しあわせ(2)

 しあわせとは、どのような状態をいうのでしょうか。

広辞苑では「幸福・幸運」といった意味ものっています。
幸福の意味は広辞苑に「心が満ち足りていること。またそのさま。しあわせ」と載っています。

何不自由ない暮らし、これこそ幸せという人もいれば、多少の不自由があっても貴方がいれば幸せという人もいます。
自分のことは後回しで周囲家族が元気でうまくいっていれば、それが幸せという人。その人が存在するだけで沢山の方が幸せになるということもあります。

 「幸せ」の定義は幅広いです。自分が幸せという自己中心の幸せ、周囲のことが幸せであればと願う他人中心の幸せの大まかな二つに分かれます。

 自己中心の幸せは、当然の如く本人は幸せと感じていますから、ここでの問題は本人をとりまく周囲がそれをどう受け取っているかになります。本人だけが良い状態であり、そのこと(自己中心の本人の幸せ)により周囲の人が迷惑をこうむったり歓迎されていない。
これは「しあわせではない状態(不幸)」です。つまりその本人の幸せはまやかし同然です。

その場合本人だけが呼ぶであろう幸せは長続きせず、瞬間的といってもよいでしょう。後で必ずしわ寄せを受けます。

 「本人が幸せであり、そのことの恩恵で周囲の方も幸せ。」この場合本人中心の幸せであるにもかかわらず、周囲も幸せであり、割と世の中でも認められそうです。

人は「しあわせになりたい」必ずその思いを心の中に持っています。

簡単明瞭な方法では、「自分をのけて、周囲の幸せを願う人になれ」この場合だと「世の中全員へ聖人君子になれ」と言っているのと同じことです。
そんなに皆が全員いっぺんに聖人君子に簡単になれたら言うことはないです。まず言ってる最初の私がどうなんだとなりそうです・・・(私以外でも無理な人も多いと思うのです。)

でも、諦めきれない私は「幸せになりたい」と願います。

どこの場においても「幸せになれる簡単な方法」を考えたら、皆が幸せになれるはずです。自分一人だけが思う幸せは駄目とわかれば後は簡単です。

先述のように本人中心の幸せでも成功できる「しあわせ」が存在しています。「本人も周囲も共に幸せである。」このことを選択すればよいだけです。

まず自身が置かれている立場をよく見直すのです。すると「一人で全てを行っているのではない。誰かの支え(協力・準備などにより)で必ず自身が存在している。」と誰しもがそこへ到着します。

そこから更に思考と行動を深く見つめねばいけません。
難しいことを考えたり実行しはじめれば、「考えるのはよそう。」(実行するのはやめとこう。)となる方もいるかもしれません。

自分には無理だ、環境が悪い・周囲(取り巻く人たち)が悪い。そう言って何かのせいにしたところで後ろにしか進みません。「困難な問題に遭遇し逃げ続ける。」これを延々繰り返して誰が何の得になるのでしょう。

そこから前へ進む歩みへ、「今、自分が存在する場で何もできないならば、場所を変えたところで何一つできない。」そこへ身を投じるのです。

心から自身がそう願い思い行動することへ、少しずつ自分なりのペースで徐々に変えていけばよいだけです。

「自分の願い、それが本人のみの利益になるなら誰一人動かない。」

いつだって自身と周囲の幸せになる想いから目を背けず、
「自身が良くありたいと願うなら、自分の置かれた状況をよく観察し、現状の自分にできることが必ず存在します。それを見逃さず諦めなければ徐々に周囲へ理解されます。」
小さな自分が大きな世界に何らかの変化をもたらしはじめます。

 何度も言うように、結果的に自分が良くなればいいのです。そのことは順番にこだわる必要がなくなることを意味します。「自身が良くなるのは、最後でいい。」そう決めていれば、少しでも運良く順番が早くなるという誤算は誰だって大歓迎です。でも、やはり最後の方が理想的です。

 自身をも含めた家族の幸せ・周囲の幸せ・職場の幸せ・会社の幸せという大きな幸せを目標におくのです。それが少しでも達成に近づけば必然と自分も周囲だって「しあわせ」になります。

またその自身を含めた周囲を「しあわせ」にしたい。その願いに賛同してくれる人も増えます。一人より二人、二人より三人、三人より四人です。多ければ多いほど楽に出来ることも多いです。

 人が賛同してくれない、それは目標が間違っていたり・アプローチの仕方・思考・行動がまだ自分より、またはそれらが未熟なのでしょう。
(本人が一番最初にしあわせになりたいという願いはどなたも賛同・共感されにくいことを絶対に常時忘れてはいけません。)

何時でも「自分は周りが幸せになった最後だ。」と、最初に決めておくことです。周囲が幸せになれば勝手に自分の幸せにつながります。

自分にとらわれるのも良いです。ただ順番だけを気をつければ良いのです。その過程でいつしか自分という概念がなくなる時もあるのかもしれません。

他人優先、最後に自身の幸せを願い実践していく途中、その方は必ず幾多の困難に遭遇することとなります。

 「道を失いかけている時、励まし優しく包み込んでくれる方と出会う。」

その「優しさ」と「思い」にどれだけの人が支えられ、元気を取り戻し困難な道を前へ前へと進む力を取り戻すことができたか、純粋な思いや行動にはその思い(行動)の素晴らしさ・大きさに相応し、必ず絶対に自身とその行動・考えを支えてくれる人が出現するのです。


 「自分の幸せは皆がかなってから、そしてついでに最後に幸せになる。」という、

  そう心から思い「実践する人」とその方を「支える人」

 私は両者を恭敬し感謝の言葉・態度をもって心中より溢れ出る純粋な思いで、その方たちに賛同し喜びの涙をもって接し続けていきたいのです。









 それだって、私は「しあわせ」な時の一つだと思います。このブログを読んで何かしら共感する思いを持つ方と触れ合うこと、予定を立て昨日から、おせちを作り続け大晦日の晩にも家族のためにご馳走を作る家内、いつも元気あふれる子供達、まだ何も手伝いはできないけど、笑顔の素晴らしい2歳の「けいくん」

どれもが、私の心は大事な「しあわせ」の一つだと感じてしまうのです。
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理解される

 理解の度合いを自身が判断することは難しいです。私だって人には「わかっている」と言ったとしても相手のレベルが私自身より高ければ、こちらが「理解していない」ではないかとなります。
また、相手の思いと差がありすぎれば「理解していない」と判断されることだってあります。
何もわかっていない人に難しいことを言えば、私は「わけのわからないことを言ってる人」に思われたりもします。
過去の私はそれを相手のせいにする思いを持っていました。

