ボツ

 作ってたHPに来年の記念案内が載っていないから突然「新しく案内をのせないとだめでしょう。」そう言われたのでさくっと文章を考えてみました。

「これでいけるんじゃない?」

その内容を以下に記してみます。


 弘法大師(お大師さま・沙門空海)が弘仁六年(815年)に四国八十八ヶ所霊場を御開創されたと伝えられており、平成26年(2014年)に四国八十八ヶ所霊場は、開創1200年記念の年を迎えます。

 お大師さまを信じ仰ぎ、信じることにより自身の心を清らからにし、信じることによりその道へ躍入しつづけたお遍路(同行)さまの歩いた足跡が道を作り続け1200年に亘る長き時を貫いて現在に至ります。

道は様々な方がそれぞれの思いを持って通ります。ある人は地位名誉のため、ある人は商売のため、その道を物欲から離れ信仰をもって通る一群、それがお遍路(同行)様です。

難しいことは抜きにして形から入ってもよし、理解して入りその想像を覆されまたのり超えてよし、身体一つで入ってもよし、どのルートでもどの方法でもいずれ続けることにより辿り着くでしょう。

それは人により異なり、ある人はお大師さま・ある人は観音様・ある人は阿弥陀様・ある人はお地蔵様・ある人は優しい人・ある人はお接待する人・ある人は善い人・ある人は悪い人それぞれあうこととなります。目前の方がどのような人であれ、どれだけ仏(ほとけ)様として見れるかで信が発展し、やがては大海へたどりつくでしょう。

あれこれと考えるまでもなく、私は開創1200記念の年にお遍路へ行くことにします。

一人でも多くの方に、四国遍路の道を通して世界を見てもらいたいそう願うのです。


「自身が自身を知るため」

「自身を通して世界を知るために」

「世界を通して自身を知るために」

「あなたをとおして、わたしをみるために」

「わたしをとおして、あなたをみるために」

四国霊場開創1200年記念

「お大師(弘法大師)様はありがたい。」


「四国遍路の道へあしあとをつけるのは誰か?」

「それはいつか?」




「あなたが平成26年の記念の年にでしょ!」






結果、採用せずと

「はじめのところは難しすぎる。最後は何かをパクってるんじゃない?」

気合入れて最初書きすぎたけど難しいから簡単にしないと、そうおもったら最後の流れに・・・


割といいとおもったんだけどなあ(笑)
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客観的

 話が好きな私、お酒を飲めばもっと饒舌です。

先日家内と夜に話をするのに夢中になっていました。といっても私が一方的に話を聞いてもらっていたのです。すると子供が

「お父さん、お母さんを怒らんといて」

二人共キョトンとしました。

私はよく改善しなければいけない問題について、家内に聞いてもらうことが多いです。その時もちょうどそうだったのですが、私の口調がきつすぎてそれを聞いている子供達には、お父さんがかなり怒っている。つまりは「家内が私に激しく怒られている」というようにとったみたいです。家内が

「お父さんは私に怒ってないのよ、問題に怒っているだけだから、心配かけてごめんね」

ふと、そんな風にとれるのかなんて考えこみました。

私が感情的になるのはよくあることです。直さなければいけないことが仕事で山ほど出現すればそれはさらに加速していきます。

「何を考えているんだか」

激しい口調で、問題をせめているようです。その上でどうすれば解決するのかを模索しています。(そのような私を暗中模索し続けているなんていうんでしょう)

とりあえず話をすれば、聞いてもらえれば、私は落ち着いているようです。そこで家内には本当にお世話になっています。

落ち着き仕事にのぞみます。いくら私が落ち着いても問題が解決してない場合、皆が落ち着かないことなんてよくある話です。

「まあ落ち着いて」

落ち着いた人が落ち着いていない人に言えるセリフです。両者は時により猫の目のように変わるのが常でしょう。困れば優しく出来た人に私はたずねてみます。

「なんぼ話をしたって、(その問題の人自身が)体で覚えなければしゃあない。」

私と違って話が短く明瞭完結です。

私のように感情的に発言すれば痛い目にあうのはどこの場でも同じです。一度や二度は仕方がないです。自分の思い込みに自分自身が左右されているようでは何度でも痛い目にあうでしょう。周囲の判断を客観的に仰ぐことがなければどうにもならないことはたくさんあります。

人を見て態度や言葉を使い分けて問題を回避して、本質を改善しない人もいます。その場合問題は問題のままです。幾度でも同じ現象がでてくるでしょう。

相手を信じる。相手に優しくする。ある一定のことを越えなければ判断が難しいことになるなんて私は思います。

「自分が人間として成長するために、痛い言葉を聞く覚悟を持てるか」

そのように質問すれば大抵の方は「あります」そう答えます。ただ態度や言葉がそのように周囲へ示せているかどうかで皆が簡単に判断できることです。

本当に目前の人が大切ならやることは決まっている。

酔っぱらいの私はそんな言葉が激しくきつく、出てしまうようです。

私も家内へあまり迷惑をかけないようと問題が出れば改めて思います。私には感情的になりすぎないことと、客観的な目線と無駄口が問題です。


人のことをとやかくいってしまい近くの人をほっとかない私ですが、それより私自身を少しずつでもよくしないと「あなたの方がもっと気をつけないとだめでしょう」そう言われないように頑張ります。

恐竜とどんぐり

 このところ「恐竜」がブームです。もっとも世間でも私でもなく三男坊(3歳4ヶ月)の「けいくん」に恐竜ブームがおとずれているだけです。

仕事から帰れば、「おとうさん、きょうりゅうほね、みようよ」ブログを書こうとパソコンの前に座れば、恐竜の骨格標本を見せてとせがみます。

毎日毎日そんなことが続けば、家内が私に言います。

「今度の休みにけいくんを博物館へ連れて行きましょう。」

「何で」

「恐竜がいるじゃない。」

納得です。ようやく私の休日がやってきたましたから、山手の博物館に行きました。自然と博物館と図書館と文化のつまった素敵なスペースです。

博物館が高くはないけれど有料でした。ナウマンゾウや沢山の恐竜、一番の見所はやっぱり肉食恐竜のスター「ティラノサウルス」です。意味は「暴君竜」なんて解説にかいてありました。肉食の上にあの大きさ・するど牙や頭(口)の大きさ、名前のあらわすとおりです。

あの実物の大きさは見てみないと、動画などでは迫力が違います。ティラノは小さい家くらいの大きさですから。

いろんな昆虫・鳥類・魚類・甲殻類・植物・石碑・出土品・化石・文献・伝統工芸品・(私は)見どころ満載でした。「けいくん」のために行ったのに本当に楽しいところだった。たまには外に出るのもいいもんだと少し思いました。

 それからハイキングコースへ「けいくん」が突然「こっちへいこう」なんて言ったので階段の多い自然の中の整備された遊歩道を散策することに、鳥の羽が落ちていたり、猫がいたり、カマキリに遭遇し、大きい蜘蛛に出会い、今度の蜘蛛は蜂が巣にかかり糸に絡めてくるくる捕食している蜘蛛にであったり、夏の面影クマゼミの死骸と出会い、いがぐりが転がっていたり、緑のまるいどんぐりがたくさん落ちていました。

