何かになれない

 最近は自重していますから、口論も(以前より)減ってきています。

何故口論になるのか、それは簡単なことです。自分の中にあることを失いたくないと思ったり、自分の根拠だと思っていることを突き崩されないように、自分をよく見せたいというハリボテのような思いを吹き飛ばされたくなかったり、根拠のない自分を守ろうとしていただけです。

どう考えても根拠がないものを守りようがないのに、しょうがない私です。

程度の低い口論ばかりしている私を見続けてきました。今でもそんな私を見ます。

「言わないと前に進めない。そんなことではたかが知れている。」

何度も言われていた言葉です。なんとなくその意味が気がつくようになってきたのは最近のことです。自分の良い所を言えば自慢になり、自分の成してきたことを言えば過去の栄光にすがっているととられ、自分はこんな良い人ですといえば紹介しないと良い所がわからない人だととられることもあります。

「申し訳ない」と何にでも言っていれば謙虚で人間ができていると錯覚してしまうこともあります。事実を突き詰めていけば関係ない貴方が謝る必要はないときつく言われたり、何でも言っているだけだと取られたり、他に言葉を知らないと取られたり、その時にできることを知らないととられたり、言わない(言えない)よりはましかもしれないなんてこともあります。

多くを語れるから私は賢いと相手に伝えたいのか、行動によってあらわすことのほうが何倍もましなのに何もあらわせていない。そのような私をよく見てしまいます。

安易に多くの言葉を多用することばかりで、かなわない人に「バカ バカ バーカ」なんて簡単にいうことのできる馬鹿にもなれない私を見ます。

もっと素直になりたいです。

「知らないことは知りません。」

「知っていることだとしても、多く語りすぎない。」

「無用な言葉を乱発しない。」

「見る目を養いたいです。(自分をどこまで見れているか)」


無知であることを何故に覆い隠そうとするのか



悪い言葉を聞いて波風が立つような私では、悪いことをどこか認めているようなものです。



はっきり相手へ「バカ、バカ、バーカ」そう言い放てる私のほうが賢いような気がします。






なかなか、なれないもんです・・・。

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すごい(何かの)不足により

 ほとんど一人でお酒を飲むことばかりの私、職場と家の往復しかしないからなのです。昨日は仕事で合う方と久しぶりに遅くまで一緒にお酒を飲みました。(ΦωΦ)フフフ…家内がいない間に男どもが三人集って酒盛りなのです。

ある意味面白い方でした。話もとんでもない話ばかり出てきています。私は圧倒されっぱなし、仏教の話はどこにもみあたらない、そんな夜もあるものです。私も大分変わっていますがあの人には負けたなんて思います。今度はいつも大阪から泊まりでくる友人と話したいなんて考えていました。多く話すのではなく、多くを聞ける私を見たいです。

職場の前にある桜が少しずつ開花したと思っていたら、暖かい陽気に誘われ今日一日(特に暖かい朝だったの)で一気に咲きました。家内も私も桜は大好き、この時期がくれば桜の名所へ必ず行きます。事情があっていけないときは一年「見に行きたかったのに」その思いと言葉が忘れられないです。ただ春は仕事が大忙し、けれど花(桜)を見とかないと盛り上がりません。ただ私と長男坊は花粉症がきついためマスクをし、花を見にいきます。花見やお弁当や暖かくなること、お散歩は嬉しいのに、複雑です・・・。

晩2時過ぎまで飲みながら語り明かし、起きたのは(起こされたのは3時半・・・)五時半からちょっと用事をして、友人が朝ごはんを差し入れしてくれて、仕事がはじまるまでそのへんで少し休息、今日のブログがぱっとしないのは私の中身のせいではなく、睡眠不足のせいにしておくのです。


あなたは

 よく注意されることがあります。「あなたは・・・」から始まる言葉。

気を付けようとその時まで思っています。終われば「しまった。また・・・」と思っています。「あなたは本当に自分が大好きなんだから」ではありません。それは他人には言われることはなく家内からだけです。

忘れやすい私は口ぐせのようにいうのです。

「痛い言葉を恨みと見ずにどれだけ感謝と見れるか」それにかかっている。

実際難しいことです。すぐに腹が立ち、八つ当たりをしていることが多く、悪いことを他人のせいにして、自分を冷静に見つめることなく、ただ不平不満を口にしていたずらに時間を過ごしている。言葉にすればするほど情けないことです。

職場では鶯が鳴く声が聞こえます。「ケキョ」「ホケキョ」「ホー、ホケキョ」日に日に美しい声になっているように思います。ここのところ暖かい日が続いたので、桜も綺麗に咲いてきました。桜と鶯、春の風はあたたかく、ただ夜空に月が見えないことだけが残念です。

柳は芽吹き、冬のように枝だけではなく、いま萌えるような緑をたたえ風に揺れています。



花粉症になったこの身体でなければいうことがないです。


ああ話がそれました。


「あなたは話が長い。」

それを書きたかったのですが、長い話は時に無粋というものです。

(決して書く事が思いつかないから文が短いなんてことはないのですよ・・・、それをつっこむのも無粋というものです。)

話は短く、内容は濃く、大きく、深く、高く、そのように心がけたいものです。



中心

 もう十年以上お世話になる方の昼の言葉と晩の言葉は違います。晩になってからの口癖は

「天動説ではいけない(自分を中心に太陽は回っていない)」

出会った頃から晩になると自らと家族の双方へ向けて言っておられました。あの時(過去の私)はあまり意味がわかっていませんでした。ただ真剣に何度も言われていることだから、最近はその言葉をよく考えることがあります。

言葉には流行りがあります。同じ言葉を何度も聞くことを人は嫌います。どんなに素晴らしいことだとしても二回目には少し薄れ、百回以上も聞けば「耳にタコができた。」なんていう人もいます。その言葉を理解し実践できることと、言葉を覚えているだけではその方の姿勢(態度)や謙虚さがまるで違います。