その代表的なものが

「相手がどのような方でも学ぶことは必ずあると思うことを信じ、こちらに問題はないと思い込んでいる。」

「相手が私のことを理解してくれるだろうから大丈夫。」

「相手が私に優しいならば問題ない。」

「相手がこちらの気持ちをきちんと汲み取ってくれれば全く問題ない。」

 その時は考えれなかったのです。現在なら常識的に考えて相手に常に上記のことを望んでいるとすれば、私の頭は相当オカシイです。

「相手の頭より、私の頭こそが問題です。」

そんな世の中自分に都合よく、常に自分を中心に世間は回ってくれるはずがありません。
そのようなおかしな考えを持つ人の言うことを素直にきいてくれるはずもありません。

 私は人に原因を求めないようにしなければいけない。最近は常にそう考えます。
相手に伝わらない場合は私の努力・態度・思考・実行などが、まだ足りてない・・・。足りてないが故に目前の方に思いが伝わらない。

日々そのような思うように行かない現状が出現し、否が応でも私は「私の程度」を思い知らされるのです・・・

 私なりに、答えを求め続けています。その時は私の段階に応じたその時点の答えが出ます。

「これだ、これなら」

そう思って話をしてもなかなか伝わらないことがあると、また思い知らされるのです。一緒に仕事をする方は、私を見ていないようで常に見ています。家族だってそうです。

だから私は相手に伝わらない時
「何時だって誰にだって、伝わらない場合はこちらの努力が足りてない。もっともっと学び努力せねば・・・」
心から思います。そして「何か」に私なりに没頭しようと行い続けるのです。

職場で常時一緒に仕事をされる方の中には、私より遥かに何事もできている方がおられます。
私を見つづけながら

「貴方は問題ない。それより周り(特に見続ける私)がもっともっと努力せねば・・・」

常に愚かな私に敬意を払い、優しい言葉を発し続け、自身に原因を求め、今の自分にできることに誰よりも精一杯没頭するだけではなく、広い視野で周囲の方をサポート(助け続け)ています。

世界の知識人達の必読の書「ダンマパダ」に

「精進こそ不死の道、放逸こそは死の径なり、いそしみはげむものは死することなく、放逸にふけるものは生命ありともすでに死せるにひとし」

いつだって相手が問題ではない。
どのような状況においても私が問題だ、正確に言えば「私の精進・努力」が問題だ。私の程度が低すぎるために通じない(理解してもらえない)・・・








 「私こそがもっと誰よりも必死にならなければいけない。」

本当に愛だけでいけますか?

 夢見がちな私は「好きな人といればそれだけでいい。」そして綺麗事を鳥のオウムのように言い続けています。

 素晴らしい運命の出会いを経て結婚、子供ができると綺麗事ではお腹はふくらみません。
家計は赤字、いわゆる火の車になりいくら辛抱し続けていて普段言葉を発しない嫁も

「今月どうにもならないんだけど?」言いたくないことを言わなければならないことになります。

私の答えは、「愛があるからいいじゃないか、それにやれることは精一杯やっている。少しずつ良くなっているはずだ。」

どうも誰かの頭の中だけが違う意味で果てしなく幸せだと思われています。
私の言い続けていることは他の意味もなくそのままです。

「愛があればいいのです。」

愛がなくお金と立場と名誉とだけがある。それが人によれば幸せという人もいます。私はどうも変わっているようです。

両方あればもちろん言うこともないのでしょう。お金・地位・名誉、私にはなかなか手に入らないものです。
でも、愛は私の気持ちの持ちようで何時でも手に入ります。
お店に行っても買えませんが、どうも私が求めればすぐに心の中から出てくるものです。

 両方の内どちらも揃えば言うことないのであれば片方を揃えることからスタートし、いずれ両方になれば良いとも思います。

では「本当に愛だけで行けますか?」愛からスタートしても何の問題もないはずだと勝手に思うのです。
しかし、これを書いている最中に周囲の方の一人に、

「いけないよー、愛だけではなんの肥やしにもならん、家計の足しにもならん。無意味!」

そうキツク言われました。私の何気ない考えと行いは日々何かに試されているようです。

 じゃあ、お金を持っている方からスタートしてみましょう。お金持ちの方は愛を求め手に入れば成立します。
「お金持ちの方は簡単なのだろう。」お金が無い私は勝手に簡単に想像します。

お金のない私がお金持ちになるまで大分待ってから愛を求める。
この場合「愛を求め始めれる時期」が何時になるのか、年寄りになり挙句は死の間際とかになりそうです・・・。

私は開き直ることにしました。

やはり「愛からはじめなければいけません。」というか今の私にはそれしか道がないともいいます。

 世界中の全ての人がそれは全く無意味なものだと言ったとしても、無意味なものだと世界中の誰よりも自分は認識し、私は「愛だけでいける!」その道へ誰に何を言われようと飛び込む決意を決めるのです。

人間は欲張りです。現状に満足しなければ、無いものを求め発展し続けます。私の生活にお金が必要なら私は努力せざるをえないはずです。というか無いとこらえてくれないとも言います。

「その人の最大の恩恵は、その人を成長させない」そのように、どこかの天才がいっていました。

地位・名誉・財産が自然状態である場合、人を育てない場合もあります。感謝をしない場合もあります。
お金で全てを解決しがちになり努力をしない人もいます。稀に勘違いを続ける生き方を続けていく方もいます。
私達の財産・地位・名誉に対するやっかみで文句を言ってきているだけだと決めつけ、有難い周囲の意見を無視し成長しない人もいます。

近所の人が世間話で言っていました。

「お金と肥溜めはたまるほど汚い。」

お金がたまったことのない私には意味がよくわからないですが、もしわかったとしてもわかりたくもないです。

 最大の恩恵が、本人と家族の目を曇らせるのであれば、私はやはり「愛だけでいい。」そう最初と同様に綺麗事を言い続ける。つまりは負け犬の遠吠えを発し生き続けていく覚悟を決めるのです。というか何度も言いますが、私にはそれしか道がないだけです・・・

 私は何時だって「愛だけでいける。」と言い続けています。
















嫁は私に「両方あってもいいぞ」真剣な目でいつもその言葉が帰ってくるのです。

スダナ

 私が10代の頃、私は3人兄弟(姉・兄・私)の末っ子でしたから、私は家も継がなくていいし好きな事をして(遊び呆けて)生きていこう。そのような愚かな考えを持っていました。
 その愚かな考えを幼少の早い段階で母親に見透かされていたのか、18から修行へ8年入らされることになりました。

 自身のことを理解しているつもりで全く理解していなかった私は、両親の悪いところだけを挙げてよく文句を言っていました。
修行時代にたまに実家へ帰省し父親の前で愚痴を言った時のことです。

「昔から、母さんは私のこと(進路やなすべきこと)を勝手に決め、いつも身勝手だ。こっち(私の気持ちなど)のことをちっとも考えてないし話を聞こうともしない、進路だってなんだっていつでも勝手に決める・・・・」

言い終わって直ぐ父親が

「人(母親)のせいにするな、誰かが何かをしろと言ったってそれは必ず自分が納得して決めてるだろう。いつまでも人(母親)のせいにするな。それは絶対に違う。」

普段は優しく笑顔しか出さず、いつも遊んでくれている父親が激しい口調でそう言ったことを鮮明に覚えています。

 それから、私は努力をしていないのに、その父親の言葉を悪用しました。

「母親の言うことはもう聞かない。(根拠も理由もなく、納得もできない。)」
私は自分が思う道へ、思うように生きていく。(しかし、実際はそのために努力・辛抱・苦労などを全くしていない現状でした。)