「けいくん、どんぐり落ちてるよ」

思ったより無関心です・・・・。おかしいな私は子供の頃どんぐり大好きだったんだけど、今度は細長いどんぐり(正確な名前はなんだろう)もたくさん落ちています。

「帽子をかぶったどんぐりなら好きかも」

家内が見つけて渡していました。まだあんまり好きそうじゃないです。けいくんが駄目なら上の子達のお土産に綺麗などんぐりを持って帰るか、たくさん落ちているどんぐりをずっと見ていれば、少し緑がかったのから綺麗な茶色のもの、茶色や緑でも妙に輝いているどんぐりもあります。
「おーこれ光っててきれいなんじゃない。」
「いやいやこっちのがもっと形も色もいいかんじ」
「あーこれはちょっとヒビが入っている・・・」
「これなら」
なんてすでに「けいくんや子供達」はもうどっかに・・・、どんぐりを削ってコマにしたり、箱に入れて飾っていたり、そんな小さいころを思い出しました。まだどんぐりを見ればわたしも30年位前にすぐ戻れるようです。どんぐり探しで少年の心へ、ただは見た目は少年ではもうありません。見た目とは裏腹に私達の心は少年の心にすぐ戻れ、忘れてもいません。そのときは輝いている

そんなことをしているうちに、けいくんはどんぐりを見て笑顔を浮かべています。終わりには少し好きになっていました。

帰る車の中で歩きはしゃぎ疲れたけいくんは寝ていました。

帰ってお昼寝から起きたけいくんは、小学校から帰ってきたお兄ちゃん達に

「てぃらのさうるす、すごかった。」

「てぃらの!」

興奮気味に伝えています。(確かにあれは大きいし迫力あってすごかった。)

またどこかへ今度は皆で行こうと思います。土日祝日休みじゃないから上の子達とは難しいですがなんとかしたいです。

土手沿いに群生する、すすきが風にそよいで爽やかな一日でした。

 私は日本人です。この言葉日本では前文省略的に使います。外国人の方と話した時に向こうはわかっているかもしれませんが、そんな時に「私は日本人です。」と言うくらいです。

住めば都です。私は日本で生まれ育ちましたから、日本が大好きです。

子供達によく言います。

「あなたたちは日本人なんだから、日本の文化も伝統も日本人も素晴らしい。だからもっと自分に自信を持っていい。」

何の根拠か、何のためか、わかりません。気がつけば何かあるときに口にしています。

長男坊が小学2年くらいでしたか、ご飯を一緒に食べていれば箸の持ち方がちょっと変なことに気がつきました。子供達と家内へ、恒例の私の話をしました。

「お父さんは、中学校から自宅を離れて寮に入ってたんだ。あまり中学生から現在まで自宅にかえってないんだけどね。それはそれとして中学に入って寮で毎日ご飯食べてた時に同級生の友達がいつも横や前に座ってたんだ。その子はお父さん(私)の箸の使い方が少しおかしかったことを指摘してくれて、正しい持ち方はこうだよ。示した上に食事の度に、『はし!』そう正しく持つことができるようになるまで何度も根気よく言い続けてくれました。あの友人に感謝しているんだ。(またもっと大切な時に私を救ってくれたことは別の機会に子供たちも私にもあなたにも」

「今度はお父さんがあなた達へ言う番かな」

「お父さんがあなたたちに示すように、あなたたちも時が来れば自分の子供や友人へ示さなければいけない時が必ず来る。難しいことをいっていない。行儀良く食べなさい。箸は正しくもちなさい。」

その言葉を発言したことを忘れた頃、長男坊を見れば箸を正しく使いこなしていました。

「あなた箸なおってるね」

「うん、僕頑張ったもん。」

まだその話を聞いていたのに他人事として聞いていた次男坊は箸の持ち方が変です。次はあの子の番です。一個ずつ気づいたところからその時に・・・

怒ることは簡単です。ミスを並べ立てることも簡単です。私にとって難しいことは相手の正しいところを即座にみきわめその人のありのままのよさを伝えること。簡単にいえば褒めることが(私には一番)難しいのです。

怒ると褒めるはセットです。以前にも書いたように忘れやすい私自身のために何度も書くのです。怒ることは個人的な感情で怒ってはいけません。個人的な感情を抜いて怒る。相手を認め、善いところは言葉や態度にして伝える。片方だけでは偏りがありすぎます・・・(すみません)

何かを見て、思い出し、自分の悪いことが多ければ、あの子達に早く伝えなければなんて思いがたくさんある。


肝心な時に大事なことを忘れることが多いから、忘れないようにしたいです。

おれおれ

 少し前に「おれおれ詐欺」が流行っていました。流行るほど悪いことが横行するのは嘆かわしいです。最近も名称が変わり、「なりすまし詐欺」とか「振り込め詐欺」とか「母さん助けて詐欺」とか名前は手口が多種多様であることから変わるようです。

「騙される方が悪い。」なんて捕まった人や行っている人は口にするようです。その場合自分が被害にあえばその言葉を言われて黙りこむ人もいるのでしょうけれど、怒る人もいるようです。

「騙す」その反対は、「真実を伝える」ことでしょう。

「騙す」これは私には痛い言葉です。自分と関わりのある人へ騙す気がなくても、何気なく発言した言葉どおりに実際なっていない。つまりは相手からすれば嘘を言われた。「私はあの人に騙された。」なんてなることがありました。(全くよくないことですが現在も少なからずそんなことがあります。)

結果だけで判断、言葉にすれば次のようなものです。

「いいことばかり言っていたのに、実際は違うことばかり・・・」

だからでしょうか、よく憧れるものの中の一つ、それは次のようなものです


怨みなくして静まる

この世の中では怨み怨みによってけっして静まるものではない。ところが[怨みは]怨みなくして静まる。これは永遠の真理である。(法句五)

しかるに、他の人びとは、「われわれは、この世の中で耐え忍ぶべきである。」ということを弁えない。もし、人びとが、そこで弁えるならば、そのとき、いさかいは静まる。(法句六)

怨みに対するに怨みをもってせず、「耐え忍ぶべきである」というのは、一見すると、きわめて消極的な態度のようにも思われるが、実はそうではない。それは自重と勇気を必要とするもっとも理性的な行動であるからである。いうまでもないことであるが、人間同士の怨みというものは一種の感情に過ぎないものである。相手が感情的になっているときに、こちらが感情的になって応酬し報復するならば当然こちらの負けになるだろう。相手が感情的になればなるほど、こちらは理性的にならなければならない。感情に打ち克つためには耐え忍ぶほかに方法はない。大乗仏教の六パラミツ(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の中に耐え忍ぶこと、すなわち忍辱が数えられていることからも、それが仏教においていかに重視されるかが知られるであろう。また『仏説遺教経』にも、「忍の徳たるや、持戒・苦行も及ぶ能わず」という言葉が見える。
(真理の花たば 法句経 宮坂宥勝)



時折私はお経やその解説を引用します。引用しているときは私はその憧れるものに浸りきっています。

セイロン(スリランカ)の大統領ジャヤワルダナ氏が1951年サンフランシスコ講和会議に出席し、その際の演説で「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」、と述べ、また、「怨みは怨みによって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用した。世界は共感し、日本は敗戦後、独立自由の道を獲得する手助けとなった。

私もよく引用します。

「怨みは怨みによってやまず、ただ忍を行ずるによってのみやむ、これ不変の真理なり」

他にも、ブッダの言葉・お経から借りてくる言葉は沢山あります。

「その言葉を言ったのは私である。」

なんてブログを書いている私が言ったことだといえば、「オレオレ詐欺」になってしまいます・・・。

お経の言葉を乱りに自分の言葉だとかたれば、その差だけ報いを受けることになります。「その私とは仏陀のことだからです。」

これを現代社会に最近あらわれ大問題となった教祖のように、過去において悟りをひらいた仏陀の生まれ変わりは私である。などと本生譚(ジャータカ)などのパクリをしては駄目です。知らない人は信じて真理の言葉を聞けばその人そのものが真理そのものだと錯覚してしまうように悪用しては駄目です。

