アウトドア?

 仕事の関係により、平日の休みがほとんどです。子供達は小学生ですから土日は休日、今日つまりは金曜日となればうかれています。「宿題はやったの?」という問いに対して「明日も明後日も休みだから問題ない。」なんて長男坊と次男坊から返ってきます。事実は問題ないことはないです。
遊び呆けていれば、両親(私や嫁)の目が怖くなっていくことを忘れているだけです。

明日(土曜日)も自分のやるべきことを忘れ、また遊びほうけていれば何かにあの子達は忘れられなくなるだけのことです。

あの子達がパソコンを占領していたので、ブログを書きたかったのですが楽しんでるところを邪魔するのもなんて思い、その間に読みかけの本を読もうとしたのですが、末っ子の「けいくん」(3歳6ヶ月)の相手をしていればあっという間に時間がすぎるものです。家内と楽しく話をすれば「けいくん」が割って入って自分にかまってくれといってきます。そんなことをしている間に晩御飯の時間となり、「私はアウトドア派だよ」と家内と付き合いだした頃、言った話で盛り上がりました。

家内曰く、結婚して割りと旦那さんは外にでることが少ない。アウトドアが好きとは全く思えない。インドアオンリーだと思われています。そこの誤解を解きました。

私は確かに現在屋内にいることが100パーセントに近いです。休日も疲れてゆっくりしたいから外に行って何かするなんてことがありません。これだけなら誤解を解くどころか、インドアオンリーだと証明してるだけのことです。

しょうがないので、少し思い出話をしました。

大体だね(家内と子供達に訴えています)、お父さんの小学生時代の話をするよ

「うんうん」(家族一同)

父さんの実家は知っているだろう。長崎だよね(相当山奥であるものといえば、豊かな自然と山と川と池と緑と動物と獣と自然です。)
あそこにあるものは自然しかないだろう!(皆納得しています。何回も里帰りしているから、店がなんせ家の近くにありませんから・・・、どんな田舎だよ)

父さんが小学生の時の日課は、学校から一時間くらいかけて家に帰ってきたらまずすることは、裏の山へ薪拾いだよ、薪を山から集めてそれでかまどでご飯を炊いてね、次はにわとりやヤギとかうさぎの餌を取りに行ってあげる。それが終われば次は拾った薪でお風呂を沸かす。

「うんうん」(家族一同)

それでさ小学生の時に気がついたのよ

「何を?」

理科の教科書に金魚の飼い方がのっていたんだ。教科書によると水道水を直接金魚鉢へ入れてはいけません。水道水を使う場合には一晩置いておきましょう。(カルキを抜くため)

それでね、父さんはお母さんに聞いたんだよ、「水道水は一晩おいておかないとだめだよね」って

そう言ったら父さんのお母さん(貴方達からしたらおばあさんになるけど)

「うちは水道水じゃなくて湧き水だから、一晩置かなくていいよ」

まあつまりお父さんが割りと大きくなるまであの家に水道通ってなかったんだよ。(正確には私の家だけでなくて、私の家近辺も・・・)

だからねえ、夏休みとか休日は朝から晩まで森の中で動物と過ごしたり、夏休みとかはお手伝いとか宿題から逃げるために、朝誰よりも早く起きてご飯を勝手に食べ朝から晩まで、釣りをしたり、野山を散策したり、木の上に家を兄と作ろうとしたり、海まででかけて魚をとったり、川で釣りや遊びを一日中してたんだ。
焼き芋をしたり、魚を自分で釣ってお風呂を沸かすついでに串にさして焼いて食べたりとか、考えられるようなことはほとんどやったことをおぼえています。

なんていうかねえ、必要に迫れば外にはでるけど、お金をかけてまでアウトドアはしたくないんだよなあ・・・

(長崎帰れば嫌でもほら・・・・)

皆私がアウトドアも問題ないということを納得したようです。

まあでも子供達はそんな環境にないから、やっぱりたまにはキャンプとかも連れて行ってあげないとなんて話が終われば思いました。


「よし、今度キャンプでもいくぞ!」

食べ物はお兄ちゃん達が

「とったどーーー!」

そう言ってとったやつだけにするね

「えー、お父さんはとらないの」

「お父さんは外で本でも読んでるよ・・・」


苦労は他の人がするものではないです。その身(我が身)に苦労してこそ醍醐味ってものです。

(格好つけて、面倒臭いことから逃げたいだけではないです。キット…)



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頭の中の思い(いつものこと)

 今月の初旬、管理を怠ったことにより体調を崩す。職場の方にも家族にもかなり面倒をかけてしまいました。体調が戻ってくれば、余裕も少しずつ増え、目に力が戻り、視野も広くなる。

出会った方の体調が悪ければそれにも気づくことができる。痛い思いをすれば痛い思いをしている人の気持ちがわかりやすい。社会に生きる大人になれば多少の体調不良で仕事は休めないことも多い。

よく仕事で出会う若い女性の方もいつもと様子が格段に違う、明らかに体調が悪い。本人に尋ねれば「風邪で・・・」体調管理不足と言われれば私もその方も反論できる余地はない。大人になれば出会う方々に自分から風邪で調子が悪いなんて説明する人はいない。調子が悪ければ周囲は簡単に見てとれるから説明はしない。

若い女性も大人だから何も言わず黙々と仕事をこなそうとしている。ただ身体がいつものようについてきていない。

仕事中だから、優しく声をかけたり周りにある何か他愛もないものをあげるだけがこちらも精一杯、要約すれば「お仕事大変ですね」なんて言葉にしかならない。

数日経ち、仕事でまた出会った。今度は元気な顔と声、目や顔に力がある。「大丈夫でしたか」そう尋ねられ初めて症状を教えてくれる。「、仕事後熱を測ったら38度熱がありました。」大人になればなるほど言葉は少なく後から出てくるなんて改めて実感した。相手に聞かれてもないのに病状や体調が悪いことを教えることは、時には必要なこともあるだろう。世の中ではそれを「黙っていれば損をする。」なんて言い方する場合もある。

私はよく考えさせられる。私のやり方が悪いからそれを真似たり、私のようではないように発展させて見せてくれるのだろう。つまりは私の周囲で何かあれば、私にも少なからず責任があるなんて思う。

私が話すことが大好きだから、それを真似する人もいるかもしれない。私が無口になればいいこと。

私が説明が多すぎるのであり、それを真似する人がいれば、やはり私が説明を少なくすればいいこと。

私に行動が足らなければ、それを真似する人がいれば、私が行動を増やせばいいこと。


私から善いことばかりでていれば、問題ないのかもしれない。そんなことを考える。



誰かが言葉を放ったとして、同じように言葉を放ってもその言葉の広さ深さ優しさ高さまで同じようには伝わらない。

誰かが行動したとして、同じように広く高く深く優しく伝わらないことも多い。


何かを真似するとしても、(私は)よく考え(考えがないくらいの時間が理想だけれども)即座に実行したい。

多い

 「決めつけ」と「おしつけ」はすぎてはいけない。

何かあれば口にする。最近の私のひとりごと。そのあとに続くとすれば「誰かと何かのせいにしているかぎり、その人は成長しない(発展もない)。」それから私はまたその言葉を反芻して、自らをみようとする。

