あの人

 ときおり仲の良い夫婦だとしてもそうでないとしても悪い夫婦でも口論をすることがあると思います。私も家内も仲は良いほうだと思います。けれども時に口論はします。

私の口ぐせです。結婚当初は何かあった時には

「喧嘩(ここでは口喧嘩)はしないと理解し合えないだろう。だから言い合わなければいけない。思っていることは必ず言って」

人によりそれは思いが違うと思います。私は他人と他人が知り合い結婚する。育った家庭環境が違う。価値観も違う。目標も微妙に違う。微妙な善悪の概念も違う。理解の程度も違う。どうしたいのかという理想だって違う。食事のメニュー(献立)も違う。食事の味付けや好みだって違う。好き嫌いなものだって違う。理想の人間像だって違う。

ただ目の前の人が好きだし愛しているから一緒になった。それだけは同じです。(あくまで私の勝手な思い込みです。)

最初からブログを読んでいる人であれば、簡単に私が愚かで考えが足らず、よいことをあまりせず、学ぶこともせず、努力をせず、現実から目をそらし、逃げ続けていた醜悪な現状だった私、それなのにそれなのに善いことを誰よりも望む過去の私の一端をうかがい知ることが出来ます。「そんな醜悪なもの興味もないよ」なんて人がほとんどでしょう。

けれどもたまには善いことだって稀に言ったり行動したりしていたこともわかります。(それを決めるのは読む人しだいなので実際はどうなのだろうかなんて気になるときがあります。)

最近は今後のことや家のことで、言い合いをしました。

お互い思うことは違います。理解なんて黙っていてもできる人もいるでしょうけれど、私は言ってもらわなければわからない愚か者です。

一生懸命家内も私もしているつもりです。

物事はそれでも好転することばかりではありません。むしろ悪いことが多いのが私達の現実です。人からすれば努力が足らないなんて言われて終わりそうです。まあ事実そんな点も多分にあるからそれも仕方ないことです。

現実は現実、それは時として残酷なことがあるのはこの世に生きる人の避けて通れないことだなんて言い訳をここへのべておきます。

激しい言い合いの最後に、家内は

「あの人達がいい加減なことばかりするから、私達はそれで口論(喧嘩)をしなければいけない・・・」

そう告げられました。

情けないです。私のどこを探してもそれに反論できる言葉がありませんでした。


反論できないからといって私は諦めません。「必ず私の努力が足りていれば現実はよくなる。」そう信じています。

何も努力せず、あの子達や家内を残して安易な方法は選びたくないです。


「私はあの人(家内)のしあわせな顔を見たい。」

ただそれだけなのです。




私はただ、あの人のしあわせな顔がみたいだけです。


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休日

 仕事の関係上、土日祝日は休日ではなくほとんど仕事です。その代わりに平日が休日になっています。世間でも凄く当たり前のことを書いているように思います。

あたりまえでない人なら、「私には休日がない」「私は毎日が休日みたい。」きっと他にも色いろあるのでしょう。

それはともかく我が家の長男と次男は今日が運動会でした。以前からわかっていたことですが今日は特に仕事が忙しい(予定が多い日だ)から運動会へ行くのは諦めようと思っていました。

けれども職場の人の好意でお休みをいただきました。ほんとうに有難いです。

運動会へ行けることができたので子供達のために何かPTA(両親達)が出場できる種目へ立候補しました。以前にも職場で優しくお世話になり続けている方に

「子供達が喜ぶんだから、何かに参加しなさい。子供達本当に喜ぶんだから。」

なんて言われたのでその時も参加したおぼえがあります。元々体育会系ではない私なのでよっぽどのことがないとでません。一見さんお断りみたいなものです。私に影響を深く与える人でないと私は動かないところがあります。

今回も参加できたので、以前は走る競技でしたが玉入れに参加しました。

小学生の頃以来でしょうか、玉入れに参加しようと思ってみたはいいものの、当日が近くなるにつれ不安が出てきました。

「お父さんちっともいけてなかったよ」なんて言われたら割りとショックです。

ここはネットです!

世間ではこれも検索アンド動画といえばYOUTUBEです。

「玉入れ」で検索、玉入れで検索して初めてわかったことは(人より遅くてスミマセン)玉入れが正式種目であるということがわかったことでした。

なかでも「第17回全日本玉入れ選手権 DADAIS 決勝戦 12秒66」なる動画がありました。

玉入れの概念を覆す動画でした・・・・

事前に動画を見てイメージトレーニングあんど玉入れフォームの練習を夜中に家族が寝静まったころにコッソリおこなっていました。

本番が近づくにつれ、少し緊張しました。(子供達以外誰も私のことなんて期待していません。)

学年対抗です。準決勝と決勝二回にわかれて勝者1チームが決勝へ進みます。

これも参加して初めてそのルールに気づいたなんて、何回も運動会みてるのに他人事だと全く気になっていないから覚えていないことが多すぎます。

準決勝、特訓の成果か?無事決勝へ進めました。(私以外の人の活躍が良かったのでしょう♪)

決勝です。

4年生と3年生(私は今回次男坊の親で参加しました。)

30秒の投擲終了後、アナウンスで1つずつカウントしていきます20も越えて23確か入った玉は24くらいでしたか、相手は27くらいだったように思います。惜敗でした。

私は考えが先行することばかりです。たまにはすべてを忘れて玉を投げることに没頭するのも悪く無いなんて思う玉入れでした。

終わって子供がお昼のお弁当の時にたずねました、「お父さんどうだった?」

「惜しかったよ、でも頑張ってたからいいよね」

かなり私も盛り上がりました。次男坊の3年生クラスもだいぶ盛り上がっていたようです。

来年は長男坊のクラスで出たいと思います。

次こそ一人で30秒の制限時間内に30個放り込んで一人で決めてやる!


なんて妄想を今日の晩御飯の時に酔っ払って家族へ宣言する私の戯言を今日の何かとするのです。




大事な日に休日をいただいたことに感謝しております。

考えることと私

 困れば考え込む悪い癖を持つ私。「考えたって何もならないのにねえ」なんてもう一人の私が言う。それにまたもう一人の私が答える。「考えることがなければ進歩がないだろう。」また違う私が言う。「お前はいつもそうだ。考えるだけで即座に何かをしようとしない。」それに「しょうがないじゃない。動けないんだから」なんていう情けなく言い訳する私がいる。

この私の数は厳密には一つで同じなのだろうけれど、少し違うといえば違うように思う。数を挙げればきりがない。

考えることも悪くない。経験・失敗・忍耐・喜び・不幸などの年数がある一定の期間以上経験しているのであれば見つめ直すことにより、無数ある道の中から自分にあった道を限定させやすい。一般にそれは傾向と対策などの言葉として使われているように思う。

(自分が)普段どのような発言をしているのか、普段どのような行動をしているのか、周囲へどのような影響をあたえているのか、何を自分や周囲は考えているのか、自分の些細な言動はどの程度なのか、自分の言葉にどの程度の深さや重みがあるのか、自分の目の色が濃くなったはどういうことなのだろうか、己を省みるとはどういうことなのだろうか、自我の小さいとらわれた禅定ではなく自我を超えた本当の禅定とはどういうことなのだろうか。

懲りずに再度、「考えることも悪くない」と言い訳をする私。

何か考え学びが著しく極地に近づけば、仏教はそれをすべて放棄して目前のことへ身を投じることが多い。

ただ礼拝、ただ念仏(念仏にも仏を念じる、観仏や称名念仏などさまざまある)、ただ合掌をする、目前の人へ礼拝(心から感謝)する。お香を焚く香の道、華を供える華道、ただ人をすくい続ける道、人に真理(お経)の教えを説く道、それもまた人の数だけあったとしても仏教はすべてを包括する。

その故に見えにくい。ぶれやすいともいう。道が広すぎる。

そこに一貫して共通することは存在し続けている。仏教を説き始めたシャーキャムニは自分を真似ることをすすめていない。

では何を進め続けたのか

その教祖を拝することでもなく、ただ法を知り、法を見、法にしたがって実践することであるとするのである。なかにつき「法を見るものは私を見る者である。」は文中の眼目をなすものであって、他の経にもしばしば繰り返されているところである。けだし、そこには、仏教というこの宗教の真骨頂が打ち出されているからなのであろう。
(『根本仏教と大乗仏教』増谷文雄著)



その引用文の前を概略すれば、「私を見る人が私を見るのではない。怒りの眼で私と同じ行為をしたところで私を見ることは出来ない。貪りの心をもって私とおなじことをしても私を見ることは出来ない。私と同じにはなれない。

「それは法(真理)を見つめ、法とともにあろうと行動する人が私を見る。私はその人の近くにいる。」



だからそれぞれの人の生き方行動が様々あっても、仏教は一つも問題としない。それぞれの生き方の数だけ仏教の信じ方は実践方法が存在している。つまりは宗派が多いこともその理由の一つになる。

「ただ法(真理)を見つめ、法(真理)と共にありたいと行動する人が私をみる。」を根拠とすれば、すぐれた人・優しい人・偉人・優れた宗教者に聖者の影をみてしまうのも仕方のない事だろう。

見られている側も気をつけなければいけない。一時も忘れてはいけない。人は真理をみているのであってその人を見ていない。わずかばかり人が感動して涙したからといってその人が法(真理)そのものだとは断定できない。

