褒めて伸ばす。

 学校での先輩後輩・仕事での付き合い・勉強・個人的な付き合い・これから夫婦になるにあたり人によれば、「私は褒められたら伸びるのでよろしくお願いします。」と自己紹介も兼ねて最初に教えてくれる人もいます。成程確かに自分のことに置き換えてみても、怒られるより褒められたほうが気分はいいです。

怒られると自己嫌悪や相手を恨んだりする人も多いでしょう。私自身その点に関して人のことをとやかくは言い難いところです・・・。

どうも相手のことを客観的に判断し、相手を思い発言する同義語として「褒める」=「怒る」があるようです。

ちょっと考えれば厳密に同じではないです。ただ時に同じ意味合いを持つことがあるということでしょう。

個人的なことですが、幼少の頃より母に厳しく育てられた為、私の中での「優しさ」・「褒める」は「怒る」または「事実をありのまま言う」がほとんどを占めているようです。

優しさを持って相手を接しているつもりでも、相手から「そんなにきつく言わなくても」「もっと優しく言ってくれたらわかります。」人によれば先に述べた「私は褒めて伸びる」からと言われることもありました。

果てしなく愚かな私の考えでは、そもそも「出来てない事を優しく言って気づくのか」またもっとひどくなれば「それで本人が気づくとは思えんので激しく言うしかない」とこの有様でいつもきつく言ってしまうのです。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といいます。言い過ぎると反感・反発・挙句は出る杭は打たれることになるのは世の中のどこでも同じです。ではやっぱり「褒めて伸ばす」が正解なのかなあ・・・・、とか激しく打たれた後には考えさせられるのです。考え込む私に世間話をしてくれる方がおりました。

その方の言うには、

「私は真面目な人・仕事が好きな人・出来ている人・優しい人・素晴らしいことを行なっている人などが大好きだ。だからいつでも褒めている。それに誰でもそんなところがあれば私は褒めたい、だからいつでも褒めている。」

と繰り返し褒めることを言っていました。

私とは違う優しさで褒めて相手を認め伸ばす人の存在に気づき、感心していましたら

しかし、ごく稀に

「こちらはいつでも褒めたいけど、まったく褒めるところがない場合は褒めようがない。褒めたくても褒めれん。」

とあっさり言われていました。時には私が言ったり行うように、

「きつくはっきり出来ていないと事実ありのままを言うこともしょうがない。そういう人も場合もあるだろう。」

と続けて言われていました。

最近は怒るより、きつくなると相手に「よく考えろ」と口癖のようになっていました。

そう言うとまた出来た方が私に注意します。

「何を考えるか分からない相手に考えろというのは酷すぎるだろう・・・」

「そもそも何をどう考えていいかわからない、何を自分がやっているか成すべきかの現状を考えれるんだったらそうなってない」

と諭されるのです。

「怒る」でも「考えろ」でもなく、「褒める」ということを上手に使うこともできない。では出来ていない現実を言ってあげればいいと思いました。出来てない人が、出来ていると勘違いしている時、淡々とありのままの現実を突きつけるのは一番酷な気がします。

やっぱり「褒めて伸ばす。」だなということになります。

これから出会う方また今まで出会った方もですが、相手には褒めて伸ばすことにしたいと思います。しかし、「いつでも褒めたいけど、褒めるところが見つからん・・・」と思われる人にならないようにお互いが注意して、いやこちらはどんな人でもいいところを即座に見つけ、世間的な上手ではない、心から出る本当の思いで目の前の人に事実を伝えること。つまりそれが私の思う本物の「褒めて伸ばす」に繋がるのだと信じているのです。








「貴方は褒めたくても褒めるところがない。」

そのように言われないように私は気をつけるようにします。
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かくれんぼ

 ブログをはじめる前と現在では、晩の日課がだいぶ変わりました。
様々な方のブログを見て色々と教えていただいたり、書物を見たり、文章を書いたりといったことがほとんです。まあ、一言でプライベートな時間が「ブログ中心」の生活になりました。

私にとっての最大の利点は、パソコンに向かっている間はお金を全く使わないことです。現在の私に即した「身の丈にあった趣味」となっています。

「何時までこのブログが日々更新できるのだろうか」

そのようなことをパソコンの前で考えながら、ぼーっとしていました。

一番下の子「けいくん」を膝の上においてほとんど「何か」を書き続けています。

けいくんを私が面倒みていれば、お嫁さんだって家事や夜に少しは時間がとれます。
他所様のブログのお月様の写真を見て、「けいくん」は

「おつきさまー」

そう言って喜んでいます。

自分のことでは私は座ったらほとんどパソコンの前から動きません。けいくんに本物のお月様を見せてあげよう。抱えて夜の外へつまりは玄関の外へすぐに出ました。(また嫁さんに溺愛していると言われそうです。)

雲ひとつ無い日は、お星様とお月様だけが見えます。しかし、毎日雲ひとつ無いなんてそんなことはありません。
大体少しくらいは夜に雲だってあります。

ちょうど雲が多い日でした。お月様の上を流れる雲、見えてはかくれ、かくれては見え
何故でしょう。昼間より夜のほうが体感上雲の流れるスピードが早く感じます。
そんなことを思いながら抱っこしてお月様を眺めていたら「けいくん」は

「かくれんぼしてる。」

お月様を見てそう言います。

「うん、確かにお月様かくれんぼしてるね」

雲によって、お月様がかくれたりあらわれたり、そう言われれば私にもそう見えます。

冬の夜は寒いです。

「けいくん風邪引く前に中に入ろう。」

けいくんは、また

「またねー」

お月様へお別れを告げています。











 私は自分なりに必死に「何か」について書こうとしています。
「けいくん」の一言には何故でしょう。私の大負けです・・・。。

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楽しむ

 楽しいから楽しみであり、楽しいことを楽しくやれるのは当然です。

楽しいことだけしかないという道であればそれは自分の道ではないかもしれません。もっとも到達するところまで到達した人にとっては例外でしょう。

本当の楽しみについて考える時があります。一体それはどのようなものだろうか。


・悪い事が嫌だから逃げ出したいと思わない。

・目的がある(目的を見つけることができる)。

・自分に即した(自分らしく振る舞うことのでき、皆がしあわせになれる)道であること。

簡単に三つだけ、出て来ました。これは甚だ難しい問題であり、そこへ辿り着くまでには幾多の困難を乗り越えねば自分にあった道は見つからないのかもしれません・・・。

 「この道こそ自分の道である」と早く気づくことができれば、人生を心から楽しめることは間違いないです。

よく物事のマイナス面にとらわれて、落ち込んでばかりの人もいます。反対にプラスとして捉え楽しくなる方もいます。

悪いことから反省すべき所は反省し、自身の課題として前向きに捉えプラス・マイナス総合して楽しめる道が自分らしい道ではないかと思ったりします。

ただ個々の資質・才能・向き不向きがあり、すべての人に共通して限定される道があるわけではないはずです。
その人にあった道が必ず存在します。

 例えていうなら、音楽は音を楽しむ、音を楽しめるから音楽なのだと思います。音を楽しめない場合、それは果たして音楽でありえるのか。その時は苦難・苦痛を伴ったとしてもその道を諦めず、いずれそれが大きな喜びにかわるのであれば、結果音を楽しめているといわざるを得ないはずです。