「船頭多くして船山にのぼる」

これもまたお世話になる方の独り言のように繰り返される言葉の一つです。私のようにできていない人ほど、「そんな言葉の意味くらい知っている。何度も言わなくてもわかっている。」つまりはうるさいや言うなといった言動となって現れています。あろうことかできていない人ほど「発言しているあなたが気をつけたほうがいい。」と言い返します。

都合のいい棚に自分だけをあげ、自分自身を成長させるようなものはひとつも受け取らない(だってめんどいから)。めんどいことは相手に押し付け、私は目先の利益しか受け取らない。そんな方もおられます。

両者を客観的に見ていれば、理解できる人はため息をつく人が多いです。素晴らしいことを(長年)実践して見せているのにあの人は何一つ学ぶことがない(いつになったらきづくのだろうか)。
自分は全く大事なことを理解していない。できてもいない。それなのに他人には「あなたたち(だけ)気をつけなさい。」そう言い続けている。

私は最近次のようなことを口にしています。

「あなた、本当のあなたに出会うことができるか

 わたし、本当のわたしに出会うことができるか

ただぱっと会えたのではなく、本当のあなたとわたしにであえるか、そこでしあわせに思えるかどうかが違ってくる。」


「あなたに出会えてわたしは嬉しいです。

(わたしは)わたしと出会えて嬉しいです」


この言葉にたどりつくにはどうしたらよいか、ここに奇跡と不思議はないのだろう。目先の利益や棚からぼた餅にすがりつかず、できることを行い続ける時間の連続のつみかさね。

簡単に言えば、それが「生きる」という意味になる(と思うのです)。


思いで

 隠すことではないですが、小さい頃から漫画やアニメは大好きです。それとゲームも。
気がつけば勉強は大嫌いでした。小学・中学・高校・大学、まともに勉強したことはありません。このへんは自信を持てます(ふふふ、お仲間や私へのツッコミはコメントでドンドン受付中です)。

 以前にも書いたことありますが、勉強嫌いの私でも好きなことはありました。スポーツは大嫌いでした。正しくはスポーツが嫌いなのではなく、スポーツを上手くやることができない自分が嫌いだったと(今は)思います。下手でも恥ずかしいことはないのに上手くやれない自分が不甲斐なく思いスポーツをずっと避け続けてきました。幼少の頃からおとなになるまで私はそれを続けていました。

悪いとこばかりですが、(私にも)数少ないいいところもあります。(自慢にならない自己申告です。)今思い返しても何故に出会ったのか誰が教えてくれたのか、小学校の時に本と出会いました。最初に読みだした本が何かなんて覚えていません。ただ小学校の図書館にある本、あの本の図書カードに全て読んだ証の名前を書こうと思っていました。最近は図書館もコンピュータなどの管理で図書カードが後ろについて誰が前に読んだのか名前を書くカードも恐らく無くなったのでしょう。

図書館の本を全て、小学校から(何キロか)離れた自宅へ毎日何冊も、持って帰って読んでいました。あのランドセルに入りきらない厚さと大きさと重さの本を、必死に持って帰って寝るまで読んでいました。厚すぎて結局読みきる事ができなかったことを覚えています。中学・高校・大学全く勉強をしなかった私、書物は近くにあるのにはるか遠くに存在していました。

時折思います。何故あの宝物を手放し続けていたのか・・・、遅くとはいえ本にまた出会いました。閉じてある本は光を失っています。ただ読んだこと無い本の背表紙や見た目はまだ光っていません。中身に感動すれば閉じても背表紙を見ても、それは(私の眼には)光ってみえます。

あの智慧の光、かたちなきかたち、真理の高さと向き合う人たちの真摯な姿勢の光、まばゆいひかりです。

たとえ一瞬とはいえ、あのような文を自分も書きたいと思わさせるもの


あの子達も、私とは違う何かに出会ってほしいと願います。どの道でも逃げずに見つめて欲しいです。泣いても悔しくても情けなくても歯を食いしばっても、早めに自分なりの何かと向き合って欲しいと願います。

マンガが大好きだった私、今も大好きです。あだち充さんの作品は全て大好きです。昨日から家族が里帰りしていたのでクロスゲームをずっと見ていました。何回泣いたか、数えきれないほど泣いてしまいました。見る目聞く耳があれば何を見ても問題はないです。

休日だった私は惰眠を貪り、アニメを見て、思い出を書きそれを何かとするのです。





かたち

 かたちがある。

 かたちがない。

かたちがあれば、目に見えるということだろうか。

かたちがなければ、目に見えないということだろうか。


文字を塊にして、単語をつなぎあわせ文として、ほとんどの方が話す言葉となっている。

言葉はかたちがあり、目に見えるということだろうか。

言葉はかたちがなく、目に見えないということだろうか。


屁理屈として、耳できくものだから形などあるものか、そんな答えは私は受け取らないことばかり。ただ心をもって聞くといわれればその先が気になってしょうがない。


ある人が何かを説明している。その説明に言葉を用いればその描き出す世界のかたちは言葉によってあらわれている。見えない人には見えない。聞こうとしないものにも聞こえない。不必要な言葉を省くことによりかたち(世界)をあらわす。間違いだとおかしいと描き出す人や受け取る人以外にわからないことがある。

長く土台から一階そして二階そして三階そして三階の高殿からの景色を描き出す。言葉を長くすればその景色は失われ、どこに重きを置いているかが損なわれていく。長くすれば親切でわかりやすいことになるのか、短くすれば不親切で間違いとなるのか、常に言葉は私にとっての課題となっている。

安心を描き出す。安心を描き出すのに安心できないものをも含め安心を描き出す。安心なものだけで安心の世界は描きにくいことだとよく思う。


「かたちがみえるか」


見えない時、「あなたはわかっていない」「あなたは間違っている」そのような言葉が前に現れる。


理想はいつも私の中にある。


「(みなに)理解してもらいたい。」


解決できるはずのないことなのに(気がつけば)私の中にある。(何を理解してもらいたいかは私も理解していないのにただ常に存在している)


