理想と現実

 現実は一つの事実として何者にも変えることができないことです。いくら目を背けても嘘偽りで隠そうとしても現実そのものはやはり変えようがないのです。

現実に対する自身の思いとこれからそうありたいと願う思い、その差が現実と理想の言葉を生んでいます。

現実と理想が同程度であれば両者は近接し、そのような人は周囲と比べて程度の高い生き方になります。

事実とは自身の成した行動が相手へ確かに伝わったとき、相手へ一つの確固たる事実として認識されています。

理想と目標の言葉にしても、同じものといえば同じものですが、目標は理想より現実よりともいえます。理想は大きな目標といえばわかりやすいのかもしれません。

周囲を困惑させる原因の一つに、時折自身の現状がわからず自身の現実と理想を述べる人がいます。他の誰よりも自分自身の現状を本人が把握できておらず、周囲へ自分自身の現状を自信持っていつも伝え続けているのですが、その方へ「周囲が思うその人の現実」と「自身が思い発言する自身の現実」にかなりの差が生じており。自身の現実と現状の差を誰よりも理解する。この差を無くさない限り根本的な問題解決にならないのです。

本人の程度を本人だけが気がつかない人へ注意すれば解決する。言葉にすれば簡単なのです。

現実問題と理論的問題解決は違うことが往々にしてあるのです。気がつかない人へ現状を注意すれば、即座に気がついて問題があっさり解決とはいかず、ひょうたんからこまが出るくらいの確率かもしれません。

現実に気がついていないといった本人の状態ならまだいいのです。自分自身の程度と現実を誰よりも理解していないのに理解していると本人が錯覚しているのであれば、問題は一層複雑になります。

世渡り上手の人は、錯覚している人に注意をしません。何故なら注意することにより嫌われたり誤解されたり不遇な目にあいたくないからです。

世渡りが下手な人は、錯覚している人につい注意や助言などさまざまなことをしてしまいます。結果的に損することが多いとわかっていながらもやめることができないのです。

よくある話ですが世渡り上手はその仕事に長くつけます。世渡りが下手な人は理解されず、不遇な目にあうことが多いのです。

両者とも悪気なくその人の生き方なのです。ただどちらが正しいか、世間では世渡り上手を評価する人もいますが、「世渡り上手のばちあたり」と言う方もおられます。

子供達には正しいことを教え、当の本人である大人が正しい見本を見せず、現実社会においても正しいことが通じない社会のあり方を変えようともせず、子供達にそれが社会勉強だと都合の良い言葉で代用し世渡り上手に生きていくことを教える大人は日本の社会にいないはずです。

誹謗・中傷(自分自身の甘え及び不出来な態度や行いと至らぬ性格を指摘される言葉)そして賞賛(甘い自分をさらに堕落させる諸悪の根源的言葉)の中にあって道を失わない。不善を無くし善をより生じさせるように励み努め、目標や理想に向かい揺らぐことなく、目前のやるべきことを成して必ず理想へたどりつくと信じて疑わないこと。

現実と理想は何時の時代でも難しいのかもしれません。難しいと諦めるは意味が違います。
難しいけれども諦めず理想へ向かい気持ちを持つ、まずは難しいことを考えずそれからのスタートせねばいけません。

諦めて何もしない(怠り)は死への道ともいいます。励み努めは生きる道なのです。
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あみだにょらい

阿弥陀様は正式には阿弥陀如来が一般的に有名です。アミターの漢音写であり光を放つ者、その他代表的な呼び方に無量寿如来・無量光如来とも呼ばれます。はかることのできない寿命を持つ、量ることのできない光明を持つといった意味を持ちます。

あみだくじは子供の頃よく歌いながら皆で楽しんだ良い思い出ですが、元の意味は阿弥陀様の光背つまりは光が放射状にのびる様子から阿弥陀くじの線は元は放射状の線であったそうです。

現在は皆様がご存知のハシゴ型が主流でありどこへ辿り着くかわからない楽しみがあり、元の線による意味合いは無くなっています。

「阿弥陀の光も銭ほど光る」

阿弥陀様へのお賽銭や浄財は多ければ多いほど阿弥陀様が輝く!

何かちょっといやらしい感じがしますが、お金持ちの方への皮肉と取られるときもあります。しかし阿弥陀様をおまつりする場合本堂とよばれる建物、お参りの時に使用する仏具は年数による老朽化はいくら仏様がついていても免れることはありません。老朽化で使えなくなることを防ぐために、つまりは阿弥陀様を取り巻く環境を保全整備の為に皆様の浄財が必要になるという意味合いが強いのです。

熱心に阿弥陀様を守ろうとする檀信徒の方は、額に汗してご寄進を集めて回られる時に、この言葉も必要になるといったほうが相応な言葉だと考えます。

阿弥陀如来様は西方極楽浄土の教主としても有名です。

阿弥陀様がまだ如来になる前に法蔵菩薩として修行されていた頃、48の誓願をたてられその願いが叶ったことにより、如来になられ西方極楽浄土の教主となられたの(所謂仏国土を持つようになったの)です。

その中の一つ

「私を信じて帰依し精進する事を誓うものは必ず私の極楽浄土へ生まれることができる。」

という願いが叶ったので(すべての誓願が叶っているから如来となっていますから、叶っていなければ阿弥陀如来ではなく法蔵菩薩のままです。)阿弥陀如来様を信じてやまない人が沢山おられます。(人間は生まれながらに本来清淨だから努力精進辛抱忍耐を持って怠らずつとめた人は極楽浄土へいけることを意味しているなんて思っています。)

「極楽浄土へ生まれる」とは割と難しい意味を持ちます。

現世が終わって来世で生まれることができるという意味で取られる場合が多いかもしれません。実は生きている間に極楽浄土へ生まれることもできることも指しています。

毎日平々凡々意味も無く過ごす日常では認識できないのかもしれませんが、自分が存在する現状、つまりは仕事や立場に関係なく、今自分が存在している場で何かをやらなければならないと気がつくこと
気がついたことが出来た人は周囲の人・関係者・家族・仕事に心から感謝し、今までの行いを懺悔しはじめるのです。懺悔と心の奥底からの感謝を行う人、簡単にいえば宗教としての目覚めに至るのです。

ある程度の段階に達した人は

「今までの自分は一体なんだったのだろうか」

などと思う人もいるかもしれません。

このように生きる事を仏(今回の場合阿弥陀)様と共に生きる。極楽浄土の門が開いたといってもいいかもしれません。

その先に進むには、

怠らず努め、人間らしく(善いことを成さないと)生きていかねば先には進めないようです。
困ったときにはお互い様の心も必ず必要です。

わからない

 以前は調べ物なんてほとんどしませんでした。人より遅すぎるのですが現在はそれを取り返そうと気がつけば調べ物をするように心がけています。(怠惰にふけり、徒に過ぎ去った時間はどうやっても取り戻すことができないことを今になって日々痛感させられます・・・)

「私はわかっている。」なんていい続けていた若い頃(の私)、それはただ勘違いをしているだけです。実際は理解していないことだらけ、わかってもいないのに調べ物をしない、頭を下げて聞こうともしない、挙句わかっていると思い込んでいるがために考えることもしない。

「わからない(私)、わかっていない(私)、わかろうとしない(私)、わかっていないのにわかっていると誰よりも思い込んでいる(私)」

そのように長い時間、誰よりもわかっているなどという勘違いを続けてきました。(書きながらも未だ気づいてない勘違いしていることが無数にある、わからないことだらけです・・・)

そのようなことも、「わからないこと」の一つです。

賢い方(知恵ある人)は、自身がわからないことを把握しているから、考えや行動が綺麗です。そのような方は知ったかぶりをしません。自身は誰よりもわかっているなんて言動はありません。

愚かな(私)は一体どうやったら、自身がわからないことを気がつくのかなど考えることがあります。

私には一つしか思いつきません。

「他人は見易く、己は見難い。」

己を客観的に見つめることができていれば、わかっていない自分自身は存在していません。先の言葉にあるように、己は本当に見難いものです・・・(私だけなのかもしれません)。

