果てしなく気がつかない

 知らない場所(町)へ、誰でも何気なく行くことがあります。

当然知らない(行ったことのない)場所ですから道も建物も配置全てわかりません。
考えなしにこの道へ入れば行けるだろう。そういって何度も道に迷い引き返すことが今まであったでしょう。おそらくこれからもそれは道だけでなく知らない事に関して同じ現象が起きます。

 耳にしたことのあるスワヒリ語のことわざ「道に迷うことは、道を知ることだ。」の意味をここに来て考えさせられる人もいるかもしれません。

「道に迷い」新しい道に気がついたことに気がつかない人もいる。迷っていても迷っていることに気がつかない人もいる。それに気がついた時はいつもその最中ではなく大分後だったという人もいる。自身が出来ていないことが多い事は承知しております。それを都合のいい棚にあげた上で、果てしなく気がついていないほんの一例を挙げてみます。


 いつも自分の中のくだらないプライドにとらわれ、世間体だけを気にして自分の存在を否定される事を嫌う。実際自分の厳しいありのままの現状を認めたくないと思ってしまう愚かな自分の考え・存在になかなか気づかない。


悪い考えや思いは成長の妨げになるという一般社会の当然としてある事実から目を背ける。周囲に多大な迷惑をかける現状に気がつかず、気がついていないため本人の存在は周囲に果てしない迷惑をかけ続けている。そんな簡単なことに本人は気づかない。


 でも他人のことになれば分かる。素晴らしいものも・普通のものも・愚かなことも他人のことだけ簡単に分かる。


 他人のことがわかるのであればその人と自分を比べることを何故しないのだろう。


 悪い考えや行動を省みて、少なくする努力をすれば当然周囲も自分そのものも救われるのにやらない、やろうとしない。


 悪いことを無くし、良いことが生まれやすい努力をする。こんな簡単なことが見えていない上にわからない。わからない上に認めようとしない。挙句その教えてくれる人や努力したり良い人をを否定したり貶めたりする。排除しようとする。


 良い人がいるから私の存在がかすむ、だから自分は良くなろうと努力するのではなく良い人を排除するという短絡的な考え


 自身が本当に必要なもの(道を失わない生き方でありそれに必要なものを含め)が何時でも目の前にあるのに気づかない。


 周囲の有難い意見を表面上(字面の上のみ)だけとってわかった気でいる。


 周囲のいつも存在する優しさ(細かな配慮など)の大きさ素晴らしさにいつまでも気づかない。


 地位・名誉・肩書きにいつまでもとらわれたままで、肩書きなんて名乗らなくても(自分が一回も発言しなくても)周囲の人は中身があれば自然に勝手に言ってくれるのにそれに気がつかない。その為に肝心要の中身がまったくついてこない。

 
 自分の生き方・自分の職業の本当の意味であること、つまりは自分の時間の過ごし方、今その瞬間何をなすべきかに気づかない分からない。努力をしようとしない。助言を求めない。楽な方へ逃げ続けることだけをしている。


 どう生きたらよいか(死を迎えたらよいのか)考えようとも思わない。今それに向かって思ってはいるが、実行していない。


 まやかしを現実と思いその存在することが永遠であると勘違いを続け、それにとらわれ毎日を過ごしている。


 現状の自分を取り巻く理由はどうあれ何も実行していないのに、自分に賛同してくれない・反対しかしない・理解してくれないと勝手に自分で決めつける。その責任を周囲におしつけオウムのように自分は何も出来ないと繰り返す。そして今まで同様に逃げ続けやれることを成さない。成そうともしない(思っているが何も実行できていない。)それは本人を成長させる はずがない。その現実何もなしていない本人を周囲が見続けてきた場合、いずれはやるから待ってくれという言葉を一体誰が信じてくれるのだろうか。

 「やることは自分が決める」と至らぬ本人はいつも言う。それとは反比例して周囲はその方を信頼(理解)できない。いたらぬ本人は何故周囲が信頼して(ついてきて)くれないのかわからない。それは本人がどの程度なのかを本人だけが果てしなくわかっていない上に分かる努力をもしていない。格好よく見られたいのに、素晴らしいと思われる根拠を発するだけの行動や努力をしておらず、日々の仕事が充実していないと取られている。自分は賢いと自己満足するのみでその実何もなしていない。


 自分をもっと見て欲しい(皆にほかの誰より自分こそわかってもらいたい)。周囲は中身がない人間にあこがれを抱きようがない。当然興味もない。その為に見向きもしない現状になっている。


長々と数ある中の一例をもって書き続けた周囲に迷惑をかけ続けるという、この醜悪な現状は


「果てしなく(自分自身のことを)気がつかない。」そのものです。


この現実が前掲の諺(ことわざ)のどの部分に位置するのか、考えれば「道に迷う」ここにも行き着いていない。

「道に迷う」とはそこが道と心から理解し、その道において自身が迷っている状態をもしっかりと理解していることを指すのです。

この諺の文字の遥か前に存在するという本人の現実や程度(立っている位置)に本人が望むと望まざると、つまりは否応なくでも気がつかなければ本人が人間として成長することはありえない。

 世間一般の人は大分前に気づき賢い人が多いです。自分こそが至らない人間だと思う人は世間の人に早く追いつかねばいけません。

 あせりはまた自分を迷わせ自分をまた見失うことになります。焦らず騒がず落ち着いて自身こそが迷っていることにまず気づき、何時でも自身の程度がどの程度なのか、そこをしっかりと見極めることからがスタートし、深く見つめ直せたのであれば目前の小さいことから一つずつやるべきです。もしどうしてもやることがわからない場合は周囲の先にスタートしている(素晴らしい)人に頭を下げ、その時は恥を忍んでもやることを一つずつ聞かねば、出来ていない本人は周囲から見ればいつまでたってもスタートを切れていないままであり、いつまでも周囲に歓迎されることも信頼されることもなく、ただ果てしない迷惑をかけ続け疎まれるだけなのです。

信頼は自分が真摯な努力によって養うものです。それを決めるのはあらためて自分ではなく周囲の人が勝手に決めます。

周囲の人こそ何よりも大切です。周囲の人の存在や言動が果てしなく有難いことに何よりも早く気づかなければいけません。

周囲の方で上記の話を「現実そのものが怖くて手を出すことから逃げている。」そう一言で片付ける方もいます。

その方に迷うことが多い私はどうやったら良いのかお尋ねしました。

簡単に「自分の思いや考えは全て捨てて、皆が信頼する人の言うとおりに毎日やったらいいだけだ。」と教えていただきました。


 自分は「まだまだだ・・・」そう気づいた現時点つまりその瞬間から、今自分に出来ることを行うしかないのです。
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自転車と車やバイク

 平日であれば仕事場へ向かう途中、自転車で通う学生達(小学・中学・高校生)を見かけます。
私は小学校も徒歩、中学校も徒歩、高校も徒歩、大学も徒歩、仕事をしだしてようやく車になりました。

誰でも(一部例外を除く)小学生位になれば徒歩よりも距離もスピードも圧倒的に違う自転車に乗りだします。遠距離を楽に移動できる手段です。自転車の話をよく職場へ来られるお世話になる方にお聞きしました。

現在は一家に一台(多ければ大人に一台ずつ)は車がある家庭が多いように感じます。現在80歳になろうかというお世話になる方が言うには、

「昔は車なんてなかったし、自転車だって一家に一台あれば良い方だった。」

現在の車と自動車が入れ替わったことを示しています。

「遠くへ行くのでも徒歩なんて当たり前だった。」

今を生きる私は、徒歩で遠出なんてほとんどありません(ただの運動不足だと言います・・・)。ほとんど仕事場と家の往復ばかりです。私が住んでるところから車で10分弱で職場へつきます。私の自転車が壊れるまで自転車でも時折通っていましたが30分かかります。徒歩でもたまに通いましたが1時間半かかります。

ただ徒歩の時は往復3時間毎日とられましたから、時間が掛かったぶんだけ健康でした。今は車ばかりですから身体がなまっています。(そのうちまた自転車通勤でもと考えたりもします。)

たまに大人(特に私)は、学校へ行く途中自転車で通学する学生たちの中に、2台や時には3台以上並走する自転車の群れに出くわす時に思うことがあります。

「道路は自転車専用じゃないんだから、並走して道を塞いだりしたら困る。」
(縦なら何台でも並んでいいんだよ)

