本を読む

 あれは何時だっただろう。確か2010年の夏だったように思う。いつものように仕事をしていた。共に働く方から突然言われた。

「貴方宅建(資格)でもとったらどう」

いきなりすぎて何が何だか、けれども勧めてくる方はいつも皆に優しく私のことも身を案じてくれる。何の根拠もなしに言う方ではない。

「何故ですか」

「あなた宅建でもとって副収入を増やせばどうかと思って」

子供三人もいるしお金は確かにない。お金有るに越したことはないけど、それから宅建について色々と調べてみた。今の私の仕事で直接も間接的にも宅建は全く役に立たない。何時もお世話になる人の言うことだし無下にはできない。ネットでいくつも調べ本屋を何件かまわり宅建についての本を購入した。

「来年の宅建合格を狙う。」

その時の目標だった。仕事が終われば家事育児の合間に宅建について勉強を進めた。意外とやり出せば楽しい。簡単な法律や様々な知識も入ってくる。勉強が進めば進むほど疑問が湧いてきた。

「一体これ(宅建の資格)をとって、現在の仕事や生活にどんなメリットがでてくるのだろうか」

特に自分自身の仕事(職種)に不満なんてなかった。ただいつだって未来は不透明、正当に評価されているかと問われれば、評価されていないと他人がいつも私に言うことが多かった・・・。

恐らく何時も私に優しく心配や出来る事をしてくれている共に働く方は、私の今後の未来を案じてこれからを支えるものを身につければという意味で言ってくれたのだろう。

そう勝手に私は解釈した時、宅建の勉強を辞めた。

その時から現在の仕事に関する書物を探した。現在でもそうだが、当時の私にとっては本当に難解な書物を理解することからはじめよう。一体自分にとってそれが正解なのかどうかわからないけれども、そこから私はスタートをした。

「この書物さえ理解できないようでは自分には何の価値もない。」

それまで自分から望んで求め何かを勉強するなんて、思いつけばしたことがないように思う。それは本当に他人から比べれば情けない話にしかならないだろう。

ただ私がしっかりしていないことにより、何時も居る方に心配をさせてしまうのはよくない。いやどうだろう。その時はただ自分が情けない。それだけだったのかもしれない。

それから暇があればその難解な書物に時間を費やした。何ヶ月か経ち最後まで読破した時には涙が出た。本当に良い書物だった。そこからは暇さえあればその先へ進むための書物を探し、何かを求め続けた。

この文章を書いている今2013年の初夏、あれからはや3年の月日が過ぎようとしている。

仕事を共に過ごす優しい方や私を支えてくれる妻に、宅建の代わりになるものを求め続けて安心を与えれるようになったのだろうか。時折そう考える。
挫けそうになったり、辛いことがあったり、悔しいことがあったり、その時は気持ちを呼び起こしてくる。

人から見て私が資格の代わりになるものが現在有るかどうか気にすることもある。ただその答えは聞く必要もない。

今まで私の前を大事なことは通りすぎてばかり、今はそのような時の自分とは絶対に違うと言い切りたい。私に優しい人・好きでいてくれる人・貴方(達)が信じたものは絶対に間違いではない、結果的に正しかった。そう証明したい。

人が何かと出会う。その出会いのきっかけはその人による。通りすぎれば出会ったことにはなるはずがない。

「ありがとう。貴方のおかげで私は大事なことに出会うことが出来た。」



その(私にとっての)きっかけが、「本を読む」ということ。これからも私にとって書物と出会うことはただ読むという作業では絶対にない。

これまでの失敗の経験、紆余曲折ある人生、大事なことに気がつかされた喜び、誰かと出会った喜び、真理と出会う喜び。

それは私の行動に現れ初めて実を結ぶ。

私にとって本は美しく咲き誇る「華」であり、それが身にまとう言葉になれば私から生じる華となり、(私の)行動に現れれば、それは素晴らしい「実」となる。

「叡智あふれる言葉と光を放つ一挙手一投足」大空をかけるが如く夢をみるのはその人(私)の自由。



「もういい年なのに、夢見がちな少年なだけではないか」


そう言われたとしても(私は私なりの)歩みを進めるしかないだけだ・・・

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きっかけ

 色々あるなんて現在いる場所だけでなくどこの場所でも(どこにいったとしても)同じことでしょう。

私だって自分自身が「何も問題はない。」そう思い発言したとしても周りからすれば「問題しかない・・・」なんてことはよくあるまではいかないにしてもそういうことは少なからずあります。

「問題しかない」または「わりと問題が有る」周囲が見て判断しそのように思ってしまう。簡単にいえば不安を感じさせる自分を少なからず、いや感じさせているならば少なくではなく周囲に出現させているのでしょう。

大事なことを気がつくには人により違うようです。

ある人によれば些細なことや大事なことに自然と気づく、ある人は言葉で指摘されただけで気がつく、ある人は態度で示してもらって気づく、ある人は他所を学んで初めて大事なことに気づく、そうやって気づき何かを実践することにより不安を感じさせることがない。つまりは周囲を安心させる自分を出現させる。

学ぶことが「何か」にきづかされるといってもいいのかもしれません。学問や実践を通して大事なことを学んでいく。

何かをきっかけとして、自分に必要なものを補っていく、それが学ぶことだと最近になり(私は)気が付きます。
この大事なことに気づくというきっかけは周囲の人にもよりますし、一番は本人の心によります。

私はよくどうしたらそれに早く気がつくんだろうと自分のことは棚に上げて身近な方に対して余計なお節介をすることがあります。

それはその人がその場にいたとしても正当に評価されない自分を周囲に与えている現実、身勝手な私は自分のことを都合のよい棚に上げ、「その人は早く気が付かなければ・・・」なんて思うことがあります。

「情けない話だ・・・・」(私の醜悪な過去と一緒だ。早く何とかしないと)

現状が変わるにはきっかけが必要なのだろう。一体その人にとっての気づき改めるきっかけは何だろうか。考えても答えが出ず、何かを必死にしてみても変わらない時はさらに悩むことがあります。

自分を心配してくれる人がいてもいなくても、優しくしてくれる人がいてもいなくても、これから先善い自分と出会いたければ行うことは決まってくるだろう・・・

「自分で自分を信じるには、何かを行うしか無い。」(ここでの何かとは現状でやらなければいけないことや善いことを行うことなる。わからなければ素直に聞けばいい。)