残るは見やすい他人から学べば良い。必然的にそうなるでしょう。他人が成功することより、失敗することから学ぶことが多いのは世間の道理です。

他人の失敗を笑う人もいます。他人の失敗を激しく非難する人がいます。挙句には自分のことは棚に上げて周囲に言いふらす方もいます。

私は恥ずかしいことに失敗をします・・・。(失敗を)してはいけないと思っているのにしてしまう時がよくあります。他人が失敗を激しく非難されることを見ると、自分にひき比べて恐ろしくなることがあります。

失敗をしない完璧な人は、他人を非難してもよいでしょう。

私は失敗をした時に思うことが一つ思います。

「(今度は気をつけます。もうしませんから、)許してください。」

言葉を発さなくても、そう思っています。許してくれれば私は助けられています。それで反省や行動につながっていなければ、同じ過ちは二度目はしょうがありません。許すも許さないとは関係なくなっていくことが多いでしょう(二度目以降のあやまちは、ただの果てしない学習していない反省もしていない愚か者ととられてもしかたないことです・・・)。

怒りをこちらに向けられて、怒りによってではなく、忍耐(辛抱)によって耐えることの出来る方は、失敗も自分の身におきかえ寛容に許す(できた)人もいます。


時と場合と問題にもよります。けれど大抵のことを笑って相手を許せる人間が私の目指すところです。

誰だって失敗をします。わからないことだらけなのにわかっているなんて思い込んでいます。それを許し愛情と親切をもって接してくれたからこそ現在(の私)があるのだろう・・・

「わからない」

前に書いたような気もしますが、何かの本で学ぶとは

「わからないことを知るために学び、わからないことを知る。」




(生ある限り)わからないことを知りつづける努力を怠らなければ、その人は人間らしく生き続けている。

現在の私はそう信じています。

これから助けてくれる友とは

 今春で長男坊は小学5年生、私とそっくりです。
見た目は嫁に似ています。何が私とそっくりかというと、勉強を忘れて遊びに没頭するあたりが本当にそっくりなのです。(もっとも、そこが一番似てほしくないところだったのですが・・・)

現実が一番残酷なんてのはよくある話です。

子供達が休日は私は大抵仕事ですから、仕事から帰れば嫁に必ず

「今日は(子供達三人)どうだった」

三人共男の子ですから、元気が余っている年齢です。(私に似て)どうやら悪いことばかりだったみたいだという顔で色々言っています。

ともかく要約すれば、「遊んでばかりだった」そう言っています。

(ふう、一緒に遊んだり、色々遊ばせようとしたかったですが、遊び過ぎなら宿題などしないとね・・・)

褒める言葉だけを言いたいです。現実は遊び呆けてる子供に全てを忘れてまた遊べなんて、他の親だったらいうんでしょうけれど、私は言いません。

父「やることはやらないかんな、まずはお手伝いからだな」

お手伝いをやり始めました。さすが私の子供やり始めて直ぐにやる気が無くなって来ました。

長男坊「お父さんゲームとかやる時間が欲しいんだよね」

父「お母さん子供がゲームとか言ってるけど」

母「子供達は今日一日ゲームも沢山やったし遊び呆けてたらからもうしなくていいです。」

父「お母さんがああいってるから(私は現場を見ていないけれど見ている人がそういってるんだから)無理だね」

それでも遊ぶことを諦めきれていません。何度も私にあれやこれとせがんできます。(その辺が子供らしくていいんだけど)

しばらくしても要求がやまることがありません・・・。

気の短い私は、

「いいかなお兄ちゃん(一番上の五年生)、ずっといってるでしょ、今日はもう諦めなさい。人間諦めが肝心だ。」

おとなしくなりました。

でもしばらくするとまた何か言って来ました・・・。

もっと不出来な私の登場です。

「お兄ちゃん、今日は何にも(読書や勉強を)していないのに無理だよ(どうやら納得がいかないようです。)」

私も遊ぶことが誰よりも大好きでした。宿題や勉強は大嫌いでした(というより遊ぶのに一生懸命ですることを忘れていたことがほとんどです。)かろうじて本を読むことは大好きでした。あの小学校の図書館にある本全部読み尽くしたい。以前にも書きましたがそう小学生のころ願って努力していました。

そう考えていたら・・・(さらに押し付けがましい私の登場です。)

「よくお聞き、あなたが今努力をしなければ、大人になって努力をしていない子になってしまう。
お兄ちゃんだって偉人達の本を見て、感動してよく涙しているじゃないか、偉人は誰よりもその時にできる努力を惜しまなかったから、偉人なんだよ

どうして、それがわかり本を読んで涙する本人が努力をしないなんておかしいじゃない。

なまけること(怠り)は身を滅ぼすものになる。努力しない時間は人を駄目にする。

いざ困ったときにでくわせば、助けてくれるのは努力をした自分が一番助けてくれる。何もせず怠けてばかりでは周囲の人も助けてくれない。

自分が自分を助けることもできない。自分がしてきたさぼり(怠け)続けた結果は、自身の影だ。離れてくれといったって影が自分から離れることは絶対にない。

逆に怠けず勤勉につとめればそれは未来の自分を助けてくれる。一生懸命行いつづけた人を周囲はずっと見ている。自分の心だってそれを一番知っている。だから困ったときに自信となり根拠となり、困ったときの自分を助けてくれる。

それは『自分のなした善いことが未来の自分を助ける友になる。』

悪い影に(一生)つきまとわれたいか

自分を助け続ける善い影に(一生)つきまとわれたいか

考えるまでもないだろう。」

(怒っている時の私は、怠惰にふけり現実から目を背けた醜悪な自身の過去はどこか都合のいい棚にのせています・・・)

長男坊は(叩かれてもいないのに)ボロボロと涙をこぼしていました。


二日後の長男坊はどうだったか

偉人伝シリーズ、「マザーテレサ」を読んで、感動し大泣きしていました。


「善いものを読んで感動して泣ける善い心を大事に(死ぬまで)持ち続けて欲しい。」

なんて出来ていない私は心の中で思っていました。






私がどんなに人のために言ったり行動したとしても、その本人が何を成して行くか、何を求めていくのか、それはその本人が決定すること(自由となる)。

私はいつだって偏りのある思いをおしつけることを捨てきれない・・・

それは、できれば目の前の人に(今回は子供に)善い事を少しでも多く成して、その本人が(将来)善いことと共にあって欲しい。



悪いことも善いことも常に自分が決めてするんだから、その報いは自分で受け取るしかない。

それがこの世の真理なのだから。

やらされる

 誰かに何かを頼まれる。こちらが暇でもする気がなかったら(出来ていない私は特に)ちょっと嫌な感じになります。こちらが忙しく時間がないときにやらされる。(本当に出来ていない私)物凄く嫌な感じになります。

暇でもとてつもなく忙しくても、やらされると思えばどちらも気持ちが小さいか大きいかの違いだけであり、「嫌な感じ」に変わりはないのです。

やらされるという言葉の意味は簡単です。
「自分の仕事ではない仕事をしてくれ」と受け取っています。「他人の仕事を何で(私が)」と思えば、答えは一つです。

「(やりたくないのに)やらされている(私)」

(私は)それが言葉や態度に出てしまい、出来ていない(私)を他者の前に出現させています。

解決策はただひとつです。
「やらされる」その思いは、プラスの思いを生みにくい言葉と思いです。では

「(私が進んでそれを)やらさせていただきます。」

腹が立ったとしても、その言葉を発して(もしくは心のなかの声として大にして叫び)動けば「何か」が変わっていきます。
動きながらも少しも納得がいかなくても、

「やらされているのではない。こちらからすすんでやるんだ。」

続くと習慣になります。物凄く忙しい時に言われたとしても、

「それは私の仕事だから、こちらが片付き次第すぐやります。」

などのように変わっていきます。(まあ人よりそれにいたるのが私は遅すぎだしこれが正解だとは思いません。ただやらされると思えば邪悪なものが内からおこりつきまといます。)

何かを言われそうになる前に、「その仕事は自分の仕事だから、すぐさせていただきます。(しないで置いといて下さい。私が必ずきちんとやります。)」と身近で出来た方は私にいつも言葉と態度で指し示しています。

