とむらうこと

 誰かが亡くなる。

この誰かが、誰かなんてことが問題になるのはその当事者ではない人だけです。

ペット(動物・昆虫など凡そ生き物全て、その人が大切だと心から信じる生き物ならなんでもいい)が亡くなって悲しい。亡くなったことにより涙を流す。それは感情を重んじる人間らしい行為です。

コンピューターは人間と比べて何故処理が早いのか、世間の人が知っていることです。
感情がないから、感情に左右されることなく、持っている処理速度に応じて、一切の感情に流されず余分な思慮をはさまず処理を進めていくからです。

コンピューターが感情を考慮に入れれば、人間の諸問題などを解決できる理由はないのです。1+1=2なんて人と人とが出会って二人になる。当たり前のことです。事実は違います。

誰かと誰かが出会う。2以上の存在を発揮できることもあれば、1にもならない存在だってあります。

そのような数値化できないことをコンピューターが正確に世に生きる人達に納得できる答えははじきだせるはずもないです。もしはじき出せるとしたら、世の中人間なんて生きる意味もないです。銀河鉄道999における人間が全てロボットになれば幸せになれる星が有る。それはまやかしだということを原作者だって必死に描き続けている、私はそのように受け取っています。

事実機械がこの世で万能であるなら、人間が生きる意味なんて既に存在していません。

話を元にもどします。

この誰かを弔うこと、自分にとって大事な人だから弔うのです。大事ではない人を人間は弔おうとなんてしません。

自分にとって大切な人、関わりのある人、怨みは有るのだけれども自分に多大なる関わりのある人、だからこそ縁を切りたいのだけれども切れない人・・・・

だから人はとむらうのです。

とむらうことは、言葉を変えれば、「その事実を前にして現状に納得せず(私は)少しでも前へ進みたい。」後退するならば何もしなくていいのです。呆れるくらいに何もしなければいいのです。

人が前に進むと決めた時、少なからず起こる減少は自分に関わる人の目線を少しずつでもいいから獲得することです。その関わりのある人の目線にたって己を省みることです。

自身にとって大切な方が無くなれば、その方へ何かをしてあげたくてもその方の肉体もなく生体反応が返ってくるはずがないです。

その時に人は思うのです。

「何故に生きている時に、私は出来る事をしなかったのか・・・」

亡くなった方の目線に立ち、その目線にたって己を見つめなおすのです。

その目線を獲得すれば、己を客観的目線で見つめ始めます。その亡くなった方が自分にとって影響があればあるほど、「何故私はあの人の気持ちがわからなかったのか・・・、あの方は私のことをこんなに思っていたり心配してくれたり、あの行動の真意は私のためだったのに・・・」

真意は生きている時にしか確かめることができません。死んでからいくら悔やんでもその方は生き返ることなんてありえないのです。



後悔してはじめて、大切なことに気づく



(私は)愚かな生き物です・・・。

とむらうとは、その方の客観的な目線を獲得する凡そ人間にとって必要不可欠な行為です。

この行為(とむらうこと)が多ければ多いほど、その方は複数の他者の目線を獲得します。客観的に複数からの角度を持って、己を見つめるのです。

当然その幅広い視野と客観的に見つめる数が多ければ多いほど、その方人間らしく生きていくのです。

お葬式や法事とは(私からすれば)自身にとって多大なる関係をもつ方の視点や思考などを忘れないために行うために、人間が人間らしく生きていくために必要不可欠なものです。

己を見つめることがなく、つまりは自身の行いを一切省みず、「私はできているから問題ない。」など発言する人が、人間として美しいかなんて世の人に問いを発するまでもありません。

死者に対して、とむらうことが必要かどうか、それは言葉を変えればお葬式などの儀礼が必要かどうかとなっています。

真摯に生きる人ならば、己のこれまでの生き方・成してきたこと・これから先に行うべきこと、それを客観的な目線で確かめる機会が多ければ多いほど有難いはずです。

お葬式や法事や墓参りやお寺参りなどは、客観的な目線を忘れないために(人間が人間らしくあるため)行なってきただけです。その行事の本質を考えず、無駄なものだからいらないから行わないなど発言すれば、その人は人間として何も進歩もなく真摯に生きることもなく、他者から目線を考えないなんてことをこの世界に発言しているだけです。

物事の本質を見ることができるのであれば、とむらうことは絶対に飾りにはなりえません。

飾りとして弔うのであれば、それは必要のないことです。


私はよく考えるのです。

どうでもいいなんて付き合いであれば、その人の死を悲しむことはありません。その人だってこちらが先に死ねばこちらに対して弔うことはないでしょう。できれば私は関わりのあった人に対して心からとむらうということを大事にして行きたいです。つまりは相手に私を心から弔ってもらいたいことも意味しています。

人間関係を密度の濃いものにしたいと思っているのでしょう。

人が人と関わりあうことを、(私は)どうでもいいなんて思いたくはないだけです。



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小さい船ではない

 誰かが困っている。その困っている人が努力も善いこともしていないとしても、出来た方や優しい方はそのようなことに囚われず、困っている方を助けています。

世間一般にいる「あの人は出来た方だ。」出来ていない人を気がつけば助け続けているからそう呼ばれて当然でしょう。

 出来ていない人に限って助けても何の得もないじゃないかなどの言葉や態度を出してしまいます。他にも「私には(何も)関係ないから」などの言葉や態度も同様です。

もっとその行為がひどくなれば、誰よりも関係があるのに「私には全く関係がないから」その言葉は周囲に嘘偽りだけでなく、信じられないや考えられない一緒にいたくないなどの思いをもたらします。

時間を長く共にするかたが、悪いことをしても、家族や大切な人であれば助けたいと願う。そう思う人も多いです。

その人があまり善いことをしていなかった。他人であれば見捨てられる確率は大きいです。身内やその人を大切だと思う人であれば見捨てない確率が高いです。

努力をしていない。善いことをしていない。むしろ悪いことが多い。そのような人を例えれば、重荷になるという言葉があるように、その人は例えれば「重い石」となります。

日の当たる場所へいて欲しいと思っていても悪いことをしていれば難しい話となります。

湖の真ん中に「重い石」を浮かべようとしても、浮かぶことはないのです。たとえ身内やその方の大切な人が一心に念じたとしても、深い湖の底へ沈んでいくだけです。日の当たらない場所へ消えていくのです。

「重い石」をどうやったら湖の上へ浮かばせれるのか(日の当たる場所へ存在したままにできるのか)

そんなことは不可能ではないか

方法があるのです。


重い石を浮かべれる船にのせたらよいのです。その船は何で作られているのかが問題となります。祈りや念じることで船はできないのです。

その船は「善いこと」から作られる船です。

善いことが小さければ、小さい船となり「重い石」を載せればまだ一緒に沈んでしまいます。その方へ自らが成した善いことの功徳を全て向ける。

その沢山の善いことは大きな船となり、そのままでは湖の底へ沈んでしまう「重い石」ですら湖の上(日の当たる場所)へ維持できるのです。

よく泥船は乗ってる人を沈めてしまう。どこかの昔話にあるような話です。泥船は悪いこと出できていることを現実でも使います。

小さな自身の善い行いも集まればいずれは大きなものとなり、その人は自分だけでなく他の誰かまでも浮かすことのできる「船」を(知らずに)持つこととなります。

これが「出来た方が誰かを救うことの出来る理由」の一つだと私は思います。

はじめは誰だって小さい船もありません。






「大切な誰かを共に浮かばせることの出来る船を一日も早く用意したい。」


それは前提として、自分だってそれにより何処でも沈むことのない浮かぶことが(安心)できる船になっているのです。


あきらめない人

 やらなければいけないことを何でも簡単にあきらめて何もしない人、世の中でこのような人に遭遇すればその人をどのような人だと言うのでしょう。

こういう時には反対のことを私は書くことにします。

やらなければいけないこと何にでも絶対に諦めず、努力を怠ることがない人、世の中でそのような人を何というのか、答えは簡単に出てくるように思います。

この「やらなければいけないこと」そう思っているのは、その本人だけです。思いが強く、身体を誰よりも早く強く突き動かすまでの思いになれば、その人は見ている人にとって自然に動いているように見えます。いくら止めても動くのです。

困難なこと皆が諦めて何もしないことを諦めず、努力精進を怠らない人は世の中で天才と呼ばれています。

反対の人であれば、他人がいくらその人自身がやらなければいけないと強く思ったとしても、本人が思わなければどうにもならない(動くことはまったくといってよいほど無いという)ことです。

人間の程度が低ければ低いほど、少しでも困難に出会えばすぐに理由を誰か・周囲・環境・生まれ育った境遇・恵まれないことを理由にして(凡そ原因を自己に向けず外界へ向けるだけしかせず)何一つすることがありません。(何一つは言いすぎでした。不平や不満を沢山言います。不服と取れる態度だってとりつづけます。)