「かたちをみせてください」


そのような問が私から私へ困れば向けられ続けている。


見えるようでいて見えず、見えないようでいて見える。



(私が)発した問は、私をもって答えるしかない

近く

 普段は全く考えないことなのですが、ふとしたときに考えさせられます。
あの人と、何かのきっかけで知り合いになった。

初めて会う。二回出会う。何度か会う。何度も偶然出会う。

話が膨らむこともある。何か感じる。

(生まれ育った場所から)遠く離れた土地で知り合ったのに、共通点に出会えば通常より共感する(縁を感じてしまう)。

意中の人と共通点を感じれば、実際離れていても、距離はないようにも思えてしまう。お互いであれば嬉しいだろう(問題も少ない)。

よい出会いばかりでもない。今まで同様、反対もこれから沢山あるだろう。

逃げることは容易なこと、逃げ続けるとは容易ではない。向き合うと決めることは難しいこと、相対し続けることは逃げ続けるよりも簡単だと、逃げ続けた私は思う。

何によって大切なことに気づくのか

何によって自己(本当の私)に気づいていくのか

何によって逃げることをやめようと思うのか

何によって成すべきことに没頭しようと思うのだろうか



紆余曲折あったほうがいいと思うことがある。迷えるだけ迷ったらいいと思う。

ただ迷っているだけで何もしないということが駄目なだけだと思う。

「ご縁があった。」

以前は少しもわからなかったこの言葉。

最近は少しこの言葉の意味が(私にも)近づいたように思う。





言い方を変えれば、ただ若くなくなってきたというだけかもしれない。


遠い

 「調和」(うまくつり合い、全体がととのっていること。いくつかのものが矛盾なく互いにほどよいこと。広辞苑より抜粋)

人間関係を調和を保つ。自然と調和する。精神(心)と肉体(身体)の調和。あなたとわたしの調和。

わたしが角がありすぎれば、相手が柔和な人だとあう(あわせてくれる)のかもしれない。こちらがあわせているようで、自然にあわせてくれて現状がうまくいっているなんてこともある。

近くにいる人のことがわからないようになるなんてことが山ほどある(私)。

どうしてわかってくれないのかなんて思うことも多い(私)。

こんな簡単なことを何故わからないのかと思うことが多い(私)。


(心に)余裕がなくても、落ち着いていたい。

なにものにも動じずにいたい。実際は水面に浮かぶ木の欠片のように、少しの波でも揺れているから・・・

相手と調和する。ものごとと調和するとかいうまえに、自ら(の心)をよく調えたい。何かあったときは誰もが動揺しやすい。私は人一倍かもしれない。落ち着きなさい(私)、けれどもあわてずに動かなければいけない(私)。それが課題でもあり難しい。

いつも理想ばかりを書き連ねるが、現状落ち着かない私をじっと見つめたい(慣れたい)、それでいて(よくばりだけれども)行動を少しでも伴わせたい。


何かによって揺らぐ、木の葉のような私を理解したい。


ゆらぐ(私)との調和、わたしが問題なくいけていると思われるときは、他者がうまいことやってくれているのだろう。


ねらえば遥か遠く、考えておらず(動いてまたは心に何もないとき)ほど近くにあるように思う。


いつも終わってから、他者を見ないと私にはわからないことばかり。



 連休ですが仕事です。仕事から帰れば次男坊と三男坊「けいくん」が二人で遊んでいます。賑やかです。大はしゃぎです。元気です。有難いです。まあうるさいかな・・・・

長男坊は家事のエプロンをして手伝っています。「僕がするよ」意気込みとは裏腹に大根の皮をむくより自分の皮をむいていました。

そろそろ春休みです。子供の頃休み、特に夏休み・冬休み・春休みは楽しみでした。あの子達はどう思っているのかあとで聞いてみようと思います。

春休みであれば、何曜日でも私の休みは子供達と休みが合います。四国遍路の続きをと考えています。今度はどこから回るか、前は高知だったから、前回の続きにするか愛媛にするか高知にするか、いきあたりばったりでもいいか・・・、しばらく温泉にいってないから日帰りで温泉と遍路でもいいんじゃないか、楽しみです。家族が病気にならないことを祈ります。

友人も四国遍路へ出ています。彼は私と違って大人数ですから、初め尻込みをしていました。出発すればいきいきとして、楽しんでいます。彼が嫌がるだろうけれど、あえて私はいつも何かを押し付けます。毎年大勢でなくても(一人でいいから)遍路を続けてもらいたいです。「継続は力なり」己が証したことを語って欲しいです。20年続ければ20回、言葉より実行した道をあの人には残してもらいたいなんて、「道について書いたらどうですか」という彼の返事とさせていただきます。今はまだ見えないけれども、いずれ見えるその道が成就することを切に願います。

まあそんなことを書いている近くで、次男坊と三男坊は本当に賑やかです。元気です。うるさすぎるかな・・・

暇があれば遊ぶことも大切です。遊ぶばかりではちょっと、家内は春休みに子供達へどうするか頭のなかで予定をたてているようです。(しつけとか、読書とか、どこかへ連れて行くとか、日々のいろいろなこととか)

「可愛い子供達と一日中いれるのはいいけど、親の役目が・・・」

なんてぼそっともらしています。私はほとんど仕事だから、子供達のことはあの人へお任せしてばかり、本当に有難いです。

宿題があったりするから、休みを楽しみにしている子供達です。大人の私と家内には日々の学校は有り難いです。学校の無い日が続けば家内は三人をどこかへ連れていったり、連休になれば顔が疲れています。

他人事のように「今だけだから」なんて私が言えば、何か矛先がこちらになることもあります。言えることは「有難う」か行動かだけかな・・・

次男坊が「けいくん」をよく面倒を見てくれています。ただかなり荒っぽいです。あの調子ではかなり荒っぽい4歳の「けいくん」になるような気がします。


今日は夜用事がないから、一杯やるのです。(用事がなくても飲んでるのではないか、困ったら一杯やるのです。)