楽だけの楽しみであればそれでいいのかもしれません。

時に大きな苦を伴う楽しみも含め、心から楽しむことができる人間でありたいと願うのです。

人が生まれれば、いつかは必ず死がやってきます。望んでいても望んでいなくても・・・

 楽して苦労をせず人の気持ちもわからないまま、挙句自分の気持ちすらわからない場合、
「生の喜び(楽しみ)」「死の喜び」はないのかもしれません。




 出来れば死の喜びとまではいかなくても、生をまっとうする。生を楽しむことからはじめ続けていかなければ、大事なものを失ってから気づくようでは遅い・・・、何故かそう思うのです。

素直

 平日は学校から宿題が出ます。
長男坊は宿題より遊ぶことをいつも優先し、後で痛い目にあいます。次男坊は先に宿題をやっています。

私が小学生の時、宿題なんて家に帰ったら忘れていた思いでしかありません。それに比べれば二人は私より本当に良い子です。

 2歳半の末っ子の「けいくん」には宿題も手伝いもありません。上の二人には小学生ですから毎日宿題とお手伝いがあります。

上の子が、ぼそっと

子  「けいくんは、お手伝いも宿題も勉強もないからいいな・・・」

父  「安心して、お兄ちゃんも2歳の時はお手伝いも宿題や勉強なかったから」


どうも安心できないみたいです。
(納得もいってないみたいです。)


私は上の子が赤ちゃんの時から知っているから納得はいきます。

小さい子は、何を発言しても可愛らしいです。(ただの親バカだからともいいます・・・)

深い考えではなく、思ったまま発言しているだけです。
「好き」という言葉だって本心から言っています。笑顔も大抵心からの笑顔です。見つめられただけで抱きしめたくなるくらいに幼い子は可愛らしいです。(やっぱりただの親バカです。)

上の子は10歳になり段々と大人みたいな考え方が出てきました。生意気だって愚痴だって大人のように発言が増えてきています。難しいことも理解できるようになってきている証拠です。

ただ素直に喜んだり、良いことを願ったり、努力していたり、悪い考えが感じられない時は2歳も10歳も同じに見えます。

「綺麗であり、可愛らしくもあり、それは人間らしい。」

何故かそう思ってしまいます。

長い月日を過ごしたせいで、私は「おじさん」になりました。

私がひねくれていたり、悪いことを考えたり、身勝手だったり、おおよそ素直でない時は、私は憎らしく、可愛らしくもなく、綺麗でもなく、人間らしくもないです・・・


日々子供を見つめ思います。













「素直でありたい。(特に心が)綺麗でありたい。それは人間らしくずっとありたいという心の素直な願い。」

子供も私も、その状態が長く多ければきっと、その時はしあわせと共に生きている・・・。

わからない

 時折思う人がいるのかもしれません。いや、常にそう思う人もいるのかもしれません。

「私のことを何故わかって(理解して)くれないのか」

他人のことをわかる(理解する)。私には本当に難しいことです。
そのようなことを思い悩む日々、ある日上司より一つ有名な言葉をおしえていただきました。

「一年先を思いては花を育て、十年先を思いては木を育て、百年先を思いては人を育てなさい。」

事実、上司は花と木をよく植えています。私たち部下へ愛情も忘れていません。

私が生活が苦しいといえば「金銭」を、のどが渇いている時には「飲み物」を、心が乾いている時には「愛情」を、私はその方を「ほとけ」だと思うこともあります。

上司と私はほとんど話をしません。けれどもいつも私を大事にしてくれます。正確に言えば私だけでなく大体の人に優しいです。

不出来で愚かな私に物心両面で支え続ける方、私の以前からの疑問です。

「何故に私にこんなに優しいのか」

いつも私はその答えがわからないのです。よく私が「生きる理由」や「存在する理由」などを考えることがあります。考えたって「これだ」という明確な答えは「わからない」ことがほとんどです。

ただ思います。「わからない」事が多い世の中に生きる私、一つだけわかることがあります。

私が受けた「優しさ」「恩」「親切」「感謝の気持ち」「不出来な私を信じてくれる人」そのような思いや行動を発し続けている人が生きている間に、私は現在出来る「何か」を返さねばいけない。

それは「お世話になった方と私の生ある内になしてこそ意味がある。」

私は一日先・一年先・十年先・五十年先・百年先にもつながる、今の私に出来る「何か」を必死に考え、行なっていきたい。それが何もない私に出来るものだと必死になる時があります。







他人のことを理解することも大事です。しかし、それよりも大事だと思うことは

「自分が今どの程度であり、今自分に何がなせるのか」

そのことが一番大切だと、最近になり徐々に気づきはじめようとしている程度の低すぎる私なのです・・・

 毎日仕事が終わり、徳島の眉山、それを眺めながら眉山の方角に向かいながら家路へつきます。
「眉山(びざん)」少し前に映画化されたせいで、徳島以外の方でも知っている人もいるかもしれません。
眉山をながめれば、それに連なる山々も目に入り、一番有名な山が眉山で、他の山の名前、お恥ずかしいことですが私は全く知りません。何故か調べようとさえ思わないです。

 尾根伝いに連なる山々、夕暮れ時には、ぼんやりと山々が見え、じっくりと見れば一番手前、その奥、その又奥の山、かすかに色が違い、徐々に奥行きが感じることができ、それが山ではなく山々だと感じます。絵画の遠近法のように手前の山が濃く、段々と奥の山に行くに従い、色が少しずつ薄くなっています。

山際も夕暮れ時は、おぼろげで空と山の接点がぼんやりしているところがまた趣があります。
日中の空と山々の接点、青い空と緑の山は綺麗に別れ、青と緑のコントラスト、それも又綺麗なのですが、ぼんやりとしている空のほうが私は好きです。

 毎日何気なく見る眉山、誰でもが思うように私も徳島へ来て直ぐ、「あの山の頂上へ行ってみたい。」何回も眉山へ家族でドライブへ行きました。家族に子供が増えてから随分行く回数も減りました。しかし、毎春さくらを見に行っています。

山は、今を生きる私や過去に生きた昔の人、同様に現在も憧れられているように思います。
見下ろす景色を楽しむ場所、神仏がおまつりされ参る場所、物見遊山としていく場所、健康のために歩く場所など現在でも様々な方を山で見ます。