「素直になるだけでいい。」

できないことはできない。わからないことはわからない。それでも(私は)前へ進みたいんです。その思いだけで解決する。



ただその人がそう思うきっかけとは一体何だろうか

かばえないこと

 近くに優しい人がいます。

気がつけばその人は目前にいる方のことを思い、現在の自分にできることをしています。周囲の人がちょっと近寄りたくないと思うような人だとしても関係はありません。自分の目前にいればできることを自然におこなっています。

私だって優しい人の前にいれば、その人はいつもと変わることはありません。常に目前の方(この時は私)を心配し、できることを行い続けています。

時折、忘れすぎてたり役割を果たしていない時の私はその方に(当然の如く)釘をさされます。

「何時も私が何かをしているのは、そのような(悪いことや役に立たないこと迷惑を考えない行動にうつつを抜かすような)ことをするためにしているわけではない。」

それに近い言葉を他人に対して発言していたり、いないところでぼそっと口からこぼしているのを聞くと私は本当にこたえます・・・。

仕事では大体一緒にいます。私自身気がつくことが少ないために迷惑を掛け続けているのではないか、何時もお世話になっているからこそ気になってしまいます。

気にしている間は何かを行ったり、何か善いことを考えようなどとしているからそれはそれでよいのです。ただ気をつけているなんて特別状態の時なことが私には問題です。優しい人の行動が自然であるように私だって自然であるべきだなどとよく思うのです。

その人がまたボソッと漏らしていました。

「一生懸命に私はその人にしてあげたい。けれどもその人自身の普段からの行いが悪い、仕事をしようとしない、周囲に比べて努力しない、何もしようとも考えようともしていない、その場合は何かしてあげたこちらまでつぶれてしまう・・・。」

優しい人故の悩みです。どんな人でも目前にくればできることをしてしまうためにでてきます。助けたりする人が善い人であれば助けられたりすればさらに努力したりもっと善いことをします。普通の人でも程度は違っても同じです。気がついていない人は助けられたり何か役に立つことをしてくれていることもその名の通り気がついていません。気がついているのに何もしていないのなら気がついていないのと同じです。

善い人や普通の人ならば助けたり何かをしても問題がない。

「何もしようとしない人にしてもかばうことができない、こちらが潰れてしまう・・・」

私の近くにいる優しい人は無敵だと思っていました。どうやら無敵ではないようです。ただそう思っていたとしてもその人は目前にかばうことが出来ない人が来ても優しいのです。私は考え込みます。

「どうしたら・・・」

言葉で伝えても身体で助けてあげたり示しても通じない。



現在の私が存在しているように、諦めてはいけないことのように思うのです。

何もしていない

「オワコン」なんて言葉をネットで目にします。
時代についていけていない私は、「何それ」なんて思いと共にそれは何の意味だろうかと調べてしまいます・・・。
それは「終ったコンテンツ」略して「オワコン」旬だった人が既にもう旬でないために新鮮味やメディアとしての価値も薄れ、情報として出しても出てるのに誰の目にも止まらない存在をあらわす言葉として使っているようです。(オヤジな私の解釈ですから間違っているかもしれません)

その「オワコン」として芸能人の名前がでていました。芸能人に疎い私は「そもそも私の中で、その人自体が始まってもいない。始まっていないものが終わるはずもない。」

なんて戯言をほざいて負け惜しみと弱い犬ほどよく吠えるという現象を周囲へさらしてしまい。その言葉を知らなかったことを隠そうとしているのです。こういうのをひねくれもの(素直じゃない)というんでしょうけれど・・・。

どんなに善いことや素晴らしいことでもはじめなければ意味がないことです。はじめという言葉には先程書いたようにはじまれば終わりがやってきます。一例を出せばこの記事を読んでいることもそうです。その全体を表すブログだってはじまりがあるためにここに表出しいずれは終わりがおとずれます。他のことも同様でしょう。誰かが始めれば何かの原因によって終が訪れます。

人が生まれたことによりその人の人生が始まります。何によって終が来るか分かれば問題は軽減するのでしょうがあくまでも軽減されるだけで、いずれ終わりは訪れます。だからといって善いことや素晴らしいことを終わるからしないなんていう極論は変な話です。

そういうのを世間ではただの言い訳ばかりで何もしないと言います。

(変わり者私は、)終わることのない(素晴らしい)ものを紡ぎ出せればなんて夢を見ます。善いことは終わらせたくないなんて私だけでなく誰もが思うはずです。
反対に悪いことだけを考え続けている。何もしていないのに何故か悪い印象を受けます。何もしていないからといって善いことを考えたり思うことは絶対にやめてはいけません。

「貴方は何もしていないことはない。現に善いことを増やそうと考え続けている。既に何かを行い続けている。」


私は変わりものですから、善いことを考え思いつづける人へその言葉を伝えたい。



そうそう、肝心な事を書き忘れました。悪いことを考え続けている人がいるならば頼むからそれをすぐ捨てて下さい。本当の意味で何もしないで下さい。悪いことを考え続けている人だって既に何かをしているのですから・・・
以前の記事にだした文にあるように「悪いことをするなら何もしないほうがましだ。」からです。




特徴

 人には特徴があります。

気が短い、気が長い、優しい、優しくない、出来る、出来ない、知識がある、知識がない、信頼がある、信頼がない、特徴がある、特徴がないのが特徴、など何に限定をしていうかはともかく人それぞれに特徴があるのです。

信じやすい人もいれば信じることができない人もいる。まあ限定していないために何とでもここでは書くことができます。ここでは私が思うようなことでも、思えないことでも、思わないことでも、ここに現れることは思うようになるという特徴を持つ場(私のブログ)というものとなっているのです。

だから人が見ておかしいんじゃないか、間違っている、理解できない、浅すぎる内容だ、偏りすぎている、愚かだ、たいしたことは書いていない、いつも同じようなことばかり、見る価値もない、など思われることは文章を書いた後の私にはどうしようもないことです。

どうしようもない私はよく悪いことが続けば、それに関わりがある中心の人物に対して怨みや嫌悪感などを抱くことがあります。別にどれだけ呪っても怨んでも死を願っても運がいいことにその人がいなくなったことはありません。

いなくなっていないのに運がいいという表現がおかしいなんて思う人もいるかもしれません。

怨みや嫌悪の対象がいなくなっていないのに運がいい。本当に運がいいです。その方の死を願い呪ったとしてその願った通りに即座にその人がそのように存在がなくなったり、生命活動が停止すれば私なら自分のせいだなんて関係がないことでいなくなったのに思い込んでしまいそうだから、いなくならないで運が良かったと思っているだけです。

