投票

 わかりやすい話です。どこかの国・企業・職場・学校・グループなど、代表が必要となります。喜び・悲しみ・苦しみ・楽しみを統括して前へ進む道を示す人がいなければ、いずれは自分たちの大元すら失ってしまうからでしょう。

ただ投票が「誰の目に見ても正常なのか」という疑問が出てくるとき、その投票によって決まったものは形骸化しています。

「身内だけで決める。」「損得勘定だけで決める。」「保身だけで決める。」「我が身のことだけをあんじた人できめる(率が多い)。」「信用できず任せることができない。だからできていないけれど私がする。」人のことを理解することもできない(自分自身のことも客観的に判断できていない)。その現状をみれば

「そのような人が一番癖が悪い。」

などの辛い発言が出ます。

しかも、その言葉だけでは止まらないでしょう。続いて

「(その人の)頭の中どうなっているのか開けて見てみたい。」(見ても理解できないでしょうけれど)

この言葉すら、「あーそういう人がいるね。よくいる。」などといって我が身のこととは思わず、他人事のように思う人も多い。

そういう人達が代表者となった時には、有事の際に悲劇しかうまない。通常でも悲劇しかうまれない。問題があるのに「何も問題がない」と発言している。

投票とは任期満了や辛い現状を打破したい状況に出現しようとするものです。最近、世間一般の投票や後継などは形式だけのものが増えているようなきがします。

そこ(自分たちが存在している場所)がよくなるために、心からの投票ができる日が一日も早く来ればその場は善くなる。なんて人からすれば夢見がちなことを私は思い続けています。

私は「(真摯に努力を続ける)貴方に投票したい。」

周囲を見渡して現状、代表や後継者になる人ならば、

「今皆に代表を決める投票をした場合、自分が皆の(心からの)支持を得ることができるのか、それに値する人物なのか」

常に(己の心に向けて)問を発っし続けなければいけない。

できた人ほど自分を省みて悪いところをなくし善いことをふやしていく。よく聞くことができる。よく見ることができる。広く・深く・果てしない幅を持っている。

できていないのが問題ではない。常に省みることなく、慢心せず、自分ではなく他人を大切にする。

職場で全員が(私利私欲を捨てて)投票をして代表者をきめる。これを実行しろとか私は思わない。ただ自分が代表になることが決まるとき(そう思った)に皆が自分を選んでくれる人物であるのかを考え日々の行動につなげてもらいたい。

「私はあなたに投票します。」

飾りではない本心からの言葉を私は常に言いたい。

(消去法で悪い人から消していく、あとは誰も残らなかった・・・。なんて現実はあまり見たくないのです。また相変わらず自分のことを都合の良い棚に上げ、そう思ってしまう愚かな私のひとりごとを今日の何かとするのです。)

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あたえる

 「誰かに知りたいこと知らないことで大事なことを指し示す。」

 「誰かが本当に必要なものを惜しまずにあたえる。」

その状態のどちらかを通常の状態、つまりは自然に行っている人を見かけます。

自然にというところが普通の人(特に私)には難しい問題となります。何かを与えれば与えたものや与えた人や与えたという自分の行為に執着してしまいます。

先ほどの場合は金銭・食物・品物という物質的な与え方でしょう。

物質的ではない与えるものといえば、智慧(真理)に近いものほど喜ばれるでしょう。

誰かに口頭で素晴らしい知恵を授ける。受け取ってくれれば誰もが夢に思い描くままとなります。受け取ってくれた人はその知恵を授けてくれた人に感謝します。お礼をしたいとさえ思います。生きていてよかったとすら思います。むしろ安心して生きていけるとすら思う人もいます。

誰かに口頭で素晴らしい知恵を授ける。

相手も様々です。全く受け取ってくれない人・聞いてもくれない人・逆に怒る人・素晴らしいことをいう人を貶めようとする人・その人を軽んじて(実際は違うのに)自分のほうが勝れていると吹聴する人
もいます。

世間で見かけるとおりです。

できた人ほど与えることを惜しみません。協力を惜しみません。知恵を出し惜しみません。困れば助けます。目前の人を信じます。

正直者が馬鹿を見るなんてことは絶対にありません。最近そのことが少しずつ理解出来ました。

騙されてもとられたとしても裏切られても、正直者は動じていないのです。

どのような人の前でもできることを行い。必ず礼を失うことがない(品性を一切損なわない)。悪い人の前で動じることがなく、あたりまえのことをしているのです。

「正直者は馬鹿を見ない。」

その正直者の途中にある人は、そのようなことをおもうのでしょう。嘆く必要は全くないのです。進む方向性は間違っていない。やり方も正しい方向へ向かっている。

出来た人ほど、誹謗中傷賞賛の中にあって我を見失わないものです。

動じることのない心があれば、正直者となれる。

「旦那(だんな)さん。」

ダーナの漢音写で、もとの意味は与えるという意味を持つ。

「人間的にできた人は物惜しみをせず与えることによって完成していく。」

逆はつらいものとなる。

「常に物惜しみをして、人から望まれたとしても一切ものも知恵も与えることがない・・・。」

与えることを惜しまない住む人の家、だんなの家、それが檀家となっている。

ただ私がしていることは本当の「あたえる」ことに遠く及ばない。


「本当の智慧は、その智慧を言葉ではなく行動によって指し示すこと」


遠く及ばないが、私はやっぱり諦め(たく)ない。

子供らしく

 子供三人いますが、久しぶりに構成を書いてみますと上から小5・小3そして3歳です。

子供達は家内の実家へよく里帰りしています。今回は上の子供二人がお世話になっていました。家内のご両親やご家族様には本当にお世話になっています。

上の子二人が我が家からいなくなったら3歳の「けいくん」だけです。

夏休みは上のお兄ちゃん二人が学校へ行かないので「けいくん」は嬉しいときみたいです。何時でもお兄ちゃん達と遊べる。遊び相手・話し相手・思いを共有する相手・けんか相手この相手がつく言葉は当然の如く相手を必要としています。

これも当然ですが一人では寂しいのです。

お兄ちゃん達がいない昼間、家内に「けいくん」はべったりだったようです。それでも物足りないみたいです。仕事から帰れば私に飛びついてきます。

子供は自分と近い子供を好みます。相手がいなければ大人でも遊びますがやはり子供には子供です。

私は三人兄弟でした。あの子たちも三人兄弟、年が近い子供が近くにいる。兄弟姉妹がいるというのは子供にとって何よりもかえがたいようです。

私みたいに考えなしに子供を三人産めば、「お金もないのに考えなしに産んで・・・」なんて思う人もいるようです。

私は愚か者ですから、すぐに言い返したくなります。

「じゃあ誰が種を保存するのさ、お金を持ってる人しかたくさん産めないのならお金持ちが8人や10人以上産んでいるのであれば帳尻があうだろうに、実際は産まないじゃない。」

とか

「二人が結婚して二人だったらプラスマイナズ0だけど、何か事故病気があったらその時点でマイナスじゃない」

とか

「昔の人は子三人とかいうけど、それって理にかなっているよな・・・」

とか

まあ負けず嫌いでへそ曲がりな私はそんなことを声に出さずに心のなかでまだ色々思っています。

愚痴はおいといて本題へもどります。

お兄ちゃん二人が実家から電車に乗って戻ってきました。「けいくん」は毎日まだ昼寝をします。今日私が仕事から戻ってきたら家内が私に言います。

「けいくん、昼寝をしていないのよ。お兄ちゃん達にあえて嬉しいから寝れなかったみたい。」

「そうか、夏休みが終わったらお兄ちゃん達また学校始まるし、けいくん寂しくなるな」

「そうね」

まあそれにもまた慣れるでしょう。ただ幼子の思いは素直で純粋です。「大好きなものと離れたくない。」その思いが痛いくらいに伝わる時があります。

「それって?」

そうです。身体が大人に近づいたり大人になった人でもそういうことがあります。

「恋」や「愛」に近いのかもしれない。ただその思いが幅広く透き通る思いとして幼子にはある。

なんてことを今更ながら思っていました。不純な気持ちが少なく大人と違って特殊な状態でもないのが幼子です。幼子は悪意を感じさせません。私は何にでも気づいたり理解できたり実行したりするのが遅いです。