日々の継続が道を作っていくのです。



私は一杯やることとオヤジギャグの道が作られ続けています。

どれだけ入れているか

 悪いことと出会う。

 悪いと思う人に出会う。

 話を聞いて心をいためる。

 出来事を見て心をいためる。


この「いためる」の意味・解釈も人の数だけある。


大まかに私を基点として、三通りに人を分類してみる。いつも書き続けるように私は愚かなことをし続けている。けれども今回はその私を基点とし、私を普通と呼び、私を真ん中に位置する。
(この考え自体、人それぞれが自分自身を普通や基準として考えているんだから、相違があってあたりまえ、驚愕があって当然、ただ自分に慣れ親しむ私は、その驚きに慣れることがない。)


優れた人たち、数え切れないほど存在している。その人たちを(私を基点として)優れた方とする。

中ほど(普通)の人たち、ここもまた多く存在するとしておく。(私と一緒にされて迷惑という方や嬉しいという方それぞれの思いは、止めておいてもらい先へ進む)

(全てではなくある意味で)愚かなことが多い人たち、ここはどれだけいるのか私では判別できないがいるとして話を進めてみる。
(あなたより・・・・なんていう追求はいつもの如くどこかへ)


人を見て我がことのように思い、できることをしている方

人を見て痛みを感じるが、我がそこに入ることがない。だが痛みを感じている。

人のことはどうでもいいという方。


それぞれどこが悪いとかいう話ではないように思う。人は価値観の相違、実践力の違い、思いの違い、理解の違い、速度の違い、その他様々な違いがあるから。


ただ何もできない(しない)できる(する)としても、痛みも、理解も、実行も、思考もどこまで自分自身を入れているかの違いは存在する。


全く自分に置き換えて考えていない。

少しは置き換えて考えているようだ。

我がことのように考えている。




たまには置き換えてかんがえてもいいと思う。

(脈絡のないものになってしまった・・・)



言うことなかれ

 書く事がまったく思いつかない日なんてしょっちゅうあるものです。職場の隣にいた人に聞いてみました。

「何がいいでしょうか」

「極楽とは、とか」

(西方極楽浄土(スカーヴァティ)か、仏教的すぎてなんかちょっとなあ、極楽浄土また安養浄土同じ意味とかそういうこと書いてもねえ、だから安養寺でも安養院でも極楽寺でも極楽院でも同じ意味だし、身を安んじて心養う場所略して安養だから、何回も聞くセリフだし・・・
極楽とはどのような場所なのか、それはこの世の楽園という意味ではなく仏道修行に障りのない、安心して修行に専念できる場所だから、極楽に行ったから楽できるというところではなくて、人間的完成〈悟り〉へ向けて最適な環境を提供できる場所だという意味
まあ極楽について書くことは却下かな・・・)

「人の短を言う事なかれ、おのれの長を説くことなかれ、ではどうです。」

私は自分の長所を口にすることがよくあります。さりげなくアピール(さりげなくではなく大胆にアピールとも・・)誰も言ってくれないから、言ってくれるのを待てないから、自分が今日やってきた行事を聞かれてもいないのにアピールしたり、これからの予定を聞かれてもないのにアピールしたり、自分が大変だったことをすぐアピールしたり、自分が人に褒められたことをアピールしたり、誰かが言ってくれるのをまてない。5分もかからない安易な方法をとることがあります。安易な方法でアピールしても、賢い人とは思ってくれないし、頑張ってますねなんていってくれるのはただのお愛想です。果たしてそれが長所になるのかどうかなんて突き詰めればなりますが、愚かなところがあります。



ちょっと上手く行かなければ人の短所(欠点)などをよく言う私です。あの人は仕事や人間関係が自分より上手くいっているから腹が立つ。あの人は格好いいから駄目だ。あの人は出来る事が多すぎるからこちらが目立てない。あの人の方がなんでも上手だが任せたら面白く無いから、こちらで勝手に・・・。あの人は綺麗だし中身も素晴らしい、文句を言えるところがないのが腹が立つ。


長を説くつもりが、(おのれの)短所を言っているだけ

短を言うつもりが、(あいての)長所を説いているだけ



そんな場合もあります。考える前にすぐ口を開く私には、(とにかく何でもかんでも)


「言うことなかれ」


そのほうが、後悔は少ないことが多いなんて思うことがあります。

賢者と王者

 時を長く過ごせば、言葉によるやりとりも不要なものとなり、言葉によってあらわせばかえって水臭くなることもある。
時間だけでなく言葉のやりとりやお互いに行動を見続けることがなければ、一足飛びにはいかないことが多い。ただ例外はどこにでも存在する。

最近目にしている書からの影響が多すぎる私、ここ(ブログ)にかなり反映されることになる。

私は以前身近な人に「おしつけてはいけない」そう忠告されることばかりだった・・・

家内には「人の話を(ちっとも)聞かないんだから」そう言われてばかり・・・

若い時の過ちといって見過ごせないレベルを超えているから言われ続けているのだろう。ただそんな私でも他人には厳しく「あの人とは話ができない」や「あの人はちっともいうことを聞かない」本当に誰が何を言っているのやら・・・