車・バイクと自転車では絶対的なスピードが違うために、当然自転車は追い越される対象になりがちです。

自動車・バイクに乗る人は簡単に思います。遅くて邪魔になりそうなら事前に気配を察知してよけないと迷惑をかける。

ちょっと矛盾のある話です。小学生や中学・高校生は免許を持っていません。これは自転車だけしか乗らない人を意味しています。(一部例外もあるでしょう)

「免許を持っていない人が乗ったことのない自動車・バイクの目線や思考、自動車の動きや様々な知識を考えて行動して下さい。」

そう願っても乗ったことのない人が出来るわけはないのです。(私の免許をとる前の考えの無さと立ち居振る舞いの言い訳にさせてもらいます。)

免許を持っている人(特に私)は、そのことをしっかりと踏まえた上で自転車に乗っている子供達に望まないといけません。

誰かが言わないと直りませんし、痛い思いをしないと気をつけないのが子供の常です。誰かが自分とは違う視点にたち物事を見据え行動することを示さなければなりません。

子供に教えるべき、大人が、しっかりとした客観的な視野を確保することが前提です。










「乗ったことのない自動車・バイクの気持ちを考えて並走や蛇行運転などをしないように」

これは、なかなか、難しいな・・・、通学の自転車を見てそんなことを考えるのでした。


 答えを書かないのはよろしくないので、私なりの答えは子供が車に一緒に横にのっている時に危ない自転車の乗り方をしている子を見かけたら

「ああいう自転車の乗り方ってどうなのかな?自分ならどうする?」

答えは周囲が出すものではないし、考えることは無駄にはならないはずです。

見えない根拠

 近くに自分の存在する意味を最近深く考えはじめ、自分の出す答えにむきになって、意地を張ろうとしている若者がいます。
誰しもが通る道です。正しいことを行いたい。
正しいことは理想そのままです。現実の問題としてその理想を体現できる若者がいるのは稀です。
初めは誰でも同じです。綺麗事を言うのです。正しいと思うことに進んでいきたいと言うのです。
ただ綺麗事や正しいと思い発言する言葉に本人の行動が伴わないために、世間で言う綺麗事だけをいってるだけと判断され、つまりは青二才としてとられ、愚かな若者として見られますし、そのような私は実際愚かなのです。
その事はなかなか自分で気づきにくいのです。現実に自分自身が痛い目に遭わないとほとんどの人は気づかないのかもしれません。
いきなり何も考えず何も実行せずに、人間の完成をみることができるのか?
初めは一歩一歩階段を上がっていく、気が付けば長い年月の果てにある完成に近づくことが多いはずです。
初めたばかりの人つまり本人は気づいてないけれども目標を立てています。それが綺麗事や正しいと信じるものです。
どの段階にいても目標があるのは素晴らしいことです。ただ本人の程度・周囲の程度を把握し態度や言葉を使用しないと痛い目にあいます。
自分の言葉が周囲に通じないから、自分の目標が間違いだとか世の中がおかしい、自身を取り巻く環境を悪く考えたり思ったりする必要はないのです。
周囲にまったく通じない、だからやらなくていい、何をしても変わらないから何もしなくていいと結論を持ってきて毎日ただいたずらに時間だけが目の前を通り過ぎる日々を過ごしていいのか?本人が納得してどちらか決めたらいいことです。
ただ何もしていないのに良い結果だけを望んでも世の中では通じません。義務と権利の関係です。権利には義務が伴い、義務には権利が伴います。やるだけのことをやった人のみ権利が発生します。
やらなければならないことを放棄した時点で権利のみを主張する人がまともに相手してもらえるのかどうかはわかりません。
スタートは誰でも一緒です。しかし自分が意識的または無意識的に目標とするものから目をそらさなければ、思うようにいかない現実において変化が生じます。上手くいってないように感じたとしても目標の方向へたどりつきたいと願い実践に出てくれば目標へと距離は必ず近づいていくのです。
その考えたり実践したりするという月日がその人の根拠となっていきます。
誰でも最初からその月日もその時間としての長さも経験も実績もありません。根拠も無いということです。
根拠がない所からスタートして、同じ月日が流れたとして何事にも皆が納得できる根拠とパフォーマンスを放つ人は、目標から目をそらさず努力を惜しまず労をいとわず月日を重ねてきたのでしょう。
皆の納得のできないまたは根拠すら感じることができない、ただ迷惑にしか感じないことを言う人もいます。納得は本人がするのも大事ですがそれよりも大事なのは周囲が心から納得することです。両方あって初めて成立します。そこも含めて理想を見るべきです。
近くにいる誰かが今現在皆に比べれば遅いスタートをはじめたとしても、そこに根拠を感じ取れなかったり納得がいかなくても、その人が今より良く有りたいと願い実行しようとしているのなら、誰よりも信じて優しく有りたいのです。

かつて私のスタートを暖かく見守ってくれた人がいるように・・・

必ずそう願い求め続ける月日はその人の確固たる根拠となるのでしょう。皆の冷たい言葉や態度に負けるな、甘い誘惑に負けるな、自分の甘い心にまけるな、信じてくれる優しい人は貴方の近くに必ず誰かが存在する。









目には見えないものだが、皆が見ることのできる根拠をいつの日か見たい、周囲の人は何時かその完成を心から待ち望んでいる。

己の現在地点

 何も無い、つまりは何も考えずに生活している状態、特に意識していない状態での心は中間の状態に近いのです。

   図

         心の程度の段階

            高

            ↑

 悪・醜・地獄 ← 己 → 善・美・極楽

            ↓

            低

(辛抱困難を乗り越えれば楽・安心を伴い高い次元へあがるが、どの高さにいても見る方向により善悪の区別が伴う。己がどの高さに位置していてもなすべきことに身を投じていれば己が現在位置する高さは微塵も問題になることがない。)


何か目前に意地が悪い人が近づいてきたり、悪と呼ばれる行為を見た時、実際己の位置は変わっていないのに心は悪を重点的に見るのです。完成していない人間の心(つまり私のような心)はその行為の瞬間、心の視野は人間の視野と同様に悪・醜・地獄側を見つめ善側に背をむける。

一も二もなく、悪い事は嫌だ・醜すぎる・まさに地獄そのもの、そこから出来ればすぐに離れたい、見たくない、考えたくもない、一緒にされたくもない。
また目前に善と呼ばれる行為を見た瞬間、やはり実際に己の位置は変わっていないのに、心は善を重点的に凝視する。

完成していない人間の心で良かったと思えることは、その瞬間こちらも人間の視野と同様に善・美・極楽側を見つめ求めてやまない。

善と悪、何故にこのような差が出てくるのか。

人間は(正確には人間の心は)元の状態へいつも向おうとしている。生まれた時から己の心を充足させ元の状態へ戻すために現在足り無いであろうものをいつも求め続けている。子供は物質(玩具など)として無いものを求めて完全になろうとする稚拙な心の表の思いに身体が引きずられ少しずつ成長していく、いずれ心が大人になれば、見た目(物質)として補完することを卒業し、心の状態を完全な状態へ移行しようとする。
私達は無いものを見て求め心が願うことに身体が動かされていく。ただ家族・周囲・知人などが喜ばない心が求めるものに動かされている時、完全な状態にそれは全く必要としない、周囲の方は本人よりいち早く心が気付き顔を曇らせどなたでも瞬時にその本人の状態が良いか悪いかを判断する。この世界の全てから心は分化してきているため、心は最初から全てを知っている。ただ身体に入るときに身体が小さすぎるために忘れている。

「生きている内に全てを思い出したい(元の状態へ還りたい。)と心は願う」

そう説明すれば辻褄が会うのかもしれない。
成人として働き出した若者、男性であれば女性を自然に求めて結婚する。女性の優しさを必要とし己の心に足りないことを補い完全なものへ近づきたいと自然に願う己の心の願いが身体を動かす。それが行動として
男女の愛(時に結婚に至る)として表現される。

普段の生活、仕事を行うにしても必ず人は素晴らしい事をいつも行う人に側にいてもらいたい。何気ない立ち居振る舞いが美しい方に側にいてもらいたい。何時でも心のよりどころとなる方に側にいてもらいたい。人間関係の敬として表現される。

