石楠花(シャクナゲ)

 毎日何気なく仕事する斜め前方に、西洋石楠花(セイヨウシャクナゲ)が植えられています。私は仕事をしながら12年くらい眺めていました。(まあ一日中ずっとそれだけ見てるという意味ではありません。)

初めその石楠花の存在にすら気づいておりませんでした。植えられて何年目か分からない石楠花は、まだ小さく花もほとんど咲いてなかったように思います。1年1年徐々にシャクナゲは枝葉を広げ少しずつではありますが大きくなっていきます。
その間にも日々の問題、様々な困難が降りかかるものです。私も石楠花も生きていく厳しさを同じように受け続けています。私は小さな人間、そして出来てないがために不平・不満・愚痴をこぼしたり・さぼったりしたことが多いです。(反省しております。)
それに比べ石楠花はものも言わず、自分にできることを必死でいて自然に行なっています。毎日少しずつ枝葉を茂らせるには見える部分と見えない部分両方、つまり私たちの見えないところにある根を大きく地下へ伸ばし続けていったのです。

愚かな私は自身と石楠花の根っこの存在になかなか気づくことがなく、自分にとっての根っこが何かすらわからず毎日を過ごしているだけなのでした。

石楠花と共に生活を過ごすようになって5年目くらいになると、徐々に石楠花は(花を咲かせることにより)目立ってきました。
前を通る方や私の目にもそれは綺麗な花としてはっきり認識できるほどです。徐々に石楠花は脚光を浴びていきます。ですが花が開いている時間は一年のうちでも2週間弱位です。次に脚光をあびるのは来年の春(桜の咲く)頃です。石楠花はまた来年の花を咲かすために自分のできることを精一杯行うのです。

毎年少しずつ石楠花は大きくなり、花の数も増えていきます。その花の数に比例するかのように、どんどん人目をひき足を止める方も増え、写真に撮られていく回数もみるみる増えていきました。

眺めること12年程になり最初に比べればあの石楠花全体がかなり大きくなりました。花は数え切れないほど咲いているのです。以前であればあそこに石楠花が咲いていますよと案内をしていたことが多かったのです。

今案内はあまり要らなくなりました。反対に見ておられる方がこちらへ「綺麗に咲いていますね」と教えてくれるほどです。

石楠花に向かう道はないのですが、花に惹かれて自然に皆が石楠花の近くまで向かう道が私には見えます。

昔憧れた史記の諺に、

「桃李不言、下自成蹊。」(とうりものいわざれども、したおのずからけいをなす。)

桃やすももはものを言わないが果実が美味しいためにその木の下まで勝手に道ができる。10代で何もわからなかった私が自然に人はこうありたいと思わされた言葉でした。(憧れただけで何も成すことがなく徒に月日を過ごした愚かな自分が本当に悔やまれます・・・)

今私の目の前に咲き誇る石楠花も見えない確固たる根をはり続け、皆の目に見える素晴らしい美しさの数え切れない花を咲かせ自分の前に道を作る程度になっていました。

私は「自分がいる場所がどこであろうとも花を咲かせねば」と最近言い聞かせることが多かったのですが、目の前に体現してみせる石楠花に帰依し、また教えていただきたいと石楠花を見続けて12年目の春にあらためて再認識する(思う)のです。

また石楠花は来年の花をつけるためにものを言わずに一生懸命生きていくだろう。私もそれに負けずに生きていかねば、人である私は負けずぎらいなところをなかなか捨てれません。






いずれにしても私のつまらない話は石楠花の花の美しさの前ではどうでもいいことです。


ただ私は「皆で純粋に花を楽しめる生を生きていきたい」あの美しい花を見て、そう思うのです。
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天を向いている

 スタイルや顔、つまりは容姿が綺麗な人に憧れる時があります。
私がそうでないから憧れるのでしょう。(ブログでは私のスタイル顔が見えないから一安心です。)

スタイル・顔など、いわゆる世に言う綺麗な人が行儀よくふるまっておれば、美しくみえます。
私がどんなに行儀よくしてもそれだけではちょっとそうなりません。(そのへんだけは自信を持って言えます。)

だから憧れるんでしょうけど、ただ人と過ごす時間はそれを解決します。

綺麗で中身もいい。何もいうことがありません。ずっと一緒にいてほしいなどという願いを持ちます。ただ皆が思う願いになりやすく、その方を奪い合う確率が高く、皆が一緒になんていうことは無理になります。

まあそれほど綺麗でないけど中身が良い。一目見てそれ(中身)を見抜く方もいるでしょう。私も含め大抵の方は過ごす時間が長くなれば、必ずその中身の良さに惹かれていきます。憧れを持つようにもなります。

それほど綺麗でもなく、中身も良くないことが多い人。この場合過ごす時間が長くなればなるほど苦痛に感じる人がほとんどです。私が悩み、出した答えは

「中身さえよければいいんだが・・・」(まあ大体の人は考えなくても思うのかもしれませんけど)

私が他者に対して身勝手な願いをどれだけ持ったとしても、良い方向へその人自身が向かおうと考え努力しなければ現状は何も全く変わりません。その場合面と向かっては言われることはありません。その代わりに陰で、顔やスタイルがあまりよくない上に、根性が悪いような人であればもれなく

「綺麗もないのに天を向いている。」

なんて言われることになる。そう教えてくれる人がいました。

「天は二物を与えず。」この言葉は誰でも聞いたことがあるでしょう。両方無い私はどちらか、いや見た目ではなく、中身を綺麗にしなければ、私とこれまでもこれからもふれあう方に迷惑しかかからない。












「あんたのどこに良いところがあるの、いくら探してもないだろう。ええとこなしやな・・・」



「あなたは綺麗もないのに天をむいている(代表だ)・・・」

なんて恐ろしいことを言われないように、私は注意して(精進・努力を続けて)いきたいです。

生きがい

 誰にでも幼少時代があり、そして時が来れば大人になります。
幼少時代や学生時代の生きがいと大人の生きがいは随分と意味合いが変わってきます。
自分から他人へと生きがいの目的や対象が変わるといえば通じやすいかもしれません。

自分だけがよければそれで良いという生きがい、自分のことは後回しにして誰かがよければそれで良いという生きがい。

前者が子供的、後者が大人的と分類できそうです。
毎日仕事を頑張り給料が出ます。自分のためだけに使う人もいます。自分に全く使わず家族のためだけに使う人もいます。子供や伴侶のためだけに使う人もいます。孫のためだけに使う人もいます。

本人のことを思んばかり、今困らぬように先にも困らぬように両親や家族・周囲の方は物心両面惜しみなくその本人に降り注いでいても、当の本人がその本質に気づかなければ何にもならず、ニーチェの言う「その人(本人)にとっての最大の恩恵はその人(本人)を成長させない」悪い意味として思い当たる節ばかりで、私は大切なことを失敗して取り返しがつかなくなってから初めて気づくのです。失ってからでは遅すぎであり、いくらあやまってもあやまりが足りることがなく元には戻れないのです・・・

 世間一般において、祖父母・両親が偉いからその方の子供でも年上の人は立ててくれたり、その人の家にお金があるから機嫌をとってくれたり、地位・名誉・先人達の恩恵様々な自身と関係ないことで立ててくれていることを自分が偉いと少なからず錯覚しつづける私のような人もいるのです。