言葉と人は別物です。(言葉を変えれば私の文が借り物で素晴らしく見えても私は素晴らしくないという根拠になります。それは情けない話です・・・)

1つだけわかりやすい例を書いておきます。

これまでに成してきた行為、現在成している行為によって伝えることができる人は別物ではなく本物です。獲得した真理の高さの分だけ相手に心から伝えることができる。

いつまでも借り物ばっかりの私では、まったくだめです・・・


「おれおれ詐欺」にならないように注意したいのです。

(「真理の言葉を言ったのは、おれです。」なんて言えば本当に皆に石でも投げられそうです。)


皮むきと鍋

 いつものように仕事をしていたら、「これをどうぞ」と栗をいただきました。

仕事をしていれば、日時の感覚にうとい私は、今が秋だなんてことをそれにより思い出しました。子供三人いる私。比べたこと無いんだけど男の子三人だから他所様の家より絶対毎日騒がしくにぎやかだと思っています。

本当に子供達が朝起きてから夜就寝まで、にぎやかというか・・・・騒がしすぎます。

今日いつもお世話になる方が、「子供達は元気ですか」とたずねてくれました。「おかげさまで、皆元気です。いや元気すぎてうるさいくらいですよ・・・」と答えます。

「そうかそうかそれならよかった。子供達がうるさくない時は病気か調子が悪い時だからそれでいいんだ。」本当にその通りです。先日小5の長男が普段よりおとなしいなと思っていたら、「熱があるからしんどい」暖かい格好をして自発的に布団へ寝にいっていました。

三人から一人いなくなれば、次男は遊び相手・言い合いもできません。騒ぐ相手がいなければ一人だと静かなものです。3歳の「けいくん」ではものたりない上に喧嘩相手にもならないです。

「少欲知足」

今の現状をしあわせと思う。

普段はもっとあれがほしい。これがほしい。今のままでは駄目だ。お金がもっとあれば、もっとスタイルがよければ、もっといい車がほしい。家がほしい。欲をいえば私はきりがないです。

不幸せを誰かのせいにすることは簡単です。

何かが足らないから不幸せだと思いこむことも簡単です。

自分がしあわせではないのは、他に原因があるからだと決めつけることも簡単なことです。

「今の現状をしあわせに思う」こと、だから「努力・精進しない」ことは誰でもわかるように違うことです。もっとしあわせになるよう自らの行いを見つめ、善いことを増やす努力をすることは誰のためでもなく自分のためにせねばいけないことです。「何故」かなんて、自分がしあわせになるために行うことを減らせばどうなるのかなんて聞く必要がないように思います。

長男と次男はお手伝いで、栗の皮を包丁でむいていました。

むきながら隙があれば、口論になったり次男坊が騒いだり、病気にかかっていないようです。つまりは二人共健康です。その間三男坊は私の膝の上でゆっくりくつろいでいます。

何をもってしあわせとみることができるか

不幸せを1つずつなくして行けば、しあわせになれる。そういう方もいます。

現状苦しみや不安材料が多い。悲しみが多い。問題が多い。日々の行動の揚げ足を取る人が多い。その他様々な問題があるとしても、その中にあってみだすことのない心や日常生活ができる。それがしあわせになることだ。という人もいます。

後者は仏教的です。


何をもって不幸せだ。不幸せをなくしていこうとすれば世界にただ己一人になってしまうだろう。予想もつかない他人や自然、世界は思い通りするには一筋縄ではいきそうにないだろう・・・。何て妄想をする変な私です。


私も家内も子供達も元気が一番です。


「健康・信頼・満足は最上の宝物」なんて綺麗事を今日の何かとするのです。


最近冷え込んできたから、家族皆で鍋をつつくのです。

おっちゃん

よくわからないこと、私には数え切れないほどあります。

あの人はいい子だなんて言われる子でも、「そんなこと思ったこともない。むしろ迷惑しかかけていないのに、何故?」なんてこっそり思ってばかりなこともあります。逆も当然あります。長く時を過ごしているのに「あの人は最低だ。」なんて言う人もいます。「本当にそうなのかな」なんてとらわれなく客観的に長く観察してみれば、「よい人じゃない。」そんな場合もあります。

「おかしいなー」このおかしいは、私の目線や思いが主観ですから、私と似ている判断を持つ人になら通じています。私と逆の思いを持つ人には??

「善い人が好き。」な私だとしたら、反対の思いを持つ人なら「善い人は合わない、苦手、または嫌い。」となります。

だから人間は面白いのだなんて思います。あえて極を書いていますが、そのどちらかよりの判断・中よりの判断・真ん中の判断それぞれ持っているようです。

最近の私はよく思います。

常に皆のことを考え、できることを行い、物惜しみすることなく、ただ与えることを行い続ける人と毎日出会います。

私がその方と出会ったのはもう12年くらい前でしょうか、初対面から物腰が柔らかく、気さくな人でした。右も左もわからない知人一人いない徳島へ来てすぐから、一回くらいしか顔を合わせていない私にその方は、わざわざ自宅まで何度も野菜を届けてくれたり、家族が増えたことにより引越しをすることになったなんて世間話をしていたら、トラックで颯爽と登場してただ一人不平不満を言うことなく終始笑顔で手伝ってくれました。

12年たってもであった当初でも、あの人は変わりません。できることを行い続けて終われば必ず私へいうのです。「ありがとうなんて言わなくていい。(こちらが勝手にやってるだけのことだから)」私がよくお世話になる極楽寺の住職へあの方のことを尋ねたとき、すこし間をおいてから「あの人は本当の善人だ。」その時の私は今よりもっと愚か者でしたから、本当の意味がわかっていませんでした。

現在は少しはわかります。あの人は私の善知識の一人です。

私はよく空(そら)を見ます。明るく朗らかにあの澄み渡る空を見上げ、素直にありたい。素直でないからそう思うのです。

見る目、聞く耳、求める心、飛び込む勇気、どのようなことがあっても礼をうしなわないという心構え、どれも私にはないものばかりです。

ただスダナのようにありたい。欲張りで負けず嫌いな私は何かあればそう思うのです。


いつでも私の見る目、聞く耳、感謝の心さえあればそこにさとりの心を感じることができる。

あの善知識である方は80歳をこえています。今でも元気で笑顔も出会った頃と何も変わりません。

「おっちゃん。長生きしてよ。」

私の心からの願いです。







私もいつかはあの人のように、誰かの善知識の一人でありたい。

混乱している

 昨日の残業の時、「混乱した人は正確な判断をできないものです。正しい薬だって飲むことが出来ない。そんなことが(法華経に)あったでしょう。」なんて話になっていました。

ふと昔のことを思い出して一人で笑ってしまいました。「何で笑っているのですか」なんて言われましたが、それは次のようなものです。

大学時代に、仕事に準ずることをしながら先輩後輩と過ごしていた頃のことです。歓迎会が毎年ありました。

食事の席で先輩からお酒をすすめられて断ることが出来なかった可愛らしい頃の私でもありました。

お酒をほとんど飲んだこともなかった私は大して飲んでもいないのに記憶がなくなるほどに酔っていたそうです。同室だった先輩が言うには「お前昨日は大変だった・・・」何のことかさっぱりわからない私は、先輩へ「何が大変だったんですか」知らない私は平然と尋ねることが出来ます。