「幼子のように、心に思いが生じると同時に身体が動いていること」

(私には)特にそれが必要です。


「もっともっと素直に、純粋に歩んでいきたい。」



少年のようにほがらかに、嬉しいときはからだいっぱいで喜びをあらわしたいです。

かたより過ぎる恩恵の理解

 働きはじめてから、正確には働きはじめる前から、私には(大体の人がそうかもしれませんが)地位・肩書・名誉・財産がありませんでした。

「社会に生きる人の中でも大会社の跡取り、老舗の跡取り、芸能の跡取り、お寺の跡取りなどの人達となれば話は私とは全く扱いや様々なことが違ってくるのだろう。」

なんて思うことがあります。悪口ではなく現実の話です。そのことを忘れないでください。

私のような一庶民であれば、何も背負うことがないです。この場合は私が長男ではなく次男だから特にそうだと思います。継がなければいかない家督も存在しません。その権利を長男と奪い合うとか私には意味がわからないことですから、やはり何もないことは気が楽です。何もないというのは財産や土地・家屋も含みます。

私は世間一般に生きる人とやはり同じです。それを0からのスタートというのでしょう。この身体や頭がきちんと使えば人並みという点で0ではなく、すでに恩恵は存在しています。

「恩恵が恩恵とならない時」

については今まで散々書いてきました。また忘れないためにあえて書きます。

目に映るものを誤って見てしまう。
(偏った見解に囚われ、広いものを狭いものと見てしまう。正解は一つではなく無数存在するのに一つだと決め付けてしまう。無知のために正しく判断できない。)

聞こえてくることを聞いていない。「聞いていた」本人はそういうだろうけれど、周囲には聞いてないに等しいとしか思えない。
(わからないことがわかっていない。わからないことをわかろうとすることをしない。わからないことをわかろうと努力しわからないことを学ぶことをしない。誰よりもわかっていると思い込んでいる。そのために大切なことが聞こえない。聞こえるはずもない・・・)

偉そうなことを発言するだけで自らは動かない。動こうともしない。やったことがないのに自信だけはある。
(行動によってのみ信頼を得ることができる。その真理を微塵も理解していない。そのことをもし伝えたとしても開き直りや自分はやればできるなどの根拠のない自信だけを言い続ける。「じゃあやってみたら」その言葉だって通用しない。何故なら「偉そうなことをいうあなたがまずしたらいいじゃないですか」といった発言を受けて出来た人が行動してその場はいつも終わる。)

結局はその人の「見る目」「聞く耳」「行動」によって、あらわされる。

悪く書けば前述のようになる。(それは私の過去と現在において現れ続けている悪い一面そのものでもある。)

ある意味での恩恵(継ぐべきか継がされる地位・肩書・名誉・財産)が人より存在している人へのよくある現象は、人はその恩恵に対してまず敬意をはらう。

次にくること、恩恵を継ぐ人がその恩恵に負けていない・むしろ勝っている場合、恩恵は相乗効果となる。周囲は恩恵ではなくその人へ敬意を払う。

問題は次からとなる。その恩恵に負けないように自分をと思い続けている人は先ほどのように問題がない。この言葉だって誤解を産んでいる。努力しているときは問題とならない。つまりはどれだけ自身の中身が善くなったとしても努力をやめた瞬間、その人の世界は終わりを告げる。こうなってしまって「(過去において努力していたから)私は問題ない」その発言はあたりに虚しくこだまする、いやどこにも響くこともないだろう・・・)

恩恵とその人にマイナスの方向へ差がありすぎるばあい。「恩恵はすばらしいのにあの人は最低だ・・・」この恩恵には会社なり地位なり名誉なり財産なりを入れたらいい。

落差が大きければ大きいほど、与える影響ははかり知ることができない。

まあ私には「恩恵」にいつまでも縁がないので、そんな心配をする必要もないのです。

つまりはその「恩恵」しか見れない人は

目の前に人が存在していても、その目に人はうつっていない。

その人が何か発言したとしてもその耳には何も聞こえていない。

私のような何も無い人であれば行動も何も理解する必要も見る必要もない。

「恩恵」ある人には敬意を払い続け、私には敬意ははらうことはない。

私の近くにいるできた優しい方は、私に礼儀を失うことがない。その方は私に大事なことを教えてくれ続けています。

「どんな人にだって礼を失ってはいけない。(軽んじてはいけない)周囲はそのやりとりを必ず見ている。阿呆な人にこちらが礼を失えば、その阿呆以上にこちらが阿呆になってしまう。」

「必ずどのような人にも礼を失ってはいけない。」

愚かで不出来な私はその言葉がいつも身にしみます。


腹が立っても(誰よりも腹を立てていいことを前提とする)、怨みがあっても(怨みを持ってもいいことを前提とする)どのような人にも礼を失ってはいけない。

恩恵が問題なのではない。ただその人の「あたりまえの程度(思考)」や「行動(どうあるか)」だけが問題。


「誰でも何にでも、物事の本質を見失ってはいけない。」


(問題の有りすぎる)私は、誰よりもそのことを忘れてはいけない。

結局

 冗談というか、面白いことを言いたいと常に思うことが多いです。
ただ面白いだけでなく、真剣な話もしたいと思います。悲しい話もしたいと思います。深刻な話もしたいです。楽しい話もしたいです。

よく冗談をいう私、ただその冗談が冗談で取られない時、場が深刻になります。何故か私が余計なことを言ったなんてとられます。

同じ場所だとしてもそこにいる人が違えば、同じことを話しても冗談を冗談と理解して心から笑ってくれます。
同じ言葉でも心から笑ってくれる人と冗談に取れず文句をいったり変な方向で真剣に変なことを返してくる人がいます。

「気兼ねなく話ができる。」

この言葉ほんとうに大事です。加減することなく様々なことを発言したとしても全てを理解してくれる。悲しい・楽しい・怒り・怨み・楽しい・愉快・普通・あまりよくないけど不平不満、全てを理解してくれる人と話せることは私にとって楽しいことです。

理解してくれるまで段階をいくつもいくつも踏んで、ようやく話したい内容の最初だけ話せた。

時間をかなり消費します。ストレスもたまります。その相手は私に問題が有ると大抵思っています。私は私で相手の方がなんて愚かな思いを持つばかりでした。

私が何かを求め続ける理由の一つに、どんな人とでも時間をかけずにすぐに心を共有できる言葉を出せたらいい。

それは身勝手な私の思いです。

ただもし相手がそれで喜ぶとしたら、身勝手ではなく相手だってよい思いをもつだろうなんてことをまた身勝手に思います。

ただの身勝手な自己満足を追いかけている。何ていう人もいるでしょう。

「けれどもそれが私を作り続けているから、しょうがないじゃないあなた。」

結局周囲へ迷惑をかけるようなこと(悪いこと)は無くしていくしか道はないです。ただ自分らしくあることが皆によいことをもたらすのであれば、そのことは増やして続けていきたいです。