「母親が願い思う道」と「私が身勝手に願う道」誰の目にも明らかです。長く辛抱・努力をして子供のために考える母親の意見のほうが、私と比べるまでもなく世間から見れば素晴らしく良い道です。

人間の難しいところです。周囲全員が望み正しいことだと発言したとしても、本人こそが心から納得できなければその本人へその言葉や思いが届くことは稀です・・・・

 20年くらいの年月を経て、人よりはだいぶ少なく遅いですが私にも艱難辛苦が訪れ、「言葉」や「思い」の意味を考えるようになりました。

 「両親の良い所」考えるまでもなく、それは見習うしか道は無いのです。

 「両親の悪い所」考えるまでもなく、それは見習う必要が無いのです。
悪いことの対局の行動に置き換えて見習えば何の問題もないことです。そうすればいつだって両方学べます。

悪いことや、おしつけなどを怨み続けるような人間では何時まで経っても成長できないことは私自身が知っています。拙い不出来な私の思いだって、必死に考え行動へ移せば少しはまともになることも、誰より私自身が知っています。

書にある

「怨みは怨みによってやまず、ただ忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり。」

何時でも、誰でも、何処でも、怨みを持ち続けていれば、周囲に嫌悪感をもたらします。
周囲の方はいつだって透き通るような青い空を見て、笑顔を持って前に進んでいく人を待ち望んでいます。


どのような人でも「悪い」「良い」どちらも心に持っています。時には片方しかないように思える人も存在します。

片方だけ持つ人・両方を持つ人、両者どちらでもこちらの心の持ちよう次第で、その人は「善知識」となります。
そのことを私達(特に私は絶対に何時でも)忘れてはいけません。

書に

「昔、スダナ(善財)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願うものであった。海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえていることを聞いた。
 また座禅する出家を訪れては、その静かなる心が姿に現れて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。また気高い心の婦人にあってはその奉仕の精神にうたれ・・・(中略)・・・このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。
 かよわい女にもさとりの心あり、街に遊ぶ子供の群れにもまことのせかいがあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、者に従う心の明らかな智慧を悟った。(中略)
 
 昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。
 童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。」







 何時だって誰にだってどのような場所であっても、私の心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであり、私が求め続ける答えである「何か」に違いない・・・。

 私は「スダナ(善財童子)」のように、あかるくほがらかに透き通った青空を見上げながら生きていきたいのです。

笑顔

 私には3人の子供がいます(ずっとブログ呼んでる人は知らされていることですが)。
全員男の子、有難いことに皆元気いっぱいです。

私の目前に三人の赤ちゃんが現れ、見つめる過程が出来たことで、あらためて両親から私が生まれたことを再認識させられました。

 世間の人より遅まきながら、夜泣き・おむつ・病気・家族のありかた、親の苦労の一端をかいまみていくのです。私以上にお嫁さんは赤ちゃん子供に時間をさきます。その時点で差が出てきます。

ニーチェのいう「獲得された真理の高さは、その獲得のための努力に比例する」

私の努力と嫁の努力では圧倒的に差が出てきます。こちらは考えて分からず、何もしないこともある。嫁は考えずにすぐ身体を動かし実行、「どちらが賢くてどちらが愚者か」誰に問うまでもないことです・・・

ただそんな愚かな私にも身近にいる子供から学ぶことがありました。

 生まれて間もない赤ちゃんは自分一人では何もできない状態です。一人目の赤ちゃんを見たときに「何かあったらすぐ死んでしまうのでは」小さい赤ちゃんをみて可愛いと思う前に思ったことです。

嫁は私のようなことは思っていません。慈しみ優しく接しています。夜中頻繁に授乳で起こされたとしても怒ることなくただ優しさのみで接しています。

赤ちゃんは私と比べようのないくらい成長していきます。外見も中身も・・・

初めは仰向けのまま動けなかった赤ちゃん、しばらくすると必死に誰が教えるでもなく寝返りをうつ努力をしはじめます。

寝返りができるとハイハイの前兆である腕だけで前へ進もうとします。個人差もありますが、寝ている時も起きている時も誰が教えるでもなく赤ちゃんは何かに必死です。

何度も何度も自分の限界に挑戦し、上手くいかずに何かあったら泣いたりします。嫁は泣き声に呼ばれ優しさでこたえます。

泣くことも多いのですが、よく笑います。

必死に挑戦し上手くいってにっこり笑います。親は考えもなく心の中が「何か」で満たされます。

 何ども赤ちゃんは繰り返しますハイハイしようとして失敗して泣き、そうかといえば笑います。歩こうとして転んで泣き、必死で立ち上がりふらふらしながら立つことに上手くいった時、また笑うのです。何度も同じ様なことでいて、少しずつ進歩することを繰り返していきます。赤ちゃんは子供へと成長する過程において自分の限界を少しでも広げようと必死です。失敗して泣くことも多く、世の中に存在する私達と同様に思うようにいかないことに赤ちゃんもぶつかっているのです。

ただ上手くいっていない、つまりは一生懸命やったけど出来ていない時でも笑ってくれます。しかし何時でも成長する努力は忘れていません。

 子供を見つめながら思うのです。生きるために(成長するため)必死に出来ることを行いにっこり笑ってくれる赤ちゃん、つまりは自分の子供時代と同様に私の両親にとって必死に成長するために頑張り続ける赤ちゃんの時が私にもあったのだろう。

必死にできる限りのことを自然に行い、にっこり笑ってくれる赤ちゃんを誰かが暖かく見守り続けてきたのだろう。

私は今まで大きな勘違いをしていました。

年をとって少しは偉くなった、自立して家族を養っているから一人前だとか、親になったから偉いのでは。

赤ちゃんをみて皆が「何か」に満たされることの一端、赤ちゃんは考えることではなく今できること、つまり自分の限界を広げ成長していくことを自然かつ必死に連続して行い、よく泣くのです。でも皆に向かってよく笑うのです。

 器用なことができるから偉い、家族を養っているから偉い、その他様々な私の愚かな頭で思う偉いことなど、どうでもいいことのように思うのです。赤ちゃんのように私を含め全員、過去においてそうであったように、現在においてそうあるべきであり、未来においてもそうあるべきです。

私は必死に自分の限界という概念を無くす努力し、少しずつ出来ることを増やしていく。

思うように行かないことが多い時は赤ちゃんの時のように泣いてもいい、ただ周囲の方へ自然に笑って最後はこう言いたいのです。

 「誰よりも頑張ったからうまくいきました。」
 「誰よりも頑張ったけど上手くいきませんでした。」

結果はどちらでも良いのではないか。

そして果てしなく広い青空を見上げ、透き通るような笑顔で前に(明日へ向かって)進んでいきたいのです。

 このようなことを考え行おうとする人を受け入れてくれる優しい方が必ずどこの場所においてもおられます。
そのような方へどうしたらよいのかは考えるまでもなく、真摯な行動や真心を持って感謝と笑顔(時には泣いてもいいです。)でこたえるしかない。最近は心からそう思います。