先輩が言うには

だいぶ酔っ払ったお前は、「大丈夫か」って何度たずねても「大丈夫です。」とオウムのように繰り返すだけ、見たとこちっとも大丈夫じゃないから、「胃薬と水だから、飲め、楽になるから」とこっちが親切に言っているのにお前は「いや、もうお酒は飲めません。無理です。」としか答えない。何度も「お酒じゃないって、胃薬とただの水だから飲め」「いや、もう飲めません。勘弁して下さい。」ずっとそれの繰り返し、「結局飲まないし・・・」

「挙句は吐きそうになってきたから、トイレに連れて行って、ここで吐け」と言えば

「いや、もう飲めません・・・」

「ほんと、大変だった。本当におぼえてないのか」

さっぱり記憶がありませんでした。後にも先にもあの一件以来、記憶がなくなるまでお酒は飲むのはやめよう。固く誓ったようなきがします。

時折、お酒をよく飲むようになった私は記憶が無くなりパソコンの前で寝てしまうこともあります。人は本当に変わるものです。

私の変な話より、混乱した(愚かな私のような)人が例えにでてくる有名なお経の一節は次のようなものです。


 仏はただことばで教えるだけでなく、身をもって教える。仏は、その寿命に限りないが、欲を貪って飽くことのない人びとを目覚ますために、手段として死を示す。

 例えば多くの子供を持つ医師が、他国へ旅をした留守に子供らが毒を飲んで悶え苦しんだとしよう。医師はこの有様を見、驚いてよい薬を与えた。

 子供たちのうち、正常な心を失っていない者はその薬を飲んで病を除くことができたけれども、すでに正常な心を失ってしまった者はその薬を飲もうとしなかった。

 父である医師は、彼らの病をいやすために思いきった手段をとろうと決心した。彼は子供達に言った―「私は長い旅に出なければならない。わたしは老いていつ死ぬかもわからない。もしわたしの死を聞いたなら、ここに残しておく薬を飲んで、おのおの元気になるがよい。」こうして彼はふたたび長い旅に出た。そして使いを遣わしてその死を告げさせた。

 子供たちはこれを聞いて深く悲しみ、「父は死んだ。もはやわれわれにはたよる者がなくなった。」と嘆いた。悲しみの絶望の中で、彼らは父の遺言を思い出し、その薬を飲み、そして回復した。

 世の人はこの父である医師のうそを責めるであろうか。仏もまたこの父のようなものである。仏は、欲望に追いまわされている人びとを救うために、仮にこの世に生と死を示したのである。
(和訳と英訳されている仏教聖典より抜粋)



正常な判断ができない人、愚かな人、混乱した人などの言葉は、私にとって痛いところばかりです。


何かを失わないと気づくことが出来ない・・・



私はできれば今もこれからも、大切なものを失ってからではなく、大切なものが目前にある、その瞬間に理解と感謝の言葉や態度を持つようにありたいです。



「もうお酒は飲めません・・・」

そんな過去の至らぬ愚かな自分とは、今決別するのです!


今晩は薬だからと勝手に解釈して飲むことにするのです。
(ツッコミは華麗にスルーすることにスルーのです。)

問題だらけ(の私)

 私は気がつけば考えなしにものをいう。
もう少し詳しく言えば「ぱっと見ただけで、私なりの独断と偏見で物事を判断し、瞬時に発言している。」瞬時に発言しているのだから、もっと考えてなんて間が存在しておらず、気がつけばすでに発言し終わっている。

おかしなことだっていうもんだから、それを怨みにもつ人もいれば、感謝をする人もいる。私の最近の悪しき傾向は、お酒を飲めばさらに加減なく発言していることが増えているようだ。

自分ができてもいないのに、自分が人に比べれば何も成していないのに、自分が賢くないのに、自分が悟っていないのに、自分がわかっていないのに、わかったようなことを他人にだけ言いすぎてしまう自分がいるようだ。

発言する言葉の分だけ、恨みを持たれるか感謝に取られるか、それはこちらの言い方が問題にもなっている。ただその言葉を綺麗なものとしても事実は事実として発言すれば、やはり怨みか普通か感謝として受け取るかそれはその人による。

ごく稀に私が好き放題言っても、それを全て受け止め、「いつも有難う御座います。」そう言われる方もいる。

ほとんどが私が悪いととられることばかり、事実それも否定しようがない。私の口や態度からでるものは私にしかかえらない。

以前からの素朴な疑問、「優しい」とはどのようなものだろうか。

何かあればそれについて悩む。

できていない人のことを一番近くにいる人がわかっているのに、できていないことをできるようにさせない・正確に伝えていない。見て見ぬ振りをする。傷つくことを怖がり伝えていない。また本人は伝えているそう思っているのかしれないが、伝え方言葉や態度が間違っている。

本当に難しいことです。

「言うは易し行うは難し」

何時間何年何万の言葉を連ねてたとしても行動によって示すこと勝るものはない。

ただ本当の優しさによる行動のみが結果をだしていく。


おかしい言葉を発しても恨みに持つか感謝と見るかそれでその人が決まる。

「愚かな私が問題ではない。」

「優しさとは何か」

優しさには厳しい面も当然含まれる。甘い言葉や甘い態度が優しいことすべてをあらわさない。

私はよく思うのです。

「その人に恨まれても憎まれても嫌われてもその人が善くなるような痛い言葉を常に言える(言い続けることができる)人」

私はそんな人に憧れる。

誰が嫌われようと思って痛い言葉を言うのか

何かが欠如しているから、その人のために、ただ現実を言葉としてだすだけ・・・

気づかないから直せないのだろう。そんな独りよがりな思いを捨てきれない。


私の言葉に私の行動が伴わなければ、その差だけ私は痛い目にあいつづける。

それでも話したい。

本当にめんどい私・・・・


いつか本当の優しい人になりたい。

ぶらんこ

 自宅の近くに小学校があります。3歳の三男坊「けいくん」は小学校のグラウンドで部活がある頃に部活を見学しながら二人でブランコに乗ります。

まだ3歳だから、

「お父さんぶらんこのせてー」

「しっかりつかまって離さないようにね。」

後ろから勢いをつけてあげたら喜んでいます。

「お父さんも一緒にしよー」

二人並んでぶらんこに揺られる。笑みと笑い声がこぼれてきます。一緒にぶらんこをしていることが嬉しくて仕方がないようです。

ぶらんこなんて、座って同じ場所を行ったり戻ったりしているだけです。

ただそれだけのことが私も子供の頃から、父になった今でも大好きです。ぐんと勢いよくこげば空に飛んでいきそう。飛んでいけないので戻ればまた勢いよくこぐのです。
誰が考えたか知らないけれど、私も「けいくん」も大好きな乗物の一つです。

たしか保育園に私が通っていた頃のぶらんこの思い出が一つあります。

5歳から6歳だった、そのあたりは曖昧です。ぶらんこを降りるのにぶらんこの勢いを利用して前へ飛んで降りる。そんなことが保育園の男子仲間で流行りました。

どこまで飛んでおりたか。たかだかそんなことを自慢しあっていた可愛い頃です。

負けず嫌いの私は何を考えていたのか

「(前向きに飛ぶことだったら誰でもできるから)僕は後ろ向きに飛んで着地する。」

友達も私も大興奮だったことは覚えています。気がつけば私は鼻血を出しながら保育園の先生に抱かれ、着地地点は砂場でだいぶ強い衝撃を背中と後頭部へ受けたこ記憶があります。

つまりは大迷惑をかけました。(皆と先生に今更ながらですがお詫び申し上げます・・・)

それ以降「後ろ向きでぶらんこを遠くまで飛んで着地」そんなことをしようとも思ったこともないです。似ないと思いますが、「けいくん」ぶらんこはお父さんみたいに使わないように、正常に使うべきです。