自分こそが法の代弁者や真理そのものと勝手に自分こそが決めつけ慢心し努力を怠ればそのような人に法(真理)は見る影もない。

よく新興擬似宗教の教祖などにそのことがあてはまるかもしれない。擬似宗教とは人を心から満足させることが宗教であるのに、それをかたって目先のことでごまかす。そうなれば擬似という言葉がついてしまう。

自分で私が宗教者だと名乗ることは誰にでも簡単なこと(言うのは誰にでもできるから)。皆が心から納得する否定しようもない本物の宗教者になることは本当に難しい・・・。

私はよく「宗教」と「仏教」と「ほとけ」と「極楽」を「しあわせ」と言葉を置き換えても全く問題ないと言う。何に根拠があるのかはともかく、例をあげれば

「私は宗教を信じています。(私はしあわせを信じています。)」

「私は仏教を信じています。(私はしあわせを信じています。)」

「私はほとけを信じています」(私は幸せを信じています。」

「私は宗教とともにあります。(私はしあわせとともにあります)」

「私は極楽にいます。(私はしあわせの中にいます。)」

それは私なりのシンプルな宗教観です。

「真摯に生きる人は必ず宗教とともにある(西田幾多郎氏)」などのように書かれていることに私は賛同しています。

また「しあわせ」と「宗教」を置き換えれば

「真摯に生きる人は必ずしあわせとともにある。」


私の信じるところの宗教は仏教です。だから仏教を通して世界をみようとしています。それも人から見れば偏りの有り狭すぎることかもしれません。

だからブログがそれとなく(それとなくかどうかはともかく)仏教よりなのです。私がキリスト教好きならキリストよりだし、イスラム教よりならイスラム教、他の宗教のことは詳しくないから、懲りずに程度は低いですが仏教よりのひとりごとをまたここへ今日の何かとして記すのです。


願い

 寺社参りへ来て縁があった(魅力的な女性との出会いがあった)から私は本当によかった。

まあこれが独身男性や女性であるなら、「お参りしてよかったですね」と言える。たまに妻や夫がいるのに異性と素敵な懇意になれてよかった。「縁があった。ずっとその人とこれからもお参りしたい」とくれば誰もが思うことはおなじになるように思う。

「あなただけですよ、そんな変なことでならお参りへこないでほしかった。」

「仏様や神様に懺悔してるそばから、それでは・・・」

私がお世話になる年配の方に日々さまざまなことを教えてもらう。お参りに皆いくのにあの人は家族や先祖のことではなく、家族のことはほっといて神仏へお金のことしか頼んでいなかったという人のことを話してくれた。その子供や孫が現在いいことがなかった。

「家族のことはどうでもよく、お金しかお願いしないからあの人はバチが当たった・・・

そう町の人でその人のことを知っている人は皆がそう言っていた。自分勝手なことばかりをずっとお願いしてはだめだ。皆見ていないようで見てるものだ。」(子供や孫までそんな願い事をする人の子孫だからなんて全く関係ないのに近くの住民に思われてしまう。)

私もお金がないからよく欲しいと思います。お金さえあれば家内や子供達にもっとなんて思うことがあります。思ったところで誰もくれません。(ひょっとしたらくれるひともいるのかもしれないけど、私はそんな人にあったことがないのです。)

たちまち願いというのは、私だけでなく家内や子供達へ降りかかってくる。そのことをいつも来る方は知ってか知らずか私へ教えてくれます。

聞いただけでバチが当たりそうな願いは、聞きたくもないことですし関わりのある人にも迷惑をかけてしまいます。なにもしていないのにその人と同一視されることだってあります。

善い願いは人が宣伝してはくれないものです。けれど知っている人は知っており、気づいている人は気づいており悪い願いと広がる早さ威力が圧倒的に違います。

これを「人間らしくあることは難しい。」などの言葉であらわしているのでしょう。


私は私もそうですが家族や子孫にも迷惑をあまりかけたくないです。

答えは簡単、善いことを行い。善い願いを持ち続ければいいだけのようです。


皆には簡単でも私には本当に難しいです。ただいつもの如く私はあきらめないです。


おぎないかた

 時折不思議な人に遭遇する。

何が不思議か、不思議だから不思議としかいいようがない。とある例を持ってきてみる。

「あなたこれができていないよ」誰かがその人へそう伝える。または思っているが本人には告げずに周囲へ告げる。

理由や伝え方なんて私はどうでもいい。できていないことに自身が気がついて足りないものを補っていけば問題ではないように思う。

「なぜ不思議か」

結論としてそのようにしようとしない人がたまにいる。

自身の足らない点、つまりは補わなければ迷惑になることを解決するのに、その指摘している人達を責め、自身を向上させることなく問題点を改善させることなく、周囲が悪いとだけ言い放ちその人たちや関係ない周りの人達になすりつけて、その場が終わる。

当然解決していないんだから、趣旨は違うようでも同様のことが目前にくればまた前回のような現象が起きる。補わなければいけない・なおさなければいけない・学ばなければいけないとはならず、指摘する人や関係ない人に文句や悪態をついたり虚勢を張ったりして問題をおさめた。私は問題ないなどのようなことで終わる。

私はこれを不思議なことだと、つい思ってしまう。

そんなことを書いている私だって、できていないこと・都合の悪いことを言われれば、感情的になり誰よりもカチンときて・素直じゃなくなったり、「はいわかりました。」とすぐに言えないことが多い・・・
そうなれば、すでに

「他の人のことより、やはり問題は私となる・・・」

カチンとこようが、文句を言いたかろうが問題は問題。ぐっとこらえて直さなければいけない。感情的にものを言ってはいけない。直情的な態度をしてはいけない。少しずつでもいいから大人へ近づく努力を続けたい。

だから、私の悪いところ・できてない所・文句をいう人、その人(達)に感謝をせねばならない。

他人にはできても家族にはなかなかできないこともある。それでは家族に大変な迷惑をかける。まあここは「全く迷惑をかけるな」ということではなく、家族だから「お互い様は多くて当たり前」はある。けれどバランスは大事だと思う。

他人に言えないことでも家族には話せるというのが家族の強みだろうし、助け合いも他人より家族が強いのが基本的なこと。当然それには例外は必ずあり、逆の場合もあるだろう。

「あなた(ここではブログを書く私)の発言や行動は(悪い意味で)不思議でならない。」

なんてたまにはいいのかもしれない。(本当はたまにもよくないけれど)あまり増えすぎないようにしないといけない。

スタートの判断

 ある人が何かをしようとしている。

他人がそのように発言しているならその人は何かをしているのだろう。私は時折悩み苦しむ。私だけでなく生きている人は誰もが悩み苦しむことは必ずある。

私は誰かが「スタートすらきれていない。」と言われれば、それは自分だって同じなのではないかと思う。悩めば考えこむ。納得する答えが出てこない時誰かにたずねる。すると簡単にその方は言われる。

「貴方は問題ない。その人とは違う。その人はスタートすらきれていない。自分がどんだけ頑張っていると思っていても、その評価は周りの人が決める。私はこれだけ頑張っている。周囲へ何度も発言したとしてもそれは世間の人であればあたりまえのことをやっているだけなのだからそれだけならば善い評価はできない。」

そのことを「まだスタートすらできていない」と人によって言葉がかわる。けれどもそのことを意味しているのだろう。

「あたりまえのことは世間ではあたりまえなんだから、そのことを人並みか遅れてやって胸をはられたって善い評価はまだできない。それは厳しい言葉に聞こえるがその人の現状をあらわしているだけだ。」

そう答えてくれる人は、いつでも誰にでも優しくできることをおこなっている。厳しいことを言っていたとしてもほとんどその厳しい言葉を出さずに助け続けている。出来る事をし続けている。誰よりもやさしくあり続けている。私とは違いすぎる・・・

まだ納得がいかない私はその方へたずねる。「貴方の子供さん達(全て社会人)はあの子達はまだ肝心なことが出来ていないと貴方自身がよく私へ言うが、やっていることを聞けば世間の人と比べてもできている(理解している)としか思えない。」

「しょうがないよ、あの子達は必死に仕事やらなければ、だまっていたってお金をよそから持ってきてくれないんだから必死にやるしか無い。だからあの子達なりに必死なんでしょう。

生活に困ることがなく誰かが勝手にお金を持ってきてくれる人達や棚からぼた餅をもらっている人にはわからないかもしれない。だって生活が困らないんだから、必死になる必要も理解する必要もないかもしれない。やる必要もない。わからないんだろう。でも、私はその人に私たちと同じ場所へ早く来て欲しい。だから私はできることをやり続ける。これからもそれは変わらない。」

それに対する私の答えは何時でも代わり映えしません。

「何かあれば、私さえ必死になり、何かを出し続けていれば必ず問題は無くなる。だからそのことへ力を注いできました。だからこれからもそうであれば問題ないでしょう。(いつだって私の程度が問題でしょう。)」

「どこの場でも主になってやらなければならない人が必ず存在している。その人が周囲をだまらせれるほど普段の行いをしているのであれば問題はなくなる。肝心要の時にその人の持つ雰囲気で周囲を黙らせることができる納得させることができることが問題となっている。つまり貴方がどれだけがんばってもその人がそうならなくてはここの問題は解決することがない。」