元気の違い

 真ん中の子、「かずくん」ただいま小学二年生です。
上のお兄ちゃんと違って、勉強はそれほど得意ではありません。でも、動いたりはしゃいだり騒いだりすることは誰よりも大好き。

まあ、子供だから勉強勉強と押し付けるのはしたくないんですが、言わないとしてくれないので言う回数も増えます。
せめて予習や復習をしろなんて思いません。
遊んでもいいから、遊ぶ前に「宿題をしてくれ」など、私の口癖みたいなものです。大いに学び大いに遊んでほしいですが、どうも「大いに学び」は私の教え方や言い方が悪いため、なかなか思うようにいきません・・・。

 最近は突然の発熱(40度近い)でここ2・3日寝込んでいました。良くなりました。ずっと寝させたままもあれです。
「せめて冬休みの宿題を進めてくれ」そう言ったら、見た感じ楽しそうな顔には見えないです。まあやる気はあるみたいです。

途中チラチラ私を見ています。隙あらば、何かをしようかなんておもっているような目です。
私はそれを制止する目で見つめ返します。
そのような目の戦いがしばらく続いていました。

その時、かずくんは、私の目の前で椅子から突然宙を舞いました。

「えええええーーーー、椅子から座ったまま、なんで吹っ飛んだの?」

私には疑問しかありません。

とりあえず何で吹っ飛んだのか、意味がわからないので尋ねてみました。


すると

「かずくん」が言うには、ずっと同じ体制だったために、椅子の上で足を組み替えようとしたそうです。
テーブルと椅子の間が狭いため、足が引っかかったみたいです。
引っかかるのをゆっくり待てないみたいで、おもいきり足を力任せに勢い良く組み替えた。
本人はそう言っていました。

組み替えた勢いで、椅子から真横に50センチ飛んで床に落ちていました。
私の記憶の中で、足を組み替えただけで吹っ飛ぶなんて恥ずかしい話ですがどこにも見当たりませんでした(多分世間の人にはそういうことがよくあるのでしょう)。





私的結論

まあ、「元気すぎかな・・・」

元気じゃないより100万倍いいよな、たまに宙を舞っても「元気」ならいいよな。

怒る(2)

 誰だって望んでいないのに怒られることはあります。
人によれば、人前で注意されることを嫌う人もいます。親しい間柄になればなるほど、人前つまりは人目を気にせず怒られることが増えます。

 私も先輩や師匠などから沢山注意指摘されたことがありますから、できれば怒られたくないと思うことは多いです。
しかし現実はどうでしょう。失敗をしている人を注意せずにあとで怒る。それだと取り返しのつかないことだってあります。大事なことなら尚更人前など気にせず怒らないといけないことは多々あります。
物事が終わってから注意する。問題が大事でない時や緊急を要しない時はそれでもいいでしょう。
人前で厳しく注意されることを嫌がる人は、自分がされて嫌だと感じるからでしょうか、問題の本質を解決しないと何度でも同じ問題が起こります。

嫌とか自分の体裁を少しでも気にしているのならその人はどうしようもないです。

駄目なことを即座に厳しく注意する人は何よりもありがたい存在です。

「どこの世界に嫌われることを承知で親身になってくれる人がいるのか」

百歩譲って相手が世間で相手にされていないような人や悪い人だったとしても、こちらの悪い所を指摘されているならばその指摘している方は本当に有難い方です。
こちらが一つずつ向上していけば注意・指摘されることは格段に減ります。

良い年の取り方だとも考えます。

尊敬されることだってあります。

これこそが正に人間らしい生き方です。

「終わってからこっそり教えて下さい。」「優しく言ってくれないと私はダメです。」「褒めて伸ばして下さい。」悠長なことしか自分には向いていない。そのような方は、次からだんだんと注意してくれないかもしれません。

 身内ともなれば更に厳しくなるでしょう。他人だけ大事にして身内を大事にしないなんて馬鹿な話はありません。
人間は完璧ではないから怒られて育つことも多いはずです。
ただ他人にだけ厳しく、自分には甘い。自身が努力・精進などをしていないのに相手に対して怒る優しい方も世間には存在しています。これだと時折相当なものが自身へ跳ね返ってきます。

 いずれにせよ、「怒る」や「怒られる」現在の私には良いイメージです。
時に私は自分なりに消化することに時間がかかることも正直多いのです。しかし、「怒る」行為に感謝を常に持ち続けていたいです。

 「怒る」という意味は、前にも述べましたが一切の個人的感情抜きにして相手のために怒ることを、世間一般「怒る」と言います。
もし、個人的感情が入れば皆が思うとおりです。

腹いせ・ストレスのはけ口・機嫌が悪い・嫌っている・自己顕示欲・世間体など怒った人の方が周囲へ最低の印象を与えます。

一般に通じる方法をとるようにしなければ、段々と相手にされなくなります。










他人のことを心配している暇はないです。何時だって「私」こそが気を付けていかねばなりません。

休日に予定

 休日に私だけなら、なーーーーーーーーーんにも予定は入れたくないです。
一日ゴロゴロまったり、仕事のない日はそうしていたいです。

ですが、「結婚」とは甘いだけの響きではありません。嫁と子供は私がゴロゴロしていると、当然嫌味などが、そのあたりを飛び交っています。

「私はそれを一つも受け取らない。発言した本人が持って帰るが良い。」

そう言ったとしても通じるはずもありません。

今までそんなことがよく合ったため、私は学習しています。世に言う「傾向と対策」です。
自身と相手のことを理解した上で、成すべきことをやる。かっこ良く言えばそんな感じです。

明日の休日に向かって予定を入れました。

「出かけるから用意しといて、忘れ物のないように、朝早くから出発だよ」

子供はともかく、嫁は忙しい合間に言われたとおりに荷物をまとめています。

「明日はこれでバッチリ」

本当にお疲れ様です。

朝起きて、よっし出発するかな、何か真ん中の子供の調子が変です。いつにもまして言うことを聞きません。
おかしいな・・・、じっとみると何やら顔が赤いです。
嫁が熱を計っています。「お父さん熱がある。」

今日は祝日、病院は明日だな・・・
予定なんてあくまで予定です。子供の体調にあわせないとな。(困った)






今日は年末に向けて片づけとか買い出しとか出来る事をしよう。
そんな日もある。

クリスマス(2)

