常日頃からいろいろなことを教えてくれる人がいます。現実問題で頭を悩まされたり答えがでないときにでも、お尋ねすれば大抵の問題は(短く)即答されます。その答えは妙に納得させられるものばかりです。

その答えが私や当人へ激しくきついものだとしても、その方が言えば納得しかありません。理由は簡単です。その方は常に考える前に動いています。いつだって皆の重荷を自分が背負って前へいこうとしています。背負って物事が解決してから、一言放ちます。「貴方たちいい加減にしなさい」そのような言葉と態度ですから背負ってもらった人全員返す言葉がないです。ただそれはその人の常であり、自然体です。

だから解決しないことでこちらが四苦八苦していれば、よく声をかけてくれます。私はその人と自分をよく比べます。

動きの速さ、困っている目前の人を慈しむこと、重荷を重荷と思わず常に背負って前に行く姿勢、どれもが考える前に身体が自然に動いています。誰よりも早く誰よりも動いています。大事なことも即座に判断できています。汚れに染まらないような潔癖性を維持しています。先程あげたその方の特性の一つ一つ、どれもが比べようがありませんし、勝負にならないです。

「あの方と違って私は」そう反省することは多いです。反省だけで行動にでていなければ、短い戒めの言葉や態度がとんできます。
あの方とはあたりまえなのですが本当に違います。

私は好きあらばただ変わったことを考えたり、自分がいる場所のことをあれこれと楽しんだりすることが大好きです。

周囲が言葉には出さないけれども安心できないこと、「何故あんなことを言うのか(そんな行動をしてしまうのか)」なんて態度・雰囲気・言葉がでることは好きではなく、皆が普通にいれるように(安心して)もらえるようになるには、何なのかわからない時はよく尋ねます。その答えの一つに

 「それはわかるところだけ反発して、いつもわからないところは聞き流している。めんどうだとか自分に都合が悪いと思えるところも聞き流している。」

(私なりに)解釈すれば

周囲が折角足らないところを指摘してくれているのに、自分のくだらないものを捨てきれず、周囲が出すその人の現状をあらわす言葉と態度、「痛い言葉と態度」を感謝や忠告と受け取らず、相手に対して怒りと怨みを抱いたり、毛嫌いしたり、近寄らなくなったり、コミュニュケーションを努めなくてもいいのに努めて避けたり、結果現状は改善どころかますます安心の反対へと向かってしまう皮肉な現状となっていく。

他にも

「大事なことが全くわかっていない。(けれどもその人自身はわかっとると思っとるばかり)」

自分では気がついているなんて錯覚しているから、自覚していないがために正しくしなければいけないとも思わない。相手の方が間違っていると思い込んでいたり、世の中わかっていることは少ないのに、どうしてわかっていると思い込んでいるのだろう。

「そんな簡単な(最初の)ことばかり力説しなくていいのに」

世間の人は苦労辛抱努力をもって先へ進んでいる。先を知りたいのに手前ばかりに終始している。

「わかっていないと人のことを言う本人が全くわかっていない。」

解説もいらないです・・・

「普段の言葉を聞いていたら(その人の素晴らしいかどうかが)わかる。」

普段足りていないからいけていない。普段から素晴らしいから問題ない。そのどちらだとしてもこちらは行うことは決まっております。ただ自分自身がわかることは本当に一番大事です。


ただ(いろいろなことが)日々有難いです。



職場の裏に梅が植えてあります。二月上旬からつぼみも大きくなり一輪ずつ咲き始めていました。厳しい寒さの中にも春の到来を感じさせてくれます。私の上司は

「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」(服部嵐雪?)よくこの時期になればそう口にしています。


本当にそう思います





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私見(長い仏教の記事)

 私達の身近に存在している。仏教とはどのようなものか、どのようなスタートであったのだろう。
仏教の最初期に突出し強調される智慧とは、その教えとは、道とは、どのようなものなのか。


インドの思想家たちは、よく次のような例話をもって「智慧の道」を語る。人間はいうなれば人生の旅人である。時には、あらぬ方にさまようて、その行くべき道を見失うこともあるであろう。それはちょうど、眼かくしをされて曠野のまん中にすておかれた姿に似ている。そのような時には、いったい、どうすればよいか。人によっては、ただ声をあげて号泣するのみのものもあるであろう。あるいは、あたかも狂えるごとくにただ馳駆するものもあるであろう。あるいはまた、ひたすらに神々に祈って救われんことを願うものもあるかも知れない。だが、それらが果たして懸命な方法であろうか。わたしどもは、むしろ、まず静かに眼かくしを取りのぞきたい。それから、心を平らかにして自己のいま置かれているところを見定めたい。さらに、冷静に観察してわが行くべき方を見定めたい。かくして、行くべき方向が見定められたならば、もはや迷う心もなく、全力をつくしてその道を踏破すべきである。と彼らは、そのように語って、「智慧の道」のすぐれていることを説くのが常であった。そして仏教すなわちブッダ・ゴーダマの説いた道は、まさにそのような性格の道であった。それは、開眼、発智、そして寂静涅槃にいたる道であった。眼をひらき、智慧をおこし、それによって正道をあるき、ついに自由の境地にいたるのである。(根本仏教と大乗仏教 増谷文雄)




ここにあるように仏の道(仏教)と仏(ほとけ)とは遠く離れた神や仏を拝むのではない。「それ仏法は遥かに非ず、心中にして即ち近し」(弘法大師)としてあらわされ、「仏教に不思議なし」と言われ続けていることを端的にあらわし「神の宗教」ではなく、「人間の宗教」とも言われる。また


 ブッダ自身が出家して、真理をさとり「覚者」として多くの人々を強化していったかれの宗教生活は、かれが仏弟子たちにすすめた生活となんら異なるものではなかった。いま最初期仏教時代における出家修行者の在り方の特色を三点にまとめると、それらはいずれも、ブッダ自身の出家者としてのすがたを示すものである。
 出家修行者は第一に遠離せる臥坐所の生活をする。すでに述べた頭陀行の実践にとってもっとも適した環境にほかならない。第二に、正しく遍歴する修行者の生活をすべきである。これは当時の一般の宗教修行者と区別する立場を意味する。第三にそれだからこそ、仏教の出家修行者はきわだって身心の修養につとめる修行者でなければならない。
 ブッダを大師と仰ぎ、かれの人格と生活のすべてに傾倒して修行していった仏弟子は、どれほど修行が苦しくても、ブッダが体験した実証したという実践において、ブッダと直結していた。同一の実践をなすという自覚と励みが、かれらの修行生活の大いなる支えであった。したがって、かれらにとって一番知りたいことは「どのようにして、ブッダ自身が出家され、また、いかにして目ざめた人となったか」ということであった。ブッダが八十歳で入滅するとき、老年の弟子スバッダに告白したという「わたしは、二十九歳で、善を求めて出家した」ということばや、「四十余年間、善を求めつづけた」という言葉を知るとき、これまで、おそらく多くの仏弟子たちには高次の意味をもつ出家動機は語られていなかったかもしれない。「善を求めつづけた」というブッダ最後の言葉は、仏弟子への説法・教化とかれの実践生活の根底にあったところの理念とみてよいであろう。つまり「善とは何か」の追求のすべてが、ブッダ八万四千の法門であり、実践修行の内容であったのである。
 それゆえに求めてやまない実践の人、ブッダであったればこそ、仏弟子にたいして、ブッダは「怠ることなかれ、つとめ励めよ」の遺誡を与えたのである。自ら実践しないで、どうして他のものに実践せよと教えることができるであろうか。ブッダ四十五年の説法は、かれ自身の不放逸にして精励する態度によって貫かれていた。かれは時あるごとに精励をといた。―
「起てよ、座れ。眠って、なんじらになんの利益があろうか」
「わずかの光陰を、空しく過ごすことなかれ」
また、愛執を制するために「つねに心して学べ」といい、修行者の戒律規定や精神安定法を説いたあとでも、つぎのように不断の反覆学習をすすめている―
「修行者はこの理法を知って、よく弁えて、つねに心して学べ。もろもろの煩悩の消滅した状態が『安らぎ』であると知って、ゴーダマ・ブッダの教えにおいて、怠ってはいけない」
 すでにふれたごとく、仏弟子の実践修習(しゅじゅう)の根拠は、ブッダを大師と仰ぐことのなかに求められていた。しかもまた、ブッダ自身、このことを仏弟子に教えたのである。真理の実践と証得をめぐって、師弟間の宗教生活が尊くもかつなごやかに展開することは、人間生活の究極といえよう。師としてのブッダの自覚は、古跡の道である真理をさとったところに在る。えて勝手な発明ではない。真理をさとり、真理に生きる者と自覚すればこそ、万人が真理の実践の生活になぜ入らないかと、大いなる悲願を抱く。それが覚者となったゴーダマ・ブッダの本心である。ブッダは、こうすすめる。―
「他人から伝え聞いたのではなく、みずから証する理法を見た。それゆえに、かの尊き師ブッダの教えにおいて、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ(人間の願い 無量寿経 早島鏡正より抜粋)