私の愚かで勝手な理解では「その問題となるここでの主(メイン)とはあなたではない。」しばらく私は考え込みました。自分がやり続けていたことが間違っていたのか・・・

ただ全く関係ないことが何時でも私にはでてくるだけです。

自分がしていることや自分が出来ている。その判断を自分自身で判断することは難しい上に間違いだって多い。だから困れば優しい人に真摯にたずねる。

「本当のことを教えてください。私に足らないものはなにか、私ができているのかどうなのか、そう覚悟をもって問えば必ずその自らの覚悟の分だけ教えてくれる。」

そのことをたずねる勇気があるかどうかにかかっている。

もし尋ねることができないのならば、それも簡単な話。結果が明らかであるからたずねることができない。つまりそれは自分自身の現実から目を背けている。

いつだって私は思う。前に進みたいという決意がかざりではないと胸を張り言い切れるのなら

経にあるように

「愚かにして愚かさを知るのは、愚かにして賢いと思うよりまさっている」


「愚かな人は賢い人と交わってもちょうど匙(スプーン)が味を知らないように、賢い人の示す教えを知ることが出来ない。」


「過ちを示し、悪を責め、足らないことを責める人には、宝のありかを示す人のように、仰ぎ使えなければいけない。」

(仏教聖典より抜粋)

前へ進みたいという言葉が本物ならば激しく痛い言葉や態度を真摯に受け止めるしか他に道はない。自分に足らないことが何なのか恥をかいても教えてもらうしかない。私がこんなことを書いたとしても、他人事のように思い。我が身を振り返らない人もいる。

「私はいけてるから、全く問題がない。必要な人だけ考えたらいい。」

この言葉がでてくる人であれば、それも答えは既に決まっている。

「私一人の力に限界はない。だから努力を続けたい。」

限界はないのだろうが、実際には誰もが気がつけば壁にあたりつづけている。

私の前にも常に大きな壁が立ちはだかっている。なんとかしてそれを乗り越えたい。問題を解決したい。越えられない壁なんてない。私は人間らしく生き続けていきたい。

私は私にできることを1つずつ成し遂げていきたい。

魔法

連休里帰り(お墓参り)していた家内と子供達、私の仕事が終わった頃に帰ってきました。

2日ほど仕事が終われば一人の時間、何やら調べたりパソコンの前ばかりで全く変わりばえしない生活です。家内は安心なんでしょうけれど、何かすればいいのにとも思っていそうです。

帰ってくれば子供達三人、たった二日ほどなのに久しぶりに私に会えて嬉しそうです。私もちょっと嬉しいです。

なかでも3歳の「けい君」は見れば幸せになれます。小学五年生や小学3年生だとそうはいきません。

「けい君」」を私が抱っこしていたら、長男坊(小五)が言います。

「いいよなーけい君は、魔法がかかってるからしょうがないか」

「あなたにもけい君と同じ頃には同じように魔法がかかっていたよ」

そういうと嬉しそうですが自分にそれが無くなっていることを悲しんでおり、少し複雑なようです。
けれどその「けい君」の魔法に長男もやられています。よく可愛がっています。時折

「けいくん、かわいいよなー」

なんてひとりごとが聞こえます。長男坊は赤ちゃんで手のかかる「けいくん」の出現により自分に構ってもらえる時間がなくなり

「子供はもう産まなくていいよ」

と言っていましたが、最近は「けい君」の魔法にやられて

「子供産んでいいよ」

なんて発言にいつの間にか変わっていました。「けい君」の魔法はすごいものです。次男坊は早くから魔法に気がついていたみたいです。また魔法を絶対にもっている小さい子を私と家内へ

「また弟産んで、お願い」

そのお願いはかなり嬉しいのですが、私と家内は複雑です。特に家内現時点で男三人、男の子四人なんて考えられない。次の出産も考えられないなんて顔を後でしていました。女の子は始めからほしかったようですが世の中思うようにいかないことばかりです。

けい君はいつまであの魔法あるのか、それを私は興味津々見守っています。

古人は幼子に神仏をみる。それを長男坊も言葉を変えて「魔法」とよんでいるようです。人によれば「天使みたい。」なんていう人もいます。

いずれも人を超えたもののようにあらわしている点では違いがありません。

私は「けい君」に私の狭い井戸(私なりの仏教観)から世界を見ようとしている。

人は仏性を生まれながらに持ち、それは幼子ほど顕現させている。ただ年齢とともにその仏性は減少していく、いずれあの子も自らの知恵と身体的努力でその生まれ持った仏性を違う形で顕現させていくだろう。それを成長と呼ぶのだろう。

あのやわらかいふっくらほっぺがなくなっていくと、人間になっていく。

人として生きるには人の知恵や行動、個人や団体などのとらわれを身につけなければいけない。我がものと人のもののとらわれを身につけなければいけない・・・

いずれはまた元に戻らなければいけない。



「魔法」は私にもあなたにも、生まれてきた皆にあったもの。


大人になっても「魔法」が出せる人がいる。そのような人に私は憧れてやまない。

学び

 この時期、通勤途中にも職場の近くにも彼岸花が所々に咲いています。私が生まれ育った所、長崎でも「ど」がつく田舎ですからこの時期たくさん咲い(群生し)ていました。

葉が無く、あやしげな雰囲気のある花というのが私の幼い頃の印象です。好みの問題でしょうが私はあの華を美しく可憐に咲いているとは言いにくい私です。

気がつけば秋彼岸の中日、家内と子供たちは実家へ泊まり込みでお墓参りに帰省していました。私は残って仕事です。(終わればそれと日課のブログかな)

私もお参りをして、時を少し過ごすことができた老僧二人から学ぶことが多かったです。その人達だけでなく他の私より若い人からでも学ぶことは当然多いです。

ただ人生を先に生きている人たちに勝てないこと、それは生きている年数です。私より若い人であればそれも私に勝てないでしょう。お互い生きていればの話です。
どちらかが死んでしまえば、いくら勝負や競争したくても、もう勝負できないです。

今日は昼と夜の長さが半分の秋のとある日、明日からは夜が少しずつ長くなります。徐々に寒くなっていくんでしょう。

日々人生の先輩方・若い方とも仕事をしながら、学ばされるのか学ぶことなのかどちらでもよいですが多いです。「勉強になります。」最近の私の口ぐせみたいなものです。(よっぽど勉強が足らなかったんでしょうね私は・・・)

初心の人が仕事をする時、親切に教えてくれる人・普通の人・全く教えてくれない人・注意してくれる人・よく怒ってくる人、いろんな方と仕事をするでしょう。

こないだ新人さんに3人の先輩がそれぞれ親切に仕事を私の前で教えていました。誰かが親切に教える。すると次のひとが同じことを親切に違ったやり方で教えています。またもうひとりの人も親切にまたまた違った教え方をしています。

「新人さんがぼそっとひとりごとをこちらへもらしていました。三人とも同じ仕事を親切におしえてくれるんですけれどやり方が三人とも違うんです。どうしたら・・・」

お節介な私の出番です!

「簡単ですよ。どれもが正解なんだから、三通りおぼえればいいんですよ。あの人の前ではこのやりかた。人に合わせてしたらいいだけですよ。全部おぼえれば問題なしです。」

後ろで教えてた人達が私の答えを聞いていたみたいで、皆がにこっとされていました。

新人は大変です。覚えなければいけないことは多いし、何に気をつけていいかわからないし、皆が言うことが違えば理解できないことも多いです。(何せ過去から続く現在の私のように、自分のことがよくわかっていないのということがいつだって問題です。)

ただ誰よりも新鮮です。悪い先入観もないです。悲観的なことも少ないです。元気です。(年をとっていたとしても)新人であれば若さが感じられます。

その理由も簡単です。

「何もわからない私なのです。いろいろ教えてください。」

そう言って頭を下げて学ぼうとしているだけです。学ぶということは人を若く感じさせるようです。

反対に若くても、「自分は出来ているから学ばなくていい。」そう言って頭を下げずふんぞり返っていればまあなんというか・・・


私も日々学び多き人でありたいです。

「私にもっと教えてください。」



(ただ興味ないことは全く覚えれないんのよね・・・、歳かなと言い訳しておきます。しかし一筋の光明もあります。仏教的なことはかなり興味があります。だから勝手に覚えることが多いです。)

進み方(2)

 誰も自分に悪いことをしてくる人はいないだろう。何も知らない若い頃の私はそう思っていました。

そこにある悪いとは何なのでしょう。そう問われてそんなことは簡単だという人でも言葉にして皆がわかるように言う又は文にして書く。一見簡単そうに見えて簡単なことではない。

善いの対をなす言葉として悪いがある。悪いの対をなす言葉として善いがある。

相対的なものということになる。相対にも対があり、それは絶対となる。例えば「私とあなた」私からみた善いとあなたから見た善いが全くもって同じということは人が違うのだからありえない。よく似ているということはあるだろう。だから絶対がある。

それを「仏と我」「神と私」「大宇宙と小宇宙(私)」と言葉を変えて呼んでいるのだろう。

私は暇なときに周りを見渡す。よく見なくても大宇宙そのものに恨みはない。大宇宙に善いはない。善いとか怨みを感じさせない。では勝手に感じ取る善い・悪い怨み・つらみ・ねたみ・そねみ・ひがみはどこから感じとっているのか、それは誰でも理解している。