生きていれば、その上記に書いたような両者に出会います。その中間にあたる人だって遭遇します。様々な方に遭遇するのです。

一見何の訳にも立たないことを諦めず努力・精進を怠らない。その人が死ぬまで(死んでからも)結果がでないことだってあります。

努力を開始して初めや途中に結果が出れば時折世に認められることがあります。

仕事・学問・生きることそのものだってあきらめないことが大事です。

わからなくても努力はやめてはいけません。この時わからないことに時間を費やす場合、優先出来る事は先に終わらせて時間を確保してからでないと周囲に疎まれることがあります。大事な問題であれば例外はあります。誰も考えない・行動しないことは、その誰かが自分であるならば誰よりも率先して考え行動せねばいけないことです。

「あきらめない人」私の凝り固まった頭のなかからそのような人は、良い意味での頑固者に似たものかな、なんて思うの時があります。仕事・学問・生き方に対してその人なりのアプローチがあると思うのです。美学だって有ると思います。何かを曲げたら全てがダメになりそうだ。真摯に取り組んでいるならそのような良い頑固者だって必要ではないかと最近は思うのです。

良い意味の必須条件とは、頑固に取り組むことが周囲とその人の双方にとってしあわせになる道だということです。


最近になってようやく調べ物をよくするようになった私、諦めず頑張らなければと思います。その思いと共に

「どうしてもっと早くにこの大事なことに取り掛からなかったんだろう・・・」

思うことと同じ数以上に反省します。

「もっと若いうちに出来れば10代から真剣にやっていれば・・・」

年をとるとはこういうことなのかなと言い訳をしたりします。でもこれからはあきらめないで生きていきたいです。

人より遅すぎるスタートだから、私なりに「何か」を必死に求めて、つまりは「死ぬまであきらめない人」そうであれば幸せではないか





あと20年あきらめずに「何か」を求め続ければどこまでいけるのだろう。


あちらを立てれば

あちらを立てればこちらが立たない。

よくある話です。両方何一つ損なうことなく、物事を進めたいのに・・・、現実は過酷です。両者を立てて無事上手くいくことなど数少ないです(両方たったとしても代わりに第三のものが立たないなら可能でしょう。)。

気がつけば私は無理だと分かっても、「どちらもたてたい。」などと諦めることができていないことが多かったのです。柱などの物や他人であれば見ても簡単なのです。「どちらか諦めればいいんです。」そう他人事の言葉を発して終わりになります。

他人事ではなく自身のことであり大切な両者ならば、いつでも難しい問題にしかなりません。(そもそもどちらか諦めれないから、問題になっているんです・・・)

その両者から「どっちをとるのなんて」さまざまな問題であることです。片方につけばもう片方が、どちらにも属さないともなればそれはそれで問題が、現実に生きる(私)人はよく迷います。迷った時にできた方へ尋ねると

「くだらないプライドは捨てたらいい。」

厳しい答えが返ってきます。

立てたい両者とそれにはさまれる方、立てたい両者のどちらかだけでも、くだらないものを捨てていれば問題はありません。できた方は物事を簡単に察して前へ進めてくれます。

立てたい両者が、くだらないものを捨てきれず意地を張り合う。これもよくある話です。
間にたつ方ができた方なら問題もなくなるでしょう。間にたつ方までくだらないものを捨てきれなければ物事は収束とは反対の方へ向かい続けます。恨み・妬み・誹謗・中傷の種となり残ることになるのです。

何か問題になった時に一番重要なことは、くだらないものを捨てることです。そうすれば両者だけでなく捨てれている方全員がたちます。

まあ人のことより、私が常時捨てるよう誰よりも努力しなければいけません。

(気がつけばどこからか拾ってきて、大事にもっていますから・・・)

「(自身と周囲の方の迷惑になる)くだらないもの(プライドやその他もろもろ)は、すぐ捨てるしかない。」


逆を言えば、

「くだらないものを捨てていなければ、問題しかない(話しにもならないのです)。」

気をつけねば(忘れずに日々を過ごさねば)いけません・・・

目の前にある物の意味

 神社仏閣へのお参りがなんとなく好きだ。こんなことを人前で言っていたら年寄り臭く思われたり、若い人には変わり者だと思われそうです。

人はなぜ神社仏閣へお参りするのでしょう。あまり何も考えずにお参りする場合も多いです。

有名だから寄ってみた。中には何故有名なのだろうかと寺社仏閣の縁起を熱心に調べる人もいますが、縁起には不思議なことが書いてあることが多いです。

神様が現われて有り難いことがあった。観音様(仏様)が現れて有難いことがあった。またはそれに準ずる神仏が人として現れ有難いことがあった。

時に縁起など関係もなく、ただ辛い現実などにより困ったときの神(仏)頼みの為にお参り、そういったことも多いです。

何故なのでしょう。誰と話すでもなく現代社会の喧騒から離れ境内において心静かにお参り・お願いをしてお賽銭を投げ、来た時より何故か満ち足りて帰ってゆく人も多いです。

人によれば沢山の浄財を賽銭箱に投げ入れ(喜捨して)満足しまた来ますといって去る人もいます。
お願いする本人自身がお金を払っているのに、感謝し満ち足りて家路につく場所であり、来た時より安心が増えている場所と言えばよりよいでしょう。

換言すれば大いなるものへ自分(又は家族)が生きていることを感謝・報告・そして歩く道の確認を行う場所である。

確かに人は考えていないようで、いつも何かが良く有りたいと願う生き物です。願いが叶いにくいと思う時、大いなるもの(神仏)と自然に会話をしたくなるのでしょう。私達の努力や生き方を見ていて欲しい。簡単に思いめぐらすことの一つです。

それは「これから私は何があってもその(周囲や自身の清らかな)願いのために頑張りたい。世の中の誰が見ていなくても、私(私のおこないと思い)をずっと見ていて欲しい。」また人は途中報告や結果の報告に何度も参ります。何故なら人は死ぬまで道に終わりはなく生きている限りその道の途中だからです・・・
会社(事業)は天地人の三つが揃わないと成功しない。(天の時・地の利・人の出会いや努力)
また人の完成は智慧・慈悲・勇気の三つが揃って人間の完成が行われ、人間の完成の教えに仏教があります。と言う人がいます。

この二つは本当に難しいです。(和英対照仏教聖典より抜粋)

まず「智慧」これは人間の頭にある知恵をさしません。完成している仏様の「智慧」(絶対的真理そのもの)をさしています。

「慈悲」これは優しさと訳したりしますが、もっとわかりやすく言えば、「慈」は他人の幸福をねがう心であり、「悲」は他人を不幸から救い出す心である(渡辺照宏)。勇気は誰もが思うところのものです。

悪しき方向(間違ったこと)に飛び込むことを勇気とは言わないように、智慧と慈悲を理解し自身にそなわるよう努力し、自身の成すべきことの為に労を厭わないことへ自分自身をその道へ自身の生が尽きるまで投帰すること。これを勇気と呼びます。

その道へ投帰することの方向性が正しいことよりそれたり・立ち止まったり・止めたりするとその人は勇気を持っているとは呼べない状態となります。無理だからと諦めてしまえば良いことは訪れることがないのです。私は開き直ることにしました。心から勇気をもって自分の道へ飛び込む。それでこそ自身の道は切り開かれる。いやそうでなかったらどうにもなるはずもない。時には忘れることもある。
だが、忘れても必ず思い出し、どんなに道がそれてもどのようなアプローチでも必ずまた元の道へもどってみせる。

「何時でも(これまでも・現在も・これからも)目の前に存在すること(存在しており・存在していない)の見せかけに惑わされることのないように本質を見続けていきたい。」


いつか(愚かな私にとって)難しい問題でも継続さえしておればそれが平静の状態になるはずだと信じているのです。




「信じれば必ず手が届く。」

(その道に必死である間、その願いがかなっている・・・)



乾杯

 今日は共に働く人の大事な日です。

平々凡々と(人から見れば)私は生きてきたのだろう。そう言われるかもしれません。

私は私なりに色々ありました。(現在もまだ色々あるのですが・・・)

人生にとって大事なことを決める時は、どんなことを思うのでしょうか。私が嫁と出会って結婚を決めた時の思いは現在においては現在の思いになっており、その時の詳細は覚えていません(12年以上も前だからと言い訳をしておきます。)

ただあの人と一緒になりたい。そう思っていたのは事実です。

二人を反対する双方の両親が嫌になって、「二人で駆け落ちしてでも結婚しよう。」当時二人の合言葉でした。

皆が反対しても必ず一緒になる。二人共その思いだけは共有していました。だから現在も愛しかなく、それ以外のものは(情けない話ですが)ないのです・・・

友人は私とは反対です。それでも同じ思いはあるようです。(あるようですと書いたのはまあ私の心の思いではないから100パーセント理解は出来ないからです。)

駆け落ちは当然しません。まあ双方の家族も私達みたいに反対なんてことはないようです。結婚をする二人はその覚悟の度合いを常に試されています。

「好事魔多し」

魔多しの数だけ二人を試しています。試されても結婚するという結果になっているならば乗り切ったのでしょう。月並みなことしか私は言えません。これから先(結婚してから)は双方の努力次第です。