(不出来な私の)目標の一つです。








「やらされる」のではなく、「(私がすすんで)やります。」

大変面倒なことでも、そうあれば、これまでも現在も助け続ける人たちの負担を少しくらいは、減らせるかもしれない・・・(忘れないように、ここへしるすのです。)

身から出るもの

 日々仕事をしています。あんまり何も考えずに仕事をしています。

何も考えずに発言し(続け)て、調子に乗って言いすぎてしまうことが多々あります。
言い過ぎなければ、相手に変な印象をもたれることもないのに、つい色々と言ってしまいます。

私のことをよく知っている人ならば、まあこの人は何時もこんな調子だからとびっくりしたりすることもないんでしょうけれど・・・

テンポよく仕事が進めば、つい浮かれてお話好きな私は、冗談をよく言います。通じればその人も私も笑えます。通じない場合は私はただのおかしい人か変な人です。厄介な人とも思われているでしょう。

話が通じる人には、何を言っても冗談だと理解してくれるから、遠慮なく何でも言います。

初対面の人には冗談を言っても、冗談ととられずにびっくりするだけでこちらがおかしいと注意を受けました。「これくらはいけるだろう。」その基準は人により幅も深さも内容もそれぞれあることを改めて再認識させられた今日です。

「冗談」という言葉は、難しい言葉だと思い知らされました。

何気ない言葉は、私の身(口)から出てきています。当然の答えですが相手が問題ではないことです。

冗談が冗談としてとられない時、私はこの世の中でとてもおかしい人にしか、その人から見ればなっておらず、その言葉は身から出た錆になり、そのまま気をつけることがなければその錆は増え続け、いずれはその本体(私自身)をも腐らせます。

相手を見て、言葉を気をつけよう。むしろ言葉を発することがなければ問題が無くなる。その結論はその人には問題が無くなるのでしょうが、人によれば「無口で愛想がない人」のように違う人から見ればそう思う人もいます。

どの道へ進んでも過去・現在・未来において褒められるだけの人や中傷されるだけの人はいない。そう何時も読む書にあります。

だからといって開き直って何も成長がないのはもっとよろしくありません。



「自分の身から出るもので滅びることのないように・・・」

不出来な私、人に比べれば遅いですが少しでも日々成長していきたいです。誰か(何か)が毎日愚かな私の行動を(表情・態度・注意として)教えてくれます。

錆(自身の成した悪い事)はひどくなれば本体を腐らす(滅ぼす)。




錆ではない(反対の善い)ものが多くなれば、それは本体を腐らすものと反対のものを(本人へ)もたらす。

「何か」とは

何故私は「何か」を書くのか、その「何か」とは何なのだろうか

「何か」を書こうとする自分、「何か」を見たいと思う自分、「何か」を見られたいと思う自分

私を惹きつけてやまない「何か」、その問いが出た瞬間(出る前だって、考えていない時だって常)に欲してしまう・・・。

それは、他者(私を取り巻く全て)から出ている「何か」、いつも出ているはずなのにごく稀にしか私は見ることが出来ない。

気がつけば憧れてやまない「何か」を他者だけでなく私の心(内面)に向かって望んでしまう。(周囲にそれをだしている人というのは、私の要望に応じてだしているのではない。自分で望んで出しているようだ。つまり相手へ望んでもしょうがないことが多い。)

それは決して私の身の丈に合わない不釣り合いな願い。

それでも必死になる時、「何か」を瞬間的に生じる。

私はただその瞬間に生ずる「何か」に憧れ、敬い、親近し、感動し、涙を伴うほどに共感したいだけなのかもしれない。

気がつけば「一瞬の煌めき」を待ち望んでいる。

待ち望む代表の中に、人・他者・書・景色・自然・動物・宇宙・男性・女性・子供・赤ちゃんなど

私の見る目聞く耳さえあれば何時でも会える。何故かわからない。

私が存在すると同時に「何か」と共にあるのに、「何か」を求め、「何か」に憧れ、「何か」を見つめ続けていたいと欲する。


師匠の言葉に

「『如実知自』とは自分の中の神秘性に気づくことである。」

この言葉を絶対的なものとして根拠をおけば、私だけでなく全ての人の内面へ「何か」を求めるのは不釣り合いな思いでもなく、むしろ当然となる。














「誰よりも(何かに)必死になれ」

「必死になるその刹那の思いが、他人へ伝搬することによっても、私は『何か』で満たされる。」

私は「何か」に憧れ、憧れと私自身が一体になるその時を夢見続けている。

ただ、それを日々自分の心に言い聞かせているだけかもしれない。


「何か」とは何なのだろうか

覚悟

 生きていくこと、この考え一つでも皆考えが違うように思います。
何も考えず日々を楽しく過ごす。少し考えて日々を過ごす。よく考えながら過ごす。また長い年月の思考の末、考えがまとまり、もう考えることをあまりせず自然と生活する。

 人はそれぞれ持ち味が違いますから、様々な生活スタイル・思考スタイルが存在します。

 私の高野山での修行時代に一年下の後輩がいました。
真面目でいつも一生懸命、生まれつき腰が悪く小さい頃より腰のことでは生活にも支障がでていたようです。
お寺で仕事(修行=作務)の最中時折うずくまることもあるくらい調子は悪そうでした。

 医者から色々注意されていたのでしょうが、いつもきつい仕事などがある時、突然しゃがみ込み

「すいません、ちょっと・・・」

しばらくうずくまり(声のない叫びが聞こえたりしました)ます。しかし、少しして立ちがりいつも

「大丈夫です。」

といいます。見たとこ大丈夫には全く見えません。

「本当に大丈夫か」

と再度尋ねると

「はい、大丈夫です。迷惑をかけました。」

と言いい、その事により仕事を断ることや、そのせいにして逃げることなど一度も見たことがありませんでした。その彼(後輩)と違って仕事の最中に「腰が・・」そう何度か言って、直ぐに辞めていく年上の方もいました。)

 修行時代です、朝早くから晩遅くまで雑用が毎日待っています。夜の仕事が終わると後輩は腰のコルセットをとり、一日今日も無事乗り切れてほっとしているようでした。着替える時によく見ると肉付きがよいのです。脂肪が少なく筋肉隆々なのです。

 疑問が浮かびましたので聞いてみました。「いい体してるけど、何で?」後輩は小さい頃から腰が悪かったのでそれをカバーするように筋肉をつけなさいと医師に言われていたらしく水泳を続けて筋肉でカバーしていたそうです。

 本当に真面目で誰よりもよく動く後輩でした。人の失敗も自分の失敗だといつも謝っていました。

 腰のことで嘆いたことは私の前では一度もありませんでした。何回も仕事中にうずくまる光景は今でも忘れません・・・

しかし、しばらくすると立ち上がり「大丈夫です。すみません」必ずそういって最後まで仕事をやり通していました。

 後輩に比べ私は本当に不出来な先輩でありました。ただ一つ後輩に良いことをしたといえば、悪い見本つまりはこうなってはいけないということを日々彼の前で実践していただけです。

文句を言いたかったと思います。彼はそれを言うことはなくただ実践によって、態度と言葉でいつも私を立ててくれていました。

 私は「覚悟」の意味・考え・行動にいたるまで、恥ずかしながらそのようなことを世界中の誰よりもわかっていなかったのです。

 彼(必死に頑張リ続ける後輩)の覚悟は世界に何かの変化をもたらしています。一つの真実、身をもってして誰かに伝わっているのです。その行為によって世界は変わる。少なくとも現在の私には彼が私にとっての善いことを指し示す人(善知識)の一人なのです。

 「一寸先は闇、今後私に身体上の災難が降りかかっても彼の真摯な行動は一つの私の支えとなり目標となり、困難な道から私を救う一つの真理である可能性になりうる。」


「覚悟」の意味を考えない、実践しない、そういう(過去の醜悪な私のような)人を見て周囲の人はどう思うのか

 残念・後悔・しょうがない・あきらめなければ・・・といったようなこと、私は出来ればそう思われるようことを少なくする努力を続けていきたい。












日々その「覚悟」をもって忘れることなく歩み続けていきたいのです。

篩(ふるい)