自らを見るにも、自分自身のことだから、それにも見方や度合いがある。

「私は見ているから問題ない。」なんていう見方、「私なりにしているつもりだが、問題は多い。」その時に応じてその言葉は変化している。

「自分のことを正しく把握している。」そう私は断定できない・・・

周りを見れば「自分のことを正しく把握している」という態度や言葉を見かける。それは私にも存在しており「私が勘違い・思い違い・正しく見れていない・知識や知恵が足りていない・努力が足りていない」ようなときによく現れる。いやいや本当にそれは情けない。

情けない時の私は根拠のない言葉を放っている。自分だけが狭く堅苦しい正しいとは思えないことを、これこそが正しいなんて言い放っているようなもの・・・

話は変わるけれども、「自分が誰より恵まれているのに、恵まれていない」なんて発言する人がいても誰もその人のことを信じようがない。根拠も感じれない。

何故かできていない人(私)と思われる代表的なものは

「誰にも相談していないのに勝手に物事を決めてしまい、近場になりうまくいかなければ自分ではなく相手に腹を立てる。」

「自分自身のできていない点を指摘されれば、相手に腹を立てる。」
(簡単に言葉にすれば、「(私も出来ていないが)あなたも出来ていないところが多い」と思ったり言い返す。)

「簡単な話には饒舌になる。都合が悪すぎたり難しく理解できない話には謙虚さが失われている。」

「他人の言葉や態度の本質がわからない。」
(大切なことが理解できないともいう。けれども本人は理解していると思っている。)

「自分を捨て、目前の人に合わせれないことが多い。」
(くだらないものは捨てなければいけない。相手も自分も捨てなければ衝突しかありえない。)

「しょうがないといって、その問題をやり過ごす。」
(人に優しいことと、自分に優しいことは誰でも違うことを知っている。)

「人に優しくしなければいけないこと、かばわなければいけないこと、厳しくすればいけないことの使い分けがおかしい。」(見ている人には「あなたの頭の中は大丈夫?」のようなことを思われてしまう)

「他人ではなく、自分の恩恵を客観的にはあくしているか」
(恵まれていることが多いのに悲劇の主人公に気がつけばなろうとしていないか)

そんな問題は私の内を探せば多い・・・



「その問題はどうすれば解決するの」



誰かが私に問う。

愚かな私は私を見ずに簡単に答える。

「その人が気づいて、なおしていこう(正しくしよう・生じさせないようにしよう)と思わなければ無理でしょ」




他人事のように考えることは本当に簡単なこと、自分を入れて簡単に答えれる人は素晴らしい。



「決めつけ」「おしつけ」「勘違い」「大切なことにきがついていない」それがある時はその人の世界は果てしなく狭い。

かまれた

 家庭で風邪が流行りしばらく体調が悪く外出を控えていました。子供達も家内も随分と体調も戻ってきましたから、休日をいただいいたので、三男坊「けいくん」(3歳6ヶ月)を運動ができるところへ連れて行ってあげたいので、家内のおすすめの公園へお出かけしました。

今日は暖かく公園日和です。けいくんもとても嬉しそうです。家内おすすめの公園の目玉は「恐竜の骨」です。恐竜の骨と言っても鉄筋コンクリートを使って恐竜骨格標本を作りぶら下がったり登ったり色んな事が出来ます。

ほんとうに良く出来ています。私は恐竜の口の中に足を入れて「けいくん!お父さんの足がかじられてるー!!」なんてさわげば、「おとうさん助けるよ!」そう言って引っ張って恐竜から救ってくれました。(ちょっと楽しかったので二回くらいそんなことをしていました。)
おすすめだけあって目玉はそれだけではないです。シーソーやチュウリップの花の形のくるくる回して遊べる、いわゆる遊園地に昔あったティーカップに乗ってくるくる回って楽しめる乗り物、それとメリーゴーランドもありました。メリーゴーランドは調整中だったから動きませんでした。無料の公園なのによくできています。流石おすすめです。

家内は私へ話してくれました。けいくんがまだ生まれていない頃私の仕事終わりを毎日迎えに来てくれていた頃、3時位からこの公園へ「けいくん」のお兄ちゃん達と来て時間を調整してたと、上の子二人は二つ違いでどこへ言っても仲良く遊んでいました。「けいくん」はお兄ちゃんとは6つも離れています。同じように遊ぶことが格段に違います。

家族が増え、お兄ちゃん達の用事も増えています。仕事で私があまり家にいませんから家内に「けいくん」を公園に連れて行ってあげてなんてお願いをしました。

本当に子供は元気に遊ぶことが似合います。走って笑う姿を見れば何故か安心します。

そんな姿を数多く思い出として二人に持ってもらいたいなんて、私のちょっとしたおしつけです。


私も人ばかりに言わずにできるだけ、外にあの子達を連れて行ってあげよう。



毎日一つ上の兄と野山を駆け回って過ごした日々(小学生時代)が懐かしいです。


ぶすっとする

 何かに対し納得できない。見解の相違・自分の意見を通してくれない。こちらを大事にしていないと思い込むような場合に

あの人いま「ぶすーっとしているな」

男女問わずそんなことがよくあります。(当然あまりない人もいます。)

男性でも女性でも「ぶすーっ」としていたら、見たままもその人の現状もですがあまり良い印象は受け取りにくいものです。愚かな私、いつもつまらないことを考えてしまいます。

「ああー、いつもぶすっとしているから、略してぶすなんてことばがつくのかな」

それは私の頭なの中の思いつきなだけです・・・・

美しい人、ここでは見た目ではなく人間として美しいと呼ばれる人のこと、態度によっても美しいが決まることもあります。何かあればよく「ぶすーっとしている」人の挨拶や話もあまり聞かない。この場合美しいよりもその反対の言葉が頭によぎります。

どんな人が美しいの反対なんでしょうか、なんて不埒な意見の交換をする時もあります。その方が言うには

「自分が最上級っと思っていたら、それでおわりじゃわな」

「人の話を聞くこともないし、理解もできないし、どうにもならんわな」

たとえ見目麗しい人でも、自分は最上級だからなんて言い続ければ美しさは損なわれます。見目麗しき人でも誰の話も全く聞かない、理解しようともしない。だって私は美しいからいいんです。何て言われればやっぱり美しさもそこなわれていきます。

私みたいに外見がぱっとしなければ、中身を少しでも善くしようと思わなければ世間で相手にされにくくなります。(見た目が美しかったら何してもいいなんて道理もないですけれど・・・)

その人にあった美しさの発現方法があるのだなんて最近あらためて痛感しました。

美しい人と同じように真似しても、オリジナルの美しさを超えることは難しいことです。自分なりの発現方法でないと勝負にならないこともあります。

勝ち負けではないのですが、比べればどうしても優劣がつくなんていうだけのことです。同じではなく違うものなら比べようもないから優劣がつかない。勝ち負けもつかないなんてことかなと漠然と頭に浮かんできました。