私が家内と出会い、初めてのデートにでかけた最後に

「(私と)付き合って下さい。」

そう言ったことを昨日のように覚えています。その返事は

「(私は)嫌です。」





(もっと上品な言葉だったのですが、ショックが大きすぎて嫌だと言われたことは覚えています。)

その後(かなりめげました・へこみましたが)即座に私が言ったことは

「私は諦めません。付き合って下さい」




それから二人の付き合いははじまりました・・・。

私と違って嫁は本当に真面目な人でした。私が何時も間違っていても黙ってサポートしてくれました。無駄口の多いお喋りな私と違って余計なことは殆ど言わない寡黙な人です。言葉とは対照的に出来る事を常にしてくれました。

私が愚かな分だけ、あの人は賢かったように思います。現在に至るまで私を影で(光の当たる場所に出ることなく)支え続けてくれています。

その時から12年位、あの人は出会った時から現在も変わりません。常に賢く無口で控えめで出来る事をしています。それに比べ私は・・・

でも、最初からかわらずやっぱりあの人が大好きです。いや現在のほうがむしろもっと大好きです。(子供と嫁の取り合いなんてしょっちゅうです・・・)

話を元に戻します。

今日結婚する私の友人にも同じであってほしいです。

出会って好きだと思える心が長い年数たっても変わらず、いやむしろ増えるような二人であってほしいです。

欲張りな私の願いです。

まあ私の大好きな長渕剛の歌詞にもあるように、


「君(二人)に(辛抱や努力をたくさん乗り越えて数えきれない程の)しあわせあれ」

「 乾 杯 ♪ 」

(結婚式には私は出ないから自宅で私は夜遅くまで飲みあかすのです。)

宗教

 宗教とは難しい言葉です。
(今回はまたその難しい言葉を私の低すぎる段階ですがあえて言葉にしてみるのです。もっともっと先へ進むためには、やはり私の愚かで低すぎる現状を誰よりも認識・思い知らなければいけないのです。)

現代社会で「宗教は最高だよね」なんて言葉を日常で使えば白い目で見る人が多いかもしれません。

まあ、私が信じている宗教は仏教です。心の底から仏教は素晴らしいものだと私は思っています。

宗教かぶれなんて言葉もよく耳にします。他人を不幸にするものは到底宗教と呼べません。そのようなものは偽物ですから宗教にはなりません。

この世に生きる人どなたが聞いても、「それは素晴らしい。」そう思えるものが宗教です。

 仏教とは仏の教えとも読めます。

では仏(ほとけ)とは何かわかれば、私が思うことだってわかるのです。

「慈悲喜捨(じひきしゃ)」この四文字は

「他人の幸福をのぞみ(慈) 他人の不幸を取り除き(悲)その仕事に満足し(喜) とらわれることがない。(捨)」(渡辺照宏)

自分と誰か、この誰かは単数でも複数でもいいです。自分と取り巻く環境(この世界)でもよいのです。一番わかり易いのは自分と恋人で例えます。

恋人が私に対していつも私のしあわせを願い、私の不幸を取り除き(私が困難に出会い重荷を背負っていればそれを取り除き)自分がついている仕事に心から満足し(皆が幸せになるための仕事であれば喜んで実行し笑顔を忘れない)そして自分がこれだけやっているのにわかってくれない・自分を正当に評価されていない・自分本位の考えなどを全て捨て、また目の前の人幸せを願い不幸を取り除き自分の仕事を喜ぶことを行う。

そんなことが一年、二年、五年、十年も続けば誰だって嫌でも気づきます・・・

気づいたならばその方に必ず思うことがあります。

「今まで有難う・・・」

その次に続く言葉は

「貴方がいてくれて、私はしあわせです・・・」

本当におかしな話なのです。

自分のことを入れていないのに、その方はしあわせと共にあり、またはそのような素敵な方は(助けられたり感謝されている人から見れば)誰よりも輝いています。

気がつけば仏様は金色(こんじき)です。あの金色は飾りではなく自分が目前の人のことにひたむきになればその人から見れば誰よりも輝いて見える。金色に見えているのです・・・。

その人だって金色の光を放つ、自分がもし慈悲喜捨を実践出来れば完成までいかなくても実践しようと努力していれば助けられたり感謝されたりしている人から見れば(自分が自分をみていたって)輝いているのです。
あの金色の仏様は自身の完成の姿でもあり、優しい人の姿でもあります。

長い年数いつも優しく助けてくれる人が、輝いていないはずがない・・・

自分だってそうあれば誰よりも輝いて見えます。私の偏りすぎる仏教の解釈の一つです。

他人の素晴らしい行動を感動をする自分、その時感動している自身の心は素晴らしいものに出会えて心が喜び、できればそれにもっともっと近づきたい出来れば一緒(同じ)でありたい・・・

だから人間が感動する時は最も人間らしく、その誰よりも人間らしくあるその人は光り輝いている。

私の偏りのありすぎる言葉より、以前にも引用した文を再度掲載します。

「世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がいる。しかしかかる如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己を離れて存するのではない。その要求は生命其物の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲するものは必ず熱烈なる宗教的欲求を感ぜずにはいられないのである」 (西田幾多郎・善の研究)


真摯に生き宗教と共にあるその人は輝きを放つのです。

それを私はいつも「美しい人」「優しい人」「仏(観音様)のような人」「(本物の)宗教者・僧侶」と書いたり呼んでいるのです。


その人が信じる「宗教はなんでもいい。」優れた仏教者はそう言います。私はそのことが不思議でなりませんでした。

私は縁あって仏教(宗教)にたどりつきました。他人はともかく私はこれこそが最高だなんていう偏りのある思いを捨て切れません。その優れた方の文を読めば読むほど仏教は素晴らしすぎるとしか思えないのに何度も(信じるもの)「宗教はなんでもいい」と書いてあるのです。

「何故にその宗教がなんでもよいのか」

その人が生きてきた道、思想、信じている宗教、辛抱、困難、苦労、数々の体験や思いを持って生きてきた人が仏教と出会えば、その人は更に高次元へ向かい人間的完成へ向かう。
だからその人の信じる「宗教は何でもいい」そうその方は言い続けています。(渡辺照宏)

その意見に納得しかしていないだけであり



「私は仏教を心から愛し(信じ)ているのです。」



お酒

お酒に関して私は子供の頃から良いイメージを持っていませんでした。

私が幼少時代に共に過ごした祖父は勤勉で日々農作業などを一生懸命行っておりました。けれどただ一つだけ欠点がありました。それがお酒です。

お酒(長崎でしたからここでのお酒とは焼酎がメインです。)を飲むのが大好きです。別に酒癖が悪くなくお小遣い程度の金銭の許す範囲であればどこの家庭だって問題になることは少ないはずです。

特に金銭で問題をかけたというよりは、お酒にそんなに強くないのにお酒が大好きで、飲むと人が変わることが問題でした。晩にお酒を飲んでは近所や家族に大声で文句を言いに行くことが止まりませんでした。

まあそんなことがずっと子供の頃続けば、私は知らずにお酒が嫌いでした。

お酒を飲まないおじいさんは私にはいつも優しかったことをはっきりと覚えています。私は三人兄弟の末っ子で世に言うところの「おじいちゃん子」であり、おじいさんが大好きでした。

私の知らないことを毎日たくさん教えてくれるおじいさん。私の狭い世界になにかしらさりげないことでこの世界が広いことを教えてくれていました。食べ物とは何か、農業とは何か、生きる知恵とは何か、暇な時間はどう使ったらよいのか、私と対照的に言葉ではなく日々の実践によっていつも私に示してくれていました。

でも、お酒を飲んで大声で文句を人に言い続けるおじいさんは大嫌いでした。

家族内だけに文句を言うなら、何とでもなります(当事者同士なら何とでもなるなんて家族でも言わないことも多々ありますが・・・)。他所様の所へ文句を言いに行ったり、集会などで大声を出しまくったりすれば迷惑にしかならないこともあります。

そんな酒飲みのおじいさんは嫌いでした。でも、お酒が入っていないときのおじいさんは大好きでした。

大人になり私は、お酒を憎んでいました。お酒があるから人を変えてしまう。実際はただの逆恨みです。

お酒自体は何も悪くありません。時に薬となり、楽しく皆がおれるのならお酒だってありがたい存在です。

ただ家族や周囲を悪く導くものとしか見れず、正しくあつかうことができなければなどのように思う人は「お酒」を憎み恨み続けます。

元来お酒に弱い上に恨んでいた私は、最近までお酒をあまりのんだことはありませんでした。

私の知人友人は、私の恨みを解こうなんてしたことはありません。ただ私の目の前で楽しく私にお酒を飲んで語り合ってくれました。

何年か飲まない私もそれにつられるようになり、最近はお酒を飲むようになりました。(まあそれが良いことかっていうと、あまり良いことじゃなく悪いことなんだけれど・・・)楽しいお酒を飲みたいなんて、若い頃からすれば考えてもいないことを現在は発言している自分がいます。(だからってお酒が強くなったわけじゃなくて、弱いんですけどね)