 何も考えていないようで、考えて生きている私達、必ず 「何か」が目の前にあらわれます。
今回の「何か」はその人の行動や行き先をきめてしまうもの、選択肢が一番近いのかもしれません。

世の中正しいことを誰でも選びとって生きていきたい。はじめはそう願う人がほとんどだと私は信じています。最初から悪いことを夢見る人も少ない。考えていないようでも何でもが上手く行けば私は幸せだなどは誰もが考えていそうです。

ただ上手いくことを願っているのに、考えや行動が足りておらず、周囲が理解してくれない。結果周囲が自分の考えとは反対のことをしてくる。自分の邪魔をされるなどのような被害妄想に誰だってとらわれます。

そこで善いことをあきらめて、目先の楽に走る。つまりは「ふるいにかけられるのです。」自分がどう進みたいのか、答えは決まっているのです。正しいことに誰だって進みたいのに邪魔をする人や物事が現れる時、私はそれを「ふるいにかけられる。」そう呼んでいます。

「ふるい」は容赦なくおとずれます。9割は落ちていく、ふるいにかけられたとも本人思っていなくてもふるいにかけられています。何度ふるいにかけられてもしがみつき、「私は私が信じる正しいことをしていきたい。」

そのふるいにしがみつき残る人達は、必死ですから皆が憧れるものを出しています。しかし、ふるいはそれでおわらないのです。死ぬまで「ふるいはその人をためしてきます。」楽に走ってつまりはふるいから手を離せば、目先の楽にいけます。

目先の楽ばかりに行く人を「世渡り上手の罰当たり」のような人と呼びます。努力をさけるようになります。正しい人を理解することが出来ずかえって邪魔をするようになります。

同じように、目先の楽に「貴方もどうぞ」なんて声を手当たり次第にかけます。それだって落ちていない人であれば「ふるいにかけられること」です。


私も努力を怠り、学ぶことをせず、無責任に長年生きてきました。現在は少しはしがみつきたいと手を伸ばしているつもりです。出来た人や天才や普通の人からみれば、

「(ふるいから)落ちているのにみっともない・・・」

なんて言われるのでしょう。私が過去に怠り続け、目前の問題から逃げ続け、成すべきことをしなかったことは私自身が身にしみて(痛い目にあいつづけ)少しは理解出来ました。

できれば私は必死に手を伸ばし、これから「ふるい」にかけられても、もう手を離したくありません。

その「ふるい」とは「善いこと」です。






どうかその自身の現状(段階)に何度も出現する「ふるい(善いこと)」から手を離さないでほしい。

私とこれから生きていく人達、双方に心から願うことです。

いつまでも足をひっぱるのはいかん

 私は何気なく仕事をしています。出来た優しい人はいつものように、自分のことだけでなく色々なことが困らないように、キビキビと暇があれば段取りをしています。

自分の仕事・皆が困らないようになどの様々な仕事、いつもそれを考えないようでいて考えていて考えていない感じ、つまりは自然に行われています。

暇があれば常にそれです。私も気がつけば手伝ったりしますが、そもそも気がついた時には出来た人は先にいっていますから、気づいた時点で私はその人より遅いです。でもだからといって何もしなければただの足手まといですから、気づいた時が遅くても何かを手伝ったり行動しなければ(私は)存在する意味がありません。(出来る人からみれば、居るのにいないようにうつるのかもしれません。)

足を引っ張る人ほど、行動が遅い、挙句は何もしない(愚かな過去の私のようです・・・)、善いことを考えつかない。

気がつき始めた人は、出来ていないことに気がついてくれば教えを請います。つまり

「いろいろと教えて(ご指導)下さい。」

子供なら手取り足取り、何せ知らないんだから懇切丁寧に教えてくれる人も多いでしょう。
良い年をした大人なら、優しい人で余裕があれば教えてくれます。余裕が無くな(忙しすぎ)れば、自分の仕事でいっぱいになっている時に「教えてください」なんて頭を下げても、「自分で考えなさい」となることだって出てきます。

「またぜひお願いします。教えてください。助けてください。」

自分が一生懸命にやっているつもりでも、他者からみればまだまだ出来ていない事に気が付かない、そのような状態でまた「教えてください。(助けてください。)」などの言葉であれば

「自分の仕事は、自分で見つけるものだ。何時までも誰かが教えてくれるとは限らないし、自分のことくらいは自分で考えねばならない。」


他人のことは見易く、自身のことは本当に見難いものです。
私も悪いところは多いです。怒られることも多いです。相手のことを考えずに不用意な発言で不快にさせることも多いです。偉そうなことをいってばかりで実行が伴わないことだらけです・・・。

誰よりも出来ていないからこそ、少しでも前に進みたいです。

「いつまでも足を引っ張るのはいけない。」

そういいながらも、その言葉とともにその優しい方は、誰かを助け続け、皆のために頑張っています。







一番悪いのは

「何もしない(自分)、出来ていないことを他人事だと思う(自分)、感謝だけして助けくれる人より必死にならない(自分)、プライドを捨てたつもりでも捨てきれていない(自分)、出来ていない代表格(の自分)」

短く言えば

「誰よりも自分に気がついていない(愚かな自分)。」



はじめは助けられてもしょうがない、誰かにすがりついて立ち上がってもしょうがない、知らなくてもしょうがない、ただそれが長く続くのが行けない。

「自分に出来る事を(常に助けられている人より一生懸命)やらなければ、いつまでも足を引っ張る張本人のままになる・・・、私はそうならないよう忘れず実行していきたい。」

美しい

 「美しい」とは何だろう。そう自らに問いを発する。今の(現在の低い程度の)段階の答えが出てくる。(自由気ままな私なりの愚かな答えばかりといわれるだろう。それでも現在の段階を知らなければ先に進めない。)

「美しい」その反対の言葉を意味する「醜い」、これを言葉にするのは難しくない。
外見(見た目)としての醜であれば、成長をすることにより美の基準を学ぶ、また生まれながらに心惹かれる「何か」の反対のもの。

誰でも美は自身の中にある憧れる何かを基準として決定するように思う。

人間の顔であれば対照的でありバランスを保っている。それを美と呼ぶことがある。韓国では整形により美を手に入れる人が多いとよく耳にする。金銭を支払うことにより、外見上の美を手に入れる。
別に本人が望むことなら私はそのことに反対も異論もない。何か事情により美容整形だって必要な人もいるはずだろう。

「美しくないより美しいほうが」なんて世の誰もが思う気がする。(だからといって必要最低限以上の整形など私は奨励していない。)

外見と反対に位置する美しさ、内面が美しい。私も含め殆どの人が考えないようでいてそうであればなどと考えることが多い。これは仏教的な言葉で言えばそうなるために自身を成長させる、内面を綺麗にするそのどりょくを「心を美しくする。」そう世の中で呼ばれている。

見た目がいくら美しくても、中身(心)が醜いならば、時間を長く共にする人を(その経過する時間の流れ以上に)不快にしていく・・・。

瞬間的、短い時間ならば外見が美しいだけでも満足する人が多い。(しゃべったり余計なことをしなければ外見は美しいのに・・・、などの言葉としてあらわされる)

「心が美しいかどうか、この判断基準はどこにあるのか」

それは簡単なことで、誰もが理解できることがある。

その判断基準とは、自分の仕事と他人の仕事、その判断どちらともつかない誰の仕事でもない仕事(内田樹著書参照)に対して、「それは自分の仕事だ。」と決めて動く人。

もう一つには、誰もがとんでもないことに遭遇した時、自分ではない他者が大変な目に遇っている、この時にそのことを引き受けたならば自分に多大なる害が生ずるのに、多大なる害を受けることを承知で誰かを助ける人。(実際はその時に考えてるわけではなく、考えなく勝手に自分を捨てて他者を助けるために即座に動く人)

もっとわかりやすく言えば、世の中大人になれば「一人前」という言葉をよく耳にする。

「一人前」の代表的な使い方として、結婚して家庭を持てば「一人前」と呼ばれる。
このことがもっとわかりやすいかもしれない。



何故家庭を持てば「一人前」なのか



人間が自分だけを面倒を見るのは、自分の生命を維持することだから当然のことである。
結婚をすれば他人と自分とが家族になる。双方の両親だって生きていれば少なからず関係をもつ。関係を持つということは、自分一人が好き放題やればよいということを意味していない。