わからない・気づかない私に「生きがい」とは何か?と聞かれても恥ずかしい答えしかでるはずもなく、むしろ質問した方はこちらが何をおかしいことをいってるのか?としか思わなかったりするのです。
世の中でおかしいことを言う人が痛い目にあわない訳もなく、おかしいまま存在し続けれるはずもないです。
もし、おかしい発言のまま本人が気づかずに存在できるとすれば、周囲の方がその本人をサポートし(守り)続けているのです。

「生きがい」とはどのように自分が生きているかを誰よりも理解し、その上で思う理想の生き方です。

自分のことも果てしなくわからない人に聞いたとしてもしょうがないように思います。

わからない人の中に「自分は誰よりもわかっている。」そう答える人もいます。ただその人の出す答えに誰も納得してくれない時があります。また納得どころか発言する言葉の意味すら周囲の人はわからない時もあるのです。

わからないにも二通り方向性があり、良い方向のわからないと悪い方向のわからないがあります。このわからないの差は大きいです。

 先日給料日に一緒に働いている方が喜んでいました。

「やったー給料日」

すごく喜んでいるので何故ですかとお聞きすると、

「全部孫に使う」と言っていました。「ええ」私はびっくりしました。
その後に

「それが私の生きがいだから」

と笑って嬉しそうに言っていました。

「忘れんようにおぼえといてよ」

と、その後に言われました。しかし忘れることがないくらいインパクトがありました。

自分の存在が既に無く、他人の喜びを自分の喜びとして自然に実行されている方のわからないは意味がわからなくても爽やかです。

これから自分も他人にあの人は難しすぎてわからない、付き合いにくくてわからない、悪い方向のわからないを与える存在には出来ればなりたくないです。

時折、良い方向でわからないが素敵な方、爽やかでありとらわれることのない、そういう人に憧れます。
難しいことはさておき、子供から大人まですぐに近寄って一緒に話や共に時間を過ごしたい。または皆が心から一も二もなく賛同できる「生きがい」を持っている。そう自然に思われるような人間でありたいです。

人間関係

 学校・職場・社会いずれにしても人と人が関係を持ち成り立っている場所といえます。
最初からどこの場でもベテランと呼ばれる人はいません。誰もが最初は新人です。

慣れた人と新人では、同じことを考えていて発言したとしても大分内容が違います。
新人さんに比べ慣れた人の発言は周囲を怒らせることが少なく迷惑もかけにくくなっています。
そこの差が「慣れ」または「熟練度」または「経験の差」として言われるのでしょう。
ある仕事を成す時に、新人は規則・発言・注意に縛られすぎて目の前の相手へ必要以上にきつく言いすぎ周囲の人にあまり良く映らず、挙句きちんと説明したからうまくいくことが多いかというと、そうでもないこともあります。
慣れた人は気楽に発言が少なく縛られず言わないことも多いのです。パッと見てあれでいけるのか?雑すぎだからいけないのではないか?と思われるのです。しかし全体を見渡して見るときつく言う新人よりなんでも上手にいくことが多いです。

私自身もよく注意されます。言わなければいけないと気負い過ぎ、結果発言時間が長くなると帰ってきて注意されます。長い時間にわたり発言し過ぎると、相手は最初言われた大事なことを最後には忘れてしまい結局何が一番大事なのか何がどうなのかわからなくなる。
ここに来て発言が少なく慣れた人が最低限守らなければならない大事なことのみを発する事がかなり注目されてきます。

注意などの話に多大な時間を割くより、会話でもっと重要なことを見て、守らなければいけないことなどの注意事項は紙にまとめて時間があるときにご熟読下さいといった方が良い場合もあるのでしょう。
担当の人間がいつでも担当出来ればそれが一番です。しかし、人間は休息を必要とする生き物です。仕事以外の雑用でも時間を取られます。自分が不在のことも考えて行動をするようになって、初めて一人前と呼ばれていくのでしょう。

自分自身の言葉・行動・思考がいつも周囲にどのような影響を与えているのか?口頭で教えてくれる方はごく稀です。

一生懸命に行なっているのに上手くいかない時、自身が周囲にどのような影響を与えているのか?周囲の細かなサインを見逃さないようにしないといけません。
例え仕事が無事にいっているようでも、周囲の気持ちがその反対にいくようでは意味がなくなります。
仕事と周囲の方が良くなるようにと自然に思うようになれば、周囲の方はその方に無意識で手助けをします。
出来ることをやってあげたいと思うようになっていきます。中にはお金も労力も惜しまない人も出てくるでしょう。
「貴方にだったら1000万投資してもよい!」こちらが驚くと、あっさり続けてその先をいう人もいます。
「ただ出すからには2000万分は、働いてもらう!」返す言葉もないことに出くわすこともあるかもしれません。
もしそんなことを言う人がいたらどうするだろうか?実際に有りもしないような事です。しかし考えることは大好きですから考えてみました。
「1000万出しても無駄ですよ。もし出してくれたとしても無くなること(リスク)の方が大きすぎる。でも・・・それが2000万になっても無くなったとしても、お金を出して損をしたけれど、あれは面白かった。」そう相手が笑いながら答えを出すようなことをやりたいです。
結果や勝負にこだわらず、「貴方が信じたもの、つまりお金または惜しみない協力をしたことは決して間違いではなかった。」そう心から自然に思える行動を取りつづける人でありたい。
その根拠が勘違いでも、愚かなこという存在でもよいのではないか、笑って本人へ「あの時は騙された。」といってくれるのも楽しいのではないかとなるようにありたいです。
身近で大変お世話になっている人に教えていただきました。
「人が人と接する時、相手がどんなに愚かに思えても賢く思えてもただ一つ決まっていることがある。
どちらかが教えているだけなんてことは絶対に存在しない、どんな場合でも必ずお互いがお互いから学んでいる。」

「良い勘違い」はしたほうが良いと思います。悪い方向への勘違いは自他共に悪い影響がでるので一番気をつけねばいけません。
ただ世の中には冗談でも人が絶対に言わないことを口にして、存在価値を認めてくれる人もいます。逆にただ悪くいうだけの人もいます。
いずれにしても両者の言葉は真反対にもかかわらず、本人にとってはそのことが原因として成長できる。これは紛れもない事実です。どちらもこの世で有難いものと呼ばれるのです。












(善きことはいうことはありません。まあもし悪いことにあったとしても、これで私も皆もきっと大丈夫でしょう・・・。)

 愛の形は人それぞれ違います。
不出来な私は過去に「これが理想的な愛の形ではないか」、とよく押し付けるようなものの言い方をして不機嫌になられ挙句は怒られたり、言いすぎてお互いの関係を気まずくしたりしました。
それでも今まで運良く優しい方に見捨てられることもなく優しく何度も教えていただきました。

 「100人いれば100通りの愛の形がある。だから一つの愛の形に限定されない。」

それもその通りだと最近ようやく気がつくのです。

 親子特に娘さんと父親の関係は、周囲からみると不思議な時があります。
娘さんは自身のお母さんに似ているかどうかはわかりません。父親に遠慮なしにきつく言う光景を見かけます。