心は自身が意識していないと思う時でも必ず完全なるところへ行きたいと願い続けている。物質的な満足では完全なるところへ行けず、心そのものが完全となりたい。
以前より心が完全に近づく時、つまり素晴らしい方(または良き事実)が共に居る時は必ず後から安心が伴ってくる。

現在より時が進めば心も成長し、また心は完全を目指す。苦しいことを乗り越え、辛いことを経験し、世に言う耐え難きを耐え苦渋辛酸を舐めた人であれば、そのマイナスの経験の幅分心はそのプラスの幅を知る。マイナスの経験の幅がなければ、絶対的にプラスの幅を知ることができない。
善・悪とは別物ではなく、ある事実の一つの側面そのもの、片方だけでは片方の存在すら通常でも気づくことができない。
しかし、己の心は実は全てを知っている。ただ悲しいかな己の心は体験などを通し再認識して初めて本当の意味をその事実として認識する。

元から全てを知っているからこそ、見たこともない己や他人の善を見て憧れ求めてやまない。知っているからこそ近づきたい、心から完成へ近づきたい。出来ればひとつになりたいと願いを起こす。その願いは最初からかなっているのに己の心が初めから一つだと心が心から実感することが出来た時、心は以前より高い次元へと移行する。不完全な心は完全な状態へ行きたいと常に願う。

一体どこまで己の心は行きたいと願うのか、完全な状態とはどこなのか、心がひとつになりたいと願うのは何故か。

至極簡単明瞭、己の心はどこからきたか、身体から突然現れたのではない。身体は心の一部分に過ぎない。
完全な状態から己の心は己の体に分化されてきている。完全な状態と己の体の中にある心、そもそも同一のものである。

この私達を取り巻く大宇宙そのものこそ心の本体である。大宇宙は世界全体を知っている。己の心も同じところから来てるがために自然状態へただ戻ろうとしている。時が来れば己の心も元へ帰る。

 偏りのある私的な言葉を用いれば、生を受けた元の場所へ迷惑をかけることなく、出来れば良い生であったことを単に報告したいと願っているだけなのかもしれない。悪い状態で返すことのなく良い事を沢山持って返ってもらいたい。

少なくとも私と嫁と子供三人・家族・優しい人達に出会えた。

それは「心と心が出会えた。」

難しいことは微塵もない、自分を含め家族・支えてくれた有難い人達と出会えたからこそ、次に出てくるであろう心のために良い事を願ってしまう。いつだって素晴らしい心とふれあいたい。


西田幾多郎氏は著書(善の研究)において次のように書かれている。

「人智の未だ開けない時はかえって宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教にはいらねばならぬようになる。
世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がいる。しかしかかる如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己を離れて存するのではない。その要求は生命其物の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲するものは必ず熱烈なる宗教的欲求を感ぜずにはいられないのである」

私は随喜の涙をもって、この西田氏の見解をうなずくほかない。


この記事は以前にふと思いついて書いたもので、タイトルがあるとすれば短すぎる「善の研究」の書評と呼べる(のかもしれないし呼べないのかもしれない)。

読者が(私の拙い書評より)得るところがあるとすれば、それは他ならぬ西田氏の功績であり、不明瞭な点や誤りがあるとすれば私に全て責任がある。
(興味が有る方は西田幾多郎氏『善の研究』を是非ご一読されたい。)

信じる(2)

 私は人を見る目がどうもないようです。
「できた人」を「できた人」と見ます。「普通の人」を「普通の人」と見ます。「できていない人」を「できていない人」と見てしまいます。

人間関係であれば良い人と付き合いたい、良い人と友達になりたい、良い人と仕事をしたい、良い人にお客様(顧客)になってもらいたい。
どうしても、そのようなことによくとらわれています。

一緒に仕事をする人にでさえ、できていないことが多い人と仕事をすれば腹を立て、挙句には深く信用をしない時があります。

その本人が「私はやります(できます)。」実際は出来ていないことばかりであれば、私は信用出来ないと判断しがちなのです。

「何か」に行き詰まれば、いつも優しい方にお尋ねします。

私の言う優しい方とは、「相手がまだ未完成(不出来で愚か)だと認識しているのにもかかわらず、いつも相手が困らないように自分のできることを行い続けている人達です。

「どうしたらよいでしょうか」その問いと共に私はいつも答えを求めてしまいます。

その意味は、「過去においても現在もできてない人にこれからどうやったらいけるでしょうか」換言すればそうなります。

優しい方は

「心配ない。できるから(その人は)」

決まって、そう答えられます。私はそれを聞いていつも納得がいきませんでした。私には「心配しかないんだ・・・、その人は本当にできるのだろうか」それくらい答えが違うのです。

 「できた(優しい)人は、(私ができていないと思う人の)やさしい面を誰よりも信じています。」

 「できていない私は、悪い面をその人の全てではないかという程に錯覚して信じてしまっているのです。」

他の誰でもない、自分の優しい面を心から信じてくれる人に悪いことをする方は少ないはずです。
「できていないと思ってしまう」「人を信じることができない」、つまり心から相対する方に優しくすることができなければ、「できていないと思う人」にこちら(私)の思いは伝わっています。

悪いことを思う人に向かって「常に出来ていない人」が良い行いや思いだけで対応できるのであれば、私だけでなくほとんどの方がその人を最初から信用できます。

いつも簡単に目前の方を信じることができない。常に証拠や根拠を求めてしまう私の程度の低さ・・・

私は誰よりも見る目がないのです。

最近になり日々気をつけなければいけないと果てしなく思い知らされます。

まだ未完成な方が私の目前にいたとして、その方の優しさ(慈愛)が一瞬(一刹那)でも出てくるのであれば、その一瞬の優しさがその人の全てを覆うだろう。
他人には一切強要してはいけない偏り過ぎる思い(願い)です。

でも、私は信じることからはじめていきたいです。
私だけが騙されるのであれば、私だけが痛い目にあうだけです。











「痛い目にあう。」

きっとそれは私の見る目(信じる力)が無いだけでしょう・・・

天から

私は今困っていることで特に悩みません。困っている時に悩んでもしょうがないことは世に生きる人ならば誰でも気づいています。困ったときは目前の何かに没頭するしか方法がないからです。「困った、困った」といって何かのせいにして逃げ続ける過去はどこかへやっておきます・・・。

日々の仕事と並行しながら、これから先のことを私自身気が付かずによく考えているようです。「ようです」と言っているのはそんな私と行動を共に仕事をする(職場の)方に指摘されるからでしょうか。

「何を考えているの」

問題が起きそれが片付いて普通の状態へ戻った時によく言われる言葉です。別に誰のせいかを考えているわけでもないです。その原因と傾向と対策を考えているようです。
無事普通に戻った(問題が片付き落ち着いた)あとに考え込む私を見て、大体「もう終わったんだから、気にしなくていい。」などの言葉を以前はよく聞きました。
まあ私からしたら、知らずに失敗するのは別に問題がないです。だって知らなかったんだから、むしろそれより失敗が出る事の要因を放置したり、わかっているのに同じ過ちを繰り返すこと、そのことが恐ろしすぎます。

これを世間では「危機意識」と呼ぶように思います。

私だけが失敗しなくていいなら、一人だけですから割と簡単です。一番簡単な(私が全く望んでない)方法は危うい問題であればさわらない・その問題から逃げることです。さわっていなければさわった人の責任になるからです。ただ何度も書き続けていることですが、逃げるのはもう懲り懲りです。(情けない自分自身はもうみたくないのです。)
正直なところ、すべての問題に逃げれれば逃げるのも正解だという人もいます。10人いれば10人なりの答え(生き方)があります。私の思うことだけが正解だなどということは無いはずです。「逃げるだけしか選ばない。」これもこれだけしか正解だということもないように思います。どちらもそれ以外も無数の答え(生き方)が存在しています。

話を元にもどします。

 自身と他者と共に仕事をする。多人数で仕事をするにはお互いが助け合い・かばい合いが普通です。何故なんて理由を書く必要もないことですが、自分は関係ないなど逃げたり、誰かのせいにしたり、良いところは私だけの手柄なんて発言したりそのように振舞う人がいるとすれば、その人は世間から本当のことを言われないだけで「白い目」で見られるという言葉がぴったりです。まあ中には足をひっぱり続ける人達の中で一人で物事を成し遂げる素晴らしい方が存在するのは確かです。