初期仏教は出家せねば悟りにいたることができない。何一つ所有物を持たず(無一物)、糞掃衣(汚い墓場から拾いあわせて作った衣)のみ身にまとい、ブッダが歩んだ道を厳格に歩みつづけた。

ある時期に、出家者だけが救われる教えではない。在家者とて悟りに至ることができる思想が必然とおこる。出家者だけが悟りに至るという小さな道から、出家者も在家(普通に生活する人間も)共に悟りへと向かう大乗仏教へと発展、さまざまなものを取り込んだことにより、仏教は一躍世界の宗教へ移る。

ブッダが説いた智慧の道をたどることだけが、悟りの道ではなく、万人を救いつづける慈悲行に徹底することにより出家在家を問わず、阿羅漢に変わりほとけの前身として修行を続ける菩薩(ボーディサットヴァ)が出現する。

菩提心を持つ(慈悲の心を持ち、智慧や徳行の光を身にまとい、自身は悟ることを放棄してでも他を悟りに至らしめようと願うことを身にもち)、およそインドから北伝した仏教は大乗の心を持つものへと時代により移り変わり、日本へと伝来する。

思想・哲学・音楽・仏像・芸術・文化を雑多に取り込み、全てを寛容融和にとりこみながら仏教は展開し、生き続けている。現在でも様々な宗派が存在し「あの宗派は仏教ではない。」と言い合うこともなく。互いに共存している。ブッダは覚ってから、人を見て法を説き続けた。つまりは人間の数だけ法(真理またはお経)の数が存在することとなった。現在宗派が多岐にわたることの発端もそこにある。

これからも仏教が仏教であるなら、その時代・人により、仏教は新しく現在を生き続ける人にあわせて新しく発展し続けていくもの。

ただ木の幹の芯のような、初期仏教から大乗仏教へこれから先の仏教へ変わったとしても、芯は変わることがなく時代・国境・人間を貫いていくことは間違いない。

現在日本に伝わる大乗仏教は仏説と冠したお経を読誦し研鑽をつんでいる。釈迦直説、金口の説法とよばれるものは、部派仏教へと変遷することにより金口から大乗に変われば、深い叡智、豊かな信仰、強靭な実践力をもった宗教的見地の高い僧侶が釈迦の説いた言葉を踏まえ法を説いた。聞くものふれるものは「その言葉はブッダと同じだ。」所謂、大乗諸仏の説かれた教え、それが膨大な大乗経典を生みつづけた。常に釈迦を見、釈迦を礼拝し、釈迦とともに有りたいと願い信じつづける言葉ともとれるだろう。(この釈迦は真理・法と変えても何ら差し支えがない。)

「この世は苦である。」と言い切ったブッダ(釈尊は釈迦牟尼世尊の略とも釈迦族の尊者とも諸説ある)

そこからその諸問題を解決するために、つまりは解脱・涅槃へいたる道を説く

「苦の超克」

苦とは不如意(意の如くならざる)であり、世界(苦の中)に生きるわれわれはどのようにその苦とむきあって生き、死んでいくのか。苦をどのように捉えるのか。


煩悩を滅し尽くすことではない、苦を滅すことでもない、今自身に振りかかる苦や煩悩そのままを自身の成長によって乗り越えていくことこそが「苦の超克」となる。

今まで苦しいことや自らの身と心が生み出す煩悩そのままを、辛抱・苦労・努力・精進・優しさによる助けによって、以前は死んでしまうかもしれないほどの苦しみが今はそれほどでもない。それこそが苦しみ・怨み・妬み・そねみ・いかり・貪りの中にあってそれに染まることのない自分自身。煩悩を滅すのではなく、乗り越える。それによってのみ「煩悩即菩提」煩悩=菩提(その人の現状の段階にあった悟り)が成立する。

現状の悟りは努力精進を続けている限り、自身と世に向けて出現する。

ただ自身の獲得した真理の高さと空の高さ・宇宙の高さとはどちらが高いか、その人にその問が向けられる。答えはその人が決める。高さの限界をきめてしまえばその人の限界や真理の高さもそれまでとなる。決めつけすぎれば高さどころか真理の欠片すら消失することもある。けれども追い求めた姿勢が一度でもあれば、追い求める人や者が眼前に来ればはっきりと過去の自分を思い出す。それを縁としてまた追い求めるか過去のものとするかはその人に任せられている。
「理解していた人」「理解しようと努める人」「理解できない人」の違いはその辺りではないだろうかと考えることがある。

いずれにしても(上記以外の)人であっても、全ての人に(仏の)道は存在している。

自分が存在する場所において、自らが歩むべき道を見すえ踏破しようとしなければ大切なものは見えるはずがない。いや大切なものだけでなく自分すらみることができない。


心とはなんであろうか

我の心とは、我に属し、我が心をよく調え、我こそが主であり心を従わせなければいけないと釈迦は説く。ここにおいて、我は「無我の大我」へ近づいていく

人間が小さい、器が大きいなどは、大きい我を望むわれわれの切なる願いであろう。小さき私も大きい我や無私の私を願ってしまう。

妙なる智慧のまばゆい光や道に憧れ、限りなき大きさの我に憧れ、光はときに包まれている方照らされる方見える方には救いともなる。

わからないことを足りないことを求め続け、皮肉にも求めれば求めるほどわからないこと足りないことは加速して増えていく、人はそれでも(それぞれ)何かを求め続ける。

だからこそ限りなき歩みを続けるものとなる。歩みを止めてはいけない。人生の終局まで貫かなければいけない。

それが「生」ではなく、「生きる」という意味となる。



仏教は限りなき大きさ、寛容融和の言葉を必要としないほど寛容融和であり、長く広く高く大きく深いものであるがゆえに(私には)見難いことが多い。


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依頼

 ご縁あって三回目の話のご依頼をいただきました。
今までの依頼の状況から推測するに大体一年おきくらいに声をかけてくれています。ただ最初から疑問があります。

「私の何が良くて声をかけたのだろうか」

人前に出れば普段ならよくしゃべる口なのですが、そういう時は慎んでいますから聞けないのです。(ちっとも自慢にならないですけど)ですから勝手に推測するしかありません。

家内と私の関係が楽しそうでよかったのか(他にあまり例をみないあたりとか)

仏教好きなところがよかったのか

知的で聡明なところがよかったのか(マテマテ)

はてさて容姿端麗なのがよかったのか
(ツッコミのコメントは只今受け付けていません。)

