変わっていること

 あまりよくないことですが、瞬時に物事を判断できなかったり、考えにふけりすぎたり、考えがまとまらなかったり、簡単にいえばパッとしないのです。

「普段はパッとしているのか?」

そう問われればそれも怪しい限り・・・・・、よく「悟りの縁には限りがない」なんて言いますが、私の怪しいことも限りないなんて思います。

ただ最近問われれば断言しようと思う言葉はあります。

今日初対面ですが出会った人は自然にその言葉が出ていました。

「私は仏教徒です。」

別にその言葉でなくても、「私は仏教を信じています。」「私は仏教を愛しています。」「ブッダを信じています。」でも言葉の意味は変わらないと私は思っています。

突然脈絡もなくそんなことを言えば誰でもおかしいなんて思うかもしれませんが、自然に違和感なくその言葉がでてくることに感銘を受けました。

宗教かぶれなんて言葉を時折耳にします。私は別に真摯に生きようとする人が何かしらの宗教を信じていることはあたりまえのことだと思います。

仏教以外の宗教に詳しくない私です。だからといって仏教に詳しいのかといえば仏教の歴史は長く広く深く高いものですから、詳しくないのですが惹かれてしまう私なのです。

ほとけに創造主や支配者の影はどこにもなく、始まりから一貫して現実をありのままに見つめ、現実を変えるのではなく苦しみととらえている自身の心を知ることからはじまり、苦しみが苦しみとならない心(人)となるよう、今までにおきた悪いことは成さないように、これから出る悪いことをなくしていくように、まだおきていない善いことはおこなうように、今までにおきている善であればそれを増やすように、常にわれわれの現実と共にありつづける。

おしつけでもない(おしつけてはいけない)。

かたよりでもない(かたよりすぎてはいけない)。

人間らしくあるように(獣ではない、獣以下でもない、人間が人間として)。

その信じる道(宗教)は人によりなんでもいい(宗教はいいけれども擬似宗教はいけない)。



私が信じる道とは仏教であり、仏教が大好きです。


まあ、今日出会った人の言葉は本当にやられました。


こんなことを思ったり、書いたりすれば「変わっている私」という人もいるかもしれません。でもしょうがないのです。それが「私」です。


いつしか思います。「私」という言葉、意味が深い言葉です。この言葉に広く深く慈しみと愛と多くの人を包めるものを感じさせられる「私」でありたいです。


その思いや言葉とは裏腹に本当に私の現実は厳しいことばかりです。



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見誤りと境界線

自分が何をしているのか、自分で把握していると思い込んでいる私。

ものごとが上手くいっておれば、それも間違いではないだろうなんて思う私。

結果好評であれば、自分がなしたことにとらわれ、自分だけの力でなしたとさらに思い込み、

自惚れと自慢がどこからか到来しその中に包まれる私。

今自分がやっていることが、正しい・間違っていない・きちんと出来ているなどと思い込みすぎてとらわれる私。

世の中さまざまなことが関わり合って一つのことがあらわされているのに、自分がなどと思い込みすぎる私。

なさぬこと、なしたことにとらわれすぎる私。

一体なんだというのだろう。

自信をもつところではないところで自信をもち、肝心な時には自信がない・・・・私。

悩み迷いそのものは悪くない。ときには誰よりも悩み迷わなければいけない。

どの程度とかいう問題ではなく、自慢・慢心・自信が人より出すぎれば必ずおかしいものと人の目に映る。

簡単に一言で言う人がいた。

「(世間の人に比べてたいしたことをしていないのに)自分のしていることに酔わんと、人に感謝してなんぼじゃわ」

返す言葉もない。

誰かが心から喜ぶことは私も嬉しいと思う。

「自己満足で終わらないこと」

「客観的な目線を少しでもいいから増やし続けててほしい」

「自慢・慢心・自信を持ちすぎないこと」

「さまざまな方へ、普段から感謝を忘れないこと」

「もっと些細なことで怒らない自分であること」

私にいつも示してくれる方の一言に尽きる。

「誰かが背負えなくて前にすすめないというなら、それなら自分が背負って前に進むしかない。」

世界は広い。世界に誰もが自分の枠をはめ込んでいる。
自らの心を枠で狭くするのではなく枠を広げる努力を続けるか、枠をなくす努力をしたい。



世界と心の枠の境界線はどこにあるのだろう。




わからない、わかっていない(私)

 「一寸先は闇」

私はわからないことばかりです。最近も時を同じくする方にあえて嘆いたことがあります。

「私だってできれば尊い生まれの子でありたかった。」(天皇や王侯貴族、生まれながらに尊い人達のことをさしていたのでしょう・・・、浅墓な私です。)

「できれば羨むようなところへ生まれたいよ」

「私だけではないだろう・・・。誰だって恵まれた人を見ればそのようにありたい。どんなに願ったとしても誰もが自分が生まれる時・場所を選ぶことはできない。」

「自らが望む理想の両親の元へ生まれてこれる人はいないだろう。」

生まれることは、わからないわかっていないことを持ち誰もが生まれてくる。


目先の楽に走り、生のひとときの快楽にすがる。自分しかみることができない。自分さえよければ他はどうでもいい。我が生のみに傾倒するもの。

この世は苦しみ、どうせ自分の思い通りにいかないのなら私は何もしない(努力をしない・新しいことを行わない)。いずれ死ぬのだから今この場で死んでもどうせ同じことだろう。虚無主義・死のマイナスにとらわれなすべきことをひとつもなさない。

どの段階にせよ、どちらかに傾倒すれば他者からみればおかしいものと目に映る。

私が生まれたからには、私の生命はやがてつきることは誰にでもわかっている。ただそれがいつかすらわからない。

明日がどうなるのか、誰にもわかっていない。人は生まれながらに知らないことを生まれ持っている。根源的無知や原罪などの言葉はその意味の全てではないがあらわしているのだろう。

生の一辺を見る。


死の一辺を見る。


生と死の二辺を見る。


生と死の二辺を超克する。


生でもなく死でもなくその両者の間に存在するものを見る。


生と死の極、両者にとらわれずその間にある大宇宙(大海)を自由自在に生きる道をゆく。



紀元前に起こった仏教は始まりから現在に至るまで終始一貫して、厳しく現実を見つめ、苦の超克と中道をとき続ける。


死と生に偏らず、両者をあきらかにみて、両者を超越する道を説き続けている。


(私には)まだわからない・誰よりもわかっていない・・・



いずれは「このはしわたるべからず」と書いてある人生の(橋のような)道を、にこにことして真ん中を歩いていきたい。


おでかけ

 免許の更新へでかけました。近場の警察でもできますが、県にある免許センターであれば平日いつでも受付即日交付してくれます。

まあ私の更新ではないので、末っ子の「けいくん」の面倒と運転手担当です。

割りと更新に時間が掛かるといっていました。ずっと車の中では「けいくん」も退屈です。

「ドライブへ行こう」

笑顔で喜ぶけいくん。あてもなく上勝方面へ走らせます。特に何もありません・・・・・。しょうがなくUターン。免許センターへ戻ります。すると海まで3kmとの看板、ここは海でしょう!