私とは比べることができないくらいにできた人の特徴は、

「ゆるすということ」

「信じるということ」

「優しくすること」

「辛く苦しい時に同じ時を過ごすこと」

「(特に困っている時にその方へ一番)必要なものを与えれること」

「与えたり成した行動に対してとらわれのないこと」

「あなたの喜ぶ顔を見て、(自分自身がいつも)心から喜べること」

「あなたの苦悩をいつでも取り除こうとできること」

「我という枠のとらわれをなくそうと努力していること」

善い特徴それぞれどういう意味を持っているのか

人は「信じた私がバカだった。あんなものを信じるから・・・」などの言葉を使う人も少なからずおられるでしょう。後悔とともに出てくるその言葉、不出来な私には数え切れないくらいにそのようなことがあります。

苦しみも、困難な問題も、失敗も、後悔も悪くないです。悪いものとしてあるようならばそれを上手くいかすことができていないだけです。

「あの人を信じたから私の判断は賢かった。あの人を信じてよかった。」

先程の言葉を反対にしてみました。悪いことは私も特にですがその原因を自身以外に持っていきやすいようです。逆に良いことは自分自身に持っていきやすいようです。

少しでも考えればおかしな話です。どちらかに統一していれば問題も少なくなりそうです。何か悪いことがあればその人のせい。何か良いことがあれば自分ではなくその人のおかげ。何か良いことがあればその人のおかげ、私はまだ問題がある。

これなら少しまともなように思います。

人それぞれに特徴があります。良いことは自分のおかげ、悪いことは人のせいなんて都合良すぎる使い方は自分の価値を下げるだけです。



自分の特徴と周囲の方それぞれの特徴を理解し都合の良い使い方さえしなければ、(出来ていない私は)少しまともになりそうです。

ありがとう

 なかなかどうして日頃の感謝を「ありがとう」そう照れずに言うことができにくい私です。

まあ若い頃よりは幾分それはましになったのではないかとも(勝手に)思います。感謝をできるということはその方にお世話になったということでしょう。

何も接点もなく、気づかされることもなく、助けられることもなく、理解し合うこともないなどのことがなければ感謝はでてきにくいものです。

誰かに優しくする。誰かを助ける。誰かを支える。誰かを影からフォローする。およそ誰かのために何かをなどの行為は(私の中では)女性的な印象があります。

世間ではそれを前に出すぎないように支える人、光に当たるばしょから一歩身を引くことにより成り立たせる存在。

「男同士でも年上だろうが年下だろうが女房役はいる。」

女房役という言葉にあらわれるものは、縁の下の力持ちのような意味合いと、女性的な支える優しさを内包している。

いつだって自分が主役で光のあたる場所で存在したい。そのように思うことは別に悪いことではないです。誰かが最も光のあたる場所にいなければいけないことは事実です。ただ光の当たる場所に全員が一緒に存在できるという状況も少ないです。

自分の能力・性格・周囲の状況などによって、役割は変わるものです。いつだって変わらないことは、良いものは大事に持っていたらいいです。そうでないものは邪魔になることが多いです。

悪い時には、悪いとすぐ謝る。良いものには良いと認める。役に立つのに個人的に気に入らないから見ない・聞かない・賛同しない・・・。それを

「きれいもないのに天を向く」

「くだらないものを捨てきれていない。」

自身と周囲が望んでやまないもの、双方へ成長や喜びをもたらすもののために自身がどうするか、簡単なことです。

「素直になること」



図星であればあるほど認めず、否定し悪く言うような素直と取れないものは、一刻も早く(私は)捨てなければいけない。


それには助けられたりお世話になれば(年長者でも年下の方にも)即座に「ありがとう(ございます)」または「(いつも)お世話になります。」かたちではない心からの思いと共にでているのであれば、感謝も簡単に伝わる。


私の上司(40くらいも年が離れている方)がいつも誰にでも行っているように・・・

旗持ち

 上の子、真ん中の子二人が小学生ということもあり、旗登板いわゆる立哨当番がまわってきます。

正直な気持ちで言うと最初は嫌でした。理由の一つは恥ずかしいなんていうこと。変な外聞をきにしていなんてこちらのことを誰もきにしていないのにおかしい話です。

大体はお嫁さんがいってくれますが、時間があり気が向けばたまに私も行きます。三人目が生まれる前や出産後は私が大体いっていましたが3歳にちかくなった末の子も手がかからなくなってきましたので、嫁が大体いってくれます。どこの家庭も似たようで大体女性の方が多いようです。

私の担当の横断歩道は交通量が割りと多い交差点です。出勤前ということもあり車はかなりスピードを出しています。学校へ行くのが楽しみなのか子供達だって走っていくこもいます。初めは嫌だった立哨当番も行ってみれば楽しいです。

「おはようございます」

そう声をかければほとんどの子供達は

「おはようございます」

そう返してくれます。中学生になれば照れくさいのか恥ずかしいのか返してくれないことが多くなります。もっと年が増えれば比例して返ってこないことも増えていきます。

まあ実際私だって知らない所を歩く人々全員に挨拶をずっとしながらとかしませんし・・・・、理想はそりゃあどこでも挨拶をするのがいいんでしょうけれど、なんて言い訳がましく恥ずかしい思いを私は捨てれていません。

通学する小学生や幼稚園児は可愛らしいです。話しかけてくる子もいれば、遠くからずっと見ているだけの子もいますし、(当然なのですが)私に全く興味ない子もいますし、「誰のお父さん?」なんてたずねてくる子もいます。

「おはようございます。いってらっしゃい」

私は子供達へいつもそう声をかけます。大人や中学生や高校生には声をかけれませんが小学生や幼稚園児には自然と声がでます。あの子たちには魔法がかかっているんじゃないかなんて思うこともあるくらいです。

(私の中の)境目がなくなれば、魔法が魔法で無くなるんだろう。

また次の旗持ちを少しだけ楽しみにしています。旗を持つなんて(私の)日常生活ではほとんどなく、あの旗を持っている私は「おはようございます。いってらっしゃい」子供達へその言葉が自然とでやすい魔法にかかるからです。


人によりその魔法にかかりやすい人とかからない人がいるみたいです。


すべり台

三男坊末っ子の「けいくん」(2歳10ヶ月)最近は散歩にいけばすべり台が大好きです。

よく行く公園に時折あらわれる他所様の飼い猫にあうことも楽しみにしています。猫は小さい子の声に反応して現れています。
私が散歩に一人でいってもほとんどいません。でも「けいくん」と共にいけば大体でくわします。憶測ですが、子供の甲高い賑やかな声に呼ばれてきている私はそう判断しています。