結局言葉を変えているだけで、「私は私らしくありたい。そのことは変えれない(変える気がない)」なんていう屁理屈の一つでしょうか・・・

それでも、私が求め続ける「何か」はふれ合う人にとって、よいものであるように願い続けています。

よくわからないまとまらない、「何か」を今日の何かとしてしるすのです。


本当に困るとは

 「困る」この言葉私には本当に縁がある言葉です。本心は縁遠いほうがなんて困っている時に思ってしまいます。

過去において「その原因は他人からだ。」なんて思うことばかりでした。その時点で私の程度は知れています。

私のすぐ目の間に池があるとします。誰かがその池しかも私の近いところへ大きい石を投げます。当然水しぶきが私にかかります。私は怒ってばかりでした・・・。

最近は少しだけ違うことを思います。私の目前の池にとんでもない岩を放り投げていった。凄い波や水しぶきが飛んでくることは誰の目から見ても予想できます。私はそれくらいで動揺してはだめです。何事にも動じない自分自身でありたい。理想や夢かもしれないけれどそう思うことが増えてきました。

私が欲しい物、「何事にも動じないという自分自身。」

それは言葉を変えれば、「何事にも困らない自分自身」とも言えます。

実際はどうか、まあ動じまくっています。つまりは困ってばかりと言います・・・。

けれども何事にもという思いは増えているように思います。こんなことで私が動じては駄目だ。水しぶき・波・時にはそれ以上のものが飛んできたって自分を失ってはいけない。

できているかどうかという現実問題はともかく、私はそのようにありたいです。

私は自分自身の出来ていないことを山ほど都合のいい棚に上げ、困っている人をみれば気をもんだり、ついさしでがましいことをしてしまいます。

挙句私はそのさしでがましいことを、「小さな親切」と私は思っています。しかし、相手には「余計なお節介」なんてことばかりです。

それでも「困らないようにしたい。」とつい考え込んでいます。今は困っていないようでも、そのままでは直ぐ先で困ることになる。だからそのことを教えようとしたり、問題をこないようにしよう・先に解決しておこう。(自分のことを棚に上げ続けて・・・)

上手くいかないことが多ければ、深く悩みます。

いつも出てくる答えは同じです。「その人の根本(おおもと)を解決したら問題ない。」それがどうやったらいいのか、また様々な問題を考えます。

悩む私には、世界からの声(根拠)を受けて周囲はいつも私に何かを伝えようとします。

「貴方が悩むことではない。」

「え?」

呆気にとられていれば

「困るの(困っている)はその本人だから教える側が困ることではない。」

納得はいくのです。

ただ別の納得は行きません。

本人が困っていると心から思っているのであれば、私は悩まないのです・・・。

「本当に困るとは何なのか」

「そのことを誰が考えたらよいのだろうか」

いつも思ってしまいます。ただ困るのは教える側ではない。と言いながらもその人は次のようなことをいいます。

「考えれる人が考えなければしょうがないだろう。」

ただ私には考えれない・私にはわからない・私には絶対にできない。そう最初から決めつけすぎるのは善いこととは思えないです。

そう思えば

「全員真剣に考え・理解しようとする・実行しようとする。そうであれば困ることはなくなるのではないか」




自分のことは棚に上げすぎる、本当に困る悩み多き私なのです・・・

事実

「人生に分岐点がある。」あとになればそう思う人も少なくはないでしょう。情けない話、若い頃つまり以前の私はそう思ったことがよくありました。

その言葉、自分が何気なく選んだ道に(現在において)苦難・辛抱などが多ければ多いほどそう思いがちでした。

もっと言葉を変えれば

「あの時選ばなかった別の道、違う道のほうが善いことがたくさん待ち受けているのではないか」

以前の私はそんなことを思うことがよくありました。
どの道へ進んだところで、いろいろあるものです。「他人の芝生は青く見える。」ものです。

とらわれ・こだわり・理解できない・学ぶことができていない・努力が足りていない、自分に何が足りないのかを自分が理解できていない・他人がどの程度なのかを理解できていない、その他たくさん言葉が続くでしょう。そのことが理解が進めば(体でおぼえれば)どの道だとしても問題は少なくなりそうです。

周囲(世界)も自分自身もわからない(かといって現在明確に把握できているのかと言われれば、私はまだまだできていません。以前より少しだけ理解できたという程度です。)ことが多ければ、「あの時違う道がよかったのではないか」この言葉は減ることはなく、何かにつけ出てくることがあるでしょう。

「私はあの人じゃないから、できません(やりません)」

少し似たような言葉です。

事実は本当にその人のあたりまえをあらわす言葉です。

「事実をありのままに言えば、褒め言葉になる。」

「事実をありのままに言えば、問題しか出てこない。」

私の近くにいる優しくできた方は、いつもそれを教えてくれます。

「私は悪口を言ってるのではない、その人の現状を言葉にしているだけだ。」

事実善い人のことだって、同じようにその人の現状を言葉にされています。誰が聴いても賞賛の言葉にしかなりません。

「悪く言ってるのではない。ありのままを言っている。」

どうも文句とありのままを言うは明確に違います。

私は今も不出来で愚かですが、以前はもっと愚か者でした。その時に夢見がちなことを思っていたことを覚えています。

これから自分の将来への進む道を決める大事な時、世間(周囲)が私を必要とするなら歓迎されるだろう。
私はこの道へ進んでいく。その時はその時の思いと覚悟を持って決めたことを覚えています。


「それからどうか?」


事実は残酷に私の現状や程度をあらわします。私が望んでいても望んでいなくても・・・

努力せず・学ぶことをせず・素直になれず・怨んだり・不平不満だけを言う若者がいるとしたら、世間(周囲)でもほっとかれっぱなしでしょう・・・

当初の思いと反対のことが押し寄せてくるだけです。

「世にほっとかれっぱなし」

本当に情けない話です。

現在は少しでも前に進みたい。情けない時の自分のままではいけない。過去の愚かさが人よりある分思ってしまいます。

私の現在の状況や成したこと、それは紛れもない事実です。



少しでも私の事実に善いことが増えるよう何かをしていきたいのです。

意味

 私は怒りっぽい。つまりは短気です。思うようにいかないときには腹を立てています。

特に人のことでよく怒っています。「人のことで怒って何の得があるのか」などと思われたり、「ほっときなさい」なんて言われたり、「怒っている自分はどうなんだ」なんて思われたり、沢山そのようなことはあるものです。

でも、怒ってしまうのです。

先日は子供たちへ、久しぶりにとんでもない雷を落としました。

夏休みに入ってからつい最近まで、ほとんどどこかへ家内や休日の私、色々連れて行きました。今年は今までで最高に家内と子供達にとって予定の詰まった夏休みでした。

予定が詰まっている=遊ぶことが多い=時間に余裕がない=宿題がはかどっていない=私の雷が・・・

私の中の愚かな図式が成りたっています。

私も幼少の頃から母が大変厳しかったことを覚えています。母の優しさは常人にはない厳しさとして、それが私への優しさとしてしか来てなかった。私の子供の頃、母の思い出は厳しさだけです。あの人は誰にでも特に家族には厳しい人でした。その意味が分からず、兄と二人で小学生時代に何度か家出をしようと計画・実行したことがあります。

今なら簡単に思います。厳しくするということは、相手に善くなってもらいたいと望んでいることです。自己満足のために怒っているのではありませんでした。私が逃げたりさぼったり父母からもらった大切な身体と頭脳を無駄になるような使い方をしているために怒られていました。

大人になり怒る意味や大切なことの意味がわかれば、その人は心から納得して前へ進んでいけるだろう。それは私の拙い理解や思いの一つです。

怒られたり注意されたりする意味がわからないから子供達はやらないんだ。それなら意味をきちんと理解させれば問題ない。激しい怒りより理解を先に持っていくように私は子供たちへ行ってきました。