「砂場でお城でも、けいくんと作るかな♪」なんて頭のなかで思いながら車を走らせます。

山を登り終え、今度は山を下ります。すると右手の山側に自然の中に溶け込んだ公園があります。

「目がキラーンと輝きます。(私の目ですけど)」

「けいくん、公園に行こう!」

「おとーさん、こーえんいこう」

「おー、いいね」

山の斜面沿いに、階段とスベリ台、網目の大きな縄で斜面をのぼり体力をつける遊び場、山の頂上へ向けて何ヶ所にも別れて作ってあります。

「けいくん、がんばってのぼるぞ」

「がんばるぞー♪」

頼もしい返事です。つたないですが、長い階段を次々手をつないで上がっていきます。とりあえず一番上がどうなっているのか気になります。この公園のすばらしいところは、斜面沿いに上へ上へとアスレチックがこしらえてあります。下りは階段ではなく滑り台がバランスよくおかれています。つまりは上まで登ってしまえば帰りは何個もの滑り台で一気に下までおりれます!

3歳の「けいくん」自然の中で楽しそうに一番てっぺんまで自分で登りました。楽しいことへのやる気は大人も子供も労を厭わないもんだ、なんて思いました。ただ2回めとか3回めだと「つかれるからのぼらない」なんて言いそうです・・・。

山だから「マムシ注意」の看板や石像がありました。今の時期は大丈夫でしょうけれど、夏場とかは出るのかもねえ・・・、私が子供の頃は恐れを知らず、よくマムシを捕まえたものです。(私の友達は捕まえようとして咬まれ病院へ運ばれていました・・・)大人になった私、マムシを捕まえようとか平気なんて全く思いません。
虫も蛇も何でも子供の頃は平気でした。今は誰よりも何故か苦手です。

山際の公園へ話を戻します。

気がつけば割と時間がたっていました。

「けいくん、お母さんのところへいくよー」

「はーい、おかさんとこいく」

「おとーさん、こうえんたのしかったね、なわのぼるのたのしかった、すべりだいよかった」

「またいこー」

本当に小さい子は可愛らしいです。結局海には行けなかったけど楽しい公園を発見出来ました。免許センターへ戻りました。正面玄関からちょうど家内が出てきているところです。

私は颯爽と登場し、玄関近くの駐車場へ車を横付けし、パッと窓を開け

「さあ、乗りな」(後ろのドアを手で合図しながら)

笑いながら家内が乗ります。

「カッコ良かったでしょ」

笑っています。

「それはともかくいい公園があったよ、今度また子供達を連れて行ってあげて」

そう家内へ昨日お願いをしていました。今日も休日をいただいていましたから、けいくんを車にのせると

「おとーさん、きょうもこうえんいこー」

特に行き先を決めていなかった私ですが、川沿いの素敵な公園で水と川と滑り台を満喫して帰ってきました。できればドライブ途中に「けいくん」が寝てくれれば、その間に本を読もうと思っていましたが、公園も悪く無いどころか最高でした。

他愛もない日常、難しいことを考えすぎるのも好きです。わからないことをわからないなりに学ぶことも最近本当に好きです。難しいことをわからないのに調べて結局わからないことを納得するのも大好きです。

あの子達(子供達)を見て、学ぶことも多いです。

私が子供の頃思っていたことを思い出させてくれます(全部じゃないけど)。

家族が増えることは大変だけれども、あの子達にも将来家族をもって欲しいなんて、親みたいな思いをもつ変な私です。


お昼のラーメン

 「しっくりこない。」

 しっくりくるなんて言わずに

「これだ」

ピタッときているときです。

休日の昼ごはんを何にするか、面倒くさがりの私は

「あるものでいいよ」

「けいくん」は

「らーめん!」

ラーメンが大好きです。家内は私へ

「味噌としょうゆ味しかないけど、いい?」

「けいくんが好きな方でいいよ」

何故私に味のことを聞くのか、私はラーメンといえばとんこつ味じゃないとラーメンではないと普段からよく豪語しているからです。(九州人はやっぱりとんこつばいね!)

先日里帰りした時に、姉と兄に久しぶりに会いました。その時に姉の子供二人にも久しぶりに会えました。家族や親族との待ち合わせ場所まで距離があり、お昼を何処かで食べないといけない時間でした。

姉と姉の旦那さんと兄は、久しぶりにあう私に気を使って、「何にする?食べたいものあったら教えて」まあ私もあまり気を使ってもらうのも好きじゃないので、「道中の寄りやすいとこでいいよ」そんな曖昧な返事が意外と相手は困るものだろうけれども限定させすぎてもなあ・・・、なかなかお店に入れず一軒のラーメン屋さんに入りました。

当然、私は「とんこつラーメン!」兄は「おれはラーメンにこだわりないしどれだってラーメンだから」そういってちょっと変わり種のラーメンを頼んでいます。

姉家族はとんこつラーメンばかり、うんうん(全く関係ないけれど、とんこつらーめんを見れば安心する私です。)。

職場でもよく偏りを押し付けています。「らーめんはやっぱりとんこつだよねえ、それ以外はちょっとらーめんとは・・・」徳島はしょうゆとんこつやしょうゆベースが多いなんて勝手に思っています。

本当に好みなんて人それぞれなのに、かたよりすぎる私です。でも「とんこつらーめん」だと「これだ!!」と思ってしまいます。

今日のお昼は「味噌ラーメン」家内と「けいくん」はどうもラーメンの味にそんなにかたよりはなく、美味しく食べています。私は美味しいけれど「しっくりこない」のです・・・・。

私がよく調べている仏教(宗教)大好きな仏道も人からすれば同じなのだろうなんて思います。私には「これだ!!」なんて思っても人からすれば、普通や気にもならない人も多いのだろうなんて、ラーメンと同じだろう・・・。


ということは


私みたいな人であれば「とんこつらーめん」がピタッときたり、仏教だって「これ(が最高)だ」なんて心の底から信じている。

本当に私は大抵がプラス思考な頭です。


おしつけとかたより、プラス思考、時により私も人をも救います。時には人を苦しめたり嫌がられたりすることを私は忘れてはいけない。そんな味のするお昼ごはん(味噌ラーメン)でした。




見る

 自分をどのようにみるか

あー本当に難しい。(プラス思考の私はつい自分を人が思うよりよく思いがちだし、マイナス思考の人であれば、人が思うより低く思いがちなのだろうし・・)

見た目で判断してはいけない。思い込んでもいけない。馬鹿にしてはいけない。言葉が不適切ではいけない。
相手を軽んじてはいけない。

ただ表面上行うことも何もしないよりは悪くない。気がつけばそのようにしか行わない(行えないと本人に聞けば言うのかもしれないが)人を見て考え込んでいたら、あれは

「(見かけを)補正するのが上手やな」

「それで大満足している。中身は自分で好きなようにアピールするそれも上手」

時折補正上手なその人から

「誰も思ってるけれども口に出してくれないから、自分で言わないと(ほめないと)」

会話や言葉が好きな私も、時には言葉を発せない時がある。

落ち着きを取り戻しせば思うこともある。「無理しなくて、自然体でいいのに・・・」そんなことが口からこぼれていたんだろう。「自然体であれだから・・・・」饒舌な私なのに言葉が出なくなる。