「動かざること尊し」、山が動けば大惨事であり、その名の通りどっしりと構え動くことは稀です。
大抵頂上には神様なり仏様がおまつりされ、その神仏を古来よりお参りして来ました。

人により山へのアプローチは違います。どの道でもどんなアプローチでもどのような楽しみ方でも、楽しまないという楽しみ方でも、山は山です。

難しいことは今日は考えることはやめます。

毎日の仕事帰り、眉山を眺めるのが本当に好きです。中学高校時代を過ごした長崎では、よく「稲佐山」をながめ、幼少時代は山の中で遊びまわったものです。













一つわかることは、最近あまり山登りはしていません。けれども小さい頃よりどうも「山は好き」みたいです。

優しさ(1)

 どなたでも日々色々あります。生きているからそれは当然のことのように思えます。

 その中で特に私は仕事が忙しいと勝手に理由を作り、努力や手間を惜しみ根拠のない勘を頼りに言葉や行動をおこして他人に迷惑をかけてばかりな自分に気づかされた出来事です。

 若い私が間違ったことを堂々と発言していても、「若い方に恥をかかせてはだめですよ」とあえて私に注意せず自分の連れの方にも、若い方に恥を欠かせないようにと振舞う方がおられました。

 失意のどん底の気分がどんなものかわからなかったのですが、私には自分がそこにいる気分になりました。

 私は今までまったく気がつかず、そういう方の沢山の優しさに支えられ、出来ていると思い込んでいる自分の存在に気がつかされました。言わなければわからない私を言わずに守ってくれているのです。そのうち気がつくと温かい目で見守る方もいます。


「優しさに守られる私は一体何だろうか」


 人間わからない方が良いこともありますが、わかってしまって気を付けない場合は愚の骨頂といわれるのでしょう。

人として生きる為に必ずやらなければいけないことが増えたように思います。

 やることが増えすぎた場合、不完全な私は何かでまた迷惑をかけるのかもしれません。出来れば迷惑をかけずに生きていきたいと願うのですが難しい問題なような気がします。

私は発言するたびに後悔することも多いです。発言しなくても後悔することも多いです。

 今までの軽はずみな言葉・行動・考え方を懺悔する他なくただその方へ感謝そして感謝しかありません。

そう思ったその瞬間さとれているのかもしれませんが、それすら瞬間的に忘れまた私は至らぬことを発言し行ない、この繰り返しを続けているのです・・・
やはりさとれていると一瞬でも思ったのは、ただの果てしない愚かな私の勘違いです。

 ただ皆が幸せになるような思いや行動を考えてそうなれば幸せだ。そのような良い勘違いと思われる瞬間の連続、それはそれで考えてみると楽しいことこの上なさそうです。

それは、押し付けがましくいえば現実から目を背けることとは違います。馬鹿の一つ覚えのように私は何回も同じことを言い続けています。それは良いことしか見つめないだけということではありません。また悪い問題から目をそらし続けている事とも違うのです。

悪いことを無くす努力・精進を続け、生じさせないように、良いことは努めて増やすように、良い事がなければ自分が良い事を一個でも増やしていくことを続ける。










 簡単に言えば

「私は悪い夢・現実は望んでいません。良い夢と良い現実を見続けていきたいだけです。」

シグナル

 せわしい世の中、人も車もルールに則り繁雑なこの高速移動社会を生きています。
道路には必ず信号があり、信号機には青・黄・赤とそれぞれ役割が存在します。

 毎日通る道でもとんでもない運転の車を見かけることがあります。事故する寸前だと思われる運転に遭遇し、見ている方が冷や汗をかくこともあります。運転する本人はどう思っているのでしょう。

事故無く早くいけたから私はかなりいけている?

それすら考えず何も見えてないだけ?

それで事故をしたときに誰が悪いという結論にいたるのか?

色々ありますが私も車を運転する身として「人のふり見て我がふり直せ」一番自分が気を付けないといけません。
信号待ちの間に皆が考えることを私も考えてみました。

 交差点の信号はところにより、交通量が多い道の青の時間が長く、交通量の少ないほうが青の時間が短い信号があります。自分本位な私は出来れば自分が待っている信号が一寸でも早く青になり、青の時間も長ければと虫が良すぎることを想像してみます。

でも、よく考えてみると(よく考えなくても・・・)こちらが青優先の時間が長くなれば、反対側は赤で待つ時間が多い交差点になり、もし今度私が向こうで待つ立場になれば、今度はこちらの青の時間を早く長くして欲しいと思うのだろう、それではまた反対で待つ場合には・・・

堂々めぐりです。まあそんな馬鹿なことを考えている間に、私はクラクションを鳴らされることにより青に気がつき申し訳なく前へ進むのです。

 心の中の信号機も同じようなものかもしれません。自分が青信号と思って進んでいる間でも、他方は赤で止まって迷惑をかけていることもありそうです。また、黄色信号で進んでいるのかもしれません。その場合は他の方に注意して進まねばなりません。赤は当然止まれで他人を優先し、赤の点滅による信号の場合は一旦停止して他の方がおられないのを確認してゆっくり進まねばならない時もあります。

実際の信号も心の信号も、自分一人の信号でなく必ず他者との信号です。

まあこの世の中に自分一人だけなら信号という言葉や物が存在するのかなどと考えれば早いです。

相手が進む間はこちらも待ち、自分が進む時も相手はこちらが通るのを待つ、私はこの簡単なことが出来なくてイライラすることが多いです。

人間ができた方の信号はなんとなく想像できます。

 相手を待たせる時間が本当に少なく、または待たせない、いや待たせたとしても待たせたとは思わせていない。相手には青を多く感じさせることができ、だからといって赤が無いわけでもなく赤を本当に短く感じさせる信号なのでしょう。相手に注意を促す黄色はあってないようなのだろう。普通にある信号ではないと思いがちですが、その実普通の信号をそのように思わせているだけなのだろうなどと考えるのです。

自分が常にどうしたらよいかと教えてくれる信号も存在しています。

分かりやすい例でいえば、周囲の方が自分に信号を発してくれている場合が多いです。心に余裕を持ち注意し、できるだけ見逃さないように心がけたいものです。







私はまた信号待ちの間に考えすぎてクラクションを鳴らされないように気をつけることにします。

やっと、100記事達成

 平成24年11月のはじめから、何気なしにふと思いついて始めたブログです。

今回が100番目、私が打ち続けた「下手な鉄砲」(詳細は前記事へ)の中に、少しくらい的(まと)にかすったものもあるのか。
そんな疑問もありました。

このブログが縁で知り合いになった方がおられました。いつもお世話になっている方です。
その方に好きな記事を10個ほど、日々家事・育児・仕事に追われる中、選んでいただきました。お忙しい中本当に有難うございました。