ブランコはまだ一人では乗れません。すべり台はもう一人でのれるようになっています。

ただよく見る光景があります。小さい子のそばに付きそう母親・父親落下したり踏み外せば洒落にならないからです。

子供がいない頃小さい子供のそばから離れない親の存在の意味がよくわかっていませんでした。気づけばわたしも高いところへ登る幼子のそばにつきっきりです。

私も人の親になったということでしょう。

「けいくん」以前は私がおんぶにだっこですべり台を一緒に滑っていました。もう今は一人で登って一人で滑って降りてきます。

「おとうさーん、すべりだい、たのしいよー」

キャッキャと笑い楽しむ子供の姿をすべり台の横で立ち尽くし眺めます。

公園などでそっと傍に寄り添い見守る親、その気持が最近になってわかったような気がします。

幼子の無邪気な笑顔や笑い声にはなんとも言いがたいものがあります。こちらが辛い時でも、一瞬でしあわせな世界へ連れて行ってくれます。

大人だって誰でもそのように出来る方法があるはずだ。

(私が)日々求めるものの一つにはそれがあります。

おぼろげながら出てきた答えの中に、やはり素直な態度や言葉です。嫌味や恨みつらみやさぼりたいなどの悪いことを素直に言うのではありません。

自分と皆が笑顔になれる言葉、そのような言葉が自身から素直に口をついて出る。

それが私の望むというか、勝手に憧れる大人の「素直」です。

幼子から小学生や中学生もっと上になれば、何かを失います。その何かを何かでカバーすることができれば問題がない。なんて本当に抽象的なことを書いて、今日の何かとするのです。

今年の梅雨は名ばかりのスタートでした。空梅雨(からつゆ)なんて世間で言うところもあるかもしれません。あるべき時にあるはずのものがなければ、しばらくすると困るなんてことは大抵のことにあてはまります。

私が幼少時代を過ごした長崎ではどこかの歌にあるように、現在住んでいる所より体感上雨は割と降っていました。岡山で働いていたときかなり驚きました。雨が降る日数が(私の中で)圧倒的に少ないのです。疑問に思い近くにいる人(職場や知人)へたずねたことを覚えています。

当然の答え、「晴れの国、岡山」だからだそうです。日本の中で雨の日が少ないことで一番の県(そうでない年だってあります)。

「雨が降らなくて水は大丈夫なの」

といった疑問が出てきました。それも岡山の人からすれば大きい川が流れているから問題ないようです。

その答えを聞いて、そういえば私の地元には大きい川がなかったことに今更ながら気づきました。大きい川が流れる近くに住んでいる方は雨が降らなくても豊富な水量をもつ川に助けられています。逆を言えば大きい川が無いところでは助けられるものがないです。

幼少時代すごした場所の近くには農業用の溜池がたくさんありました。古人の生活の知恵でしょう。備えあれば憂いなし。ただ雨が降らないことが続けばたまるものもたまらず、むしろかれていきます。

現在住んでいる徳島も吉野川という大きな川があります。圧倒的水量の為雨が少なくても水に困っていません。昔から住む年寄りの人に聞いても「そういうことはほとんどなかった。」そう言われていました。お隣の香川県はそれに比べ、よく水不足の話を聞きます。

川は本当に大事です。川の元は山からやってきます。山を支えるものは森林です。森林とは木や草花と土そこに住む生物です。
雨がほとんど降らなくなれば、庭などの木・草花・農作物は水をやらなければすぐに枯れてしまいます。
雨のふらない日が続き、水撒きを何度もした後、私は遠くを眺めました。

庭や農作物は干上がり枯れていこうとするほど水不足に陥っているのに、遠くの山々は雨もふらないのに緑をたたえています。

山には見えなくとも水が豊富にあるようです。水を撒かなくても木々は枯れないようです。

いずれ小さい流れが集まり大きな川となるように、その小さい流れをつくる大元である山々や取り巻く自然の偉大さにあらためて、皮肉にも雨が少なすぎることにより気づかされます。

相変わらず、私は無くなりかけてから気づくことが多い愚か者です・・・

賢い人であれば常に忘れることがなく、出来ることを行っているのでしょう。


ただ私のような愚か者だっているから、愚か者の反対である賢者の言葉や人が存在できます。まんざら私の存在も無駄にはならないようです。

見る目や聞く耳があれば、善い悪い・愚か者と賢者・失敗と成功・無と有・煩悩とさとり・私と宇宙それぞれに真理をみることができるのでしょう。


「何があっても(私や誰かを)支えることのできる行動をしつづけている。」


そのような自分でありたいなどの欲を(私は)持ち続けているようです。

ありのまま

 自分にとっての「現実」を認識する。他者から見てその人の「現実」を認識される。
自分に偏りがありすぎる現実認識、他人がこちらの現実を認識していると思うことへ偏る認識。

現実を生きる私たち、目に見えないのに目に見える形として、問題や艱難辛苦、良いことであれば喜び・感動・笑い・成功・出会い・発見・触発・智慧の獲得・自我を越えていく心の発展・己が己を知る。この徹底にいたればおのずと宗教的になるという人間的完成への道との出会い。そのほか様々言葉にすれば数え切れないほど善いことは無数に存在している。悪いことだって同様に無数存在している。ここでは言葉にすれば醜悪になるので一一を言及することを避ける。(書けば書くほど私の愚かな部分が明らかになるのを避けるためともいう・・・)

つまりは今を生きる人の前にあるありのままの姿、その中で通り過ぎず何かにひっかかるようなことを問題というのでしょう。

「私には問題だらけ・・・、ゆえに日々何かを書くのでしょう」

人生を先に歩みを進めている方、世に言う年長者、だからこそ目上の方を敬いなさいなどの言葉が存在します。後から歩みを進めてくる方、年下の方その方には優しくする必要があります。

「何故優しくするの」

なんて思う人もいるかもしれません。簡単な話です。

「(この世にいる他ならぬ自分自身だって)優しくされたら(する方とされる方双方が共に)嬉しいからです。」

 「他の人はどうでもいいから自分だけ優しくしてよね」なんて大きな声で言う。最近のアニメに出てきそうなセリフです。可愛らしい女性が発言していれば何故かドキっとしてしまいます。(この辺が私が愚か者だという証拠の一つになりそうです・・・)その意を勝手に解釈すれば、世に生きていればお互い様だし誰にだって困っていれば助けてあげないといけない優しくしないといけない。それがわかってるんだけれども、わかるがゆえにあえて自分をおとしめる発言をして目前の誰よりも大事な方へ気持ちを訴えています。