結果、私の伝え方が間違っていたり不出来だったのでしょう。夏休みの終盤にかかってもあの子達は遊びほうけていました。
優しく教え諭す。私には難しいです。ただあきらめてはいません。

相当子供三人(三歳のけいくんを含む)に雷を落としました。

怒られるのは誰でも嫌なものです。言葉を変えれば、「自分ができていない現実を突き詰められるだけ」ともいいます。

痛い言葉を感謝をもって見ることができれば、人間として一人前です。優しい言葉だけで成長する人ばかりではありません。私に似たのか、あの子達は痛い言葉や雷を落とされて大事なことに気がつくこともあるようです。

上の子はお手伝い宿題などを前より真剣になっていました。真ん中の子はとても優しい子ですが家族の中では無口なためブログにも出現率は低いです。けれども末っ子3歳の「けいくん」をいつも大事にしています。
家族の中で嫁に似て無口で優しいように思います。まあそれと真面目にしないことは別です。

上のお兄ちゃんはそれからよく手伝いをしていました。
そのお手伝いが終わりかけた頃に、話をしました。といっても私が一方的に話してばかりです。

お兄ちゃんは、「他人や家族にできる自分をいつも見て欲しい」というところが見受けられるね。別にその行為自体は悪いことではないよ。ただ一生懸命やって100点満点中30点の子と100点以上取れるのにさぼって「僕はできるから見てよ」なんてお父さんに言われたって、お父さんはその30点の子しか見れないし評価できない。いつも言ってるお父さんの意味がわかる、あなた「他人は問題ではない」その意味がわかるのか

他人ができていないから、自分は努力しなくていい。さぼってもいい。遊んでていい。そんな訳はないでしょう。お父さんはあなたの一生懸命する姿勢をいつも心から待っているし、それを評価したい。

あなたが読んで涙する偉人伝の人達は、馬鹿にされたり認められなくても努力を怠っていないから、「皆へ私はたいしたことないから見ないで」なんて言ったって「世界がその人を見たいんだよ」それに憧れてやまないあなた自身が努力をしないなんておかしいじゃない・・・

諦めた瞬間にその世界は終わりを告げる。本人が諦めたらダメなんだ。手を必死にのばせ。

「他人が問題じゃない・・・・、いつだって問を発しなさい。」

「それは何に問うのか」

「みずからの心に問え」

「失望するな(望みを失うな)」

「絶望するな(自ら望みを絶つな)」

「真摯に努力する人なら、自らの心に問えば必ず現状がどういうものか、自分が心からもとめているものなのか、本当に満足できるものなのか、簡単に自分の心は答えを出してくれる。」

「逃げるんじゃない」

「必死に自らの心に問を発しろ」

「必ず心はその答えを瞬時に導き出す。」

「心が本当の意味を理解するまで、問を発っしろ」

「そのあなたの心はすべてを知ることができる」


長男坊は涙をこぼして聞いていました。



いつだって真剣な時には眼前の相手(長男坊だけに)に言っているのではないです。


「誰に言っているのか(言い聞かせているのか・問うているのか)」

「それは相手を必要(問題)としない。」




この世界にいきる他ならぬ愚かな私に言い続けているのでしょう・・・

どのように伝わっているのか

 一体自分自身の些細なこと大事なこと、つまりはその人の発言・行動はどのように世界(周囲)へ伝わっているのか。相手からすればどのように受け取っているのか。それは本当に大切なことだと日々思います。

 誰でも(特に私は)悪いことをしている人をみれば、「あの人と同じではない。」と周囲や自分に向けてつい発言しています。誰もいない場合でも、そのように思っていることがほとんどです。

私を擁護する訳ではないのですが、私だけではなく「誰でもそういうところは(少なからず)あるのではないか」そうも思っています。

素晴らしい人・できた人・優しい人・仕事ができる人・憧れる人、つまりは「自分だってそうなりたいんだ」と思わせるような人には、「その人達のようにできたところが一緒だとは言わないけれども、自分だってそのようにありたいんだ。」そう思うことも誰にでもあると感じます。(少なくとも私はいつもそう思うのです。)

スッタニパータ -最古の仏典-より

「恥」という題の第三経は、偽りの友について語る。
 恥じることを忘れまた嫌って「われは(汝の)友である。」と言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人、 ― かれを「この人は(わが)友に非ず。」と知るべきである。(二五三)
                               中村 元 編著 仏教経典散策より抜粋



よくある話です。
できた人に好かれたい。嫌われたくない。事実「自分はもっと今より善くなりたい。」と思っているのでしょう。

ただ悲しいかな、

「貴方と私は一緒です。」

発言する本人の努力や行動がその憧れる人や周囲(自身の身近にいる人達)に比べて劣りすぎている。または何もしていないのに

「貴方と私は一緒です。」

この言葉に対する返事は決まっているようです。そのできた人はできているために辛辣な言葉を言わずもっと素晴らしいことをいうのでしょう。
ただ周囲はその状況を正確に判断し、次のような言葉がくるでしょう。

「あのできた人と貴方は一緒なわけはない。まったくものが違う。失礼なことを言うな」

などの言葉がもれなく出現してしまいます。

その人のあたりまえがどれくらいか(通常状態が人と比べてどのあたりなのか)・努力精進の程度がどれくらいなのか、結果がどれくらいなのか、それが自分と比べてどれくらいなのか。

つまりは、自分のことをどれだけ知っているのかということになります。

よく私が普段引用する言葉に「如実知自身」(実の如くに自身を知る。)だけに徹底すればやがて解脱・涅槃にいたります。
(偉そうに書いている私の程度は文章に現れ続けています。自分も周囲のこともわからないことだらけです。)

私は大好きな人・優しい人・できる人・心からの思いを共有している人・知人・友人、その人達に

「あなたは、(私の)大切な友達(人)です。」

そう思われたいと思っています。

引用にあるように

恥じることを忘れまた嫌って「われは(汝の)友である。」と言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人であれば、私が万の言葉を連ねたとしても信じてもらえるはずはありません。

「常に自分の為し得る仕事の幅を広げ、嫌な顔をせずに物事を快く引き受けれる人に近づいていけば何の問題もない。」

そうあるなら本当に皆しあわせになれる。なんて理想であり現実私の目標を今日の何かとして、ここへしるすのです。

満足

 何かに満足する。

身の丈を理解して求めすぎず心から満足する。破綻すると(自他共に)簡単にわかるものを持つくらいならば現状に満足する。自分に持てないほどのものを望みすぎない。欲張らないに近い言葉になっている。それが身の丈にあったものでしょう。ただその身の丈は、人により高さ・幅・広さ・持てる重さが違うことがあります。

「無いものねだり」をしてしまうのが人間たる所以でしょう。

どこをもって満足を至上の財産とするか、人間であれば(特に私は)悩むところです。

また満足いかなければ努力精進する。つまりは満足できるように「前へ進む」。それだって善い言葉であるように思います。

時折その満足する地点が世間一般や周囲が心から待ち望んでいる点より遥かに低いところで満足する人もいます。

家庭のなかであれば、他所様には迷惑かけないのでそれでもいいでしょう。ただ家族には大迷惑となることを意味しています。身近にいる人が望むことは大抵現実そこに努力すれば問題なくいけるということだって意味しています。簡単にいえば「自分だけが逃げた先で満足しているように思っている。」なんてこともあります。
家族内であればそこは家族の問題ですから、口出しすれば痛い目にあうことが往々にしてあるでしょう。

まあ仕事であれば話は別問題です。

自分が勝手に満足地点をこしらえて、「これでいいでしょう。」なんて言われたって職場の人達が思う地点より低ければその言葉が相手の心へ響くのかどうか考えたらいいです。

いくら考えたって、実行することがなければ「机上の空論」や「絵に書いた餅」と世間で言われます。

必ず「行動によってのみ証明できます。」

この言葉も難しいのです。できた人ほどきちんと理解しています。簡単に言葉にすれば「誰よりも実行しているのに、私は行動していないから努力します。」と言葉や態度で周囲へ伝えてきます。