さてここからが、私の問題です。

「美しい私の発現方法とは」










考えても出てこないので、地道に私なりの何かに没頭し続けることにします。


よかったような悪かったような

 毎日大忙し、有難いです。私一人ではどうにもならないくらい忙しくても、職場の皆が力を合わせれば一日一日無事に乗り越えれています。一日くらい忙しいとかなら無理すれば終わります。忙しいが何日も続くと慣れば無理は身体にこたええてきます。どうもそれは私だけではないようです(なんて言い訳をしておきます)。連日の疲れが皆たまってきています。「このまま春のピークを乗り越えれるだろうか・・・」なんて不安な思いがありました。

私と違っていつも優しい方は、道を切り開くことに長けています。

私が同じ言葉を言っても嫌味になるようなことでも、その方が言えば皆素直に受け取れます。相手の駄目なところをあらわす現状を言葉で伝えても、怨みも嫌味もなく相手に素直に伝えれる人です。

その人を見れば自分がどうなのかがわかります。あの人より私はその面において低いだけです。優れた智慧は高きから低きへ流れる。あの人から私へ流れ込んでいるというだけです。

助けられていることに感謝ですが、情けない私だなんて意味もでています・・・

優しい方が素晴らしい理由もわかっています。あの人は特別な時だけではなく、通常から人より高い水準で行動しています。皆が止めたとしてもあの人は自分の水準を維持するために誰に言われるまでもなく自ら動き続けているだけです。あの方の通常状態の水準の高さが特別なときは際立ってくるだけです。

反省とか考えることとかより、ただ実行あるのみです。

あの人のおかげで、これからもいけるなんてヴィジョンが見えてきました。本当にありがたいです。やっぱりこちらは情けなです。

一人でこなせる量を越せば、誰かを動かせる力が必要になります。私にはそこが現状あの人より足りていません。その時に人を動かせるだけのことを普段から皆に行い続けているからあの人にとっては簡単なことです。

普段からの言葉と行動がどれだけ大事か、コミュニーケーションをしっかりとっていなければ自分がしんどくなっていく
大抵の仕事を普段から一人で行うことが多い私です。一人でなく人数が多くないと出来ない仕事だって避けることはできないから、挨拶や言葉・行動などおろそかにできないなんて思わされた日でした。

冷たい態度、思い違い、自分一人だけで、時にはそれも必要なんですけれど忙しい時のために普段から忘れないようにします。


その人なりの理論

 沢山の方々が訪れれば、仕事なので出会いまで発展せずとも話をしなくても見ていれば、こちらへ色々なことを教えてくれます。

当日出会った二人で仕事をされています。ついてそうそう突然相手に割りと刺のある言葉を投げつけています。「私は知らない。貴方が何かしたんでしょう。私の手元にないから、勝手なことをしてどこにあるかわからないじゃない。」実際はもっときつかったです。言われた方は平然と「私は一つもさわっていません。貴方しか触っていないから貴方しか知らないことです。」さらりと言葉を交わして自分の与えられた仕事に没頭されていました。しばらくして探していたものが見つかりました。きつい言葉を放った方は相手に謝ることもなく、普通に自分の仕事に戻っていました。

仕事をしながら二人を遠巻きに眺めていました。朝から昼すぎまでずっと刺のある言葉を放つ方は一事が万事あの調子だったようです。当然相方さんは怒ること無く、相手にもせず、それだからといって重要なところは伝えています。ただ相手はそんなに感謝をしていません。自分のことにも相手のことも大切なことに気がついていないです。その方からすればそれがその人の普通なのでしょう。

「自分の言葉や態度がどう相手や周囲に伝わっているか」そんな簡単な問いを発しないのか、その人達が帰ってから一日の終りに考えさせられました。

ただ相手ではなく、自分を正しくみつめてくれれば問題がなくなるのに・・・

「悪いことがあれば人のせい、人のせいだから自分を見る必要はない。」

「上手くいかないのは社会と他の人のせい、だから私を見る必要はない。」

「きつい言葉や刺のある言葉は正しい言葉だ。正しいのだから私はきつく汚く刺のある言葉を言い続けても問題ない。」

「問題があれば近くにいる人へ伝えればいい。伝えた人は聞いているから聞いた人がしなければその人が悪い。私は伝えたから問題を解決する努力はしない。伝えたら私は終わり、しなければその人を責めるだけだ。」

「私は皆にいいように見られたい。でも辛いことや努力辛抱はしたくない。楽したい。でもいいように見られたい。ああそうだ。あの人がいるから私がいいように見られない。あの人を悪くすれば私はそれで問題は解決する。」


色々な人の理論があります。時折私はついていけない理論もあります。私が正しいと思う理論だって、他人からすればおかしいところや間違いも沢山あるでしょう。

女性であれば鏡をみるはずです。鏡と同時にその眼で自身の内面もみればいいだけのことです。

男性は痛い言葉を必要とすればいいだけです。自分の出来ていないところ・悪いところ・駄目なところを指摘される言葉は痛い言葉となります。何回も書いていますが「痛い言葉をどれだけ感謝と見れるか」にかかっています。

私の出来ていないところや突かれたなくないところ、努力していないところ、本当に痛い言葉がくれば怒ることも多いです。けれども怒っても少しずつなくしていきたいです。一日の終わりや始まりに以前までの痛い言葉が痛い言葉とならないようにしていきたいです。

いつまでも誰かと何かのせいにして、己を見ない。見ないから成長もない。悪いことも含めてその人を好きになれたとしても、悪いことを自覚することをしない。なおそうとしなければ、その人は自分で自分を悪くしていくだけでしょう。
かばいたくてもかばえなくなるだけのことです。

悪いことが全くない人としか付き合えないとかではありません。悪いことが出ていたとしてもそれを自覚してなくしていきたいとその人自身が思っているかどうかが問題なだけです。



言い訳

どういうわけか誰に聞いてもわからないのだけれども、気がつけば誰か(あの人)と共にいる。


あの人とは誰か、誰かとは


職場仲間でも学友でも同級生でも先輩でも後輩でも伴侶でも子供でも祖父母両親でも親戚でも誰でもいい。身近にいる方に知らずに誰もが時折思うこともある。

「もっとこうしてくれたらいいのに」

「もっとああしてくれたらいいのに」

「もっと努力してくれたらいいのに」

「あれさえなければ問題がないのに」

「あの考えなしの発言がなければいいのに(他もだけれども特に私・・・)」

「信じれないことをしないでほしい。」

そんなことを(私は我を見ずして)誰かに対して思う。思っているだけなら特に害もない。親しい人と話せばそんな話になることもある。すると思いがけない言葉に出会った。

「その人の縁の下でいるのが嫌になったのですか」

はっきりと即答する。

「それは違います」

何が違うのだろうというような顔をしている。愚痴とも違う。その人のことを悪く言いたいだけとも違う。即座に私は答えた。

「その人のことを今よりもっと好きでいたいんです。」

同性異性関係なく、人間的付き合いをするとなれば嫌いより好きが誰だっていい。間髪入れずにまた私は言葉を並べ立てる。

「その人が善いことをしていたら何故か好きになれる。悪いことをしていたら離れたい。一緒にされたくないと思う。好きではなく嫌いに思ってしまう。

誰でも同じなのではないですか

一緒にいる人をもっと好きになりたいんじゃないですか

時を長く過ごす方の悪口を聞けば、あの人は他にもっといいところがあるんですなんて言葉や態度はそれをあらわしてるだけだなんて私はおもいます。

信じれないと思うことをその人からなくしていきたい。

その人が問題がなくなれば、残った私が問題になるだけですよ。その時は問題になっている人がどうにかするしかない。(私が必死に頑張るしかない・・・)」


本当に饒舌で、きれいごとが好きで、考えずに発言してしまう(私)