このあたりが(私としては)気に入っています。真理を求め生きている人間であるのに、相対に対する絶対に憧れ求めて生きているのに、絶対的なものが私たちにあらわれるときは相対に対応して絶対が相対という非限定より限定に固定されて出現する。限定されるからこそ、そこに存在する方の心へ共鳴していく。

「誰よりも理解しているのにあえて理解していないと思われる発言をすることに、何故か心が動く」

(私なりに)短い言葉にすればこうなります。

ここからが本題です。最後に書いた心が動く。困っていたりわからない人がいれば大抵の方が心が動きます。つまり心から身体へその思いが伝わり、身体から相手に優しく接する行為として伝わっていきます。

優しい人の行動である「優しくする」を単に言葉を長くしただけです。

日々(私は)優しくされることに助けられています。優しくするという言葉は助けられるに置き換えても問題なさそうです。

「(私自身を)助けられることにより(私は)助けられている。」

ここまでくると問題が相手から、私自身へと移り変わってきています。その優しさをこちらがどのように受け取っているかと言えばわかりやすいです。

誰でも(特に私は鈍いために)一回の優しさの行為で気づかないことが多いです。何回も何回も優しさをうけることによりその意味に気づく・・・。

ただ何回やっても気づくことがないのであれば(正確には理解した上で自分にとって何が出来るのかを考え何かを行おうとして行動に出ていいれば問題がないのですがその反対を意味しています。)優しくされることが目に見えて減少していきます。

短い言葉で言えば

「優しくしようとしたら(こちらが)突き放される。」

もっと別の言葉で具体的例をもって言えば、

「何かを困らないように教えようとしたら、新入りで何も分かっていないしできていないのに偉そうなことをいう。」

「態度がベテランより大きい。身体のおおきさではなく態度が大きい。」

まあこれも例えればいくつでも出てきます・・・。

「優しくする」その人の心からでたものが身体へ伝わり、行為として相手へ伝わる。

これだけで完結できることなのですが、現実は不完全な生き物である私たちは納得しにくいのです。大抵の人が納得するためには、その優しさの行為がされた人の身体へ伝わり、された方の身体から心へ伝わってはじめて完結できるのです。

これだって短く言えば

「あの人は(大事なこと又は肝心なことを)わかっていない・・・」

となります。

ありのままの言葉が時に何よりも「優しく」も「素晴らしく」もあり、「残酷」なこともあります。



(私は)できるだけ多くのことを、「心」へ響くように理解したいのです

誰が何のために

 仕事から家に帰れば、子供たちが元気よく遊んでいます。私も遊びは大好きでした。だから子供たちが大いに遊ぶことに反対意見などは全くありません。

まあでも・・・、ずっと遊びっぱなしはいけないと思います。

子供たちへの口癖は、「遊びだけを集中するのではなく、学ぶことにも集中して欲しい。どちらかだけではなくて両方真剣に集中してやってくれ」まあ短くすれば

「大いに遊び、大いに学べ」

ということでしょう。私もそうでしたが子供たちも私に似たのか、遊びは誰よりも集中できるようです。時間があっという間にすぎるようです。いくらでもしていたいようです。終わっても終わりにしたくないようです。気の合う友達と過ごす時間は何よりもいいようです。

そういえば、私も中学高校と勉強は嫌いでした。自慢じゃありませんがほとんど勉強をしてなかったように思います。

ただ学校は大好きでした。勉強が嫌だという気持ちより友達にあって遊ぶ約束をたてるために学校を一日も休まずに行こうと皆勤賞を狙っていたことは覚えています。高熱が出て辛い時も(高校時代のとある日)無理して学校へ登校して遊ぶ計画を立てていましたが身体がついてこずに「ごめん(遊びに一緒に)行きたいのに、身体がついてこないんだよ・・・」その後すぐ皆に保健室に連行され、帰宅療養させられることになったことを覚えています。

最近よく思います。「学問をはじめるのに遅いなんてことはない。」それは間違いのないことです。ただ「早ければ早いほど有難い。」ものになるだろう・・・。

趣味であり興味があれば、難しいことでも簡単に調べ理解していきます。難しいことを簡単になるまでに勉強をすることは必要不可欠です。

「自分にとって大切な何かを求めてやまないもの」巡りあった時、難しすぎて手のつけようがない。理解の幅が小さくなることもあります。

何かを学ぶために、あの子達にはいつかめぐりあう大事なことのために、基礎的なことは最低限身につけて欲しいなんて、押し付けがましい思いをあの子達を見れば押し付けてしまいます。
もうそろそろ、押し付けはやめる時期が来ます。いずれ自らが望む方向へ転がりだすでしょう。

何かを学ぶ(実践でも学問でも)・行儀よくする・素直になる・本を読む・嘘偽りをいわない。いつの歳が来ても(私にとっては)大事なものです。



「大事なことに気づくのが早ければ早いほどいい。自分にとって大事なものだとわかるためには時間がかかることもある。」


矛盾であり、矛盾でなくなり

溶け合い一つになることを夢見ているのです。


流れ

 何気なく発言する日常の言葉。

私だってほとんど深く考えずに発言しています。だから何気なくなんていうのでしょうけれど。

考えずに発言している言葉で、思いもよらぬことになることなんて誰でもあります。それは善いこと悪いことに意図していないのに向かうこととも言うでしょう。

現実社会において自分本位で好き勝手に発言行動すれば、そのうち何かと衝突し世間で言う叩かれるなんて言います。年を取ればあの人も丸くなったなんていう言葉はぶつかることにより衝突がなくなっていったとなるのでしょう。

川と同じです。上流にある川の石は角があり尖ったりいびつな形が多く、中流にくれば少しは角がなくなって形も整ってきます。下流までくれば石は丸く角がなくなっているものがほとんどです。

それは人間も同じようなものだ・・・、なんて詩人みたいに思うことがあります。

川の流れに運ばれるような大きさの石ならば削られて角が取れまるくなっていきます。さわっても怪我しそうになくつまりは人あたりがいいのです。丸いほうが何故か感じがよく綺麗だから持って帰ろうなんて思うほどです。

ただ大きな石は流れに乗り切れず、その場から滅多に動きません。それでも年月はそれよりも強く、風雨・人や物との接触により、尖った大きい石も少しずつ削られて鋭利さを失っていきます。まあ誰かがまた割ったり研いだりしなければの話ですが。