反対は少し過酷な言葉になります。
できていない人ほど、「誰よりも実行していないのに(周囲に比べて格段に劣っているのに)、私は問題ないです。」とこれもまた態度や言葉で伝えてきます。

できた人は私の望む姿です。

そうでない人は、私の悪いことを知らせてくれており、そうなってはいけないことを常に教え続けています。やめて欲しいなんて思っても、相手はやめてくれません・・・。

「どうやればその人が理解できるのか」

どの地点を満足とするのかにより、その人の程度を出現させています。


ある人には、「満足は至上の(周囲にとっても有難い)財産」です。


ある人には「(あなたの)満足は(ただの自己満足であなたの夢の中だけの)至上の財産(周囲はそれは迷惑で一刻も早く捨ててきて下さい・・・)」です。

あまり極端はよくないのですが、後者は御免被りたいものです。



まるいお月様

毎日暑いです。ただお盆あたりから、こちらは少し朝は涼しくなりました。夕方も以前より日が早く沈むようになってきています。

お月様だって見ていれば三日月だったのに、今日は満月です。(多分そう思います。)

そう言えば秋になれば家内はお月見のために、ススキを取ってきてと私に頼んできます。団子をお供えして後で家族皆でいただきます。

団子は私の子供の頃であれば、そのまま食べるもしくはきな粉をまぶして食べていました。

時代が変わりなんでも安く手に入るようになっていますから、黒蜜とバニラアイスをかけて出してあげたら、(私も含めて)皆取り合いになって食べました。「今年もまた時期が来ればそうしよう。」そう家内と昨晩話をしていました。

行事というのは、大変めんどくさいものだと思われがちでしょうけれど、そこへ何か思い出をつけて、毎年を楽しく過ごせれば、行事だって子供が大人になり素敵な思い出の一つにもなる。

大人の私や家内だって、忘れられない思い出になるだろう。変わりにくい日々に変化を生じさせ、何かを忘れないようにと古人が願ったのではないか、私は最近良くそう思うのです。

お祭り・盆踊り・お参り・ご供養・大晦日・お正月・節分・お彼岸・節句・七五三など他にもたくさん行事はあります。

私と家内が面倒くさいなどと言って、やらなければ三人の子供達へ何も伝えれないままとなってしまいます。幸いにも家内は几帳面ですから、私が忘れていても行事をきちんとしてくれます。有難いことです。

「行事に自分も楽しめることを一つ盛り込めるだけで、ぐっとやる気が出る。」

また面倒くさいなどと言って、何もしなくならないように、今日の何かとしてここへ記しておくのです。


隠さなければいけないこと

 いつも仕事や様々なことにお世話になる素敵な方がいます。

私より20歳くらい上の人です。

最近の50後半の人は、私が子供の頃に還暦を迎えようとしている人より遥かに若く見えます。気のせいではないような気がします。

考えられる原因は、白髪染めの性能が上がって簡単に染めることができている。

昔より結婚して子供が居る女性が遥かにオシャレにしている。

男女平等かが以前より遥かに進み、女性が表に出てこれるようになった。

化粧品の性能も上がった。メイク技術も上がった。デフレ効果かオシャレをすることが比較的楽になった。

医療機関・技術の進歩により、出産前後の負担や栄養事情が向上した。

まあ乏しい頭からでてくる若くみえる原因はこれくらいです。(果たしてそれがあっているかどうかは知りません。)

まあそれはともかく、お世話になる優しい方は年上ですが若くて綺麗な人です。本人に「綺麗ですよね」そう言っても、「土台がいけないから、そんなことはない。」そういって必ず否定されます。私は綺麗だといつも思います。

綺麗な上に人に優しく言葉もよくかけてくれます。

その人の最大の特徴は、どんな人にも特に困っている人には本当に優しい人です。初対面とか嫌いとか好きとかそんなことを全く感じさせず、困っている人を見ればすぐにできることをしています。

「私はあの人に本当に感謝しています。」

その言葉は、私の不出来で愚かなことをあらわす言葉です。

私が困っていたり・できていなかったり・愚かであればあるほど、あの人は私をほっておかず、優しく助けてくれます。

私が感謝をたくさんあの方へしている。そのことは私がいつも不出来で愚かで困っているということです。現在も優しいその方とほぼ毎日仕事をしています。私はよく思います。

「あなたと出会えて本当に良かった。有難うございます。」

家内にもそう思っていますが、違う意味でその言葉を思い続けています。厳密には私にも心から優しい人にはそう思い続けています。

職場へよく来られる方に、優しいその人を紹介します。「いつもお世話になっている優しい方です。」と「そんなことはないですよ。」必ずそれも否定されます。

「しかも、見たとおり綺麗なんですよ、年の割に」

そしたら

「ごめん、年は隠して」

この間そうお願いをされました。その後直ぐに

「今はこうだけど、私だって20歳の頃があった。」

本当に愉快で楽しく心から優しい方です。

後何年一緒に仕事をできるのか、それは私にもあの人にもわからないことです。愛にも様々な形があるなんて最近思うことです。家内に対する愛、子供に対する愛、優しい方へ思う愛、仏のような方へ思う愛、心を共有できる方へ思う愛、それぞれ同じようで違うように思います。

仏教の四苦の中に、「愛別離苦」愛する人といずれは別れねばならない苦しみ、いずれまた私にも必ず訪れることでしょう・・・。

ただ別れるとわかっているからこそ、今を大事にしていきたい。それこそが苦しみの克服だということを皆知っています。

私も人より遅くそのことが心から理解できはじめてようとしています。


「あなたと出会えて私は嬉しいのです。」


時・心・思い・悲しみ・苦しみ・喜びを、心から共有できれば、勝手に出てくる言葉です。

別れるから出会いを大事にする。

「また(そのような素晴らしい人と)出会いたい。」

「失いたくないからこそ励み努める。」


それは何にでも当てはまる真理の言葉です。


理解するということ

 宿題・お手伝い・日常生活・食事・仕事・自分がやらなければいけないこと・生きていくことその意味をある程度理解する。

それは(私にとって本当に)難しいことです。

何気ないことの有り難み、通常に有ることをどれだけあたりまえに行えるのか、普通であることがどれだけのことなのか、自分に足りないことを知るにはどうしたらよいのか、自分のために努力することがどういう意味を持つのか、そのことを心から理解するにはどうしたらよいのか、

(私には本当に)難しいことです。

何事も諦めればそこで終わりです。大切なことであればあるほどそこで望みを絶てば終わりです。

人に諦めてはいけないなんて望むのに、自分や家族のことに限ってしょうがないことだからなんて諦めるなんて私には理解不可能です。

それを優しいというのか、私には理解できないことです。

本当の優しさなのかそれが?