考えすぎて動かない時が多いことがよかったのか

大抵器用なのに肝心な時には不器用なのがよかったのか

そのあたりは当人でないとわからないことですが気になるところなのです。

一回目は確か、「家内と私と仏教」というタイトルだったように思います。

二回目は確か、「(その時の私が思っている)仏教」だったような感じです。

三回目はタイトルをなんとつけましょうか(一回目と二回目をバランスよく足した感じです。)


第一回目はとにかく必死で一時間終わってみれば、皆に(主催者の人にも)大変喜んでいただいたことを覚えています。必死な人は時折まぐれあたりがあるもんです。(最初にそれとは・・・)

第二回目は一回目と趣向を変え、仏教一色でいきましたが、どうやら硬すぎてこけました。唯一慰めの言葉として「終始一貫して格調高い仏教の香りがした。弥勒さんの話は面白かったよ。」まあそんなとこです。(まぐれは二度続かないようです。)

第三回目今回は私としては好感触はありました。一時間ほど話をして終わりましたら、主催の方に「もっと話してくれてよかったのに」と悪くないことを言われましたから、まあ大失敗ではないのでしょう。(当たりでも普通でもないの半々だったのでしょうか・・・)

私はそのへんによくいそうな無名の人です。普段あまり大勢の人前で話はしないです。ただここには思ったことを書き連ねています。

書き続けて今日が499記事目になるでしょうか、あらためてここの記事をざっとみわたせば、私は「私」という言葉を乱発していることに今更ながら気がつきました。

家内が私を見てよく「本当にあなたは自分のことが大好きなんだから」と言う意味がわかってきました。

私は隙あらば私を好きなようです。私が好きなものを触れ合う人へ好きでいてもらいたいなんて気づけば口にしたり、文にしたり、態度にしているようです。

私がありすぎる私というのが、私の多くを占めていそうです。

久しく仏教関係という記事を書かないようにしていました。私から仏教をとって日々のブログをあらわしてみようと試みていましたがそれはあらためて難しいことだと気がつきました。私という言葉を書き続けるように、(私が思い考え信じる)仏教も隙あらば(隙がなくても)出てきています。

「偏りがありすぎる」と言われる所以もここにありそうです。「おしつけがましい」部分もここにあるようです。ただそれが好きだなんて言う人もそんなところにあるのかもしれません(もっともそんな人は少ないんですが稀におられます)。


いずれ私から私と仏教がなくなるくらいな、思慮・言葉・態度・文章であればと願います。


私-(仏教+私)= 答


図式化すればこうです。



その答えは何になるのだろうか

(色々試していきたいです)




慎めない

「何故にあの人は私のことを悪く人に言うのか、信じれない。」

そんなことをよく言い続ける人を見かけることがあります。

ただ初めて「(私のことを悪く言う人のことが)信じれない」という人に出会えば、こちらはその人が言うように何故に悪くいうのだろうかと、悪く言われて怒っている人を信じてしまうこともある。


悪く言う人が果たして悪く言っているのか

事実を言っているだけなのか(事実を言えばその人が悪くしかならないと言っているのか)

悪気があって気に入らないからその人を貶めようとして言っているだけなのか

そのどれでもないのか


貶めようとして言い続けたり、悪気しかない場合はまあ私は何も言いません。(何も言えませんなのか、何を言ったらいいのか、何なのか)

たまに誰かのことを悪く言っているのではなく、その人がなしたありのままの現実(隠したくても隠せないほどひどい現実)を言えば、たまたまその人が悪く言われているように聞こえる。それは悪く言われる方が「私は悪気はない(確信犯だとしても)」そう自分にも他人にも言い聞かせ続け、自分のなした悪いことを悪いことと認めることもなく、ただ冒頭の言葉「何故にあの人は私のことを悪く人に言うのか、信じれない。」と言い続ける。挙句は自分の悪いことを誰かいなくなった(辞めたり亡くなったりしたいない)人のせいにして自分を守る。
けれども、善いことは私のおかげ、私がしたから、私がそうするように教えたから、私へ感謝しなさい。

少しずつ自分がしてきたことやしていること、現実の自分が見えてくれば解決すると思うことがある。

その時その時に目前に存在する方にその方法を理解する方法はどんなものだろうかと悩むこともある。

自分ができていないのに、人のことを心配している場合ではないだろうと思うこともある。

ただ悪いのに悪くないと言いはっている人を見れば、何とかしたいと思うことは多い。正したいとか治したいとかやりこめたいとかではなく、見て聞いても心地よいそのような状態を望んでいる。

世の中には強者がいて、どれだけしてみせようと都合の悪いことは受け取らない人もたまには見かける。

安易な方法で自分が善い人だとアピールし続ける人もいる。


いつものことなんだけれども、私自身もそういうところはあるのだから、慎みや戒めが必要となる。悪いことを行い続ける人も私に教えてくれているのだろうが、そのような慎みと戒めが多すぎればそれは本当に慎んでもらいたいと思うことがあるのです。


はいしゃ(続)

 気がつけば月日が立つのは早くもう2月も終わりそうです。

昨年末に はいしゃ という記事を書きました。

タイトル通り、その続となります。

ずっとこのブログを読まれているマニアックな方で記憶力が相当良い奇特な方なら、ああそんなのあったあった。最近ここを知った方なら読んだことはないでしょう。
ですので過去の記事へ飛ぶようにリンクを最初に載せ、続きは、追記へ載せておきます。

(何故そんなまどろっこしいことをするのか、カテゴリがオヤジの場合は茶目っ気も普段より増量中です。)

続きを読む »

下げる

 人生の先輩方と話になれば、事実は小説よりも奇なりと思える嘘のようで実際の話しは多いです。

驚くことも多いです。ただ私が気づかない色々なことを教えてくれるものです。


長い期間汗水垂らして、ノルマも課せられそれを達したとしても何もない。働いているのにそれはないだろうなんて思う人も沢山いる。しんどくても給料が増えたりそれなりに出ているならば納得いくことは多い。ただ出ていない場合はそれに見かねて代弁する人も出てくる。代弁する人がいなければ辛抱・苦労・実績・信用を伴った本人が言うしか無い。私はできればお金の話はしたくない。私のような人もいるだろうし、お金の話し合いが得意な人もいるだろう。

発言によって給料が以前より増える。

「(あまり出したくないけれど、仕方ない出してやるか)はい、給料です。」

「有難う御座います」

ただ言われすぎたり問題になるのが嫌だから皆に言われるまま(ふてぶてしい態度で)出すだけなら、時には誰かが更に進言することだってある。

「(あなたは大切なことがわかっていない。給料をもらってお礼を言っているのは)貴方にあの方たちは頭を下げているのではない。

お金に頭を下げているだけだ。」

事実が一番きつい。

ただ現実を生きていくためには、相手が理解していようが理解していまいが給料がしっかりでてくれば感謝しかない。本当はその人に給料をいただいているから、礼を失わずその人に感謝を伝えたい。ただ納得・理解もしておらず、評価ではなく世間体のために渋々出すのなら、その人にではなくしょうがなくお金に頭を下げているということがある。

理想を追い求めすぎれば、生きていくことも難しいことが増えるかもしれない。どこかで折り合いをつけなければいけないと悩む。

一人ではなく、二人以上で働くとなれば相手のことを理解しようという姿勢がなければ、理解し合えることも話し合いにも評価してもらえることもない。

よく近くの人が私へ教えてくれる。

「地位名誉肩書、つまりは部下や従業員を持つひとであれば、人の痛みがわかる人でなければいけない。」


人の痛みがわかるにはどうしたらなれるか


「くだらないものはすぐ捨てなさい(捨てないことによりものごとが円滑にすすめない。捨てなければ大切なことを理解できない。相手を正しく見れない聞けない・・・)」


私は部下や従業員を持つような人ではないから、少し他人事にして聞いていることがある。


実際には人と人の関係のあり方だから、何回聞いても気をつけなければいけないと思う。


その人に頭を下げている(感謝している)。

お金に頭を下げている(感謝している)。



これは別の使い方もあることを教えてくれた。

よくあの人を見てなさい。一生懸命普段から支えてくれていても関係ない。よく見ていれば、あの人はお金をくれそうな人にだけ頭を下げている。お金をくれそうにない人は頭を下げるどころか相手にしない。