以前はそんな自分自身に微塵も気づいておらず、ただ他人にだけ厳しい、我ながら情けない話です。そんな私へ訴えかけるような言葉があった。

対論のありかた
 人間の基本に関する鋭い対話が行われたあとで、メナンドロス王はナーガセーナに向かってふたたび「わたしと対論しよう」と持ちかけると、ナーガセーナは仏教信者でもなければ、インド人ともちがい、征服者であるギリシア人の王は、これからたくさんの対論が行われて、さっきと同じようにやりこめられれば、何を言い出すかわからないと考えて、対話をするにあたって、その態度を問題にする。 「王さま、もしもあなたが賢者の議論で対論されるならば、わたくしは対論しましょう。しかし、もしもあなたが王者の議論で対論されるならば、わたくしは対論しないでしょう。」(一・一・三)
 メナンドロス王はナーガセーナが述べた、賢者と王者の議論のちがい質問したので、ナーガセーナはこう答えた。「王さま、賢者の議論において、説明がなされ、解説がなされ、反駁がなされ、匡正がなされ、区別がなされ、さらに細別がなされても、賢者はそのことに対して怒ることがないのです。王さま、賢者はこのように対論いたします。」
「王さま、王さまがたが対論するとき、あることがらのみを承認して、その事柄と意見を異にしている者があれば、誰でも『かれに罰を加えろ』と言って、罰することを命令します。王さま、このように王さまがたは対論いたします。」
「尊師よ、わたくしは賢者の議論で対論します。王者の議論では対論いたしません。尊師は、率直にお坊さんや見習い僧や在家信者と対論するようにお話ください。恐る必要はありません。」メナンドロス王は快くナーガセーナの申し出に応じたのである。この王が権力だけ振り廻して、自分の言い分だけを主張する人であったならば、第一、このような対論すら行われなかったであろう。また、すぐれた知性の持ち主で、ナーガセーナの言葉を容易に理解できるからこそ、自信に満ちてこう言い切れる包容力を持ち合わせていたわけである。それにしても自分の意見や思想と対立する意見や思想に対して、寛容の気持ちがなければ、意見の交換とか対話は成立しない。相手の立場を認める寛容の精神が大切になってくる。インドの最大の特徴である寛容の精神の伝統がここにも見られる。
東の智慧西の智慧 弥蘭陀王問経 石上善応著より抜粋



王さまではない私が、王者の議論をしていれば、わたしにふれるかたが私を見ればただの愚か者としか映らない。




愚者の私も、常に「賢者の議論」をしたいと憧れ続けています・・・

いつ

 「いつ頃どうなるのか」と考えてもどうにもならないのに、考えることがある。
何故かもっと具体的に問う。

「いつごろその問題は解決するのか」

そのようにさらに問う。

「何か(原因を仮に特定)を改善すれば、なおるのではないか」

そのような答えが返ってくることが多い。

「じゃあその何かを重点的に気をつければ」

簡単にそう言い放つ。

その何かが片付いたのに、根本の問題が片付いていない場合も多い。

「あの何かは原因ではなかったのか」

何かは無くなった。



本当にいつもあれこれ考え悩む。

一つずつ気をつけていけば、問題は少なくなるだろう。やがて問題はなくなっていくだろう。ここでの問題とは外的ではなく内的な問題を指す。内的な問題がなくなっていけば、外からの矢は防ぎやすい。

ただ内からの矢はどうしようも(防ぎようが)ない。

誰かが誰かを守ろうとしても、外からの矢は見えるし防ぎやすい。外だけを見てればいい。


誰かが誰かを守り続けても、その本人の内から生じる矢は見えないことが多く終わってから出ないと形として出ない。防ぐことが難しい。助けても助けても自分で穴を掘り続け落ちこんでいる。

予想ができれば少しは釘もさせるかもしれない。ただ本人が受け取らなければ、釘もささりようがない。強固な鉄壁であるとしても内からなら脆いものだろう。鉄が鉄自体を錆びさせる性質をもつように錆はほっておけば本体そのものを腐らせてしまう。まだ鉄は錆を誰かが定期的に落としペンキなどを塗り替えれば持つだろう。鉄はモノも言わないしこちらの思うように従ってくれる。再利用も簡単。理由も簡単。鉄は素直だから。

何気ない日常の言葉、理解しておらず話し続ければ、どんどん自滅していく。

わかっている・できている・いけているという思いを気がつけば出し続けるのだろう・・・

謙虚であることは、何でも謝ればいいということではない・・・

何故に自分を必要以上によくみせようとするのだろう・・・



それは自分でもそうだが、他人でも見ていれば情けない・・・


いつ(なおるのか)

気長に待ってくれる優しい人ばかりではないだろう。

(全てを失い、それから努力するとでも言うのだろうか・・・)


予定

 今日はお休みをいただき、いくつか予定を立てていました。昨晩から家内の様子が少しおかしいと思っていましたが、お昼まで一緒に用事をして、皆でご飯を食べていたら調子が悪くなり、寝込んでしまいました。

あの人がいなければ、家の中は私も仕事ばかりですし、子供達も私も家内をいつも頼りにしていましたから、情けないことに家の中も予定も全くはかどりません。今日の最後に歯医者の予約を入れており、親知らずを抜いてくる予定でした。家内から「今は抜かないで・・・」自分の体調すらままならいから、予約をすぐにキャンセルしました。

家内にどうしたの一体、次男坊がかかっている病院へつれていったとき、子供二人くらいが嘔吐下痢で病院で吐いていたといっていました。そこでおそらくもらったのじゃないか、かなり気をつけている家内にもそういうことがあるのか、なんて考え事にふけっているまもなく、家事が押し寄せてきます。「明日の仕事は休める?」休みたいですが、休めると言い切れないところです。
私の家庭は私が仕事をすることにより、回っています。極力職場には迷惑をかけたくないと思うことが多いです。

明日のことは明日考えよう・・・

ただ明日はお兄ちゃん達二人と私で頑張るのです。

「健康は最上の財産」

本当に誰かが健康を損なえば、その言葉が重く響きます。
(近寄ればうつるから、おかあさんに近寄れないけいくんの明日がちょっと気がかりです。)

語らい

 何度かお会いした方がお泊りで近くに来られていたので、語り合いました。といっても語り合うというよりかは、私がまあ一方的に話ばかりしているなんてことは無いと思いますよ。

少し前でしたら、人に会えば(おしつけがましく・かたよりがありすぎる)仏教の話ばかりしていました。昨日はそんなに出ていません。ここ(ブログ)と似たようなものなのかもしれません。

こうして落ち着いて考えれば、次に誰かと話をするのであれば、「(その方から)多くを聞こう。」そのように思っています。実際会って話になれば嬉しくて(こちらが)話してばかりなのは最近も変わっていない、いや前より少しは人の話を聞こうとしているところがあるかも・・・

人を見て私を見て、私を見て人を見ているようで私を見る。

ふふふ、どこまでも私が好きなようです(自慢できませんがね)。いずれにしても、人から話を聞くことが少ないですから、有難いことでした。

本当は晩8時に更新しています。待っている人なんていないとおもいますが、残業のためその時間に更新できませんでした。それもまたただの言い訳です。前日や朝早くに書けばいいのに怠けていただけです。