(性別を問わず)時を同じくする人を好きでありたい。


人前

 普段の生活が公衆の面前ばかり、有名人・著名人・学者・先生などなどそういう方もたくさんおられます。

 普通の方は人前にでることは少ないのではないかなんて思います。ここにある「人前」の意味は広辞苑に、「人の見ている所。公衆の面前。人の手前。体面。体裁。」とあります。よく「人前」に出ることが好きな人もおられ、大まかに二つに分けてみます。


「自他共に認める人前に出ることが好きな人」


「明らかに人前によく出たがり誰よりも嬉しがっているのに、自分は人前に出ることは好きじゃないと言う人」


前者の方は、自分のことを把握した上で正直に気持ちを述べています。割と偏りのある私はそんな人に好感が持てます。

「人前」の意味の一つ、「体面」とあります。その意味は広辞苑には「世間に対する体裁の面目」とあり、人前に出ることが好きということをあらためてわかりやすく書けば

「世間に対する体裁の面目のために人より前へ出ることが好きな人」とも言えます。もちろんそんな狭い意味だけではありません。

人前へ出ることが苦手な人がいるように、得意な方がいるからバランスが保てます。体裁・対面・人の手前だけで前へでるならバランスは保てず、崩れていないのだけれども崩れています。どっちなのかといえばそれでも回っているのだから崩れていないと言えます。

人前へ出る時は、その人の過去・未来・現在が問われる時と言えるかもしれません。未来はその人のもつヴィジョンとなり大勢の人が共感を持てれば支持してくれます。過去において成したことは実績やその人の根拠の一つとなりえます。現在成していることは、直接として見聞きすることになりますから、やはり現実が一番大事です。

簡単に書けば

「過去にたいした努力もしておらず、未来のヴィジョンもあまりにも(自分自身から)かけ離れすぎて、自分自身の現状を把握していない(自分だけが把握していると思い込んでいるのは却下となります)。」

それなのに

「率先して私は人前へ出ます。」

そんな言葉・態度がでてくれば、周囲はつらくなります。しかし、人前へ出ることを嫌う人も多いですから「私は助かる」と思う方も多いから現実は複雑です。


人前に出るということは、その人の努力が花開くときです。


忍耐・努力・礼を失わない・眼の色が深くなる・他人のことを我が事のように喜び涙を出せる・他人の痛みを理解できる・饒舌ではなくなる・人より挨拶を早くする・物事を勝手に決めつけすぎない(決めつけない・おしつけない)ことを普段から心がけていなければ、花は開かず、花がもしあったとしても「色あって香りのない花のようなものです」(それを現実の言葉にすれば「写真のりんごを本物のりんごです。」と言い張ってるようなことになります。)

平面的で香りのしない写真のりんごは、食べようとしても食べれないです。

とんち好きな人だったら「そこから出して下さい。そしたらそのりんごを食べます。」なんてことになります。

まあ一本とられるとか、そんなことより本当の言葉は心通う相手にしか人は言わない傾向にありますから、受け取らない(受け取れない)人に本当のことをいう人も少ないかもしれません。

変な話を書いてしまいました。結局短くすれば


「日頃の行いが一番大事です。」


次の問いを自身に常に行えているかどうかだけが問題なんて思います。


「私の日頃の言動は全く問題ないか」


その問に対しての答えが問題ではないです。


本当に人前に出ても出なくても、「怠らず努める」ことを心がける。その気持をたとえ何かあり続けたとしても、失っても、失ったとしても、望めばすぐ出せるようでなければ問題は減らないような気がします。


冷静に

忙しいからといって、言い訳にできないことが沢山あります。

忙しい時に意味不明なことを押し付けて来られると出来ていない私は怒ることがあります。だからといって感情に任せたままその方へ発言すれば大変なことになります。若い頃は後先を考えずよく思いついたまま発言していました。おかげで痛い目にあいつづけました。

言わなければ伝わらないし、伝えれば今度はあちらが怒る。まあ怒るだけならましです。周囲の方を巻き込んで大変なことになることもあります。私の立場が危ういどころか、立つ場所がなくなることだってあります。本当に発言は慎重にならなければいけないです。

ただこちらがいつも気をつけたとしても、相手がいつも気をつけないなら問題は無くなることはないです。だからといって私は完璧には程遠いので、私自身をあらためて見れば人のことも言い難く(言えなく)なります。

聞く耳がある人・今より自分を成長させたいと思う人は、私ができてなくても言葉や態度を汲み取ってくれます。本当にその方達にはいつもお世話になっています。迷惑をかけています。

逆に言えば、私よりできていない人ならば反対となります。

こちらに迷惑をかけ続ける。感謝しているのであれば問題無いことです。ただ中には私はともかく誰にも感謝しない人もいます。むしろその方は自分に皆が感謝してほしいと思い続けているために人に感謝をしない傾向にあるようです。

世の中お互い様なんて言葉があります。「自分だけが助けている。自分は少しも相手に助けられていない。お世話になっていない。」そんな人は少ないように思います。ただ世の中は広いからそんな人も近くにいるかもしれません。

きりつけて言葉を放つことも時には必要です。ただそれにはかなりの前提を必要とします。そう言い切れる人は見渡せば少ないです。

私は余裕が無くなればなるほど、してはいけないことですが、つい相手に激しくきつい発言が増えています・・・。反省し落ち着いた言動へ移したいです。

余裕が無い時、相手よりこちらが辛い時、大変な時、そんな時に私の本性は出ます。余裕があれば隠せますが余裕が無い時はボロが出まくるとでもいいますか・・・


大変な時こそ、しっかりしたいです。


忙しすぎる時に理由も全くわからないことを言われても怒らず冷静でありたいです。

刺や角(カド)のある言葉・態度も少しずつ無くしていきたいです。


きりつける言葉を真似されることもあります。使い分けや普段の自分を見れていなければ全てただ自分に返ってくる。(そのことを忘れてはいけないです。)


しゃぼん玉

 仕事から帰ると、次男坊が学校で使う縄跳びが切れたので新しいものを買わないといけないと騒いでいました。
学校の教材ですし、買ってあげないといけないです。家内へ「どこで買ったらいいかな」「百均にあるわよ」最近は何でも百均にあります。
子供達の用事を送って行く帰り道に、百均に三男坊もついてきていました。数多い商品に3歳のけいくんは目移りしています。どれもよくみると100円だからおもちゃなどちょっと子供だましですが、それでも100円(正確には105円)です。
最初は新幹線のキャラがついたキャンディを見つけ「これほしいの」三歳児に甘い私、「いいよ」なんて笑顔でこたえます。上の子が見ていたら怒りそうです。「けいすけだけずるい。」ふふふあの子は今小さく可愛いからいいのです。なんて心のなかで返事をします。