 上流にいけばいくほどそこにある石は荒々しく、下流に行けば行くほど丸く小さく穏やかになっています。
時に流れに逆らい、流れに身を任せ、気づけば知らないところへ角もなくなってたどり着いている。

私も気がつけば年をとり(40近くなりいわゆるアラフォーです)、若い頃からすれば大分丸くなったなんて言われるのかもしれません。






何かに衝突したり、流されたりすればもっと人間的に丸くなる。つまりは円熟度が増すなら衝突もながされることも(私には)もっと必要だろう・・・

くだらないものは捨ててしまえ

難しい話になります。

仕事だけでなく日常生活や対人関係でも、何かひっかかる。たまになら問題はないのです。いつもであれば大問題というのかもしれません。

私もよくあります。自分の凝り固まった答え・思考・見栄・外聞を知らずに大切にしなくていいのに何よりも大切に扱い、そのために対人関係や仕事にしこりが残るのです。

初めは「相手が悪い。」「どうしてわからないんだ」「おかしいんじゃないか」その原因は常に相手のせいです。

自分と違い出来た方は、相手のせいにすることもしこりが残ることもありません。

よく衝突(口論)や殺伐とした雰囲気になると、誰でも後になればその原因が何かと考えます。相手のせいだけにする人は、その後もずっと原因は相手のままです。

自分自身に原因を求め改善していく、少しずつ衝突は減ります。それでも無くなることはありません。稀にではありませんが、相手が悪すぎるということがあるからです。それでも原因をこちらに求め改善しようと努力する人はいます。その努力も無駄ではありません。やはり衝突が無くなることはありません。

それでも無くならない衝突は、相手が悪すぎることがあるからです。その解決方法がなんだろうかとたずねたことがあります。答えは

「くだらないものは捨ててしまえ」

衝突する双方がくだらないものを捨ててしまえば、衝突はなくなります。これは本当に難しいです。
自分自身(私)からくだらないもの(くだらないプライド・見栄・凝り固まったおかしい答えや考え)を全て捨てさることは、捨てよう捨てようとしているのに、実際は捨て切れていないことばかりです・・・。

私だけでなく相手だって、捨てるのは難しいようです。

捨てようとさえ思っていない場合もあります。捨てるということそのものにも前提があるからです。

「大事なもの」「必要なもの」「普通のもの」「くだらないもの(ここではいらないもの)」その区別をその場に会ってしっかりとできていること。区別すらしておらず、何をどうしてよいかわからない場合には「捨ててしまえ」ということは通じないようです。

自分の中にあるものを他人からの視点で区別できていれば、衝突は格段に減ります。自身の中にあるものと目前の方の中にあるものを把握できているからです。

くらだないものを捨てることが出来れば、大抵の人は素直になります。

男性でも女性でも素直であれば、綺麗です。物事に取り組むことに素直、相手の意見に対して素直、捨てるというのは素直になるといってもよいかもしれません。

「くだらないものは捨ててしまえ」

誰かと衝突が有るとき(私には)本当に必要な言葉です。

贈り物

 6月第3日曜日、所謂「父の日」です。
私の三人(実質上の二人下の子は小さくてまだ難しいことは考えれません。)の息子、「母の日」にはもらったお小遣いをためて、プレゼントをしていました。

私は特に男だからでしょうか、自分自身にとっての記念日には無頓着、嫁は女性ですから正反対の思いをもっているようです。

子供達は私に何かプレゼントをしようとしていました。父の日の何日か前に

「お父さんって好きなものとか欲しい物って何」

答えは

「子供達が良い子だったら他は何も要らないよ」

望む答えとは違うようです。(意地悪な私です。)

当日、

「父の日おめでとう」

そういって子供達はお酒(焼酎)をくれました。もらったらすぐに半分くらいのみました。次の日子供達に

「もうお父さんは半分くらい飲んだよ、これだとすぐなくなるなあ」

次男坊はそれを見て

「もっと大きなのか、もう一本買えばよかった。」

私にはその気持だけで十分です。ラッピングもお酒にしてありました。しかもお手製です。字は嫁の字でした。どうもラッピングも嫁が一人でしたみたいです。こっそり聞いてみたら

「もうあの子たちお小遣いが無くなってて、何かを買うお金がもうなかったのよ、だから私が出したんだけど」

あー、お小遣い誰かにもらったら直ぐ没収されそうだな・・・、まあいいけど


誰が決めたか知らないです。父の日や母の日などの記念日、忘れやすい私には有難いです。今宵もいただいたお酒を飲みながら、何かをここへ記すのです。


まかせる

物事をとりおこなう。一人でなければ、つまりは誰かがそばにいればその人が何もしていないのであればその方へやらなければいけないことを「まかせる」こともあります。

特にそばの方が気にならないのであれば、何もまかせなくてもよいでしょう。信頼できなければまかせなくてもよいでしょう。どの程度まで出来るかを判断したければまかせることもよいでしょう。今まで任せたけれども話にならないことがおおければまかせられないことだってあるでしょう。

中には関係なく面倒見がよい人もいます。心配しておぼえてもらうために、把握してもらうために、暇にしないために、存在する意義を周囲にあらわすために任せる人もいます。

何かを自分一人で全て行えるのであれば、自分だけでやるのも悪くはないです。何事も思うようにいきます。結果悪いことが出てきたとしても原因は自分にしか求めることができませんから、誰かのせいにできないとあきらめもつくし、改善も簡単です。

誰かが困らないように、仕事などを任せる。まかせられた方が周囲の期待に応えられるような結果を常に態度や行動で示すことができれば、まかせた人とまかされた人双方が輝きを放ちます。

まかせた人が周囲の望むことへ届いてない場合、まかせた人まで恨まれたり、挙句は「あんな人にまかせるな」などのきつい態度や時には言葉だって出てくることがあります。その場合は両者が輝くどころか光を失っています。

この両者が光を失っている状態が続けば、周囲から厳しい言葉が飛び出してきます。(まかされたことを周囲が納得できないといった時間が長い状態が続けば・・・)

「そもそもまかされる前に、何故自分で何をやらなければいけないかを探そうとしないのか・・・」

「やる気がないとしかいいようがない、一体その場に存在する意味があるのか・・・」

「自分の行動や存在、まかされていることの大事さを全く考えていない上に行動も伴っていない・・・」

「スタートからおかしい・・・」

「誰かに何かを言われてからでは遅すぎる・・・」

誰かに何かをまかされるとは、その真価がとわれるときでしょう。その真価とはまかされたことだけでなく自身の程度や存在意義も含まれています。段取りや任せた人だって影響を受けます。