その人はお金に頭を下げている。





私は何に頭を下げているのだろう





また大切なことを教えてもらいたい。


憎まず

「罪を憎んで人を憎まず」その言葉、小さい頃からよく聞きました。
おじいちゃん子で育った私、おじいさんが見る時代劇を一緒によく見ていました。大岡越前・遠山の金さん・水戸黄門はその代表作だろうなんて思います。
時代劇ではなくても、「罪を憎んで・・・」の言葉はやっぱり耳にすることがあります。

周辺又は目前でも善いことをしてくれれば、見聞きし結果を見ても心地よいです。

周辺又は目前でも善きことにあらず(不善)をしてくれれば、見聞きしても結果を見ても心地よくないです。

善と悪の概念は、「善きこと」と「善きことにあらず(不善)」つまりは「善きことは善」と善きこと以外は悪と簡単にあらわされ、先程の説明で二つにわけているままです。


罪を憎んで人を憎まず。その言葉私は子供の頃から意味がよくわかりませんでした。

「何故罪を憎んその人を憎まないのか」

「それっておかしいんじゃないかな」それが幼少の頃からの頭の中です。最近では以前より少しだけ意味がなんとなく意味がわかるような気がします。

悪いことを言ったり、考えれば心はすさむものです。こういうときは恒例の反対から考えれば割と楽しくなります。

「善いことを喜んで(愛し)、(その)人を喜ばず(愛せず)」

これなら反対に置き換えられたはずです。善いことを誰かが成せばその成したことは喜ばれます。その時善いことを出現させた本人にその行為はいつか全て還ることになります。

「その人は二六時中、善いことを成し続けているのか」

「一つの善いこと、その人の全てを善いとみなせるか」

全て善しと取れる行為や発言しか出ない。聖人君子・覚者・仏陀などのように悟れる方だけだろうと考えたりします。
全てでなくてもほんの少しだとしても、善いことを出される方は好まれやすく、素晴らしく、望まれ、距離を近くしたいと願われ、できれば私自身や近くの方も皆もそうありたい。

一つのよいことだけで全てを決めつけることは早計なことがあります。

わかり易い例として、過去から不善を何度も出現させてきた誰か(私)、まれに善いこと瞬間的だとしても行うことがあります。

善いことが多ければ善人へと近づき、不善が多ければ悪人へと近づく。そのバランスは人の数だけバリエーションがあるのかもしれません。

相手を信じることは素晴らしいことです。

相手を許すことは素晴らしいことです。


ただ善いことの功績が本人へ還るのならば、不善だってその報いは本人へ還ることになります。

善きことも不善も報いは本人へたとえ望んでいなくても気づいていても気づいていなくても属することは世の常です。

ほんの小さな不善をなして怨んだり憎んだり決めつけすぎること、過去未来現在と善いことしかなしていない。不善しかなすことがない。

善か不善のどちらかへ完全に属しているなどとみなしてしまう(私への)戒めの言葉です。


「罪を憎んで人を憎まず」


不善の報いが私へ還ることは恐ろしいことです・・・

自らの成したことの報いは自らが受け取らねば、身代わりを差し出しその場を取り繕っても、逃げ続けても、不善がふえるだけのことは多いです。

私自身が善人ではないから、できれば憎まないで欲しい。できれば好きになってもらいたい。善いことをしなければいけないと常には思えません。けれども善いことではないにしても、それに近いことの報いを受けたいと気がつけば願っています。

「人(私や貴方)を憎まず」本当に色々考えさせられます。


つめる

 「早くつめて」

急いでいる時に荷物を載せて欲しい。


 「つめたほうがいい」

誰かの頭が幸せだから、早くその頭の中に・・・(私は怠らず努めなければいけない)


 「しっかりと考え、つめこまなければいけない」

そのビニール袋にみかん入れ放題でひと袋300円なのだから


「(悪いことを続ける)あなたそれは法律(世間)でとおらないだろう。(今目前の人をおいつめる)」

そんなことは言われなくてもわかっている。(わかってしているのだから好きにします)そのように即座に大音声をもって、返ってくれば、つめたのかつめられたのか

「結末はみえている」

そんなことも生きていればあるだろう。


「窮鼠猫を噛む」


追い詰めれば、小さいものとて大きいものに立ち向かう。命すらなくなると決まれば前へでるしかない。


追い詰めたのではなく、追い詰められる。


相手(と自分)を正しく見つめたい。自分の品性や世間体や大切なことすら捨てている人だっているのだから、それが見抜けなければ痛い思いをすることだってありうる。相手が小さくてもありうるのだから、見誤り大きければこちらはどうなるというのだろう。



ビニールもつめすぎれば、破れることもある。(つめすぎて商品が痛むことだってあるのだから)


彼(彼女)の欲をみつめたい。


私の欲をみつめたい。



ビニールの強度も明らかに見なければいけない。




こうして彼(人)はひとつの大切なもの(真理の微片)を得ていく。



遠ざかる

ある人と話をする。話が求めるもの、素晴らしい答えに近づくことへ誘ってくれる人であれば私は論争と対立から離れ、大いなるものへ近づいていくように思えてしまう。

ある人と話をする。話が求めることから遠ざかる場所へ隙あらばもっていこうとする。論争と対立に終始してしまう。求める手前のことばかり話をされたり、素晴らしいことから遠いとこちらに判断させる答えや言葉をもってこられる。

そのような現状の私だから、日々感謝する人に偏りも発生しており前者の傾向がことさら強い。

相手も同様なのだろう。対立すればその相手を忌み嫌う方向にいく人も多いだろうなんて思うことがある。嫌いになる人へ頭を下げることは難しくなっていくだろう、距離を近ずけることも難しくなるだろう。話すら聞かなくなっていくことだってあるだろう。だからといって相手に迎合し続ければ、何かどころか全く違うことになっていく。
日々の生活には、現実があって、現実には問題が多い。どれもが「それは全て問題ではない」と断定できないために、私自身問題ばかりになっている。

目前の人と話したくらいで自分を見失いそうな自分はそんなに見たくない。目前の問題の出現により自分を見失う自分も見たくない。

「見たくない」という言葉も少しピッタリ来ない。努力をしなかった自分を見たことによる後悔する自分に出会う。「私は仕方がない」と言い切れないとしっかり言い切れない自分はそんなに見たくない。その省略だろうか・・・


誰かと話をしたところで現実を取り巻く自然や社会や周囲の人に変化はない。


変化があるとすれば、話を聞いて変わったと思う場所だろう。


話を聞くことを大雑把に二つにわけてみる。

一つは自分が呪われた存在に思えたり、何かを嫌いに思いすぎたり、不幸に思えたり、前に一歩も進めないように思えたり、自分が何をしているのかどうしたらいいのかと思えたり、何処にいるのかさえわからなかったり、暗闇の中にいるように思えたり、などに近い思い。

一つは、自分や皆を以前より好きになれそうに思えたり、現状は何も変わらないのに苦しみが苦しみでないと思えたり、自分の道を安心して進めるとおもえたり、「私はここにいる」そう自然体で世界へ発することが出来たり、世界からの光か自らの発する光か誰かに照らされる光か智慧による光の中にいると思えたり、自分も何かを成したいと思えたり、などに近い。