物事がうまくいくことがない。誰かが私へ嫌がらせをしてくる。周囲へ言えない人が弱い立場の人へ不平愚痴不満を向け続ける。

誰かに対して相当なはかることのできないくらいの怨みを持つ。そのあたりの大宇宙から持ってきたのだろうか。

乗り越えて何もかもが上手くいった。前と同様のことがあったとしても私は怨みには見えない。もう怨みを持っていない。そこらあたりの大宇宙に怨みを捨ててきたのだろうか、それとも大宇宙にもともと怨みがなかったのだろうか。

怨みを持たないと思っていたのに、気がつけば私は凄まじい怨みを抱いている。また世界が私へ怨みを押し付けてきたのだろうか。

その答えなんてどうでもいい。

腹が立ったら腹を立てたらいい。ただ人に向けすぎたらいけないだけのこと。怨みたかったらとことんまで怨んだらいい。飛行機にその相手がのるのであれば落ちるように怨み続けたらいい。

何年も怨み妬んだとしても、その思いによって相手は損なわれない。
短絡的に自分や誰かが手を出したとなればそれはすでに別問題になっている。

私も全てを呪い怨み続けた。それによって怨んだように相手がなったことなどない。世界が私の思うようにまわるようになったこともない。

経にあるように、愚かな私のような人へお釈迦様はひとりごとを言われたのだろう。

怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり。



怨みを激しく持っている時の私では理解できない。怨んでも怨んでも現状がひとつも好転することがない。私はようやく前へ進もうとする。
世に生きる人同様、又私へ何かが訪れる。私は何かに試される。「お前はまた怨みをもつのではないか」すべての人におとずれる困難・辛抱・苦労はそのことの一端でもある。

経にあるように、又私のような愚か者へ、釈尊はひとりごとを言われる。

怨みのさ中にあって怨みなく、愁いのさ中にあって愁いがなく、貪りのさ中にあって貪りがなく、一物もわがものと思うことがなく、清らかにいきなければいけない。



以前にもだした

「花が最も美しい時はいつか、それは花として咲いている時が最も美しい。では人間が人間として美しい時はいつか、人が感動するとき、素晴らしいものに出会えたときに人は涙して喜ぶ。それは人間が人間らしいときを意味し、最も人間らしい時は善であり、それが人間としての美である。」
(西田幾多郎 「善の研究」より要約、詳細は元を参照下さい。)

何かあれば思う。ならってひとりごとを私は言う。

「私は誰より私らしく、人間らしくいきたい。」

「怨みをもつな、など人間らしくないことは言いたくない。誰よりも持ち、捨てていけ」

「私は蓮華のように、泥からいでてその泥に一切染まることがなく、可憐に咲き誇るあの蓮の花のようにありたい。その蓮華の色は純白ではないかもしれない。燃えるような赤でもないかもしれない。けれども私はどのような色でも大きさでもいいから必ず華を咲かせ、やがては散っていきたい。」


それが私の思う私なりの他の人へおしつけることができない「進み方」なのだろう。

智者には智者の道があり、愚者には愚者(私)の生きる道がある。そのどれだって仏教は寛容にすべての人を包みこむ。


何かの三倍の意味

 誰か(又は一緒にいる人達)においつかなければいけない。それでないと迷惑がかかる。だから人の三倍がんばらないといけない。その時、声にして

「私は人の三倍やってます。」

この言葉は天才かそうでない人にしか出てこない。

天才から聞けば、畏敬の念・尊敬・そのとおりだという心からの納得、反論の余地はどこにもない。うかうかその先くだらないことを質問すれば、反対質問(カウンタークエスチョン)にやられてしまうだろう。

天才ではない片方の人から先程の言葉(三倍やってます)を聞けば、聞こえた人や人づてに聞いた人でさえ呆れて空いた口がふさがらなくなるだろう。「10人聞いてそれは10人がそう思わないよ(あなただけしか思っていないということを意味しているかもしれないですよ)」「一度でもいいから考えて言ってくれ。」「危なかった。立ってたらこけるとこだった。座って聞いていてよかった。」続けて「あの人達(先に努力している人達、ここでその人達の年齢は関係がない)にボロ負けじゃない。(だから頑張りなさいよ今よりもっと今ではまだダメなのだから)」

それなのに返事をする(できる)人もいる。

「私だって私なりに頑張っているからいいじゃないですか、余計なことを言わないでください。あなたの発言で私はやる気をなくしてしまう。だから頑張らないのはあなたのせいですよ。」

そういってやろうとしない出来ていないことを発言する人にあろうことかなすりつけ、また何もしない日常へ戻る(過去の私)のような人は私の他にも確かに存在している。何よりも辛い現状を見てしまう。「あなたは人より三倍やれてないじゃない」という言葉が適切かもしれない。

そのような人へ疑問に思い、素直に「よく考えた上で発言していますか。」と尋ねる。本当のところ考えてない人であればあるほど詳細を聞き出そうとするこちらが何故か大変な目にあわされる。

世の中は時に難しい。いや本当に難しい。世の中ではなく私が難しいだけかもしれない。難しい人が難しいのかもしれない。

私にいつも優しい方は稀に口に出して言われる。

「給料の三倍働かなければいけない。」

事実その方は誰よりも何時でも一生懸命働き、成果を出し続けている。誰もが納得する行動をもってその言葉を裏付けている。
ただそれを理解できない人もいる。

「あの人(給料の三倍働く素晴らしい方)の代わりなんてどこにでもいる。」

その発言や態度を世に露呈させるだけでなく、新人でまだ何もわからない人とその人を全く同じ目でしか見ない人もいる。理解しているのにそのことをわからないふりをしてそのように振る舞う人もいる。

自分はわかっていると自分だけが思い込んで、できた方や先にスタートしている方と同じなんだと思い込み勘違いをする人もいる。自分が思い込む「私はやっていますよ」「私だって貴方と同じですよ」その理解は本当の理解ではない。

誰もが納得できる「私は給料の三倍やっている。」あの人の言葉は私にとっての目標、ただその方から私はよく釘を差される。
「貴方のやり方は間違っていない。他所では通用するだろう。ただここでは通じない(貴方だけが身を滅ぼす・・・)」

私は普段普通の方より器用なのに肝心なときには不器用になる。ただあきらめない。周りの人がどのようであろうとも諦めて欲しくない。私がどうなってもなんて肝心なときに本当に不器用になる。

すると釘を差されるのだろう。(その人からすれば貴方だけが潰されてしまうからと教えてくれているのかもしれない。)


でも、いつか私も皆が挫けそうになったり苦しい時や折れそうな時に

「私は給料の三倍やっている。(あなたはどうなのだろうか)」

現状は私にとってそこははるか遠いようだ。でも私はそういう人でありたい。



私はあきらめない。


声を聞くからだろう。「今ここで何もできないのであれば貴方はどこへ言っても何も出来ない。」私は時折おかしい声をどこからか聞く。

奈落へ

 不用意に一歩踏み出せば奈落の底へ落ちる。

現実を生きる私たちが何も考えずに短絡的な行動をした後に起こることをあらわした言葉でしょう。後になり「あんな軽はずみなことをしなければよかった・・・」それは時既に遅しなんてことが私にはよくありました。(ちっとも自慢できないことです。けれども人よりはるかに多いようなきがするのです。)

奈落は地獄と同じです。人間世界にある苦しみをそのまま死後にも適用されているようです。

しっかりとした適用条件があります。現実にひどいことをしているのにその罰を受けていない。法律の網の目をずる賢くくぐり抜け悪いことをしつづけている。地位・肩書・名誉・財産を盾にして悪いことを握りつぶす。自らの悪事を知らなかったからしょうがないといって知っているのに知らんぷりをする。その他誰も望んでいないし少なければいいのに多いなんていうことが多い世の中です。

自らの罪を生きているうちに償う。これだと計算式にも合います。所謂プラスマイナス0ということです。

「悪いことをしている人が命あるうちに罪の精算を逃げ続けたり拒否したり知らんぷりをしていれば」

誰もが思う答えです。その計算式はプラスマイナス0ではなく「マイナス〇〇」、〇〇の中にはその人の悪事を数値化できればその数字が入ることになります。

そのマイナスの帳尻を現実世界で精算出来ていない人には奈落の底や地獄が待っていることを世に生きる人は言葉でいう人もいれば、態度で示す人もいれば、心のなかだけで思い続ける人がいます。

この言葉や態度や心で示す人、私はその人達は人間としてあたりまえであり普通であり当然であると思います。私だってそう思っているからです。

その根拠は善いことを自分にし続けてくれている。当然の現象としてその人へ感謝の言葉や態度や気持ちを持つことばかりだからです。

もし生きている間にその人が報われていなければ、感謝の気持を持つ人はひとつの思いを持っています。

「(亡くなっているけれども)どうかあの人が善くあってほしい」

そのように何故か思います。

注意しなければいけないのは、自分が亡くなってからそのように思われるのではなくそれは生きている時からその思いは続いています。

短絡的なひとりよがりで自分だけがよくなれば他の人はどうでもいいといった決断・態度・言葉はその人を生きているうちから奈落の底へと近づかせていきます。

奈落の底が近くなれば人間はそんなとこに近寄りたくないとなぜか思っています。その場所へ近い人へ近づこうとする人は少ないです。

反対も同様です。

皆の幸せを心から願い努力する人は、生きている内から善い場所へ近づいています。何故でしょうかそれもよくわからないのですが、その人と善い場所へは人間は近づきたいようです。