自己満足だけしかせず、周囲が望むことを一切考慮に入れていない・・・

「やってます。」そう発言する方に限って周囲のことも自身のこともできてもいない、やれてもいない・・・

できた方ならば、「気をつけます。」自身が完璧ではないことを把握しているからこそそのような言葉とともにまた前に進んでいきます。

「仕事をまかせる。」私は安易に仕事をまかせることが多いです。

まかせたことが周囲の期待に応えられていれば、何もしていない私だって褒められます。やるのは私ではないのに面白い話です。

まかせたことが周囲の期待に全く答えられていない場合、またそのことに本人が全く気がついていない場合、私までというか私が悪くなることがあります。やるのは私ではないのに・・・

全てまかせることが嫌になった時期があります。自分一人で仕事を抱え込んで1から10まで行う。またおかしなことがでてきます。

「誰かに任せたらいいのに」

「ずっと任せてもダメだったから自分一人でやっているんじゃないですか」なんて仕事では言えないことが誰でもあるでしょう。

「まかせるべきか、まかせないべきか」


まかせたことをしっかりとやるのは一体誰なのか、まかされるまえにやるべきことを何故みつけようとしないのか・・・

はじめから壁をつくる

 仕事をするにも一人だけで仕事をするのであれば思うようにできます。まあこの場合の思うようにというのは世の中が思うようにいかないことが多いことを理解しているなかで自分がその中で思うようにする。
非限定の中の限定された中の非限定とでもいうのかな・・・

 仕事を二人以上で行うのであれば、思うようにできることが減ります。人数が多ければ抑制も増えます。まあ皆が黙ってサポートに徹するくらいのパフォーマンスを出せれば別なんでしょう(私には遥か遠い先です・・・)。

我を出すことが増えれば衝突回数は増えます。当然我をださない、出ない杭は打たれません。サポートに徹するということと、何もしないということが違うのは誰でも知っています。

我を出し衝突することは、成長したいのであれば避けて通ることはできません。嫌われたり衝突をすることをさけたり、悪いことではなく良い方向での意見のぶつかり合い、乗り越えれば何かが変わることは多いです。

その衝突、特に悪いことが続く、それが特定の人物であった場合、避けるようになります。つまりは接点を減らそうとします。誰もが感じないくらいに減らすのであれば問題にならないです。誰が見ても避けていると一目瞭然であれば問題がでてきます。

何か事がある度に壁を作ります。

誰かが「その人と一緒にしたらいい。」と助言しても壁がある場合は聞く耳を持とうとしません。何かを口実に避けようとします。

その状態を「はじめから壁をつくる。」と言うのでしょう。

物事は一人より二人、二人より三人です。新しく家族になり避けても通れぬ道ならばなおのことです。

「はじめから壁を作る必要はない。」

壁を作り、何かのせいにして、言い訳をし、自分は一生懸命すでに我慢している、そのように自分と周囲に言い聞かせて、この広い世界にいる誰でもない自分が必要のない壁をつくりつづけて現実から目を背ける・・・。

最近注意されたこの言葉、私には痛い言葉です。

はじめから壁を作るとは、被害妄想にとらわれ、何かのせいにして、言い訳をしつづけている。別に他でそれを補うことに精一杯努力している人ならば問題ないでしょう。

他に何も精一杯努力することなく誰かや何かのせいにして、自分が悪くないと言い続けて物事が好転し、自身が成長するのならそれでもいいでしょう。



私は、はじめから壁を無くしていくよう努力して行きたいです。


あの人が怒るのだったら

 私は私の上司のことを尊敬しています。
理由はいくつもあります。代表的な理由の一つに、その上司は私を12年間(入社して以来これまで)怒ったことがありません。

当然私は不出来なところは多いです。つまりは仕事の失敗もあり、何か頼まれごとでも忘れる時もあります。それでもあの人は私に怒ることは今までありません。むしろいつだって年も親子以上に離れていますが私に優しく感謝をしています。

よく小さいことで不機嫌になったり、怒ったりする私とは正反対です。

怒られて気がつくこともあります。怒られて落ち込むこともあります。怒られて発奮材料となることもあります。(コンチクショー見ておれ、などもその代表的なものかもしれません。)
私の乏しい頭では、怒られたり注意されないと気が付かない。お恥ずかしい話そのように思うことがほとんどでした。

最近は怒られないことや、注意されないこと、黙っていること、それでも気づくこともある。そのような認識も出てくるようになりました。

私の上司は恐らくこれからも私に怒ることはないでしょう。私と上司の12年という月日はそれを証明できる根拠位にはなると考えています。

きつい言葉でしか表現できない私の、本当に対極を生きている方です・・・。

仕事で来られた方が私にこう話してくれました。その話してくれた方は私より上司と時折ではありますが付き合いが長いです。日々一緒にいる私のほうが、過ごす時間は長くなるのでしょうけれど

「私はあの人(上司)を尊敬しています。」

(私だってそれは同感です。)

その後様々なことで盛り上がり、部屋を出る際に

「あの人(私の上司)が怒るのだったら、相手が悪い。私はそう思いますよ。」

そう言い残していかれました。


その後、私はその言葉の響きにしばらく打ちのめされました・・・。


その方と私の上司は20年位は付き合いがあるでしょうか、言葉に根拠がありました。大したことでは普段はおこらない、その他人間的大きさを感じさせる言葉です。


「あの人が怒るのだったら、相手が悪い。」

何時も負けず嫌いな私には不相応だと言われたり思われたりしても、これから触れ合う方にそう心から言ってもらえるような生き方をしたい・・・




本当に重く響く言葉でした。


蛍光色

現在生活している場所へ来て12年位たちます。幼少を長崎で育ちいつの間にか徳島へ来ていた私は、今住む場所のどこに何の店があるのか、どこに病院があるのか、どこに公園があるのか、その他様々なことで迷っていました。

行き先を知らない人の行動範囲なんて、たかが知れています。道に迷いこんだり、誰かに用事をたのまれたり、公的な用事で行かなければいけない、仕事で動かねばいけない、何かや誰かの関わりで動く幅や見る世界が広がることは誰にでも共通しているように思います。

私にとっては偶然ですが六月前後に蛍(ホタル)の宣伝がありました。新しい場所へ来て生活に慣れかかった私は蛍の名所をおとずれることにしました。初めて訪れたのは十年前でしょうか