その方の「個人的ランキング」(「激しく偏っています。」と私同様の言葉と共にご本人さんよりお返事がありました。)

一位 「吉永さん」

二位 「種をまこう」

三位 「本当に愛だけでいけますか」

四位 「鏡(1) 鏡(2)」

五位 「自己反省の言葉に返ってくるもの」

六位 「嘘」

七位 「沈みゆくもの」

八位 「進歩しない時の自分」

九位 「良き思いを忘れない」

十位 「涙」

「等々。10個では足りないですが…(;_;)/特に「お嫁さん」「子供」のお話は全部好きです。偏りがありすぎるのでこのカテゴリーからは1つずつ選ばせて頂きました。」


 また私なりの「下手な鉄砲」で次は200目指してみようと考えています。
晩遅くに全記事を見直してくれた方に感謝しております。(次は数増えて大変ですから、依頼は自重します・・・。)


全てリンクはこのブログ内の過去の記事へ飛ぶだけです。

教育

 「教育」の意味を何気なく考えることがあります。
一般的には、「教え育てる」私には上から下に向かって何かを発するイメージが強いように思います。
実際はかなり異なる意味を持ちます。「教える側」と「教えられる側」双方にとって常に学びはついてきます。
教える側だって、教えることによって学ぶことがあります。

 何かの意味を教える。言葉を用いて伝えるにせよ、態度や何かで伝えるにせよ、相手に伝わらなければ教えたことにはなりません。相手が意味を理解し、育つ何かのきっかけの一つにでもならなければ教えることは何の意味もなさない。

また、教える側だってその言葉や行動の意味を本当に理解していなければ、本当に大事なことなんて伝わるはずがない。ただ解説だけなら、辞書や書物だけで十分にことたりるだろう。解説と教育は全く違うものだと考えたりします。

目前にある、言葉・態度・現象などの本質を伝えたい。ただ単にそれだけなのかもしれないです。
行き当たりばったりな私、何かを嫁や子供達に伝えようとして話しながら自分が「何を」伝えたいのかにきづいたり、自分が話した内容を自分で聞きながら驚くことがあります。程度が低い私が露呈するのです。

発言したりすることによって、自分では気づかない「自分の思い(考え)、理想や夢・現状の自身の理解の程度」何時だって目前の方と話すことにより表出してきます。

話が終わり、相手が一言も話していなくても「私はその程度の理解だったのか、私の思いはそうだったのか、全く自分が思い描くものに足りていない」そのようなことが言葉に伴って眼前に現れてきます。
私の思い描く以上の言葉が出てくることなんて、稀の中の稀です。

知らない人に教えることよりも、常に知らない愚かな私の程度が問題なのです。

私よりも出来た人は、私の程度を問題としません。いつだって真摯に「何か」を求めているのであれば笑顔で私を後押ししてくれます。

何時かは、私も笑って後押しできる人でありたい。「教育」などの言葉は、それを私に痛感させられる言葉です。

 教えてくれる方が問題でもありません。「その方が出来ていない・何もなしていない」としても、「その出来ていない・なしていない人の一例」をも学んでいます。学んだ上で自身が何もしないなんて目前にいる人より話にならないのは前(他の記事)にも述べたとおりです。

 ただ理想は常に頭の中にあります。一言尋ねられ「何か」をこちらが出せば、その「何か」を聞いた相手は、「自ら率先して自身こそ望む答えを求めていきたい。」と思わせる「何か」をいつも出せたら素晴らしいだろう。

また「素晴らしい言葉(行動)」それを聞いていたら(見ていたら)私はもっと早くから頑張ったのに

そのような「素晴らしい言葉(行動)」も私の日々求め続けている「何か」の中の一つだと「教育」という言葉を見て考えたりします。

 子供達・嫁・周囲の方・支えてくれる方・優しい方・家族・知人・友人(ブログを最後まで読んでくれる方も)など、私のつたない言葉を見て、いつかはそれは皆が憧れてやまない「何か」だと思わせられるものを伝えたいなど考えることがあります。

それは時に「感謝の言葉」であり「懺悔の言葉」でもあり「愚かな私を教訓として、より良い明日につながるもの」など、「何か」は幅広く定義も難しい(言葉のみであらわせないのかもしれません)です。

 現在の私、「無理だ」「言葉ではあらわせない」「あなたには無理だ。」そんな事言われても、私は覚悟を決めています。













「何か」を必死に求めていくだけです。本当に諦めの悪い、負けず嫌いな私です。

頑張っている人

頑張っている人・頑張った人・もっと頑張った人、それは素晴らしい方です。
頑張ったことのない人は、どのように例えていいのか私にはわからないことがあります。

 時折必死になり、物事を行う方がいます。頑張ったことのない人は、その人が何を考え、何をなしているか・なそうとしているかに全く気づきません。

その(今頑張っている方と頑張ってきた)方のことを誰が心から理解し、支えてあげれるのか、それは一度でも必死に頑張っている人・頑張った人・もっと頑張った人だけです。

過去と現在において頑張ったことのない人は、「頑張っている(頑張り続けた)人を理解(評価)できない。」のです。

どなたでも一生懸命な人を好みます。目前にその人が現れてくれるのを考えないようでいて考えています。つまりは自分だってその方を見て感動し、その人に何かをしてあげたいと考えないようでいて何時だって思い続けています。

だから仕事に一生懸命な方が、相手に向かって「サービスします。」などの発言がでます。
「仕事が好きなんです。」誠実な態度や向上心といった眼に見えないものが私たちの眼に見えます。

今自分がここにいる理由。今なすべきことが何か。考えていないようでそこを知らずに考え続けて態度に現れているのです。

自分が心から思うことにひたむきに心がけているのです。

それはそれでいいのです。心からそう願う人はその段階にあった「何か」にたどり着きます。


「ただ、相手にこちら(頑張っている自身)の思いが伝わり、相手がこの人(頑張っている自分の仕事)は素晴らしいと思う。」そう伝わる瞬間を何時だって追い求めています。

「ただ、相手はどうでもよく自分だけが」そのように思う人は他人をみることができていません。助けてくれる人が少なくなっていきます。理解してくれる方が少なくなっていき続けます。
そのような一人よがりな思いは身を滅ぼします。



 頑張っている人を見て感動できる方は「何か」を頑張ってきた人であり、または「何か」を一度以上追い求め、考えたことのある(考え続ける)人です。

そのような方の思いや行動に動かされ、感動し、私は前へ進もうと思うことが多いです。

 「仕事に一生懸命」、「真摯に生きようと願う人」、「自分をおいて他人に優しい方」など、私はそんな人達が大好きです。

「悪いもの」

 何故に私が書き続けること(ブログ)には、見る人が理想・綺麗事だと思われることばかりを書き続けるのか。
別に私が聖人君子のよう(立派)な人と思われたいからでも、良い格好したいからではないです。