「あなたには無理だから希望は持たなくて努力はしなくていい。」

そんなことが優しくあることであり、理解するということなのか

愚かな私には全くもって理解できないことです。

「優しい人が近くにいなかったからしょうがない・・・・」

その人の見る目聞く耳努力があれば、どこの場所だって優しい人は存在している。私はそうとしか思わない。

逃げようとしている人に優しい人は見ることができにくい。

私は子供にそんな大人になってもらいたくない。私は逃げない。子供にだって逃げて欲しくない。

結果を求めてるのではない。前へ進む姿勢だけを周囲の人に望む。

「目先の楽に進むことが正しいんですよ、だってその人は辛くてたえれないいですからしょうがないんです。」なんていう、逃げの姿勢を私は好まない。

私は本当におかしい・・・。偏りがありすぎる。

人生において辛い時に、逃げている人に優しくすることは悪くない。

でも、だから「逃げていい。諦めていい。何もせずしょうがないんですよといってすませていい。」

私は世の中でも変わり者の上に愚か者だから、その答えは理解できない。




激しく感情的に今日の何かとして、記すのです。

(感情は身を滅ぼす事が多いとわかっていても私は感情を捨てきることがいつまでも出来ていない・・・)

何が足りていないか

 身体も元気(有難く五体満足)、経済的にも何不自由ない人が自分の現状に感謝を忘れていたり、自分の恩恵を食いつぶすかの如く振舞っておれば、近くの人は「過酷な現状を見てしまった。」そう思う人もいます。

本人はどうなんでしょうか?

気がついてないから恩恵を食いつぶしているのか、わかった上で食いつぶしているのか、五体満足健康つまり身体上何の不都合もないのに何もしないのか、それで自分は恵まれていないと言う人も稀にいる。

普通の状態が自分にとって恩恵がある状態だと気づく時、それは普通が普通でなくなる時を意味している。

望んでいないのにその人にとっての恩恵が消失すれば、自分の恩恵が痛いほどに理解できるだろう。一度でも望んでもいないのに消失した人、またはできた方はその恩恵を見失うことは少ない。

あたりまえの程度がその人の程度を決めている。

皆にとって凄いことだと思うことでも、「そんなことはあたりまえのこと(初歩の初歩)だ。」と簡単に言い放ち、実行続けている人もたくさんいる。

皆にとって簡単だと思うことでも、「そんなことは、私には難しすぎてできません。無理です。」と簡単に言い放ち逃げ続ける(私のような)人もいる。

私の近くにいる優しくできた方がぼそっと言われました。

「五体不満足の方だって一生懸命頑張って幸せになっているのに、五体満足な人が何故幸せになっていないのか・・・ 、本人が何も考えてもいない。努力が足りてないんやな」

「自分にとって何が足りていないのか」このことを考えはじめるだけでも世界は変わっていく。 考えない、行動しない、理解しようとしない、挙句頑張っている人を非難する人の何と多いことか(そんなことを言う私だってその一人でもある・・・)。

「本人が真に理解すれば問題とはならない。」

「ただ理解できなくても行動によって示せば問題とはならない。」

自分の恩恵は誰にでもある。地位・肩書き・名誉・財産だけが恩恵ではない。

「何が本当の自分にとっての恩恵なのか」

「自分に何が足りていない(必要な)のか」

「それを心から理解するためにはどうしたらよいのか」

「気づいたと思っている自分、本当に気づいているのか」

何かにひたむきになる人は、美しい。何かから必死に逃げ続け何もしない人は醜い。

これは結果や恩恵を意味していない。ただ足らないことを補おうと真摯に努力する姿、少しでもいいから前へ進もうとする姿勢を人は心から待望し感動し支えようとする。

美しいの本質が明らかとなる。

「素直でひたむきに努力し善いことへ、必死に手を伸ばし続ける。」



これは人に言われて気がつくという問題を超えることが多い。ただ私は思う。


できれば時を共にする人と私、共に美しくありたい。


進みかた

 何かを思い、何かを成そうとする。簡単に「行動しようとする。」というのでしょう。ただそれには人により異なることもあります。思考・方法が違う。高い山へ登るときに登山ルートが沢山あることと同じようなものです。

ただやはりそこに王道という一般的な方法が必ず存在しています。だから正しいなんて私は言いたいわけではありません。他に道があり、登り方にもさまざまな方法が存在していることを知った上で発言しなければ痛い目にあうなんてことは世間でよくある話です。

狭い見解と偏ったものをおしつける。それは痛い目をみないとわからないことがあります。おしつけることだって「物事の道理を広く深く理解した上で、あえて狭いものをおしつける。」同じおしつけだとしてもまったくべつのことになります。
 
私は以前よく物事をすすめるときに悩みがつきませんでした。「皆が納得する方法でいこう。」そんなことを夢見ていました。事実は全員が賛同してくれることなんて少ないです。私の程度が低すぎるだけ・考えが足らなすぎるだけ・行動が足りなさすぎるだけ・言葉が足らないだけ・配慮が足らないだけ・感謝が足らないだけ、そのような私はただの夢見がちなだけでしょう・・・。

それでも前へ進みたい。気がつけばそう思います。苦しみ悩む私にできた人は声をかけてくれました。

「何か一つ辛抱して上手くいくことがあるなら、自分がその辛抱をして前へ進んだらいい。」

その言葉は(情けない話になりますが)その時の私の程度を如実にあらわしています。自分では背負えないから辛抱を皆で共有して進もうなんて思いが私にあったのでしょう・・・。

「誰かに辛抱を押し付けて前へ進む。押し付けられた人が辛抱しなかったら前に進むはずがない。」

その誰かにあなた(私)がなって前へ進みなさい。進みたいという覚悟が本物ならそのあなたは辛抱を背負う覚悟で前へ進みます。

物事の進めかた。私はよく悩みました。悩んでいます。悩むでしょう。

ただそれでも前へ進みたいです。

「辛抱して上手くいくことがあるなら、自分がその辛抱をして前へ進んだらいい。」

何かに当たれば、私はその言葉を思い出します。

(他に皆にとって上手くいく方法なんて無数存在しているのでしょうけれど)

 相手を信じる。善い意味での返事ではない代表的な答えの一つに

「信じていたのに裏切られた。」

よく聞く言葉です。

私が努力を怠たり、現実から目を背けたり、やらなければいけないことから逃げたり、我が愚かさを知らず自らを賢いと称したり、できていないのにできていると言う、現実わかっていないのにわかっていると言う。そのような悪い現状を出現させれば先ほどの言葉を言われたり思われたり呆れられたりします。

人が言うことが正しい。それが「信」として出現することになる。仏教者が書物にそのようなことを書いてありました。

信とは、人が人と出会い時を長く過ごすことにより信頼が生まれていきます。この場合の「信」は相手を信じれるようになる。相手を信じてもいいと思ってしまう。時間がその二人に信をもたらしています。ただ目前の人が悪いことだけしか発言行動しないのであれば、信は(心から)出てこれないのです。

人は大なり小なり悪いことを行っています。だから目前の人を自らが信じている時、その人が悪いことをしていれば「信じれない。」「信じた私が馬鹿だった。」その人自体が善の塊と勝手に思い込んでおり、現実はそうじゃなかったから「信じることができない。(善のかたまりではなかった。)」誰でも善のかたまり(全て)という人は少ないように思います。

極端といわれるかもしれませんが教養・地位・名誉・財産がないという人でも、人は善いことをしています。つまり信じることができる人となっています。

別に高学歴・高収入・財産を持っている人だけしか信じられる対象としか見れないなんてことはないです(稀に世渡り上手の罰当たりなことをしている人は、その人を見ているのではなくお金や地位を見ている人です)。

信の本質は信じることにより、思いが綺麗になる・考えが綺麗になる・望みが綺麗になる・生き方が綺麗になるといった様々な綺麗になることをもたらしています。

醜悪な現状を見ればその状態を信じられない。それが「信」の反対をあらわす言葉となっているだけです。

人により「信」には段階があります。

①(何も)信じることができない。

②(ほんの少しだけれども)信じることができるようになる。

③(真理や真理のかけらをあらわすことを)心から信じることができるようになる。

④信じた(真理その)ものと自分とが同じになるように願う(努力精進する)。

⑤信じたものの本質を心から理解し、(少しでも)身にまとう。

⑥信じたものと同じになる。(この場合はその人は光を発しているように受け取られる。)