山と川しかないような印象をうけた美郷、街頭もない真っ暗な谷間の川沿いに沢山のホタル見物客がいました。
幻想的な光を放ちながら闇夜を舞うホタル、ふと幼少に実家のすぐ下の畑や山へ続くで細道で一つ上の兄と見たホタルを思い出しました。

「あのホタルより光が一回り大きい。」それが美郷のホタルの第一印象でした。

美郷に住むホタルはゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタル、オバボタル、オオマドボタルの5種類だそうです。どうも私が郷里でみたホタルとは違うように思います。一体郷里のホタルがなんの種類か今度ホタルの時期に帰省できれば調べたいところです・・・。

川沿いに数えれるだけで30匹以上のホタルがあざやかなグリーンの蛍光色を点滅させソラを舞っています。しばらくの時をホタルに奪われ、嫁も大満足のようでした。

あれから何回か子供が生まれホタルを認識できるようになるたびに訪れています。今回末っ子の「けいくん」(2歳11ヶ月)ホタルがちゃんとわかるか楽しみでした。

現地について真っ暗な川沿いの道からホタルが見えました。沢山いる場所を見つけ

「けいくん、ホタル沢山とんでるよ、みえる?」

「ぴかぴかしとるねー」(淡いライトグリーンの光を見て興奮しています。)

私は肩車をして、川に身を乗り出して「けいくんあっちにいっぱいいるよ」そう興奮して言いました。

「(川に)ボチャンと落ちるよー」

冷静に危ないから少し下がってと注意を受けました。ホタルも楽しめるし、危ないこともしっかり認識しています。

帰りの車での道中、一番上の子供が

「蚊にたくさんかまれたー、かゆい。」

嫁があやまっています。虫除け持ってきてたのにするの忘れてたごめんなさいね。
まあでも今ならホタルがよってこないとこまるし、虫除けはしないほうがいいだろうと思います。成分がどうとかいうのではなく、「虫除け」ホタルだって虫なんだから、折角見に行ってるのによけられてもね・・・

運良く、私と嫁とけいくんは長袖長ズボンだったためにほとんど蚊におそわれませんでした。半袖半ズボンの上の子と真ん中っ子は蚊に栄養をたくさんあたえて帰ってきたホタル見物でした。

「また来年も行こう」



嫁は私にボソッと

「忘れていかないことがあるから・・・」

相変わらず愚かな私は忘れないためにここへ、何かを記すのです。


感情を表に出しすぎるのではなく、抑えて暴走させずにコントロールして物事を行うこと。
「あの人はクールだよね」なんて言われることもあるかもしれません。

大きいことに向かわねばいけない、そのような時全てのものを焼き切るくらいの熱量が欲しい・・・、そんなことを知らないうちに相手に望む時が(望みすぎている時だって)あります。

(他の誰でもない)私のいけないところです。

圧倒的な熱量で焼き切ってしまう、自動車などで言えばオーバーヒートするまで力を出せなどのような偏りの有りすぎる言葉です。

長く時間を過ごす人が、いつもやる気を出しているように見えない。その場合に一つの比喩として前のめりに倒れるくらいたまには力を出せなんてことを思うことがあります。

本人からすれば私は一生懸命限界まで力を出している。なんて言われたってどう見てもそのように思えないことばかりであれば、熱が欲しいと望みます。その熱とは熱意のことになるのでしょう。

いつも個人差ですからとこう見えてもしっかりやっているんです(熱意はあるんです)。一生懸命しています、本人がいくら言葉を並べても、実際は常の行動を見ている人が(客観的に)判断するということは世間でも重要視されています。

感情を表に出さず、芯のある言動が多ければしっかりした人でしょう。感情を抑えて発言行動できる人であればわりと大人です。つまり中身があるために感情を抑えていけます。

中身がまだ足りていないときは、芯のある言動は出てきにくい。


「中身が足りてないことを何によって補うのか」



私はその答えとして、圧倒的熱量を欲しくなることがあります。
その人の経験・実績・年数などが始めたばかりで求めてもない時に何に満足するのか。

「熱くならずにクールになれ」

順序として、まず熱くなることから来てるとしか思えないだけです。



ピエロ

 道化とは人を笑わせるおどけた言語・動作。またそれをする者(広辞苑)とあります。

好意をよせる異性に(結果的に)もてあそばれた(故意にされても、偶然そうなったとしても・・・)。

「とんだ道化師(ピエロ)にしたてあげられました・・・」

などの言葉だって出てくることがあるでしょう。まあ私もそのようなことが様々なことに(自慢できないことなんですが)人に負けなくらい沢山あります。

狙ってもないのに周囲からの笑いをとる。皆が幸せになれるのならそれも悪くないと思える人もいます。お笑いの芸人からすれば狙ってないのに笑いをとってしまえば嫉妬の対象に入りそうです。

なかなか笑われて平静を保つことは(私には特に)難しいです。

「開き直る」ことが問題になります。自分の特性を把握した上で開き直る。「開き直る」ことに大まかに「良い開き直り」・「悪い開き直り」の二つがあります。

自分のことが何一つわかっていないのに、悪いことや笑われたりすれば、直そうとも努力せず欠点なども認めようともしないのに、急に態度を変え相手を非難することばかり、挙句は陰で笑われてしまう。その場合は道化ではなくただの笑いものです・・・。


悪いことも認め、直さねばならないことも理解し、自身の欠点を笑いに変える。

「貴方は面白い人」

そう呼ばれることが多くなるように思います。

「笑われる」こと、「笑顔にする」こと、どちらも笑うことが同様に出現しています。自分が心から納得して笑うことが周囲に出てきているなら、問題がないように思います。

怒ることは、怒り心頭などの言葉があるように続けば疲れます・・・。

泣くことだって続けば疲れます・・・。

哀しむことも続きすぎれば心身ともに疲弊していきます・・・・。

笑うことが続けば、腹筋が痛いくらいに笑えば「もうやめてくれー」となりますが実際はやめて欲しくないとも思えます。笑いは日々多ければ何かの活力になることがあります。

問題がありすぎる人は、心から笑えないことが多くなります。

自分にとっての道化師(ピエロ)が側にいれば、心はゆたかに過ごせるでしょう。





私があの人にとってのピエロであれば、心から笑う時間を共に多く過ごせるだろう・・・。

「笑ってよ君のために、笑ってよ僕のために、」

(さだまさし 道化師のソネット歌詞より抜粋)