最近、手ブレ補正(カメラなど)とか補正下着とか化粧とか、いいものがたくさん出てるなんて勝手に思っています。皆が言葉を失うような使い方さえしなければ、楽しく言葉をかわせるのに。

人を陥れようとするときだけ、「人前でだけ私はあの人より仕事をしっかりしています。」そのような行動を続ける。その人を追い出したり追い詰めて皆にだめなことを周知させれば、ピタッと取り繕う行動をやめて通常にもどる。

取り繕うことにのみ長けている人は、自分と相手の見た感じのプラスとマイナスを把握し、伸ばすところはより伸ばし、隠さなければいけないことは隠し通す、相手のよいところは隠し、相手の悪いところを全面に押し出す。

「ある意味、見る目がある。」

とにかく徹底している。まあ私も人のことをとやかくいえるだけのことをしていない・・・

変な見る目ではなく、正しい見る目を持ち、皆に心から歓迎される努力をしていきたい。

悪いことを言うとしても、その人をよくするためならば別に(私は)構わない。よくする気がなくてただ周囲へ悪く言い続けるだけの言葉は、私は聞くにたえない・・・


見ていて

 「もうどうにもならん」

 「微笑ましい」

 「不安しかない」

 「安心できる」

 「手がつけられない」

 「できれば一緒にいたいと思える」

 「とんでもないことを口にする」

 「静寂(沈黙)と言葉ともに素晴らしい」

上記の言葉をどこでも聞くかもしれない。

私自身、自分の職業や結婚にあたって自分の言動が確かなものとなっていないが故にさまざまなことがおとずれた。

言葉を変えれば、自分の言葉・行動・考え・態度・目標を自分自身把握しているならば問題も少なくなっていく。逆に何一つ理解しておらず考えておらず善いビジョンもなく他人のことはともかく自分のことがわかっていなければ問題しかない。

もっと短くするよく聞く言葉は

「手に負えない。」

常にどのような人にでも優しい方でも、ねをあげそうになることもある。

「もうだめなんよ私は・・・」

「何が駄目なんですか、あなたが駄目だったら全員ダメだって言いますよ。」

「わがままを言うだけならいいんよ・・・、、人を見て態度や言葉を使い分けたり、嘘をつく、他のことはともかくそれはどうにもならない・・・」

「手のつけようがない。」

その言葉は私には痛い言葉・・・、私は悪いところが多すぎるから人ごとではなく、私の悪いところ・消すことのできない過去と同じものをそこに見てしまう。

誰もが完璧ではない・・・。私は完璧には程遠すぎる。

誰かに対しての辛い言葉を聞けば、私自身が思い知らされる。


偽りのない自身の現状を・・・・


何とかしたい。皆で普通にいたい。

できれば少しでも笑の絶えない日常でありたい。



(私でも他の人でも)見ていてただ安心したい。その場でできることを続けたい。

大きな〇〇い

仕事でなくても家庭でも日常でも、それぞれに誰にでも予算がある。家族でどこかいいところへ行きたいけれども予算が私だけでなくほとんどの人が悩んでいそうなこと。

仕事でも予算を考えることもあるだろう。なにか新しくはじめるのに「予算がないと私はできないんです。」という人ばかりであれば世の中に発展はないのではないかとさえ思う。

私は何か新しいことをはじめようとすれば、「予算0でどこまでの形が出せるか」からはじめる。理想はお金をかけて人がしたことと同じかそれ以上のものがでれば、「してやったり」なんて心の中で思う。

心の声を言葉にすれば

「その仕事をするのにお金をかけたのですか?なるほど、それだけかかったんですか。こちらはたいしたことありません。それと同じようなものですが金額はこちらは0円でした。」

あらためて言葉にすればただの意地悪な私です・・・・。

考えることは好きだから、形にしようとしてこっそりやりはじめたことでも形にならずに消えていくことだってたくさんある。形になって役に立ったものだけを「言われる前に作っといたんですよ(得意満面の私)」なんて顔や言葉であらわしている。

ただ大事なことを見逃して「これが出来てるんなら、こっちの方もできてるの?」「当然、それはしりません(だって考えてないんですから)」うーん、私としては面白いのだけれども、人からすればおかしい私なんだろう・・・。


忙しい人であれば自分の仕事を把握し、任せるところは任せる。お金をかけるところはお金をかける(惜しまない)。この判断がしっかりできている仕事をする人であれば一人前だろうと思う。

かけなくてもいいところに自分が楽をするためにお金を湯水のごとく(計算しているのか考えなしかどちらでも)使う人もいる。簡単な仕事なのに自分はいっぱいいっぱいだからと(自分を守るために勝手な取り決めを自分で決めて)簡単に外の人に仕事をお金をかけて出すこともある。

私は予算にどれだけかけたらいいかわからなくなったり、考えがまとまらなければ、必ず周囲へたずねる。

「本当にこの予算で大丈夫ですか」

この言葉は私が思う気持ちをちょっと正確にあらわせてないがその時にはそれしか出てきていない。ただできた人はその真意を確かに受け取っている。「あなたがこの仕事に対してこれだけお金を払うのはちょっと高いのではないかと思っているのだろうけれども、それはそれで問題がない。」その言葉を略して「それはそれでしょうがない。たのむしかない。」このやりとりで進む。私は外部目線や仕事の量といった様々なことが不足しているから、何事にも断定できる根拠がうすい・・・、だから極力尋ねるようにしている(尋ねなけれ進めない自分がいる)。

誰かが言っていた言葉が耳に残っている。

「必要経費ってのをちょいちょいじゃなくてほぼ間違って使ってる。」

何でも、間違いではなく「大きな間違い」ちょっとした勘違いではなく「大きな勘違い」、赤ではなく「真っ赤な嘘」であったり、ことを悪い方向へ大きくもっていくことは慎んでいきたい。

よく思いつきで言葉を発したり、感情に任せた言葉を発すれば「それは大きな間違いや勘違い」ととられてしまう。



「今までのあなたの人生は勘違いや間違いだらけで生きてきたんですね」なんて思われないように気をつけていきたいです。
(何をもって正しいかの判断は人それぞれだろうけれども、素直・謙虚・感謝の気持ちがあれば問題ないと落ち着いている時の私は思っている。感情に直ぐ流されやすい私は感情の渦に巻き込まれている時は何を言ったかも忘れている愚かでどうしようもない自分が存在している。少しずつ改善したい。)



わかって(聞いて)もらえる、本当にありがとう

予定通りにことがはこぶ。予定通りにいかない。まったくどうにもならない。

仕事などは段取り9割なんて言葉があるように、はじまるまでにほとんど終わらせておかなければ「なるようになる」の言葉も悪い意味にしか取られることがない。

それでもこちらが何もしていなくても予定以上にいくことがある。携わった人の中でこれまでに準備(努力)や経験が足りていたからうまくいったなんてことはどこにでもよくあるように思う。