何でもやりすぎれば問題になることは間違いのないことです。

自身と他者(いつも身近にいる方と取り巻く方)とが楽しく過ごせるのであれば、まあお酒も悪くないかも

(ただし未成年の飲酒は法律により禁止されていますから、大人になってからの数ある楽しみの一つです。)


大人になり世間の人と同様私も結婚しました。結婚してまだ12年です。現在でも(あの人が)大好きです。
それだって大人の楽しみの一つじゃないかな。




あと10年たっても、楽しくお酒を飲め(自他に迷惑をかけないお酒)、あの人が大好きな自分でありたいです。
(目の前の人を心から愛せる自分なら、自分だって本当に愛することができるからです。)


おしつける

 何か話をする。その話の何かは善いことであれば何でもいいです。悪いことを言っていたとしてもその悪いことを少しでも無くしていき善いことへつなげるのであれば、悪い事柄についても話し合う意味は絶対にあります。

ただ、この世界全てを包み込む真理そのものを話したいと願っても(特に私の器では到底)無理です。

何でもかんでも、話は大きくすればいいということもないからです。

私たちがいくら「世界と我は同じだ。」そう発言したとしても、実際は現実に即して生活をしています。真理そのものよりも私たちの生活に必要な形に即した現れ方となることが現実的です。

よく私は凄く私よりの話をします。私が話をしたり文章を書いているのだから、誰よりも私よりなのは当たり前の話だと私も他者も納得しています。実際態度として現れたり、私よりの言葉なのに自身の口から言葉として初めて現れ気がつくということも誰だってある話です。

私よりの話も極端な話になれば、注意を受けることが多くなります。その言葉の一つに

「おしつけすぎるのはいけない。」

「自分にとって善いことが、すべての人にとって善いことではない。」と注意を受けています。

実際、そこを見るように注意しています。他人がこちらのことをよかれと思い、何か教えてくれることはよくあります。そのことは他人の言葉や行動だから自身の態度や言葉よりも理解できやすいのです。

 人間は白紙のような状態で生まれ、他者(赤子であれば身近な親族両親など)によって様々にその白紙へ書きなぐられていく。その書かれていること(束縛)から逃れることを成長と呼ぶ(なんてのはどこかの哲学者が言っています)。逃れる方向が皆にとって善い方向へ行っているならば素晴らしい成長とよび、悪い方向であれば成長とは呼ばずに何と呼ぶのでしょう。退廃か少なくともよい意味の言葉が当てはまるとは思えません。

私は一つの自分なりの善い方向性(と思われる言葉・態度)で他者を書きなぐる。そんなことはあまりないのでしょうが、その人が私より何か足りてなければ私の言葉や行動を参考にするということもありえる話になります。

納得もできない、自分に合わない、そう思う方はそれでいいのです。私が発言・行動するものより「必ず善い方向へ行ってみせる」その思いの分だけ世界(周囲)へ証明したらいいのです。私が悪くなりその人がよくなるのであればその人にとって何も問題がない。こちらのほうが出来てなければ私が問題となるだけです。

何も(自身にとって)よいことを受け取ろうともせず、何一つ考えず、何もしようとしないような人、ただ文句や気に食わないことだけを言うだけ(成長しようとしない)。

よい人・よい考え・よい行い、と出会い自身も努力すると願う。それを「縁があった。」と呼ぶことは多いです。そのために相変わらず(偏り過ぎる)一つのことをわざとおしつける。私の見解が間違いであればすぐ本人は気がつくのです。悪いことであればその反対をすればいい。善いことであればそのようにかさらにその上をいったらいいだけです。大事なことに気がついていないのであれば

「もっと早く出会って(教えてもらって)いれば・・・」

などのように思うことだって人生誰でも有るように思います。私の取るに足らない、書きなぐるような思いは笑われたってどうだっていい。その他者から書きなぐられるものより、自身が素晴らしい行動・思考でもっとよい方向へいってくれたらいいだけです。

他人が書きなぐったキャンパスを自分の色に染め直していく。それは努力精進を持って他者(自分以外の存在)から書きなぐられることを昇華させていくこと。

悪い色に染まれば、触れ合う人や他ならぬ自分自身だって、心から嬉しいことはない・・・。

「おしつけることはよくない、ただ押し付けられて初めて違いに気がつくことだってある。」

気がつくことはその人にとって生きている内早ければ早い段階であればあるほど役に立つ、などといった身勝手な思いを私はいつまでたっても捨てることができていない・・・

その手で

 (善い)考え(が全くといってよいほど)なかった私は、 「無私の私」の対極をなすものです。

目先の楽ばかりにしか目が向かず、善いことが来るなんて根拠もなく信念もないような発言しかしない。(精進を怠り善いこともしていない、結果悪いことばかりになる・・・)

努力もせず、ただ夢見がちなことだけ言う人に、素晴らしく善いことが沢山やってくる。それは本当にしゃぼん玉のような儚い夢を(起きているのに)見続け、それは絶対に壊れることがない。なんて言い続けているだけとしか言われないでしょう・・・。

それはただの一つのありのままの現実であり、一つの真理です。

善いことをせず、努力もせず、偉そうなことだけを言い続け、虚勢を張り続ける人には善いことは訪れることがない。

周囲の人はそう明言しているだけです。

逆であれば問題がないことも発言しています。

「悪いことをせず、起こった悪いことはなくしていき、努力精進をもって、素直・謙虚であり、どのような人にも礼を失わない人には善いことが沢山訪れる。」

「善いこととは何か」

そう質問する人は多いです。その質問は自分にとって善いことが何なのだろうかと確信が持つことが出来ていない状況に出てくる言葉です。

わからない状況において、何もしなければ状況は改善しない。善いことが何かわかれば誰だってそれを行なっている。その善いことなんて人により変わる。状況により変わる。ある人には簡単なことだがある人には難しい。その人の個性によって変わるといってもよい。

思いつかないのであれば、現在の場所において目前の与えられていることに

「誰よりも必死になる。」

考えるより先に動く、それでもやはり迷うだろう。その時は考えるしかない・・・。動きながらでも考えなければ、動くこともない考えれないでは相手にされることがない。必死にやるしかない。

どうしてもわからないのであれば、元に帰り即座に行動(現在の自分にできる善いことを)するしかない。出来ない・わからないのであれば、自分より秀れた人に教えをこうしかない。

何かに真剣に没頭する。

身近な人たちに出来ることを行いつづける。

いったい今やっていることが無駄じゃないかと言われたって、現在の自分に出来る事を真剣に行い続けるしかない。

他人が精一杯努力して他人が素晴らしい「何か」を掴むのではない。

その(自らの)手で、真理を(現段階の答えを)掴み取れ


それがその現状の段階にある私(その人自身)の幸せそのものだろう・・・。


限界は決して他人が作るものではない。常に限界・制限は自分が必ず作ってしまう。自分を悲劇の主人公にする必要も、自分で自分を呪うなんてことは百害あって一利無し、邪魔にしかなることがない。


どんなに善いことを示されたり教えてもらったとしても、その人自身が受け取る気がなく何もしないのならば、その人は成長するはずはない。


見難い(みがたい)

人間は誰でもだと思うのです。(一部例外はあるのかもしれませんがほとんどという意味です。)

目前に人が存在し何かの行動を実行している。その人が自分ではないから、客観的にその人が何を実行したり何を成したのか、そのことが本人ではなく他人であるから見れば(簡単に把握でき)経験と学習を積んでいればなおのことどのようなことを成したのか判断出来ます。

自分よりできている人が何かを(不出来なこちらの)目前で実行する。

何一つ失敗と呼べるものがない、つまり完璧であればケチのつけようもありません。(それに対応する行動は称賛しかないのです。しかし人間が出来てない人ほど称賛もしません。むしろ失敗や欠点を探し続けます。現時点ではなくても過去や未来においてあればそれを頼んでもいないのにだして誇らしげに吹聴します。)

実際はどうでしょうか、何一つ失敗や欠点のない行動しかしない人なんて少ないように思います。(特に私は失敗と欠点ばかりです・・・)

不出来な人に限って、自分よりできている人が失敗をすればよく注意します。

「駄目じゃないですか」
(冷静に考えればその人より自分の方が出来ていないんだからそんなことを言えば周囲は注意している貴方自身がもっと駄目じゃないなんて目で見られます。)

おまけに得意満面で、私が注意してあげたんだから感謝して下さい。なんていう素敵な特典もあることが多いです。

私はよく文章で私のことを愚かで不出来だと書きますが、実際もその通りですからしょうがありません。良い格好したいのですが、時を同じくすればボロが出てしまうから先に言っときます。けれども私より出来ていない人に注意されたらよく腹を立てます(腹をたてたことが数えきれないほどあります)。

最近は余裕があれば少しは考えるようにしています。

注意される事実というものは、こちらが失敗や欠点をしなければ存在出来ないものです。注意されることは私の不出来や未完成を指摘する事実そのもので、それは誰にも動かしようのない事実です。