お目当ての縄跳びを発見、縄跳びも男の子用の青、女の子用のピンクの2種類だけかとおもったら、ながーーい縄跳びも100円で売っていました。5.5mの長縄跳び用のものです。

私の子供の頃は二三人の縄跳びをつないで皆で回して遊んだものです。今は百均にその完成品が100円で売っているのか・・・、なんて時代が変わったことに驚いていました。

その頃家内と「けいくん」は物色中でした。

「けいくん」はキャンディをあきらめ、しゃぼん玉セットを見つけ「これをかう」と家内へ持ってきて嬉しそうです。

買って帰ればもうお外は真っ暗、「明日遊ぼうね」さいわいなことに私は休日、約束どおり少し雨が降っていましたが寒い外の雨の当たらないところでしゃぼん玉を飛ばしました。

100円でストローで吹いて飛ばすセットと星形で大きいシャボンを飛ばす器もついています。

ふーと息を吹けば、しゃぼん玉が宙を舞います。

風に揺られ辺りを不規則に飛び交うしゃぼん玉にけいくんは終始笑顔です。

「おとうさん、しゃぼん玉!」

走ってしゃぼん玉の後を追いかけています。

本当にあの子を見れば、自分の子供の頃を思い出します。しゃぼん玉の中は夢がつまっていると信じていました。しゃぼん玉のように私も飛びたいと思っていました。

何故あんなに綺麗な丸になるのだろう。本当に綺麗で心を奪われていたことを思い出します。

今あの子もしゃぼん玉と一つになっています。


自分一人で百均へいってしゃぼん玉を買って飛ばしてもそうはならないだろう・・・



あの子の無邪気な笑顔がないと、見えないものもあるなんて思う休日でした。


大きくするには

不慣れな(大切なことをまだ気づいていない)方へ、大切なことを伝えたい。

何にでも当てはまります。クラブ・部活・武道・学問・仕事・人生どれも先に歩みを進めている方ならば後から来る人へ伝えようとします。

ここにある後から、後にはじめたことを意味していません。自分より後から始めた人でも自分より高い見地の人はどこにでも存在しています。その場合先にはじめていた人が時間を問題としても世の中で相手にしてもらいにくいものです。

自分がどこであれ、相手がどこであれ、人間として成長したいのならば現状を正しく認めるしかありません。

相手に伝えたいことがうまく伝わらない。それも私はごく最近まで相手が悪いのではないかなんて思い違いをつづけていました。ここにあらためてその方たちへお詫びしたいです。

いつだって「偏りすぎ」「思い違い」「勘違い」「おしつけのみ」「狭い自分の世界(から見たり得たもの)」「邪なもの」「自分で決めつけすぎるもの」などを相手に送っても受け取る方は少なく、受け取れる方は人間ができた方のみとなります。

自分自身の世界が狭すぎるため、その世界観で物事を推し量り進めていく人へ、先に行く方はアドバイスを送ります。それは自分が過去において辛抱・苦労・努力をもって乗り越えたことを意味しており、目前の方に苦労を少しでも少なくしたいなんて伝えようとしているようなものかと思います。

当然相手がそれを全て受け取れば、伝えた人も満足するでしょう。

けれども相手が何一つ話をしたのに聞いておらず(覚えていない)実行に反映されない(理解したというが理解していない)こともよくある話です。

「これが本当に大事なのに、何故理解してくれないのか(理解しようと努力しないのか)」

この記事を書いているあいだも、そんな声が世の中どこにでも満たされているだろうなんて思います。

そんなことを考えないようでいて考えながら、言動がでています。「どうすれば伝わるか(理解してもらえるか)」の問が私の中では一般的です。

伝いたい人の器が小さいために受け取れない。目前に来る有難い言葉・文・態度・生き方などが素通りするともいいます。簡単にいえば「聞こえておらず(聞いていない)、理解していない(理解できない)」俗的には馬の耳に念仏などという人もいるかもしれません。

そのために私のように言葉を多くしたところで、その人の器が小さくすでに満たされていれば私の言葉・態度・思いはあふれて何一つその人へ入っていきません。

小さい満杯の器から溢れているだけのことです。その人に罪もありません。入らないのだからしょうがないです。こちらがそれを理解してないことが罪です。私が間違っているだけのことです。

「どうすれば相手の器が大きくなり、大切なことを多く受け取れるか」

相手より私のほうが大問題のことが多いことばかりですから、他人のことだけとやかく言えません。ここは他人に置き換えながら自らに問を発し、自分の器をどうすれば現在より大きくなるかなんて考えます。

できた方ほど、問題なく全て(ほとんどのこと)を受けとめます。そうでない方は逆上したり、怒り狂ったり、相手を否定したり、誹謗中傷し、自らの過失を認めることがなく誰かを犠牲にしてでもなかったことにしようとします。

「器が小さいため、入らないものは注げばこぼれる。」

こぼれた分は指摘したり入れようとした人に怒ろうとしている。そう考えれば私自身納得がいきます。簡単なことから入る器ですから、器が小さければ小さいほど難しいことが入っておらず、簡単なことしか言えません。
(他人事にして書けば痛くないです。我がことと考えれば激しく痛い言葉です・・・)

ここからはその人に応じて、出現方法が変わります。ある人はスポーツ(クラブ・部活)を通して伝えようとしたり、囲碁・将棋・百人一首(文化的なもの)に没頭させたり、書物(先人たちの叡智を通して)であったり、お手伝い(無償の労働)を通して、ボランティア(慈善事業)、仕事(対価として金銭が発生する)、修行など、他にも人の数だけその出現方法が異なりそうです。


他の人は問題ないでしょうから、私の出現方法(器がどうやれば大きくなるか)それがわかれば幸せだなんて思います。


大きい器を持っていれば、簡単なことから難しいことまで様々な問題や多様な人間を前にしても簡単に受け止めることができる。




皆様に教えをこわねばいけないことばかりです・・・


あまい

 自然に行っている。考えないようでいて考えていることもある。予測しながら発言・行動したりする。

言わなければ伝わらないこともあるけれども、言わないほうが伝わることもある。

最近は有難いことに仕事が忙しい。大勢の方が来られている。受け側のこちらはてんてこまい、給料はそれに伴いアップなんて夢みたいなこともない。

はじめから気持ちは続いている。それに身体が徐々についてこれなくなっていく、忙しくても初めは体が思うようについてきている。少しずつ体力が減っていく、身体の同じ箇所を何日何日も酷使していけば気持ちとは裏腹に身体が言うことを聞かなくなり始めていく、痛みもでてくる。「何とか目の前の仕事を滞り無く行い続けたい。」世間ではそれを簡単に「あなたの身体の使い方が悪いだけだ」と簡単に言う人もいるだろう。

私だけではなく、会社の従業員であれば目前の仕事ができなければ存在する意味が無いと自分で思う。言い訳をして仕事をしなくて済むのであれば、大抵の方が言い訳ばかりするだろう。