理想は後者のような話や態度が出現できればなんて、また身の程を知らずに思う欲張りな私を見る。

現実として前者の話が多い。ただそれも相手の受け方一つで問題も無くなる。つまりは相手が私より素晴らしいことが前提となる。


理想は高く


現実は厳しく


生きていくことは時に難しいことに思えてしょうがない。


ただ



生きていく(前にすすむ)ことが、楽しくてしょうがないことにも出会う。



何(何処)に視野をおいているか、何をみているか、何をしているか、何をしたいのか、何に(私は)なりたいのか



考える(行動する)ことが楽しい。



悪い時ばかりでなくそんな時もある。



会話

 私は有難いことに現在も仕事をしている。自分が望んだことにより結婚して、自分が望んだことにより有難く子供が出来、自分と家族を養うためには仕事をしなければいけない。私の場合はそうだけれども、結婚をしなくても大人になり生活を自分で支えていくためならば、やはりよほどのことがないかぎり、仕事は避けて通ることができないだろう。

「仕事をする方をどのように評価するか」

学生であれば励ましや慰めの言葉や態度のみでその人を評価できる。

大人(社会)になれば(仕事をする人に)なれば、確かに励ましと慰めの言葉で自分が評価されていることを実感できるだろう。ただそれだけではお腹は膨れないということもある。同職種で相手が高い賃金で是非来て欲しいということがあれば、変わる人もいる。逆にいうと変われるのに変わらない人だっている。自分が縁あってたどり着いた職場が好きだから、ここで頑張ろうという人も多いだろう。職場の代わりがなく来て欲しいとも言われにくい職場であれば、大切な話をすることも甚だ困難となる。わがままを言うと取られれば職場に場所がなくなるかもしれない。従業員の分際で偉そうにものを言ってと取られれば良いことなんて何一つない。こんなことなら言わなければ良かったなんて人も多いだろう。

ただ「お金でその人を評価すること」ごまかしたり目先を変える意味ではなく、正当にその人を理解(評価)することが、金額として出てくるだけ、この理解と判断が世間でも時折非常に難しいことになる。

双方の意見には必ず全ては一致せず、それぞれ言い分(主張)がある。

話し合いができればまだいい。話をする場すら作る気がない。普段から嫌なことは聞く気がない、それなのに自分らのことは全部聞いて欲しいなんてこともよくある。何が困ったことかの話し合いができない。

聞くがわ(上層や経営者達)はどうでもいいことで困っている。そっちが本当に困っていてもこちらだって困っているから仕方がない。

いちいち従業員の言うことを聞いていたら癖になるから聞かない。

代わりはいくらでもいるから、表面上は聞く気でいるようにするけれども肝心な時には知りません。

もっともっと様々なことがあるだろう。


会社などの経営者や上層の人たちに「近くにいる人をきちんと理解しようとしているか。(話を聞くしせいがあるか、どのような形であれ困ったときには頼りになろうとしているか(安心できる存在になろうとしているか)。」がなければ会話(理解し合う有意義な時間)は成立しない。




現実は難しい。




私の存在する場所で、できることを続けていきたい。
(話すことによって身を滅ぼすことが多かった私、多く言葉を用いなくても善くなるようにしていきたい。)


言えない

 わからないことが多いことを私自身が気づいていない態度が少しでも出ていれば、愚かな私の一面が出現しています。
現実問題は絶えず出現しその解決方法はその問題の目前にある人へ委ねられます。

人が違えば解決方法も異なる。同じ結果であろうとも過程は違うことがあります。


「妙好人」(みょうこうにん) 特に浄土真宗で篤信の信者をいう(広辞苑)

「観音様」(かんのんさま) 観世音の異称。(広辞苑)一つの訳に音(声)を広く観るもの、略して観音。

「天使」(てんし) 神の使者として派遣され、、神意を人間に伝え、人間を守護するもの(広辞苑) 

「神様」(かみさま) 人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。(広辞苑)

「仏様」(ほとけさま) 悟りを得た者。仏陀(ブッダ)




これらのある一面のみを総称し、わかりやすく身近に持ってきて

「優しい方」

自分を出来うる限り無くし、目前の人達に優しく接する(代わりに重荷を背負われる)方と(私は)解釈しています


自分で自分のことを「優しい方」と呼ぶ人たちは特徴が(何個か)あります。その一つに自分の中にあるくだらないものは捨てないから、あなたたちが(あなたの意見などが正しいとしてもこちらの意にそぐわないものだから)今捨てなさい。「悪すぎるから聞くに値しない(時間の関係上)」とは全く違うことです。

これはこれ、聖人君子から私のような愚か者に至るまでそれは適用しても問題がないように思います。

相手に全て捨てなさいと断言できる根拠を(発言する)本人が有していれば、過去の信を全て捨てても問題はありません。はたして聖人君子のような人が沢山存在するのか、真摯に自分に問えば大抵解決するはずです。

「私は観音様だから(安心しなさい)」

誰の目から見てもできた方(安心できる根拠を有する方)が言う。嘘とはなりえない。


「私は観音様だから(できれば安心してほしい)」

誰の目から見ても、自分で自分を見ても私は観音様ではないことを自覚している。ただそうではないが今困窮している方に一筋の光明を出したいという願いからくる方便(てだて)、見る目がなければ嘘と判断されてしまう。


「私は観音様だから(すごいでしょう。敬いなさい。教えてあげる。安心できるでしょう。)」

そんなことを近くで誰かがよく口にしています。「何故だろうか」なんて私には疑問しかありません。そのような方を何年も眺め続ければ、自分に向けた優しさは限りなく他者へ優しさが向くことはほとんどない。ただ自分では「私は優しい」と思い続けているようです。
皆が言わないから、言うまでの時間を省略するためか、皆が言ってくれないから言うまでの時間と労力を省略するためか、「私は優しいです」と自己申告してくるようです。
その方が示されることの反対をすれば観音様に近くなることを続けているから、あながち教えてくれることも嘘でもないのかもしれないし、反対にとれば安心できることも嘘でもないかもしれない。

なかなか人は、嫌われる・悪く思われることを行い続けることは難しいことです。相手が「あなた悪いことはやめたほうがいい」と何人も何度も言われたとしても、それでも悪いことを続けることは難しいです。


ただ「妙好人」(みょうこうにん) 浄土真宗での篤信の人を指す言葉は、ある仏教者が言っておられましたが、自分で自分のことを「妙好人」と名乗る人は「妙好人」ではない。と断定しておられました。
それはその方の周囲におられる方がその方の生活態度・信心の度合い・優しさを見て勝手に人が判断して言う「呼称」です。
「私は妙好人です。」「私は観音様です。」「私は仏陀です。」「私は神様です。」
それは本当に気心のしれた者同士で使う場合には問題がないです。他人に使うにはその人達に根拠を示せるかどうかにかかっています。

「私は観音様だから」

私の信心が足らないため、理解が足らないのか、努力が足らないのか、いずれにしても驚いて「はいそうです」なんて言えないときがあるのです。


願い

 私とは何なのだろう


 私が生きる意味とは何なのだろう


 私の愚かさの故に失敗を続ける意味は何なのだろう


 私は何をしたいのだろう


 人とは何なのだろう


 私は何を求め続けているのだろう


 私は一体私に触れ合う人に何を伝えたいのだろう






私が愚かなことにも意味がある



私が成した少ないことにも意味がある


私がまだ成していないことにも意味がある







私は伝えたい




誰になにをつたえようというのだろうか




愚かな私が誰かに一体何を伝えられるというのだろうか



私は私の愚かさをもって、私と触れ合う方に伝えたい



私はあの子達(家内や子供達へ)大切なことを早く伝えたい


私は私を支える人たちへ感謝していることを伝えたい


私は私の愚かさをもって、私と触れ合う方へ前へ進んでもらいたい


私がまだたどり着いていない所へ、私がたどり着いた年齢より早くたどり着くのを見たい




いや、年齢は関係ない




私はその人が辿り着く高みを(早く)見たい




私だってその高みへたどり着きたい






私(人)とは一体何なのだろうか





簡単なこと

 日々を共に時を過ごしていたとしても、わかりあえないと思うような瞬間に遭遇することもある。一つの要因に他人のことを考慮に入れずに、こちらは頼まれてもいないのに答えを用意して望んでいないのに差し出す。相手の思いと差し出したものが違いすぎることにより、反発しあい、相手の答えを否定しようとしたり、さらに答えだけでなく相手をも否定しようとすることもある。