「自分で自分の首を絞める。」

「自ら墓穴を掘る。」

「短絡的な発言・行動により悲しみが訪れ、寄ってきて欲しいのに誰も近づいてこなくなる。」
(皆に自分を見て欲しいのに、誰からも見られることがない・・・)


生きていることが苦しく辛いなんて誰もが同じです。自分だけが辛抱苦労しているわけではありません。そこで楽に走ればかえって自分が望むこととは反対へ向かいます。

私はただの愚か者です。そんなことを考えることもほとんどありませんでした。わかっておらず望んでいない悪い方向へ自らが選択肢て歩んでいました。

いつも私が愚か者だと書く根拠はそれです。もっともそれ以外にも無数存在する本当に愚か者です。

でも、私は奈落の底へ行きたいと思ったことはありません。思うこともないでしょう。望みたくないことです。わかれば自分が進む道もやることも必然と決まっていきます。

だから私は忘れないようにここへいつも何かを記すのです。

私は生きている内から奈落の底へ進むようなことは1つずつなくしていきたい。気がついた時はそうおもっているだけのことでしょう。

「誰かを見て私を見る。(私を見て誰かを見る。)」

それは本当に大事なことです・・・


皮肉

 何気なく日常を過ごす私。私と同様に何気なく過ごすこ人もいます。

ただ事件(何か)をきっかけとして感情がたかぶり、感情に流されるまま怒り声を大にして周囲に対して思慮の欠片もない発言する。「ほえた・ほえる」なんて言われます。「獅子が吼える。」「負け犬が吠える。」どちらでもほえるには違いないことです。

 他人がそのことをやっていればすぐ理解できます。激しい怒りにとらわれ、怨みつらみ・理不尽だと思い込み負の感情を爆発させ撒き散らし続けている。

目前で繰り広げられれば、「自分はそうあってはいけない・・・」簡単に誰もが思っています。他ならぬ私もそうです。

それなのに、それなのに自分に一度おとずれてしまえば波風を立てるどころか台風ハリケーン竜巻などのような感情の嵐を周囲に巻きおこして迷惑をかけてしまう。

その瞬間ではなく、負の感情を撒き散らしたあとにようやく自分の一端をみてしまう。

「人に偉そうにいつもいうのに、偉そうに言う自分は一体なんなのだろうか・・・」

客観的に例えては駄目なのですが、例えれば

「これを世に言う皮肉な話」

というのでしょう。私は誰よりも気をつけて無くしていくしか道はないのです。

言い訳も記しておきます。

感情の起伏が激しすぎる。ただよく有りたいがためによい方向性で感情を爆発させて周囲を巻き込む。それは時に有効なことです。

この反対、よくなろうとしていない。ただ自分が気に入らない。自分だけが辛抱していると思い込んでいる。自分だけが苦労していると思い込んでいる。(正しい努力を行っていないのに)自分の思いをいつになったら皆がわかってくれるのだろうなんて思い込み独自の世界に入り込む。その感情を爆発させて周囲を巻き込む。ある意味でそれは時に有効なのかもしれないことです。

ただ感情が強すぎれば反発を招きやすいのはどちらも同じことだと思うのです。

言葉や態度の理想は感情を一端自分の中でとことんまで爆発させてそこから収束させ、一件冷ややかなものであるが少しめくれば地表の下にある燃え続けるマグマのようにさめることができないものを含ませて発言する。

トゲがある言葉の上位版だろう。常に使うとそれだってトゲがありますから望む時にそのようなものを出したいとよく考えるのです。

私の中身と実行が伴わないために、望んでも望んだようにでてこないのも皮肉なものです。

皮肉という言葉、調べれば

①皮と肉転じてからだ。
②(骨や髄にまで達しない所の意)うわべ。表面。理解の浅い所。
③骨身にこたえるような鋭い避難。
④遠まわしに意地悪く弱点などをつくこと。あてこすり。
⑤物事が予想や期待に相違したけっかになること。
(広辞苑第六版より抜粋)

仏教で「聞法」(モンポウともモンボウとも読みます)と目にしたり聞いたことがある人がいると思います。

その言葉は耳で聞くのではないのです。頭で聞くの(頭で理解すること)でもないのです。心だけで聞くのでもないのです。

それは法は真理を意味しており、この世の何よりも有難い真理を身体全体で骨身に徹する・骨や髄に染み込むように聞くことを意味しています。

皮肉とは反対を意味する言葉となるでしょう。

聞くこと第一だけでも、やがてその人は解脱・涅槃にむかうことでしょう。




「そんな偉そうなことを書くあなたはどうなのですか」

と私にきくのは、それもまた皮肉な話なのです。

とめようのない気持ち

とめようのない気持ちは誰にでもあるものです。考え・見つめ・目前に同様の現象がおとずれれば誰でも出てくるものです。当然そんなことを考える時が私にだってあります。

とめようのない気持ちの代表的な例として「人が誰かを好きになる(気持ち)。」それに対する周囲の代表的な答えが「あの人はだめだよ、あなたとは(時に良くも悪くも)違いすぎる。」

そんな話はよくある話、私と家内が結婚するときに不出来で愚かな私を周囲が見て、「何故あなたがあのような人と結婚するの」なんていう情けない実例のセリフ・・・
(よっぽど私は阿呆だったのだな、なんて今は他人事のように空を見て思います。)

すべてを忘れて、他の例を出してみます。

「素晴らしい人に憧れて、その人に何かをしたい。」

「今よりもっと皆がよくあってほしい。そのために何かしたい。」

「皆の目にはたいしたことがない人に移っているが、自分にとっては何よりも大切な人だと思う。だからできることをしたい。」

「実際に悪劣な場所であるが、自分にとってはそう思えずいいところだと思いそこで何かをしたい。」

周囲と本人の思うことの差は万人にある。そう断言したい時があります。
(実際はどうなのか、それがどうやればわかるのか、わかったとしてもそれはどうすれば全ての人に通じることができるのか、そこは考えることは楽しいですが、私の乏しい頭では何も出てこないことばかりです。)

親心も同じではないか

世の人に自分の子供がどう見られているかともかく、親であれば自分の子供に何かしたいという気持ちだってとめようがないものです。

まあこれは常の反対に書いてみます。

世の人があなたの子供はどうしようもないから何もしなくていい。そう言われてそのとおりに何もしない。

私ならひどく何か言われ続けたとしても何かをしたいです。(へそ曲がりできれいごと好きの私は言われれば言われるほどするかもしれません。)

「とめようのない気持ち」

周囲の迷惑にならないような、とめない気持ちのもっていき方をすればいいです。

若く不出来で愚かな直情型(誰よりも感情的)な過去の私、とめないのはいいんですけれど周囲へ迷惑しかかけてきませんでした。
今はそれを振り返れば、知恵ある人が近くに必ず存在しています。
自分ではどうにもならない時は素直にたずねればよかったのです。
その時に誰も信じられない自分が存在していたなんて言い訳をここへ記しておきます。
何も見ることのできない己の目・何も聞くことのできない己の耳・何も理解することのできない己の頭、
それは他の誰でもない(誰のせいにもできない)私の問題です。

問題の所在を理解する。理解した上で次に「おこらないよう」にする。「おこらない」とは言い得て妙な言葉です。

「起こらない」

「怒らない」

どちらもその時に必要不可欠です。初めて予期せぬことがおとずれれば誰かや何かや世界へ向けて怒っている愚かな私がいました。

できた人は怒ることがあまりないようです。起こることがあってないようなものです。
時折私は怒っていないのではなく誰よりも怒り続けた(起こり続けた)からもう怒らなくなったのだろう。
なんて変なことを思います。

「あれに比べれば大したことではない。(怒る必要もない。)」

「あなたは問題かもしれないけれども、今の私には問題ではない。」

このあなたとは「過去のいたらぬ自分」がいつも入るのだろうなんて思うのです。
相手を蔑み軽んじる発言ではないのです。

もし人が入るとすればそれは優しさ(慈しみ)から出てくる言葉・態度となりうるのだろう。
その後はだからあなたになにか手助けできることがあればしたい。
正確にはなにか手助けしたあとにできることをしたいと言っているのだろう。

私はまったくこれがなっていません。

言葉だけが先行しがち、思いだけが先行しがち、机上の空論だけが先行しがちというのでしょうか。
実行があとからついてきているのであれば問題とはならないのでしょう。
問題だらけかな。

問題だらけの私にもよくありたいと思う気持ちがあります。
やめたらいいと言われたって邪魔されたってとめようがない思いがあります。
私の現状ができていないことが多ければ多いほど理解してくれる人は少ないです。

好き嫌いだって誰にでもあるし、何かをしてあげたいと思うとめられない気持ちは人によりさまざまです。

それをとやかく言うのは無粋というものでしょう。

自分たちは人より恵まれているのに、そのことを忘れて(実際は忘れたふりをして・都合の良い棚に上げ)
たまたま人にだけ善いことがあったからといって普段の自分にある人より多い恩恵を忘れた発言は虚しいものです。

「いつまで我慢したらいいのか」「いつまで辛抱したらいいのか」「いつまで苦労したらいいのか」
などの問いはそのことを忘れた頃に去っているのが一般的です。

自分のとめようのない気持ちを大事にすることは本当によいことです。
ただいつでもそれが周囲の迷惑にしかなっていないのだろうかと考えなければいけないことです。

「悩み・辛抱・苦労のない人は存在するはずがない。」

「自分だけがつらい」なんて世に生きる人ならば誰もが思うことだと私は思います。

皆つらいことがあるからこそ、好むと好まざることがでてくる。

つまりは

「とめたくても、とめたくても、どうしようもなくとまらないこと」

だってしょうがなくでてくるものです。(本当に他人に言われたってとめようがないものです。だからって悪い思いはだめです。善いことならばしょうがないものです。)