「誰かがやらなければいけない。」

その答えとして「その誰かに私はなりたくない。」なんて言葉は私は変わりものですから必要としていません。私が皆の足を引っ張る存在だったとしても何とかしたいです。そうでなければそこに私は存在していないとなります。
何かに一生懸命打ち込まないといけない。そう意気込み空回りをよくする私は、いつも優しく皆を助けてくれる方にいつものように相談をしました。
(その優しい方を言葉にあらわせば、何時でも誰にでも優しく必ず目の前におられる方を助け続けています。その方は自身と周囲に振りかかる幾多の困難を辛抱・努力を続けた年数が長かったために、単にそれがその人の根拠となっているだけの方です。だから何がきても私が見ている限り問題ではないような方です。)

「どうしたらよいでしょうか」

すると

「私は天から与えられてないから、与えられてる人がやらなしゃあない。がんばんなよ」

ポカーンとしてしまいました。










助けてくれることを見透かされたのか、「大丈夫私がするから」なんて言葉を少しでも期待している甘い考えを悟られたのか、まあ本当のところ答えは何でもいいのです。



私は「何か」に前以上に一生懸命なるしかない。それだけのことです。

(天からあたえられているなんて思ったこともありませんから、辛抱・苦労・努力すればそれなりのものが身につくはずだと信じて疑っていないだけです。)

嫁(目の前のあなた)と私

私にも世の中の人と同じように一人の女性と運命的な出会いをし、つまりは結婚しました。
無事結婚するまでは今目の前にいる素敵な女性にどうしても私と共に人生を歩んでいってもらいたいと願っていました。

知らずに私は通常より努力していたのでしょう。結婚したら私は通常の自分に戻っているみたいです。
嫁から言われるのです。

「釣ってしまったお魚さんに餌はあげないのですか?」

「そうか?前と何も変わらないけど?」

二人の思いはそれぞれ交錯します。

考えなしの私は思いつきで理想というか「今度どこかへ行きたいまたは行こう」と言います。
相手はその言葉を信じ楽しんで待っています。
しかし、いざ休日が来ても自分が発言したことも忘れ、何をするかも忘れ、何にも気づいてない私は簡単に言われます。

「前に行こうと言ってた場所へ行かないの?」

発言したことすら忘れ、態度を見て全然駄目だと当然なります。果てしなくいたらない私は自分の行動を見ようとせずに綺麗事だけを言っていました。
挙句「する気がないのでしたら、こっちは本気にしてしまうから言わないで」ありのままの事実そのものが一番こたえる時があります。

言葉に行動が伴わないから果てしない迷惑をかける。
悪いことですが、反対にこちらの良いことだけを抽出してみると「漠然とあなたと素敵な場所へいきたいなあ」と思っているのです。

ただ実際は忘れて行っていない。
それから考えなしのことを行なっていれば当然悪い報いが来ます。
厳しくされたり怒られたりして気づくのです。それからは一般の人と同じになります。

「不用意な発言はしない。」

しかし、どうもひねくれている私はそれを心から納得できないのです。

「不用意な発言をしない。」そう決めてしまうとその方向(発言もしない、良いことを思わない)に考えも行動も進んでしまいそうなのです。
現実発言した通りになっていなくても目の前の人と楽しくあったらいいなあ、馬鹿にされても阿呆にされても行動していなくても、私はそう良い事を思う瞬間は誰よりもそうありたいしそれが幸せだと思っているから言いたいのです。
そしてまた私は行動が伴わずある意味叩かれます。
でも、やはり良い思いは考えたいし捨てたくない、また不用意な発言をしてしまう愚か者。愚かですが目の前の人がどうも好きみたいです。段々と愚かな自分がわかってくると自分の発言と行動の対処もできていきます。
「不用意な発言はさけますが、思いは捨てない、できれば実行が伴うように努力する。」理論的に完成しても、現実はうまくできていない事が多いです・・・

でも、時折不用意に発言して行動が伴わず不機嫌になられたとしても、やっぱり「何か二人で何処かへ行きたい。良いことをしたい」
そう思うし、その思う瞬間を大事にしたい、そしてこれからもそう思い続けていきたいのです。
皆から不出来で愚かと思われている私ですが「良いことを考えたり実行しよう」としている時、どうも目の前の人も好きみたいですが、良いことを考えたり実行しようとすることも、どうやら好きみたいです。

なかなか考えているといっても一般の人と比べると私の程度は恥ずかしいくらいに現実に即して思いや行動が反映されることは少ないのです。








ただ、生あるうちは良い思いは捨てたくなく、人にはわかりにくいのかもしれません。不出来な私が救われ続けてきたそのもの、それは「誰かの私に対する優しさ(良い思い)」です。

時にそれは独りりよがりとみなされる良い思いを、他人に押し付けることも少なくありません。

もっともっと自身の程度をあげれば今みたいに迷惑をかけることも少なく、そうなれば何かはわからないのですが、「何か」が変わると信じています。
(「何か」とは何だ?というような質問は無しにして下さい。明記出来れば何かとは書かないのですから)

捨てたいもの

 冷静になれていると自身が思う時、普段自身が発言・行動したその行為を客観的に反省しなければいけない。そう考えるようにしていますが、この客観的に判断、これが凄く難しいのです。

 自身の為した言動を自身がかばおう、つまりは悪くないと思わせようとする思考・行為が出てくるからです。
その自身の成したことを自己防衛するがために成長の妨げになる思いを極力捨てるように努めるのですが、何度その思いを捨てても捨てても、いつでも私の心の中から消し去ることができないのです。

「心よ、どうしてそれを持ってくるのか、私には必要がない。もっと力を合わせて大切なものを大事にしようではないか」
そう、格好良く心に私が問いかけても、やはり気がつけば拾ってきているのです。
果てしなく至らぬ我の存在になっているのです。

「捨てた、捨てない。」「拾った、拾っていない。」「ある、ない。」「出来ている、出来ていない。」「完成した、完成していない。」

自身が思い描く心の状態、周囲が思い描く私の心の状態、本当に難しいのです。

ただ、ひとつになる時だってあります。
「考える瞬間すらなく、ただそこに全精力を何かに傾け物事を成している状態。」
周囲と自身が心から願う行動に出ているその時、全てと一つになっている、そう感じることがあります。

他にも、現状の困難から逃げずに必死に行動してきた人同士、違う事をしてきたとしてもそこに二人が出会えば、交わす言葉の一言で、深く共感しあえる。
一言でお互いの過ごした時間を分かち合うことができる瞬間があります。
換言すれば、「互いの心を知る」と呼べたり、後付けとして、思い返せば共感・感動などと呼ばれるのでしょう。
思い返せば「良い思い出・本当の自分に出会えた・自身に自信がもてた。」とも呼べそうです。

 現状の私は、考えが多すぎたり、低い考えの段階であったり、なかなか行動に結びつくことが少ない・・・

完成という文字も遥か彼方に見えます。










ただ、私の程度が低く迷惑をかけているとしても、現状に即して自分に出来る一つのことを必死に考え、行い続けていたい。それであれば私は「捨てたいもの」に含まれないのだと思うのです。

白い山

徳島県平野部においては珍しい積雪でしたが少しも積もることはありませんでした。
しかし阿讃山脈(あさんさんみゃく)の山々は白い雪化粧となり朝日に照らされ、普段とはうってかわった荘厳さをみせていました。

仕事に向かう朝、阿讃山脈特にその中の大麻山方向を目指し、帰路は眉山を視野に入れながら一日の仕事を終わります。私の視野は車の運転のせいだけではなく、前と後ろの両方を楽しむことはできていません。行きも帰りも前方の山などしかみれていないのです。(前後を見る顔は持ちあわせていません。)

雪の話に戻ります。

雪国にとっては山が白くなるなんて冬であれば毎日のことでしょう(例外もあるでしょうが)。徳島県の平野に住む私は、山が今日ほど白くなるのを11年くらい住んでいますが一年に1回くらいしか見ていないような気がします。