クリスマス当日へ向けて子供達には当然内緒、家内へ子供達三人の世話を頼み、プレゼント購入へでかけました。

おもちゃ屋に到着、あれにしようか、これにしようか、たくさんあって悩みます。「いまどき選べないなんてどころか」、選べすぎてどれがどれやら・・・

上の二人は前もって本人たちへ聞き込みをしていましたから特に時間はかかりません。下の子「けいくん」はまだ2歳だから、何にしようか。

 大体私は買い物なんて悩まないんですが、「けいくん」のプレゼントは悩みに悩みました。
まあ、可愛らしいからという、世間で言う親バカ故の悩みというやつですね。

 無事購入して自宅へ、嫁は怒っていました。子供達が言うことを聞かなくて手を焼いたみたいです。
お兄ちゃん二人に「けいくん」の面倒を見るようにと言って出てきていたのですが、そっちのけで嫁に大分負担をかけていたようです。

当然私は怒ります。特にプレゼントのことは内緒ですが、良い子にしてないと「サンタさんプレゼント持ってこないよ」と言って出かけました。

 すっかりその言葉を忘れて、遊び呆けてけいくんの面倒を全く見なかったようです。嫁は晩御飯が思うように作れず、私にまで怒りの矛先が向いて来ました。

「正直、子供の為に買い物言って、何で怒られるのか」考えると腹が立って来ました。

上の子二人に大説教タイムのはじまり

「ガミガミガミ・・・・・・・・・・・・・・・・・省略(つまりは良い子にしてないと当日のプレゼントはないんだぞ、ガミガミガミ・・・・・・」

怒られて直ぐは、こたえています。

 次の日もまあそこそこ良い子でした。
次の次の日、だんだんと怒られたことはどこかへ飛んでいっているみたいです。

今日も釘を差しときました。
クリスマスまで、子供達良い子で頑張れ。

















まあクリスマス終わったとしても、良い子にしてなきゃ、「お年玉はない。」そう言ってあります。

時間の差

世の中で生きている人は何かを知りたがっています。私だって気づきにくいですがいつだってそうです。
時折、言葉が少なくても深く共感できる方が必ず存在します。

その人は、「自身のことを理解してくれる方」です。
しかし、何万もの言葉を並べたとしても理解してくれない方だっています。

「わかって(理解)くれる方」「わかって(理解して)くれない方」この両者の違いは何でしょう。

わかる(理解してくれる)人は根拠を知りたがりません。「多くが見えなくてもいい。貴方の数少ない言葉が私には信用できる。」理解してくれる方とはそのような方です。

わから(理解してくれ)ない人はその根拠を必要以上に知りたくなる。見えないと信用できない。
根拠なんて見えないものです。見えないものを出せと言われて出すことの出来る人は超一流の人です。

見えないものを見ることが出来る人、素晴らしい人間、理解してくれる人は本当に世の中にとってありがたい存在です。

出来る人とできない人の決定的な差、それはわからない人は根拠を自身が納得できるまで見せて(説明して)ください。そのことを分かるまでするとしたら、時間が恐ろしくかかります。結果良いタイミングを逃してしまうことも増えていきます。

 その時間をロスする。「理解する人」と「理解できにくい人」ではどんどん差が開いていきます。
つまり「できる人」と「できない人」では時間の使い方、理解の仕方に差がありすぎるのです。

一年も経てばどうなるのでしょう。

「できる方は説明を長くしなくても済みます。」時には説明もいりません。見つめたら伝わります。それが阿吽の呼吸と呼ばれます。

「できない方」に説明をします。納得出来ない場合は長い時間がかかります。挙句それでもわかってくれないなら最初から自分でしたほうがよかった。そういうことだってあります。

次から頼むこと(人)も少なくなるのではないかと考えます。

できない人に限って

「それは自分でするから大丈夫(問題ない)」事実は全くできていない。

事実のみを言えば、その人は問題しかない・・・・、私の過去そのものです。

迷惑をかけすぎるのはいけません。日々の努力を持って「できる(心から理解できる)人」にちかづかねばいけません。









 過去にあやまちが多い私、迷惑を知らずにかけ続けるのはもう懲り懲りです。できればほんの少しだけでも知人・友人・職場・周囲・家族へ役に立つ人としてありたいです。

ただ最近は、迷惑を掛けることは避けれないのかもしれない、そう思うことも多いです。

それなら、それ以上良い事を自身から出せれば、双方差し引いたとしても何の問題も(プラスしか)ないはずです。

呆気にとられる瞬間

突然相手から「失敗してしまった。ごめんなさい。」大変なことをしでかした・・・。私だってたまにあります。

失敗して直ぐに謝る。素晴らしいことだと思います。忘れることがよく有る私は本当にすぐに見習わなければいけません。

「いいですよ、誰にでもあるし、貴方が失敗するんだったら私達だって失敗することがあるってことだから、失敗してくれて有難うございます。こちらは気が大分楽になりました。」

そう言うと

「それはいけない。私はしょうがないけど、貴方達は失敗したらいかん。」

そう返ってきました。
私はしばらく放心状態でした。(程度の低い私はそれくらいでびっくりします。)
心の中で

「えええええーーーー、自分は良くてこっちはダメなのか・・・」



書に、

「見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。」

なかなか見方を誤る、つまり正しく物事を見ることは難しいことです。
我にとらわれすぎて失敗することは多いです。自分の思いさえ捨てることができればほとんどがうまくいきます。

 自分に都合よく、道理を無視して、自分は特別扱い、他人はきちんとしなければいけない。
相手がそういう人だとしても、こちらが同じ事をすればその人と同じです。いや、理解した上でそうしているのならば、その人以下なのです。

このことをいつでも念頭において自身の行動をすべきです。

 善い行いには幸せが伴い、悪い行いには不幸せが訪れる。これは世の中の変えることの出来ない道理です。




 道理を無視しては、人として扱ってもらえなくなります。他人より何時だって自身こそが気をつけねばいけません。

感動

 人(特に私は)は様々なことで感動します。

桜(花)が一斉に咲き、そして一瞬で散る様をみて、涙を流すこともあります。

一流選手の圧倒的なパフォーマンス、文章・言動ひとつにおいても心から感動出来ることがあります。

人は一流の選手または大自然の素晴らしい美しさでしか感動できないのでしょうか?

母親(父親)は我が子を育てる過程において数え切れないほどの感動を受けるに違いありません。

 身近な人間にも無数の感動を必ずうけます。
どんなに嫌なことがあっても人に自然と尽くすことが出来る人を見て、最初は何も思わないのかもしれません。
ただその尽くす姿勢が長い年月になり、その行為の真の意味に自分が気づいた場合、感動を超えるものに気づかされるでしょう・・・

 よく思うのです。勝手に感じとる「感動」と呼ばれるもの、それは一体何であるか?