つまりは悪いことが無くなれば、言われることはありません。だから注意された時には考えてから発言せねばいけないのです。どのような人に言われたしても(腹が立ったとしても)答えは

「(注意してくれて)教えてくれて有難うございます。」となります。

私自身を見たければ、外見であれば鏡や写真を見ればいいだけのことです。

私自身の中身をみたければ、他人のこちらへ対する態度や言葉が鏡となります。いつも身近な方が常に私自身をあらわしています。

「心から悪いことは反省し、少しでもいいから前に行きたいんだ・・・」

身近な人にそう告げ、現在の私はどうなんでしょうかと問いかければ、常に人は真理(あるがままの言葉)を発してくれます。

自分をみたいならば、自分が判断するのではなく長い時間を共にする真摯に生きる方におたずねすることが一番早いです。

その言葉や態度から目を背けるのか、受け止めて前へ行くのか




私は

「キツイ言葉や態度だったとしても受け止め反省し、ほんの少しだけでもいいから前へ進みたい。」

あらぬ方向へ行ってしまったり、現実から逃避・周囲を怨むだけ、ましては止まる・後退しているとしかとれない(何一つしない)なんてのはもう嫌なのです・・・。



内弁慶

「(あの人は本当に)内弁慶だから・・・」なんて言葉を耳にします。

内弁慶の意味を調べれば、家の中ではいばりちらすが、外では意気地のないこと。また、そのさまや、そういう人。陰弁慶。とあります。

あくまで代表的な意味です。上記だけの意味以外にだって使います。

家族にきつい言葉を言う。外の人には言わない。いつも共に過ごす人には偉そうに発言する。いざ大事なことになったら誰より先に(態度も発言も存在も)弱くなる。

それだって内弁慶という言葉であらわされます。

普段の行動は(私の悪いことは内弁慶みたいですからそこからとれば)、心に余裕が無いが故にキツイ言葉をいつも近くにいる人に発してしまう。分かりやすく書けば

偉そうなことをいつも言っているがしっかりしたことを何もできてない。

理論だけで行動がなかなか伴わない。

家族には本当に考えなしに投げやりな言葉や態度を発してしまう。

挙句は身近でお世話になっている人にもきつい言葉や態度をしてしまう。

そのようなことが続けば辛い言葉を言われるのです。

「内弁慶ではだめなんだ・・・。」

もっと辛辣なことだって言われます。

「内(守られている場所や強く出ても何もしない人の前)では、強いが外に出たら(炒めすぎた)もやしみたいだ・・・、ほにゃーとなっとる。」

内弁慶を改善するためには、解決策は一つです。内や外で強い自分を発揮するためには中身がないとだめです(これだと当たり前すぎる答えです。)。

もっと当たり前の答えは、日々の努力・精進それは理論の追求ではなくやはり実践です。

二通りのやりかたがあるようです。

人生の大先輩の方にお聞きした話に

「何もやらんより悪いことでもいいから、とにかくやることだ。そしたら結果善いことをしてたなんてこともあるから」

もう一つは

「悪いことをするくらいなら、何もしないほうがましだ。」


同じタイミングに使う言葉ではないようです。前者の言葉は何かは割りと考えてもいるが行動はしていない時に言われます。後者の言葉は何かしているんだけれども、あまりにも(考えが足りず・行動も足りず)それが悪すぎるから注意をされている。

何も(行動)していない時に言われているか、動き出したけれども(動ここうとしているのにパッと見にも悪すぎて迷惑をかけることが簡単にわかる時に)言われているかの違いでしょうか。

どちら(の言葉)も(私には)必要です。

「内弁慶は何によって無くなるのか」


内弁慶の反対が必要となります。それは「弁慶」です。

換言すれば、言いやすい人だけに強気に出て、肝心要の外ではしょぼんとなる内弁慶は、普段は大人しいけれど、大事なときには誰よりも強い信念を発揮でき、身近にいる人に心から優しい態度で接する「弁慶」によって無くなる。







他人より、私に一番必要かな・・・


私の声がきこえますか?

 「私の言っていることを聞いていますか?」

学生時代に落ち着きがない、目標を決めていない注意力散漫な私がよく指摘された言葉です。
もし、こちらに聞く気がないし努力もしないと決めていても返事は決まっています。

「はい、聞いています。」

その場ではその答えしか存在しません。

「聞いていないです。」

と言おうものなら、問題がでてくる(何倍もその後に説教が続くなどのようなことが起こる)からです。長々と説教を聞いた場合こちらは「耳が痛い」となるのでしょう

大事な問題となってくると違う場所が痛くなっていくのです。

これからの人生について・何を自分の仕事つまりは天職とするか・大事な人生の分岐点に関することについて注意・指摘・助言されることもあるでしょう。

「私の声(言っていること)が聞こえますか?」

その場合にも自分の意にそぐわない場合、聞くきがないとしても返事は決まっています。
「はい聞いています。」やはり「聞いていません。」「聞く気がありません。」では長い長い説教が続くからです。

長い長い説教を聞けば「耳が痛い」「耳にタコができる」まあ同じ意味としてこの場合通用しそうです。言われた人はそうなるのかもしれません。
でも大事なことを伝えたかった人は大事な事を敏感に感じ取っています。「聞いています。」といったが「聞いていない・・・」

後々本人が一番痛い目にあうであろうことを容易に想像が出来てしまい、耳ではなく「胸や心が痛い」と大切な何かを伝えたかった人自身がそうなる時もあります。大事な事を聞いていない本人も良いアドバイスを受けていたのに聞く気がなかった為、痛い思いをした後に、「胸や心が痛い」となります。これは私の過去そのものです。

「聞こえますか?」という問いに対して「聞いています。」

本心からの「聞こえますか?」に対して、「理解しました。私は聞いています。」ならばどうも両者に問題はないようです。

どうも、通常で「私の声が聞こえますか?」と使う時、恋愛や結婚を決める相手と使う事が多いのかもしれません。

相手にこちらの気持ちを確かめる言葉、好きな相手の言葉は、一も二もなく「聞こえます。」「聞いてみせる。」「遠くて聞こえないけれども、必ず聞いてみせる。」皆がいいそうです。この場合はある意味真剣なので本質が伝わっています。
それで結論を出します。「私の言葉を聞いてくれる相手とこれから共に歩いていこう。(生きていこう)」

世の中の誰もが知っているとおり結婚はゴールではないです。

スタートです。最初だけ聞いて後はほとんど真剣に聞かないといった状態が出てくるようでは、離婚率も増加の一途を辿るのは自明の理です。日本という国の現実社会において離婚率が昔に比べどうなっているのかは詳しく調べてみたほうがよさそうです。

話を元に戻しますが、「聞く」とは、どうも言葉だけを「聞く」のではないようです。

大変困った人に、困らないように手助け(つまりは親切に)すると相手は心からの感謝の気持ちとして態度であらわれる時があります。

深く何度も丁寧に頭を下げる方を見れば「有難うございます」と言葉を発していなくても、真摯な態度に「有難う」の言葉を聞くのです。

言葉を発しなくても相手が「涙をぼろぼろと流し、深く頭を下げる姿」を見る時、言葉がないのに「有難う」の言葉を私は聞くのです。

この言葉が出ていないのに言葉を聞くのは、おかしい私だけではないと思うのです。

お経の中に
お釈迦様が悟りを開かれて、真理の命題(悟りの境地)を命尽きるまで説く決心をし、こういわれたのです。

「(誰にせよ)耳あるほどの者たち、それらの者たちに甘露(不死・涅槃)への門は開かれたり。信を発せよ。」津田真一著「反密教学」抜粋

と世界に呼びかけたのです。
この世の真理を獲得した時大いなる喜びに包まれました。しかしお釈迦様はその法の喜びを人へ伝えることはしようとしませんでした。
このまま自分だけが分かったまま死んでいこう最初はそう思ったのです。それは何故か?