素晴らしい人・努力し続けてた人・成し遂げることが多い人であれば、それ以上あなたのような人は何もしなくてもいいんではないかとよく(過去において)思ったものです。

お経に次のようにあります

『ミリンダ王の問い』は、この点について、対論を交わしている。―
「尊者ナーガセーナよ、あなたがたは『願わくはこの苦は滅せられ、他の苦は生ぜざらんことを』といわれる。…それはあらかじめ努力したために起こるのでしょうか、それともむしろ時が到来した時に努力すべきではないでしょうか」
「大王よ、時が到来して、はじめてなされる努力は、実は、なすべきことをなさないのです。あらかじめなされる努力こそ、なすべきことをなすのです。」
 この道理を王に納得させるために、ナーガセーナ長老は、のどが渇いたときと飢えたときと戦争になったときとの三つの場合の譬えをあげて、つぎのように説明している―
「大王よ、あなたはどのようにお考えになりますか。あなたはのどが渇いたときになってはじめて『わたしは飲料水を飲もう』といって、井戸を掘らせ、貯水池を掘らせますか」
「尊者よ、そうではありません」
「あなたはどのようにお考えになりますか。あなたは空腹になったときにはじめて、『わたしは食物を食べよう』といって、田を耕作させ、稲を植えさせ、穀類を収穫させますか」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、あなたはどのようにお考えになりますか。あなたにとって現に戦争が起こったときにはじめて、あなたは塹壕を掘らせ、堡塁を作らせ、望楼を作らせ、穀類を搬入させるのですか。そのときになってはじめて、象術を習わせ、馬術を習わせ、車術を習わせ、弓術を習わせ、剣術を習わせますか」
「尊者よそうではありません」
 あらかじめなされる努力、これこそ、仏教の実践の根幹をなすものである。
(人間の願い 無量寿経 早島鏡正 より抜粋)



私はたいして何もしていないのに現状を嘆くことばかりだった。現在も悲しいけれどもそれは存在し、その場でとどまり続けている。とどまるだけならいい、ときに退歩することが続けば

「これではいけない」

そんなどこからともなく「声」が聞こえる。私は何かをしようと願う。願えば自身の言葉や体にその願いがあらわれてくる。あらわれることは(私自身の)願いの強さに常に応じている。

気がつけばまた私はよくうちひしがれる。(体ではなく心が)

誰かと話がしたいと誰が言っているのかわからないが誰かと話をしている。ただ話をしている。

「何も状況は改善していないのに、思うことを聞いてもらえるだけで有難い」と思える人がいる。

「やはり状況は変わっていないのだけれども、私がいまどのような状況かを理解してくれる」人がいるだけで有難いと思える。

そのような話をすれば「私にはそのような人がいないから、私はついていない」とよく(過去に私が言い続け思い続けたように)嘆きつづける人もいる。

「しかし、そんなことはない。どの場所においても理解してくれる人は必ず存在している。」

私は何故か最近よくそのように思う。

ただ言い訳ばかりで何もしない、不平不満を言っているだけで何もしない、何も言わず何もしない、逃げ続け何もしていない、努力をしない。学ぶことをしない。行動しない。自らの不幸を言い続けているだけ、悲劇の主人公に浸りきっているだけでは、話を聞いてくれる人もほとんどいない(少なくなりつづける)。

「何とかしたいと前に進む自分がいれば、聞いてくれる人もその前に進みたいと思う気持ちの強さだけ増えてくる。」

優しい人は例外となる。優しい人はどのような人にでもできることを惜しまない。優しさをあたえつづけている。そのような人も確かに存在している。

聞いてもらえることは本当にありがたい。

私は気がつけばそのありがたいことが全くできていない。(理解していない)


多く聞ける人になりたい。



私が現在できていても、できていなくても、いつも(聞いてくれる人・理解してくれる人・優しい人へ)心から感謝しています。(今日もつたない思いを読んでくれている方へ感謝しています。)


根源

 何事にも原因があります。ただその原因は単純に一つではなく複雑に様々なことが絡み合って一つの結果となることが多いように思います。

「よく原因を追求しろ」

これだろうなんて一番大きな要因を出す。問題によってはそれは簡単なことです。時折をそれを悪用する人もいます。関係ないものをこれが問題だと人身御供のようにさしだす。普段から気に入らないことがあればそれを差し出す。考え方はいたって単純です。

自分と自分を守る眷属に害をなすものを排除する。理論としては善悪問わずそのことは行われていますから理由もわからなくもないです。

なかなか悪いことを「私は一つも悪いところはない。(あなたは悪くなんだけれども)あなたが悪い。」そのように人前で言い放つことが私には難しいです。

「慣れたらいいんだよ」

そう言われたとしても慣れることはないだろうし、そのような行動をしたいと思わないです。

「こっちへ属したら、恩恵があるのに」(大体言葉ではなくそれを日常に態度で示されることばかりでしょう。)

そんな言葉もあまり慣れることができません。阿呆ですから損をしたってそれは嫌だなんて態度をし続けます。結果あまりお金などがよってこない。困ったものです。

家内がよく子供達を町の図書館へ連れて行きます。子供達に小さい頃から本に慣れ親しんでもらいたいようです。

私もたまに図書館へ(本を借りたり返したり)一緒に行きます。図書館の近くに裸婦像がおいてあります。図書館の中にも裸婦像がおいてあります。

3歳の「けいくん」はお母さんが大好きです。ずっと母乳で育ったせいか母の胸も大好きです。裸婦像を指差し

「おかあさんみて、おっぱいあるよ、おっぱい!」

静かに本を読む人が沢山いる中、本当に透き通る大きい声でそう言います。家内は恥ずかしかったようです。誰もがわかっていることですが、「けいくん」に不純なものやいやらしい気持ちなどどこにも存在していません。

それは微笑みの対象としてうつっています。

裸婦像をどのように受け取っているかそれは人によりことなっています。

「一流の芸術家は女性を見ればそれを永遠の美とみる。宗教者であればそれを苦の根源とみる」(渡辺照宏)

私にはなかなかです。私は男性ですからそして本能があるのか女性を永遠の美として受け取れず、これこそ苦の根源だとも断定できず、振り回されっぱなしです。女性に振り回されるのではなく自分にという意味です。

以前後輩の友人に「一流の芸術家ならば裸婦をみれば永遠の美と見る。本物の宗教者ならば女性を見ればこれこそ苦の根源とする。あなたも宗教者だから裸婦を見れば苦の根源と見ているのでしょう。私にはわかりますよ」それに即座に「いや、私はそんな天才ではないですよ凡人です。裸婦を見ればガバッ(飛びつクジェスチャーつきでした)ですよ」またご謙遜を「私にはわかってますよ」「いやガバッですよ私は」本当に謙遜の上手な方でした。私のことを例えて自分を隠しておられる高尚な方もおられるようです。

話がそれました図書館に戻します。

私が裸婦像を見て声にして言うことはありませんが、思うことは

「このモデルの人と芸術家の関係は一体・・・」

変なことしか出てこない私こそが諸悪の根源です。

ただそんな不純な塊の私にも、永遠の美と感じたり、苦の根源と感じる時もあります。

「常にその状態を保てるかどうか」

それが(私の)問題なのです。


どれだけ

「私はわかっている」その言葉を使うことは難しい。

「私は逃げていない」その言葉も使うことは難しい。

「私は限界を作っていない。」その言葉を使うことは甚だ難しい。

「自分ができていないけれども、相手に出来ていないことを告げる。」相手に告げることより、自分が出来ていないことをどれだけ把握しているかが本当に難しい。はたして自分のことをどれだけ私はわかっているのだろう・・・。はたして告げる本人はどれだけのことを理解しているのだろうか。