自分が感動することについて、色々考えてみますと、どうもそれはある何かに向かい挫折や幾多の困難をのり超えたところでたどり着きうることへの敬意・感謝の念を払いつつ、自分の労を厭わないことを自然に行なっている方をみて私自身が涙を流すことがわかりました。

一体自分はどこへ行き?何を求め?そして生きていくのだろうかという、答えがなんとなくわかったような気がしました。

人が人と出会い、人は自然のうちに相手をよく観察し思い、先に答えをだすのです。

 感動とは

「こちらが思う相手が出すであろう答えが、相手の現在の状況を突き抜けて真摯に自分と向き合い出した、清らかな答えに驚愕し感動するのです。」

その答えが一流の人からみれば、稚拙なものであったとしてもその過程は何よりも清らかであり涙や感情の高揚となって胸をうつのです。

 感動とよばれるもの、仏教で言うところの「ほとけ」そのものなのです。

似たようなことで、よく胸がときめくという言葉も耳にします。ではときめきと呼ばれるものとは、

 感動を与えてくれた相手にときめいたり、素晴らしい何かに心打たれ胸がときめく、人は自然に「感動=ほとけ」に向かい憧れをいだき、自分もそうなりたいと願っており、自分と他人との囚われを離れ、自分の思いを離れたところで勝手に思っているのです。

しかし、どんなに素晴らしいことを考えついていたとしても人間が人間たる所以なのかもしれません。

時に人は感動・ときめきを忘れるのです・・・

しかし、目の前に感動を与えるものが現れた瞬間に感動と共に心が再び目覚め、ときめきと共に生きていく喜びに満たされるのです。

ときめきとは、仏教で言うところの「悟りに向かう心」そのものです。

 最近は些細なことで感動して涙を流すことが多くなりました。理想だけを求めすぎだと言われても構わないのです。

 心の底から感動し自身もそうありたいと願うこの一瞬の連続、私は死ぬまで感動しときめきを求め前へ歩み続けていきたいのです。

関東から徳島

 いつもと同じように出勤し仕事をしていたら、誰かが尋ねてこられました。
関東方面からわざわざおいでになられたみたいです。

 挨拶された後に、私の名前を言われ「おられますか」そう尋ねられました。
「はい私です。」すっかり目前にいる方が誰か私は忘れていました。
知らない人に特に名乗ることをしないのですが、「誰だろう・・・」

「一年半以上前に遍路で来たものです。」まだ私はピンときていません。
続けて「団体の旅行で参った際に足を痛めて、難儀してた折助けていただいたものです。」ようやくピンと来ました。

「ああ、あの時の方ですか」

「その時は痛みと遠方だったために何もお礼をするという考えもうかばず、足のせいで本当に迷惑をかけました。これはその御礼です。」

そう言ってわざわざ来られたみたいです。

「ずっと気になっていたのでようやくこれで気が晴れます。」

そう言ってほっとされていました。

ぼーっと突っ立っている私とは違って、年下ですが、私の上司は
「せっかく遠方からわざわざおいでいただいて、手ぶらも何ですから」そう言って気持ちばかりの品を即座に渡していました。

しかし、何故名前がわかったのだろう。と考えていたら、その方は「私の名前・職場の電話番号」が書かれた小さい紙の切れ端を手に持っていました。

そこでようやくピンときました。

確か「病院の診察が終わればタクシーを呼ばずにこの電話にかけて私の名前を言って下さい。すぐ迎えに来ます。」そう言って走り書きで紙の切れ端を渡した覚えがあります。

 一年半以上、小さい紙の切れ端を大事に持っておられたこともびっくりしました。
もっとびっくりなのは、わざわざ関東からお礼をしに来られたことですが・・・

 突然のことで思い出すのに必死でしたから、その方の名前を聞くことを忘れていました。礼状もだせません・・・。

このブログを見ている可能性は限りなく0に近いだろうと思いますが、改めて「わざわざご遠方から有難う御座いました。かえって気を使っていただいて恐縮に存じます。」本当にうっかりしてました。

 私は突然のこと、大事なこと、失敗した時、本当に肝心なときに以前から不器用です。
まだまだ人間として学ばなければいけないことが多すぎます。そのために迷惑だっていっぱいかけ続けています。
数少ない私を信じてくれる人や私自身のために、人よりだいぶ遅いですが自分なりに少しずつ成長・努力していきたいです。

怒る(1)

 自分がこの世に存在している事、いいかえれば両親から生まれてくることです。

なかなかどうして「生んでくれて有難う」と面と向かって伝えにくいものです。

ただこうも思います。何処の場所でも誰よりも真剣に生きていれば親孝行になるのではないか、そう思い私は日々を自分なりに真剣に考えて生きています。(あくまでも自分なりです。人と比べたらダメです・・・)

話を元にもどします。

 大抵の人は他人からの優しさを素直に受け止めることができ、感謝も身内に比べれば伝えやすいです。
身内からの優しさは空気と同じようなもので、私たちが呼吸をしているのと同様に当然でありすぎるが故に考えないのかもしれません。

 私にも子供がおり、男の子三人います。子供達に悪気はないのでしょうが、毎日しかめっ面になるようなことばかりしてくれます。保護者の役目として注意・指導しなければいけない立場ですから、怒ってばかりです。

 子供に注意した後、ひどく言いすぎたかな、まだ充分でないのではないか?様々なことを考えます。
必ずこうも思います。自分も小さいとき全く同じことで怒られてばかり、親と同じことを言っていたり、または怒られたときに幼心ながら、こうであればと思ったことを踏まえて怒ったりしています。

現在は鬼のように、烈火の如く怒ってくれた母親に心の中で感謝します。怒ることは大変労力がいりますし、その子のためを思えばこそ出てくるものであり、沢山自分が怒られた思い出がある人程有難いのかもしれません。


 最も重要なことは、怒る行為そのものは大変喜ばしいことですが、その怒りを考えたときに個人的な感情抜きにしての怒りでなければならないということです。

 完全に実行できておるのかと聞かれると、特に注意しなければならないのは、他の誰でもない私が一番気を付けねばならないです。

最も妻には、言葉ではなく醸し出す雰囲気で怒られている気がしてならないです。

 女性には一生かなわないとさえ思う時があります。妻(伴侶)にも両親と同じように感謝の気持ちを伝えることは照れくさいものです。

感謝を態度で伝えることこそが、最上かもしれませんが、やはり言葉といった、わかりやすいことでも伝えなければいけません。

私はそのようなことを相手と自分が生きている内にこそ、なさなければならないのです。
体験上「怒り」と「感謝」どちらも同じくらいに必要だと考えます。











「感謝の言葉」「長い人生を生き抜くために怒る。」どちらもそれが心からの言葉であれば何時だって誰だって大歓迎、生きていく大きな喜びになるはずです。

お風呂

一番下の子、「けいくん」2歳と6ヶ月になり、段々と発する言葉も増えてきました。
私の子供は三人いますし、双方の両親も遠方ですから日々嫁も家事に追われ最初の子ほど外へ「けいくん」を連れていけません。

 あまり外の影響を受けないせいか言葉使いも拙いですが綺麗です。母親の影響を受けているのでしょう、悪いことを言うことは少ないです。

小学校や外の友達に影響を受け上のお兄ちゃん二人が、汚い言葉を発すると「けいくん」はすかさずその言葉を真似します。
「あっちいけ」などを言うと直ぐ真似をします。行動だって「けいくん」はお兄ちゃん達の真似をします。
当然お兄ちゃん達だけでなく両親である私達の真似をしています。
小さい子は悪いことだってすぐに真似をしてしまう。悪いことだけではありません。良いことだって真似します。
家族全員本当に気をつけないといけません。「けいくん」は時に全員の先生であり、家族皆を写す鏡です。