美しいと思われる景色、何度も見れば見慣れてそう思わないことが多々あります。
「白い山」は私の目に多く映らないがために、何とも言えないような美しさでした。

何気なく日々出勤などで通りすぎる山・川・景色、どれも日々見るから新鮮でないと思われますが、よく見れば(よく見なくてもわかる人はわかっていますが)、四季によって様々な顔を見せています。天気の違いでも様々なことが違っていることをこちらへ教えてくれています。

山・景色だけでなく人間だってそうです。日々もそうですし、その時の気分や体調によって少しずつ違った表情を見せています。

よく考えさせられます。私にいつも優しい人達は、気分的ではなく日々優しいのです。(正確には優しい人は私だけでなく、すべての人に優しさを向けています。)

「白い山」と同じ現象、珍しければ目立ちやすく、常であれば忘れてしまう。

「常に存在する優しさ」それは忘れてはいけない。いつも新鮮なものとして、何よりも素晴らしいものとして、心の中からなくしてはいけない。何事も人よりすぐ忘れやすい私はそう自分に言い聞かせます。

それ(優しくしてくれること)が当り前かのようにふるまえば、優しさそのものが消失する。
(積もることのない淡い雪のように・・・)

意地悪・嫌がらせ、凡そ悪いことはどうだろうか、それもこちらの心があたたかならば、淡い雪のように積もることがない。自身のあたたかい心によって淡い雪は即座に消えてしまう。















苦しみと不安と困難の中に生きる私にとって必要なものは

「素直で謙虚な心、なにものにも(悪い要素をもたらすものに)動じないあたたかい心」

淡い雪は、私の心には世の人に比べれば、淡い思いをもたらしただけなのかもしれない。
(大事なものは繊細ではかないものだから、大事にしなければいけない・・・)

誰が考えたらよいのか

 何気ない日常生活、だからといって何もないことばかりではないです。
大なり小なり問題が生じています。

問題を直ぐ解決せねばと思う人、考えるより先に解決へ動く方、気にもならない方、気になるけども動かない方、考えたけれども何もしない方、考えもしない何もしない方など人により様々な対処が出てきています。

現在は問題になってはいない。しかし、今のままでは必ず危機に直面する。そのことを気がついてない人に警告(注意)する。その大事とこちらが思う「思い」を共有出来れば、その方は危険が来ないように即座に準備努力しはじめます。

思いが共有できない場合、どんなに何度も懇切丁寧に話(解説)をしたところで、時間だけが虚しく過ぎていくのです。わかったふりをして何もしていないなら、わかっていないのです。

何度も何度も、「きたるべき時に備え、今直ぐに準備努力をしてくれ」さまざまな方法で指し示そうとしますが通じない時、私は自分自身の程度の低さを思い知らされます。

私の思い・行動が足りないがために、大事なことを目前の方に伝えることが出来ない。決まって「何か」に必死に向かいます。伝えたい思いがなぜ伝わらないのか・・・

いつもお世話になる方に聞いてみました。

「(貴方より)その本人が真剣に考えなかったらどうにもならんだろう。周囲が良い方法をどれだけ考えたってしょうがない。」

本人さえ気がつけば問題ない。そのことがわかってくれるだけでよい。必ずこちらの努力が足りていればどんな方にも伝わるはずだ。諦めきれない思いを持ち続けています。

私の前に、真剣に何かを発する方がおられれば私はそれを見逃さないように生きて行きたいです。







「誰がかんがえたらよいのか」

私はもっと考え続けていきたいです。

「いける」

 仕事では忙しい日はあります。そんな時、私は沢山の人に会うことになります。
仕事をしながら、よく目前の人を「どんな人だろうか」知らずにそう思いながら見ているようです。

真面目な人・普通の人・素晴らしい人・いけてない人(できる人)・いけている人(できていない人)、まあここは人の話ですから、私はどうなんだという話(追求)はどっかへやっておきます。

 真面目な人がきました。いつも一生懸命です。相手(仕事のパートナー)の方にも周囲にも元気よく挨拶しています。よく話をされる方です。
ただ一点気になりました。相手(パートナー)に「これ本当に大丈夫ですか」そう聞かれています。
その真面目な方は、「大丈夫です。問題ないです。」そうはっきり大きな声で何度も答えています。
大丈夫ですかと尋ねている方の顔を見ると、曇ったままです。

もう一度「大丈夫ですか」そう聞かれていました。やはり「大丈夫です。」と元気に答えています。
どうしても気になったので、再度質問している方の顔を見ると、顔はさらに曇ったままです。

 私も仕事で、大丈夫な時は「いけるよー(できるよ)」と答えます。出来るだけ相手の顔や雰囲気を見ようとします。
皆がこれはちょっと無理かもと思っても、私がなんとかするから問題ない。
一人でなんとか先が見えるときは、皆が「いけない」と思ったとしても「いけるよ」と答えます。
無理だと思ったときは「いけない」はっきりそう言わなければ余計に迷惑がかかる。周囲の方は私の程度にあわせてサポートしてくれています。本当に有難いことです。

先ほど文章で書いた真面目な方と私は同じことを言っています。

 私はよく考え込みます。何も問題なく終わっていても先を見つめたり、これから出てくるであろう問題を考えれるだけ上げて、その時のために答えを出そうとします。
私は人より不器用ですから、先に出来るだけ様々なことを考え込み、答えをある程度出しておかなければその時に即答できないぐらい程度が低すぎるのです。
つまりは、問題なくいっているのに、「いけなかった、もっと」そのように思ったりします。

私は置いといて問題を元に戻します。

出会う方に、仕事は問題がありまくりなのに、私は「いけてた。」そう答える人もいます。そのような状態で続けて周囲の方がなかなか私を理解してくれない。そういう方もいます。
何故そのような発言が出てくるのか、考え込んだのですが私は答えが少しも出てこないのです。

お節介ですが、少し言葉を伝えてみました。

 「相手が本当に大丈夫ですか」そう聞いてきたら、大抵大丈夫じゃないことが多いですよ。自分で「いけてない・・・」そう心から思ったとしても、周囲の人が「大丈夫」そう答えてくれたら大抵大丈夫だと思います。


 仕事をする大人二人以上いれば、どうしても仕事の効率・理解・発言・実行に他人から見てその人たちに優劣が付いてきます。

 一番下の人に合わせて仕事をして周囲に迷惑がかからないなら、その人に合わせたほうが良いのかもしれません。でも、合わせたがために仕事に差し障りが出てくるようなら、その人に合わせる余裕は微塵も存在しません。お客様(顧客など)の望むレベルに応えるために、こちらの程度の高い人に合わせて仕事をせざるをえないというのが現状になります。

お客様(顧客など)とこちらの仕事をするメンバーと自分の程度が、把握できなければ周囲の人たちに理解してもらえることが少ないのではないだろうかと考えたりします。







「いける」「いけない」どちらでも、時・場合・使う人により素晴らしい言葉になりそうです。

慣れる事がない

 学校や仕事、人間、場所、様々な事柄、回数に比例して慣れていくのが常でしょう。
良い匂いだって慣れてしまいます。反対に臭い臭いだってそこにずっといれば慣れてしまうのです。

良い人にはすぐ慣れます。というか慣れていないのだけれども問題がない。害をなすことがほとんどないために一緒にいても助けてくれる要素ばかりだからです。

その良い状態に慣れすぎて礼を失ったり、当然だと慢心する心が生じても、こちらはそう遠くない未来にバツを受けるのも世の常です。人によればバツを受けたと気がついていないこともあるのかもしれません。
見る人が見れば即座にわかることです。

「悪い人に慣れるのか」

段々となれていきます。悪いことをつまりは周囲に害をなすことが多い方はその方の自然状態において害をなし続けます。

別に計算して害をはっしているわけではないようです。それがその人の自然状態であり、何かことがあれば害を発してくるようです。

何年も一緒にいれば、おおよそ害を受け続けることにより、傾向と対策ができてきます。
要するにこちらがその方へ対して慣れてくるのです。

「悪い人にも慣れるもんだな・・・・」

そう思っている矢先に、問題が生じればその度に、いつもこちらの想像のはるか上を行く害を発してきます。

何年経ったら私は慣れるのだろうか・・・、そんなことを考えて「出来た人」に相談したことがあります。
その方は私へ

「いつになったら穏やかな日々がおくることができるのだろう。「(私はいつまでたっても害をなしてくる人に)慣れる事がない・・・」

そう言葉が返って来ました。
何故でしょう。不安なのですがある意味安心しました。人生の先輩でもあり、ほとんどの問題をいつも笑ってクリアしている人です。いつも誰にでも優しい方です。そのような方と同じ答えだという点において安心しました。(問題の解決ができていませんが・・・・)