つまり、結婚は自分一人から多人数の視点と他人を思いやり他人の幸せを願い他人の不幸を取り除くなどの複数の他者の視点を獲得することを意味し、その責任を放棄しなければ他人の幸せと苦労と不幸を共有する。

自分一人の利害関係だけを世の中で強調して叫ぶ、子どもと呼ばれる人から大人へと成長するには結婚は考えても考えなくても知っていても知らなくてもそれを本人にもたらす。

逃げたり誰かのせいにしたり、家族の面倒を見なかったりすれば、自分一人で生きている事と変わりない。それならば結婚しなければよいだけとなる。(そんなことをしていたら家庭は破滅するから勝手に婚姻は解消される。見捨てられるともいうが・・・)

社会でも仕事でもそうだ。自分一人だけが良くなればなど団体の中で叫ぶ。次のように発言する人もいる。

「皆はどうでもいいから私だけよくして下さい。」

そんなことを発言する人だけをそのように接してくれる場所があったら私に教えてほしい。
人間に生まれながら、利害関係の言葉を発し

「損しか無いから私はしない。」

この言葉は「私は醜い人間です。」と同じ響きを持っている。

反対であればあるほど人間は美しくなる。利害関係を抜きにして、自分が無くなれば無くなるほど人間は美しくなる。この言葉はほんとうに難しい。

偽善者だと呼ばれたり、なにか計算があるんだろう、結局は利害関係ではないかなど、醜い人ほど利害関係を強調する。

世の中には自分を捨てて優しい人なんてたくさんいる。利害関係抜きで善いおせっかいをやきつづけるひとだってやまほどいる。今はわからないだろうけどいずれわかるからその時までといってそっとフォローし続ける人達がいる。

「それは何故か」

答えなんて誰もが知っている。それは誰だって最初から出来ないことばかり、わからないことばかり、完成していない、知らないことが当たり前だからだ。

「知らないことを教えてくれるのは誰か」

利害関係で言えばお金や地位名誉立場のない自分の子供時代などはお金など払って知っている人におしえてもらっているのか

そんなことはない。誰だって親切(無償)で知らない純真無垢な子供達に教えている。

教えてもらって育ったら、他人への恩を忘れ、恥知らずなことを口にすれば(利害関係で損しかしないから私は教えませんし、余計なおせっかいはしませんなどのようなこと)人間がどんどん醜くなる。

同じ事を何度も私は書き続ける。

人間が真の人間らしく、つまりは美しくなるには、利害関係から脱却し、誰かの為に何かをなす。

この「誰かのために」の誰かの人数の為に何かを成すことが多ければ多いほど、その成している方は美しくなる。

結婚して家族が増えることは、自分だけから家族のために何かを成す。

人間らしく生きるための方法の一つだ。(無論それは全てではなく、他に美しい人間らしくなる方法はいくらでもある。)
大人になって人間らしく(美しく)なるための方法でもある。(自分の役割さえ逃げたり誰かのせいにしなければの話だが)


「私(自分)だけよければよいから、私のために皆手伝って」

「利害を考えて私に損しかないないことは、私は何もしません。」

などの言葉が美しいかどうかなんて、誰に問うまでもない。そんな言葉だけを言い続ける人が周囲にどのように思われるか、発言している人は考えていっているのでしょう。

自分のくだらない考えやプライドを捨てきれずに、そのような言葉を発して醜態を晒す必要もない。

何時でも自分も他人も、善いお節介を続けることにより、関係が成り立っていることを忘れないでほしい。

結婚して相手(家族)のことを何時も親身に接し続ける人、それは「美しい人」と呼ばれる。さらに「貴方がいれば幸せです。」という素晴らしい特典もついてくる。


愚かな私が言っても賛同してくる人は少ないのかもしれないが、そうあるように各自のご健闘を祈っています。



(私ができているのかなんて問いは愚問です。やるのも思われるのも私ではないから、だからあえて他人事のような言葉を発するのです。)




私はただ「(心が)美しい人になりたい」だけです。



(そうなることができる簡単な方法があればなんて思う人がいるかもしれない。皆の思う答えには到底なれないけれども、思いつく一つの方法をここに記すのです。

それはこの人にだったら何かしてあげたい。そう思える人を家族以外にもつこと、まずはそう思える人を一人ずつ増やしていくこと。

自身にとって、この人こそ何かしてあげたいと思える人だと見る基準はどこにあるのか

それは何度も何度も失敗しながらでも前に進んでいれば答えはいつだって(どの段階にいても必ず)目前に現れている。気がつくか気がつかないかは誰のせいでもない。)




この記事は別に結婚の勧めではありません。社会においても他者に親身に接すれば、同様に美しい人と必ず呼ばれるでしょう。

樹木

 日本には巨木信仰が存在します。
1000年以上枯れることなく成長し続けた巨大な樹木、一人では到底両手を回しても届かない樹木、1000年以上もそこに存在し物を言わなくても周囲を圧倒する存在感を出し、人は畏敬の念や礼拝の対象として御神木として扱われる場合があります。

 長崎にて幼少時代を育ち家の庭にある杉を見て、お祖父さんに訪ねたことを覚えています。
幼い私の手では木の幹を回すことができず、

「何時頃からここに杉が植えてあるの」

60位であったお祖父さんは深く考え

「わしが小さい頃植えられてあったかなあ」

そう言っていました。

 杉も60年経つと大人が手を回しても届かない幹の太さになっています。
ただ私はその天空に真直ぐに伸びる杉にどうやって登ってやろうかと思って聞いただけなのですが、あの時お祖父さんは60年間の様々なことをひょっとしたら考えていたのかもしれません。

 私の住んでいる場所の近くにある四国二番極楽寺境内には、寺伝によると

「弘法大師様当山巡錫の際に、このお寺を末永く守るように」と言って植えられた杉です。

樹齢1200年ともいわれる「長命杉」は立派に現在でも沢山の緑の葉を茂らせています。
木の周囲は3.5mを超え高さ30mを超す有難い樹木です。

熱心な信者様により灯明を祀る台、長命杉の根を保護するために、柵を設けられ、私のように何も考えずに近寄り、杉周囲の地面を踏み固めてしまい、結果として根を痛め、そのために枯れることすらあることを防ぐための柵を寄進されているのです。

長命杉に立派で大きいしめ縄が巻かれています。

近くに何本かはえている小さい杉にも同様にしめ縄が巻かれています。

「何故だろう。」

不思議に思っていたのですが解決しませんでしたから、住職様にお尋ねしました。すると

「あれは長命杉の子供じゃ」

と言って喜んでおられました。長命杉の子供杉も大人が手を回してちょうど一周、囲めるくらいに育っています。

風に吹かれて落ちたところから、小さい杉が芽を出しているのを見かけます。ほとんどは枯れたり、邪魔なために抜かれたり日の目を当たる前にいつしかなくなっています。

木の60年、姿も小さい芽とは比べ物にならない位に大きく育ちます。1才の子供が同じように成長し60才になり、最初は可愛らしく見下ろしていた杉の芽ですが、いつしか遥か頭上から見下ろされるようになっているのです。長い年月お互い生きていれば成長したもの同士、積もり積もった話もあるのかもしれません。

暑い日も寒い日も同じように生きてきたのです。木は本当に大きく立派になっています。私のお祖父さんもひょっとすると私が幼い頃、庭の杉を尋ねた時に木と会話を楽しんでいたのかもしれません。

「杉の成長に負けずに自分がどれだけ頑張れていたか」
私のお祖父さんは酒癖が相当悪かったです。しかし不器用でも真っ直ぐ生きていました。

今度里帰りの際に庭の杉に

「お祖父さんも不器用ではあったけれど、貴方には負けず真直ぐに生き続けた。お祖父さんも私の心の中では貴方より大きいです。」

そう報告しにいこう。

私もお祖父さんに負けずに澄み切った果てしなく広い大空へ向かって真直ぐに、時にいやいつも誰かに迷惑をかけるかもしれません。でもしっかりと生きていきます。そう、あの境内の千二百年の時を生き、未だに生命力あふれる長命杉を見て思うのです。

