

いろんな方を見ていれば、相性というもので私は片付けがちです。

「自分(私)と合わなければ、あの人と私は相性が悪い。」

それでも見ていると、私もあの人もともに横にいる人は両者と相性がよいなんて人も見ます。後で少し悩みます。誰とでも相手に合わせているのではなく、自分ができることを続けているだけでその人は合わせようとしているわけではありません。ありのままの自分を出すことで皆とうまくいっている人もいます。

少し(私の)考えが変わってきます。

あの人と相性が悪いのではなく、私の何かが悪いからあの人とあっていないのではないか

そんなことを考えるような人ならあうはずがない。何て突っ込みもありそうですが・・・
合う人とは何をしても合います。

その先ですか

自分に合う人とだけ接していても、広がりも進歩もないと思うことがあります。それが何故そのように思うのかはわかりません。

ただ悩み苦しんで以前より近くにいる方と良好な関係を築けるようになり、それでも苦手な人は存在します。少しずつそれも苦手ではなくなっていき、まだそれでも存在しています。いつかはなんて、またそんな思いがどこからかやってきています。

言葉を交わす日々が続いていても、肝心なことを交わし会えない人と言葉を交わすことが難しいことだと思うことがあります。

禅宗の不立文字や言語道断などを何故か思い浮かべます。


目を見れば伝わる人も確かに存在します。万の言葉を連ねてもただ虚しく時間が過ぎただけだったということもあります。本当にそんなとき自分の愚かさを痛感します。

短くそれは、理解したい。理解して欲しい。


お互いの思いが交錯する交差点で私は赤信号で止まっており、相手はずっと青信号。



何故かお互いが通り放題なのに衝突すら無い青信号の交差点。



いろんな交差点があるなんて思います。



不思議のない難しい道

 最近まあ特に今日変わったものを目にしました。

「忘己道法」

そう書かれた色紙です。書いた人は誰かとしげしげと見れば、高野山真言宗(現在)管長の松長有慶僧正と書いてあります。

そうそう、以前に誰かからもらった色紙、瀬戸内 寂聴さんの色紙には「忘己利他」と書いてありました。(詳しくはこのブログの過去記事のどこかに)

もらえるのなら管長さんのがよかったなんて(不出来な私の)思いがでてきたけれども、誰かのだからもらうことはできないから、解説だけでも載せておくのです。誰のために?それは私のためなのです。



「忘己利他」己を忘れて他を利する。後に少し言葉をつければ「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。」(伝教大師・最澄)解釈もより身近になります。

「忘己道法」は弘法大師(空海様)の言葉として引用されています。性霊集にある言葉です。


「求道之志忘己道法」

道を求める志は、己を忘れる道法なり。この後半部分の言葉です。


道とは仏教者であれば、仏教は仏道と過去によんでいますから、私なりの訳なら

「己を忘れる己が出現していれば、それが自らの求める道であり、法(常住不変の真理)であり、本当の己である。」


恒例の仏教でおしていきます。

釈尊(ブッダ)といえども一人の人間としてこの世に生まれ、この世に生まれるものは誰一人として老・病・死を免れることはありえません。ただ超克できる道を悟り、その道を説き続けられました。


神格化を拒むブッダ
 そのことについて、私はまず、一つの経(相応部経典、二二、八七、跋迦梨。漢訳同本、雑阿含経、四七、二五、跋迦黎)が語る、かなりショッキングな物語を紹介しておきたいと思う。
 それは経題にも見えるようにヴァッカリ(跋迦梨)という病める比丘を主人公とする悲しい物語である。彼はそのころ、マガダ(摩掲陀)の都ラージャガハ(王舎城)にあって、ある陶工の家で病を養っていた。だが、病状はいっこうにはかばかしらず、もはや再起ののぞみはないように思えた。そのとき彼が、最後の思い出にと願ったことは、もう一度、ブッダの姿を拝したいということであった。使いの者がその由をブッダに伝えた。ブッダはそのころ、この都の郊外、竹林精舎ことヴェールバナ(竹林)の僧房にあったが、すぐ起ち上がって陶工の家にむかった。
 ブッダの姿がみえると、ヴァッカリは病床におきて座した。ブッダはそれを制して、彼をふたたび安臥せしめると、その枕もとに座した。
「どうだ、ヴァッカリよ、がまんできるか。いくらかよいか」
「大徳よ、わたしはもう駄目です。病は重るばかりで、とても恢復ののぞみはありません。それで、わたしは、末期(まつご)の思い出に、世尊の御顔を仰ぎ、御足を頂礼いたしたいと思いまして」
その時ブッダが彼に与えたもうたことばを、経はこのように記しとどめている。
「ヴァッカリよ、このわたしの老耄のからだを見ても、なんにもなりはしない。なんじはかく知らねばならない。〈法を見るものはわれを見る。われを見るものは法を見る〉と」
 そのことばは、きっと、あたたかい気韻をおびていたにちがいない。病める弟子を見舞って、その病床のかたわらに坐す師のこころは同苦同悲のおもいをもって充たされていたにちがいないからである。それにもかかわらず、この師のことばは、かのヴァッカリをしてはっとせしめ、なみいる比丘たちにつよい感銘を与えるものを蔵していた。なんとなれば、ブッダはここに、おのれを礼拝せんとするものを拒んで、この期におよんでも、なんじはむしろ法を見よと説いているのである。
 このような物語をまずあげてみるのは、ほかでもない。そこにはブッダとその弟子たちとの関係がよく現れている。彼らは、うたがいもなく、ブッダの教範と垂範とによって、この道にいたったものである。だが、ブッダは彼らにとっては、礼拝の対象でもなく、ひとえに憑依して救済を願うべき相手でもなかった。なるほど、仏教はキリスト教やイスラム教とともに、教祖を中心とする宗教であるとされる。だが、おなじく教祖を中心とする宗教といっても、イエス・キリストがキリスト教において占める地位、あるいは教祖を、マホメットがイスラム教のなかで担う役割とくらべてみると、ブッダが仏教のなかで、演ずる役割は、かなり注意すべき相異が存することが知られる。
(仏教概論 増谷文雄著より抜粋)



(いつもの恒例として)

菩提樹下において熱意を込め思惟され悟られたブッダは35歳から80歳まで45年間インドを歩き続け日々の奨励と法(真理)を説き続け、ただひたすら善を求め続けられた。「善とはなんであるか」その答えが釈尊の45年の伝道の日々となり、沙羅双樹の下において沢山の弟子達にかこまれ、私はこれより涅槃に入る。そう言われ最後に

「ものみな移ろい変わりゆく。おこたらず努めよ」

人間は生まれれば必ず滅するという真理を示されたと涅槃経にあるのです。


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