自分の仕事で身体がなんて、「なかなかプロになれないな」なんて思えば、野球でもサッカーでもプロだとしても身体の故障と関係がなくなることはない。

それでも自分の仕事は、当たり前なんだけれども自分の力でしか場所を守れない。



誰かが私へ声をかけてくれた。目前のことを心配して声をかけてくれたのかなと思い、「大丈夫ですよ、一人で行けます。」いつも共にする人がいないから心配してくれたのだろうから、そう答えた。どうもしっくりこない(返事をしっかりその人は受けとっていない)。

何の事はない。私の目前の仕事は見ておらず心配もしておらず手伝う気もない。ただいつも共にする方に仕事を頼みたいから、忙しい私の時間を割いて声をかけただけだった。


がっくりきた・・・


本当にショックだった・・・



まだ私は知らずに甘えている自分に気が付かされた。目前に山ほど仕事がある時に声をかけてくれたから心配してくれるなんてその人に思っている私の考えの甘さに・・・

何も言わなくても伝わる人には伝わっており、無言で手伝ってくれる。こちらが言う前にしてくれる。言わなければわからない・言ってもわからない人に何を私は期待していたのか・・・



「相手ではない、自分の甘い考えを捨てろ、物事を正しく見ろ」



もっと普段から揺らぐことの(何事にも動じ)ない私を見たい。

ほっと

 何年か前に偶然出会いました。出会いはそんなに良い出会いでは無かったです。それは相手のせいでもなくただの私のせいによるものです。「決めつけ」と「おしつけ」を全面に出している私と出逢えば相手は良い印象なんて受けるはずもないです。

その方は職場の新人として出会い、早いものでもう7年位の付き合いになるでしょうか

出会った頃と現在とその方は変わらないです。私は大分変わったと言いたいです。

その方は思ったことをハキハキと言う方でした。新しい職場不慣れな職場へ来てハキハキとモノを言うことは難しいことです。誰もが思うこと「新しく入ってきたばかりなのに何がわかるのか」例外がある人もいます。私はその「例外を見る目が無かった」と最近になって反省しています。つまりは今は以前と正反対の見方をしています。

「過ごした年数によるものですよ」と人が言えばそうかもしれません。根性が悪く常に意地悪な方と年数を長く過ごしても私はその人を見る目は変わらないです。「いつまであなたはそう(皆に対して根性悪)なのだろうか」と自問しても、その人と過ごした年数が10年以上になり、根性悪い人が少しも変わる気がないのを見続けると「おそらく墓場まで根性悪いことは持っていくのだろう」なんて人間が出来ていないことしか思いません。

悪い見方を私がしていたとしても、自らの行動と過ごす年数をもって私の見方を覆す人も沢山おられ、私の中ではそういう方を「優しく出来た人」と名づけています。

そういう方と時を同じくすれば、私は本当に

「ほっとします。」

オアシスや心の拠り所と同じ響の言葉、「あなたがいてくれると有難いのです。」続く言葉は「いつも有難う御座います。」

最近その反対の言葉を(遅くてお恥ずかしいことですが)知りました。

「あなたがいてくれると、私はほっとします。」

反対は

「あなたがいると、私はぞっとします。」

私自身が愚かなために長い年数を過ごしたとしても、自分にだけ優しくいつも頑張っている人を全く見ることがなく、自分の都合のいいことだけしか言わず、虚言が多く、悪いことをする人と一緒にいても

「あなたがいると、私はほっとします。」

そんな言葉はまだ今の私の口からその人へ出ることはないです。

実際に「ほっとします」を自分に言われる。反対のことを言われる。

一回二回の多少の悪いことでは長い年数付き合っても「(あなたといると)ぞっとする」なんて言われません・・・



ただどんな人と一緒にいても学ぶことは日々多いです。現実好きな人とだけずっと過ごす。優しい人たちとだけずっと一緒に過ごす。出来た方とだけずっと一緒に過ごす。それを選んで過ごせる人はいないのではないかとさえ思います。

善い人であれば、その人が出し続ける善いことを自分なりに身につけていけばいいだけです。

悪いことを常に出し続け自らを省みることもなく、ただ他人のせいにし続ける人で成長もなく性懲りもない人だとしても、その人が出すことをしないように、自らが少しでもそれに近いことをしていればその人のようになることを常に目前で教えてくれています。その人の前でも自分は礼を失っていないかと問われてもいます。目前の人のせいにして自分の出来る事を怠けていないかと問われています。

善い人ばかりに囲まれるよりか、悪い人ばかりの中で礼を失わない自分であれば素晴らしい自分と出会えます。


短く言葉にすれば

「周囲は悪いまま、いやそれどころか悪くなる一方だけれども、こちらは本当に勉強になる。」

ただこの時間が10年以上も続けば

「しないでいい勉強だってある。(どうにかならないのかな・・・)」

なんて私へ教えてくれる人もいます。


答えは常に決まっています。自らへ問を発した人のみがその答えに辿り着こうとする。


「己に真摯に問うことのないものは、問うまで本当の自分と出会うことはありえない。」


(人間は本当の自分をどこまで知るために努力を続けれるか、それによりその人自身が周囲に現状のその人を出現させているんだろう、なんてひとりごとを書いておくのです。)

みれなくても

 苦手な人がこちらを見ている。

何故かその目線とその人自身を避ける私を見る。

染まらないようにありたいのか

関わりを持ちたくないのか

悪い言葉を聞きたくないのか

呆れる言葉を聞きたくないのか

思慮の欠片もない言葉を聞きたくないのか


まだ(私に)足りないものが多すぎるが故に問題となっている。




気がつけば保身に走る人を見る。

誰かと話をする。

「(あの人は)ひとつも努力しないのに、欲にだけ走っているだけだ。」

そんな言葉が帰ってくる。

誰かは自分では努力していると思い込んでいる。周囲は努力していると思えないその差だけ言葉が重くつらくこたえる。



人の目、具体的には顔はかぞえきれないほど見える。

私が苦手な人でも、その人を好きだという人もたくさんいる。

私に向ける顔と好きな人に向ける顔・愛する人に向ける顔・仕事の顔・普段の顔、刹那毎に変化してる。自然状態でその相対する人に向けて出現している顔がその人の顔をあらわす。だが全てではない。

「あんなに良い人が、こんなことをするわけがない。」顔は刹那毎に変化していく。善い人に悪いことが出てくれば「魔が差した」などの言葉が出てくる。

私の顔はいくつくらいあるのだろうか


よく怒る私の顔、不機嫌になる私の顔、苦手なものを前にした私の顔、不快そうな顔、愚かで不出来な現状を突き詰められたときの顔、不躾な態度をとりつづける顔、器が小さすぎて抱えきれずにいっぱいいっぱいの顔、相手のことを全く理解できないことを自分自身すらわかっていない顔、周囲に我が一挙手一投足がどのような影響を与えているか気づかずにいる顔、必死に私自身の悪いところを隠せないのに隠そうとする顔、嘘をついているのがばれているのにバレていないと思い込んで嘘をつく顔、自分だけの狭い世界の中で自分だけ思い込みこれがそうだと決め付けている顔