理由は簡単なことです。現実を生きる私、私だけでなく私以外を含む人達、つまりは私達の前に四苦八苦つまり苦しみの原因となる問題、困難・苦難・恨みをもたらす人や出来事・相手を即座に死を願うほどの激しい妬みや恨み、私以外の人はそんな思いを抱く人も少ないのかもしれません。しかし、私はずっとそれに囚われ、他を呪い、全てを呪うほどの激しい思いを持ち続けてきました。

 そのような私、世を恨み・人を憎み・家族を恨み・周囲を恨み・自分の生を呪い、そんなことを周囲に発言し続けても、言葉(文)として何万と書き連ねても、誰も憧れることのないことを世の中の人が誰でも知っているように、私だってようやく遥かに遅くなりましたが気がつかされたのです(できた方に教えていただきました)。

目前にとんでもなく悪い人が現れ続け、又は常に存在し続け、その人の愚痴・不平・不満だけを言ったって何も解決しない。
そのことを長い年数がかかってしか、愚かすぎる私は学ぶことができなかったのです。その醜悪な私の現状、つまりは怨み・不平・文句・逃げ口上など、言い続けるその時の私の視野は極端に狭く、深い考えだって巡らすことができるはずもなかったのです。

人のせいにする自分、人を呪う自分、人だけが悪いと思う自分、周囲が悪すぎると思い込む自分、そのような最低な思いに囚われる時間が私は人より長すぎただけです・・・

出来ていない人のせいにして、肝心な問題(自分がその場で平常心を保てないだけの低い愚かな程度)から目を背け、何かのせいにして逃げ続ける。逃げ続け人のせいにする時間は私にとって何の成長も恩恵もなかったのです。

人よりその時間が多すぎたからこそ私は、綺麗事や理想しか見えていない、現実を見ていないと誰からも思われたって、悪の真っ只中にあっても、そこで悪を見ず。その中の善と悪を反対に置き換え反例またはそうなりたくない一例として見つめていきたいという偏り過ぎる考えです。

一体何でしょうか、悪すぎる人が目の前に来てその人のせいでうまくいかない。腹が立つ。その人を怨む。
不平不満を言っているだけで何の努力もしていないなら、過去の私のままです。
せいぜい優しい人が、「貴方は悪くないです。相手が悪い。」そう言ってもらえて満足するだけならまた同じ事があれば悪いことを言い続けたり逃げたりしたらいいのです。

「優しい言葉しかいらない。」というならそれでいいです。
世の中でも本当の変わり者の私は優しい慰めの言葉をかけてもらっては、本当の問題(自分の内面の本質の問題)から逃げ続けるだけでした・・・。

私は、愚か者の中の本当の愚か者なのです。

 過去の私が日々思い続けたように、悪いことをする人に天罰や仏罰が今すぐにあたり続ければいい。その人が乗る飛行機が落ちれば良いとか、死んだらいいんだ。そんなことを何年も何年もいくら願い続けても無駄でした・・・
結果はただ年月が徒に過ぎ去り(無駄に年をとりつづけ)、相手より私がどんどんすさんでいっただけのことです。

以前に出したことのある一文、

「怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり。」

この私なりの解釈は人間である以上、「怨みを持つな」ということでは絶対に有り得ない。誰よりも激しい怨みを持った(持ち続けた)上で、それを捨てる努力をする。それが人から見れば「怨みを解く」ことになる。私はそう信じています。だから怨みは持てるだけ持ったらいい。ただ、そこで終わるなら持たないほうがましだ・・・。

「自身の努力をもって、怨みを解く」
(理想の一例として、醜悪な現状・人間が目前に現れても、礼を失わず出来る事を行うよう努める。)

慰めと優しい言葉だけが必要な人は、そうずっと周囲から優しい言葉だけ言ってもらって、自分は全く悪くないと言い続けていたらいいのです。
私は激しく非難されても、先ほど書いた私の過去にあり続けた最低のこととは違う方法で、「絶対に怨みを止めてみせる。」そう思い続け意地を張っているだけです。




私的結論(長い年月がかかった私の愚かすぎる結論)

怨みごとを言い続けても何も解決しない。むしろ怨みを言い続けることにより自身の程度が世界に生きる人の誰よりもはてしなく下降し続けていくだけ・・・

悪い思いを書きたくない。書いてもしょうがない。

だから世間の人に私は綺麗事しか見ていない。理想を追いかけているだけだ。様々に罵られようと、綺麗・理想を書き続け、追い求め、理解されにくい答えを出しつづけていこうとしているのです。

昨日の「私を見る」が現在で、今日の「悪いもの」が過去です。
現状で言えば私の取り巻く環境において、悪い人は私の目の前から減っていません。むしろ増えています。
変わったのは、私の考えと行動です。それに伴い私にとって良い人も以前より増えたようにも感じます。

「私を見る」

 一度お会いする。これは「私を見る」です。

 他にもあります。私だって世間で生きていますから、人と会います。合った時にその人は私を見ます。しかし、この「見る」は私に興味が無い人であれば目で見ているのに、ほとんど見ていないと同じようなものです。
何か「見る」前後やその時に記憶に残るような出来事があったのであれば、それは、私を見ています。これも正確に言うと、私を見ているのだけれども、私を見ていません。

 私はその一瞬だけで私ではないからです。このブログの文章だってずっと読めば、私の偏りのありすぎる感情が言葉(文)として現れ、読み手に伝わった時、その人は同じ場所にいなくても、私を見ます。

 事実は厳しいもので、私を知りたいという人も珍しいです。このブログだって読んでいる方は少なく偏りがあります。でも読み続けている人には、少なからず「私」をみます。会って話せればイメージがまた変わった「私を見る」ことになります。

 私は日々「何か」を求めて「何か」を考えています。この「何か」、いつも書きながら、この「何か」という言葉には幅広い意味を感じさせられます。(私の表現方法が足りてれば、ブログを通して、読んでいる方に「何か」の幅広い意味だって伝わっているのかもしれません。)

 天才・偉人・素晴らしい宗教者には、言葉・文章つまりは「話」と「書」にその人が見える「その人を見る」ことがあります。

幾多の困難の果てに辿り着いた素晴らしい見解、誰も成し遂げられない、そう思うなかで一人諦めずその道を成し遂げる偉業、自身も含む全ての方に通じる素晴らしい道をさし示す。

 偉人達の教えの通りに行えば、必ずそこにその人だけでなく「偉人を見る」のです。その人の背後に見える素晴らしい影のように寄り添うもの(善い行い・深い考え・やさしさ)が見えます。