自分が悪いことをしていれば止められます・悪く実った果実を自分が収穫し毒々しい果実を食べなければいけないこととなります。
善いことならばとめにくい、むしろとめなくていいという人もいます。もっとしてくれそのために私はなにか手伝うからなんて奇特な人だっているからです。
清涼であり芳醇であり甘くこの上のない喜びをもたらす果実を収穫し自分が食べなければいけないこととなります。

私が書くこと書きたいという気持ちだって、とめようがないことです。

(書くことがなくなれば自然に消滅していくだけのことです。)

あおいそら

 そろそろ時期が近づいてきました。

「何の時期」それはお月見と次男坊の誕生日です。

しばらく前に三日月だったお月様は少し前には半月でした。仕事が終わり今日の空は澄み渡る空、青一色です。

帰り道の直線道路の斜め上に青い空に浮かぶ満月に近いお月様があります。月に向かって帰るのも悪くないなあとバイク(原付きだけどね)を走らせて帰ってきました。

「ただいまー」

鍵は開いているけれども声がしません。しばらくして長男坊が宿題をしながら「おかえりー」と返事がありました。

「みんなは」

「みんな(家内と次男坊とけいくん)は散歩に行ったよ」

「へー居残りで宿題してるんだ。偉いね」(まあなんか行かなかったことには他に理由がありそうですけど)

きょうの雲ひとつない青い空、散歩に誰でもいきたくなるよね、明日か明後日にはススキを探してこないといけないです。

お月見にはススキです。そんなことを言っていたら皆かえってきました。騒がしいのに何故かホッとします。
(最近の私はブログに正直な話よく困っています。以前ならいくらでも書くことがあるなんて自信がありましたが今はそんな自信がどこを見渡してもありません。最近の私一日一つの記事を書くことがやっとです。見ている人とがどう思っているのか私にはわかりませんがあまり程度が低くなるなら私は書くことをやめようそう思っています。)


話を元に戻して

ススキが風に揺られるから、秋の空には雲がないなんて、日本人は風流なことを言います。

お月見が収穫祭なのか・先祖への供物なのか・精霊への供物なのか・お月様への敬意の念か感謝なのか・はたまた他のことなのか、それはどうでもいいのです。

家族が皆でススキを飾り団子をお月様へ供えて、後で団子をなかよく食べる。

その姿を想像するだけでも私は楽しいです。当日を無事迎えれれば言うことはありません。

ブログも・行事も・よい思いを持つことも・よく生きることも・夢をえがくことも・なかよくあることも・どれも続けていきたいです。

「時に私は大切なことを見失うことばかりです。」

また青い空を見れば私は大切なことを必ず思い出したい。そう思うこともありますが気がつけば最近は口ぐせのように子供達へ言うのです。

「あなたたち物事がうまくいっている時、自分が周りと比べできている」なんて思ってはいけない。思った瞬間にそこに自分の高さの限界を作ることになる。自分で限界を作り何もしなくなっ(満足し)てはいけない。その時は夜空でもいい・青空でもいい。あの空の高さと現在の自分の高さを比べるといい。

「あの青い空の高さと私はどちらが高いのだろう。」

子供達へ言いながら、私はいつだって自分にそう何度も言い聞かせているだけです。

青く澄み渡る空、つきぬけるような、高さを感じさせることのない空

私はいつでも空を見上げる少年のようでありたいのです。

酔っぱらいのたわごと(長いお説教)

 私には三人の子供がいます。ずっとブログを見ている人ならわかりますがこの記事を最初に見た人はわからないことです。押し付けがましくつまりは詳細を書けば、上から小学五年生・次に小学3年生・末っ子の「けいくん」3歳です。

もう知ってるなんて思う人は私のブログに何かしら興味をもって見ている人だけです。興味が無い人は何回見ても私の家族構成なんて覚えません。だって興味も覚える必要もないんですからそれはしょうがないことだなんて思います。事実私だって興味が無いことはまったく覚えないし、気にもしません。つまりは私もその人も同じです。でも、興味があって私の書いていること(ブログ)を覚えようとしたり調べたり何を書いているんだろうなんて思う人には私は心から感謝しています。直接言えないのが残念ですが、あなたと出会えて私は心から嬉しいのです。そうここへ記します。それしか手段がないからです。

本題に触れることにします。

今日は上の二人とよく話をしました。小さい子は何にでも疑問を持っています。大事なことがわかっていないなんてことはないです。あの子達だって一人の人間です。この世に生きている人間は何かしら問いを発して答えをいつだって求めています。

大人だけが考えて答えを求めて、子供だから考えていないなんてことは絶対に有り得ないことです。

大人が生きる意味を考えるように、あの子達だって生きる意味や真理を常に追い求めています。

ただ、年齢は時として残酷なものです。

「幼いころに大事なことを求め続けていたかった。(よきスタートは早いほうがよかった。)」

「もっと大事なことに気づくのが早ければ・・・」

大人になって気付き、我が愚かさを悔やむなんて誰にでも有ることだと勝手に私は思っています。

「あの時わかっていれば、この道を選んでいなかった。もっと善い道を選んでいた。」

わかっているからそのことが言えます。

つまりは現実をあらわしています。わかっていない場合は選びようがない。つまりは失敗する道を選んでしまうことが多い。

「目先の楽を選べば選ぶほど、後で後悔することになる。」

中身がなければ無いほど楽に走ります。そのことがわかっていても楽に走ればその人は他人は簡単にそのことが理解出来ます。

「あの人は楽なことをえらんでばかり、楽なことを選び続けたが故に人間として根幹となる中身がまったくつまっていない。目先の楽はその人を成長させることがない。それは不変の真理なのにどうしてそのことと反対の道を進むのだろうか・・・」


人は目の前にいる人を即座に理解できます。そのことは言葉を変えれば自分とその人を比べていることです。

「あの人は素晴らしい人だ。」

それは私と比べてあの人は中身が素晴らしい。なんて私達の心は誰に教わるわけでもなくそのことを理解します。成長しようとする人、つまりは前へ向いて行こうとする人ほど、自分がその人に比べて劣っていると認め、自分に足らないものを補おうと努力します。

簡単に人はそれを難しいことを抜きにして言葉にしてあらわします。

成長しようと足らないものを補おうと努力する人を歓迎して、貴方は間違っていない。

「私は貴方のような人に好意をもっています。」

「私はあなたに私に出来る事(手助け・支援)をしたいのです。」

「できれば私は貴方のような人でありたいのです。」

その他その例え方は色々あります。それは人により表現方法が変わっているようですが、どれも同じ意味だなんて思うことがあります。

「善いことが何を意味するのか」

「悪いことが何を意味するのか」

「学ぶということは何を意味するのか」

「歳を取るということが何を意味するのか」

「集中するということが何を意味するのか」

子供達にそのことをわかりやすく話をしました。(シラフでは言い難いセリフを酔っ払った私は臆面もなく言えます。ここにきてお酒のありがたみを私は有難いと思うことがあります。ただ望んでいなかったり理解しようとしていない人にとっては、ただの酔っ払いのお説教好きとしかとられていません。理解できない人にも同様でしょう。ただ答えを求めている人には酔っぱらいのお説教だって役に立つことは有るはずです。)

子供達は酔っぱらいの言葉を最後まで真剣に聞いていました。真ん中の子供にいたっては話の途中で「お父さん。トイレ行きたいのでいってよろしいですか」そう私へ話の腰をおって申し訳ないですといういみで私に敬意をはらって尋ねてきていました。

小学3年生だって大事なことを理解しよう。相手に敬意をはらわなければいけない。相手が大事なことをいおうとしている。そのことを全てはわからなくてもわかろうと努力をしています。

どんなに小さくたって、一人の人間です。幼いからといって軽んじればこちらが軽んじられるだけだということをあの子達は私へ日々教えてくれます。

「いつだってこちら(私)の程度が問題だ。」

真剣かどうか、それは相手が問題ではない。何よりも真剣であればこちらは礼儀を失わないということを小さい子供だって私へ教えてくれます。

相手(小さい子供だとしても)がこちらを馬鹿にしてくる。こちらが真剣でない証拠です。考えてない証拠です。真摯に生きていない証拠です。いつだって人間は真摯に生きようとすることへ敬意をはらわないことはありえません。

「ばちあたりな人だって山ほどいるじゃない。」

それは大事なことや求めることから逃げ続けている人がいうセリフです。目先の楽へ走り続けている人が言うことです。

自分の心を見つめれば答えは出ています。自分が悪いことを望んで悪いことをしたくて薄汚れて皆に敬遠されて暴言を吐かれて、誰にも相手にされなくて、死を望まれるような人でありたい。