また小学生以上になればそんな話をあの子としたい。そう思い「けいくん」を肩車しながら日没が早くなり暗くなった道を歩いて帰りました。

負けず嫌いや、変わったことを考えるのもほどほどにしないといけないです・・・


地上にいて誰もが簡単に空を飛ぶことができ(飛んだような錯覚をしているだけの私)、ただ降りれば(地面に足が付けば)元通り、私と「けいくん」にとっての素敵な乗り物、それが「ぶらんこ」です。



(確か長男坊の時も次男坊の時も同じことを思っていたことを乗って思い出す乗り物でもありました。)

 駄目だと思われる。それはどのような状態なのか一例をあげてみる。

悪いこともしていない。善いこともしていない。人からすれば何もしていない。そのような状況が長く続いている。

「あの人は欲がない。(のがいけないところだ。)」

善いことをしていない。悪いことではないんだけれども誰も何にも役に立たないことに時間を費やしている。これだって

「あの人は欲がない。」

上の二つであれば、迷惑がかかっていないなら後者がまだ何かやっているからいいかと私は思う時がある。

割りと人より頑張っている(何かしている)。自分だけのために金銭を稼ぐという行為がそのほとんどを占めている。自分のことだけしか見ることができない。他の人はどうでもいいという気持ちが多い。気がつけばその人は目前の人ではなく、人としてみれずお金としか見れない人もいる。

「あの人は欲がありすぎる。」

欲という言葉は、どちらかといえば悪いことにおもわれがちです。

「欲を出したばっかりに・・・」

「欲に負けたから・・・」

「欲望」

ただ全く何もしていなければ、「欲がない」と言われ、自分だけなんて思いにとらわれ、そのために動くことばかりであれば「欲がありすぎる・・・」なんて言われる。(別にそれだけではなく他にもたくさんある。)

自分の欲をどのようにみることができるか、自分も喜んで、他人も喜んでくれる。欲の使い方がある。

「あの人は綺麗だ。」

「あの人は欲の使い方が綺麗だ」


「あの人をみていると清々しい。」

「あの人の欲の使い方をみていると清々しい。」


「あの人には欲がない。」

「あの人には汚い欲がない。」

世の中に、地位・肩書・名誉・財産がある人に多く、その恩恵が自分を守ってくれるから、迷惑をかけることを気にしない。上手を言ってくれる人がいるから悪いことを省みることがなく、挙句悪いことをいう人がいるから問題だと言って現実を言う人を貶める。

見た目だけを気にして中身を善くしたいという、欲がない。

私は欲の使い方を間違うことが多すぎる。

自分が駄目なとき、それはいらない欲が前にですぎたとき。金銭欲がですぎている。目前の人(達)に好かれたいとおもいすぎる。力が入りすぎていたり、ないものを有るかのように振舞ったり、賢く見られたいと振る舞い、お金の使い方をケチではないと思われたくないと振る舞ったり、いつもの如くこれは私が悪い分だけ続きます。

「(欲の使い方が)美しい人」

そんな人になりたい。

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あなたとわたし

 職場に出勤すればいつもお世話になりっぱなしの人にあえます。その優しい人は私と全く違いすぎる優しさを常に出現させています。

その方のことを納得(理解)できるまで、即座に理解できる(わかりあえる)人もいれば私のように何年かの月日を要する場合もあるかもしれません。

簡単に要約すればその方は

「総じて相手の言葉をよく聞き、どのようなことでも即座に判断でき、相手の問題を解決するために常に一生懸命です。」

私は困れば(常に困っていることばかりだから)その方の手が空けば、日々自分では答えがでないことばかりですからよく質問するのです。

いつだって「全て即答」です。

何事に対しても周囲が納得できる。そのように即答できる人になるためにはどうしたらなれるのか。

あの方に対して私は悩みが多く、無駄な考えがひたすら多く、対照的に行動が少なすぎます。世間ではそんな人を頭でっかちなんていうのかもしれません・・・。

あの方に悩みがあるのかなと思っていたら、ぼそっと独り言が聞こえてきました。

「善いようにしようと思って、手をさしのべ助け続けている人が嫌われることばかり、心から理解し行動が人並みや善くなるようにと思って皆ができることをしているのに、受けとることが少なすぎる。この状態がこれからも続くようなら、誰にもどうしようもない・・・」

続けて答えをだしておられました。

「周囲が問題じゃなくて、本人だけが問題。」

ぼそりとまた続けて

「まあそれでもその人(達)がいけるっていうなら気長に行ったらいいわな。こっちはその人たちが善くなるころにはもう死んでいるだろう。」

またぼそりと

「あなたたちはそのまま気長にいったらいい・・・」


なんてあの人にもあの人なりの悩みがあるようです。

人は常の発言・行動が一番大切なことなのに、大切なことをみることができない。大切なことをみることができていないから、「私は問題ない。」「私はできるから心配しなくていい。」「出来ていないことを理解せず、天へ向いて唾を吐くようなことを気づかずに行い続けている。(小さい自分の大きな勘違いの上にふんぞりかえる自分自身とも言うのかもしれない。)」

他人事ではないです。

私も気がつけば感情的になり、激しい感情に流された言動で迷惑をかけ続けています。もう激しすぎる感情は懲り懲りだなんて思い捨てたつもりでも、気がつけば激しいことに振り回される。


「迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので、迷いの世界となる。

 すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行うと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽く牛に車が従うようなものである。
 
 しかし、もし善い心でものを言い、または身で行うと楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人はその善の報いを受けて楽しむ。」(仏教聖典)




ある程度の段階まで達した人には知識が必要です。ある一定の段階を越していない場合自分も相手も理解ができないために、釈迦に法を説いたり、賢者に石を投げたり、聖人を貶めようとしたり、そんなことが現実でもよくある話となっています。

また、職場の優しい方の独り言に

「妙にいらない知識がついているばっかりに、それが邪魔になる。邪魔どころかそれで道をかえって失ってしまう。

 挙句はその人の大元(根本や大いなる道)を見失い。そこへもどることすら困難になる。

 いらんことは言わんといいけど。

 しったふうに言わんといいけど。

 もし、言ったことに本人自身だけが気づいてないなら、さらにどうしようもない。」


本当にあの人には頭が下がりっぱなしです。(お世話になりっぱなしです。)

あの人を見て、自分を見て、自分を見て、あの人を見て、その取り巻く人たちを見て、自分を見て、あの人を見て、私を見る。




皆が喜ぶことを、「あなたとわたし」で見たい。

巡礼(遍路・お参り)の三か条

巡礼(遍路又はお参り)の三か条(あくまで私なり)、何故かそんなことを考えなければいけない。そう思いました。

来年から遍路(団体でお参り)を企画して旅に出ようとしている人がいます。私は居残り、目前にある仕事に勤しむだけです。恒例の余計なお節介として、その人に思っているままを(本心)を伝えたいからかもしれません。

 私の敬愛する友人(リンク上段にあるWEB版観音寺通信を書いているその人)には、全く私の余計なお節介は必要としていないです。何故か、それはブログを見ればわかります。あの人は行動により光り輝いています。私は仕事や家庭で調べ物や考え事などに耽っているだけで動くことが皆無です。それを話しにならないことだらけの私なんていうんでしょうけれど(言う資格がないなんてツッコミは常のごとくどこかへ放り投げておきます)。