「信」には、たとえどのようなものでも本質(真理)を見出すことが出来れば、見るもの全てを信じることができます。これは人間的完成をみた人でしょう。

その反対を書けば、他人を信じることができない。どうでもよいものを大切にして肝心なものを見たり聞くことが出来ていない。自分や相手の善い所を信じることなく、幻を「これが本物だ」のように錯覚している。

変なものを信じていると声を大にして発言しても、周囲は「くだらないものは捨ててしまえ」などの辛辣な言葉しかでてきません。

「信」は宗教であれば「信仰(心)」や「信心」という言葉であらわされています。

「信仰」とは信じ仰ぐこと。仏教で言えば真理を心から理解し帰依すること。簡単な例で言えばいつも身近で大切なことを教えてくれる人や親切にしてくれる人、善いことを願おうと努力する自分自身を信じ大切にする。

「善いことを信じ仰ぐこと」

「信心がある」も同じ意味合いを持っていると私は思います。自分や他人が仏のような存在だと知り、また私たちを取り巻く世界そのものだって仏だ。そう信じている心を持ち努力精進を怠らない。

その意味を知っていても知らなくても、信心があれば身近に居る方へ善いことを行なっています。自分の品性を一切損なうことなく、できることを行う人、これを「信心ある人だ。」と世間ではいいます。


「真理を心から理解し、それを体得しようと精進努力する。」

これだって「信」です。

相手が問題ではない。いつだって私の「信」が問題なのです。

ただ難しいことを抜きにして、どのような人でも善を願い。よく善いことをなしていることは紛れも無い事実です。

教えていただく

 私は人の言うことを聞かないことが多いです。本当に悪いことです。少しずつ改善しようと思っています。

ただそんなことを「思う」「思わない」とか「考える」「考えない」など一切の思慮分別を挟む隙間もない程の言葉が聞こえてくるときがあります。

いつも八月は原爆や戦争の特集があります。私も長崎出身ですから原爆については他人事ではないこともあります。

私のおじいさん。私は三人兄弟の末っ子ということもあり、幼少の頃は気がつかなかったのですが、家族からの愛情をたくさん受けたようです。特におじいさんは私をよく可愛がってくれました。当然両親兄弟も私の面倒をよくみてくれました。小さい頃の私はそんなことに気がつかずやりたいことを気の向くままに行っていました。
誰かが必ず世話を焼いてくれていたことを覚えています。

おじいさんとお風呂によく入りました。おじいさんの背中は大きい傷があり背中腰のあたりがくぼんでいました。

「おじさん、これ(この大きい傷跡)なに?」

「これは戦争で東南アジアの国を何カ国も言った時に大砲の爆風でえぐられたんだ。」

小さい頃の私は、大砲や戦争なんて知りません。(今だって実際に見たことはありません。)
戦争の話は何度も何度も聞かされました。

「とにかく食べるものがなかった。だからなんでも食べた・・・。」

おじいさんは食べ物を大事にする人で、よく働く人でした。戦争のことや大砲で怪我したことは私が小学高学年位になった時でしょうか、おじいさんは農作業中に腕を怪我した時、レントゲンを撮ったら腕に何かの破片が埋まっている。そう医者に言われ怪我のついでにその埋まっていた破片を取り除いた。確か爆風でガラスの破片が腕に埋まったままだったようなことを聞き、本当だったんだ。遅くなり気づきました。

おじいさんは90を超えて長生きしました。もう戦争の話も聞くことができません。

先日里帰りの際におじいさんの話を母としていたら、おじいさんは部隊で唯一人の生き残りだったそうです。怪我をしていたために居残りになってそれで命を繋いだそんなことを母は言っていました。続けて本当なら軍人恩給もたくさん出るはずなのにそれを証明する人がいなかったから、人から比べれば軍人恩給が少ないといって怒っていました。おじいさん以外生き残りがいないから証明する人がいない。私は母さんに

「生命があって無事に帰って来れただけでもいいじゃない。」

なんて気軽に言いました。人の思いは複雑です・・・。

先日仕事で伺ったお宅では、80になる連れ添いのご主人の話を聞かせてもらいました。
戦争にはそのお父さんが行ったそうです。ミャンマーへ派遣され終戦二年前位に亡くなったと知らせがあったと確か言っておられました。その頃の亡くなった知らせは曖昧で、亡くなった人がひょっこり帰ってくることもありましたから、その旦那さんは父親がひょっとしたら帰ってくるかもしれないと思い続けていたそうです。

昭和50年頃、私が働くこの徳島のあたりで戦争へミャンマーへ派遣され戦死された方の遺族は政府主催の遺骨収集へ行かれたそうです。その話を聞いた旦那さんも四国二番極楽寺の住職も便は違えどもミャンマーへ行ったそう言われていました。

部隊が亡くなったあたりで、必死にほって探した。探せども探せども・・・、ただおそらくこれが手で足で頭だろうと土を持って帰ってきた。旦那さんはそれ以来、「父がもう家へ帰ってくることはない。そう観念した。」独り言のように言っていたと教えてくれました。

いま旦那さんは80歳、夏が来て戦争の特集などがあれば眺めて涙を流している。私に奥様は言います。

「おじいさんが、泣いているのはかわいそうで見たくない。だから私はおじいさんが席を立ったら勝手にチャンネルをぱっと変えるんです。戻ってきたらわしが見ていたのになんで変えるんだって怒ってますけどね」

「でもね、80のおじいさんが涙を流して泣いているのは見たくないんです。」

極楽寺の住職のお父さんも同様にミャンマーで戦死されています。その二人だけでなく沢山の方が戦死されています。

極楽寺の住職からお話を聞いたとき、「昭和50年政府の遺骨収集に二年参加して計60日必死に探し続けた。本来なら治安が悪いために入れないところにも入って探させてくれた。けれどもこのあたりだろうというところまで行ったが、父はいなかった。」

「父はビルマ(現ミャンマー)の土にかえったんだろう・・・・。」

極楽寺住職はミャンマーへその後何十回も行かれていました。私は詳細を知らないために何故ミャンマーへ何度もいったのだろう。なんて不思議に思っていたことがありました。

話を聞いて腑に落ちました。

おばあさんは私に言いました。「若い今の人たちには戦争なんて他人事でしょう。でも80歳のあの人(主人)にとっては(80になった)今でも涙をこぼすんです・・・」





いつも私は話に結論を書く習癖があります。それは時に必要のないこともあるように思うのです。

おせっかい

幼子くらい若ければお節介を焼いたとしても素直に受け取って、即座に「ありがとう」とこたえてくれます。
(反抗期には反対のことを言いますが、反対のことをいう時点で本音を言っています。人間は本当に難しい生き物です。)

小学生くらいでも、お節介をやかなければいけません。まだ子供ですからひとりだちまでは時間がかかります。素直に御礼を言ってくれればやりがいもあります。素直ではないときの方が多いでしょうか。自分に振り返ってみても、そのおせっかいの意味すら理解していないために素直に言えたことは少なかったのではないか、などと思います。

中学生くらいになればどうなんでしょう。親のおせっかい・他人のおせっかいを少し面倒くさいなんて思う子も増えてきてそうです。私自身もそんなところがあったから人のことだけ悪くなんて言えないことです。高校・大学ではさらにそれが増えていくように考えます。

よい面としては、身体と頭脳や心が発達していけば、「自分でできるから」できれば見守って欲しい。と取れそうです。「いやいや、出来てないことが多いし、心配だからほっときませんよ」大人・友達・優しい人はそう言ってお節介をやきます。