本当に相変わらず私の悪いところはきりがない・・・


その顔は鏡で見れない。真っ只中に鏡を見ている顔と真っ只中の顔はまた違う顔となる。


見れなくてもたくさんの顔をみつめたい。



(私は)どれだけの顔をもっているのだろう。




(人はどれだけの顔をもっているのだろう。)


一つずつ

 誰かを見る。この誰かが具体的になるとき、好みが発生することが多い私、誰かをあげるのではなく、だれかの何かを一つずつ上げている。その何かを一つずつ記してみる。

「自分はどうなのですか」という反問がくることを考えない・受け取らない。

人の悪い所だけは余すところなく、どんなに忙しいようでも見逃さない。

人の悪いところは埃を撒き散らすように、周囲へ些細なことでも漏らすことはない。

自分に悪いところはないと言い聞かせている。いや「無い」とあるのに言い張る。

写真に綺麗に写っていれば喜ぶ。伴う中身があれば何の問題もないなどの話をすれば、「中身は写真に写らないから問題ない」と返ってくる。

困ったときに信じてくれればいいのに、余裕があって都合のいい時だけ「あなたを信じている」と告げてくれる。

実際は縁の下の力持ちが必死に頑張っていることばかり、手柄はほとんど自分のものだと、ふれてまわる。

物惜しみがひどい。身銭をきって人に何かということが皆無である。

事実とは違うことも多い上に、大したことではないことでもアピールがうまい。

類は友を呼ぶ。悪いことしか言わない・しない人たちはよく集い・事情があって集えなくても緊密に連絡を怠り無くとりお互いをフォローし合う。一人で立ち向かえばどうなるだろうか・・・

人より、地位・肩書を見る。それ以上にその人ではなくお金しか見れない。

自分は誰かに沢山品物をいただいた。同じものを自分よりは本当に少なくしかいただいていないのに何故かそれも欲しくてたまらない。

「私は優しい」「私はできている」などの自己申告が周囲と比べて格段に多い。

その人の現状(悪事)を突き詰めて返答を迫ったとしても、相手は揺るがない。その現状を相手はひとつも受け取らない、突き詰めた人が持って帰る羽目になる。

悪いことをしていても悪いことをしたと本人は思うことがない。その人が悪いことだと心から思っているのであれば謝罪し即座に改める。それがないということは悪いとおもっていない証拠である。うわべだけの言葉は不要である。

多くの人に怨まれても、怨んでいる人達が自分たちへの妬み・誹謗・中傷としか受け取らない。「私たちは優しく・人も羨むものを持っており・ついでに人間も出来ているのだから」結論は常に決まっている。怨む人が悪いと決めつけ現状に即しての変更などありえない。

相手を褒めることもある。その相手は限定される。自分の悪いところを助けてくれる人たちが仲間となり、その仲間だけを現状がぱっとしなくても褒める。仲間や家族以外は褒められることはないだろう。

そうかといって、人間であるから稀に善いことも行う。善いことを人は簡単に信じる傾向にある。善いことを人は信じているのに、その人は自分が善いこと(そのもの)だと信じている。心は日々移ろい変わりやすい。たゆまずに信を持ち続けることは困難な道である。

ある人が教えてくれた。(私にとって親しい人同士の会話なので言葉が下品なのはすみません。)

「しっかりとしたことを長い時間行い続ければ、よっぽどのアホでなかったらおぼえていく。」

そう言ってその方はどのような方にも礼を失わない。言葉も少なく、正しい行動によって道を切り開き指し示していく。
これだと思った。

盲点もある。

「よっぽど」の人であれば、行い続けても通じることはない。信頼も築けない。伝わらないこともある。

でも、大抵の人には通じる。


一つずつ記したことの反対のことをすれば、割と中身がしっかりしていく。

「何故悪いことを書いたのか」

教えてくれた言葉がある。

「私は悪いことを言っているのではない。悪口を言っているのではない。現状の不満をあげつづけているのでもない。」


「その人のありのままの現状を言っただけ」


 私の現状(ありのまま)を言葉にして周囲が耳を塞ぎたくなるほどの言葉にならないようにしたい。他人がいくら気をつけてもその人自身がよくなるだけ、他ならぬ私自身が気をつけなければどうにもならない(話にもならない)。


あの子と私

あの子(幼い子供達)を見れば助けられることが多い。

時に限りなき純粋性を周囲へ身体から出している(勝手にあふれこぼれつづけているだけかもしれない)
大人に例えれば、善人と呼ばれる人が優しさを隠せず常にこちらへ向いてくる力と同じようなものか、悪人の特性は現状を想像してしまいつらいので善いことをかきたい。

あの子(達)にまだ中身、この中身とは社会を生きるための知恵・生活のための言語・上手・計算能力大人にあってあの子達にないものといえるかもしれない。

中身がないため、つまりは自分を支える根拠となるものがないために自分をあまり見ていない。

他者を見てわがことのように即座に思うところが多い。圧倒的な壁の少なさ、いや壁や柵や縄張りを見ていないように思える。あって直ぐ同年代の他所の子だとしても心を通わせれる。心に障壁がないから、自分がないから、ただ自分を出した時には対立する。自分をこちらが出せば相手も出そうとする。いざこざが生まれる。現実を生きていくことを不器用ながら学ぼうとしている。それもあの子達の特性の一つ、特性は他にもたくさんある。

自分をあまり見れていないようだけれども、自分のようにしなければいけないと心が叫び、思うように行くことが少ない現実に触れて大泣きする。時折は上手くいくという現実にも出会う。つらいことが多いことが現実なのだという認識はあの子達には薄い。私もそんなあの子達の親だからプラス思考という都合のいい子供の思いを捨てきれない。

善因善果の言葉が似合うあの子達、善いことをすれば善いことに出会うことをすべて信じることができる。

現実に生きる大人は、あの子達とは違う受け取り方をする人もいる。

「善いことをしても報われることばかりではない。」

それもしょうがない。何がしょうがないのか、善が正しく判断されるような社会のあり方(法律・情勢・職場・学校・公共の場・狭い世界)でないことが往々にしてある。簡単に善を行えば率先して評価される社会の仕組みにその人ではなく社会(その人を取り巻く環境)がついてこれていないこともある。善と自分自身のみ判断しているのであれば善と呼べないこともある。ただある人が「これこそが善だ。」周囲が納得できる言葉や態度を放つ人間も確かに存在している。

簡単にそれを「善因善果」とあらわし、反対であれば「悪因悪果」ともあらわす。それはあの子達によく届く、またその先をさらにあらわしつづける。

「善因楽果」善いことをすれば自分の心は喜び満足する。結果に終始しない態度を仏教はときつづける。あくまでも動機を尊重し続ける。


「善とは何か」


私も何だろうかと問を発する。善の特性を1つずつ列挙していけば「善」の全体像がおぼろげながら浮かび上がることになるだろう。

人によって受け取り方・発現・色・かたちも違うように思う。「善がこれだ」の「これ」としてここへ私は出せない。

(私なりに)思うことがある。

「自分も喜び、皆も心から喜べる」これは特性の一つだと信じている私を見る。ただ自分の答えを他人におしつけ、それがこの世界の全てだと決めつけてはいけない。他人にも価値観の相違がある。善悪の基準も私と相違点が必ずあるだろう。