獲得した真理を他人に理解させるまたは示す方法が大変困難な道のりになると分かっていたからです。
しかし自分の生が尽きるまで生きている人とこれからの為にお釈迦様は沈黙を破り、法を説き続ける覚悟を持ち、成道後(悟りを開いてから)45年間法を説き続けその45年という年数の生き方・言葉・態度といった様々なことが、お釈迦様の残した真理である「お経」として膨大な量現存しているのです。

お釈迦様の入滅から二千五百年、インドから中国そして日本へ、国境と言葉・時間の壁を問題とせず乗り越え、現代における書物の中またはさまざまな方法によりお釈迦様や弘法大師の教えを通して、この言葉は現在に生きる私に届くのです。

この言葉を目にして(私が)感じることは

「私には聞こえます。私は信を発し続けもっと何かを聞きたいのです。」

どうも私はやはりおかしいみたいです。

聞こえないものが聞こえてそれに信を発し続けたい。

「信を発せよ」この言葉を理解するのに時間がかかりました。「信を発せよ」は他の訳に「古き(過去の)信を捨てよ」ともあります。


勝手な解釈になります。今までの悪い思考・行動を全て捨て去る、つまりは誤った信を捨てること、この世の真理と真理ではないものがあるとすれば誤った見解を捨て去る。間違ったものにとらわれないようにする。

さらに「信を発せよ」の部分をもっと平易な言葉に

「菩提心をおこせ」これはまだ難しすぎます。言葉が足りないように思います。

「周囲と自分が安心して歩んでいくことのできる方法に目を向け歩みを進めなさい。」まだ足りないように思います。

「心から安心信頼できる道(仕事や生き方)であり、さらに他人が心から認めてくれる道(仕事や人生へ生きている限り身を投じる。」まだ足りないような気がします。

「この世界で自分が生きていいと心の底から実感することのできる根拠そのもの、そして周囲がそのような貴方ならいつまでもいてほしいと思わせる生き方であり根拠、皆が自然に心の奥底から願う生き方(根拠そのもの)を私はそれを聞きたい(その思いを発し続けていきたい)」

乏しい頭から出てくる解釈はこの程度であり、その程度のことをそうに違いないと勝手に信じ込みそれを求めつつけて生きたいと勘違いをしている私はただの愚か者でしょう。



通常でも表面上の言葉を素直に聞いて怒られる場合もあります。

聞こえない言葉を聞き実践し、それが私達の願いそのものだといってくれる場合もあります。
どうも「聞く」とは私にとって大変に難しいことです。私にもなんとなくわかることがあります。

「心から(あなた)の言葉を聞きたい。その言葉を私は信じます(いつも待っています)。」

お互いが良くなることが出来るのなら、これは悪い言葉ではない、何よりも善い言葉であるように思うのです。



年齢と比例しない

若いのにできた方がいます。いくら長老だからといっても出来ていない長老だっているのだから、当然といえば当然なんでしょうけど、長老なのに出来ていないなんて納得できにくい現実となります。

年若く出来た方は、当然今やれることをやろう。即座に動いています。止まるのは休憩ではなく、身体に必要最低限なことの時間だけです。つまりは止まっているようには見えません。

それにくらべれば私はどうなんだろう。そのように考えることがあります。日々「何か」を求めようとしているだけです。

私は他者にとって何か善いことををしているのかなんてことも考えますが、結局よくわかりません。

(自身こそが)出来てもいないのに偉そうなことを発言したり書いているだけかもしれない・・・

ただ私は誰よりも私なりでありたいと思います。目の前に一生懸命な方がいれば、その方にまけたくない。自分にできることを・・・、気がつけばそのように思っています。

 仕事は日々机に向かい所謂事務仕事がほとんどです。建物の外へ出ることはあまりありません。仕事場か家の中ばかりです。

人より外出は極端に少ない方でしょう。もっと仕事が忙しくなれば家へは寝に帰るだけのようになります。その中で狭い一部屋(職場でも家でも)で私は世界(自分)を変えたいと願っています。

(私の)努力や行いが通じれば、私を取り巻く世界に何らかの変化が生じます。時折私は世界の何らかの変化を感じ取り(嬉しくて)涙することがあります。

そのような時、愚かな私は思うのです。

「場所は関係ない・・・。もっともっと私が若い時に気づいていれば、自分の行いを誰かが感じ取り動いてくれた時、私は涙するほどに感動することがある。20年早く気づいていれば・・・・」

絶対にかなうことのない愚かすぎる願いです。

叶えば私だって「若くて出来た方」そう呼ばれる・・・。

私は日々「何か」を書き続ける理由の一つです。私は駄目だったから若い人に一日も早く私のようにならないように気づいてほしい・・・。遥か先へ、高みへ若いうちにいってもらいたい。

ただの本当の愚か者の若者と呼べなくなっている私なのです。



言えない

 他人においそれと言えないことなどは、誰でも生きていればその期間が長くなればなるほどあります。

「私は一切の隠し事が無い。」

なんて何時だって言いたいです。現実は関係を気まずくしたり仕事を失ったり立場が悪くなったり笑いものにされたりすることを考えた瞬間に、隠し事なんて山ほどになってしまうことが多い相変わらず不出来な私です。

正直に言えれば問題が無くなるのではないか、など思う事柄は日々無数存在しています。
こちらにもプライドと呼ばれるものがあれば(そんなもの無いほうがいいんですけど・・・)相手にだってプライドがあります。

傷つけあうのが怖くて言えない。実際は痛い目にあわなければ前になんて進めないんだけれど、矛盾しているようで矛盾していないことなのですが、私には難しいです。

地位・肩書き・名誉・お金・上司や部下といった関係などは、本当のことを話したい時に邪魔になります。

そんなものがなければ、親しい友人などはそんな関係で成り立っていないので、何でも腹を割って話せるから楽です。お互い好きなこと言い放題なんて関係が私には理想です。

夫婦だって悪いことを言い合える関係が(私には)理想ですから、日々善いことを言い合うのではなく悪いことを普通に言えるような関係でいたい。そう私は願って行動しているつもりです。(私はそうしているつもりでも、嫁がどう思っているかどう願っているか全てを理解することは難しいのです・・・。)

何時でも、誰とでも、どのような場所でも、どのような関係でも、思ったことを言っても全く問題にならない人間でありたいと願っています。その思いとは裏腹に私の言葉や行動は全くついてきていない現状です。

結果

「言いたいのに全てを言えない(私)を出現させ続けています。」

情けない話です。

何時も変わらぬことを書きますが、私はそれもあきらめてはいません。いつしか努力していれば誰の前でも思ったことを言いたい放題であったとしても、誰の迷惑もかけない。むしろ皆が歓迎する自分を願っています。

それこそが「自然な私」

言いたいことを言ったとしても何の問題にもならない(私)、言葉や態度が正しいものとなり一切の憂いを生じさせない。

想像しただけで楽しいです。それならば努力してもいいかな、なんて思うのです。



てんとう虫2

 てんとう虫(ナミテントウ)が孵化して2・3日くらい経つと、黒い胡麻くらいの大きさの幼虫が何匹もいました。
( 1と2続きの記事になります。てんとう虫1見たい方はクリックでとべます。)

低い木にアブラムシ(アリマキ)はざっと見ただけで、各枝の先にびっしり住み着いています。バラの各枝の先端、肝心のビワの木も合わせれば2千匹くらい住み着いているんじゃないか・・・(正確に数えてないから大体の数なんだけどね)

まあじっくりアブラムシの住み着いてるところを見ていたら多すぎて鳥肌が立ちそうです。

何日かの間にナミテントウの卵、数カ所すべて孵化したようです。黄色い可愛らしい卵はもうどこにも見えません。

代わりに出現したちっとも可愛らしくなく(卵からみてなかったら絶対テントウムシの幼虫だなんて思えません。)、木に近づき目を凝らせば黒く小さな幼虫が動いているのが見えます。朝型や夕方は動きが鈍く、気温に比例して動きが活発です。朝出勤前に幼虫がアブラムシを捕食しているところを見たいのですが、動きがありません。仕事終わり夕方5時過ぎにはまだ最近は気温も高く動きが活発です。

段々と黒ゴマのカスみたいなものが点在しています。「これは一体なんだろう。」はじめそれはわかりませんでした。日々の観察により黒く小さい幼虫は少し大きくなっています。一回り大きくなっただけでなく背中に少しだけオレンジ色があらわれています。

懲りずに日々眺めていました。以前みた孵化したばかりの黒ゴマくらいの真っ黒の幼虫から一回り大きくなり、その背中には少しオレンジ色が入った幼虫となり、さらにその一回り大きくなり脱皮ごとに背中のオレンジも増えています。

それでもまだ大きさは成虫(ナミテントウ)の大きさよりは少し小さいです。

まだ懲りずに朝と晩(休日には昼ごろにも)ながめていました。(一日中ずっと眺めていたわけではないですよ・・・、けいくんの散歩ついでに眺めているだけです。)

背中のオレンジ色が増えた幼虫、つまりは二回脱皮をしたことが眺め続けた事によりわかりました。あの黒ゴマのカスのようなものは彼らの脱皮の後に残ったものです。(まあ知っている人は書かなくてもわかるだろうけれど、私はそこまでナミテントウを詳しく観察したことがなかったですから)

しばらくすると、さらに大きくなって背中のオレンジももっと大きくなった幼虫が何匹も現れました。第三回目の脱皮が終わったようです。この頃になれば成虫より縦に長くおおきいです。

動きも活発で、早く見た目もかなり怖いです。どうも背中のオレンジ色は自分を捕食されないように毒々しい鮮やかな蛍光オレンジ色です。テントウムシが鮮やかな黄色や赤色と同じ理屈のようです。食べたら苦いしおいしくないということを色で警告しているようです。

確かテントウムシの大好きな「けいくん」の為に何冊か借りたテントウムシの本に、成虫になるまでにアブラムシ(アリマキ)を300匹位食べるとか書いてありました。そんなに食べるのかなんて嘘っぽくおもえたので正確な数は忘れました・・・。