上手くいかない時の私の最低の現状は、

周囲に比べ恵まれていない不幸を他人へ何度も繰り返している。(不幸自慢の私)

誰かが原因であればその人のせいにして隙があれば逃げようとしている。(逃げていないといいながら巧みに逃げる私)

周囲の人は問題ではない。自分が問題だと言いながらもすぐに言い訳ばかり楽な道へいきたがる。(言葉先行型、現実の行動不足、また自分でも気づいていないが誰かのせいにする愚かな私)

言葉ではない。態度で示さなければいけない。けれども言葉によってすまそうとする。(安易な頭の私)

自分は皆を大切にしている。やれることはやっている。(大きな勘違いと思い込みが激しい私)

優しさは常に優しさとならない。呵責や怒りによっても時に優しさとなる、優しさの使い方が誰よりわかっていない。(間違い続ける私)

世に生きる人は、何かのために時に自分を捨てているのに私が私を捨てきれていない。(本当に情けない私)

文章を記号の羅列としか見れず、その真意をわからず、他人事のように思っている。(他人事としかみれていない最低の私)

感情的になれば怒ればいいという方法しかでてこない。(激しく狭く偏りのある私)

自分を知るために痛い言葉を常に知ろうとしていない。(臆病で自分の狭い殻を守る私)

今自分はいっぱいでそれ以上できないとすぐに壁を作り、また現実から目を背けている。(懲りずにまた逃げている私)

「私はどれだけ悪い自分を把握しているのだろう・・・」

悪いことや迷惑をかけることを把握せずに、むしろ善いことだろう・また迷惑をかけるはずがないなどの思いをもっている私は本当に恐ろしい。


私はじぶんがおかしいことを言っていることをわかった上でおかしいことを言い続けたい。愚かなことだとわかった上で愚かなことを言いたい。

それを気がつけば私自身はよく望んでいる。


「アホやなあんたは」(あんたおかしいやろ)

「そうなんです本物のアホなんです。」(私ってほんとにおかしいですよね)




そう自然に答えたい。


この身に

 いつか誰かが健康がそこなわれ亡くなることがわかっていたとき、私は人間らしさを失っていた。
その人がなしてきた行為によって、多数の方が迷惑を被り、私も日々悩み苦しみ続ける愚かな自分がいた。
この果てしなく広く深く大きい世界に生きる私はその対をなすことへとらわれていた。
私と同様に迷惑をこうむり悪いことしかされなくても、その方が亡くなればわがことのように悲しみ大粒の涙をこぼされる方がいた。
私の心はその涙によって、長い無意味で人間らしくない取り決めを決める前にひきもどされた。

その人の真摯な思いと仕草や態度の上にこそあらわれる。その優しい涙は、その人の上に現れているただ一つの真理。

悲しまない、涙を流さない、悲しもう、涙をながそう、どれもあてはまらず涙がこぼれ落ちた。

ときおりその人の上に無作為にあらわれるものに涙し、よいことであれば心が震えるほどに喜び涙する。

幼子がただ笑う。ただ手を伸ばす。その仕草や言葉にあらわれる。純粋無垢な気持ちのあらわれ

母親の愛情と優しさをつかみ出すことは出来ない。だがその母親の行動の上に、また受け取られる子供の上に母親の愛情と優しさがあらわれている。(早島鏡正)



問題はいつも受け取る私、あらわれているものを受け止めれていない。真の意味も理解できていない。わかったふうでわかっていない・・・

それでも真摯に生きる人、人間らしくありたいと願い続ける人、自分のことを忘れ目前の方のことを思う人、その方たちの上に現実としてあらわれつづけている。

真理をこれだとさしだすことはできない。けれども必ず誰かの仕草や言葉の上にあらわれつづけている。その高さと自分のいる高さの分だけ私はいつもうちのめされる。


ふと誰か悪いことをしていれば自分のことを忘れその人を戒めたいと思う身勝手な思いを持ち

誰か善いことをしていれば、自分はその方に遠く及ばないのに自分もそうであるかのような言動を放ち

よくもないのによいように見られたいと思い

立派ではないのに立派だと思う心をもち

いつかその全てを少しつづでものりこえていきたい。


いつかこの身の上に一つでもあるがまま(真如)をあらわしたい。

深い眼差し、慈しみあふれるおもだち、優しさあふれる一挙手一投足、迷いをこえ、輝きを放ち続ける真理、万雷の如き沈黙、妙なる静寂、円寂、真如に入り、真如より来たる。

どこか特別な世界ではなく、いまここで(自分が存在する場所であればどこでも)何かを出し続けたい。



わたくしごと

 わたしは、生まれてきたことの詳細をおぼえていない。小さい頃受けたことの全てもおぼえていない。年をとりつづけることをもよく忘れている、(気がつけばすでに40歳になる)。お世話になった人のことを忘れてしまうことがある。迷惑をかけた人のことをもよく忘れている。病にかかる人をみて、病の怖さを他人事のように思い身体を大切にしないことがある。葬儀をみて、いずれは我が身もくちはてるものであることを忘れている。日々どこかで生を受けていることを忘れている。挙句は限り有るものを限りなきごとくあつかっている。どこの場所でもわたしに示してくれている真実を時にそんなことはなかったなどいつわりをのべてしまう。また気づいたとしても目を背けようとしてしまう(現実から逃げようとする)。

それは私の現状、正確には現状の氷山の一角、悪いことは皆に先に知られ遅れて私にこれから知らされるだろう。


 死をはかなむものには生きる喜びを、目先の生きる喜びに溺れるものには、死という不変の真理を

 生と死を見て、二つにとらわれるものには、生死を超える永遠なるものを

何かを求めれば、その段階にあったものを出そうとする私と出会う。私の理解・程度・段階に応じてそれは形としてあらわれる。私から出ない場合は借りてくるしか道がない。

人生の意味
われわれの人生・生活はたとえていえば、音質・音量の異なる種々の楽器が、
それぞれそのパートを演奏しながら、全体一の妙なる音楽の世界を実現しようとつとめる
交響楽のようなものといえよう。「大乗涅槃経」はさしずめ交響楽の総楽譜である。
楽器は有限なものであるが永遠・無限の音をそこへもることによって、かえって、
その音は生きてわれわれに強い感動を与えるものとなる。画家は、永遠無限な自然の美を、
かぎられたキャンバスの上に、かぎられた絵の具でもって描きだそうとする。
それは無駄な、無意義な作業ではない。そうすることによって、かえって永遠無限な自然の美が活源するのである。
 永遠ははるかかなたにあるものではない。それは虚空として、われわれが、ただいまその中にひたっている。
一方、しかし、われわれは空・虚空の永遠にひたりきりでなく、
それをちょうど一杯のコップにくみとるごとく、現実のそれぞれのわくにとりこみ活現せねばならない。
これが、人間界に生をうけたものの、はたすべきつとめであり、そこに人生の意義・目的があり、
われわれの生活がある。また永遠は、かぎられたわくにもられることによって、
かえって人生に、いのち脈うち、光かがやくものとなるのである。
 シャカの生死は、現実の無常・有限・相対を、われわれに知らしめ、われわれをして、
それにたいする執着をはなれしむるとともに、その現実に永遠を活現すべく、
われわれに範を示したものである。ここに生死の意味・意義が、一八〇度の転回をうけるものであることを知るので、
それを明らかにしたのが、すなわち「大乗涅槃経」である。
(人間性の発見 『涅槃経』 田村芳朗より 引用」