会話

あいさつ、電話、直接お会いしてなど、お話をすることを意識して行う人は少ないかもしれません。
言葉少なくてもお互いの意思が通じ合うこともあり、万の言葉を重ねても虚しく響くときもあります。どうも言葉の数・時間に完全に比例はしないようです。

いつでもどんな人でも話は通じ合えると信じ、わからないことは調べ物をして話が通じないのはこちらの努力が足りてないからと思い、うまくいかなかった電話などの対応の後反省することが多いです。相手に理解してもらうために、こちらが怒って言葉を発するのでは成立しないというのは自明の理です。

時折先方がこちらへ一方通行の話をして、こちらが何を言っても全く聞かない人がいます。それでもこちらの努力が足りてないと思い、言い方悪いのではないかと相手の立場を察し、少しでも心に届けばと思うのですが最後までこちらの言葉を全く聞かないことがあります。

仕事中の会話であれば、不容易な発言は自分一人の責任を超えてしまい、職場の方・会社いろいろな方に迷惑がかかります。

迷惑を出来るだけ掛けずに、むしろ感謝されるよう発言するのが仕事を行う方の最低限の勤めです。
相手に礼儀を失うことなく、こちらの意向をきちんと伝えなければならないのも当然のことなのです。

私の不出来な言葉では、相手の心に届くことなく、ただお話をしていた時間だけが虚しく過ぎ、後に残るものは反省です。なかなか私の言葉は「正しい言葉」になっておらず、完全な正しい言葉になればどんな方でも否定なくそのとおりだと思う言葉が「正しい言葉」なのです。

私の中で一つの不埒な考えが浮かびました。一方的に相手にこちらの考えだけを押し付けて相手の話を全く聞く気がない。

電話の話について考えてみます。電話はこちらが話を言う部分(パーツ)と相手からの言葉を聞く部分が独立し、それぞれ存在しています。その為に相手の言葉を聴きながら話したりと同時に進行することも可能です。自分の言うことだけを言って相手の話を聞く必要がないのなら、相手の声が聞こえるというを完全に無視し、相手の声が聞こえる部分(パーツ)はいらないのでは?わかりやすく言えば、相手はトランシーバーを使って一方的に話をし続けている人となります。電話はトランシーバーではありません。電話の構造や使い方を考えたことがない人と、話が成立をする訳はないから、それは会話と呼べないのではないかと浅墓な考えを思いついてしまい、そういう考えが出てくる時点の私は、また心から反省しなければいけません。

相手を怒らせず、こちらも怒ることなく平静のままお互いの言い分を交換できることを会話とよぶのでしょう。
こちらはまだまだであり、何時でもどなたとでも、きちんとした会話を行うことの出来る言葉が自然に口から出るだけの努力を続ける生き方をしていかねばなりません。

「自分の長をいうことなかれ、他人の短をいうことなかれ」

いつまでたっても気をつけなければいけないことが多すぎる私なのです・・・

思っているその瞬間

 誰でも何も考えずに過ごしているように見えます。しかし、それぞれ何かを求め考えないようでいて考えています。
よこしまな考えを頭に巡らしている時、何故か思っていることを言わなかったとしても皆に自然と悪いことを考えていると思われます。
逆によく有りたいと願う時、それも周囲の方に発言しなくても伝わる時があります。
前者は悪い印象を与え後者は周囲に良い印象を与えることしかありません。
どちらもですが、とらわれると駄目だと言われる事も事実です。
悪いことはともかく、良いことにとらわれる?それが何故だめなのか?不出来な私にはそれが疑問でならなかったのです。
とらわれる段階の問題になってくるのです。
一つの問題に対して、この答えが正しい!それが社会全般で正しくても周囲の意見に耳を傾けず自分の意見を押し通す時、発言している本人はどうもとらわれていると言われることが多いです。
段階の程度はさておき、正しいことを発言しているのになぜ賛同してくれないのか?挙句発言している本人が不遇な目にあうこともあります。

正しいことを発言して不遇な目にあった場合、次からは発言を避ける人も出てくるかもしれません。
ひょっとすると正しいことが悪いのでは?と思う人だって出てくるのかもしれません。
正しいことを発言すれば自分が一番損をする・・・そう思う人もいるのかもしれません。
何も実行せず何も発言することなしに物事が無事解決して悪い問題が無くなることがあるのでしょうか?
不遇な目に自分さえあわなければ自分は悪い問題から目をそむけ、全く何も問題ないと思いながら生活する人もいるのかもしれません。
自分は(思ってもいないけれど)愛想を言いまくっているし、ご機嫌をとっているから、他の人は駄目だろうけど私だけはいつでも大丈夫、そう思う人もいるのかもしれないです。

どうも悪い原因を自分に求めず誰かのせいにして解決する人は、他人がどんなに優しいことをしたり手伝ってあげても切るときはためらいなく自分以外を切る傾向にあります。上手や貢献度はほとんど関係ないようです。

綺麗事ですが、私は自分さえよければそれでいいとは思わないです。その根拠は誰かに降りかかる悪い問題が今現在はその人だとしても原因が解決しなければ、自分に必ず順番がまわってくるからです。私の不出来な頭では悪いことが降りかかってくるのがわかっているのに解決しない、自分に降りかかってないから絶対に自分には降りかかってくることがない!と思えないし思わなかったのです。

一人の力の限界に打ちのめされる時もありました。今は一人の力の限界の程度の幅が幾分広がりました。
誰もが考えたことがある疑問です。宗教(仏教)とは何か?

仏教の歴史は命をかけ法を求める一個人の果てしない努力によって、仏像・寺・お経という目に見える形に具現化したものが多いです。

目に見えるものの意味がわからないからと本質を見ないのでは何も見えてこないのです。

真言宗の開祖弘法大師様は仏法を求め、中国へいかれ(入唐され)ました。一介の無名な僧侶でしたから国が推し進める遣唐使になかなか乗りたくても乗せてくれません。
ただ伝教大師(最澄)様が乗った船団において船が難破したため、あらためて人員を補充し立て直し出発する。その人員補充に弘法大師様は運良く出会い船に乗れたのです。

私の乏しい頭で思うことがあります。航海技術が乏しく何回に一回は難破することがあるとわかって、つまりは命を落とすことが多分にあるとわかって求める仏法とはどれくらいの価値があるのだろうか?
例え求めて命を落とすことになっても乗り込む、つまり命より尊いものだからこそ、その覚悟を持って乗り込んだのです。何もわかっていない私こそ何の価値もない・・・ただ果てしなくそう思い知らされるのです。

仏教の本質は昔も今も何ら変わりません。求めるものに命をかけれると思ったその時、そう思う瞬間すでにその人は求めたものに出会って願いは成就しているのです。

反対も同様であり、悪いことを考えた時、その願いも成就してしまい恐ろしいことになるのです。
私は出来れば恐ろしい目にあいたくはなく、願いは良い方向性で成就するべきです。


どうも一個人の限界それは国の運命や人の生き方すら左右する程度もあるようであり、仏教の歴史は「一個人の限界を遥かに超えた一個人による真理への探究を命尽きるまで追い求め続けた。」という「生の連続」の歴史も含まれているのです。

要点は短く簡潔に

 「何事も一生懸命にやろう。」
その思いが本人の中で空回りをしている時、どのような状況かを見極めて行うという本質からどんどん離れてしまうことがあります。

説明をする。この説明している本人が誰よりも空回りして周囲が全くついていけない上に本人も実はわかっていない。

一つの仕事において本人の思いだけが先行し、良かれと思って一生懸命やっているのに周囲に注意をされたり納得してくれない。

当初に本人が願う思いから加速して離れていく現実、この場合信頼が生まれない。安心して任せることが出来ない。

一つの事を成す時、自分そして相手の二者しか存在していないと考えている人もいるようです。
相手と自分だけが納得したら良いと思う考えではまったく駄目なのです。
相手にも取り巻く周囲の人がいます。当然自分にも取り巻く周囲の人達がいます。
本当の納得できるやり方は、二者(自分と相手)だけではなく四者(自分と周囲・相手と周囲)が心から納得の出来る方法が一番なのです。