二日前(温故知新)の記事を書いていたとき、引用文の最初が「ねはん(涅槃)」という言葉からのスタート、少しこの「ねはん」という言葉を解説し、その後に「石上善応先生」の文を引用するという記事でした。「ねはん」を説明するための引用文を持ってくると別の記事になってしまうために、すこーんと色々なものを抜いてあの記事にしました。次がその「ねはん」を説明するために入れていた文です。


ニルヴァーナ
 インドの古代思想家達は、平安、安楽、安楽、幸福、不死、彼岸などを理想・目的に掲げ、それへの到達を解脱(モッカ・モークシャなど)と称した。釈尊においても同様であり、理想の境地をサンスクリット語でニルヴァーナ(パーリ語はニッパーナ)と呼び、また平安や解脱の語も用いる。おそらく右のパーリ語のニッパーナという語が、漢語の音写泥洹(ないおん)・涅槃(ねはん)に当たる。
 なおニルヴァーナの語とその用例はジャイナ教と共通する。
 ニルヴァーナの語根は「吹き消す」意のニル・ヴァー、また「覆いをとりさる」意のニル・ヴリといわれてきたが、確実な例証は知られていない。また右の後者から派生したニルヴリティ(パーリ語はニッブッティ)の語は仏典の最古層にすでにみえる。
 ニルヴァーナの語が固定すると、それにパリ(完全に、あまねくの意)という接頭辞を付した語もしばしば同義語として用いられ、とくに釈尊の入滅(死)はつねにパリニルヴァーナ(パリニッバーナ、漢訳は音写の般涅槃〈はつねはん〉)の語に限られ、この語には動詞形もある。
 ニルヴァーナは(煩悩)がすっかり消滅したありかたを示し、そこでは内も外も平安(サンティ、シャーンティ)であるところから、この両者を合わせて涅槃寂静と称し、これが三法印に加えられることはすでに述べた。
 釈尊は菩提樹下のさとりのおいて、このニルヴァーナを達成した。換言すれば、成道とはニルヴァーナの体得であり、それによってゴータマはブッダ(覚者)ないしムニ(聖者)となり、したがって、ニルヴァーナは釈尊また仏教のスタートであり同時にまたゴールでもあると評されよう。
「仏教入門」三枝 充悳著より抜粋



タイトルを決めて記事を書いているうちに、全く違うタイトルでないとあてはまらない記事になることがあります。

釈尊(ブッダ)が入滅されることを説かれた経典、『大般涅槃経』(マハ-パリニルヴァ-ナ・ス-トラ)が残されています。その他にも涅槃を冠する『涅槃経』はたくさんあるようです。

私や(私と)触れ合う方や現実に生きている全ての人に必ずおとずれることを言葉にすれば

「人(私やあなた)がこの世に生まれれば、必ず死ぬことになります。」

それは悟られた人(ブッダ)でも、人間であるかぎり同じことが訪れます。


愛する人もそうです。


恨み続ける人もいずれ(時間以上に長く感じるかもしれませんが)そうなります。


私もそうです。


両親や兄弟、我が子もいずれおとずれることです。


いずれおとずれるのなら、いっそのこと自分で自分をということを仏教では固く禁じています。自分が他人をということも固く禁じています。


いつかわからないけれども、かならずおとずれるそのとき、悔いなき生き方であるように

ブッダは『ものみな移ろい変わりゆく、怠りなくつとめよ』そのように説き続け、自らに死がおとずれるその時まで誰よりもその身にそのことを証しつづけただけのことです。

それこそが生きながらにして「永遠の平安」とよばれるものです。

仏教者はよく言うものです。

死を語ろうとしても、死ねば語ることができるものは誰も居ない。すばらしき死を望むのであれば、その反対を善くすれば問題が少なくなっていく。また語るとしても反対を語らねばならない。

死の反対とはなにか


「それは生である。」


よく死にたいのであれば、善く生きること。




仏教はわれわれの現実にある苦(生・老・病・死など)を見つめ、正しく生きる道を説く。

それが四諦八正道(したいはっしょうどう)となっている。

四諦(四聖諦)は苦・集・滅・道とあり、四諦の諦は諦めるではなく、あきらかにみることであり、実の如くあきらかにみることにある。

徹底した現実(に生きる自らの心)を見つめることにある。


八正道(八聖道とも八支正道)はその名のとおり、8つの正しい道(聖なる道)としてあらわされている。

なぜ実の如くに自らの心を知ることに徹底すれば、解脱涅槃にいたるのか

正しくみることができれば「正見」(しょうけん)となり、正しく見て考えれば「正思惟」(しょうしゆい)となり、正しく見ることによって出される言葉は「正語」(しょうご)となり、正しく見て考えることからでる行いは「正業」しょうごう」となり、正業が連続される生活が「正命」(しょうみょう)となり、正しくあろうとする努力が「正精進」(しょうしょうじん)となり、正しい気づかいや思慮「正念」(しょうねん)となり、正しく見て思い精神統一をその身に修すれば「正定」(しょうじょう)となる。




「はっ」





これだから仏教の話をだしては、(時間を決めずにあるだけ書こうとすれば)横にそれていくのです。




慎まねば

 暖かい日です。仕事も有難いことに忙しいです。

問題は常に相手にあるのではなく、こちらによくあることばかりです。「誰かと仕事をするのが苦手だ。」私が思う誰かと、私ではない人が思うこの誰かは違うことがあります。

こちらはその人が問題ないと言えても、あの人は問題だ。

向こうはあの人が問題ないと言えても、その人が問題だ。

このような現状、大人になり仕事で共に行う方の好き嫌いを言うことにより迷惑をかけている自分に改めて気づかされます。誰とでも仕事が問題なくできないと、いずれは私自身を誰もが避け、手伝ってくれる方はいなくなってしまう恐れもあります。