相手が同じようにこちらを否定しようとすれば、激しい対立・衝突が起こり、それに耐え切れない心は理性ではなく感情によってあらがう、感情が強ければ強いほど、気が付かず手段も荒々しく強引になりやすい、そうなれば何かが激しく損なわれ続ける。

冷静であれば何も問題では無いのに、その時はどうしても対立・衝突・緊張・矛盾(自分勝手な解釈による矛盾)の渦中の木の葉のように流されている。

「ただ聞くだけでいいのに」

なんていう人もいる。

そのような簡単なことができないときもある。単に素直じゃないとか、ひねくれているとか、相手の言うことに「うん」といいたくないだけとか、つい反論してしまう困った人(私)の出現・・・

別に言い合いたいと当初は思っていないことも多い。言い合うことにより仲を悪くしようとも思っていない。相手にぐうの音も出ないほどやりこめようなんて当初から思ってもいない。相手に当初から恨みがあるわけでもない。

どこから激しい怒り・相手をやりこめよう・仲が悪くなるような荒々しい言葉を放つ・相手に恨みを・完全に否定するなどのことが生まれてくるだろう・・・

善いことをなし続けたいなどの高尚なことを思っていなくても、その反対だって当初は思っていない。

「こんなはずではなかった」

恥ずかしいですが、そんな口論に発展することがあります(申し訳ないです)。


そんな時の私はどうして簡単に相手を受け止めれないのだろうか

自分の意見だって素直に聞いて欲しいのに、どうして

くだらないものは捨てれば何も問題ないのに、何故捨てきれないのだろう

言い訳ばかりすることは、格好いいのだろうか

見苦しい反論に終始してしまう(私)



もっと多くなんてことより、普段の些細な一つを聞かなければ


相手が言い終わる前に余計な一言が多い(私)



皆にとって簡単なことが(私には)できていない。(相手を軽んじていないか)


ただ年をとって、中身が伴わない私に今後あまり出会いたくない


誰かが

 誰か(誰かも誰でもいい)が私(この私は誰でもいい)のために支え続けてくれている。

 誰かが周囲の人の誹謗中傷を止めようとしている。

 誰かが私に優しくしている。

 誰かが皆(私も含む)が円滑に前に進めるように、今できることをやりつづけている。

 誰かが気がつけば誰も背負わない荷物を背負って前に進もうと自然体で行っている。

 誰かが誰もが笑って楽しく行けるようにしようとしている。

同じ意味の言葉を違う言葉で書いてみる。こういうことを冗長というのでしょう。

ただ上記のことを行い続ける人を理解できなければ、いくら助けたとしても自分で身を滅ぼしていくことになる。
助けてくれる人がいつもそばにいてくれるとは限らない。

一人でいる時にくだらないことを言うことが多い(自分はそのつもりではないが目先のことを取り繕って言葉を放つ、まだそれなら黙っているほうがいいかもしれない。放った言葉は取り返しようもない)。

理解していないのに理解していると言い張っている(自分はそうではないと思うが、周囲にはそうとしかとれないことをしている)。

やっていないことをやっていると言う(自分がやっているなんて思っていても、皆が見てそうでなければそれは嘘としかならない)。

相手が周囲に文句を言い回る。腹が立つのは構わないが自分も対抗して感情的になる(喧嘩を買ってしまえば、感情に感情をぶつければ止むことはない)。

普段の行動が足らないために、気がつけば他人のせいにしてその場を取り繕うなんて安易な手法をとりつづけてしまう。


自らに根拠を有していないから人から悪く言われれば吹き飛びそうになるだけならまだいい。その悪く言う人が悪いからとその人のせいにして、自らの発言・行動を省みず、正しいものにしようと努力することが難しいことであるからと判断し安易な道に身を任せてしまう。

だからいつまでたっても同じところをくるくる回っている(他人のせいではなく、自らの発言と行動によって迷い続けている)。


相手が悪く言うから、言うことをやめさせるように伝える。その方に悪く言うことの悪さが理解できていなければ悪く言うことがおさまることは無い。また聞く気がなくても悪く言うことは止まらない。
相手よりこちらの悪いところを無くしていけば悪くいうこともとまっていく。ただそれは難しい道となり、考えて安易な道へ走る人も多い。

誰かのことを悪くいう人の悪く言うことは次から次へいくら気をつけても止まることが無いこともある。ただ自らの悪いところを無くそうと努力する人を見る人はその方の努力を評価し、努力を続けている限り悪く言い続ける人以外からの悪く言われることは無くなっていく。いつしかどちらが正しいのかを皆が納得することになる。その意味において「悪く言うことが止まっていく」と表現する。


誰かがどれだけのことをしているのか、それに対して自分はどのようなことを周囲へ出現させているのか、近くにいる優しい人達とくらべて自分はどれくらいなのか、悪い人の前で自分は礼(自分)を失っていないか、何かあった時に自らを支えることのできる根拠をどれだけ有しているか

常にとは思わないが、時にはそのことを見つめたい。


自分を決めるのは自分ではなく、やはり周囲が判断することばかりになる。自分だけの思い込みや自分だけの感情で自分を決めつけてはいけない。


冷静になれ(私)

周囲が落ち着くような行動をとれ(私)

場当たり的な言葉を放ってごまかすな(私)

誰かが支えてくれていることを忘れてはいけない(私)



自分は一人ではない(私は誰かと共にある)。

 全国的な大雪、私が住む平野部でも一面雪景色、この辺りでは本当に珍しいことです。それよりも運がいいことに今月の休日は月曜ばかり、休みがあるのは有難いことなのです。ただ「けいくん」(三男坊)が博物館へ恐竜の骨を見に行きたいと少し前からずっと口にしていました。
博物館へ行こうとした時、家内が「休館日が確か月曜だったような・・・」すぐ電話で家内が確認していました。
やはり月曜休館日です。「今月の休みの予定なら博物館無理だな」なんて思っていたら、お休みを一日いただけましたから、恐竜を見におでかけです。

山越えルートでいつも博物館へ行くのですが、山の麓の道は雪で真っ白、安全な徳島市内をまわって博物館へ、この辺りの雪は積もりにくいし溶けやすく、歩きの人の足元はベチャベチャ、ドロドロになります。見ているだけなら雪は綺麗なのに溶けだせば雨より厄介、ただ降り積もった雪は全てに白い覆いをしてしまうから、古い建物でも真っ白で綺麗になり、普段と違って綺麗です。

こんな大雪の日に博物館へ来る人もほとんどおらず、広い博物館は貸し切りのようなものでした。古墳から出土品・銅鐸・恐竜の骨格標本・徳島の自然体系・石碑・甲冑、博物館は文化の集まりです。

一階で売っている本の見本が沢山おいてあります。縄文時代の出土品から当時の文化・生活水準・祭祀などをそれぞれの方が研究したものをまとめた本がありました。

縄文後期は約4,500 - 3,300年前、晩期で約3,300 - 2,800年前、年数で書けば簡単です。随分と昔に縄文式土器様々な火焔式土器ただの器にしては手が凝り過ぎです。