私はよく願う。皆(私の周囲の人達)がしあわせになれば、それは漠然としすぎている。

何故漠然とするかの理由もなんとなくわかっている。
ひとりひとりの思いが違うことに答えきれない私、その全ての人が心から求めるものを出せない私、
自分の思いすら把握・理解もできていない私、私は問を発する。


「何か」とはなにか。

私の願い、われわれの願い、人間の願い。

私はなかなかそう断定できない。言葉にすることも態度にすることもできていない。

ただそうなりたいと気がつけば願っている。

「死と永遠をみつめる。それは人間の願いであり、人間性の発展である。」(田村芳朗)

何故か私はその言葉に強く心惹かれる。



じゃんけん

 我が家で毎週恒例行事があります。

それは日曜日の夕方6時半に厳粛に行われます。家内はその時間が近づけば、何度も家族に注意を促します。

それは日曜日の定番「サザエさん」を見ることです。普段はテレビをつけながら食事をしない我が家もテレビ(サザエん)を皆で見ながらこの日ばかりは夕食になります。

家内はサザエさんが昔から大好きで、子供達もテレビとくにアニメなどは言うまでもなく大好きです。いつもの如くサザエさんを見て、終わりにサザエさんとじゃんけん勝負、この時既にサザエさんと勝負ではなく、家族に自分は勝ったなんていう家族との勝負に変わったりします。

その時、子どもとじゃんけんのことで言い合っていたら、昔を思い出しました。


階段などで進むゲームです。じゃんけんをしてグーで勝てば、「グリコ」三歩進めます。パーで勝てば「パイナップル」六歩進め、チョキで勝てば「チョコレイト」六歩進める。長崎で育った私ですがこれは現在の徳島でもあるようです。

子供達に

「お父さん昔からずっと不満だったんだよね」

子供達はこたえます

「何が?」

「グーで勝った時だけ三歩でしょう。ちょっと外れというか他に比べて少なすぎだよねえ」

「うん」

「グリコじゃなくてグリコーゲンじゃどうかな、いややっぱり周知されてい無いから駄目か・・・」

次男坊が物凄くひらめいた顔をして

「おとうさんおとうさん」

「どうしたどうした」

「言うよ聞いてね、グミこれどう」

「いやそれグリコより少ないし」

「そっか(大笑)」


しばらくあれこれ言い合いがあります・・


私「これだよ」

「グレープフルーツ!皆がグリコで三歩進むでしょ、次素知らぬ顔してこっちがグーで買ったらグレープフルーツ、八歩進むんだよ。皆やられるね絶対、でもそれだとそれだけなんて思われるからパーとチョキも見なおさないとな」

またあれこれ言い合いがあります。

知恵の回る長男坊は国語辞書をみながら、次々私へ申告します。

「これだよ!パーソナルコンピューター!12文字楽に勝てるよ(不敵な笑みを浮かべています。)」

もう次へ移行しています。

「チョキはこれだ!!!!」

「朝鮮民主主義人民共和国」

「チョウセンミンシュシュギジンミンキョウワコク、22文字・・・・勝ったな」

その後に

「お父さん試しに二階への階段でやってみようよ」

「(文章を書いているから私以外でお願いします。ただ注意点として)そうだよ、実践でスムーズに言えなかったら皆が突っ込んでくるから、普通の顔をして言いながら進まないとね」

長男坊は次男坊を呼び、二人で実践しています。

「じゃんけん ぽん」

「あー、かった」

「パーってなんだっけ?」

「パーはパーソナルコンピュータだよ、そっか」

またじゃんけんしています。

「やった勝った。チョキってなんだっけ」

「チョウセンミンシュシュギジンミンキョウワコク」

「駄目だよこれ、二階の階段が一回で終わるから、一回の勝負じゃなくて何往復化の勝負にしないと・・・・」

「じゃんけんぽん」

「やった、グーってなんだっけ?」

「グレープフルーツ」(どうも練習は完璧のようです。)




おそらく(本番がいつかしりませんが)うちの子の圧勝だと思います。


おまいり

 昨年から、家内が私へお願いごとをしていました。お願いというか予定というかそれはつぎのようなものです。家内曰く

「今年は遷宮の年だから『お伊勢さん』と『出雲大社』へ行かなければいけない。」

その時は「ふーん」と思っていただけです。しかし、今年のはじめから何かと世間でも伊勢神宮と出雲大社の話を耳にしました。夏前に家内の実家の里帰りから足をのばして、「お伊勢さん参りに行こう。」伊勢神宮の広い境内を「けいくん」を肩車しながら無事終えて帰ってきました。

さて残すところ、「出雲大社」なかなかお参りできる予定がたたないため、無理言って連休をいただきました。(職場の方へ感謝しています)

昨日からだと、旧暦では神無月、ちょうど出雲では全国の神が集うと信じられている時期です。たまたまその連休を思いつきでとりましたが、その日にお参りであればちょうど神在月参りです。

家内が言い出して、それを忘れている時期があって、お伊勢参りが終わり、今年中に出雲大社も、たまたま金曜日が学校の都合で休日になったのでそこを基準に次の日も連休を申請、調べればその日はちょうど神事(行事)神在月のまっただ中、ただの偶然なのですが、何故だか「これも縁かな・・・」と強く思いました。

伊勢神宮に比べれば歩く距離はとても少ないです。3歳の「けいくん」もよく歩いてくれました。お兄ちゃん達は小5と小3だからほとんど手がかかりませんし、天気もよくいいお詣り日和でした。

家内が今年は「けいくん」の七五三参りをと言っていましたから、出雲大社でご祈願を申し出て、日がいいことと土曜日だということで、ご祈祷者はテントに入りきれないほどまっていました。七五三・縁結び・事業繁栄・家内安全などなど、大社らしく祈願を申し込まずにお供えだけされて帰られる方も多いです。

ご祈祷申し込まれた方が何十組かおられました。笛の調べ、厳かな太鼓、巫女が雅に舞い、祝詞(のりと)の声、素晴らしいものでした。

祈祷後、長男坊が

「御守を買いたい。」

買って帰ってきたのはそれから40分くらいあとでした・・・

家内が私へ

「出雲大社の直ぐ側に『島根ワイナリー』があるのよ、そこワインの試飲が仕放題だから、あなた言ったらたくさんのんだら、帰りは心配しなくていいから」

そう何度も言ってくれていました。徳島からだと運転は4時間位かかりました。帰り家内一人に任せるのはきついな・・・、なんて思っていたのです。

『島根ワイナリー』に着き、中にワインが沢山並べてあります。試飲も見た目も綺麗に氷で冷やしてワインがたくさん並べてあります。家内は再度私へ「帰りのことはいいから、ただ道間違えてもとやかく言わないんだったら、飲んでいいんだから」そう優しく私へ告げに来てくれました。

忘れやすい私、すでにワインの魅力に負けてそう言われる前に飲んでいました!キリッ

無料(ただ)には弱い私です。全種類何度か飲んで、家内が好きそうなワインを選び買って帰りました。それからだいぶ酔いが冷めてから帰りの車の中で、出雲大社良かった。ご祈祷も本当に素晴らしかった。