 仕事が終わって家に帰り「けいくん」と二人でお風呂に入りました。「けいくん」はお風呂に一人で首までつかって、

「あったかいねー」

私の方を向いてにっこりわらって、そう言います。

「けいくん、そんなことも言えるようになったのか、ほんとにあったかいねー」

昔お風呂に入っていた頃、「極楽 極楽 気持ちいい」そういって一日の疲れをとっていたおじいさんのことを思い出しました。

子供だっておじいさんだって、思いはおなじです。

 今度「けいくん」をどこか温泉にでも連れて行ってあげたい、そう思いました。
私のおじいさんは大の温泉好きでした。幼少の頃私も温泉へ連れて行ってもらった素敵な思い出があります。「けいくん」の上のお兄ちゃん二人だって温泉は大好きです。
(けいくんが生まれる前に道後へ日帰りした時、温泉に「坊ちゃん泳ぐべからず」そう戒めて書いてあったのを見て、上の子と私二人で笑ったことを思い出しました。あれ書いてなかったら泳いでたなうちの子・・・)

小さい子は悪いことだってすぐに真似をしてしまう。悪いことだけではありません。良いことだって真似します。
良いことを増やして、良い思いを沢山もって前に進んでもらいたい。

「良い思い出」は一生消えることがない。絶対に持って行くことができるはずです。

子供と嫁と私、これから良い思い出を一個ずつ増やしていきたいです。

まあ私の変な思いはともかく、「けいくん」の「あったかいねー」は、人にはわからないかもしれません。
でも、私はお風呂で何とも言えないあったかさに満たされました。








 私は年齢的にオヤジですから、よくオヤジギャグを言って家族が寒い思いをします。
時折厳しい目でみられることもあるし「冬はホドホドにしとこう・・・」

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あられ

 夜になり子供もようやく寝ました。静かになったと思ったその時激しい雨のような音がしました。すぐに音は止みましたが、「雨ひどいのかな」まあいいか、今のうちに本を読み耽ろう。
「ああ、気がつけばストーブの灯油が切れかけてる」
行きたくないけど切らしたらもっと寒くなる・・・、しょうがなく服を着込み外へ出ると、雨がちらついています。
「寒いのに雨早くしないと風邪引くなあ」誰も居ないけどブツブツ言いながら入れだすと、突然何かが屋根などにあたって跳ね返る音がします。
雨じゃない、雪でもない、あられだな。雹(ひょう)にしては小さすぎます。
灯油を入れて部屋に戻って落ち着くと学生時代を思い出しました。

 学生の頃住んでいた部屋は窓がありました。窓はガラスでもなくサッシでもなく、昔ながらの木枠に障子が貼られている窓でした。
あれは確か夏か秋です。晴れていたのに突然すごい音と共に、大きな氷の塊が沢山ふってきました。屋根にすごい音で跳ね返る音が聞こえます。「カンカン」ではなく「ガンガン」くらいでした。

ふと嫌なかんじがしたので、部屋を見に戻れば、障子を突き破って敷きっぱなしの布団の上に氷の布団が出来上がっていた出来事を思い出しました。
最悪の布団、溶けてしまえば寝れなくなる必死になってどけた思い出のある雹でした。
一センチ位あった気がする。あの大きさ、あれこそ雹(ひょう)だ・・・。

ネットであられを検索と
「霰(あられ)は、雲から降る直径5mm未満の氷の粒のこと。5mm以上のものは雹(ひょう)と呼ばれ、分類上異なる。」とあります。まあ霰(あられ)も詳しくはネットにもっと載っています。
(詳しく見たい方は検索で・・・)

 雪もあられもひょうも、大人になって仕事をするようになった私は昔ほどワクワクしなくなりました。
雪を学生時代に沢山見た時、手に豆ができてそれがつぶれても必死になるくらいスコップを握りしめ「カマクラ」を作った思い出もよみがえります。(その労力をなにか良いことに使えと先輩・後輩に言われたり思われたりしました。そんな有難い言葉や思いは、当時の私の心には届きませんでしが・・・)

徳島では滅多に見ない雪(一部山間部を除く)、雪を沢山見た時代を思い出してしまいます。


昔を懐かしむあたりが私はオヤジの完全な仲間入りを果たしている。
雪を楽しめなくなった代わりに、子どもとお酒と嫁でしあわせになれる。





「オヤジも悪くないかも・・・・」

下手な鉄砲

誰でも知っている諺、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」意味はそのまま、下手な人でも諦めずにずっと撃ち続けていればそのうちに当たる。

 諺は身にしみる事が多く、どれも好きです。でも、特にこの言葉は現状の私の通りです。

私の中から素晴らしいものを出したい。身の程を知らず、そう思ってしまいます。

つまりは私の文章(ブログなど)・言葉・行動・態度、その全てが下手な鉄砲そのままです。

「あきらめの悪い私・・・」

それなら、当たるまで撃ち続けてみせる。「何に」当たるのか、一体「何か」とは「何か」ブログのタイトルになってしまいます・・・

 私の文では無益の句が連なって、醜悪になることだってあります。書けば書くほど話せば話すほどそこから遠ざかることだってあることも理解できます。

法句経にある

「多く説きたればとて、その故に彼は智者にあらず、こころおだやかに、憎しみの思いなく、おそれなきもの、彼こそは賢き人とよばれん」

愚かな私にだってこの意味はわかります。
だからといって私の思い・行動・言葉が人より遥かに不出来だからといっても、「何か」から逃げるのはやめにしようと誓いました。

「私の言葉・文章・態度・思い」それを発する私はその報いを受ける覚悟を持って、下手な鉄砲を撃ち続けるのです。

100あれば1つくらいは、良いものが出るかもしれません。

もしそのペースなら千あれば10、万あれば100です。









何もせず、0のままより、私はあがき続けて迷惑をかけるかもしれませんが「万の中の100」を出せる自身を夢見ているのです。

異国の人

 寺院をお参りされる方の中に、日本人ではない人もお参りされます。
先日、中国人の方がお参りされました。まだ日本語になれていない方でしたから、電話で伴侶の方より(指定された日に)伺いますから伴侶を宜しくお願いしますと事前に丁寧なご連絡がありました。

 常にではありません。時折遠方よりご祈願などで「お参りしたいです。」と職場に丁寧なご連絡があります。
人によりさまざまな経緯によりお参りされます。
遠方より来られる方にインターネットを見てきました。そういう方も中にはおられます。

 こちらは徳島です。山口・広島・岡山・兵庫・大阪・遠くは東京からHPを見て来られる方があります。
前にブログでHPの話はしました(詳しくは見ていないかたはブログとHPの記事をお手数ですが御覧ください)。
HPそれは私の個人的な思いを書き連ねています。でもどこにも私の名前などは一つも存在しません。