感情的になればなるほど後悔します。しっかりと大切な事を見たり聞くことができれば感謝します。

「お節介をどう受け止めるか」

その対処を見ていればその人の程度もわかりやすいです。私のように目前にいる人がどれくらいのことをしているかがわからなかったり、お節介をただの邪魔者あつかいしたり、あげく感情的になり文句を言う始末では、ただ気がつけば「本当にごめんなさい。」しか出てくる言葉はありません。

気がつくということにも段階はあります。「ある程度まで私は理解した。」これは正しいです。全ては決して理解していません。ここも「私は理解しているんだから問題ない。」その言葉が出れば皆が思うとおりです。そんなことを言えば「ちっともわかっていないから、大問題だ。」となります。

気がついてない人やわからない人をそのままにしてはいけません。私だってそんな状態は多いです。誰もが見捨てれば、つまりはお節介を焼いてくれなければ私は悪い状態のままでしょう。

自分だって誰かに何かを教えてくれたり優しくしてくれたり怒ってくれたり道を指し示してくれたり損得なく助けてくれたりするからこそ人間悪いことを反省できます。

できない人にお願いはできません。何故なら自分のことで精一杯だからです。

できる人・できていなくても相手のことのために力を注げる人・優しい人・ほっとけない人にはお節介をやきつづけてほしいです。

いつかはその意味を理解するまでお節介は必要です。

悪い愚かな私をほっとかず、私の悪いことや愚かなことを気にせずお節介をやきつづけてくれた人がいるように、誰かの氷のように冷たく冷めた心を溶かせるのは。誰かのお節介です。

小さな親切余計なお節介、それでも誰かがお節介を続けねばその人はわからないままでしょう(以前の私のように・・・)。

無理な人にはお願いできないお願いです。

お節介が無駄になるなんて悲観する必要はないです。その意味がわかればその人は心から反省する時が必ず来ます。

諦めれば善いことは訪れるはずもないです。

「困ったときはお互い様となる日が必ず来ます。」


何もしなくて助けてくれる優しい人ばかりではないはずです。

ありのまま

 何気なく行動する私。

ありのままの私と言ってよいと思います。ただ「ありのままに」この言葉を意味するものに自然にとか普通以上のことを指していると感じることが多いです。

「ありのままの私」

普通の私や自然な私、善いことをおこなうことが通常である私、まあこのあたりの意味なら迷惑はかけなさそうです。

「悪いことをするのが自然であり、普通である私」

いや、これは本当に遠慮したいです。

知らないことを知っているかのように振舞う。できていないのにできていると自信を持つ。誰よりもわかっていないのに誰よりもわかっているなどと自分だけが信じ込んでいる。悲劇の主人公に気がつけばなりきり、なすべきことをなそうとしない。過ちを過ちと思っていない。自分が正しいと自分だけが信じ込んでいる。まあ私の中からそんなことを出せばいつもの如くきりがないのです・・・。


ともかく、そんな悪い状態が「ありのままの私」これはもう消えていただくしかないです。

「あなたがいてくれると幸せです。」

「いつも一生懸命皆のために有難う。」

「仕事を一生懸命行う姿が大好きです。」

「あなたのそんな優しさが大好きです。」

まあこの方向性も私以外の人を見ればたくさん出てきます。

何か善いことをしている時が一番その人らしい状態であれば、「ありのままの貴方」「ありのままの私」でしょう。

どちらに思われたいか、そのためにはどうすべきかは常に世界が私たちに指し示しています。
その一例をとれば

狭い見解にとらわれれば、「もっと広い視野を持ちなさい。世界は広いのだから」そのような発言を受けます。

激しい負の感情にとらわれれば「気分転換をなさい。良い所があるんだ一緒に行こう。この世界は汚いものだけが全てではない。」

潔癖でありすぎても「もう少し融通をきかせたらよいのに、この世界はもっと果てしなく広く美しいのだから」

私たちは何かの現象を目の前にすれば、世界からの意思を受けて何かを発言したり行動しています。その根拠は何かなのだろうかなど悩む必要はないです。

世界から生まれた私たちは知らずに世界からの言葉を受け取っているだけのことです。ただ狭く一人だけがよくなるなんていうことは世界からなんて言われることはありません。それはただの自分勝手と言われるだけです。


「ありのまま」その言葉が褒め言葉になるような生でありたい。

「あなたはあなたのままでいい。」

「わたしはわたしのままでいい。」


この「あなた」と「わたし」この言葉は世界に置き換えてもいいのかもしれない。全部置き換えてもところどころ置き換えてもそれはそれで、ありのまま



この功徳

うぐいすはどのような声で鳴いていますか

私ならこう答えます。

「ほー、ほけきょ」

一般的だなんて私は思っています。

漢字で書いてみるとより感じがでます。(いい年のオヤジは随所にオヤジギャグを入れようとします。)

「法、法華経」

元は「ほー、ほけきょ」と言っていなかったのではないか、「うー、うぐいっ」そこからうぐいすと名付けられたなんてどこかに書いてありました。(詳しいことは忘れています。)

鳥が綺麗に声高らかに、法(真理)と法華経(お経の題目です。)

自然に生きる鳥がこの世の真理とそれを説いたお経(心理の言葉)を帰依してやまず。賛嘆し鳴き続けている。

「ほー、ほけきょ」

日本が仏教国であり、我々の祖先は真理を説いたお経を(お経の解説つまりは法話を聞いて)尊び、うぐいすの鳴き声を聞いて涙するほどによろこんだんだろう。なんて私は思う時があります。

まあそんなことはともかく、うぐいすの鳴き声は何とも言えない美しさです。

そのほか法華経として、よくみみにするのは「なんみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」
日蓮宗系列でよく唱えます。

「あの人(優しい人)は、私にとって観音様のようだ。」何て言うところの、法華経の中にある妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五、二十五番目が観音様について説かれています。観音様が私達の目の前に三十三身に変化して現れると説いてあります。法華経をインドの言葉から漢字に訳してあるものは数種類ありますが、変化して現れる数は訳されたお経により数が異なります。

一番有名なのが三十三の数であり、西国霊場や観音霊場のお寺の数になっています。

三十三身に変化して私達の前に現れる。ここでの問題は数ではなく変化して必ず現れている。本当に困ったときに助けてくれる人、悪いところを指摘してくれる人、私の目の前で悪い見本を示しこのようなことをすればこれほど悪く思われると悪いことを行う人、自分に足らない知識を困れば教えてくれる人、生きることとは何かと教えてくれる人、その数は三十三でも足らず、変化の数は問題とならない。

「私を助け、叱り、教え、困難な時を共にし、優しい言葉をかけてくれたり、私にとって常に何かを指し示してくれる目前の人、その人が観音様かもしれない。」

などのようなことを感動しながら思う時があります。

また、よくお経で唱えるときに使う回向文に

 「願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし我らと衆生と皆共に仏道をじょうぜん。」

法華経にこの言葉ものっています。

この功徳をもって、ここにある「この功徳」がどんなものかわかれば、この回向文も意味がわかります。

この功徳とは、「自らの心中から生じさせる揺るがない決意、自らの身体をもって清らかな思いに身を投じる努力精進と布施(必要な人へ惜しまずに与えること)をもって、周囲へ幸せにいきる覚悟を指し示す。それがこの功徳なんだ」よくそう思うことがあります。

反対を書けば問題のないことです。

誰かにお願いをするのに、何もせず寝転がったままで、お願いをしたって、「功徳をもって」の「功徳」があるのかどうか皆に問うまでもないでしょう。

いつも私は極を書くのですが、無理なく自然に続けれる善いことへつながる努力が一番でしょう。

教養のあるない・地位肩書きのあるない・財産があるないなどに関係せず、誰にでも善いことは行っていることです。

何かがないからできないと言い訳する時(の私)は、逃げてみっともないことを世界へ知らしめているだけです・・・。