「疲れてでも行ったかいがあった。」

お互い同じことを思っていました。今度は一緒にお酒を飲みたいので、泊まりでゆっくり二人でいきたいなんて贅沢を言いながら帰ってきました。

というわけで、今日の更新はかなり遅めの時間なのです。
(ワインと家内に酔った私は時間を計算できていなかったのです。)


霜月

 先日から頼まれたことがあったので、古い帳面を調べていました。

学がない私、天正月が何月なのか見てわかりませんでした。後になって調べればそれが何月かすぐわかりました。

「霜月朔日」これもパッと見て何日なのかわかりませんでした・・・
わからないのに、何故か風流だなあとか趣があるなあとかそんなことは思います。霜月は11月、朔日は1日、昔の日本人は本当にお月様と生活を共にしていたんだと改めて思います。

新暦と旧暦、陽と陰の違い、一年は一年に変わりはなく、視点が違います。どちらが正しいかなんて言い合いも必要もないことでしょう。

最近、気がつけば昼も夜も空を見上げます。太陽の形はまるいままですが、月は猫の目のように形を変えます。太陽は日照時間や日の出日の入りで季節がわかります。月は新月から満月までカレンダーをあまりみない私は月を見て日にちが過ぎていくことを実感します。先日三日月で綺麗だなとおもえば、満月も近い月にかわっています。

「日進月歩」

日ごと月ごとに進歩する。

日進月歩の世の中、日進月歩の科学、日進月歩なわたし。

ふふふ、よいことを考えている時は何故か楽しいです。これからもお月様を楽しく見て行きたいです。

雲が多い夜に見え隠れする月、あー今日は雲が多くて月が隠れていても、しばらくして雲の合間から月が見えます。またすぐ隠れてしまいそうですが何故かそんな時私は嬉しいです。

私の祖先もお月様が好きだった証拠だろうと実感する時です。
(おそらくプラス思考でオヤジギャグが好きで異性が大好きでお酒も少し好きな祖先だと思うのです。)

何かに思いをはせ、何かを大切にしたいと思う時間を大切にしていきたいです。

これからもお月様と長い付き合いをしたいです。


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三つのたから

朝も昼も晩も冷え込んできました。

代謝が低くなったのか(おやじになったのか)、冷えないように見えないように腹巻きをよくしています。

「ちゃんちゃんこと腹巻きと焼酎(お酒)これが三種の神器(三つの宝)です(おやじの必需品3種類)。」

「焼酎は何を飲むんですか」、と聞かれたので「芋焼酎かなあ」と答えましたが、焼酎と名が付けば何でも飲みます。長崎で幼少時代を過ごしましたが、親戚が集まれば皆焼酎を飲んでいました。

子供の頃、「何であんな匂いのする美味しくないものを飲んでいるんだろう・・・」今私の子供達が私が美味しそうに焼酎を飲んでいるのを見て少し匂いを嗅いで同じセリフを言っています。このまま順調に大人になれば一緒に焼酎を楽しく飲めるのかな、なんて楽しみの一つです。

徳島から長崎の実家の両親に会いにいきます。徳島から車で移動しますから、徳島・香川・岡山・広島・山口・福岡・佐賀・長崎と県をまたいでいきます。

下関から福岡県に入ると、なんでしょうかねえ帰ってきたという感じがします。佐賀の高速道路、武雄あたりまでくれば、庭に近いと思います(まだ実家までそこからだいぶありますけどね・・・)。

佐賀は酒造しているところを道沿いにみかけます。あの道沿いの運転している方へ交通ルールを促す言葉が大好きです。

「注意一秒、怪我一生、焼酎一升2000円」

今度は買ってかえりたい。いつも思うのですがいつもそこを通るときには家に早く着きたいから忘れています。どんな味の焼酎なのかちょっと楽しみです。

そこから古く歴史ある伊万里に入ります。焼き物が有名です。陶器市に子供の頃両親と言った思い出があります。
伊万里から平戸方面へと向かい、長崎県に入れば実家はすぐ近くです。

焼酎から話がそれました・・・。

お酒を飲まなかった若い頃大好きなものは、「たこ焼き・ラーメン・こたつ」そう言いながらこの3つが好きなら日本人だよ、とか言っていたことをおぼえています。

最近は何がすきなの?(特に誰にも聞かれてませんが勝手に答えておきます。)

、「ほとけ(しあわせ)と法(真理)とサンガ(自分にとって有難いことを指し示してくれる人達)」の3つです。(ふふふ、我ながらさりげなく得意分野にもちこんだものです。)

聖徳太子の十七条憲法の第二にある

「篤く三宝を敬え」

を私なりに訳した言葉です。


明日は無理いって、休みをいただきました。休日前は機嫌が良いです。なので既にご飯前から焼酎をいただいています。明日は家族でおでかけするのです



知らない人に

 思うようにいかない。そんなことがチリが積もるように山になれば、まあ山にならなかったとしても何かあります。それが何かなんて、愚痴をこぼすなどのことが出てきます。

誰かが、愚痴を聞いてもらっていた。(私のように)愚痴をこぼす人がいれば、それを聞く人がおります(必要です)。

愚痴・不平・不満は誰にでもあると思います。(ない人もいるかもしれないけれど・・・)
よく聞いてもらうことの多い私は、そのことが有難いと冷静になれば思う。ただここで(私だけの)問題は、自分は聞いてもらってばかりなのに人の話を聞かなければ、バチが当たります。
(どんなバチなのかと言われても、まあ少なからず何かあるもんです。)

時折、愚痴・不平・不満を延々と言い続ける人を見かけます。私も似たようなもんですからそれが悪いこととはあまり言えません。
ただずっと聞いていれば、相手のことを悪く言うのはよしとしましょう。現状の問題点を挙げ連ねるのもよしとしましょう。改善したいと思うのであれば私は別に問題ないです。ただ相手を悪くだけ言い続けて改善しようと思いもせず、相手を悪くいうことにより貶め、誰かが貶められれば私は問題ない。そんな人がいます。

そのようなことが一回ならまあ別に問題ないです。何かある度にそういうことが繰り返されて、結局自分は何もせず改善しようと手助けもせず、相手を貶めようとしています。誰かが悪くなれば何もしない自分が善くなるという理論は私はいまだに本当に理解できません。自分の恩恵を利用してそのように振る舞う人がいます。

ずっとその言葉を何度も聴き続けていた人が、その人と話が終わった時

「知らない人の前で言ってほしい・・・」

ボッソリそうこぼしていました。

誰かがたまりかねて、その何もせず誰かを貶めるようなことをする人に注意しても、その人は何の問題もないです。

「私はできている。私は優しい。私は悪くない。私は問題がない。私のどこが恐ろしい?こんな私みたいにいい人はいないのに私のことを悪く言わないでくれ。」

平気でそう言葉が返ってきます。人は詳細を知らなければ相手の発言をそのまま信用することは多いです。まさか初対面の人などに平気で嘘を言うなんて思う人がいると思うことは少ないです。