ちょっとそれは言いすぎではないかと、尋ねてみると周囲の方(他人)は遠慮して言ってくれないから私達(娘達又は妻と一緒に)が言うしかないという答えがありました。

それから注意してみると、その娘さんの言い方はやはりキツイです。娘さん自身が出来ているのかな、そう思い、娘さんの行動を更に注意して見てみると出来てないのにきつく注意しています。

その娘さんはそれが「優しさ」だという気持ちで注意しています。父親は社会に出て娘さんが大人になるまで必死に大きくしてきたのです。

長い人生経験で良いことも悪いこともあったでしょうし、失敗も成功も学ぶことも沢山あったはずです。
普通に考えれば父親は人間的に完成しています。つまりは娘さんより大抵の場合において人間ができていることが多いです。(時折私みたいな父親ならば例外もあります。娘はいませんが・・・)

父親は出来てない子供が自分に注意してくれるのを「ありがとう」という優しさで受け止めます。

身内でなく他人の場合、出来ていないことばかりの人に注意されると腹が立つことがある人だっているのかもしれません。

それでも身内の場合、人間的完成の大きさで感謝を持って受け止めていることが多いです。
身内他人に関係なく出来た人は、出来ていない人に注意されても真摯に受け止めます。
出来た人はさらに上へいこうとしています。既にその方は完成しているから、もうそれ以上しなくてもよいのではと思うかもしれません。

「完成」という言葉はそこで終わりの意味ではないのです。さらに完成を目指しつづけることを「完成」と言うのです。

完成を志す(出来ている)人の中で思う人もあるのかもしれません。出来ていない人に注意されても自分の方が出来てないから、こちらがさらに頑張らねばと実行する。

次第にできる人とそうではない人の距離は加速して離れていきます。
注意され気をつけ実行する方は、何時だって完成に近づきます。

完成に近づく人は自然に「何か」を思うのかもしれません。
一人の力の限界知り、世の中は一人だけで生きてはいけない。自身の存在と周囲の存在とは切っても切れないもの。

「自身だけが完成に近づく、その完成は自分が目指すところではない。」

自身と周囲(他人と身内の双方を含む人)と共に目指す完成こそが、自分の志す「完成」なのだ。またさらにその人は、大きな「完成」を夢見ていく。

人間は完璧ではないからこそ理想・完成に憧れ向かうものです。
愚かで優しくない私のように現状完成に程遠い場合でも、優しく愛情をもって接してくれる方が沢山おられます。


自身の程度と相手の愛情の度合いに気が付けば、出来てない私は優しさと愛情と努力を持ってこれから生きていくしか道はなく


「100通りの愛の形、その全てを包み込む一つの大きな愛」

私の身の丈に到底合わない。けれども、その大きな「愛」に憧れてやまないのです。

意見の押し付け

 出来ていない私、時折口論になります。相手と自分の意見の相違、微妙なニュアンスの違いでも、「何かが(それは)違う」などの言い合いに発展したり、挙句相手が少しでも、「私の意見を違う」と言えば更に口論がエスカレートして、結局相手が折れるまで言い続けてしまう。

意見の激しい対立、時折手痛いしっぺがえしを受けます。「相手を言い負かせた。」その瞬間は勝ったように感じます。

実際はそのような簡単な問題ではありません。勝ち負けがついてしまえば、思いもよらぬところで反撃されグウの音も出なくなることだって覚悟せねばいけません。

いつだって私は自分の意見をおしつけようとして、結果痛い目に会いました。
激しい痛い思いを伴ってしか学べなかったのは本当に誰よりも情けない話です。

できれば意見は、人に押し付けないものでなければ、相手が落ち着いて聞くことができ、聞いた後に「心から納得する意見」でなくてはならないように考えます。

答えをこちらから押し付けるのではなく、聞いた方が自ずから答えを出せる話でなければいけない。

 この広い世界の中で意見を押し付ける時の私は、非常に激しい偏りを持ち、本当に恐ろしい程、狭すぎる視野と意見になっています。(私自身という人間だって極めて小さすぎるなど判断されます。)

でも、そんな私の意見だって、生き残れる道があります。

目前の方(あなた)がこれから困難が沢山待ち受ける人生の中で、解決するときの選択肢の一つにでもなればなど(参考程度)というくらいの気持ちで話せているのであれば、衝突も随分減っていくように感じました。何も思いつかない場合は仕方なくそれでもいいか・・・

あらためて、数ある意見の一つになればという感じならまあそこそこいける時があるのです。(まあ自分に言い聞かせているだけともいいますが・・・)

 過去の私はいつも頼まれてもいないのに、話を持ってこられたら「他のだれでもない私が解決せねば」そう思い、激しい意見を押し付けてばかりでした。

この場を借りて激しく押し付けた人達に謝るほかありません。

「本当にごめんなさい」













でも、やっぱりまた押し付けてしまう恐れが・・・

その時は「また激しく偏ってる。まあいつもそうだから良いか」などといった人間的度量の大きな心を持っていただければ、問題はないのですが、そんなに世の中都合よくいくはずもありません。





私的見解

日々の精進を持って(起きた悪いことは起こらないように、おきていない悪いことがおこらないように務め、善いことはもっと沢山増えるように種をまきつづける)、どうせ私は人より大分かたよっているんだから、かたよるなら皆と私が善い方向へ進むことの出来る道へ、私はかたより続けていくだけのことです。

とんでもない

 何時までも慣れることがなく、目の前に現れれば驚愕してしまうこと

それは悪い意味での「とんでもない」こと(事実はとんでもない問題ではなくその人になる)。

 自分の愚かさを知らず、目前の方の程度がわからず、発言・注意・行動などをしてしまう。あげく自分よりできている方に向かい出来ていないなど指摘する。

また私は職業・地位・肩書・名誉・収入などがその人より高いからなどを洋服のようにまとい、さもその洋服に敬意を払えなどという空気を発する。

同じ人に何度それをされたとしても私はそれに慣れることがない、いつでも驚いてしまう・・・。

その中身(行動・思考など)が全くないように思われる人を見て、周囲にいる方が

「あわれ・・・、可哀想な人だ・・・。」

以前の私はよくその意味がわからなかった。可哀想なのは私だ。いつも被害にあってばかりでなど程度の低い思いしか持つことが出来なかった。

最近は自分ができることを一生懸命に行なっていれば、とんでもない人がとんでもない発言をしたとしてもこちらは以前よりゆらぐことが少なくなってきた。だからと言って慣れたわけではない。

慣れないが、私の発言も変わってきた。

「かわいそう・・・」

それは私が目の前の方と同じ道を選ばないことを意味しており、自分は何かをそうならないように頑張っていこう。そうでなければ誰の目から見ても「かわいそうな私」となってしまう。