『私の身体(肉体)を見ても、見た事にはならない。私の心(善行・教え・正しい道・慈愛)を理解し行う者こそ、時代や遠く離れていたとしても必ずそこに「私を見る」』私的訳ですが、いつも引用している書にそのように書いてあるように考えます。

 誰でもそうなのです。つまらないものに「私を見る」なんて言葉は使いません。何故なら醜悪なもの・どうでもよいもの・見習いたくないものは、「見るんじゃなかった・・・」そう思ってしまうから見ていないことと同じであり、見たくないから覚えていたくもないとなっているのです。

この果てしなく広い世の中において、素晴らしいものを「見る」またそのようなことを成している人だからこそ「見たい」のです。

 私が書物や素晴らしい人や景色などに憧れる理由がそこかもしれません。











そこに「私を見る」。その私が、「誰」であり、「何」なのかは素晴らしいものであれば、なんでも良いと常に思うのです。
 

捨て切れない思い

 気がつけば、良いことじゃなく悪いことをしている時があります。
良い悪いは、善悪として世の中では言われています。この善悪の判断、非常に難しい問題です。
善悪の判断は時代によっても、状況によっても変わるものです。
ある時は、「善」であっても、時代状況などによりそれは「悪」に変わります。

 端的な例として、昔は飲酒運転は特に厳しくありませんでした。何処かへよばれて振舞われたお酒をことわるなんてそれこそが「悪」という認識でした。
現在はどうでしょう。お酒そのものが「悪」と呼ばれる世の中に変わっています。飲酒運転なんてもってのほかです。
現行の法律は飲酒運転に重く厳しいものになっています。人の命とお酒を比べればそれも当然とほとんどの方が判断するでしょう。
我が子が飲酒運転で亡くなることを考えれば、考えるまでもない。時代により善悪の基準はこうも違います。

つまり私が心のままに発する思いだって、状況時代により善悪の基準も変わるのだと考えます。
私が不完全なために、時代による善悪という影響を受けます。
もし私が完全な人間なら、時代や状況などの影響を受けないはずだと考えます。

真理に近い言葉を発すれば、それは何千年たっても、その言葉は光り輝くはずです。永久不滅です。
いつだってその言葉は誰かの心の支えや光となり後世へ引き継がれてるはずです。

身の程を知らず、愚かな私はいつかは真理の言葉が自分の口から出てくればえも言われぬ美しさだろう。
そのような自分を想像し、憧れる時があります。

「何か」を求め続けて生きていこう。

あきらめなければ、精進さえしていれば、この生ある内にたどり着くかもしれない。






どうしても・・・・、私はその思いを捨て切れないのです。

目覚め

 毎朝、予定があるのであれば目覚めます。休日であれば惰眠を貪りゴロゴロしていても、やはりいつかは目覚めるのです。

ゴロゴロしている人を見て、働き者やすでに起きて居る人は大抵起きなさいと目覚めを促します。

 一度20代の頃、休日はゆっくりしたいなあと思い、欲望の赴くままに仕事が終わり晩の7時から寝はじめ、起きて時計を見たらなんとまだ晩の10時です。ああまだ3時間しか寝てないのかと思ったら丸一日、正確には27時間ほど連続で寝ていたことがあります。激しい後悔が訪れ、せっかくの休日がわずか一瞬で終わり、挙句その夜は眠ることすらできない上に翌日の仕事は辛かったという散々な思い出もあります。

 どうやら幼稚園や小学生で教えていただく規則正しい生活が一番必要なのは他の誰でもない私です。

 人がもし本能の赴くままに行動すれば、社会は壮絶なものになります。欲望の赴くままに全人類が行動していることを想像すれば、社会に秩序・法・道徳というものが如何に重要なものであるかがわかります。

 時に自分を中心に、つまりは天動説で物事を行う人がいます。
世の中の道理が通らぬ人と行動を共にする時、世の中の常識を捨て去らねばいけません。

世間一般や自分の考えも通用しないのです。「話し合いをしたらいいじゃないか」と人は簡単に言われます。
「話が通じない人とどうやったら会話ができるのだろうか」世の中には聖人君子のような人もいれば、反対の位置に立つ人だって存在しています。

なかなか自分の物差しで言葉を発して、相手を傷つけないようにしないといけないと思うのです。
これが本当に難しいことであり、常日頃の課題です。

 同じ国の言葉を話していても、秩序・法・道徳が無い、つまりは本能の赴くままに生きている方、そのような方は、人と呼ばれずに獣と呼ばれる場合もあります。いや、獣より劣るのかもしれません。獣は自然に種を残す為に定められたルールに則り生きているからです。

 人が人らしく生きるために、このことは当然すぎて真剣に考え続ける人は世の中で変わった人と呼ばれることがあるのかもしれません。

 考える前に「実践」というタイプの人も存在します。私は実践派の人も大好きです。実践派でも思考派でもお互いの見解・辿り着く頂点は同じところではないかと思える時があります。当然両方あるのが最高だと考えます。

 人と呼ばれる生物は本能の赴くままに生きていくことをやめ、自分一人で生きているという考えから脱却し、環境・自然・周囲との調和を目指し道徳・秩序・法を遵守し宗教にたどり着く、このような生き方を人として生きると言います。

 人として生きることに「目覚めた人」は、簡単に思うのです。

この世に人として有り難き生を受け、受け難き教えに出会い、その教えを見て聞いて心から感動し、よく身に保つことを誓うのです。

 これは仏教徒がよく唱える開経偈と同じようなものだと思います。

私のように寝たままでは「目覚めなさい」と必ず皆に注意されます。まあ、仕事をしていれば昼に居眠りもしている暇もないでしょうから、夜ぐっすり眠る事(睡眠)は人間にとって必ず必要です。










ただ、人間としての「目覚め」は早いほうが周囲に多大な迷惑を掛け続けない。
むしろ感謝されたり、周囲はそれを待ち望んでいる。私はそう信じています。

「沈みゆくもの」

 「昇りゆくもの」そう聞いて私の頭から出てくるものといえば、初日の出・ご来光、これから昇りゆく太陽です。そのお日様へ感謝・畏敬の念をいだいて拝む方は沢山おられます。

 「沈みゆくもの」これもお日様に例えてのイメージで言えば、夕日も夕焼けも美しく、黄昏という言葉が似合うように思います。また、私の印象では朝日より寂しげなイメージをいだいてしまいます。

朝日と夕日に感謝する人数を比較検討したことはありません。一般的に「初日の出」をこぞって拝みに行くとか、よく耳にします。反対に日の入りをこぞってお参りに行くとはあまり耳にしません。
一般的には「昇りゆくお日様」へ感謝をする方が多いように思います。