装飾や形を複雑にする意味を研究者は解明しようとしておられ、諸説ありました。普通に考えれば普段使うだけならシンプルイズベスト、無駄な装飾は使い勝手も悪く、創る時間もかかります。なにか特別なことに使われていたなんて考えるのも普通でしょう。
礼拝の対象やそのための道具、神聖なものを表現しようとしたのか、タイムマシンが欲しいところでしょうね。

そんな本に目を奪われている間に、家内と「けいくん」は骨見学を終え帰ってきていました。

珍しい銀世界の徳島市内をゆっくり車を走らせ、帰って一緒にお昼寝を楽しみ、夕方になっても起きない私は皆に起こされると・・・

降り続いていた雪は、私が寝ている間に雨に変わり雪はあらかた消えていました。


冷たい凍りついた心も、温かい優しさと慈しみの雨によって、なんてどっかのポスターに書いてありましたが、本当にその通りです。


私も優しくされたいです。ただそう望むのであれば私だって優しくなければ、「こちらはいつもできることをしているのに、あなたはいいですね」なんて態度や声が聞こえてきます。本当に(私は)注意しないと駄目です。



気づきにくい(私)

 価値観の相違で驚くことが多い毎日です。自分の当たり前を言い合うことが、会話の醍醐味だと思うときがあります。

「あれってこれだよね」

「えー、あれはこれじゃないでしょう。」

「あれだよー」

なんてこともそうです。聞いているだけでその驚きを楽しんでいるだけの方もおり、「いやいやそれに負けないものもある」なんて驚きを出してくる人もおり、そんな言い合い合戦に発展したり、それは本当に楽しい時があります。

価値観の違いによる言い合いになると、話がややこしくなります。時にそれは当事者同士が怨みを持ったり怒りを抱いたり、喧嘩別れになったり、ひとごとのように書いていますがいつものように私の悪い点です・・・


価値観の違いが何かが簡単に理解できれば衝突も減るのではないか。

そもそも最初から人が違えば意見や理解も違うことは当たり前なのだと自分自身が徹底できて(思えて)いない

おしつけと決めつけなければいけないなんて、固執しすぎていないか。

確かに見知らぬひと身近な人でも、心の共有ができれば嬉しいです。それに囚われすぎていないか。


ここは私の悪い点を挙げ続け、それの反対にいけば大抵よくなるもんです。(何の自慢にもなりませんが)

ただ最近は話の内容が悪すぎる驚きでも、聞いてて立っていたらこけそうな驚きでも、聞くんじゃなかったなんて思うような驚きでも、おすすめの情報なのに悪すぎておすすめではないでしょうなんて驚きでも、当然善い驚きでも、今は以前より大分勉強になります。

「 何々(なになに)の切れ目が縁の切れ目」

この何々に入る言葉で袂を分かつなんてことをよく聞きます。社会でその最たるものに「お金」が入るんだろうと納得いくのですが、甘い私は「そんなことはあまりない」と信じたい事が多いです。

お金でなくても

「愛情」

「友情」

「信用」

「希望(将来性のなさ)」

本当にそこには人によりそれぞれの言葉が入るのかもしれない。人と話をすれば考えさせられます。


人により価値観の違いが出るのは、その人により違いがあるということです。価値観という言葉は私なりに他の言葉に置き換えれば、「自分なりに安心できる方法」の違いであれば入れ替えても意外と通じそうです。


「自分なりに安心できる方法」とは、自分なりなのだから、それを人に話すということは、自分を認めて欲しいのだろうなんて思います。

「自分は認めて欲しいのに、他人(の方法)は認めない。」


そんなおかしなことを時折している私はただの愚か者です。



私には自分なりがあって、あの人にはあの人なり、そんな当たり前のことを認めれない私の存在を最近気づく・・・


善い自分に気づくことも大事だけれども、悪い自分にどれだけ気づけるかということはそれ以上に大事なものだと思うのです。

誰か(人)と話できることが有難いです。


とある話

 割りと前に話を聞かせてくれたことをふと思い出しました。

「とある夫婦がいてね、そのお嫁さん根性が悪くて」

「本当ですか、もしそうだったらそれはいけませんねえ」

「そうでしょう」

「困ったことに旦那の前ではボロを出さない。でもそれ以外の人の前では割りとめちゃくちゃなんです。」

「やっぱりそれは旦那さんやほかの方も絶対気づいているでしょう。」

「それが気づいていないんですよ」

「いやいやそんなにいやらしく他の方にしているなら気づいてますって」

「私はそんな女じゃありませんと旦那の前で、なりきっているから旦那もずっとだまされつづけているんですよ」

「それが本当なら困りましたね」

「だから何も知らない旦那さんを人が集うときには横に必ず連れてきて自分を守ってもらうようにしているんです。旦那さんがいるからその時は八方美人でね、旦那さんがいたら皆も気を使うでしょう。いない時ときたらどうにもならない態度しか取らない・・・。」

「それは絶対旦那さんも気づいていますよ、気づいた上であれじゃないですか、自分が決めた嫁だからとしょうがない。責任とってるんじゃないですか」

「いや、絶対旦那さんはお嫁さんが騙していることを気づいてないです。旦那の前では健気な(甘く都合のいい)言葉や(周囲にはしない)態度に徹しているから、根性悪いことを隠し通しているから、そんな自分のいいなりになる気の優しい旦那を選んで結婚しているんですから、全てが確信犯としか思えないんです。」

「いやー、そこまでだったら気づいていると思いますけどねえ」

「その時もですけれども今でも悪いとはその人思っていないんですよ、それで困ったことにその人旦那は(ある意味)好きなんですよ」

「よく意味がわからないですけど」

「旦那が自分の言うことを聞いてかばってくれる(ある意味優しい)から、ずっとこれからも一緒にいたいんでしょう。だから(自分にとって都合がいい旦那が)好きなんですよ」

「本当全くわからなくなってきました・・・」


その時はもっと色々ドロドロとしたことを聞いたのですがそれ以上は忘れました。ただ答えなんてわからないことが多いのが現実です。どのような答えをしたらいいのか、私はわからないことばかりです。聞いた話も意味も答えもわからないことは多いです。(そんなことで困っている私に貴方がわからなくても向こうはわかってしているのだから、なんて教えてくれる人もいました。)


言葉だけ綺麗で優しく心配するようなことを発言していても、普段の行動によって自分ではなく伴侶を助けることをすることが普通でしょう。言葉と反対に何かあれば自分を損ない、それだけでなく伴侶にも迷惑をかける言動が多いとなれば、世間の人がどう思うかよくわからないですが、考えさせられます。

過去の私は上記の様な人と少し違うように思っていますが、迷惑を掛け続けた家内からすれば同じようなものでしょう。「自分のことがわからず」「自分のことが見えず」「自分の行動が見えず」「自分の発言が見えておらず」現在でもわからないことは多いのですが以前の私は本当に家内へ迷惑をかけました。ただあの人はそんな私を見捨てず、黙って出来る事を行い、いつも耐えて支えてくれていました。

今でも時折言葉ではなく雰囲気(態度)で釘を差されます。(私が悪い人をとやかく言っていたら、そんなことを言える身分ではないでしょうなんて、雰囲気を出してきます。)

綺麗な言葉は誰にでも言えます。それに伴う行動をしているかとなると考えさせられます。


貴方のことを心配している。だから迷惑をかけず品性を保つよう普段から心がけている。それは(自己申告の)言葉ではなく周囲が安心できる態度(笑顔)でわかることだなんて思います。



人のことをあれこれ思えば、結局いつも私は自分のこととくらべて考えることになります。


家内やいつもお世話になる優しい方達へ感謝しています。(ごめんなさい)