そのことをわかった上で発言して欲しい。目の前の方がどんな程度か分からずに発言すればとんでもない目にあう。

自分が置かれている仕事に心から満足し、感謝を持ち謙虚で素直な心を持てれば何の問題もない。






とんでもなく悪いことを常に行い続ける人には私は憧れない、なりたくない、避ける事ができるのであれば近くにいたいとは思い難い、いつもその方へ感謝しています。

「悪い見本を示してくれて有難う。そのように行えばそうなることを示してくれる。人が寄り付かない誰も憧れない一人の人間としての例を示してくれている。」

「私はその悪い思いを一つも受け取らない。その場合は全て発した人が持ち帰るしかない。」

ただどのような人にも、礼を失ってはいけない。
いつも私の進むべき方向を指し示すほとけのような人たちに感謝しています。





でも、やっぱりとんでもない悪いことには何回あっても慣れないのでもう勘弁して下さい。
その答えは心から生じてきます。

「おまえ(私)は気を抜くとすぐに忘れる、努力を怠る、慢心してしまう、だからまたかならずあらわれる」

反省

 考えなく物事を行う時、成功するときもあれば失敗もあります。見る人が見ればその違いを明確にみてとります。

今は偶然上手くいっていた。今は偶然失敗した。

明らかにその差が出ています。前者は大体失敗するであろうが今回は偶然に成功した。後者は明らかに成功すると思われたが今回はたまたま失敗した。
結果だけを取れば前者の勝ちという人がいます。元々勝ち負けが問題ではないのに目先にとらわれ、本質から離れた答えに左右されているだけです。

ある人は「失敗は成功の母」ともいい、「失敗で終われば失敗になる。だから成功するまで行い終われば成功で必ず終わる。」また「失敗の数が増えれば成功への道に近づいている。」など沢山の言葉があります。
失敗で終わるのではなく、何の原因によって失敗したのか、どうやれば上手くいく可能性があるのか、次こそはと今までの経験や結果を反省し次につなげれば問題ないのです。一つの物事がうまくいかないからといって人生が終わりではありません。

人によれば「9割物事は上手くいくことがない。」と言います。悲観的にとれば落ち込んで希望をなくす人がいます。やる気を失う人もいます。9割上手くいかないと教えてくれた人は、上手くいかないといいながら自分の努力やその時にやれる事を必ず行なっています。

こちらが100%理解できないので、さらに踏み込んでたずねてみました。
すると「9割上手くいかないと自分で思っていれば一生懸命努力したのに、上手くいかなかったとしても納得がいく。」と言われました。その方は上手くいった、失敗したどちらの結果になったとしても、自身の行いに変わらない。今やれることをやっていくだけ。ただ上手くいかないことが多いと思っていれば失敗してもがっかりしなくてすむ、つまりは心の問題だといっているのです。

またある人は、その人は変わっているのかもしれません(誰かに似ているような気がしますが)。9割上手くいかない言葉を聞いて、それなら「1割は上手くいく」と解釈し「100物事を実行すれば10上手くいく。」もっと「千回物事を行えば百上手くいく。」上手くいく事と上手くいかない事を全て自身で行えば、自身が上手にやれる事だけを選択したらいい。それなら本人にあった上手くいくことだけを常に実行することが出来る。そう解釈する方もいます。

偶然上手くいった時、その事実・結果・詳細を反省し次へつなげば、それは偶然ではなく必然へと繋がっていきます。

生き方もそうです。これまでの自身の行いを良いことも悪いことも反省し、悪い点は改善し起こさないように努め、良い点は伸ばすように日々考えればよいだけなのです。それなら自身に悪いことが降りかかろうがその困難(問題)から逃げなければ必ず良いことにつながるのです。

「反省なら猿にでも出来る。」と言われることがあります。形だけの反省と思われる場合にこの言葉は出てくるのです。

何が問題なのか、反省することを突き詰めて物事に真摯にのぞみ、前へ進むことを止めないならば、そのように言われなくなります。考えから実行へ移る段階の産物です。
反省もせず、前に進むことをやめ、逃げ続けるならば本人はその場と段階に居続けるのです。周囲からすれば前よりもっと悪くなっている(悪い方へ下降し続けている)ともとられます。








良い段階にずっと居るのなら感謝され続けるのでしょう。反省とは飾りの言葉ではなく、心からの反省でなければ次に活かせることは少ないのです。

背負うタイミング

 物事が緊迫していないとき、つまりは普通の状態(落ち着いているとき)私は決まって優しい人に相談するのです。(そりゃまあ緊迫している時に根掘り葉掘り聞いていたら怒られますから、その時には私は怒られたくないから後で余裕のあるときにしか聞きません。)

現在大変ではないんだけれど大変そうな人またはこれから大変になることが分かっている人のことをよく相談します。

「どうしたら理解して現実に即した行動ができるようになるのか」

ほとんどこの問題についての質問ばかりになります。私のダメなところです。考えすぎて理論だけが先行しすぎてそれじゃないとだめだなんて思ったりするところが一番いけません。でも結局は上手く行きたいと思うならそれを納得し実行するしかないんだけど、そのような思いをなかなか捨てきれないのです。すると

「今の段階で難しい問題を背負えてないんだったら、もっと難しいことなんて無理に決まっている。」

優しい人はその言葉と共に動き、その人の重荷を代わりに背負って前に共に進みます。

あらためて言葉にすれば

「今は無理だから代わりに引き受けてあげるすべてを、だから自分のいまできるだけのことをしてほしい。」

そう言ってほとんどの重荷を代わりに背負う人、私はその人を優しい人(達の中のひとり)とよんでいます。
その方は背負った後で困難を背負えなかった方が受け入れる体制ができた(本人にとって余裕のある)時に釘をさしています。

つまりは「ことの大事さ」をわからせるのです。重荷を背負う、「その重荷の真の意味」を理解させるのです。
背負わなければいけない人の自分が代わりに背負ってみせたあとで言うのです。本人は余計にこたえます。

「わたしはどうなんだろうか」その問いと共に答えが出ます。

私はそれに比べて全く優しくないです。その方とは正反対です。その方ほど優しくなく、やることも少ないです。
私はいずれどうせその重荷を背負うんだったら、「背負えまいが背負えようが、すぐ背負え」そして現状、もし背負えないのであれば、「我が身の程を知れ」そうでないと自分も周囲の人もどの程度なのか理解できないだろう。(話にならないだろう)なんて激しく優しくもなく偏りがありすぎます。

自分がどの程度かも知らなければ出来る人に感謝もしない。助けられていることにも気づかない。自分の愚かさも知らないなど、過去の私のようでは全く話になりません・・・。

後になり、「もっと早く教えてくれていたら(知っていたらまたは気づいていたら)」なんて世の中の誰もが思うことかもしれません。


私的結論

 「いつ気がついてない人に背負わせたらよいのか」













「今でしょ!!」




(すいません。これちょっと使ってみたかっただけです)

わる年寄り

 私は長崎で生まれ育ち(18まで)、和歌山で(8年間滞在)大学へ行き、岡山で少し(2年)働き、徳島へ来てはや12年目になるでしょうか。

「月日が経つのは早い」、その言葉が出るのは私が年をそれなりにとったからだろうなんて思います。
故郷(長崎)にいる時は、何も考えたことがありませんでした。

「自分は何の仕事をするのか、どこで生活しているのか、誰と結婚するのか、子供は何人いるのか、進むべき道が何なのか、何を行い何を考えるのか、何を成すことができるのか、どのように生きて行く(しんでいく)のか」

改めて書きますが、本当に何も考えていませんでした。

そのせいでしょうか、最近はよく考えます。理由も簡単です。私の場合は、考えなしではどうにもならないからです(考えなくたって全然問題ない人だっているのでしょう。私は問題だらけなのです。)