それは楽に逃げたり、自分を卑下して自分で思い込ませようとしたり、本当はそんなことを望んでいないことです。

人間らしく生きることは難しいことです。難しいから私はできないといって逃げる人がいう言葉や態度だと私は思います。

「難しいことだから私はしない・できない。」

世界へ私は楽へ走ることしかしない人間です。と同じ意味です。

目先の楽へ走ることは簡単なことです。人間らしくいきることはその反対でしょう。

「(人間らしく生きることは)本当に難しいことです。」

楽に走り続ければ、私たちが思うことです。自分のことはわかりにくいけれども目先の楽に走り続ける人間がいれば簡単に思います。

「あの人はいつだって目先の楽に走り続けている。人のことを考えることがない。罰当たりな人だ。自分のことしか考えていない。自分の欲求だけ求め続けている。他人のことは見捨て続けている。自分がよくなるのなら他人はどうなってもいい。私にだけお金が沢山入ってくるなら他人なんかどうだっていい。この世の中で私が最上で他は虫けら以下だ。人がゴミのようだ・・・。」

これは言葉にすれば万人が簡単に理解できることです。

ただ私と同様自分が何をしているのか把握することは難しいことです・・・。

失敗や長い時間を要するかもしれません。

「自分がどうありたいのか」

「自分は世渡り上手のバチあたりで他人はどうでもよく、ただ自分がよかったら他の人はどうでもいい。」

それは問いを発して求めた人だけが答えにたどりつきます。問を発しても答えがわかって逃げる人もいます。

すべての人は理解します。

「答えがわかった上でひどいことをしているのであればその人は救いようがない。」

「自分が理性を失ってしたこと・昏睡状態でしたこと・酔っ払っておこなったこと・寝てしまいゆめをみながらやったこと・わかってやったこと・知らずにやったこと」

自分がしたことの責任をとってくれるのは自分だけです。子供達へそのことをいいました。

自分が善いことを人へ行い続けた。全ての人が感謝することはないだろうけれど、「貴方は気がつけば良いことをし続けていた。私は貴方に何か恩返しがしたい(何かできることをしたい。)」

できた人ほど「いやいや私はそんなできたことはしていない。だから気にする必要はないんです。」けれども自分から出た行為はすべてその人に帰る。

「貴方が否定したって、貴方は良いことしかしてこなかった。貴方がいくら拒否したって私の気持ちや行動はあなたのものではない。わたしはあなたへできることをしたいんだ。」

全ての人がそのようになるとは限らない。でもできた人はそうやって自分の行動を返してくれるんだよ。子供達へそう酔っ払いの私は饒舌に話しをします。

逆のほうがわかりやすいかな。

「貴方がいくら現実を否定したって、貴方は悪いことしかしていない。だから貴方に善いことは帰ることがない。あなたにはあなたがした悪いことの償いしかかえらない。それがわかっているのにあなたはどうして悪いことをしつづけたのか?わかって逃げたのならそれもしょうがない。あなたには悪いことしかこれから押し寄せてくるはずがない。だってあなたは悪いことしかしなかったのだから・・・」

「善いことはやめて下さいなんて相手に言ったって、自分がしっかりできることをしているのならそれは止めようがないんだよ、だって相手は人間だし感謝している気持ちは止めようがない。自分ではないんだから

 いくら否定したって自分が悪いこと罰当たりなこと逃げ続けていれば、相手は現実を返してくる。ありのままの現実を伝えてくる。

自分がこれからどうしたいか、それはあなたたちが決めたらいいよ、私じゃないんだから、ただ自分の行いは全て自分にかえってくる。逃げれば逃げ続けている現実を知らせてくれる。悪いことをし続けていれば悪いことをし続けている現実を、善いことしかしていないのであれば善いことしかしていない自分を教えてくれる。いずれにせよそれは止めようがない現実だよ」





酔っぱらいは説教がましてくていけません・・・

三男坊(3歳)のけいくんは、母さんへこっそりこういっていました。

「おとうさん話が長すぎる。」

説教がましい人は嫌われるようです・・・

ただ酔っぱらいの私は、「けいくん」もうちょっとしたらお父さんの言っていることがわかるよ。


今日の何かは、酔っぱらいの長いお説教と言い訳としてここへ記すのです。
(文章構成が支離滅裂・誤字脱字・意味不明それは酔っ払いなので許してくださいませませ)




けれども私が発した言葉の責任は私へかえることになるのです。


見て見られる。

「開き直る。」

あたりまえのことですが、開き直っていない状態から「今のままでは駄目だ。」なんて言葉と共に前へ進むために使います。(悪い意味で開き直ることは声を大にしても小さくして使っても周囲が迷惑します。)

ただ簡単に開き直れないことは多いです。いくら最初から自分に言い聞かせていたとしても寂しく辛くあれば、開き直れていない。煮え切らない状態ともいえるかもしれません。

誰も自分のしていることに気がついていない。気がつこうとしていない。手伝ってくれる予定もない。自分は一人ぼっちだ。今行っていることをきちんと評価してくれるのだろうか。

何時でも簡単に開き直ることができるようになるためには、開き直るまでの状態が何度も何度も割りと長い時間続くことがなければ、難しいことです(稀にそんなの簡単だという人もいるでしょう)。

開き直ったようでも、開き直れておらず何かを引きずるように取り組むことがあります。

そんな時、自分を助けてくれなくてもこちらを理解してくれるだけでも私は楽になれます。

その人の態度を簡単な言葉にすれば

「私はあなたを見ています。」

私の返事は

「私はあなたが見ていることを知っています。」

難しいことを求めなくても、これだけで安心できます。

何か困難に取り組む時、優しくできた方は私へよく声をかけてくれます。その言葉はその時により違いますが趣旨は同じものです。

その方を見ていると私もだんだんと理解できるようになってきました。仕事は違えどもその方は何時でも一生懸命に物事に取り組んでおられる。

「あなたを手伝うことは出来ないがやっていることはわかっている。」

言葉をかわさずに、そのような会話をすることがあります。はじめは言葉で返事をしていました。最近は態度、行動によって返事をすべきことがわかってきました。

「見る」・「見られる」・「見る、見られる(双方共にある状態)」

開き直らなくても平静の状態で望むことができることもあります。

「見る」にも段階があり、「見られる」にも段階があり、「見て見られる」にも段階があるようです。

心に平安をもたらすほどの「見る」「見られる」「見て見られる」ならどれでもいいものです。


「慈しみの眼で見る。慈しみの眼差しを受け取る。互いに慈しみ見つめ合う。」

見るとはそれ以外にも深い意味をもちます。

「なにものも損なうことのない風や火の輝きのごとく、私はあなたを見つている。あなたは私を見つめている。」

そんなことができる観音様のような人がいます。(実際に職場にいる優しくできた方や私の素晴らしい友人・師匠・先輩・後輩・家内・子供達は時にそう思えることがあります。)

「私の隣や前に座っている人が観音さまだ。」

「常に断言できる人間でありたい」そう思うことがある本当に変な私なのです。

やれるだけ

「誰も見ていなくても、やれるだけのことを私は常にやっている。」

実際にそのような人がいます。その人の醸し出す雰囲気が言葉にすればそのようになる。またそのあとに続ける言葉があるとすれば

「見る人は見てくれている。」

見ている人がいなかったとしても、その人が信用できるかどうかは普段の言動を見ていればわかることがある。

ただ人間だから完璧な人間は少ない。いやいないと私は思う。その人の長所・短所他全てを含め信用している。

先程の言葉も人により使い方が変わることがある。

「見る人は見てくれている。」

人に自分を善く見て欲しい。けれど善いことを全くしていない人であれば、事実とは違うことを言い続けることになる。
自分の現状(過去から現在においてなした悪いこと)を知られたくないから事実と反対のことばかりを周囲にふれまわる。(悪いことしかしていないのに、私は善いことをしているし、私は善い人なんですと言う。そう見られたいがために事実と反対のことをいうような状態)

嘘偽りを言い続ける人に恩恵があれば、その人を取り巻く何か利権・金銭・地位名誉に向かって、事実を言わず上手(嘘偽り)を言いつづけ、ご機嫌を取る人がいる。きまって最後には

「見る人は見てくれている。」

そう言ってお互い守らなくてもいいものを必死に守り、世間でいう「傷の舐め合い。」する人がいる。

動物病院でも、ペットが傷を舐めすぎて悪くならないような処置をすることもあるのに、人間が悪い傷を舐めあいすぎてどうなるのだろう。


私が悪いと思うこととその人たちの思う悪いに差があるだけであり、
あなたの方がおかしいなんて言い合いをしたところで、経験上地位・肩書・名誉・財産がない私のほうが負けることばかりです。
「世の中結果が全て」なんて言い放たれて大抵終わりです。