書く

 いつものことだけれども、人と話をするのが大好きです。

親しい人であれば言い合いに発展することは残念ながらよくあります。自分の意見を正しいものと思い込み、自分の考えしかないと思い込み、だからこそ相手の話を受け取らない(聞かない)態度に出たり、相手そのものを否定しようとしたり、感情的になりすぎたり、相手が感情的になったり、相手もこちらの意見を受け取うとしなくなったり、少し時間がたてば(平静の状態に近くなれば)、私のした行動と発した言葉の過ちをそこでようやく受け取らないといけないようになります。時を長く共にする方になればなるほど遠慮なく発言しようとする私を見ます。結果尖った態度や言葉は相手を傷つけるだけでなく、元(私)に戻るというのかその報いを受けるというのか大変になることが(残念なことに)多いです。

話す・聞く・行動・文章を書くことも同じでしょう。書くこと(書いた文)は私を忠実に現し続けます。その文が無くなってしまえば私も消えます。書く内容の大きさ広さ深さ長さも私を現し続け、善いことであれば読む人や理解していただいた人であれば私の評価も少しよくなり、反対の悪いことも同様でしょう。

何かを断言できる。何かを言い切る。何かを書くことにより表現する。難しいです。書けば書くほど(私に)足らないことを痛感します。最近はそのことがようやく理解できはじめたので、開きなおって全て出し切るほど書けば何も無くなるだろう。何も無くなれば何が(私から)出てくるのだろうか、その時どうするのだろうなんてことを考えたりします。

何かを見て何かを聞いて何かを書いて、世界と私が思う私との関わりあいを深めていきたいです。

もっと瞳の色を濃く深くしたいです。

人間として深みが欲しいです。

何かとは何か、それを断定できる根拠を持ちたいです。





気がつけば私は本当に欲張りです。



私だけではなく皆が喜ぶような欲張りでありたいです。


なるように

 何かあれば自分に属さない人達の文句や揚げ足を取り貶める。属さない人達に手を貸すことを嫌悪する人達がいます。自分たちが助けて欲しい時は誰よりも誰にでも助けて欲しいと願っています。ところが自分たちには関係ないと思い込んでいる人が困ることは全く気にならないようです。

自分達が困るのは助けて欲しい。一緒に生活するような人でも自分に属さなければ助けない、どちらかと言えばその人達を貶める。ただ自分に属していれば普通はそこまでする必要ないのに必要以上に助ける。

そこのところ面白いです。他人が困っていることには分類があり、自分が困っている時には分類がない。そのことを態度で明確に示しています。

誰かが困る。時を長く共にする人ならばお互い様なのがあたりまえです。たとえ嫌いだとしても助けることはしょうがないことです。明確な理由があります。自分が病気になったり身体が動けなかったり年をとったり、つまり通常より自分が力を失えば誰か(時を長く共にする方)に助けてもらわなければどうにもならないことは誰だって訪れます。
ほんの少し考えれば、自分が弱くなった時に好き嫌いなんて言っていられないことだとわかります。


好き嫌い私も人以上にあります。できれば好きな人だけと過ごしたいです。


好きな人だけしかいない世の中に住んでいる人は少ないと思います。


ただ向こうがとんでもないことをしようが、こちらは礼を失うわけにはいきません。失って同じことをすれば同じ穴の何とかです・・・

本当に礼を失わない。今出来る事を行う。難しいです。


「がんばらないでいい」

「なるようになる」

「今の自分のままでいい」

精一杯行い続けたり、出来るだけのことをやってきたり、病気であったり、弱い人であったり、幼かったり、老齢であったり、そんな人には上記の言葉もあてはまるのではないかと思うことがあります。

目を背けているだけ、楽をしているだけ、逃げ続けているだけ、ずるをしているだけ、悪いことをしつづけるだけ、力があるのに成すべきことをほとんどなしていないだけ、のような(私もそれに入ります)人に「なるようになる」「がんばらないでいい」「今の自分のままでいい」などの言葉はピッタリと寄り添わない気がします。

楽したり、逃げ続けていたり、悪さをし続けたり、人を貶めた続けたり、自分は何もしていないのに文句を言い続けているような人であれば「そのままでいい・なるようになる」なんて言えない現在の私です。

いつか「なるようになる」その言葉を見る人聞く人誰もが納得するように使いたいです。


人に

 3年7ヶ月前に三番目の赤ちゃん「けいくん」が家族に加わりました。純粋無垢で生まれあの子は少しずつ成長し、首が座り体も大きくなり、やがてハイハイもするようになり、おぼつかない足取りで歩くようになり、今はジャンプしたり走ったり、でんぐり返しをしてみたり、色んなことができるようになりました。

私も家内も初めの子(長男坊)の時は無我夢中でじっくり見たりする余裕もなかったです。二人目(次男坊)の時も私達(特に私)に余裕がなかったことだけを覚えています。次男坊から6年空いたからなのか三人目だからでしょうか、お兄ちゃん達が自分のことを自分でできるようになったためか、お兄ちゃん達が「けいくん」を助けてくれるからか、お兄ちゃん達が前より家内と私を助けてくれるからか、皆のおかげであの子達を以前より少しは余裕を持ってみつめることができます。
いつだって幼子(よその子供も我が家の子供)の笑顔は本当に眩しいです。お日様みたいに見えます。無邪気な笑顔に救われます。
最近の末っ子「けいくん」3歳7ヶ月にも劇的に変化が生まれてきました。好き嫌いがはっきりしてきており、社会に生きる私達に近づいてきています。気に入らないことがあればほんの少しですが怨みや怒りを抱いてきています。抱けばそれは顔に現れてきます。
家内は私へ「お兄ちゃん達に悪く言われても何かされても、この子は笑っていたのに」けいくんが人間らしく変化してきています。人間としての付き合い、分別、我がもの、知恵、兼ね合いなどが少しずつ現実社会を生きるためにあの子にも備わってきています。言い方を変えれば、「あの子は神仏の世界から人間の世界に入ってきている。」そう家内へつぶやいいました。
簡単なことです。あの子も私も同様であり、おそらくほとんどの人がそうなのでしょう。ある時期から人間として生きていこうとなるのでしょう。

あの子はこれから身近にいる私達(家族や触れ合う方)を見てどんどん知恵をつけていき、社会を生きる術を獲得していくのでしょう。あの子が大人になり自分では気づいていない時に自然にだす自分らしさ、それはおそらく周囲と密接に絡みあい自分では気づかない自分を支える自然状態の自分を今必死に作ろうとしているのでしょう。
おそらく古人はそれを「三つ子の魂百まで」なんてよんだのではないだろうか
子供達を見ていても私の悪いところが見えます。知らずに真似していることが私の悪い癖であることも多いです。自分のことは棚に上げあの子達へ言わなければいけないところです。「それはだめだ。」「そんな言葉を使ってはいけない。」あの子達ではなく私が痛いです。
善い人といてもその人を見れば自分との差を見て驚き、悪い癖を持つ人を見れば大なり小なり同じようなことをしている
自分が見えて痛いことばかりです。
素晴らしいことが好きなのに憧れているのに、現状の(自分との)差がいつも痛いです。善いこと言いたいのにその言葉と自分の差が離れすぎているがために痛い思いをします。自分のことを忘れて迂闊なことを発言し痛い思いをします。
私の行動が遅く足らないことが多すぎること、考えが先行しすぎること、感情に身を任せすぎること、一つの物事が終わって反省することばかり。
日々の現実は移ろい代わるもの、誰にも100パーセント予測はできないです。終わってから「ああすればよかった。」とは誰でも言えることでしょう。

人として生きること

大人として生きること

あの子達に都合のいいことを言って現実を示すことにします。私の悪いところは反対をすれば問題なく、私の少ない良いところは自分なりに発展させ身につければいい。足りないものは補っていけばいい。


いつかあの子達も私も、(元の)お日様みたいな笑顔を出せればと願います。