 徳島へ来てから、誰ひとり面識がなかったです。その中で年配の男性は、私にいつも(現在にいたっても)優しく接してくれています。自宅へちょくちょく子供の顔を見に自作の野菜をもって夫婦で訪れてくれたり、住んでいるところがワンルームだったため、少し広い所へ引っ越すときには、その方だけが手伝ってくれました。

今となってはただの言い訳にしかなりませんが、新しく生まれた家族と慣れない土地と仕事、信頼を得るために、日々私は私なりに必死でした。そのため発言がきつかったり、視野が狭かったり、仕事にミスが出たことに気がつかない、どこへも行く余裕がなかったことは、若気の至りとそのせいにしておきます。(ただの若輩者であり、愚か者というのでしょう)

最近は知り合いもほんの少し増えました。ただ初めから優しかった年配の男性は、最初の時以上に私と家族に優しいです。

日々会いますから、色々なことを教えていただきます。わからないことはよく質問します。
まあ私がその人に「なんの役に立っているのか」なんてよく考えますが、納得のいく答えはまだ出ていません。

お世話になる方の年齢もさまざまです。世間一般のとおりやはり年長者の方が圧倒的に優しくお世話してくれる方が多いです。年配の方には当然優しい人もいれば、普通の方もおり、意地悪なことをいつもいう年寄りもいます。

「ある家へ用事で行くのだけれども、いつもキツイことを言われたり、自慢されたりする。一回だけでなく何回もそういうことがあるから、私は人間が出来ていないからその人がちょっと苦手なんですよ・・・」

そういつも優しい方へふっとそんな話がでたときに尋ねてみました。

「いつもか?」

「毎回だよ」

「あー、そりゃ、ワル年寄りになっとるな・・・、それはいかんわ」

私は生まれて初めて「悪年寄り(ワルドシヨリ)」という言葉を聞きました。その反対の「善い年寄り」説明も既に終わっています。私の今話している方が最初から優しい方、つまりは「善い年寄り」です。

「悪年寄りにはなったらいかん。」(うんうん)

私だって今は中年ですが、生きて年を取ればいずれは年寄りです。










私的結論

説明は重複になるから、もうしません。どちらを選ぶかなんて100人が100人決まっているでしょうけれども

私は悪年寄りにはなりたくないです。(つまりは、「善い年寄り」になりたいのです。)



方法も簡単

日々の小さな善い行いの連続を続けないと・・・・、願わくば惜しまれて死ぬような人でありたいです。

嫌がられて(悪いことばかり行い続けて)生き続ける人は近くに割といますので、私まで迷惑をかけれません。

光が当たる場所

 よく他所様のブログを拝見して色々勉強させてもらっています。気になる(面白い)言葉がありました。
よく聞く「縁の下の力持ち」(意味は人目につかないところで努力、苦労すること。または、そのような人。 )これはよく聞きます。

そこにあった言葉は

「縁の下が力持ち」

上手いこと言うなあ、なんて感心してしまいました。

「縁の下の力持ち」といえば、主役に光が当たっています。主役が、支えてくれる人に感謝したり、見る人が見て光が当たっているのは「縁の下」の支えがあるから、などの言葉として使っています。つまりは光が当たる場所は理解出来れば2箇所なのです。「主役」と「支える人」どちらにも当たる言葉となり、良いイメージです。

「縁の下が力持ち」これは本当に面白い言葉です。二通り意味は解釈出来ます。
一つ目は主役に光が一応当たっています。主役が「(謙遜して)私に全く力はなく縁の下だけが力持ちなのです。」これなら主役の方は本当の自分を他者からの目線で見て、自分より縁の下だけが力を持っているからと発言し、「縁の下の人(達)のおかげでわたしがあるのです。」この言葉が出るような人なら、縁の下だけでなく主役にだって当然光が当たります。まあ出来る方が謙遜して発言しているだけとも言います。

冗談ではなく正真正銘「縁の下(だけ)が力持ち」これはどうでしょう。
主役は飾りです・・・。縁の下が光すぎるためにその場所が成立しています。まあ建前として主役が存在している。それを主役と呼べるかどうかはわかりませんが、飾りとしては成立しているというのか、その状況しだいなのでしょう。
いずれにせよ表舞台にたつことなく、陽の目に出ず自身と飾りのような主役を輝かせる人は素晴らしい存在です。「縁の下が力持ち」の言葉を成立させる人は超一流だろうなあ、なんて思いながらしばらく考え込んでいました。








私は表舞台に今まで出ていませんし、これからも出れる予定はないです。

目指すところは

「縁の下が力持ち」

そういう人に慣れたらなあ、なんて思う言葉でした。

おでかけ

 久しぶりの祝日に休みが取れました。(私には土日祝日休みなんて珍しいのです。)

「子供達を何処かに連れて行ってあげよう。」

一年の内、大抵の休みが平日なため子供達と休みを過ごすことが少ない私です。(まあサービスに関わる人達は土日祝日なんて休みが少ない人がほとんどだから、私だけ贅沢はいえません。)

泊まりで何処かへみんなでなんて理想だけど、お金と一日の休みの都合上、日帰りアンド安くすむ温泉でまったりコースだな、なんて前日の晩に詳細が決まっていました。

朝起きてみると、何やら騒がしく

「どうしたの」

「(一番上の)お兄ちゃんが熱が出てて・・・」

「ええー」

昨年暮れの時には、真ん中の子が高熱が出たために、全て予定がキャンセルだったことを思い出しました。嫁は私とは違って

「私の気をつけ方が足らなかったから・・・」

そう反省していました。まあいずれにしても困りました。嫁は続けて

「私が留守番しておくから皆で行ってきて」

(うーん出来た嫁だな・・・、これは私的見解です。)

お兄ちゃんを無理して連れて行ったとしてもひどくなったら困るので、お昼をしっかり食べさせてよく寝ておくようにと言いでかけました。

昼過ぎから近場で神山温泉へ出発、道中考えなしに進んでいると、地元の人しか知らないような極細の林道へ、どれくらい細いかというと、車の対抗は無理な上にガードレールは無し、踏み外したら崖の下直行なんていう道でした。真ん中の子が「怖いよー」なんて何度も言ってました。まあ私もかなり怖かったのです。細すぎて引き返す所もなかったというのが本音です。「あの道は二度と通らない。」そう思いました。

無事目的地へ、温泉に入れば、あまり公の場に出ていない一番下の「けいくん」(2歳8ヶ月)は慣れない大衆浴場(温泉)で大泣きしていました。

出てきた後には

「お風呂あったたかったねー」

ええー大泣きで楽しんでなかったかと思えば、さらに

「たのしかったねー、またいこー」

「よかったよねー」

なんて言っていました。泣きながらも楽しんでたのか・・・(子供は不思議です。)

帰り道、真ん中の子供が

「あの恐ろしい道、通って帰ろうよ」

「嫌だよ(運転する私が一番怖いから)普通の道で帰ります。(やっぱり子供は不思議です。)」

無事帰ってきました。長男坊に帰り道でお土産を買ってあげました。神山温泉は本当にいい湯です。入ればお肌がぬるっとした感じがします。出て肌を見たらピカピカしていました。
ちょうど桜の見頃に毎年日帰りで訪れています。あと一週間ちょっとで桜も見頃、お兄ちゃん治ったら来週一緒に仕事終わって連れて行ってあげるか、なんて予定を立ててみました。