楽しくしなくても普通に仕事ができないと、忙しくなれば忙しくなるほど自分で自分をおいつめることになりそうです。

色んなことが時に難しいです。ただ内向きになりすぎないように、狭く暗くなりつづけていけば本当に自滅することがあります。思いを言葉にすることは大事、角が立たないような言葉を用いて自分の意見をさりげなく発散しなければ、内にたまりすぎれば自分も相手も怖いです。

どうしようもない頃の自分をよく思い出します。何かあれば誰かや何かを怨み、誰かや何かのせいにして、角のある言葉と態度しか出すことばかりだったことをおぼえています。

天に向かって唾を吐くことを繰り返している私が数多く出現、かえってくるものも自分がしたことなのに誰かのせいにしてまた最初から繰り返し・・・

気がつくまで誰かと何かが悪いとしか思っていません。そこに私は何故か入っていませんでした。

気がつくことにも何段階もあり、以前の私は愚かだった。またそれからその時の私も愚かだった。これは何度も続いていきます。おそらく生きている限り、愚かな私は出現し続けるのだろうと最近は思います。


自分こそが知らないことに気づきたい。

自分こそができていないということに気づきたい。

自分こそがわかっていないということに気づきたい。

(相手ではなく)自分がおかしいということに気がつきたい。


おしゃべりな私は、口を慎まなければ、後悔ばかり・・・

それでも皆には感謝しています。


温故知新

 先日地震がありました。徳島より離れた震源地でしたが割りと長い時間揺れていました。徳島は幸いにも被害はあまりでなかったようです。ただ徳島にも近いうちに南海トラフ巨大地震が来るといわれており、耐震化も少しずつ進められ、津波が来た時のために海岸部の方は助けあって、いざというときのために避難訓練が何度も行われています。
私は次男坊ですから土地も家もなく、持っているものといえば大事な家族ぐらいです。あとは借り物ばかりです。
それはともかく本題に戻ります。調べ物をしていましたら、東日本大震災のことが頭に浮かびました。
3月11日当日震災にあった人たちの体験談・現実は弱虫な私はテレビを見続けることができませんでした。

調べ物により思い出された過去のことを書かれた文章は次のようなものです。

 ねはんの境地
「尊師ナーガセーナよ、まだねはんを得ていないものが『ねはんは安楽である』ということを知ることができましょうか」
「王さま、その通り、まだねはんを得ていないものが『ねはんは安楽である』ということを知っております。
「尊師ナーガセーナよ、どうして、まだねはんを得たこともない者が、『ねはんは安楽である』ということを知っているのですか」
「王さま、あなたはこれをどうお考えになるでしょうか。手足をまだ断ち切られたことのない人が、『手足を断ち切ることは苦痛である』ということをしっておりましょうか。」
「尊師よ、いわれる通り、かれらは知っていることでしょう。」
「どうして、知っているのでしょうか。」
「尊師よ、手足を断ち切られた者の悲痛な叫び声を聞いて『手足を断ち切られたことは苦痛である』ということを知っているのです。」
「王さま、それと同じように、まだ得たことのない人でも、ねはんを体得した人々の声を聞いて『ねはんは安楽である』ということを知っております。
 自分が経験したことのない境地を知ろうとするとき、ただ、自分が経験したことがないからというだけで、あきらめる必要はない。経験するまではわからないのは当たりまえだといい張ることもあるまい。けれども人間は自然に経験したことのない境地を推し測る訓練を身につけてきた。だが、ときには自己を前に押し出すことのみを急になって、他人の気持ちを推し量る余裕を失ってしまうことすらある。どんな人でも一生の間には何度か、相手の気持ちになって、考えてやったことがあるはずである。人間の真実の智慧はそこに宿っている。これは単なる同情とは違う。同情には責任がないからでもある。相手の気持ちを自分の気持ちと重ね合わせて、つねに相手の行為の背後にあるものを汲みとる努力が大きな手がかりを与えてくれるであろう。
〈中略〉
 さて、わたしはこの〈ねはん〉の項を書きつつ、今朝広島に原爆が投下されて二十周年を迎えたことをテレビをとおして知った。言うに言われない感懐が胸中に去来する。「ねはんとは死滅か」というメナンドロス王の質問と、原爆のために死んで行った人の聞こえない声が錯綜する。原爆に会わなかったら、どうでもよいという性格のものではない。永遠な平和が必ずもたらされることを祈願している。実に多くの人の声がテレビを通して流れている。これこそ人類共通の叫びであろう。この叫びはナーガセーナが例としてあげた、手足が切断された苦痛の叫びとも交錯する。しかも、あの世における平安ではなく、この現実の世界にともされる永遠の平安のともしびが祈念されているのである。〈ねはん〉はまさに個人個人がたがいに追体験の境地から自然にほとばしり出てくる理想を祈念する叫びにつながっているものでなければならない。
 ねはんという言葉を近代の学者たちのなかでは「平和」と訳した例もあり、「永遠の平安」ともしたりしている。すぐにくずれさる平和ではなく、絶対的な平和の世界である。喜怒哀楽の感情の中でも絶対的平和境が達成できなければ、ブッダの教えは反古紙同然となることであろう
東の智慧西の智慧 弥蘭陀王問経 石上善応著より抜粋



仏教者は時に「代受苦」と短くあらわす文章かもしれません。




ただ(与えられた場所で)日々を一生懸命に過ごしていきたいです。


光と

 光り輝く言葉や文

読めば聞けば心奪われるほどの輝きを放つ言葉

光の中に包まれるかのような輝きの言葉

圧倒的な見解の高さ

光にふれ、その智慧を(自分なりに)理解する。

素晴らしい(ものにふれ理解した)からといって思い込みすぎてはいけない。



(思い込みすぎれば)自分だけが理解しているととられる思い込みの態度を放つ輩もいる。

(思い込みすぎれば)自分は理解しているから偉いそう思い込む態度を放つ輩もいる。

どうだろう。

人は大切なことに気がつけば、素直で謙虚になる。先程書いたこととは反対へ向かう。

有難いものをどのように受け取るか、その智慧に包まれて喜びに浸ることは一向に構わない。ただそれが現実自分自身の態度や行動にどう反映すれば身につくのか、私は書を読みながら、現実を見ながら悩む・・・