 私なりの現在の段階での結論は、良いことは心地よいことです。そのことが多かったとしても心地よいことが増えるだけですから、何の問題もありません。むしろ世に生きる人はそう願っていることばかりでしょう(もしそうじゃないと思う人がいたとしても、それは自身の考えそのものに自身こそが気がついてないだけのことでしょう)。

悪いこと、心地良くないことです。悪いことをされたり目の当たりにしても心に平安は訪れません。むしろ反対です。「やっと慣れた。」これは心に平安が訪れたと言うのでしょう。
また同程度や同じ悪いことであれば経験上知っていれば、そのことによりこちらの心は揺らぎません。
同程度を上回る場合、こちらの心が乱されて、私は落ち着かないのです。

それを「慣れることがない・・・」

いつしか悪い方(害を常になしてくる方)と共に生きる時間がながければ、私はそれを慣れねばいけないと心の平安を求め自然体で努力するのでしょう。












悪い方(害を常になしてくる方)も考え用によれば、私に語りかけてきているように感じます。

「おまえは、この程度で心を乱されるのか」

私は常に素直でありたいです。

「はい、申し訳ないことですがそうなのです。」

「でも、必ず乗り越え(心の平安を取り戻し)て見せます。」




(やっぱりただの負けず嫌いです・・・)

かくれんぼ(2)

今日も仕事が終わり、家につきました。

「ただいまー」

「おかえりなさーい」

挨拶を言いながら出迎えてくれます。一番下の子、「けいくん」(2歳7ヶ月)は嬉しくはしゃぎます。
私を見て、飛び跳ねたりして喜びます。おそらく「小躍りして喜ぶ」その表現が適切なのかもしれません。

仕事で疲れてもそんな子供を見れば、笑みが自然にこぼれます。

 遊んでほしいのか、こたつにすっぽり潜り込んで

「おとうさーん、おとうさーん」

楽しそうに私を呼んでいます。居場所はわかっていますが、

「あれーけいくん、どこにいるの、どこだろー、わからんなーどこだろう(これをベタな演技というんでしょう・・・)」

そう言うと、楽しそうな笑い声が聞こえます。一回外に出てはまたこたつへすっぽりと潜り込み

「おとうさーん、おとうさーん」

まあかくれんぼをしているんでしょう。しばらく何回か付き合いました。

お風呂上り、風邪引かないようにタオルで拭かないといけないのに、真っ裸なのをしってわざと逃げることがあります。

カーテンの陰に隠れ、自身が隠れている行為が楽しすぎるのか、笑い声がもれています。

「あれー、けいくん、どこー、どこだろう(バレバレなんですが・・・)」

私も3人兄弟の末っ子で育ち、幼少の頃気がつけば三人でよくかくれんぼをしたものです。
両親にも一緒にかくれんぼをしようなんてよく言ったことを思い出しました。たまに付き合ってもらったような気もします。記憶は定かでないことが多いのは私が歳をとったからでしょう。

話を子供に戻します。

「けいくん」は、テレビなどでヒーローがマントをしていたのをどうやら覚えたようです。
家族にバスタオルなどを、マントがわりにつけてくれとせがんだりします。マントをつけようとする段階で笑顔と嬉しい声がもれてきます。楽しくてしょうがないようです。

「けいくん、格好いいー」

また素晴らしく嬉しそうに笑います。自分で羽織れないから、マントがずれたりとれてしまうたびに

「おとうさんー、マントつけてー」

つけてあげるたびに、幸せそうにまた満面の笑みをうかべています。

 私は(私だけではないのかもしれませんが)今は(40近くなってしまい)2歳や3歳の記憶はほとんどありません。
あの子を見ていると、両親の若い頃は私(正確には素晴らしい笑顔をだす子供時代)を見て、そこに私の子供達から感じとることのできる素晴らしい笑顔や仕草で心の中が満たされるものを感じてきたのだろう。

子供達の素直な心や笑顔は、かつての自分がどのようであったかを教えてくれている。

小さい子供を見て素晴らしい、可愛らしい、天使みたい、神様みたい、仏そのものだ。自身がそう思うことのできる人は、小さい頃の自分だって自身が思うそのものだったことを忘れないでほしい。








願えば(心と行動が足りていれば)、いつでも天使・神様・仏そのものになれる(手が届く)。

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勘違い

 何も考えずに生きていても、人は親からもらった身体・身に染み込んだ躾・教育・日本人ならば日本の国の思想を受けて大人になるのです。育つ国によって文化の違いは大きく、しかし自分が育った国が最高であると思うのはごくあたりまえのように思います。

楽しかった10代が過ぎ、何も知らずに希望を抱いた20代をむかえ、30代になると厳しい現実に気がつき始めます。

私も40の節目が近づき始め、思い知らされたことがあります。若い頃は誰でもではないと思いますが、私の様に自分一人で生きていると勘違いしている時期があります。

自分は何でも出来る。そう思うのは悪いことではないです。限界を作って発展性がない、または閉じこもるよりはその方が若者らしいはずです。その何でも出来ると思える自分を構成している要因に気づく時があります。

何気なく人と応対する仕草、話し方、食事方法など、考えてみれば、私の場合ほとんど親から指導され、教育されたものばかりです。

私がなんでもいけると自信を持つ行動・他様々な根拠は両親が私を育てる過程において、これから先に歩むであろう長い人生を困らないようにとお金のかわりに、必死に持たせてくれたものです。

厳しかった思い出もそう考えれば、心から有難うとしか思えず、厳しい親を恨んだ幼少時代でしたが今は最高の思い出です。

そうなると困ったことが出てくるのです。厳しい親を恨んでいた事、それがありがたい存在に変わると、社会人になり一人で頑張ってきたと言えなくなり、育った環境でお世話になった方と両親のおかげで成り立っていることに気付かされます。会社でもそうです。自分一人でと思いがちですが、やはり職場全員の力でその職場は成り立っています。色々考えれば考えるほど、私一人の力なんて思っていたのは、大きな勘違いです・・・

知らずに自身が皆様からいただいている事柄や物の大きさに気づき、また深く見つめなおさなければなりません。

大事なことに気がついてしまえば、これから今までのことを基礎として発展しなければいけません。いつまでたっても教えていただく立場ではなく、私達はいつか人間としてある程度の完成、これからは周囲の方の模範となるべき年齢になるのです。

それが「40にして惑わず」「自身のやるべきことが見え行うべきこと(生きていく道)が決まった。」ことと私は解釈をしています。

自分はできていると身勝手な判断をすると、周囲の方は内心

「何考えてるの?まったくできてないけど・・・」

などと何処の場においても思われてしまうのです。まずはその段階に自分がいると気がつき、悪い点を心から反省した上で出来ていない自分を認め納得し、少しずつ中身を理想の自分に近づけていけばいいのです。

勘違いも悪くはないのです。良い勘違いなら皆さん大歓迎です。

ただ「自分は出来ている。」と「出来ていない自分を誇らしげに思う勘違い」は発言する方、そう思わせる本人しか思っておらず、周囲のまともな方に誰一人通じることはなく、再度になりますがそれはどこの世界(場所)でも通用しないのです。

悪い勘違いは戒めであり、良い勘違いは出来た自分の理想の姿です。私も含め悪い勘違いは人を困らせるだけなのでもうこりごりです・・・

 日本人が毎日食事にいただく、稲に例えて名言があります。

どんな些細ないことにでも感謝し、出会う方どなたにも頭を下げ、礼を失わず(お礼と感謝と敬意をあらわされるのです。)自分という一人の限界を知り、いつも誰かにお世話になっている。また今までもこれからも何かの縁で迷惑をかけるかもしれない。

「これまでもこれからも宜しくお願い申し上げます。」

といって、老若や地位・名誉があったとしても自然に頭を下げる人を指す言葉に

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

どうも中身がないと老若を問わず、大きな勘違いして頭を垂れることを一切せず。反対に人に向かって頭を下げることを強要したり、自信は偉いといわんばかりにふんぞり返った態度をする人もあるようです。