家族皆そろってないとやっぱり駄目だな

「来週は桜が素晴らしく綺麗に違いない。(誰も寝込まないといいんだけどね)」

小さな夢

 私は時折というかよく夢を見ます。
寝ている間と起きている間の両方です。寝ている間の夢は何か予測不可能ですが、起きている時にみる夢は自分が思うように観ることができます。

若い頃には一生遊んで暮らすのだなどという、どうにもならない夢をよく見ていました。愚かな思いはそれなりの報いを受けます。
自分だけが都合良い利己的な夢に全員が賛同しにくいです。時折それでも自分を捨てて助けてくれる方もおられるのも事実です。
この世の本質は苦であるといいきった仏陀、現実は厳しく儚く思ったようにいかないことが多く、ですから人々は理想や夢を胸に抱くのでしょう。

紀元前に現れた一人の宗教家である仏陀シャークヤムニの夢は、

「あらゆる暴力の否定を教えた。それは多くの人々にとって宗教家の夢想としてしか思われなかった。ところが二千五百年後の今日、インドの独立において仏陀の言葉が正しかったことが立証されたのである。現在のインド人はその国土の生んだ最高の偉人として仏陀世尊とマハートマ・ガンディーを挙げる。彼らはこの二人を理想とし、その理想を実現しようとしている。」(仏教のあゆみ・渡辺照宏)

インドでは暴力は暴力をもって止むことはなく、ただ慈愛によって止むということを理想とし、国民全体で実践し自分達の理想の国を取り戻したのです。

日本の仏教においても弘法大師空海は承和2年(835年)、三月二十一日高野山奥之院へ、万灯万華会の願文にあるように「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記され、「宇宙に存在する生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなった時、私の願いも終る」との誓願によりご入定されました。

約千二百年前にみた一僧侶の夢想は、現在もなお高野山奥之院とお参りされる方の心の中に有り続け、四国八十八ヶ所とお遍路様の心の中、弘法大師を信ずる方の心中にも有り続け光り輝いています。

私は出来れば多くを望まず、自分が一生懸命毎日出来ることを続けていれば周囲の人達と必ず幸せに過ごせるのでは?という小さな夢を叶えるために努力し夢を見続け、いずれ開く花は美しいものだと信じてやまないのです。

私達の小さな夢に基づく小さな良い行いの連続、時を待ち、人を待ちその間にも仏教を信奉してやまない無名の方の心中と行動に支え続けられ、弘法大師(一人の僧侶)の夢想とも謂われる小さい夢はインドと同様であれば、あと千三百年後に花開くのかもしれません・・・











知的な人々に私は笑われてもいいのです。

時には長い眼で夢を見続けることも必要なのかもしれません。

生きていいという根拠

 物事が上手くいっている時、大抵の人は幸せと感じるのかもしれないです。

物事が普通状態であるとき、特に何も考えなくていいと思う人・これこそが幸せと思う人・満足に思わない人もいるのでしょう。

物事が非常に上手くいっていない時、誰かに助けてほしい・なんとか改善しなければといったことになっていくのでしょう。

悪い方向へ物事が転がりだし、ここにきてようやく誰でも悩んだり考えはじめます。人によればその原因を何かのせいにする人がいます。

「国が悪い(しっかりした仕事をしていない)」「社会が悪い(不景気だから)」「会社が悪い(私のことを理解してくれない・何も考えていない)」「目の前にいる人たちが悪い(皆が悪い・自分は悪くない)」結論として、その答えの出る方向からは自分を含まない他全部が悪い。

どうもそう発言し態度にだして問題を解決する人がいます。

その後また上手くいかない場面に出会い、自分以外の責任にして解決したと思い逃げ続けてきた人は、一般社会では認められない最低の前回と同様の解決方法をとる傾向にあります。

その場合本人は全くといっていいほど成長しません(他の誰でもなく自分が悪いということに気がついていません)。けれども素晴らしく良いことをしています。

自分の責任ではないことを押し付けられた周囲の人、文句もあるでしょう。

しかし必ず周囲の人は問題を解決し次には前より問題なく仕事を行えるようになり、周囲の育成という一つの側面においてかなり重要な役割を担い、周囲の人間の成長(育成)の意味では不可欠の条件になっているということです。

本人と周囲ではどんどん差が開いていきます。

悪いことを他人のせいという安易な方法とり続ける本人は一定の位置(またはもっと下降し続ける位置)にいたままですが、周囲はそれを糧としてどんどん高次元へ成長していく。

自分が悪いことを気づいてない(何かのせいにして逃げ続ける)本人の周囲は順次限界を少しずつ広げ、ある段階に来れば個人の限界そのものは無いのではないか?と考え実行するようにもなります。

「限界=何かのせいにして逃げること」その本質に次第に気がつき迫っていくのです。

極めつけは「私個人に限界はない!」もう私は何かのせいにして目の前の人のように逃げない(自分の逃げている姿は見たくも想像したくもない)。

どこを視点・主眼としておくかでどんなに素晴らしく良いことにも、とんでもなく悪いことにもなっているのです。

不出来であり愚かな私は生きて行く価値がないと自分自身を思ったことが何度もあります。

他人のことはよく分からないのですが自分が行ってきたことはなんとなくわかります。

私は何度か死のうとして死ぬことができなかったこともあります。それらさまざまな原因により訳も分からず泣いたこともあります。

そのような愚かな私がこの世に生きていいという根拠は?

 私の生はそれを知らずに求めていく生であったのでしょう。身勝手で好き放題な事を発言・行動する私、そんな私にも優しくしてくれる人の存在に私自身なかなか気づかないのです。

人は生きていることを当然と思っているのかもしれません、少なくとも私はそのように勘違いしていました。

失いかけてまたは大事なものを失って、物事に失敗して初めて私はいつも大切なことに気がつかされました。本当の愚か者です。

失ったり失いかけると人は本質を見つめ出すのです。

見せかけではなく何が一番大事なのか「反省(懺悔)」という名の言葉がとてつもなく重くのしかかります。

そして出来が悪い身勝手な私に優しくしてくれる人の存在にようやく漠然とですが気づいていくようになるのです。

私の中に一つの疑問が生じます。「良くないとわかった上で私に優しくしてくれる人達の考えがわからない」という自分に気がつきます。

こちらの考えは悪い意味で簡単です。「良い人には良い事をしたらいい、悪い人には何もしなくていい(むしろ相手にしなくていい)」

どうも私の考えでは、「出来の悪い愚かな私に優しくしてくれていること」という現実の答えになっていないのです。

私の至らぬ考えで分類すれば、私自身が悪い方に属し、優しくしなくていい部類に入ります。

何かに必死になり考え続ける日々が続くと、私の眼前に誰かが現れます。そしてこう言うのです。

「目の前に愚かで迷惑な方がいるとする。その人がこちらにくだらない事を発言・行動し迷惑をかけてきたとしても、こちらが同様の事を返せば、こちらも向こうと同じ愚かものになり、または迷惑な方と同じ又はそれよりひどい最低の人間になる。だから私はその人の前でも必ず礼を失わず、それに優しさ(礼)をもって接する。(一言で、私は目の前の愚か者と同じにはなりたくない。)」