巡礼(遍路)に出ようとする友人へ、以前にやせるための私なりの三か条を思いつきでこれもまた余計なお節介として伝えたことがあります。それは次のようなものでした。

「もし、少し肥えてしまい痩せたいと思う人がいれば、次のことを守るように伝えたらいい。」

まずは

第一「甘い飲み物を捨てろ。」

第二「甘い食べ物を捨てろ。」

第三「甘い考えを捨てろ。」


これで何も問題がない。

なんていったことを彼は気に入って、いいことを教えてもらったからこれで大丈夫ですといって、その3カ条の話を仲良くなった人へ話しているのを時折見かけます。

ふっとそれを見て、また今度はあの人へ向けてではなく、「自分が巡礼(遍路)にいくとしたら、どのようなものになるのだろう。」なんて何かの作業をしながら、ぱっと頭に浮かできたままを記してみます。


遍路(巡礼・お参り)の3カ条

第一「常に目前の人(達)を軽んずべからず。」

第二「怒り・怠惰・物惜しみの心が出たときこそ、相手に感謝、与える(できる)ことを惜しまない。」

第三「あれこれ考える前に、行に身を投じるべし。」


皆に何かお菓子でも飲み物でも手作りのものでも、品物でも、それは皆の分だったらなんでもいいです。言葉だけではなくまず自分から身をもって示すべきだろう。

何を与えたらいいかで、悩むことが多い私です。

今必要なものでなくてもいい。これからもしくは大切だと思うものを惜しみなく与える。
同じ時を共有してくれて、私と一緒にいてくれて有難う御座います。そう心から思っているのであれば何でもいいように思うのです。

考えが先行しすぎて、行動が伴わない私に第三は必要不可欠です。

皆が喜ぶような善い欲は大肯定、皆が悲しむような欲は否定の方向へ、つまりは抑え気味に、個人は大切です。ただ個人が各々好き放題では和を以て貴しに遠く及ばない現状となります。

私は気がつけばおしゃべりが大好きで、つい自分の世界へ入りすぎ、余計なことまで喋りすぎてしまいその言葉により自分がおいつめられることばかりです。


ぱっと聞いても意味がわからないお経を一心に読誦する。

あれこれ考える前に行(遍路・巡礼など)に飛び込む。


言葉を超えた世界もたまにはいいものだ。なんて仏教大好きな私は思うのです。


学徳兼備の僧侶の話により仏教へ入信する方もおられます。強靭な実践力を持つ僧侶と時を過ごしたことにより仏教へ入信する人もいます。豊かで深く慈愛あふれる信仰を持つ僧侶に触れ仏教へ入信される方もいます。
「荘厳整然たる道場にて荘重に修行せられる外儀法会にて信仰の道に引入せられる人も多い。(大山公淳)」

上の「僧侶」を「人」に変えても問題なく、むしろそのほうが私たちが過ごす社会では通常でしょう。


経にあるように

「物惜しみは何によってなくなるのか」

「それはただ与えることによってのみなくなる。」


ケチ(物惜しみな人)な私は、それを隠すためだけにお金がなくても目前の人へあたえることを行います(いつもではないです)。

彼には私のようではなくこの世の真理とお菓子や食べ物や飲み物(自分の身を削った財施ならなんでも)はじめと終わりにしてもらいたい。


考えることが大好きな妄想(理想)を今日の何かとしてここへしるすのです。

お酒とギャンブル

 最近はお酒が強くもないのに、毎晩のごとく晩酌をしています。

私は祖父が酒癖が相当悪かったためにお酒を怨んでいました。「あんなものがあるから、大好きなおじいさんが大嫌いなおじいさんになってしまう・・・」幼少の頃何度も思ったことです。家庭だってそれにより和が乱れます。

父は自分の父(わたしからすれば祖父)が酒癖が悪いから私の前でお酒を飲んでいるところをほとんど見たことがありませんでした。

同じ思いを持っていたと思います。

私がその思いを振り切ってお酒を買って楽しくのめるようになったのは30代半ばからです。つまりはごく最近のことです。

私の大好きなおじいさん(祖父)お酒を飲んだら、本当に人が変わりました。大好きな人が悪く言われるのにも周囲すべてが納得する原因がその人自身にあるなら(幼い私には)どうしようもないことでした。

人よりお酒に弱いから助かります。あまり飲まなくてもすぐ酔っぱらえますから経済的です。無理なく楽しく家族に迷惑がかからないように上手に付き合っていきたいです。

家族にとって迷惑がかかることが増えるのであれば、お酒はすぐにやめよう。常にそう思っています。

先日若い友人が二人珍しいことですが、泊まりに来ました。私は交友関係が狭く外へもほとんどでませんからこれは私にとっても貴重なことです。

若い頃の私(20代後半で独身時代)はお酒は全くでしたが代わりにギャンブルが大好きでした。

誰の影響かなんて人のせいにしては絶対にいけないことです。ともかくギャンブル、私の場合はギャンブルといえばパチンコでした。仕事後や休日は寝食を忘れるほどのめりこんでいました。

ほんの少しでも時間が空けば、すぐギャンブルへ。自分で行こうなんて思う前にもう既に行っており、お金を見れば全部そこへつぎ込み、給料なんてあっという間になくなっていました。

その時は右も左も前も後ろも上も下もそれを取り巻く全てもわかっていませんでした。何より致命的なことは、その自分自身をひとつも把握できていなかったのです・・・・

その頃の私は、今よりも無知と蒙昧に覆われ、何ひとつ大切なことがわかることができませんでした。ただ現在の家内と付き合いだした頃でもあります。

お金を使い果たした私は付き合っている彼女へあろうことか、彼女としてみるのではなく彼女なんだからお金を貸してくれ、そんな人が聞けばあきれ果てる言葉を何度も言ったのは事実です。彼女は愚か者の私に常に優しかったことは覚えています。「結婚するんだからお金をお互いためとかないといけない。」「ギャンブルは卒業しないといけない。」そう何度も私が実行できるまで阿呆で愚かな言葉を私が投げかけたとしても、それをひとつも受け取らず、私が理解し正しいことを実行できるよう彼女は努力を続けてくれていました。

結婚するまでにギャンブルを卒業しました。

あれから12年かくらいはたつでしょうか、それ以来一度もギャンブルができる場所へ行ったこともしたことはないです。

私が人並な点、人より良い点があればそれはあの人の献身的な努力の賜物だなんて最近思います。

男の人は愚か者が多いです。(特に私はその代表格みたいなものです。)

ある人は酒に溺れ、夜の街へ繰り出すことに溺れる人もいれば、株に溺れる人もいれば、ギャンブルに溺れる人もいれば、迷惑のかかりすぎる趣味にお金を全額使う人もいれば、男の人に私のような人が多いです。

誰だって悪いところはある。私に悪いところが多いからこそ胸をはれないことなんだけれどそう言い切れます。

ただ誰かが、その人(愚か者)へ早い段階で労を厭わず、献身的な努力をしてくれれば私のように普通の人になれます。誰もが何もしなくてその人が気づくことは皆無に等しいなんて最近思うのです。

一番近くにいる誰かがその人(私のような愚か者)を見捨てれば、一生どころか全てを失うまで気づかないだろう・・・。


私があの人を大好きな理由は、簡単です。


私が悪いから、愚かであるから、迷惑をかけすぎたから、それを変えようと努力を続けてくれたあの人の行為の分だけ私はあの人が大好きなだけです。

無口なあの人が、ぼそっと一言漏らしていたあの言葉

「人を変えるのは並大抵の力では無理だ・・・」



私は死ぬまでに(あの人が生きているうちに)、あの人に何かいいことを一つでも多く成したい。


そんなことは若い頃まったく考えていませんでした。現在はよくそう思います。


現実はどうか?