悪い例を出せばとてもわかりやすいです。
自分と相手だけが上手く話が出来ているから何の問題もない。しかし双方を取り巻く周囲の人達は納得できずに怒って反対をしている。

こうなると何の問題もないが嘘にしか見えません。何の根拠もないように見えます。ただの自己満足にしか取られかねないのです。

色々な事を踏まえ全てを上手くいかせようと努力をします。それも大変難しいことです。現実その方法が上手に行えてなく、理論だけと捉えられれば簡単に次のように注意されます。

「ごちゃごちゃしすぎている。所謂煩雑だ。つまりは自分のしていることに酔っているだけだ。つまり時には話より簡単な実行によって証明してくれ。いつも難しく分かりにくい事を言いすぎている。」

つまり机上の空論・絵に書いた餅で終わっていると言い放たれることもあります。

必ず後に続く言葉もあります。

「後は実行だけですね!」

と誰かに釘を刺されたりもします。

 話であれば「短く簡潔に」に尽きるのでしょう。

行動であれば同じく複雑ではなく皆がわかるように動くことに尽きるのでしょう。
相手の言葉がどんなものであれ、こちらはそのどれ(優しい・普通・激しく厳しい言葉)が来ても偏り無く受け取り、相手の言葉に左右されない。

どの意見や答えからでも本質(有難いこと)を見抜き、心から納得し受け取った上で実践してみせる。
それでこそ相手の思いにきちんと答えたことになります。どのような状況でも事実のみが一番厳しい答えになります。

自分が悪いことを行えば、悪い現実として自分に全て必ず跳ね返ってくる現実

自分が良いことを行えば、良い現実として自分に全て必ず跳ね返ってくる現実

跳ね返る現実から目を背ける人もいます。良いことをしていないのに良いことだけ跳ね返ってきて欲しいと願う人、そんな人は都合の良いことばかりある社会へ行ったらいいでしょう。

現実社会は甘いことはなく厳しい、考えた通りにいくことが少ない事が多いのです。

「一生懸命行い、上手くいったら笑おう。一生懸命行い、失敗して笑おう。」

やるだけのことをやっている人は「人生笑いっぱなし」の人生だ。そう教えてくれる人がいます。皆そうであれば生きていくことも、年をとることも楽しくなります。

人生は長く。しかし「要点は(話は特に)短く簡潔に」聞いている人と自分にとってわかりやすい。迷わない上に

(自分と他者にとって)救い(助け)になる事を念頭に置き一番わかりやすい方法を自分自身がとらなければいけません。








迷っているのは他の誰でもない自分自身(私)、それに気がつかないことが往々にしてあるのです。

偉くないのに偉そうに振舞う(私)

 人は汚れるような仕事、お世話をするような仕事、オムツを変えたり、トイレや汚い場所、下のお世話などつまりは日の目が当たらないけれども、しなくては前に進まないような雑務をする人をいつも必要としている(急務としている)。

それを率先して行う人はどのような人か。

そのような人がいるから手を汚すことなく過ごす人が多数存在できる。その人がいるからその場が回っている。そのような人はなくてはならない人だ。
偉そうに言うだけで何もしない私のような人は、いつも自分を捨てて仕事を続ける人たちがいないと存在できないそのもの・・・。

汚れ役や汚れ仕事をかってでる人はどこの場でも必ず必要とする。代表的な人に家庭における母親や女性(男性でもそのような人は多いが)は、赤ちゃんがいればオムツや汚物などを率先してかえる。年寄に介護をせねばならなくなればその家族のお世話をする代表格となる。

他人であれば常にその方に礼を失わなければ問題ではない。身内やいつも接する人になれば礼を失わないだけでは足りなくなる。過ごす時間が長いとその方がしていることに麻痺しやすい。完全にそのされていることに麻痺してしまい当然と勘違いをすれば、勘違いをした人物がそれなりの報いを受けることが決まっている。

なりてがいないことを引き受ける方、なりてがいない仕事にはそのことを出来る方がなるしかない。
本当に賢い人だけしかその仕事を引き受けることができない。どんなに偉い方で日の目にあたってもその方の雑務をこなさなければ生活が成り立たない。「下のお世話や汚れ仕事、汚いところを掃除することを率先して引き受けること、それが相手を拝むことだ」という秀れた宗教者もいる。

私は本当に愚か者だ・・・。汚れた場所を率先して仕事をしてくれる人になれてもいないのに、よく偉そうなことをいう。

「身の程を知らない(私)」

自分がどうやって大きくなって(成長して)きたか、誰のお陰なのか、教育は誰がしてくれたのか、誰が優しく教えてくれたのか、誰が私のオムツや汚してくれたところを綺麗にしてくれたのか、いつも食事を作ってくれていたのか、心配してくれていたのかなど数えくれないくらいの恩がある。









「偉くないのに偉そうに振舞う(私)」


これを可哀想で愚か者であり、身の程知らずと呼ばれるのだろう・・・


ごめんなさい。ありがとう。私は出来る事を生きているうちに成していきたいです。

護持

護持とは辞書で「大切に守り保つこと。尊んで守護すること」とあります。

自身の身体・家族・周囲の方といったように何にでもそのようにすべきであり、当てはまるものばかりです。

お寺や神社でもよく護持という言葉を使います。

ある方は亡き子供の供養の為に、連れ添いの方が亡くなり供養の為に、父母の供養の為に、先祖供養の為に、また子供の学業成就を願い、父母の病気が治リますよう願う浄財の喜捨であり、様々な方々の浄財により、お寺や神社では、気持ちが具現化して建物となっています。言葉ではいいあらわせない思いで建立された建物は何事にも負けないはずですし、護持しなければいけません。

しかし平家物語にある「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ  偏に風の前の塵に同じ」とあるように永遠に変わらぬものはなく、どんなに素晴らしい思いで建てられた寺社でも老朽化はまぬがれることができないのです。

ただこの世の真理は変わることはありません。

古くから伝わる寺社へお参りされる方は、先人たちに習い、自然とお参りの前後にお賽銭(喜捨)を投げ寺社を後にします。

何気ない行動の一つ一つには素晴らしい思いが自然と根付いている日本人の心の豊かさと、自然と共に生きる事を忘れず感謝と共に生活していた尊く清らかな思いが感じられます。

いつしかそれを忘れた時、自然から災いとなって甚大な被害で人は気付かされるのかもしれません。

先人たちは、自然・神・ほとけ・寺社を大切にすることで、生きていることへの感謝を伝え、忘れないようにと、行事・風習として後世に伝え続けてきたのです。

私は最近になってようやくその意味を考えるのです。壊れたり死んだりしないのであれば、大事にする必要もないです。建物も壊れるから護持する。人間も必ず死ぬから大事にするのです。また素晴らしい思いで建てられた寺社も人間も清らかであるから護持されるべきです。

信心ある方は、愚かな私に黙って態度で示して行かれるのです。今までの私の愚かな過ちは救いがないのかもしれませんが、分かった上で愚かな過ちを繰り返すのはもっと救いようがないのかもしれません・・・

良いことをしようという高尚な考えではなく、自分にできることをしなければならないと思います。

清らかな思いは幾年月を経ても色あせず、必ず光を放ちます。信心ある人の心中で光を放つように、同じ思いで建てられたお寺を護持し再建しようとするとき、その行為と共にまばゆいばかりに見えないようでいて見ることのできる光を放つのです。





(ただそこに住んでいたり守る人が人間が汚ければ、素晴らしいものまで汚れていないのに汚れてしまうような思いを見る人に与えてしまいます。住んでいる人は素晴らしいもの(光を放つもの)の邪魔をするようでは存在する意味がなくなってしまいます。結論から言えば住んでいる人がもし汚くても神社仏閣が悪いわけでは決してなく、悪い印象を与える人が悪いだけです。だから護持され続けてきただけのことです)

身を滅ぼす

 誰かが困っている。自分の保身だけを考える人ならばわかっていても見捨てます。それはほとんどの人がそうだと思います。(他ならぬ私も手に負えないことなどがくれば見捨てることばかりです。)
時折それを助ける人が存在します。