よくお会いする方にその質問をされました。

「朝日には拝む人は多いです。夕日に向かって拝む方は少ないですよね。」

本当に恥ずかしい限りです。その聞いた時、意味が私に全く何のことかわかりませんでした。

それから何度かお会いしました。けれども、その「朝日」についての話は一回も私はたずねたことはありません。
その方と世間話を何度もするうちに、私なりに気付かされるようなことがありました。

 私の思いと、そのできた方の思いが一緒とは思えませんが、現状思いつくことをつまりは私なりの「何か」を求めて記してみます。

「昇りゆくもの」(朝日やお日様)人間で言えば、これから成長する赤子です。

「沈みゆくもの」(夕日・お日様)これから死にゆく方(私も含め)です。

どなたにも赤ちゃんは歓迎されます。爆発的生命力をほこり・立ち居振る舞い・姿(容姿)・手足・笑顔、人によれば、太陽が輝いて見える方もいるのかもしれません。

赤ちゃんから子供、大人になってしまえばつまりは成長するにつれ、「沈みゆくもの」に近づいていきます。
年齢と絶対に比例はしないものです。平均をとれば年数と比例すると言われます。

新しいものへ感謝する。綺麗なものへ感謝する。美しいものに感謝する。光るものへ感謝する。
これらの言葉が表面だけのもので、中身に対して感謝していないならば大切な時に本末転倒します。

古いものへ感謝する。綺麗でないものへ感謝する。美しくないものに感謝する。光っていないものへ感謝する。
見た目の輝きではなく、中身への感謝によって出ているものだと私は思います。

「見た目に左右されない、考え・行動につながる生き方、全てに感謝を持てる心」

私に教えてくれた添乗員様はそのことを言いたかったのでしょう。

何を見ても、何を聞いても、何とも思わない、無味な日常のような生き方、過去の私はそのようなことばかりでした・・・。

周囲の人・社会・国・自然・学校・知人・家族が駄目なのではない。
ただ、過去の私の見る目や聞く耳、そして理解する頭、行動する身体が問題で駄目だっただけです。


 私は「昇りゆくもの」「沈みゆくもの」その間にも、全てのものへ感謝を持てるよう努力していこう。

 夕焼け・夕日綺麗なものに人は心を奪われます。もし、私が命が尽きかけようとしていたとしても、見た目はともかく心や態度・行い・生き方が綺麗であれば、ほとんどの方は「沈みゆくもの」(夕焼け・夕日と同様)綺麗なものには心を奪われるはずです。












「何気ない言葉や景色・人との出会いに感謝しています。」 

大事なもの

 子供の頃、経済的に恵まれずに欲しいものを買ってもらえなかったり、辛抱したりといった思い出の多い人は特に思うのかもしれません。

女性・男性を問わず安定に向いたいと誰もが思うところです。子供を持つ親になれば、子供には苦労はさせたくないと、尚一層そうなるのでしょう。

 人は子供から大人になり、お金が大事だと考える人も多くなります。安定=お金という図式が一般的です。無いよりあるに越したことはないのでそれも当然に思います。

しかし栄枯盛衰は世の常です。仕事・会社が順調であれば収入は安定ですが、長い月日にもなれば沈む時代だってあります。

 伴侶を選ぶひとつの基準として、お金が目当てで来たのに相手にお金が無くなった時、この決断は間違いだったと思う方もひょっとするといるのかもしれません。

そもそも財産(お金)優先の時点で、相手が何よりも大切であることが一番になってないのですから最初から破綻する確率が大きいのかもしれません。不遇な時をも見つめて一緒になれると決めなければいけないように考えるときがあります。

 時折、「長年連れ添った女性と別れた」と突然話してくれる方もあります。私は真剣に思ってしまいます。
誰でもかもしれませんが、出来ればこれから先に失敗はしたくありません。原因が分かれば改善・避けることも出来ます。良いことは沢山来るように準備・努力もできます。ですから

「何が原因だったのでしょうか」

そう失礼を承知で、真剣に尋ねました。

色々お聞きした後に、とどのつまり原因が「お金の切れ目が縁の切れ目」の時があるのです。「お金はどうでもいいじゃないですか、愛があれば」と若く理想を抱く不出来なこちらは、つい言ってしまいます。

こちらの本当に不出来な考えでは、目の前の人と一緒に過ごせればそれだけで幸せだ。最初からお金が無くてもなんの問題もないと思っています。もし人生の中盤から後半裕福になり、両方揃うことになれば、それはそれで嬉しい誤算です。

また最初に愛される事を目的として結婚した場合、愛されることを夢見て結婚のはずが結婚の途端相手に愛がなくなってしまったら?

素敵・綺麗でもなく愛もなければ、何故目の前の人と結婚したのだろう?と果てしなく考えてしまいそうです。

それなら向こうからこちらへの気持ちではなく、自分が心から好きで愛せる気持ちを持てる人と共に有りたいという、一般の人には理解され難い個人的偏りのある考えを正しいと勘違いしたまま、私は生きているのです。

相手(伴侶)から冷たい言葉や行動が出てきた時、相手への思い・行動が足りていない為、優しい言葉や態度が返って来ないだけとこちらは簡単に気がつかされます。

気がついてしまえばこちらの行いを正しくすれば必ず通じるのです。誰でも優しい思いには優しく返してくれます。

つまり相手が原因なのでなくいつでもこちらが原因である場合が多いです。

いや皆考えが違う、価値観が違うと世間ではいうのかもしれません。

でも大事なものは万人に共通するはずです。

 自分にとって大切な人の身に不測の事態が起こった時、自分のことを忘れ相手がどうか良くあって欲しいという願い・お世話になりっぱなしの人に自然と感謝する思い・出来てない私を心から優しくしてくれる方への感謝の思い。目の前の見知らぬ人が危ない目に合いそうになったが何事もなく助かった時にほっとするという、自然に相手を心配する思い。ほかの誰よりも、ただ本人だけが気がついてないだけで共通する思いは必ずあるのです。

周囲の方と比べて、自分(本人)だけがレベル(段階)が低いからと諦めたり悲観する必要は全くないのです。

それは、今現在自分が立たされているレベルや場所が問題ではないのです。居る場所がどこであれ、本人がどのレベル(段階)がどこであれ、本人を起点として向上したいと心から願う純粋な気持ちで動いていれば周囲は安心し、その方を必要とし大事にしてくれるのです。

頑張っていても、まだいたらぬ本人(自分)を信じて心から大事に思ってくれる人、慈しみ優しく接してくれる方とそう思わせる本人。それこそ何よりも「大事なもの」なのだと、私は思ってしまうのです。