できていないから日々努力を続けているのです。

(それはあくまで私の主観で家内の主観とは違うことが多いことが問題なのです。)


制限

 何年か前と比べれば、別人にしか思えない。そのように周囲へ受け取られる人、悪いことへ向かってしまう。善くなることへ向かう。両方の人がおられるでしょう。(無論それ以外だってあります。わかりやすく二つに分けることにします。)

それをあらわす言葉として

「人が変わったようだ。」

「まるで別人のようだ。」

「頭(悪魔に魂)でもうったのか」

これはあげていけばいろいろあります。

よい意味で使われているならば、問題も以前より少なくなることもあります。ただ悪い考えと行動をあらためて自分が以前より大分変わった。人によく言われたとしても「(私は以前より大分)変わった。」そう思うのは時期尚早です。

そう思うことにより制限がでます。「善い意味でとっているから問題ないじゃないか。」その答えは問題しかないです。

他人を見るより自分を見ることにします。

果てしなく愚かな過去のいたらぬ自分が良い方向ではなく、悪い方へ向いている。悪い方へ向くから悪いと思われる。自分自身が悪いと理解納得し過去・現状から向きを変えたい。

「道をみつけそこを歩んでいきたい。」

人よりスタートが遅ければ、当然スタートが普通の人も早い人もいます。遅い人は比べれば一番遅いだけです。

気づいたところは自分にとってはスタート地点、普通の人からすればマイナスであり、早い人からすれば遠く隔たるマイナスがあります。

「人は死ぬまでに一度はめざめなければいけない。」

死ぬまでめざめない人と比べれば、めざめた人の方がまだよいのかもしれません。比べる基準をどこに持っていくかで随分と目線が変わり、発言する言葉も変わっていきます。自分より下と比べて満足、慢心を出して何になるというのか・・・


私は困れば、大空を見上げます。


あの空のように果てしなくつきぬけるようにありたい。夜空でも同様です。

「あの空より、もっともっと高くありたい。」

欲望まみれの私の願いの一つです。

「青く澄み渡った空より、もっとひろく澄みわたるような己の心でありたい。」

本当に誰よりも欲張りな私です。私だけでなく家族・子供達には私より早くそう思ってもらいたいとまた欲な願いをもっています。

周囲と比べる自分ではなく

「あの空と自分の高さはどちらが高いのだろう?」

最近の私はまた同じことを書いてしまいます。よく読まれているお経も何度も何度も重複して書かれていることが多いです。


大事なことだから、気がつくまで、言うしかないこともあるし、何度も何度も書かなければいけないこともあります。

「限界は誰がつくるのか」

「誰が自分の程度を判断できるのか」

「しあわせの基準とはどこにあるのか」

「愛するとはどういうことなのか」

「自分や他人や自他両方を傷つける言葉をさけて、自分や他人や自他両方の利益となる言葉を使うことにいそしむとは、どういうことなのか」



ときに私は難しいことを忘れ、あの澄みわたる空(そら)を見上げるのです。



私はああなりたいのです。

つぶされそう

 今までのほとんど、何も考えずに(まあ何か考えている時もありますが考えずに発言がほとんどです。)自然に話をしています。

自然に話が出ている時の私こそ、私らしく話をしている。そう思います。

最近の私は、その私らしさを恐れる私がいます。何も考えずに思ったことを言う私が私らしさを作る大半だと自分で勝手に思っています。

日々さまざまなことを学ぶほどに、私はその素晴らしいものへ憧れます。

私の駄目なところが出てきます。素晴らしいものであれば有るほど、時にそれが書物にあれば文章や言葉として私は使いたい。いやすぐに使ってしまいます。その誰もがあこがれを持つほどの文章や言葉は真理に近いとひとり認識しています。

誰もが憧れそうな真理に近い言葉を発する。

それはそれでいいじゃない。なんて言う自分がいました。少し考えれば理解できます。誰もが憧れるような素晴らしいものと私は天と地ほどの差があります。

私が(憧れるような言葉を)できてもいないのに、誰もが憧れる言葉を濫用すれば

その言葉と私の現実の程度の差を見れば、天と地・その言葉と私の前には断崖絶壁があるほどにかけ離れています。借りることは簡単なものです。使い方は難しいことです。

沈黙は金、賢者は聖なる沈黙を守るものです。最たるものとして「維摩の沈黙、万雷の如し」などがあるでしょう。

何も考えずに話すことが私らしく、憧れることを自然に話せば身を滅ぼしそうになる。世間では「阿呆になれ」というのだろうなんて考えるのです。

答えは簡単です。私がその言葉のように実行できれば問題のないことです。

「悟りをあらわすような言葉を発すれば、私が悟ればいいだけです。」

「聖人君子のようなことを言えば、私が聖人君子のようになったらいいだけです。」

「問題がないことをいうた私がいれば、私から誰の目から見ても何一つ問題がない私になったらいいだけです。」

それは簡単なことだという人もいるのでしょう。ただ私の知る内的世界は狭く現実に存在するそのような人を見たり聞いたりしたことが恥ずかしながらありません・・・。

ともに働く人にそれを相談しました。

「私は誰もが憧れる言葉を使い過ぎることによって、私自身がつぶされそうだ・・・」

答えは簡単です。

「つぶされそうだと思っているだけで、あなたはつぶされてもいないし、潰されることもないから、今までのままでいいじゃないですか」

それも一理あることも理解はします。

理解は出来ても心から納得できない今(この文章を書いている最中)の私です。


まあ明日になれば(お酒を少し飲んで、眠れば)解決するだろう。


そんな変な(また酔っぱらいの)独り言を、今日の何かとするのです・・・。



もっと中身も行動も成長したいです


こりない私

 先日お土産に瀬戸内寂静さんが書かれた(印刷の)色紙をいただきました。

「忘己利他」

「もうこりた」と読みます。

「己を忘れて他を利する。」意味を理解することは簡単ですが、実践となれば私には難しいことになります。

誰かのために何かをなす。ここでよくあることは、誰かがこちらのしたことを気づかない。まだいいかもしれません。それどころか何かなした人を怨んだり憎んだり不平不満を言う人もいます。

そんなことが一回くらいなら辛抱できます。何回もあれば

「もう懲りた。」(別にオヤジギャグが書きたかったわけではないです。)

それでも誰かのために何かを成そうとする。しだいに己がなくなっていきます。誰かのためにが大きくなっていきます。それでもやはり

「もう懲りた・・・」

再度思うでしょう。もう余計なことはやめたほうがいいかもしれない。自分のやっていることがまちがっているのかもしれない。あの人には通じないのかもしれない。

何度も繰り返す内に相手の見返りや態度が気にならなくなっていくでしょう。ここにきて己と相手がなくなっていきます。自分が何かを成しているといった自然体だけが残る。

「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。」

慈悲はいつもの解釈を持ってきます。

「慈」とは相手のしあわせを心から願う。「悲」相手の不安・苦悩・重荷を取り除くよう努力する。合わせて「慈悲」です。

「忘己利他」

本当に私には難しいことです。




相変わらずの私、難しいからといってあきらめているわけではありません。私なりに少しずつ前へ進みたいのです。

胸に手を当てて聞く

 よその夫婦関係というものは、じっくりと調べたことがありません。

だから「私のところは仲がいい。」

これは私だけの思い込みかなと冷静になれば思います。家内は口数が少なく真面目な人でやることを怠らない私と正反対の人ですからそれぞれ思いが違います。

何でもプラス思考の私とその反対のような面が多い家内、おしゃべりな私と無口な家内、不真面目な私と真面目な家内、年中行事をすぐ忘れる私と几帳面に実行する家内、優しくない私と優しい家内、これも私が悪い分続くのです・・・。