こちらは好き放題事実ありのまま言われる。こちらが向こうにありのままの現実を突きつければこちらの存在そのものが危うくなる。

私はただのきれいごとばかりを夢見ているおじさん。理想を求め続けたいおじさん。少年の心を忘れたくないおじさんだろう。

あらためて書いてもやっぱりきれいごとにしか思われないことです。そんなことを書いたり言えばこういわれるでしょう。

「きれいごとでお腹は膨れない。」

思いつくことといえば

「汚いことに手を染めればお腹が膨れる。私腹が肥やせる?」

「だからきれいごとなんて思わなくてもいい。そうなるようにすることなんて必要ない?」


私のいけないところです。穿った見方や偏りのある思い、極論をつい言ってしまう。

やれるだけ精一杯のことをやっている人・そのことを心から理解している人が「見る人は見てくれている。」と言えるのだろうと思っています。

悪いことでもやっているうちに、皆にとって善いことにしかならなかった。ということもありますから一概に善い悪いは難しいものです。

ただ

どのような人でも善いことを行い。魔が差した時にはどのような人でも悪いことを行っています。

魔が差すだけならいいです(大なり小なりわたしもそんなことがあります)。

「悪魔と同じではないか」

「悪魔があの人にはずっと住み着きっぱなしではないか(魔が差しっぱなし)」

「あの人の血は何色だろう」

と思うこともあります。


いずれにしても、私はそのような人とは関わりを避けたいなんて思うのです。


「誰の責任か」と「熱の在所」

偉そうなことをよく書く私です。日常でも偉そうなことをつい言ってしまいます。

寝言でも、昏睡状態でも、通常でもその発言と行為によって責任を取るのは常に自分です。他の誰も責任をとってくれることはありえません。

なのについ思ったことを考えなしに発言してしまうことがある。考えなしの私はいつでも出現してしまいます。

できた人にアドバイスを求めたり、書物をあさったりその他にだって、自分が納得する答えは求めればその段階に応じて出てきます。
答えが出て納得だけではどうにもなりません。それを日常つまりは実生活

「他人ではなく自分自身の日常にどれだけ反映させているか」

だけが問題です。高名な学者だとしても、素晴らしき知恵が現実生活に生かされることがまったくないのならば「何のためにあなたは勉強をしているのか」と問われることがあると同じようなことかもしれません。

私は高名どころか、ただの一庶民で無名の人ですから、もっと話にもなりません。(全く自慢できませんが)

それなのにちょっと何かを知っているからといって、上から目線で物事を講釈していればあまり良いことばかりに出くわしません。

聞く方にも問題があります。よいことだから聞かねばと思っていつもよく聞いている。ただそれが実際にいかされていない。自分は前に進んでいるなんて思ってたとしても、まあ本人の思いと周囲の思いや判断は大体違うことばかりです。
行動になかなかでないことが続けば

「なんぼ人の(善い)話を聞いたって、体で覚えなければしゃあない。」

私と違って話が短く明瞭完結です。

いい話を聞くことも大事です。わからないことを調べることも大事です。わからないことを誰よりも自分がわかっていないことを知ることも大事です。大事なことがなんなのかを知ることも大事です。人からすればどうでもいいことが自分は大事なんだということを知ることも大事です。自分は何のために生きているのだろうと解決しないことを考えたりすることも大事です。自分が今やらなければならないことがわからない、わからないけれども何かをしなければいけないんだと必死に思うことも大事です。どこから大事なことを持ってくるのか熱意の熱とはどこから取り出すのか、自分の心から取り出すしかないんだなんて思うことも大事です。大事なことはこの他人により無数あるでしょう。

いずれにせよ、「行動によってのみその人は光を放つのでしょう。」

悪いことになったら困るから何もしない。迷惑をかけたら困るから何もしない。痛い思いをしたくないから何もしない。

過去の栄光にすがって現状何もしていないことも問題になります。現状において何をなそうとしているかだけが私の問題です。

「あなたは悪いこともしていないけれど、今いいことも何もしていないではないか。」

私は「何かをしていきたい。」と願います。

負けず嫌いで意地っ張りなその思いをもって自身の心より自分や周囲が望む以上の熱をとりだしたいのです。

反省

 休日明け、出勤すれば仕事がたまっていました。

必要とされている証だと信じて1つずつ片付けていきます。仕事がなかなか片付かない時は私の仕事効率が悪いか集中していないか、それが大変なことか、何かしている途中に横から仕事が割り込んでくる。この最後の話は誰でもよくある話でしょう。

それでも1つずつ片付けていかねば終わりません。

時間は掛かりようやく、落ち着いた頃には今日の仕事も終わりが近づいています。それはそれでいいです。言い訳としては急いでいたのでしょうか、ミスなく行っているつもりでも落ち着きを取り戻した頃に最初の仕事のミスを見つけました。「何故」なんて思ったところで他のだれでもない私がしたことに疑問を持ってみたところで・・・

上司に報告謝罪し、既にミスがでたものが先方へ言っていました。すぐに謝罪へ。

「上司ではなく私のミスでご迷惑をお掛けしました。」

嘘や長い言い訳なんて通じるはずもないです。ただ先方さんは

「いえ、わざわざ有難うございました。深々と頭を下げてこられました。」

私のミスを何事もなかったかのように、こちらに礼を失わずかえって感謝をのべられる。本当に頭がさがる話です。昔の私なら「運が良かった」で済ませたでしょう。

運が良かったとは最近思いません。「あの人がよい人であった。」ただ激しく怒られる方が失敗した時にはマシな時もあります。「納得がいかないから何とかしろ」そう言われたことも何度もあります。その方がこちらは向こうの思いにこたえるために必死です。どうにかしないとなんて思う前に何かしていますから、後になれば「大変だったあれは・・・」それでも自分の失敗からはじまることですから相手の対応によって運が良い悪いではないことでしょう。いつでも原因は一つです。

私さえ失敗や迷惑をかけていなければ、問題はないです。(事実は問題が多いことばかりです)

先方だけでなく迷惑をかけた同僚にも謝ります。ただそれでなんでも許されるわけではないのですが、その時私は謝るしか方法がないです。

その後の行動によって示すしか道はないです。

失敗を何事もなかったかのように許す人、失敗を鬼の首をとったかのように許すことがなく相手に要求ばかりする人

どのような人でも、こちらは何とかするしかありません。問題はいつでも私です。

「私はいける」なんて過信を気がつけば持っているからでしょう・・・。


勘違い・危機意識・他人事の意識の欠如は迷惑をかけるだけなんて最近の私の口癖ですが、発言する本人こそが他人事と思っていれば本末転倒です。

もっと他人ではなく私こそが気をつけねば・・・



(ごめんなさい。忘れないように気をつけます。)

思い(質の差)

確か二年前の秋だったと思います。

「お月見用のススキを家内が欲しい。」と言ってきました。

「ここらは田舎だから、その辺りどこでもあるだろう。行ってみようか」

阿讃山脈沿いに農道を走れば、山の裾野にある道にならススキくらい群生しているだろう。なんて簡単に思っていましたが、しばらく走ってもススキは見当たりません。

「あれーおかしいなあ・・・(それは私の頭の中だけかも)」

「ずっと走ってたらそのうちあるだろう」

いけどもいけども道沿いにススキはありません。家内は予期せぬドライブになって喜んでいるようでした。しばらくして道沿いにススキがようやくチラホラと見えてきました。(この時点で車で三十分以上たっていました。)

ここまできたらもう少し足を伸ばして、するとぶどう直売所なるものが目に入ってきました。普段なら寄らないのですが折角遠出したし何かを取り返すつもりだったのでしょう。

入ってみれば何種類ものぶどうが味見で置いてあります。贈答品の箱は高いけど自宅用の二等品くらいなら安いです。箱入りも通常より安いのでしょうがあまり贈る先が無い私には違いがわからないという。

ひと袋(大きいひと房)300円で売っていました。スーパーなどで買えば割と高めですから、これはお得じゃないなんて割とたくさん買ってきました。

晩御飯の後に今日買ってきたぶどうあるよー、子供達は美味しいといって取り合いながら食べていた事を覚えています。それから毎年夏の終わりに近づけば、ドライブがてらそこ(直売所)へ行くようにしています。

最近「けいくん」も三歳になり、食後のぶどう争奪戦に加わりたいようですが、小五と小三のお兄ちゃん達には到底かないません。家内が別の皿に取り分けてあげています。お兄ちゃん達は

「けいくんだけ、ずるーい」

いやいや一緒に同じ皿での取り合いは「けいくん(3歳)」にはまだ無理だって

「けいくん」は、食後にぶどうを一個ずつ丁寧に皮をむいて、種のある種類のぶどうは几帳面に種を取り除いてゆっくり食べています。

私は見てて、じれったいななんて思って剥いてあげたら

「お父さん、お酒でものんどいてね」

自分一人でゆっくり思うままにしたいので、私に気を使ってそう言います。

「けいくん、賢く大きくなってきたなー」

なんて家内と話していました。先程の言葉の使い方は私なんかより完璧です。

遠巻きに眺めていました。やっぱり剥いて食べさせてあげたくなります。もういっかい余計なおせっかいで声をかけました。

「剥いてあげようか」

「じぶんでするー」

本当にゆっくりですが楽しんでぶどうを全部食べています。



幼子の素晴らしさ

「素直」

「深くない(腹黒くない)」

「よい意味で分別がありません。」

「思いの共有・共感」

「笑顔」

「優しさ」

「透き通るような心(思い)」

幼子や「けいくん」のような考えでも悪い場合は浅知恵や悪知恵と言われ(思われ)ます。幼子だってよいことであれば「知恵ある人」と呼ばれます。

つまり幼子大人(年齢)に関係なく知恵を悪用すれば浅知恵などのように言われる(思われる)。知恵がついている言葉であるのに良い言葉や皆が望むことにはならない。つまりは素晴らしいことの反対をいってしまう。

「けいくん」の誰かを思って発言する優しい言葉と私が誰かを思い発言する優しい言葉には差があります。

あの子と私の思いの差でしょう。


私の思いには行動に出るまでに垢とよばれるもの不純な思いがまじっているのでしょう。


けれども、素直な思いが即座に行動へでている時のわたしたちは綺麗なものです。


「男女問わず、美しく綺麗でありたいです。」

(それは見た目ではごまかせないことが多いからです。)