見難い遠くより、最も近いところからみつめたい。


私はあの子達と心から喜びたい(喜ぶことが自然に出る私でありたい)。


私は職場の人達と心から喜びたい(喜ぶことが気がつけば割と出ている私でありたい)。


私の思い(この何かとは何だろうを見る人に、少なからず喜びを感じさせられることのできる)を出せる私でありたい。


日々それを追い求めたい。



「私はただひたすら善を求め続けた。」


具体例を示し続けた人の中にゴーダマブッダその人が存在している。ゴーダマブッダはこうも語る。



「己が証したことを語れ」



現実問題が私には本当に難しい(だからといって私はあきらめない)。


あの子達が大人になった時に、お互いの歩いた道の話を語り合いたい。

(私が)寝(ている間にも)子は育つ

 最近の子供達特に末っ子の三男坊「けいくん」は自由奔放です。

「これをお願いします」なんて言えば以前は素直だったのにあまのじゃくになっていたり、自我が芽生えてきて言葉遣いも妙に男の子らしくなってきて、「ぼく」より「おれ」と言ってみたり、「これをして下さい」なんて前は丁寧言えていたのに「これして!」なんて命令口調にわざと変えて言ってきます。

素直で笑顔がまばゆいあの子から、ちょっと知恵がついてきています。自分も少しずつ確立してきています。

家内が言うには上のお兄ちゃん二人より少し遅く、あの子も「何でも自分でやりたいという時期」が来ているようです。お出かけする時に靴を履かせようとしたら、「自分ではく」履かせられることを嫌がります。

まあ可愛いらしいものです。現実的には時間が全然ない時のお出かけの時に「自分で!」が沢山くると時間がどんどん削られていきます。上着を着せてあげようとしたら「自分で」靴を「自分で」車にのせようとしたら「自分でのる」本当に成長することは有難いです。が!時間がない時は本当に困ったことになり、こちらが急いでしてあげて時間に間に合わせようとすれば機嫌が悪くなるという、本当に可愛らしい時です。最初はそんなことわからなかったから頭からよく怒っていた自分を覚えています。(まあ時間がない時はやっぱり怒ってたりするのですが)

私が体調を崩していた間、次男坊(小学3年生)も私とは違う風邪にかかり何日か寝込み、しっかりと言いつけを守りお布団できちんと寝ていました。(正確には体調が悪すぎて何も出来なかったというのが本音でしょう)

次男坊も病院の先生が今日まで学校は休むようにと、経過観察のため家内と病院へ検査にいっていました。私は「けいくん」とお留守番、久しぶりに自宅でゆっくりしました。

病院と買い物から帰ってきた二人、お医者さんはもう次男坊も学校へ行っていいと、その後久しぶりの外出で興奮していたようです。次男坊もバーゲンの品を家内が見て楽しんでいるのを一緒に楽しめるようになったようです。家内が嬉しくそう私へ教えてくれました。「けいくん」より小さかったのにねえあの子(次男坊)も

皆が元気になって一緒に時間を過ごすのも、小さい頃だけかもなんて家内と言います。大人になってもそうあればしあわせでしょうが、多くは望めません。

子供達もまだ小学生そのうち、中学生になったり高校生になったり大学生になったり社会人になったり、親になったりするのでしょう。(順調に行けば)


今は欲張ることより、今(あの子達と家内との時間)をもっと楽しみたいです。


お疲れさま

新年明けて、今日は13日毎日忙しいです。(忙しいのが給料に反映されないのは恐らく現在の社会情勢でしょう。)

職場で出会った人が私へ、一昨日ぐらいだったと思いますが「もう今年は6日出勤しています。(10日の内6日位出勤ということでしょうか)」と今年は忙しいことを言っておられました。一般の方であれば正月休みが長い人も確かにいます。お互い色々ありますから

「大変ですね、頑張ってください。」

よく考えてみたら休みなしで働く人だって当然いるでしょうし、私も13日現在のうち休日は一日だけです。上には上が山ほどいるでしょうし、当然休みばかりで働いていないという人もいるでしょう。単純に日数ではかれないことだってあるでしょう。拘束時間が長く仕事がキツければ一日は本当に長いし辛いです。

「本当にお疲れ様です。」

何もしていないとしても、一日は終わるし何故か疲れることもあるから、やっぱり一日の終りは「お疲れ様です。」

体調が勝れない私の仕事を周囲は黙ってサポートし続けてくれました。やっと明日は休日ゆっくりしたいところですが子供達も家内もいるので、何もせずまったりだらだらなんていう休日はちょっと無理そうです。

それでも職場の人も家族も私が気がついていないだけで、心配してくれていたり何かを手伝ってくれていたり普段より負担をかけています。何気ないことが有難いです。

いつものパターンであれば、元気になってはしゃいでその恩を忘れるということなので、元気になればきちんとお礼を何かしたいです。

気がつけば長男坊も12歳、私も年を少し取りました。20代の頃より40もくれば少し体力や回復が落ちてきたと思います。

まあそれをオヤジになったというんでしょうけど(笑)

一年一年歳をとることは避けようがないから、上手に身体とも周囲の人とも職場の人とも付き合って行きたいです。明日は仕事が無いのでほっとしていますが、気を抜きすぎて病をぶり返さないようにします。


みなさんもお身体には気をつけて下さい。

何でも

 自分のことは省みない。遅刻や無断欠勤、恩恵(地位・肩書)を利用して特別扱い、けれども他人のことは細かい(些細なこと一部始終、揚げ足をとれるならどんなことでも)ことまでとやかく告げてくる。

「誰かを貶めれば、自分が優位に立てる。自分が得をする。自分はいけている。」終始一貫してその理論を適用し続けている。

自分のことは本当に見難い。


相手のことは本当に見やすい。


自分をどこまで見て行動・発言しているかがその人のほとんどをあらわしているように思う。

私の上司は晩になればいつもの如く口にする言葉があった。

「自分を中心に地球は回っていない。天動説はいけない。」

まだ20代後半の私には本当にためになった。「船頭多くして船山に登る」上司はその言葉も口にしていた。

忙しい日が続けば「忙しい方がいいんだ。小人閑居して不善をなす」何度も口にしていた。


最近忙しい、あのときから12年くらい経ったが私の考えも幾分か変わったように思う。暇なときは調べ物・書物をあさり、忙しければ調べ物や勉学がはかどらないことをなげくようになった。

きっかけはやっぱりあの言葉「小人閑居して不善をなす」教養や人徳のない私のような人は暇になれば善いことをしないどころか、悪いことをしがちだ。

自分を正しくみれば、相手のことも悪くも言えなくなることも多い。時にはあえて自分のことをみずに言わなければいけないこともある。

心からの感謝をできないのであれば難しいことに遭遇するかもしれない。

暇な時間を有効に利用しようと思わなければ痛い目に遭遇するしれない。

何かしら努力をしなければ、後悔は多くなるかもしれない。



私は痛い目にはあまり会いたくない。後悔も少ないほうがいい。


日々仕事が忙しい。体調がまだ戻らないから家族に迷惑をかけてしまう。明日のために早く休むことにします。