そのような(悩む)私を見て「簡単じゃないですか」という人もいる。その人には簡単なのだろう。私には難しい。



まばゆい智慧の光に目がくらんで自分自身を見失っては、その智慧をみない方がましだと周囲に思われることになる。

理解したから偉いなんてとれる言動がでていれば、恐ろしい。そのような自分に気がついていなければ(悪気がなければ)さらに恐ろしい。


本当の自分自身は素直であっていい。仮の自分自身であれば戒めが最も必要となる。

最優先で他人(まず身近な人からが基本中の基本となる)には謙虚で素直でなければ学ぶ意味もない。

自分が普段から発している何気ない言葉、自分の判断、自分の言動、自分の性格、周囲と自分の関係、よくよく見つめたい。


たゆまざる内省を怠ってはいけない。内省がなければ学ぶ意味はない。



身にあらわす

 何かをしなければいけないと思えば思うほどはかどらないことがあります。そんなときには何故か近くにあるものが気になったり、今しなくていいことが無性に終わらせなければいけないと思ったり、そのあたりにある本をどうしても読みたくなったり、今話さなくてもいいのに誰かに話しかけてしまったり、その現実から逃避しようとすることが多い私です。
もっとも自分でやらなければ成長もない、学びもない、誰もやってくれない、賢くもならない、努力ではなく怠ける私が出現してしまい、やらなければいけないことを誰かに催促されたとき、「何故肝心なあなた自身がやらなければいけないことをほっておき、他のことをやっていたのですか」それに対する答えはまあ・・・

字を綺麗に書かなかればいけない。

何事を学ぶにも基礎学力をつけることを怠ってはいけない。

目の前にある問題を自分自身で行わなければいけない。


やりだせば簡単なことばかりなのに、何故か気分転換という名の逃避へ走りやすい(私)。

「何をやっていたんですか(今まで)」

「・・・・」

近くにいるできた女性達を見れば、目の前にあることを一つずつ片付け続けています。片付ける時間が増え一日となり、その一日が七回になれば一週間となり、365日あれば一年となっています。すごく当たり前のことを書いています。一日一日できることを続ける女性達は根拠を作り続けています。時間の長さだけその身に根拠を有し続けています。その方達が言葉を発すれば重いものとなります。見えないのにその根拠をみることができれば、礼を失わず対処ができるように思います。感情的な言葉、自らの根拠がなく追い詰められて放つ言葉、言葉の種類はさまざまあります。自らの根拠が相手と比べてどうなのか実感しなければ、何事も難しいことばかりです。

「あなたは何をやっていたのですか」

言葉でなくても、態度でなくても、根拠を有することのできる時間をどれだけ持つために努力したか


(あの言葉は)その身に証したことを問われています。


戯言

 何を書くのか決まっていない。

それは毎日の私です。

仕事後、パソコン前にて正座し、膝の上に「けいくん」をちょこんとのせ、パソコンの画面を横に二分割にして、左側を文章入力画面、右側半分を「けいくん」の大好きなYOUTUBEで仮面ライダー鎧武などのグッズ動画をみせ、上のお兄ちゃん達には

「お父さんは今から、日課の文章を書くから、静かにして」

「はーい」

即座(しばらくもしないうち)に

「おかあさん、あれは」などの大きい声や、二人の遊んではしゃぐ声や、言い争う声や、すでに彼らは静かにすることを忘れています。というかうるさいです。成長した今年の誕生日で4歳になる「けいくん」のみ集中して仮面ライダー関係の動画を見ています。本当にいい子です。

「もうお兄ちゃん達静かにしてよね」

「はーい」

それでも書くことが全く浮かばないなんてことはよくある話です。

進まない文章とは裏腹に、子供達のはしゃぐことは加速していきます。彼らの宿題をするという意識はすでに遥か彼方にあるようです。

「うーん・・・・」

「どうしたの」

長男坊が悩む私に声をかけてきます。

「それがさ、子供達がうるさすぎて集中できないんだよね(全く何も浮かばないことを誰かのせいにしておきます)。」

「おとうさん毎日大変でしょう。もう書くことやめたらいいんじゃない。」

毎日静かにしてと言われたり、何も出てこない時に私が不機嫌で子供達にも影響がでることがあるから、長く続けているという建前をだして、再度

「もう書かなくていいんじゃないかな」

やめたほうがいいなんて言われたら、私は何故か「はいそうです」とは思わないです。何か(他愛もないこと)を書くのです。

きっと

「もっと必死にしっかり書け、そうでないと貴方は生きている意味もない。」

その方がやめるのかも

子供達も

「貴方達勉強しなさい」

会う人全員にきつく言われれば、嫌になってやらなくなるばかりでしょう。
(私もそうでしたと誰かを犠牲に言い逃れをして子供の頃勉強しなかった醜い言い訳をしておきます。)

最近の私の課題です。きつく言いすぎて何かを示すのではなく、自然に相手に物事の本質を学ぼうとする姿勢を持たせるには、なんてことを子供達と私を見ながら考えます。

答えが見つからない時

きつい(怒ったり・荷物を背負わせたり・追い詰める)のは私が担当、優しさ(荷物を背負ってあげて共に前に進み・いつくしみ・つつみこむような優しさ)は家内に担当してもらいます。

というか分業というより自然の流れでそうなっているなんて思います。ただ私だけの時は本当に考えさせられます。優しさと厳しさ、背負うと背負わせる、おおらかにすると追い詰める、この兼ね合いが難しいです。


あの子達に私の偏りやおしつけと変な厳しさを悪い見本として、自分自身といずれ出会うであろう我が子と伴侶への変なお手本としてもらいたいなんて思います。

悪いことは無くそうとしたり反対に変え、話にならなければ捨てて、大切なことを自分自身がしっかりと大切なことなんだと自覚してもらいたいです。


何が大切か、言葉ではあらわせない大切さをどこからでも学んで(本当の自分自身に出会って)欲しいです。


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