誰が何を言おうと止まらない人は止まらないです。何度も同様の現象があれば私も言葉を借りてきます。

「知らない人の前で言ってほしい・・・」

人のことより、私の悪いところも問題です。思いつきで言葉をだしたり、好き放題発言すればそれは、私へ返ってきます。迷惑もかけます。信用も失います。

人の振り見て我が振り直せ、昔の人は本当にいいことを言います。

私も最近よく失敗をしています。謙虚で素直に確認と感謝を忘れないように、今までより徹底したいです。

明日(ただいま)から気をつけていきます。


連ねる

「ほっておけばいいのにほっておかない。」
「誰に頼まれてもいないのにとんでもなくプラス思考。」
「時により(大体)単純明快な思考回路」
「損をするのに思ったことを言ってしまう。」
「時を同じくする人に愛着をもってしまう。」
「時を長く共にする人達に感謝を忘れてしまう。」
「慣れてやらなければいけないことをしない。(サボってしまう)」
「自分にだけ優しい面がでてくる。」
「口やかましい。」
「態度より言葉だけが先行している。」
「オヤジギャグが大好き」
「暇があれば口にしている。」
「難しい言葉を使いたがる。」
「余裕がなく怒りっぽい。」
「思っているのに大事なことを口に出せない。」
「異性が好き。」
「普段は器用なのに肝心な時は誰よりも不器用。」
「忘れっぽい。」
「どうでもいいことをよく覚えている。」
「大切なことを覚えないよく忘れている。」
「日々の努力が大事なことを頭でしか理解できていない、実行が伴っていない。」
「話す時間が長い・・・(酒を飲めばもっと長い)。」
「人の言うことを聞かない。」
「思い込みが激しい。」
「憶測でものを言う。」
「おっちょこちょい」
「日や時間の概念が時にない。」
「今やることより先のことをよく考える傾向にある。」
「あまり動かない。」
「気を抜けばすぐに仏教の話をもってこようとする。」
「勝手に判断することばかり。」
「偏り過ぎる傾向にある。」
「若いと思い込んでいる(オヤジなのに)」
「若い頃なら特に、うぬぼれが強い。(自分だけがかっこいいなんておもっている。)」
「優しくされると勘違いしやすい。」
「考えたってわからないことをいつまでも考え続けている」
「考える前になすことが徹底できていない。」
「優しさの本質を理解していない。」
「かれとこれ、わたしとあなたの法則をのみこめていない。」
「思うようにいかない世界に生きていることを忘れている。(または気がついていない)」
「出会えば別れるという真理から時に目を背けている。」
「怠らずつとめなければいけないのになしていない。」
「他人の心を主とせず、勝手気ままな自らの心をあるじとせず、絶対自由の境地を根拠とする自らの心また法をあるじとできていない。」
「善いものもときにすてねばいけないのに、悪いものはなおさらであるのに捨てきれていない。」
「無知のゆえに迷い、その場で足踏みしている状態が長い。(まわりころびつづける輪廻)。」

あげればきりがない私の悪いところ・・・

少しずつ

三歩進んで二歩や時に四歩下がっても、私を取り巻く意の如くならざる世界を変えるのではない。関わりたくないと思っても関わりがあり逃れることのできない苦を乗り越え、苦しみが苦しみとならない心になるように、ひいては我こそは我が心の主となりたい。

(うーん、気を抜けばやっぱり仏教が・・・)

判断

 判断する。自分でも他人でも何かを簡単に判断しています。「よいこと・わるいこと」だって人により判断しています。
では善悪の判断の基準とは、なんて考えさせられることは私はよくあります。

ブログをはじめたときに不意に尋ねられたことを覚えています。

「よいこと・わるいことは誰が決めるのですか?」

その時思いついたことを答えました。軽はずみなことばかりする私ですが、その答えを現段階において捉え直してみようと思います。「後日また私はこんなことを書いていたのか・・・・」など思うのでしょう、また反省するために書くのです。

善悪とは相対する二つの事柄に分類すること、善をもってあらわせば「善と善にあらず」(善と非善)、また悪をもってあらわせば「悪と悪にあらず」(悪と非悪)となる。

「善悪の判断がつかない」「どう決め兼ねたらいいのか戸惑い迷う」「どちらなのか」その場合自身を取り巻く現状(国家・社会)にあわせて善悪の基準がまず必要となる。善悪の基準や概観がわかればその方に迷いはなくなっていく。

善悪の基準を把握したがために迷う方がいる。「いま私達をとりまく国家(社会)の善悪をそのまま該当させて本当に良いのだろうか」その場合、善と悪をあきらかにみて善と悪の二つを越えるものを指し示さねばいけない。別々の二つではない、二つのような二つでないもの。相対を超えた絶対をださねばいけない。光あれば闇がある。光がなければ闇もない。光と闇であって光と闇ではなく。善と悪であって善と悪でないものによって前に進むことができる。

通常二つある善と悪、ただ善のみに傾倒すればそれもまた迷いのもとになる。「私が正しい」「私は善いから間違っていない」「法律でも決まっているだろう」「悪いことではないから善いことになる」それにとらわれている人には、善と悪の通常ではない。お互いの価値を認め合い乗り越えて存在している二つの理想である善と悪のそれぞれ片方をもって戒める。片方だけでは成り立たないことを知らなければいけない。光強ければ闇が深まりすぎる。相対の片方を強調しても解決することはない。むしろ善をそのような形で強調すればとりようによればただの悪にとられる。それをもって男女などの変えようのない性別をお互いがけなしあうのではなくそれぞれ尊重し合って二つが二つ輝ける道を示さなければいけない。どちらか一方だけが生き残る道を模索するのではない。
善のみの道が捨てなければいけないならば、悪に傾倒する道はなおさら持つ必要も議論する必要もなく、迷うことなく捨てさるしかない。

それぞれ様々な現象が絡み合い複雑な現象をおりなす。善悪も絡み合い簡単に判断することも難しい。その人の理解・程度・段階にあった善悪を示さなければ収拾がつかない。言葉にすれば難しい。態度にすることも難しい。

幼くても大人でも

「人は憧れを抱き、それに近づこうとする。」

これは(私が思う)不変の真理だとおもう。もし誰かが憧れを抱きそのようになりたいと思う道が皆が喜ぶ道ならば人は自然に協力するだろう。

移ろい変わりゆく現在を生き、また私達も移ろい変わりゆくもの。

移ろい変わりゆく身だからこそ、永遠つまりは変わることのない素晴らしいものへ憧れる。人は永遠に憧れるのに素晴らしいことが続けばそれに慣れて変化を好む。人(私)は本当に欲張りな生き物だ。

だからこそ世の中は面白いことがあるし、退屈しないんだろうなどと思う。

「善悪という二つの対立をどうやって決めるか」

私がこの世を支配し統治する神なら簡単にいつでも決めることができる。またその神と話ができる人がいるならその人に聞いたらいいのではないでしょうか、なんてそんな他人行儀な答えではなく一応私の見解つまり善悪の理想は

「自分のことはひとまずおいといて皆がしあわせになる道が善であり、皆のことはどうでもよく自分一人だけしあわせになる道が悪ではないか」

なんていう言葉にすればやっぱり狭い見解の答えを今日の何かとしてしるすのです。

(私はどうなのかと問う人もいるかもしれません。自分のことがなかなか捨てきれないので少しでも前へ進みたいと願っているだけの現状なのです・・・)