実際にナミテントウが沢山孵化し、脱皮を繰り返したことを見れましたから、20匹以上いる幼虫たちは、一匹につきアブラムシを200食べたとして(正確には葉ダニや小さい青虫なども食べ尽くしていました。)200×20としても見えただけでも4000匹位のアブラムシを駆除しています。

当初アブラムシが大量に取り付いていた低い木にアブラムシは私の肉眼で一匹も見つけることが出来ないくらいに食べ尽くしていました。
食べ物がなくなったナミテントウは隣接する高いバラの木にも何匹か移動し、バラの木のアブラムシを7割くらいは食べ尽くしています。

ここにきて当初の目的、子供達が知り合いからもらって食べた美味しかったビワから種をとって、それを種から育てた大事な小さいビワの木を見てみました。

ビワの木に取り憑いてた葉ダニ・アブラムシの類・その他の害虫も一匹残らず食べ尽くしてナミテントウは食べ物が無くなり困っているようです。

少し離れた背の低いバラには、まだアブラムシがいるようです。子供達がカラスノエンドウを庭に種を昔巻いていました。

私がエンドウで草笛を吹いて子供の頃遊んでいたことを教えたら、取りに行くのが面倒なので庭に種をまいてから、毎年勝手に出てきます・・・。

カラスノエンドウにもびっしりアブラムシがいますからたまに幼虫の近くにアブラムシを落としてみると大きい三回の脱皮した幼虫は直ぐ食べていました。

次あたりはおそらく蛹になるでしょう。

蛹の次は、待ちに待ったナミテントウの成虫です。何匹みれるのかな、なんてワクワクしながら「けいくん」と共に幼虫を毎日眺めています。

肝心のビワの木、ナミテントウの幼虫のお陰で葉ダニなどすべていなくなりました。私(人間)の視点では守って欲しいものに取りつく虫が害虫で駆除してくれる虫を益虫と呼ぶのでしょう。

時折ニジュウヤホシテントウみたいに農作物を食い荒らす場合は、私も小さい頃農作物に取り付いていたそのテントウムシを憎んでいました。本当に私は勝手なものです。

今回はナミテントウに感謝していますが、アブラムシ・小さい青虫・葉ダニはすべて食べられてしまった事実は、色々考えさせられました。

特に私は手をだしていないから(少し出したけど)、虫達が勝手にやっているだけなんだけれど、今回はナミテントウが沢山きたために全ての虫を食べ尽くしていました。
前借りた本にテントウムシを食べる虫なども居ると書いていたのでナミテントウが最強なんてわけではないです。



いつもの私的結論

ビワの木を害虫駆除しないとと思っていたんだけれど、ナミテントウが知らぬ間にやってきて毎日観察し(忘れ)ていたら、害虫は全くいなくなりましたとさ。

結果オーライ!!


今日の夕方にテントウムシの蛹を4匹だけ確認することができました。幼虫は10匹ほど目視できます。
10匹くらいは成虫になるのかな、なんて家内と予想をしていました。

成虫の結果報告は気が向けばどこかの記事のついでに記します。
(てんとう虫3とかもうあれだしね・・・・)



チョコレート

 「1kgのチョコレート」今までの私には無縁の物体でした。

最近お酒をたしなむようになった私は仕事が終わり晩酌をしていました。お酒(最近の私の流行りは焼酎です。少し前はウイスキーでした。だからといってお酒には強いわけではなく弱いです・・・)を見ると残りが少なくなっていました。

「むー、これはいけない。お酒がないと仕事が終わってやってられなくなる。(心の声です。)」

家内に

「今日ドライブしない?(嫁はドライブが大好きです。私がほとんど出かけないせいもあります。まあ今回は既にお酒を飲んでいるから運転ができない。ドライブはついででお酒を買いに行きたいだけとも言います。)」

「あら、珍しいこと言うわねー(嬉しそうです。)どこいくの」

「(近所の)酒屋さん」

嬉しい顔がちょっと険しい顔になっています。(どうやらドライブが口実で、私がお酒を飲んでいるから運転ができないためにお酒を買うための運転手になって欲しいということが即座にばれています。)

「いいわよ」(口実を納得した上で、喜んで付き合ってくれるみたいです。)

私は声に出していいませんけれども、そんな家内が大好きです。

酒屋についたら、沢山のお酒の中からお酒(一本の焼酎一升瓶を選びました。)この焼酎は美味しそうなんじゃないか(飲んだこと無いんだから確信なんてないんですけれども、何故か確信があって購入しようとしています。)

連れてきてもらった嫁の喜びそうなお菓子と子供達が喜びそうなお菓子をおつまみのついでに選びました。

嫁に「これも買っとくよ」見せたら、喜んでいます。

他愛もないことが私には幸せだと実感できるのです。(人に比べればなんてことはないんでしょうけど)

嫁が私にレジを通す前に

「ちょっといい?」

「なに?」

「これこれ」

とある商品の陳列されているところへ連れて行かれました。嫁は1kgの外国製のチョコレートを目を輝かせて指さしています。

ネスレの外国製のチョコレート1kgが割引(590円)で売っています。(冷静に考えればですよ、買ってみてからしか気づかなかったんですけれど詳細は後に書きます。)

「買ったらいいじゃない、子供ら喜ぶんじゃない。1kgのチョコレートなんて滅多にみれんでしょう。」

嬉しそうに買っています。


翌日、子供達に

「晩御飯を食べたらいいものがあるよ」

「なになにお父さん」

「1kgのチョコレートだよ、(外国製だけどね・・・)」

普通の板チョコの何十倍かあります。

100円の板チョコの1ブロックと1kgのチョコレートの1ブロック、同じ1ブロックでも大きさがどれくらい違うかと言えば、1kgのチョコレートの1ブロックは100円のチョコレート一枚分くらいあります。(正確には100円前後の日本製板チョコは55gくらいです。まあ板チョコ18枚分くらいですかね)

子供達、長男坊と次男坊は声を揃えて

「でかー」

嬉しそうにかぶりついていました。

食べてみましたが、日本のチョコレートより味が少しばかりよろしくないです。(やっぱり日本人には日本のチョコレートだな・・・、なんて贅沢なことを私と嫁は目を見合わせ心の中で思っていました。)

長男坊と次男坊は、大きすぎるチョコレートにかじりつく醍醐味がよかったのか

「父さん美味しいよこれ」

まあ二人共がそう言ってかじりついていました。(顔の周りがだいぶチョコで汚れてたけど、可愛らしくていいです。)

下の子けいくんも、顔をチョコレートで汚しながら一生懸命食べていました。まだ言葉ではなく態度で美味しいよということがうかがえます。

嫁も楽しいもの見つけたな。

味が良くなくたって、皆が楽しい思いになるなら、それも良い思い出です。(私の中ではそうなっています。ただ嫁と子供達が全く同じ事になっているかなんてそこまではわからないことです。)




そんなことを思う夜もあるのです。

立ち上がる時

 若い(特に男の)人が無鉄砲とよばれることはよくある話です。(まあ人のことを言えないくらいに、考えなしの発言を過去に続けた私は、人から見ればただの無鉄砲だったと言われるそのものです・・・)

簡単にいえば、無鉄砲などと呼ばれる行動や言葉はタイミングや方法・考えなどが間違っています。

正しいことを行っているつもりなのに、その方法や行動が間違っている。

正しいことを発言しているつもりなのに、現実は誰よりも愚かなことを言い続けている。

本当は正しいことをしたいのに、ついひねくれてしまい(素直にできずに)本当の思いとは裏腹な行動をしてしまっている。

上記のことよりもっとたちの悪いことがあります。それはただ

「私は(悪いのに)間違っていない。」

と常に発言します。他の言葉でも幾つかあります。それは「出来てもいないのにできている」・「偉くないのに偉そうに振る舞う」・「間違っているのに間違っていない」と言い続けたりそのような態度をする身の程知らずな若者(だけとは限りません例外的に年をとった方)だっています。(それは他ならぬ過去のいたらぬ私もその一人です・・・)

そのような言葉や態度が続けば、いずれその言葉と行動はその本人に返ってきます。それを言葉にすれば

(自身のなした愚かなふるまいの)報いをうけることになり、もれなく手痛いどころかひどい目にあいます(誰かのせいにしたいでしょうけれど、誰のせいでもなく本人のせいです)。

続いてそれには(悪い)おまけもあります。思慮の欠片もない、努力をしたこともない行動はその人に根拠や信念・他者からの心からの信頼というものをもたらすことはありません(私を信じてほしい、そう思っても誰も信じてくれない、良い意味での孤独ではない孤独、孤立していき心がすさんでいくのです)。

それでも大事な(率先して立たねばならない時)時は容赦なく本人の前に必ずやってきます。そこで

「誰か(や私自身)のために、(私が)やります。」

その場が目前に訪れたとしても、人前に立っているのに立ったことになっていないことになります。

困難な状況下で、自分を救わねばいけない状況だってあります。何も努力していない場合には(立ちたくても根拠などがないために)立つことができない状況になります。結果自暴自棄になったりする人だってあるかもしれません。人によれば住んでいる場所や環境のせいにして負のスパイラルに囚われても何一つ状況は変わりません。悪くなることが多くなるだけでしょう。