ただ、特に現在のHPは誰に頼まれて作ったわけでなく、個人的な思いから勝手に作ったものですから、私の思いそのものを読んでこられていると、身勝手で一人よがりな解釈をする時があります。

HPを見て遠方よりそこへ行き何かをお願いしたい。実際に電話などで予約をしてこられ受付が終わったあと、私は涙が出ることがあります。
「近くだし行こうか」それだって本当に有難いことです。私でも近くなら直ぐ行けます。
ただ他都道府県の方がこられるとなれば、往復の時間・交通費などさまざまなものが発生します。

その経費や時間を差し引いたとしても、お金を払っていきたい。私の思いが伝わり来られるのだと身勝手ながら理解してしまいます。
実際は私が凄いのではなくて、働く場所がすごいだけです。そこを維持し護り続けてきた人たちが凄いだけです。その場所を作った人たちが凄いだけなのです。そこの存在や理念などが凄いだけなのです。

でも、「HPを見てきました。」その言葉は何故か深く私の心を動かすのです。その人達が他人とは思えなくなる錯覚におちいります。現状の私に出来るだけのことをしたいとさえ思います。

日本の方であれば終わった後に「おはなし」をします。「心から通じ合える話をしたい。」毎回そのように思います。
外国の方で、日本語が通じない時、日本語しか話せない程度の低すぎる私は必死に頼まれたこと(祈願)を行う他ありません。

終わって、簡単な挨拶をしました。直ぐに異国の方はその場の雰囲気や荘厳に触発されたのか、改めて供養をお願いしたい。そう頼まれました。「言葉は通じていない。」でも私やその方の思い・信心によって自身の思いを拙い言葉で必死に伝えてこられています。

「言葉は本当に大事だ。」私は日々そう思います。でもこの時ばかりは、言葉以外のことで通じ合えることがある。何故かそう思ってしまいました。

 私の程度が低くその方の思い全てに応えられないことが悔しくなることもあります。
いつだって、誰かの目前にいる方の思いに応えれれば・・・、私は心から生きていると実感できるなど思うことがあります。










 「必死に頑張っていなければそこに私は存在しない。誰にも必要な存在でもない。世間ではそれをお荷物と呼ぶだろう。」いつもそう思うのです。

 胸を張って、私は現在いる場所で(または何処の場所でも)「頑張って生きています。」いつでも誰にでもそう言えるようにありたいと願います。

大掃除

 年末の風物詩、皆で大掃除
ベテランの方と大掃除をいつも一緒にしています。仕事も人生においても先輩ですから、何気ない世間話の中に素晴らしいことも当然入っています。

 一緒にいる人が悪いこと(愚痴など)を言っているからといって、悪いことだけでなく全てに見る目聞く耳をもたず、良いことなんて一つも言ってないだろう。そう決めつけ話をきちんと聞かないことが以前の私はよくありました。

掃除の時誰かが誰かの愚痴などを言ってるなあと思い掃除しながら聞いていました。だから人が悪いから私も何もしない。そう言うのかと思ったら、お寺さんのことについて言っておられました。

「お寺さんにおる人が悪い人だったら、こっちだって文句もあるし愚痴を言う。言うことは言うけど普段の悪いことと、信心は別物だ。

やっぱり死ぬ時にはお世話になる。絶対に誰だって必ずその時が来る、お寺さんが悪いために愚痴や文句が山ほどあったってコチラはお世話になる身だから・・・」

何気ない会話の中に本当に深く考えさせられる言葉でした。
必ずその方は毎年のことですが、仏像の近くなどを掃除するときに

「今年も無事にお掃除させていただきました。有難うございます。今年でもう終わりかもしれん・・・」

そう言っていますが、必ず私は何の根拠も無いのに

「そんな事言いながら毎年してるじゃない。来年だっておるから、また頼みます。」

気がつけば、徳島に来てから11年その方とずっとこのやりとりをしているように思います。その方は私と違って出会った頃は60過ぎでしたから、現在は70過ぎです。

 愚かな不出来で自分のことに全く気づかず何も出来ない(私のような)者に、目前の方はお世話になるなら私はその人に礼を失わずお願い申しあげます。そう毎年言われています。




私はどうなのでしょうか。

愚か・不出来・自身の程度の低さ・何も出来ないような若者に死ぬときのことを心から頭を下げよろしくお願いします、そう頼めるのだろうか・・・・・・






 世間のお寺さんは私と違って全員そのことを深く納得され理解しておられるから、その上で世間にいる人の誰よりも日々精進・努力されています。
常に仏教は「考える宗教」ですから、誰よりも真摯に深く考え続けて答えを求め続けておられます。

その精進努力を怠らない方を「お坊さん(僧侶)」と呼び、世間の人は心の底から敬意を払いつづけています。








 私は自身の程度が周囲より低すぎるために「お坊さん」と呼べる人へ何時まで経ってもなれていないのです。

でもなれていないからこそ、私は心から「お坊さん」へ帰依します。

冬の夜空

 子供の頃、流れ星が出ている間に願い事を3回唱えれば叶うという話を聞き、ひたすら流れ星を探してお願いしようとしたことがありました。

 小学生の時、兄と二人で真夏の夜に道路へ寝転んで、流れ星が何個見つけれるか数えたことがあります。
記憶では20個くらいは数えたように思います。
その時は願い事などわすれ、星が落ちてくるという幻想的な光の流れに私は時間を忘れていました。

昨日、迎えに来てもらうために家族が車で私を待っていました。嫁は私を待たせたらいけないと電話で連絡する前に待ち合わせ場所へ来ていました。

「ごめん、いつもより遅くなった。寒かったろう?」
「皆で流れ星を見てたのよ」

詳しく話を聞くと、どうもニュースで「2012年ふたご座流星群そのピークは、今夜12月13日夜から14日明け方の予想。」それを覚えていたみたいです。

待っていある間に皆流れ星を見ていたそうです。
嫁が言うには

「子供達は流れ星にお願いごとしてたよ」

「一瞬だから無理だったでしょ」

「何回も流れ星が落ちるから、次は絶対とかいって頑張ってたよ」

「なんて言ってたの」

「金(カネ) 金(カネ) 金(カネ) 、三回何度も(上の子と真ん中の子二人で)頑張って言ってた。」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


まあ私も昔同じ事をしてましたから、気持ちはわかります。信じることも悪くない・・・はずだ。
帰って家事を済ませ、嫁は子供を寝かしつけにいきました。
私はやっと静かに本を読める。そう思って集中しようとしたら嫁が起きてきました。

「どうしたの?」

いっぱい服を着込みながら答えます。

「流れ星にお願いしてくる。」

「そうか気をつけてね」

風邪を引かないように沢山服をさらに着せました。しばらくして帰ってきて

「星を見るのは、やっぱり夏じゃないと寒い。」

「まあそりゃそうだろう。」






何のお願いか、わからないけど叶うと良いなあ