そう私の目の前にいる方は今も実践して見せ続けている。現実としての具体例をここに根拠として出せば「不出来であり愚かな私に対する優しさ」そのものをいつも実践しているのです。愚かな私にもいい加減に気づくことがあります。

いつまでも不出来で愚かな、考えなしのままでは駄目だ・・・

優しさをもらい続けるばかりの存在では駄目だ・・・

もし、私がこの世界に生きていいという理由(根拠)を他ではなく私自身に求めるのなら

「私がいただき続けている良いことの一端を誰かに返すことも役割であり、優しさをいただいた人にいずれは恩返しをせねば、年を取るという(経験を重ねる)のはかざりではない。外見も中身もいつまでも若いままではない。若く元気であるとはいえ私の命は一体いつまで?それはひょっとすると早ければ明日いや今日という可能性すらありうる。」ということであり、「私」と「優しさをいただいた人(いただき続ける人・これからそうである人)」の双方において「生」ある内に(つまりは自然状態において生が尽きるまで)私は何かをなすために(又は何かを成すと思わなくても自然と行動や考えに出ている状態で)生きていかねばならない。

それこそがこの世界で「私の生きていいという根拠そのものだ。」という大変極端に偏った答えを出し、それを信じて(根拠に・拠り所として)必死に生きていこうとしているのです。

限界

「好きこそものの上手なれ」

好きなことには限界をつくりにくい、苦手なことには限界を簡単につくりやすい。

「それは誰が決めているのか」

他ならぬ自分自身である。限界を決めてしまえば限界のところで必ず止まらなければならないとなる。何故か、自分がそこが限界だと既に決めているからそれ以上はしなくていい。限界をこえた場合には理論が破綻することを守るために、自ずから知らずに抑制している。

好きなことはどうなんだろうか、限界をつくろうとしない傾向にある。確かに身体上の限界は人それぞれある。しかし、思い描くことはその人の自由である、限界もない。
好きなことが上手にいくこと、素敵なイメージを持つこと、それに知らずに限界は作らない。

自分で自分の心や未来に負のイメージで限界をつくりすぎることは、自分で自分を呪うことになり、そんな必要は全くない。
その反対で良い。プラスのイメージで限界を取り払うほうが建設的だ。
はじめから「そんなものはできない」「心には限界がある」「自分は限界が低い」「良いことは大きく考えたくないむしろ小さいほうが良い」なんて世に向けても自分にむけても言い訳なんてしなくてよい。

「わかっちゃいるけどやめられない」ことが多い(私)。







無理はよくない、ただ限界を作りすぎるのはもっとよくない、悪いことを制限するのは皆に喜ばれる。善いことは少しも制限する必要がない。

一人で喜ぶことも楽しいけれど、善いことを皆で一緒に喜ぶ方がもっと楽しい。







「喜びも楽しみもしあわせも、沢山の人と分かち合えれば生きていることが喜びとなる。苦しいことや不安・辛抱苦労は分け合えれば辛いこともその人数分楽になる。」

それが「貴方と出会えて良かった。」それは自分と相手の生あるうちにしか成すことが出来ない。

獅子吼

獅子といえば、正月やお祭りなら獅子舞を連想するでしょう。
狛犬も獅子の一種です。シルクロードを通り獅子が日本に伝わった名残です。日本に獅子はいませんから、狛犬(こまいぬ)犬のほうが親しみも想像も昔の人は特に持てたかもしれません。

 獅子つまりは現代でいえばライオンであり、百獣の王などと呼ばれます。
仏様つまりは仏像の中には蓮華の中に座っておられる方が多いですが、中には孔雀にのっておられたり、象にのっておられたり、獅子に乗っておられる仏様もおられます。

 現代に生きる私たちは様々な方と日々であい、それは人として理想のような方・素晴らしい方・普通の方・まあ参考にできにくい方・悪い方・極悪な方などに必ず遭遇しています。
理想を体現する方は、ライトが当たっていなくても現実的に光を発していなくても、何故か輝いて見えます。言葉だって重みがあり、その言葉も輝きをはなってみえます。

 人間的完成の姿が仏教では仏様ですから、仏像が金色なのはそのままです。
人間の理想に達すれば、ボロを着ててもその人はだれの目にみても輝いて見えます。ボロを着てても心は錦の最上位版でしょう。言葉もおなじです。愚かな言葉は光り輝きません。何よりも素晴らしい言葉は輝いています。素晴らしい光を放つように聞こえ、輝きを放つものと認識してしまいます。仏像の金色(こんじき)は別に飾りではないです。そのままの意味なのです。

 ほとけが法を説くそれを、仏教では獅子吼(ししく)または金口の説法などと呼びます。意味は先程解説したとおりです。

お寺などは素晴らしい教えの中に常に包まれています。

どこかの天才が言っていました。
「獅子身中の虫とは、この世で最も有り難き教え(お寺の中にありながら)の最も近くにありながら、その仏法をないがしろにし、挙句食い物にし、成すべきことをなさず、寄生虫の如き存在であり、有難い仏法そのものを滅ぼす、それを獅子身中の虫という。」

お寺様はそのことを世間で誰よりも知っていますから、そこに住んで自分の使命を全うすることに命をかけて行なっています。その寺族(住職の家族)だってそうです。

だからお寺様と寺族(家族)は有り難き存在であり、世間でも誰よりも敬われているのです。
(獅子身中の虫のようであれば、誰からも尊敬されるはずもありません。有り難き仏法を代弁する存在として存在することを忘れた人が人として扱われるかどうかは知りません。仏教が悪いのではなく勘違いをさせたり信じられないようなことをする人達が悪いだけです。問題の本質を間違えないようにしなければいけません。その人が悪いから仏教が悪いわけでは決してありません。教えが悪いのではなくその人が悪いだけなんてことはどの道でもある話です。)












だから私は、法(この世の真理)を遵守するそのような本物の方達へ(この世で最上に有難い方達)へ深く帰依(礼を失わず、尊敬)いたします。

悪気は無い

 私は「悪気は無い」その言葉を何か問題が起こった時、その所在はどこか、その方が若い方で合った場合に口にしているようです。

 「問題が問題ではない」

その言葉も口にしているようです。洒落にならない問題が起こっている状態、悪気はなく、ただ自分がしていることに気が付かないだけ、若さが故に虚栄心を捨てれないことに気が付かないだけ、そのような時に私は、

「問題が問題ではない。悪気はないんだ。その人は・・・」

周囲の方がその私の独り言を聞き、確かに本人はきがついてないだけかもしれない。自分のなした(悪い)ことを・・・

その人を責めることが簡単でないことがあります。あまり関係ない人がしている時、指摘だけして後は何もしない。それならば言う必要もないことだってあります。
良い関係で生きていくことはほんとうに難しいことです。常に一緒に過ごせるのであれば気がつくまで恨まれても言い続ければよい。私はそう思います。

「一緒に時間を過ごせない人には、態度や言葉をたくさん伝えれない人にはどうしたらよいのか」

「悪気はない」つまりは悪いと思っていない。行いさえ正しくなれば今後は問題ない・・・。そう思うのは私の過去は良いことをしようと思ってしているのに反対に伝わったり、考えなしにしたことが結果駄目であったり、それもつまり今となっては言い訳にしかならないのですが