私達は一年ごとに歳をとり、いつかは必ず(命が尽きていなければ)老人になります。












 「稲も人も実り大き育ち方でないと感謝をされない。」
それは古からの現代に生きる私たち(特に私)への戒めと教訓の言葉です。

知識と知恵

 辞書のごとく沢山物事を知っていることは素晴らしいです。
人として生活するために最低限の知識を必要としますので、小・中学校が義務教育となっておることは大変に有難く感謝しなければいけないです。本人やその両親が気づいていなくても知らぬうちに教育を受けて身につく環境が整っている。日本では当然のことですから改めてそれを支える国・先生・学校関係者の方には敬意の念を払うべきであると考えます。

 自身を取り巻く人達を見渡した時、尊敬できる人・普通の人・出来れば近寄りたくない人平たく言えば個人の嗜好、単なる好き嫌いというものです。

 知識は知識だけでは、実生活から遠ざかっていき、知識と実践が伴ったときに素晴らしいものになり、その行為が真摯であればあるほど光り輝くのです。

天才はそれを、

知識を持つだけならば知識人と呼び、知識有り必要に応じ自在に使いこなしその上、常に即座に実行する人を「知恵ある人」と呼び、その最たる例が「シャーキャムニ仏陀」その人である。

と言っている。

 私は知識(ここでは学術的知識)と実践の二つがないとだめだと思っている浅墓であり愚か者でありました。教育を受けた上で実践が伴わないとだめという勝手な思い込みが心の中で迷いとなり時には障壁となっていました。

 生活をするためには仕事をせねばなりません。私は何も考えずただ仕事をしている毎日なのですが、親切にいつも自作の野菜を無料で分けてくれる方がおられるのです。
その方を注意して見ると、私が勝手に思う良い人悪い人に関係なく、同じように野菜を無料で配っておられます。私の至らぬ考えでは

「気に入った人だけにあげたらいいのではないか」

「何故悪い事をするような人にも同じように出来るのだろうか」

考えればきりがありません。その方は普段から気持ちを上手に言葉で伝えるような人ではありませんが、どんな机上での学問にも勝る素晴らしきことを実践されている方だと思ってしまうのです。その方と自分を比べれば、言葉がでないのです。(簡単に言うと、その方は私と比べようもないくらいに、遥かにその人は知恵ある人だからでしょう・・・)

冷静になって考え自身の周囲を注意して見渡せば必ず、その人独自の素晴らしい一面で、皆を自然と助けている方の存在に気付かされます。

 そのことを考えれば考えるほど、私自身のとりまく環境や年齢を言い訳にせずもっと努力し成長せねばならないとしか思えないのです。

 当然知識は学術的だけでなく、様々な知識全てがあるに越したことは無いのかもしれません。
自分より少しでも素晴らしい存在であると感じれば、気付いた瞬間即座に頭を下げ、感謝し、その方に教えをこうしかない。そのようにしか私は思えないのです。

 どうも年齢と比例するものと思っておりましたが、若くても本当に素晴らしい方・年配の方で素晴らしい方、それぞれ存在し逆もまたあるようです。

 知識は決して邪魔にならないものです。もし邪魔になるような知識の使い方であるならば、それは知識とも決して「知恵ある人」とも呼べません。













「貴方には無理だ。」「身の程を知らないやつだ。」などと誰に何を言われたり嘲笑されようと


ただ私は今よりほんの少しでもいいから「知恵ある人」に近づきたいのです・・・

竹輪(ちくわ)

 長崎で生まれ育ち、偶然に流れ着いた徳島で少なからずびっくりしたことがあります。
誰もが食べる「竹輪(ちくわ)」、穴が開いていて向こうが見通せる食べ物としか私は思っていませんでした。

徳島名物の「ちくわ」は、穴に竹が刺さったまま、初めて出された時は

「何で竹がささったままなの、誰か抜き忘れた?」

なんて思わず質問してしまいました・・・。

スーパーで安く売っていたのでこないだ自宅へ買って帰り子供達にだしたら、やっぱり驚いてました。

「何これ?」

「ちくわだよ」

私の子供達は生まれも育ちも徳島育ちだけど両親が他県出身のため生粋の徳島人ではないです。

竹にかじりつきながら食べる「ちくわ」三人ともかじって美味しいと声を揃えて言っていました。

「かじる」っていう醍醐味がいいのかな・・・

2月3日の節分、当然子供達ははしゃぎまわって豆まきをしていました。

「福は内」

「鬼は外」

「福はうちー」

大きいお兄ちゃん二人が大声で夜に豆をまいていました。下の子「けいくん」もそれにつられはしゃいでいます。

「けいくん」も大きい声で

「ちくわーうち」

何度もそう叫んでいました。
よっぽど何日か前に食べたあの「ちくわ」が気に入ったのかな・・・











「けいくん」そのものが「福」だから、ちくわが沢山家に来ればきっと幸せなんだろう。
今度また買ってくるか

「福はうち、鬼は外」
この言葉は、「福は(心の)うち(にある一日も早くそれにきがつこう。)」
「(自分の心から)鬼(とよばれるもの)は外(に出ない出さない努力をしよう)。(自身の心の鬼、邪悪なものは外に投げてひとにあたってもあたった人が困るだろう。)」


まあ私なりの偏りありすぎる「福は内、鬼は外」かな・・・

腹が立つ

 仕事や日常において思ってもいないことに出くわすことがあります。
いつものように仕事をしていましたら目前で

「ちょっとは自分だけじゃなくてお客さんのことを考えてモノを言って欲しい。」

自分ではない誰かのことで気がたっておられます。気になるおせっかいな私はたずねてみました。

「どうされたのですか」

すると

「団体さんの中におられる、先にたって指示される方が自分本位なんです・・・」

「どんなふうにですか」

「お昼ごはんを食べる時間もお客様でなく自分のペースで進める上に、急いで食べる時間を私に言えというんですよ、良いことなら声を大にして言いたいですけど、恨まれそうなことを言わなければいけないって、少しは考えていって欲しいんです。自分で言うならいいのに絶対言わないんですよ。」

「ああ、それは・・・、気をつけて言葉を発しなければいけない人が全く気をつけずに、人にだけ言ってるんですか、言ってもないか、嫌なことも人にいわしてるから」

「こちらが言いすぎてもというか言っても、注意しても恨まれるし、なにせ自分が偉いと思っておられるみたいな感じです。どうにかならないですか・・・」


私の過去と全くといっていいほど同じです・・・
偉そうに身の程をわきまえず、人のことだけ注意する。自分は良いことをいっている。そう胸を張って周囲と自分を見ることをしていません。深い考えもなく、考えていると本人だけが思い、周囲からすると考えずに発言しているとだけ目に映っているのです。

その方におせっかいですが言いました。

「どうかよい願いを諦めないで下さい。良い思いを捨てないで下さい。」

キョトンとされていました。

「私なりの解釈ですが、腹が立つということは、その現状を理解し良いことを願う方、正確には良いことを願うのだけれども現在の自分にその状況を打破する良い手立てが無い時にその人は腹が立つのです。

自分が成長しようとしている。よきことを願っている。それを邪魔されているととれば腹が立つのです。

邪魔されているのではなく、こちらにそれをカバーする良い手段・対応・強い精神・礼を尽くす・品格を保つなどがそなわっていれば、邪魔されてもこちらはゆるがないものになると心がさけんでいるんです。それによってこちらの心が試されていると思うのです。

だから、良い願いは諦めないで下さい。」

私の偏った愚かな解釈がその方へどのように伝わったかどうかわかりません。

必死に目の前の人が何かを伝えてるという思いくらいは伝わったのではないか・・・

などと後になれば考えます。












「良くしたい。そのために必死に努力・精進するのであれば、腹はいくらでも立てて良い。

逆に文句を言ったり怨むだけでなにも努力もしないのであれば、腹は立てる必要がない」

いつだって、私なりの偏った解釈しかできないのです。

親切心から

 時折、私は親切心を起こして自身が好意を持っている人に何かしてあげなければと思う時があります。
誰でも好意を持つ人・お世話になる人・いつも優しい人・綺麗な人・親切な人・親しみの持てる人に気持ちにゆとりがあればそう思い行動するのかもしれません。