ほとけを見た。

 今年はお正月元日より三日間、バスが20台以上も来られ沢山の方がお参りされました。
一月半ばですが日々バスは15台以上平均でこられお参りされています。

私の職場つまりはその場所に人が沢山お参りへこられるということは、当然職員の私もそれなりどころか日々忙しいです。

お参りされている方のお預かりしている帳面へ、ご記帳を筆で日々数え切れないくらい記していきます。
私が機械であれば、ミスもないのでしょう。あってはならないことです。何年かぶりにお預かりしていた帳面に私は失敗をしました。

 顔面蒼白、頭の中も真っ白、何を言っても、ミスをした私が言ったとしても、その人にとっては言い訳にしかならないことは経験上何度も知っています・・・。

添乗員様へお詫びをした後に、ご本人様をお手数ですがこちらへ呼んでいただけたらと、お詫びをして、自分の出来ることしかできないがすぐに伝えねば

本人様がおいでになられ、添乗員様は事の次第を説明されていました。
すぐに私は「本当に申し訳ございませんでした。出来ることをします・・・」

その方は、
「いいのよ、これだけバスが沢山来ているんだから、忙しいからしょうがないです。全く気にしなくていいです。」
そう言って反対に頭をこちらに下げて、何事もなかったかの足早にバスヘ帰っていかれました。

他のバス添乗員様も沢山その場におられました。「お客様が皆ああだったら、素晴らしい。」そう言われていましたが、当事者の私にはそれらが余計に何よりもきつかったです。

怒って弁償しろなど言われて、相手の要求に応えれれば、以前にも間違ったことにより走り回ったことがあります。そのような対応を何度もしていますからこちらだって少しはましになります。

「こちらが悪いのに、反対に頭を下げていかれる。」

本当にこたえました。これからはもっと気をつけていかねば・・・

私の同僚の方が、そのお客様を見て、

「私は、ほとけを見た。」

そうそのお客様を見て横でつぶやいていました。

 その後に続いて、私へ向かい、「貴方はいつも何かに一生懸命に取り組んでいる。他人のために何かしようといつだってその思いを捨てていない。他人に良くしようと思い続ける人には、何らかの良いものが返ってくる。私はそれを見せてもらった。有難うございます。」

そう言われましたがその言葉にも余計にこたえました・・・。私は「それは違う」と言いました。
「私はそうではないし、ただ私の目前の方が人間ができた方だった。事実はそれだけです。」


慢心をなくし、目前のことにひたすら集中し、日々の行いを本当に気をつけていこう。ただ、ただそうとしか思わない不出来すぎる私の大失敗です・・・。本当に申し訳ございませんでした。

お兄ちゃん

 小学4年生の長男坊、普段はおとなしく物静かです。
だからといって、まだ小学生ですから、長男坊が時折超乱暴になったりすることもあります。
(私は、おやじなのでギャグも言いたことも多々あるのです。)
小学生ですから宿題がほぼ毎日出ています。その中には国語・算数とは別に日記を書かねばいけないようです。

ある日、長男坊は

子「うーん・・・」

父「どうしたの」

子「今日何を書こうか悩んでいるんだ。」

父「タイトル(題)は何、ちょっとおしえて」

子「わかった。今年の目標なんだけど、出てこないんだよ。」


おしつけがましい私がまた出てきました。


「お父さんの言うとおり書いてみて」

どうやら考えるのが面倒くさいみたいなので、子供は安易に「わかった。」そう返事をしました。

父「まずは、字を綺麗に書いて、それを忘れちゃダメだよ」

子「うん」

父「今年の目標ね」

子「そうそう」

父「書いてね、最初は、誰かのせいにしない。」

子「うん、でも箇条書きはダメなんじゃないかな。」

父「いいから、言うとおりに書いて、まずは

  『誰かのせいにしない。』

  『目の前にあること(困難)から逃げない。』

  『他人(周囲)をうらまない。』

  『今成すべきことを行う。』
  
  『嘘をつかない。』

  『父母の言うことを聞く』

  『努力をおこたらない。』

  『素直な心を持ち続ける。』

  最後は、

  『今年はそんな一年にしたい。』そう書いて終わってね。


子 「これは、今までに一回しかもらったことがないけど、スゴイ花丸がつくと思う。」

父 「お父さんもそう思うよ。」



次の日

「先生どうだった。」

「すごい花丸くれた。」

「どれどれ見せて、見せて」

「はい、これ」

凄く大きく綺麗に花丸がしてありました。その上、先生から赤ペンでコメントが次のように書いてありました。

「今年一年、あなたの活躍を心から楽しみにしています。」



子供に優しく言いました。

「これから先、何があっても、その書いたことを忘れなかったら大丈夫だよ。
(私みたいに逃げたり、努力を怠るな、誰かのせいにするな、怨むんじゃない、いつだって前を向け)
良いスタートは一日でも早いほうがいい。」

「悪い時こそ、それを絶対に忘れないで」














「私が一番忘れないように・・・」

ごはん

 最近は飽食の時代と言われています。

 我が家の子供達も私が育った子供時代と比べれば、はるかに贅沢なごはんを食べて生活しています。

 私も昔の人から比べたらはるかに贅沢なごはんをいただき育ったのでしょう。

 人の欲は生活を変えていくのですが、心はどうなのでしょうか。便利になればなっただけ豊かになっているのでしょうか、子供達がごはんを食べる時に私はよく注意します。

「ごはんは真面目に食べなさい。」

「ありがたいものを粗末にしてはいけない。」

「行儀良くしなさい。」

 一見子供達にいっているようでも、忘れたらいけないと自分に言い聞かせています。親から言われたことを自分なりに伝えなければならない順番がめぐってきているとも考えたりします。

 自分にとって必要な存在が無く、心から困っている状態であれば、無条件に無いものに対して感謝せざるをえないのですが、現在の状況はそうではないことが多いようです。

 食べ物は手に入りやすく時に余りすぎる事も少なくありません。

 困っていない状況において感謝するということは難しいように思えます。いくら周囲が気付いていても、本人が気づかなければ姿勢・思い・態度は変わりづらいものかもしれません。

本人ができるだけ早く気づくことができれば、違った意味で豊かな生活が送れるのではないかと思っています。その為にはかなりの労力を必要とするのかもしれません。

注意することをやめて子供が好き放題だった場合、どこかで多大なる迷惑をかけ続ける醜悪な現状を考えれば、おのずと方向性は定まるのかもしれません。

 ごはんをいただくことに感謝出来るのであれば、必ず作ってくれた人にも感謝はつながります。
例えそれがうまく調理出来てなくてもやはり感謝をせねばならないはずですが、私は時折それを忘れ嫁に注意や文句をしたりするのです。

その場合、もれなく私に罰が当たります。
そうすると

「私も子供達も絶対に忘れないようにしなければいけない。」

改めて当然の答えを再認識させられるのです。












嫁という身近な観音様へ帰依せねばいけません。