普段冷静でない私は、家内をみれば嬉しくなることが多いです。気がつけば抱きしめに行きます。

ただ家内はいつだって冷静です。私のいたらぬところが多ければそんな私を冷静な目で見て戒めの目で見ています。

言葉ではなく目だけで私に大事なことを伝えてきます。

「そんなことで私はごまかされない。私はいつも努力をしている。あなたは私に比べて努力が足りていない。再度になりますが、そんなことで私はごまかされません。」

私が思う言葉にすれば彼女の態度や目はそのようなものです。

人は誰でも目前にあることが間違っているか正しいかそれを簡単に把握できます。目前の人が本当に正しいか、間違いが多すぎるか、何処で習うわけでもなくそれを生まれながらにして判断できるすべを持っています。

だから私は常に目前の人に試されたり判断されています。

私のいたらないことがあれば目や態度、言葉によって的確な判断をくだされています。

いつも時を共にする家内は、私を正確に判断しています。私が愚かであれば愚か者、私の努力が足りていなければ努力をしなさい、努力が足りていれば心から賛嘆してくれます。(極稀にしか褒めてくれないのは私そのものをあらわしています・・・。)

いつものように、嫁に抱きついたら迷惑な顔をしていました。愚か者の私は

「何で嫌な顔をしているの?」

家内は私の胸に手を当てて目で訴えます。

「愚か者(不出来な私)の胸に手を当てて、この胸に聞いてみたらいいよ」



本当に出来た嫁です。対照的に私は真正の愚か者です・・・・。




大事なことに気づいてない人

よく話を聞いてこけそうになる。そんな話があるもんです。

注意されている本人が全く出来ていないのにできているの人へ注意・説教・指示をする。この二人だと問題がありません。(いや問題あるでしょうなんてツッコミはまだ止めといてください。)
ここへそれを一部始終第三者が見ていれば、「意味がわからない・・・」釈迦に説法なんていうことわざもあります。

逆にできていない人へ注意する。これは普通です。できていないんだから「あなたは出来ているから問題ない。」そんなことを言えば嘘にしかなりません。事実を言うしかないこともあるでしょう。

ありのままを告げます。次のような結果になる人もいます。

「よくなると思って言っているのに、それを一つもしっかりうけとらない。あろうことか、大事なことを教えてくれる人へ怒ったり、相手のせいにして自分は言いたい放題、こちらが突然強気に出ればしゅんとなる。それなら最初から言うな」

それを世間で内弁慶といいます。

相手を見極めれないのに、自分の低い理解の範疇で正しいことを述べていると自分だけが思い込んでいる。本当に情けない話です。自分に恩恵(地位・肩書・名誉・会社・寺など)がある人は恩恵が有るために相手は敬意を払って本当のことを言いません。

一体自分に恩恵がなくなれば、それは1対1の人間的な付き合いとなります。その時に貴方は素晴らしい人です。そう呼ばれることができる人は少ないです。恩恵がないのにその人が素晴らしいなんて呼ばれることが出来る人だって存在します。

勘違いをしてはいけない。

うかつな言動はその人自身を滅ぼしていきます。いつだって見誤ってはいけない。

そんな偉そうなことをいう私も、大事なことへ気づいていない事が多く、自分の言動によりいつだって身を滅ぼしそうになります。

私のようではいけないです。

世に生きる人は賢くなければいけないです。

相手を軽んじ、勝手な思い込みで発言している自分をどこまで見れるか。それが見れないようでは世間ではなしにもならない。自分だけができているなんてただの愚か者です。内省とは自分をどこまでみれるか、仏教的に言えば「如実知自心」どこまで自分を客観的に見れるか、どこまで相手のことを正確に判断できるか

己を正確に把握できないものは、相手のことを言える資格など無いです。

偉そうに人のことをいう輩もいます。(事実わたしのおろかなところはそんなところです。)


自分のことをどこまで把握できるか客観的に把握しているのか、身近な人へ自分のことを痛い思いをおそれず聞いてみたらいいのです。

自らが痛い思いをおそれて、他人にだけ正しいことを押し付ける。

そんな人は本当に愚か者です。
(私もそんなところが多いです・・・・)


言動は必ず己にかえります。それをおそれて何も言わない何もしない。それは愚中の愚です。


毎晩酔っ払った私は、自分のことを把握できてないのに、偉そうなことを書いてしまうのです。


記念日

 我が家の記念日、私の誕生日以外は一年の後半に多くやってきます。

7月9月10月11月12月(はクリスマス)それぞれ記念日や行事としてその日になればドアを開けてやってきます。特に記念日は私と家内にとって大事な日です。言葉を変えれば私と家内以外にはあまりどころか全く関係ない日ともいいいます。(皆には関係ないのだけれど、どうしても書きたいので思いをここへしるすのです。)

家族五人(詳細は私・家内・長男・次男・三男「けいくん」)何故いつも三男だけ「けいくん」という名前を書くのか?

それは(私にとっては)しょうがないことの一つです。

あの子は3歳、立ち居振る舞い、まばゆい笑顔、好きなものと一緒になりたいという思いの強さ、とらわれのなさ、こだわりのなさ、透きとおったこころ、皆とよいことを共有したいという思いの強さ、あの子には魔法がかかっています。上の二人は小学5年と3年で魔法はもう消えています。大人になるための準備をしている真っ最中です。

つまりは上の二人は私と近く、「けいくん」は私と対極を位置しています。

私も「けいくん」と同じ3歳なら負けないよなんて思います。(世に生きる人なら誰でも当てはまる私はそう思っています。)

望んでも望まなくても押し寄せてくる月日のため私は40になりそうな年齢です・・・
(本当にオヤジになったもんです;;)

私も家内もお酒には強くないです。それは似たもの夫婦なんて言葉が似合うなんて私は思っています。どこかへ記念日に出かけて大人のようにお酒と素敵な食事を満喫、まあ子供達三人いる時点でそれはかなり制限が出ます。制限とあの子達がいる幸せとは比べようがないことです。

お家でお酒とご馳走、これなら食べ終わってお酒に弱い二人が倒れたとしても、問題はありません。

あの子達にはお酒のかわりに好きなジュース飲み放題、外で食べるより手間がかかるとしてもいつもより豪勢な食卓になります。

外食は外食で別の楽しみがあります。私も子供時代「レストランに行きたい。」なんてことをよく両親に言っていました。
最近、「レストランへ行きたい。」そんなことを言う子供は減ってきたなんて私は勝手に思っています。住んでいる近くに素敵なレストランが有る人はいわないんでしょうけれど。

子供の頃「レストラン」それは私にとって魅惑的でした。魔法がかかっていました。メニューを見て好きなモノを頼める場所です。そう思えばあの子達だって素敵なお店でメニューを見て頼むことは同じなのかもしれません。

またあの子達が大人になってその話をしてみたいです。

記念日を楽しめる大人、私もようやくそうなれるようになってきました。(家内からすれば遅いですよなんて言われそうです。)


あの人と子供達と私、いつまでも楽しい時を過ごしていたいです。

それは私の夢であり、しあわせだなんて思います。


あの子達が大きくなれば関係も変わるかもしれません。友人の父親が結婚式のスピーチで

「私とあの子(達)の黄金時代です。」

その言葉の本当の意味が私もようやくわかりかけてくる大人になろうとしています。私はもっと何でも理解できる大人になりたいです。

家内へ「けいくんは今3歳、後12年してもあの子は15歳、あと干支二回りは私は頑張らないといけない。そうしないとあの子達が大人になるまでは私がしっかりしないと」そう伝えました・

「24年は最低私もがんばらないといけない。」


そんなことを思う夜もあるのです。