もっと人間らしくある方は困っている方を見てほっておけず、即座に助けようとします。
その方のその時に考えはないようです。

 出来ていない私は、「何故」と考えこんだり、「どうしたら」と考え即座に実行へ移せないことが多々あります。

つまりは、私の程度は本当に低すぎるのです。

書に

「乞うものを見て与えるのは施しであるが、最上の施しとはいえない。心を開いて、自ら進んで他人に施すのが施しである。また、時々施すのも最上の施しではない。常に施すのが最上の施しである。
 施した後で悔いたり、施しで誇りがましく思うのは、最上の施しはない。
施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施しを受けた物と、この三つをともに忘れるのが最上のほどこしである。」

私はいつになったらこれが常に出来るようになるのか、でも、諦めないように忘れないように

余裕があるときくらいは

「はっ」

もうすでに、「常に」がどこか遠くへ











どうやら私の完成は遥か彼方にあるように思えます・・・

でも、私なりに良い方向へ開き直り、必ず前へ進むことにします。

もがく

「必死にもがく」その時は、目前の(咄嗟に思いついた)ことをやるしかない現状となります。
他のことをしたらよかったのにと、後で人からアドバイスを受け、はっと気がつくこともあるのかもしれません。

しかし、その時は必死になりすぎているがために、それしか見えていない。正確には見ることが出来ない。

その目前の事が自分にとっても、人(自身と周囲)にとってもマイナスの要素が少なく、プラスをもたらす要素が多分にあるのであれば、

「不器用だから、その時はそうしかできなかっただけです。」

この言葉に、その必死におこなった月日と比例して重みがましていきます。人間の深さ幅も広くなるのです。

換言すれば「眼前の道へ、身も心も投じた。」人となるのでしょう。

身を投じた人には、付属として様々なことが訪れます。

書には、木の芯を得るための話と置き換え、その最初の段階として

「わずかな尊敬と名誉とを得てこれに満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。」

次の段階に

「自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得たように思い、満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。」

次の段階に

「自分の心がいくらか静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。」

次の段階に

「いくらかものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の肉を得て芯を得たように思うことである。」

結びに

「道を求めるものにとっては、尊敬と名誉と供養をうけることがその目的ではない。わずかな努力や、多少の心の安定、またわずかな見る力が目的ではない。」

とあります。



 努力すれば、誰でも知識や世を見る視野も広がり、人間としても大きくなれる。

しかし、思い出さなければならないのは、付属として付いてくるもの(名誉・知識・力・しあわせなど)ではなく、いつも本質にあります。

本質を求める心があり、身を投じればさまざまな付属もつくが、心がおごり他をそしればその付属(しあわせなど)も消失します。身を投じることがなくなっても付属は消え失せます。










「もがく」とは自分にとって進むべき道が見えない時におこるように思うのです。必死になれば見えなかった道が見え、歩むべき道があらわれるのだと信じています。

「歩むべき道」それが本質、本質を見失ってはいけない。その本質の付属(名誉・しあわせ・徳・智慧など)はあくまで付属なのです。

優しさ(3)

 女性にも男性にも優しい人がいます。勝手な見解ですが、体感上男性より女性の方が優しく感じる事が多いように思います。

「男性は優しくない人が多いのか」「女性は優しい人が多いのか」それは私の素朴な疑問でした。
どうもそれは男性と女性の優しさがそれぞれ違う形で現れ、女性の優しさが一般に分かりやすいのです。男性も当然優しいのです。しかし優しさの表現が少し複雑でわかりにくいのです。例外は当然あります。

 一つの例で言えば、男性の「優しさ」は「厳しさ」で表現されます。それに対して女性の優しさは困っていたら、相手がどうであれ助けるという「優しさ」で表現されます。これにも当然例外もあります。
しかし、どちらも本質は「優しさ」です。

男性からすれば優しくするより厳しく接し、なんでも自分で乗り越える力を持たなければと相手に望み、その方法をきつく伝える。

女性は困っていれば、相手が賢くても賢くなくても助ける。そういう優しさといったほうがわかりやすいでしょうか。

このやさしさの伝わり方の違いにより、相手の受け取り方はかなり違ってきます。

本人が悪い意味で勘違いしている場合に優しくフォローすると、注意された人が出来ていないのに出来ていると錯覚する人もいます。

出来ている人であればその「優しさ」をしっかりと受け止め、自己の過ちと至らぬことを把握し感謝を持ってさらに向上します。

厳しい優しさは、本質が見えない人(自身)の至らぬ行動・言動・思考を全て否定する場合もあります。その結果注意した人のことを「あの人は怒りっぽい」・「ストレスのはけ口なのではないか」・「恨みというか、やっかみ」といったように色々取る人もいるでしょう。

本質を見ることのできる人は、怒ることは大変力のいることだと知っています。

「どうでもいい人に怒るエネルギーを使いたくないものだ。」・「怒って好かれる事も少なく、嫌いに思われることも多いことを承知で激しく怒ってくれている。」・「こちらが出来ていれば相手が怒るはずもない。」

と簡単に受け取ります。

果たして怒られるという原因を自分の中から無くさずに、いつでも環境が悪い。他人が悪い。周囲のせいばかりにして怒られることが少なくなるとは思いにくいです。成長しない人間を見て褒めてくれるとも思いにくいです。

私も男性ですから、「優しさ」=「厳しさ」で100%に近いほど表現することが多かったのです。現実は優しく(厳しく)すればするほど、こちらが痛い目に会いました。

知人であり先輩である人の中に優しい(厳しい)人がいました。その方は飽きっぽい人でしたが、良いことをよく言う人でした。

しかし飽きっぽいがために良いことが長続きしない人でもありました。それでも後輩にはいつもきつく指導していました。自分が出来ていないのに人に注意すると少なからず起こる現象があります。

出来ていない人が出来ていない人に注意する。すると

「貴方自身が出来ていないのに、注意なんて出来ないだろう。」(つまりはやってから言え)

となり、時に殴り合いの喧嘩になっていることがありました。晩に先輩がお酒を飲み、ぼそっと独り言をこぼしていました。

「自分ができてないのは自分が一番知っている。それでも・・・それが分かっていても、あいつらのために絶対に言わなければいけないんだ。」

それまで、その先輩のことを正直嫌いでした。現在その先輩の言葉は胸にしみます。そしてその方と、その考えが本当に大好きです。それから同じような立場に遭遇するといつも思うのです。自分ができてないのにしっかりしろと言わなければいけない時、果たして先輩のように殴り合いになることを承知の上で言えるのか・・・・

根性無しの不出来な私は殴り合いになるのなら言うことができない。しかし違うことも思います。出来ていないから言えないのであれば、

「こちらが少しでも多く出来ることを増やしてから発言すれば良い。」

と自分なりの解釈をして普段から出来ないことを出来るように実践しようと自分なりに前へ進もうとしています。

「優しさ」=「優しさ」で表現される優しさ、比較的女性に多いです。

 不出来な人をしっかり不出来と認識して行う優しさです。良い人にだけ優しくする優しさではなく、「良い人」にも「そうでない人」にも優しく接しています。

出来ている方に優しく接すると、相手は全てを理解しているので自分が思う以上の優しさが返ってきます。出来ていない方に優しく接すると、何も返ってこない場合もあり、時に迷惑が返ってくることがあります。
「自分ができている」と勘違いをしている「出来ていない人」は、相手からの優しさを「それは当然だ」・「こちらはそれ以上のことをしている。」・「むしろまだ(優しさが)少ないのでは」そのように考える人がいます。

だから優しさに優しさとして相手に返らず、迷惑と思われる行為として返すことがあるのです。それは今までの不出来な私に優しさを与えてくれていた周囲の人に対する自分自身そのものです。

周囲の方は出来ていない私に優しさを与え見返りを求めていませんでした。そんな不出来な私、これこそが世の中に言う「可哀想」な人というのでしょう(情けない話です)。

見返りを求めない優しさを放つ人、または「優しさ」=「厳しさ」を持って接する。

「人はどのような優しさを持って生きて行くべきなのか」そのことは私にとって常に考えさせられることです。











ただ優しさによって救われ続けている愚かな私は、「優しさ」を少しでもいいから何時でも出せる人でありたいのです・・・。