しかし、根拠などがなくても(自身が潰れることを承知で)他者のために立ち上がる方はまだ救われます。自分の現状(根拠や信念努力が足らないこと)を理解して、今立ち上がればその人ではなくて自分がつぶされてしまうことだけに囚われて全く立ち上がらない人よりは遥かにましです。

書に

「若くて力があっても、無精で、立ち上がるべきときに立ち上がらず、意思も思想も劣弱で、怠惰で無精な者は、智慧によって道を見出すことがない。」 『法句経二八〇』

自らの(むしろ他人のことであれば理想です)ために立ち上がらねばならない、必ずその時が今後も幾度と無く訪れます。自分が潰れたくないのであればその時のために準備をすべきです。

「もし準備が間に合わない時にやってきたら」なんて思う人がいます。

準備が間に合わないから立ち上がらない。それは情けない話です。ただの逃げとしか現実はとられません。

私は私なりに準備をしています。間に合う時もあれば間に合わない時もあります。むしろ間に合わないことばかりです。

ただ私は準備が間に合わなかったとしても、立ち上がることをやめたくない。

「何か」を見て、情けない過去(自分自身)とは決別したい。それを忘れないために今日もここへしるすのです。


てんとう虫(ナミテントウ)1

 三男坊の「けいくん」(2歳と10ヶ月)相変わらずテントウムシ大好きっ子です。

冬から春になり、杉や桧の花粉の減少と共に暖かくなって来ました。花と緑の多い季節の到来(花粉症の私はこの時期が来るのが何時も待ち遠しいの)です。

温度が少しずつ上昇し、花と緑が増えるのに比例して玄関前のバラと何かの低い木(名称がわかりません)と、子供達が2年前くらいに種を植え育ったまだ背が低いビワの葉や茎にアブラムシ(アリマキ)と他の新芽を食べる虫などが沢山ついていました。

「うーん、物凄い数・・・、あのままほっといたら枯れてしまう。でも消毒するのもなあ・・・」

他の木はともかく、子供達がビワを食べてそれから芽が出て育ったビワの木は守りたい。なんて思っていたのですが、無精者の私はそんなことをすっかり忘れて何日か過ぎました。

低い木(名称不明)にアブラムシが物凄く大量発生しています。「うーん、この木は生命力つよいし毎年これでもかってくらいに剪定してるけど枯れたこと無いから問題はないな、やっぱり直ぐ隣りのビワが心配だな」

その次の日、ふっと低い気に目をやるとテントウムシがいました。

「おー、テントウムシだ。」

すぐテントウムシの大好きな「けいくん」を連れてきて一緒に見ました。けいくんは

「おとうさん、テントウムシだねー」(かなり喜んでいます。)

「そうだねー、でもこれはナナホシテントウじゃないよ、ナミテントウだな・・・」

「ナミテントウ?」

「そうそう背中の模様が七つの星じゃなくもっとあるし、近くにいるテントウムシも黒字に背中に2つの赤い点が2つ(二紋型)のナミテントウだね」

「そっかー(詳しくはわかっていないようです。まあなんとなくナナホシテントウではないことは理解しています。)」


翌日の朝、出勤前に低い木を眺めていました。黒字に赤い点2つ(二紋型)のナミテントウと黒字に赤い点4つ(四紋型)のナミテントウが重なりあい交尾していました。ちょっと興奮してきました(別にテントウムシの交尾に興奮しているわけではないです。増えていっぱいになったテントウムシ沢山みたら「けいくん」喜ぶだろうなと思っただけです。)

その翌日また違うナミテントウ雄と雌が交尾をしていました。これはすごいことになるな・・・

何日か経ち、低い木をみるとナミテントウが見つけれるだけで三ヶ所黄色い小さい卵を産んでいました。真ん中の子と下の子「けいくん」と一緒に卵をシゲシゲと眺めました。

「あれ全部テントウムシにならないだろうけど、それでも羽化したらテントウムシいっぱいだな。」(二人共想像しただけで楽しそうです。正確にはけいくんは卵を見れて嬉しそうかな)

ナミテントウの卵は、小さくて黄色くて20個くらい並んでいます。どうも孵化する時はナミテントウの幼虫はナミテントウの親とは似ても似つかぬ姿で生まれます。黒い小さい幼虫として生まれるせいか黄色の卵が何日かして黒色に変色していました。そろそろ生まれそうです。

一応子供達に報告と・・・

その二日後頃に卵の合った場所を見ると、もう中になにもいません。孵化して移動したようです。

この時の私、すでにナミテントウの観察に夢中で当初のビワの木を保護なんて目的はもうどこか遠いところへ飛んでいっていました



まだまだ長くなりそうなので、続きはまた今度・・・



どちらが悪いか?

「無知により(知らずして)悪事を行う」

「物事を悪いと知りながら悪事を行う」

どちらも悪い事をする時点で地獄行きと言われます。地獄にも軽い地獄と辛い地獄・果てしなく辛い地獄、八大地獄と呼ばれる八種類の地獄があります。

両者のうちどちらが罪と罰が重い地獄へ行くのか?

何気ない一言つまりは質問を受けたので考えてみることにしました。全てを一気に考えるとわからなくなるので一つずつ、片方から整理していけば答えが出るはずです。

「無知により悪事を行う人」簡単にいえば、知らないから悪いことをしている。

反対から言えば「知っていればしなかった。」と悪いことをした本人が自信満々に反論しそうです。
子供が何も知らなくて悪いことをした。これだと世間の人の見方は大分変わってくるように思います。
罪の程度によります。罪が軽ければ何故か最初の一回は許してあげたくなる雰囲気です。
大人であれば同じことをした場合こらえてくれ無い事が多いです。
犯した罪・人柄・状況・その時の人間関係いずれかに左右されそうです。
軽い罪ならば知らなかったからしょうがないとなる場合が多そうです。
反対では?罪が重い場合、知らなかったからしょうがないとはならないです。
むしろ、知る努力を行い世の中の人ほとんど知っているのに、無知なその人は何故に知る努力をしなかったのか。知らないことを知る努力を行わなかった事、犯した罪の二重で責められることすらあります。
いくら本人が心の底から「本当に知らなかった・・・・」それは周囲には虚しく響きます。
知らない本人だと大前提が有ります。このことは私達が普段から知る努力を行い、悪いことをしない生き方を選択すべきだと皆がそれを見て思うはずです。というのが「無知による罪の重さ」の私的見解です。
「物事を悪いと知りながら悪事を行う。」簡単にいえば知っていながら悪さをしている。
表面上も何も意味そのままです。本人が知っていながら悪いことを行っている。当然周囲は簡単にほかの理由もいらず、悪いと認識します。悪いと理解した上で本人は行なっているのだから考える必要はあまりなくなってきます。

わかってやっているなら犯した罪の責任は全てその人にあります。

知った上で行う、つまり自分の責任の名のもとにおいて悪いことをすると宣言しているのです。別の面から言えば、無知つまり知らないということではなく、知る努力はしているのです。この段階(悪事を働く前)では知らない人より程度は高いのです。

罪を行ったその瞬間からその本人の程度・段階そんなものは誰も考えてくれません。

悪いことをした人という事実だけが残り、また知っていてやったからどうしようもない。悪いそれだけが残ります。

罪を犯した人の程度がさらに低ければ、「知らなかったからやった。(私は本当は知っている。)」そう偽りを述べる人もいます。

しかし反対に知りながらやったという正直な人もいるでしょう。いずれにせよ本当のことを言っているのか嘘を言っているのか悪いことをした後では聞く耳を持つ人も少ないでしょう。罪だけでなく功労もそうですが、その責任の重さは常に正しくある周囲の人が決めることです。悪い本人が決めることではないのです。

いずれにせよ罪を悔い改め、罪を償う覚悟があるのならば良いのかもしれません。全くない場合はどちらも生きている間から地獄行きは決定です。人のことより私自身が日頃の言動をかなり注意する必要があります。人の振り見てわがふりを考えねば、地獄はとんでもなく恐ろしいのです。死んでからではなく本当に気を付けないと地獄は生きている時にだって必ず堕ちるのです

ただ知らないということでかばってもらいたいという思いが少しでも出た瞬間に、無知そのものがさらにのしかかってきます。。

「悪いことをするより何もしないほうがましだ。」という言葉もあります。

知らないことは、悪いことなどをする前に、必ず知る努力を怠ってはいけません。

 「何故学ぶことをしなかったのか」

それに対する(私の)答えは、(努力していなければ)

「すみません(ごめんなさい)」しか見当たらないのです・・・


仏教における全ての苦悩の根源は、根本的無知にあり、無知がなくなればすべての迷いが無くなり、あらゆる苦悩を滅し、人間は完成に至るとあります。