「悪気はない(物を知らない・己を知らない・やり方を知らない)私」

なのです。だからこそ私は他人事とは思えないのです。私がブログへ「何か」を書き続ける。その意味の一つに少なからずあるなどと、「悪気はない」その言葉と共によく考えこむのです。






周囲の方が私の「悪気はないんだその人は」その言葉を聞いて、

「悪気がなかったら何をしてもいいってことはない。」

厳しい言葉を返されました。でも「悪気はないんだその人は、本当の意味を知っていたらどうなるか、知っていれば絶対にしない・・・」人が聞いたら、また私は甘いそう言われるのでしょう・・・。

「悪気はない」

難しい言葉です。

世間一般の有難いご意見

 人前で話すことが多いので、道を失わないように身近な方によく話をきいてもらうことがあります。
思ったことをいっていただき、みなさまの前でお話するときに出来るだけ迷惑をかけないようにと心がけておりますが、中々思うようにいかないことが多いです。

わかりやすく簡単に話すつもりでいても、内容がかなり難しくなり、そのことに終始してしまい聞いておられる方が、難しすぎてしかめ面になる場合もあります。仏教の話になると途端に難しくなるので聞いているこちらがかなり構えてないと大変になるといったように、お話に失敗すると必ずご指摘をいただきます。

自分の世界に入りすぎ、自分だけが必死になりすぎた結果、距離がありすぎるとか、こちらは聞いている時は必死で聞くが、いざ使うときに忘れている。またそれ以上に普段は必死で余分なことまでおぼえきれないから煩雑すぎても駄目なのでは?

つまりは「簡単に必要なことだけ短く話したほうが」といっておられました。

私が意見を尋ねる方のほとんどは、人の何倍も優しく、面倒見が良く、時に厳しく接していただく方に言われることですから、かなりこたえます。

いつも終わった瞬間から反省が待っています。
今日も独りよがりなところがあった。難しいことを言いすぎた。場の空気をきちんと受け止めれていなかった。構成が悪く話が飛び飛びであったりといったこと、数えればきりがありません。

しかし、世間一般の方はそんな私の話を必死に聞いて有難うと言ってくれる方もおられます。中には感動して涙を流す方も時折おられたりします。間違ったことを言う私に恥を欠かせず、きちんと最後まで聞いてくれる方もおられます。

勘違いして言葉を発言する私の言葉の中に仏を見る方もいます。私の勘違いもたまには役に立つのかと、また勘違いするのです。









私は聖人君子や覚者のようにならなければいけないという世の人からすれば罰当たりな大きな勘違いをしなければいけないと思う時もあります。

先へ進むための勘違いであればと自分にいいきかせ、善い方向へ少しでも(前へ)進みたいと心から願うのです。
(事実はどこに進んでるのかわからない、そのような自分がいたりするのも事実です。)

とらわれる

 「とらわれる」

この言葉の意味は難しいものです。
別の言葉で言えば「両極端から離れる」とも言います。本当にむずかしいことです。

人によれば簡単なのかもしれません。

「あこがれへ近づこうと気負う。」

「恨まれる対象となる。」

ほとんどの方は、どちらを選びたいのか、どの道を前に進むのか、そのためにどのような努力をするのか、その自分をどう思うのか、どちらからも離れたとしても、何もしないのでは何かが違います。
またここへ他人がこうでないととか、他人の心(思いや態度)がこうでないとと望めば、全てが無どころかマイナスになっていく、こちらさえしっかりしていれば他人はこちらを見てしっかりとした答えをだします。

とらわれをはなれるための一つの方法に

「まず正しく見る、正しく見ることが出来れば正しい思いを持ち、正しい思いが言葉になれば正しい言葉になり、正しい思いと言葉が行動へ移れば正しい行動になり、正しい行動をもって生活すれば正しい生活となり、正しい生活のなかに正しい思慮があり、悪いことを防ぎ善いことはおこるように勤めすでにある善はさらに広がるように努めるそれが正しい努力となり、これまでの正しいことが完成すれば正しい心の安定となる。」




まあ、上記のようなことが出来ていない私は過去も現在もずっととらわれたままです・・・。

けれども一つ思います。とらわれたままの状態が現在の私なりの私です。

全てのとらわれから離れれば、私は「覚者」などとよばれるのでしょう。恐れ多いことですしちょっと考えただけでも生きている間には届きそうになさそうな気がします。(根拠もなく諦めてはいませんが難しそうです。)

まあ、「とらわれながら憧れ近づく努力をしていきたい。」日々その思いにあえてとらわれようとしています。

「とらわれも考え用によっては悪くないかも」











また嫁や周囲の人にこんな言葉や考えを聞かれたら、

「以前からずっとどこまでもプラス思考だな・・・・」

その返事が聞こえないのに聞こえてきます。

見捨てられたくない

 時折意地を張ります(いつもじゃないかと言われるのかもしれません)。ただそれは簡単な理由があります。
運が良いのでしょうか、私が生まれ育ったのは長崎県ですが、現在は四国の徳島県で家族(嫁と子供達)で生活をしています。

何気なく過ごす私に常に優しい方が何人かおられます。
その優しい方がこちらに優しいのは、

「それは何故だろう」

大体の人が思うように考えたことがありましたが、過去に納得のいく理由なんて出てきたことがありません。

嫌なことが続く時、私は逃げたいと思い逃げることだってあります。私を常に助けてくれる優しい方は私のように逃げることなどは見たことがありません。

常に自然体で皆が困らないようにしています。

問題が終わって通常に戻り、私がそのことを忘れた頃に事実を話されます。事実は時として残酷になります。簡単に言えば私が全く出来ていなければそのことが表面化します。出来ていない・やりもしていない・逃げていたなどの場合は「物凄く釘を差されます。」そのような言葉の一つに

「私がした問題ではないが、目の前に問題が来れば何とかしようと思う。だが、次にもおなじことがあるのなら私は考えさせてもらう。」

本当に情けない話です。無様な姿をみせたくない。しんどいことはしたくない。楽をしたい。面倒なことから逃げてしまう。そんなことが何回も続けば誰だってやさしいどころか、何もしてくれる人がいなくなるでしょう。

私が意地を張るのは、私の程度が低すぎるために意地を張るくらいに強い気持ちをもたないと、優しいことを行う人達のようなことに相対する行為がでてこないからです。

いつも逃げたいなど思いが出てきた時は、意地を張ります。ただその優しい人達に見捨てられたくない。その人に何かをしたい。自分だって・・・

私が意地を貼り続けた結果最近では、「貴方は貴方のままでいい。」そう言われることが増えてきました。

しかしその私を作るものは「誰よりも必死にやろうと意地を張る気持ち」が出ている時に現れています。何からも逃げようとしない立ち向かうことに意地をはりつづけて生きていかねばいかないのか・・・










そんなことを考えたりするのですが、まあここは開き直るしか道がありません。

いつしか私が必死に意地を張る状態が長い状態も続けば、それが自然に力を入れなくても出ている普通の私になる。


 何の根拠もなく、ただそう信じているだけのことです。