私はその人達のことを「優しい人(達)」と呼んでいます。

いつも無知な人や愚かな人が失敗をして迷惑をかけていても(本人が失敗したと思っていなかったり迷惑かけたと思っていなかったりすることがほとんどですが)「優しい人」はそれをフォローします。

いつも失敗してばかりの人、助けられていることに気がつかない人、自分がどの程度なのかわからない人、(本当に過去からずっと迷惑を掛け続けている私のような・・・)でもそのうち気がつくことがあります。(気づく年数はその人により差があります。)

「あれ、自分はいけてると思っていたが、(誰よりも)いけてない・・・」

などの言葉として、その本人の心中に出てきます。(私はそうでしたがそうでない人もいるのかもしれません)

気がつけば何が足らないのか、「では現場(仕事などの問題)が何故いけてないのに上手くいっているのか。」その問いにはすぐに答えが出ます。

自分が足りてないことは、他が補っているだけのことです。それは様々な要因が関わり合っています。端的にいくつか例を挙げれば、常に共にいる人がサポートしてくれている。自分が背負わなければならないことなのに何故か仕事をする人がしなければいけないことを、目前の出来たお客様が代わりに背負っ(目をつぶっ)てくれている。たまたま問題にならなかったなど様々他にもあるでしょう・・・。

それでも「優しい人達」は、助けようとします。何時でも見捨てることなく助け続けます。私は現実にそのような人たちを何人か見て来ました。

不出来で愚かな私は、恥ずかしい話ですがなかなかそのように振る舞うことができません。ずっと助け続ける「優しい人」が心の叫びをもらしていました。

「目前で困っていたら助けるし、荷物が持てないなら背負う(何時でも助けてあげる)。それでも本人が迂闊なことを口にしたり、行動が現実に即してなさすぎて(正しくなく)自分で墓穴をほるのは構わないが、助け続けるこちらまでそのせいで悪くなってしまう。」


続けてぼそっと

「このままではこちらが(助け続けているその人自身)が身を滅ぼす・・・」



 私はよく考えずに発言をして周囲を困らせることがあります。誰かに助けられているのに気づかず配慮が足りてないことだってよくやらかします。

私は、私自身も私を助けたりする優しい人その両者の身を滅ぼすようなことをしていきたくないです。


常にであれば理想です。自分自身の行動や発言を他者からの視点で省みることが大事だ。複数の自分以外の視点から自分を眺めることが必要だ。







あの「優しい人」の

「(助けているこちらが)身を滅ぼす」あのような言葉はもう聞きたくないのです・・・。

信じるとは

 何かをなす。その時善いことであれば成した本人とその周囲は喜びます。成したことが悪ければ、自他双方が悲しむのです。まあこれは当然のことです。

ただ善い事をなして、他人がそのことに感動する。自身も善い事を成す自分自身に出会えて嬉しくなります。自分主体においてよく普段耳にする言葉にすれば「私意外といけてる。やればできる。頑張った自分を褒めてあげたい。チョーサイコー」など善い己の行為に出会えて感動する。

自身の清らかなるものを信じて疑わない。清純で澄みきった己の心を絶対的に信じること
つまりは、悪いことを考えたり行うことがその人(自身)の本質ではない。
自身の本性が清く正しく美しいものであると世界の誰より信じること、それが仏教的な信じること(信仰)なのです。

信心の語源はどちらかと言えば、信に重きはなくきよらかなることに主眼をおき、自身の心がきよらかなることに気づくことを主体として、自身の心がこの世の何よりも清らかなることに気づき、はじめて自分自身こそが(他の誰よりも)信じることが出来る。

はるか向こうに存在する神(絶対的なもの)を信じるのではないのです。

この世で何よりも神よりも尊いもの、それは自身の本来持っている純真無垢で清淨な心、それは神々すら羨む心であるから、自身のその心を信じることを意味します。

「花が最も美しい時はいつか、それは花として咲いている時が最も美しい。では人間が人間として美しい時はいつか、人が感動するとき、素晴らしいものに出会えたときに人は涙して喜ぶ。それは人間が人間らしいときを意味し、最も人間らしい時は善であり、それが人間としての美である。」(西田幾多郎 善の研究を自分なりに要約したもの詳しくは元を参照して下さい。)

 何よりもこの世界で有り難き自分自身、それに気がついた人は目の前にいる人へ簡単に移行する。

「私もこの世で最上のものだが、貴方もこの世で最上だ。」

そのことに歩みを進めた人は優しさを持って接する。つまり相対する人にどんどん優しくすることにより、「優しい人」と呼ばれるのです。




「信じるものが、素晴らしい自分自身ならこの世に生きる人が誰だって信じてもいい。」

素晴らしい自分自身が放つ言葉は輝きます。立ち居振る舞い(行い)も輝きます。そんな人がいれば誰でも信じます。

自身より溢れ出る、金色に輝く(正しく善い)言葉や(正しく善い)行動を放つ自分自身を信じる。

再度になりますが、これを「仏教を信じる」と言うのでしょう。(現在の段階にいる私はそう信じています。)

だから仏像は金色であり、光背があるのです。あの輝きは飾りではありません。他人が輝くのではないのです。自分自身があのように輝くことを信じてただ(自身の完成を目指して他ならぬ)自分自身を拝んでいるだけです。

その仏と我が一体となることを信じる。仏のように自身が善きことを行う。そのもの(ほとけ)と変わらない自分自身、観想などはこれの最たるものだなどと私は理解しています。

世の中、悪いことを信じる人は少ないです。悪い人を信じる人も少ないです。反対に善いこと・善い人は理由なく信じます(私だって、などの言葉とともに自身もそうありたいと思う自然な願いです。)








今までに起こした悪いことは反省(お詫び)して、起こらないように努めた人のみ、その先に進むことができます。(自分に悪いところがありすぎると思わなければ、善いことを心から欲しないなんて皮肉です・・・。)



「善き本来の自分の心を信じて精進努力する。」

そうであれば私だけでなく皆もよくなる。そう信じているだけのことです。

年齢

 年長者は敬わなければいけない。人生の先輩でありますから当然のことです。
どのような人にも敬わなければと聞いて、疑問が出る人もいるでしょう。
正しいことを言わず、行動もしない年長者にどのように振る舞えばよいのか、そのようなことに愚かな私はよく悩まされました。
相手が正しくないからといって、こちらが何を(敬わなかったり、滅茶苦茶な振る舞い)してもよいなんてことがあるわけはありません。

正しくないことを発言・行動したりする人に礼を失えば、相手と自身とそれを見ている周囲に、「礼を失い続ける自分」を出現させます。その時(どんなに相手が悪かったとしても)悪い(礼儀を知らない)自分を世界に向けて発信しています。(醜態を晒し続けているともいいます)。

相手が悪いからといって、こちらも同じように悪くなる必要は全くないです。

このことは理解できても、どのような態度で平常に接するか少しばかり忍耐を必要とします。

一体「忍耐」とは何なのか、人によればただ黙って何もしないだけ、恐ろしい程に消極的な方法だなんて判断する人がいます。事実は全く違います。

どこかの天才が言っていました。

「忍耐とは、自重と勇気を必要とする最も知性的な行為だ。相手が感情的な時にこちらが感情的になれば必ず相手に負けてしまう。感情に対抗できるのは人間の知性である。その最も知性的な行為が忍耐である。」
(宮坂宥勝)

自重とは何か、自身の品性を保つために自らの行動を制する(戒める)、勇気とは正しく素晴らしいことを体現すること(実行すること)。

そのような判断と行動ができていれば、若い方でも年配の方に敬われる時にその理由を次のような言葉として尋ねたりする。

「何故私のほうが年が若いのに、貴方は私の言うことを聞くのですか」

実際に見聞きした、一例として答えが

「簡単なことです。年齢なんて関係ない、貴方が正しいから私は言うことを聞くだけだ。」

正しい人の前では、年齢は関係なくなっていくのです。
ただ世間では「人間が正しい人」は、年齢に比例して増加しているので「年長者は敬わなければいけない。」となっているのでしょう。











地位・肩書き・名誉・財産を敬われるのではなく、中身がある人に(なれていないからこそ)なりたいです。